知られざるご幼少時の大正天皇

  明治大帝や昭和天皇の御聖徳(ごせいとく) は頻繁に語られるので、国民の多くが何らかのエピソードを聞いたことがあるだろう。しかし、大正天皇は生来ご健康が優れず、統治期間が短かったので、現在の国民にはあまり馴染みがない。それでも我々には興味を引くエピソードがある。(千代田會編 『義は君臣情は父子』 大正14年 pp.5-14 参照)

  陛下はご幼少の時より軍事に多大なるご興味を示され、近衛兵の練習や海軍の演習を御見学なされた。ご学友が大砲の音に驚くのに、陛下は少しも臆することがなく、終始お喜びの御様子であったという。近衛兵の背嚢(はいのう)に関心を寄せられ、しきりに望まれたので、側近の者が小型の背嚢を製作したらしい。ご学用の書籍・文具等を納められるように作られた背嚢を呈示したところ、陛下はことのほかお気に入りになったという。陛下は服装も兵士と同じく、上着の袖やズボンに赤筋を入れさせ、それをお召しになった。その格好で背嚢を負って御通学されたのである。陸軍幼年学校の制服は、陛下の服装に倣ったものであるそうだ。

  陛下が御年七八歳の当時、御附武官の陸軍大佐某(便宜上A大佐とする)が、冬の日に急ぎの要事がったので、未明に参内(さんだい)した時のことである。宮中は寂寥(せきりょう)として人の声がせず、ただ宿直の官吏のみが詰め所にいて守衛の役に就いていただけ。A大佐は自分の勤務室で夜が明けるのを待っていたが、その日は雪が降っていてとても寒かった。自然と火鉢を足許に引き寄せて、勤務の書類を読んでいるうちに夜が明けたのである。この時扉の開く音がして、誰か人が入ってくる足音がしたので、大佐は官吏が来たのだろうと思って、別に気にせず書類に目を通していた。

  すると背後から、
  「大佐」 
  とよぶ声が聞こえたのである。幼い声であるが、尋常ではない威厳ある声なので、驚きながら後ろを振り返ると陛下であった。大佐は大いにおそれ恐縮し、うやうやしく敬礼したのである。陛下はことのほかご機嫌うるわしく、笑みを浮かべて「大佐寒いのう」と宣(のたま) われた。大佐は即座に「御意(ぎょい)に候(そうらう)」とご返事申し上げたが、心中は保育の任務にある者が、軽率にお答え申し上げるわけにもいかなかったので、「お言葉ですが、軍人は暑い寒いの別はございません」と姿勢を正して答えたという。すると陛下は
  「そうか」
と仰られただけで、奥へ入られてしまった。大佐は陛下のお姿を拝してから、もとの座に就いたが、このとき自分が火鉢を跨いでいたことに気づき、恐懼のあまり卒倒せんばかりに自分を恥じた。立派な言葉を吐いたが、自分は火鉢にあたっていたのだ。こんな姿を陛下にお見せしたことを、大佐はいたく後悔したという。

  ある日、陛下は学習院の教室にて多くの生徒と共に熱心に講義をお聴きになっていた。そばに仕えていた武官(某中尉) はその日がことのほか寒かったので、万が一の事を考えて、かねて用意しあった火鉢を陛下の御脚の下に差し入れた。これにお気づきになられた陛下は、直ちに中尉を召されて、
  「軍人には寒暑は無いものであるぞ、この火鉢速やかに取り除けよ」
と仰せられた。その中尉は驚き、何事も申さずにすぐさま火鉢を取り除いたのである。中尉は陛下がこのように申されるのには、何らかの理由があるのでは、と推測して退出後にA大佐のもとを尋ねた。中尉が学習院での出来事を大佐に話すと、大佐は無言のままただ涙をこぼすのみであった。中尉は何のことだか事情が分からず、大佐に尋ねたところ、明け方の一件を聞いて諒解したのである。

  大佐は陛下の御保育の大任を承りながら、責任を果たさず、かえってご幼少の陛下から実践躬行(じっせんきゅうこう) の訓戒を賜るとは。これを恥じた大佐は、御暇を賜りて謹慎することを決め、御沙汰が出るまでは外に出ぬつもりであった。そこで御前に伺候(しこう)し、処分を受けることにした。慈悲深き陛下は大佐の素朴で忠実なる態度を評価なされ、
  「構(かま)い無し」
との御沙汰を言い渡し、ますます大佐を信頼されたのである。

余も一兵卒なり

  明治38年の日露戦争後、東京湾において大観艦式の行事があったとき、大正天皇は東宮殿下であらせられた。横浜の停車場へ先につかれていた殿下は、明治天皇のご到着を迎えるべく波止場に向かわれた。その時、東郷平八郎司令長官はお迎えの馬車に殿下をお乗せしようとしたが、殿下は
  「今日は余は海軍大佐の資格で臨む者であるから、海軍大佐の分義をまもらねばならぬ。余も幕僚の一人である」
と仰せられたのである。東郷大将は懼れ入りながらも、殿下に御馬車へと勧めたが、お聴きにならず人力車にお乗りになってしまった。

  観艦式が終わって御上陸あらせられた時にも、東郷大将は殿下がお先に乗車なされるよう申し上げたのだが、殿下は東郷大将が先に乗車するのをお待ちになり、そのあとに御乗車となった。東郷大将はじめとするお供の方々はいたく感動し、殿下の御聖徳に感動せぬ者はいなかったという。

  また、殿下が一日陸軍砲兵営舎に行啓(ぎょうけい) したとき、兵士等の訓練につき熱心に御覧あそばされていた。営舎の人々は正午を過ぎて、殿下のことが心配になり始めたのである。これを察した殿下は、
  「もし昼食に心遣いなどすることは必ず無用にいたせ」
と述べられ、侍臣はかしこまって御旨を吏員(りいん)に伝えた。ところが兵卒用の食事しかなかったので、殿下にお時間を願ったところ、
  「兵士の食料でよい。別に他のものを求めぬ」
と仰られた。吏員は恐縮しながら、とにかく黒い麺を器に盛って殿下に差し出した。すると殿下は直ちにそれを御手にとられた。
  「余もまた一兵卒である。兵士の食にて差し支えない。菜もあれば参らせよ」
と仰せられたが、ためらいながらも魚の煮物を勧めてしまった。それを殿下は快く召し上がりになられ、昼食を終わらせたのである。

  大正天皇は御父大元帥の明治天皇とおなじく、我が軍の将兵を愛され、一人一人の兵卒を大切になされたのだ。いかなる兵卒といえども、陛下の臣下である。このように陛下は国民を慈しみ、国民も敬愛し忠誠を誓ったのである。むかしは本当に陛下の御為なら命もいらぬという者が多かった。現在の我々が失いかけている君臣の絆を恢復(かいふく)すべきである。



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