インド人は雇いたくない

 最近の日本は驚くほどアジア移民が増えた。支那人・朝鮮人はもちろんのこと、ビルマ人・タイ人・パキスタン人・インド人などの浅黒い移民が目立つのだ。特に経済発展を遂げたインドには、日本人の注目が集まる。IT企業なども優秀な人材をインドで求めているから、何となくインドに対するイメージが良い。インドは人口が多いし核武装もしているから、大国になる可能性(potential)をもっているのかもしれない。日本にとっては共産支那を背後から攻撃する戦略的同盟国にすべきだろう。

  しかし、インド人が日本に移住して国籍を取るのは邪魔したくなる。インド人はあまりにも異質だし、そばに近寄りたくない。繊細で上品な日本人から見れば、インド人は異次元の隙間からはみ出た動物みたいだ。多民族・多文化主義を簡単に受け入れようとする日本人には反省を促したい。

  なぜ、こんなことを提言するかと言えば、外国の慣習や風習を日本人は軽く考えすぎるからだ。来日したアジア人に警戒心がなく、異文化との摩擦を予測しないからである。インドの慣習にはどうしても嫌悪を覚えてしまうことがある。左手は不浄であり、手づかみでライスを食べるとき、右手だけでつまむことはよく知られていよう。インド人は排便したときに左手で肛門を洗うからだ。これを非難しているのではない。彼らが長年してきた慣習を止めるべし、というのではなく、我々日本人はインド人の文化を尊重しながら共存はできぬ、と言いたいのである。大学で多民族・多文化主義を吹聴されて、外国人を温かく迎え入れましょう、といった授業を鵜呑みにしている若者がよく居るからだ。暇つぶしの学校で習ったことが、世間で通用すると考える低能学生が意外と多い。民族・人種を基にした差別はいけません、と言われて自己検閲を行う「うぶな」大学生が存在するのである。日本に害を及ぼす外国人は排除すべきである。

  たとえば、インド人が日本に留学してきたりして、帰化して日本国民になったとしよう。日本が気に入ったインド人が寿司職人になりたいと思い、銀座や赤坂の高級寿司店に弟子入りしたいと申し出たらどうなるのか。日本人なら、我が国の文化を高く評価してくれるインド人に悪い感情を持たないだろう。しかし、寿司屋の主人は困ってしまうだろう。そのインド人が大便ごとに肛門を左手で洗っていることが問題となる。止めろ、と命令することは簡単である。だが、それはインド人の伝統的風習・文化を否定することになる。多文化主義では外国の文化を尊重せねばならない。日本人の基準で外国人の慣習や価値観を否定してはならないからだ。

  でも、寿司屋の主人だって本音では断りたい。いくら毎回便所で左手を洗っているからといっても、お客さんは嫌がる。インド人観光客ならインド人寿司職人を見て、「あいつの握った寿司は絶対に食わない」とか「あいつは下層階級出身者じゃないか。しかも、左手でシャリを握っているじゃないか。不浄だ」と言って寿司屋の主人に文句が言える。怒って店を出て行っても何ら非はない、インド人なら。しかし、同じ言葉を日本人客が吐いたら大問題である。日本文化では左手は不浄ではないし、インドのカースト制と同じ身分差別はない。したがって、日本人客は、うんこを拭いた手で握る寿司を我慢して食べるか、黙って店を去るかのどちらかしかない。不快な思いをした客は、二度とその店に来ないから店主は得意客を失ってしまうだろう。

  民族差別をしないでインド人を雇ったら、店が傾いて潰れてしまう危険性が生じる。政府や学者は異民族差別をせぬよう一般人に警告するが、現実にそぐわない行政指導は迷惑である。店で赤字が出たら誰も補填してくれないし、倒産したら誰も助けてくれないだろう。役所は個人責任です、といって冷たくあしらうことは目に見えている。いくらインド人が水できれいに手を洗っていると主張しても日本人の感覚が許さない。たとえば、犬の糞を毎回すくうスプーンを、カレー店で出したら客は激怒するだろう。いくら洗ったスプーンだと言ってもダメ。それと同じである。こんな話は非現実的でバカらしいと多くの者が笑うだろう。しかし、学校で子供に教えている多文化主義とは、そういった問題をぜんぜん想定していないのだ。現実を記す教科書ではなく、書物に現実を無理矢理はめ込んでいるのである。

インド人看護婦の衛生観念

  筆者がインド人への警戒感を表示したのは、インド人やその他のアジア人が簡単に彼らの慣習・文化を改めて日本に同化するなど有り得ないからである。歴史書を繙(ひもと)けば分かるが、インド人は数千年も同じ暮らしを続けてきたのに、日本人が注意したくらいで自己の行動様式(ethos) を変えるはずがない。国が豊かになれば外国人も日本人と同じくなる、とった考えは幻想である。こんなことを言うのも、1970年代後半にインドの支店に駐在したことのある中村研二著『住んでみたインド』(サイマル出版会 1982年)を思い出したからである。

  日本航空の社員だった中村氏は、インドのデリー支社に派遣され、3年間かの地で最高責任者として駐在することになった。インドという国は日本人にとっては辛い場所で、夏に冷房をつけても暑くて眠れないし、街は汚くて臭い。国全体が病原菌の保管庫みたいな所である。中村氏も街中に出ると生暖かい風と共に渡ってくる独特な「インドの臭い」には参ったという。インドの路上を貧しい下層階級の女が水牛の後にくっついて、その脱糞を丸平鍋で掬ったり拾ったりするのを見かけたのだ。このようにして集めた牛糞を、手のひらで器用に捏ねて、丸い餅状にする。こうして作ったウンコ・ケーキ(dung cake) に自分の印を押捺して、日向に並べて乾燥させるのである。これが一番廉価な燃料である。(p.8)

  この便利な固形燃料を使って庶民は、チャパティ(フライパンで焼いたパンのような食べ物)を焼くのである。この乾かした牛糞の臭いが、インド独特の空気となって町中を駆けめぐるのである。ヒンドゥー教徒は畏敬をもって飼育する、神聖な牛が落とした糞は、神様からの贈り物みたいな物である。汚いなんて思わない。だが、日本人はこの牛糞の「香り」を鼻腔に入れながら、チャパティを食べることには抵抗がある。

  ここでちょっとインド人の性質に触れる。支那人や朝鮮人と違って日本人には几帳面で真面目な人物が多い。中村氏のように支店長に抜擢される人は、責任感を人一倍強く感じるだろう。しかし、インドの庶民ときたら、仕事がいいかげんで雑なのだ。ある時、中村氏はトイレのフラッシュ・タンクか壊れたので修理工を頼んだが、その職人は一向に来ない。業を煮やして再三催促してやっと来たら、今度は部品が必要だが取り寄せるのに日にちを要すると言う。「2、3日かかります」と言えば最低一週間はかかるし、「約一週間かかるでしょう」と答えるときは最低二週間は覚悟が必要になる。修理の手際も悪いし、技術が低い。雑な仕事に思えた、と中村氏は語る。修理完了と言われて使ってみると、タンクから僅かな水漏れが生じる。中村氏が、インド人を呼びつけてその欠陥修理を見せると、「このくらいの水漏れなら、あふれ出す実害がないから、ノー・プロブレム」だとぬかす。中村氏は言う「インド人がよく使うこの“ノー・プロブレム”という言葉ほどプロブレム(問題)の多いことはないのだ。」(p.21) 怒った中村氏が、この漏れた水の料金を肩代わりしてくれるのなら、そのまま直さずともよい、と言うと、そのインド人はどうにかして直したらしい。これが給料を貰って働く熟練工だったのだから呆れてしまったのである。

  話を元に戻そう。インド人と日本人の衛生観念はまるっきり違うのだ。彼らは「清潔」であるよりも「清浄」であればよいのかもしれぬ。インド人は用便の後始末を手と水で行い、サリーの端で拭いてしまえばよい。人間の屍体や動物の死骸と共にゴミが浮いている「母なるガンジス河」で水浴して、体を清潔に保つことしか知らない「衛生観念」の持ち主と、バス・クリンを湯船に入れて半身浴したり、高級シャンプーで入念に髪を洗う日本人とでは雲泥の差がある。中村氏はインド人の衛生観念についてあるエピソードを紹介している。

  中村氏と同じアパートに住む日本大使館の参事官が扁桃腺を腫らしたので、インド人医師のもとを訪れた。インド人医師は注射やルゴールの塗布などはしないものらしく、看護婦にその作業を命じた。言いつけられた看護婦は綿棒にルゴールを含ませ、参事官に口を開けるよう求めた。その看護婦が彼の口の中に綿棒を入れようとしたとき、彼は突然大声で「やめてくれ!」と叫び、右手で看護婦の持っていた綿棒を押し戻した。看護婦が綿棒を持った手の爪のなかに、真っ黒な「爪垢」を目にしたからである。(p.42) 浅黒い肌の看護婦が見せた爪垢は、さぞかしその日本人参事官を震え上がらせたことであろう。

  予防注射の際、列をなして並んでいる人々に注射するのだが、一本の注射針で50人を刺すのである。しかも、その注射針をアルコールで拭くわけだが、そのれを含ませたガーゼの色がなんとも汚い。その参事官は不潔なガーゼを観て卒倒しそうだったという。この話を聞いた中村氏はただ愕然とするのみであった。普通のインド人より遙かに衛生観念が強いはずの医師や看護婦が、あんな不潔な診療状態で平気だったのだ。インド人は英国式の教育で医学を学んでいるはずである。それなのに、こんな杜撰な治療だとは。彼らがインド人患者を軽視していたのではないか。西欧人なら違った対応をしたのかもしれない。


インドのカウ・ピス

  日本ではカルピスが子供に好評である。英米人がこの商標を耳にすると「牛の小便(cow piss)」と勘違いするかもしれない。そんな馬鹿なことはないだろう、と日本人なら笑ってすませるだろう。しかし、インドでは冗談ではないのだ。インドではフレッシュな牛の小便を飲むのである。嘘みたいな本当の話である。神聖な牛が放出する小便には何か御利益がありそうだ。ジャイラム・シグハル(Jairam Singhal) 氏は10年間も牛の小便を飲んできた。彼が語る。

  俺は糖尿病を患っていたが、牛の小便を飲み出してから糖尿のレベルが下がったんだ。誰かが牛の小便は体にいいんだと教えてくれたのさ。俺は今じゃ、12年も牛を飼ってきたんだ。朝起きて最初にすることは牛の小便を飲むことさ。 (Ben Burrows, Indian Hindu worshipers drink cow URINE in India to help prevent cancer,  Mirror, January 13, 2014)

  いまでは彼の元に多くの人々がやって来て牛の尿を飲むという。なかにはガンを患った人もいて、その御利益をもらいにくるそうだ。噂を聞きつけた人々は癌患者だけでなく、腫瘍をもった人、肺結核患者、胃弱体質の人などがいる。

  こんな信仰が生まれたのも無理はない。インドではある団体がガウ・ジャル(Gau Jal) という牛の水を販売していたのである。ペプシやコカ・コーラよりヘルシーな飲料水といったところだ。牛の尿をベースにした飲料水が食料品店で公然と販売されていたのである。( Dean Nelson, India makes cola from cow urine, UK Telegraph, 11th Februray 2009 ) 日本人ならエイプリル・フールの冗談記事と思ってしまうだろう。文化の違いを軽視する日本人には、多文化主義社会で生きてゆくことなどできない。日本人だけで幸せに暮らせばいいのに、なぜアジア人との共存を受け入れねばならぬのだ? アジアの中のニッポンとNHKや朝日新聞は口にするが、自分たちは牛の小便を毎朝飲むことができるのか? 彼らはインド文化は尊重するが、自分は日本文化で生活すると弁解するだろう。しかし、普通の日本人が、隣で牛の尿を飲まれたら不愉快だ。お昼に弁当を食べている日本人の隣でインド人が牛の尿をコップに注いだらどう思うのか。ビールとは思わないぞ。自分たちができぬ事を他の国民に宣伝するのは罪じゃないか? まづ彼らの重役が模範を示してから言って貰いたい。



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