教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
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奇抜な兵法を使う訪問者

Fujita 1(左 / 藤田東湖 )
  前回、橋本左内を取り上げ、西郷隆盛が尊敬した人物と紹介したが、南洲にはもう一人敬服する碩学がいた。それが藤田東湖(とうこ / 虎之助)である。東湖は水戸藩きっての碩学として、その名が天下に響き渡り、大西郷のみならず、土佐の山内容堂までが魅了され、東湖を招いて歓待する程であったという。もし、水戸藩が薩長土肥と肩を並べるくらい維新に貢献していたら、東湖の名はもっと広まり、現在の中高校生でも耳にする偉人になっていたはずである。この水戸藩の偉人については多くの伝記が書かれているので、筆者が改めて評する必要は無いが、面白いエピソードを一つ目にしたので、ここで紹介したい。

  ある日のこと。藤田東湖が住む屋敷の玄関に、相良六郎という若者が訪ねてきた。彼は後に「櫻眞金(さくら・まがね)」や「櫻任藏(さくら・にんぞう)」の名で知られる小松崎一雄という医者の息子である。彼は玄関先で、「御免、許せよ!」と大声を上げたそうだ。そこで、「何事か」と驚いた門下生の瀧田北海が慌てて玄関にやって来た。「誰なんだろう?」と思って玄関に立つ訪問者を見てみれば、何と垢まみれで、ボロボロになった着物を身に纏った16、7歳の少年ではないか。瀧田は「小僧、何用ぢゃ?」と訊ねた。すると、六郎は堂々とした口調で次のように述べた。

  「先生は御在宿か、御在宿であれば、相良六郎、惨状いたした、と取次げ!」

いっちょ前の口を利く六郎を前に、瀧田は「ちぇっ!」と舌打ちをして、「小僧、生意気を申すな! 先生が御在宿であろうが、この大玄関は貴様のような乞食小僧の来る處ではない。さっさと出て失せろ !」と言い放った。しかし、六郎は帰らず、「取次げ」と言い張って一歩も譲らなかった。この態度にむかついた瀧田は、「まだいやがるのか、先生は貴様などには用が無い !」と吐き捨て、強情な小僧を追い払おうとした。だが、六郎はこんな門前払いに従う気持ちは毛頭無い。六郎の強情さに怒りを覚えた瀧田は、「呆れ返った小僧だ ! つまみ出すぞ!」と脅しを掛けた。そこで瀧田の横柄さに痺れを切らした六郎は、「如何しても貴公は取り次がぬ気だな。よろしい、しからば他の者に頼む」と大声を張り上げたそうだ。

  六郎はまるで瀧田を無視するかのように、「御免、許せよ !」と始めからやり直したから、さあ大変。これには瀧田も腹に据えかねてしまい、式台を降りて六郎の肩をトンと突いた。すると、六郎は思いも寄らぬ行動に出た。彼はひょいっ、と一歩下がると、袴をめくり、自らのホース(男根)を瀧田に向け、シャァーと小便を浴びせ掛けたのだ。突然の“放水”に瀧田は飛び上がって驚く。この物音は直ぐさま他の門下生にも伝わり、「何事か!!」と驚いた仲間は玄関に飛んできた。しかし、“張本人”の相良六郎は落ち着き払った様子で、「方々、先生は御在宅かな?」と澄ました顔で尋ねた。全く以て豪胆な奴である。

  だが、駆けつけてきた門下生らは、瀧田が小便を引っ掛けられたと知ったから黙っちゃいない。彼らはこの「下手人」を赦さず、「無礼者め!」と罵り、ひっ捕まえて庭先に引っ張り出してきたという。その時、東湖先生は廊下に出ていたそうだ。弟子たちの姿を目にした先生は、「何事だ、騒々しい !」と叱責する。瀧田は小便で濡れた身体を振るわせながら、「この小僧が、以ての外の・・・」と説明したそうだ。門下生たちは東湖先生も憤慨するだろうと思ったが、先生は意外な言葉を口にした。東湖先生は六郎を見つめると、「ほほっ、小僧、兵法を心得て居る。瀧田貴公は蛙と間違えられたな、はっはっはっ」と述べて大笑い。その時、六郎は前に進み出て、「藤田東湖先生で御座いますか。私は真壁の医者の倅、さりながら、私は病気を癒すより國の病気が癒したいのです。どうか門下生にして下さい」と頼んだそうだ。これを聞いた東湖先生は「面白い奴ぢゃ、よかろう」と快諾され、相良六郎は東湖先生のもとで一生懸命勉学に励んだという。(松波治郎 『武士の子』 彰文館、 昭和17年 pp.68-70)

  さぁ~すが、東湖先生は凄い。六郎の奇策を一発で見抜いた。わざと騒ぎを起こし、門下生に捕まって東湖先生のもとへ連れて行ってもらうなんて、実に賢い。「おぬし、兵法を弁えているな !」と見つめる東湖先生の姿を想像すると何とも愉快だ。豪傑の知識人は普通の人間とは着眼点が違うものである。ちなみに、相良六郎は後に水戸藩士と力を合わせ、幽閉されていた水戸斉昭を解放すると共に、天下国家に尽くすべく、尊皇攘夷の志士と交流を深めたという。交際した者の中には、長州の吉田松陰や熊本藩の家老であった長岡是容(ながおか・これかた)、そして維新の英雄、西郷隆盛がいた。とりわけ、六郎は西郷と親しかったそうだ。六郎の噂は薩摩にも届いたそうで、藩主の島津斉彬は彼の志を称讃し、褒美としてだったのか、波平行安の名刀を一振り贈ったらしい。(流芳會 『勤皇實記水戸烈士傳』 上編第五巻、吉川弘文館 p.120) しかし、安政の大獄が起こると身辺が危なくなり、「渡邊純藏」と名を変え、全国の同志のもとを転々としたそうだ。そして、大阪の国学者萩原鹿右衛門の家に潜んでいた安政六年七月、病に伏して惜しくも四十八歳で息を引き取った。彼が亡くなってからしばらくして、水戸藩は櫻眞金の忠義に感謝し、彼の息子である春雄に禄を与えて、士籍に列したそうである。

父と子の壮絶な決意

  歴史上の偉人が誕生する背景には、その家庭環境が大きく影響している場合が多い。藤田東湖の父親は、水戸藩で随一と謳われた儒学者の藤田幽谷(ゆうこく / 正一)で、愛国主義の塊のような人物であった。東湖先生がまだ19歳(文政7年)の頃である。英国の捕鯨船が常陸(ひたち)の大津浜に現れ、その異邦人の船員が勝手に上陸したので、周辺の住民はひどく怯えたそうだ。そこで、幕府は代官の古山善吉と通訳の吉雄忠次郎を派遣して、詳しい事情を調べさせることにした。これを知った大津村の庶民は、必ずや幕府が夷狄を追い払い、みんなの心配を取り除いてくれるもの、と期待していたそうだ。しかし、実際は予想を裏切るものであった。使命を帯びた幕吏は、イギリス人に対面すると平身低頭、従順な狗(いぬ)の如き有様であったというから、この情けない姿を見た村人は愕然とした。

Fujita Yukoku 1Kurofune 2









(左: 藤田幽谷  / 右: 黒船を描いた絵 )

  しかし、裏切られた村人よりも怒っていたのは幽谷の方だった。彼は異国の野蛮人に手を拱(こまね)いている幕府に憤慨し、「今こそ、千載一遇の秋(とき)だ。幕府は姑息な態度をやめて、強硬手段に出てイギリスの船を焼き尽くすべし。だが、幕府の役人に、それだけの対外強攻策は執れまい」と思っていた。だから、この愛国心に燃える儒者は、他人を頼らず自ら成敗しようと考えた。しかし、彼には直接行動を取るだけの若さが無い。自分の無力さに切歯扼腕、イライラが募るばかり。そこで、居たたまれなくなった幽谷は、息子の虎之助(東湖)を自分のもとに呼びつけた。膝をつき合わせる息子を前に、幽谷は厳かな口調でこう述べた。

  虎之助。突然ぢゃが、今すぐお前の生命を投げ出して貰ひたいと思ふが、どうぢゃ。

この頼みは東湖にとって、まさに青天の霹靂だった。普段、滅多な事では物に動じない東湖であったが、不意討ちに近い言葉を聞いて、かなり当惑したらしい。それでも咄嗟に心を立て直し、「父上、国家のためならば、今すぐにでも、喜んで私の命を投げ出しましょう」と答えたそうだ。この返事を聞いて幽谷は感心し、話を続けることにしたが、その言葉には悲痛な覚悟が含まれていた。幽谷は毛唐の船が何度もやって来ることに腹を立て、この無礼をいつまでも放置しておくことは国辱であると話した。さらに、幕吏は姑息な遣り口で夷狄を還してしまうから、日本には具眼者が一人も居らぬ、という恥を晒すことになるだろう、とも危惧した。日本の現状を憂う幽谷は、激しい口調でこう息子に語りかけたという。

  そこでぢゃ。最早、尋常手段によってをられぬ。お前はこれから直ぐ大津浜へ出かけて、毛唐どもを鏖(みなごろし)にしてくれ。そして目的を達成したら、潔く当局に自首してくれ。これによって、日本の正気を少しでも、発揚することが出来たら、自分も満足ぢゃ。元来、自分の家は女子ばかり多くて、男子はお前ばかりである。お前が死んだら家は断絶ぢゃ。しかし、これも國のためなら、我慢せねばならぬ。(高須芳次郎 『維新留魂録』 大阪屋號書店、昭和17年 pp.103-104)

こう述べる幽谷の目には涙が光っており、その言葉に聞き入っていた東湖の頬にも、ポロポロと涙が流れ落ちる。親孝行な東湖は、「父上、承知致しました。では、これから直ぐにまいります」と告げ、目の前に坐っていた幽谷は、「よく云った。さすが、我が子ぢゃ」と喜んだ。そこで、幽谷は伝家の宝刀を取り出し、これを息子に与え、家宝を頂戴した東湖は急いで支度に取りかかったそうだ。ところが、壮絶な戦さに挑もうとする東湖のもとに、ある使者が訪れた。彼は事態の急展開を伝えに来たのである。曰わく、代官の古山が捕らえられた船員を釈放し、寛大な態度で英国船の代表者に接したので、捕鯨船はどこかへ去ってしまったというのだ。この知らせを聞いた幽谷は、ひどく落胆し、東湖も頻りに歯ぎしりをしていたそうである。

  東湖の行動が殺傷事件に発展せず、幕府としてはひと安心だが、それにしても藤田親子の発想は大胆不敵というか、現代に生きる我々には「無謀」としか思えない。だいたい、異邦人が神洲に上陸したくらいで、父親が息子に向かって「あいつ等を皆殺しにしてくれ !」はないんじゃないか。確かに、外国人が土足で我が国を蹂躙するんだから、幽谷が激昂するのも無理はない。また、事なかれ主義の幕府に腹を立てる気持ちも分かる。でも、いきなりイギリス人を斬り殺すなんて無茶だろう。第一、自殺行為だ。仮に、このミッションを達成できたとして、息子の東湖はどうなるのか? 彼の暴挙に青ざめた幕閣の面々が、「斬首刑にせよ!」と叫ぶのは目に見えている。しかも、死罪は東湖ばかりではなく、息子を唆(そそのか)した父親の幽谷にも及ぶだろう。親子揃って処刑となるのは明らかだ。平成の世に生きる日本の母親が聞いたら腰を抜かして驚くだろう。

  なるほど、藤田親子の考えは軽率だ。しかし、この両者には我々が失ってしまった日本人の魂が宿っている。昔の武士には命よりも尊いものがあった。それは国家の名誉であり、武人が求める徳目である。百姓とは違い、戦士は生き恥を晒しながら暮らすことはできない。なぜならば、それは奴隷の生き方だからである。たとえ豊かで安泰な生活であろうとも、他人の意思に服して生きるなら、それは誇りある人間が送る人生ではない。家畜と同じである。「何が何でも安全と平和が一番」という今にちの日本人とは、根本的な考え方が違うのだ。

  幽谷の言葉で注目すべきは、「藤田家」の断絶をも覚悟した点である。現代の我々だと子孫を残さず、独身のまま死ぬことは珍しくないが、昔の日本人は「家」の存続を何よりも大切に考えていた。戦国時代の武士は絶えず我が身を危険に晒しながら戦っていたが、そうできたのは「家系」の存続を信じていたからである。自分が討ち死にしても嫡男が家督を継いでくれるし、仮に、その嫡男が命を落としても、家門を継承する孫がいれば安心だ。しかし、跡継ぎが全滅してしまうと、家の断絶となるから、血統の存続を願う武士は哀しくなる。異邦人を追放するためとはいえ、跡継ぎの息子を犠牲にしようとした幽谷の心は尋常ではあるまい。こう考えれば、藤田親子の覚悟は相当なものであったと言えよう。

  現在、我々が危惧するのは経済政策、すなわち「お金儲け」だけで、国家の名誉が掛かっている軍事・外政には関心が無い。デフレ・スパイラルに陥った日本経済を見て、議員や官僚は「骨太の方針」とやらを提言するが、日本国民が注目すべきは日本が抱える病の方であろう。経済学者が指摘するまでもなく、日本は凋落の一途を辿り、益々国力が衰退する一方だ。何しろ、国民に活力が無い。政府がいくら「経済の活性化」を叫んでも、国民の精神が萎えているんだから、糠(ぬか)に釘である。情けないけど、武力を放棄した現在の日本人は、ただ、食って寝て排便するだけの毎日だ。あとは豊かで快適な生活を望むことくらい。政府は「骨太」を語るが、そもそも日本国民に「背骨」が無いんだから、クラゲに「重量挙げをしろ」と要求するようなものだ。学校教育で「強いことは悪」と習う日本人は、武力を以て名誉を守るという発想が無いから、支那や朝鮮に対しても卑屈なままである。活気に満ちた民族というのは、その根底に尚武の精神がある。強さへの憧れを抱く者には、明るい未来に対する希望があり、それを邪魔する者が現れれば、全力を以て叩き潰そうとする気概がある。現在の日本に停滞感や閉塞感が漂っているのは、独立不羈の精神と重武装への意思が欠けているからだろう。今と比べれば明治の日本は貧しかったが、明日への希望に満ちており、軍事力を強化して独立を守ろうという意欲に燃えていた。遠回りのように見えるけど、「命よりも大切な祖国がある」と目覚めなければ、国家再生の道は無い。案外、「強い日本」を目指したときに、経済の活性化が現れるのかも知れないぞ。



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