支那共産党は巨大な暴力団

  支那では麻薬密輸は重罪で、その処罰は死刑にすらなるという。日本人でも知らぬうちに麻薬密輸人にされていたケースがあり、日本でも大きく報道されたことがある。つい最近でも、オーストラリアの白人女性がボーイ・フレンドと共に麻薬密輸の容疑で逮捕されてしまった。カリンダ・デイヴィス(Kalynda Davis)(22歳)は裕福な家庭の出身で、父親は銀行家である。彼女の恋人ピーター・ガードナー(Peter Gardner)(25歳)が75kgのメタンフェタミン(通称アイス/ICE)を広東からオーストラリアへ持ち運ぼうとしたらしい。(Kalynda Davis faces death penalty in China over ice smuggling claims, The Sydney Morning Herald, December 6, 2014) どうやらガードナーが彼女を運び屋にしたらしい。最悪の場合、彼らは死刑判決を受けるかも知れないのだ。だが、支那人が麻薬について、正義漢ぶった口を利けるのか? もともと支那共産党は麻薬製造で資金をつくったのである。まるでヤクザの親分がチンケな密売人に説教するみたいなもんだ。

  我々日本人は北京政府を西歐諸国の政府と同じように扱っている。ところが、支那共産党というのは、核兵器を持った巨大な暴力団(またはマフィア) と考えた方が正しい。支那には生まれながらにして狡猾な悪漢が実に多い。そんな悪人が溢れる支那で国家主席になる奴は一番の極悪人である。血みどろの権力闘争を勝ち抜いた巨悪が核兵器のスイッチを押すのだ。赤い支那の国父毛沢東は、大量殺戮者のみならず麻薬王の一面をもつ。

  話は第二次世界大戦の頃に遡る。1941年6月ドイツがソ連に侵攻したのをみて、毛沢東はモスクワから資金援助が途絶えた場合に備えて、別の資金源を探し始めた。兵站軽視の日本軍と大違い。毛沢東が目を付けたのは阿片であった。数週間後、延安の共産党は大量のケシの種を購入した。1942年になるとケシの栽培と阿片の取引が大々的に始まったのである。毛沢東らはケシ栽培事業を「革命的鴉片(阿片)戦争」と呼んでいた。延安で阿片は「特貨(特別の商品)」という婉曲的表現で呼ばれていた。ソ連の連絡将校から共産党が「公然と阿片生産にかかわる」のはどういうことか、と聞かれたとき、毛沢東は何も答えなかった。そこで毛の汚れ役を担当する鄧発(トウハツ)が答えた。阿片は「貨幣を山と積んだ隊商(キャラバン)を連れて帰ってくるのですよ・・・それを使って我々は(国民党を)成敗する、というわけです。」(ユン・チアン/ジョンハリディ 『マオ 誰も知らなかった毛沢東』上巻 土屋京子 訳 講談社 2005年 p.464)

  阿片の主産地は共産党に好意的な国民党の鄧宝珊・将軍が掌握している地域で、彼は阿片(鴉片)王として有名だった。毛沢東と鄧宝珊は相互に便宜を計って利益を得たのである。この麻薬王は毛沢東にとって大恩人であり、その功績を認められて高位の名誉職を与えられたのだ。そうして阿片は毛沢東の財政問題をたった一年で解決したのである。毛沢東は周恩来に延安は財政難を克服し、2億5000万法幣(ファービー)相当の貯蓄が出来た、と告げている。(「法幣」とは国民党支配地域で使われていた通貨のこと。) 毛沢東は蒋介石との決戦に備えて、金銀共に法幣を蓄えたいた。1943年、ソ連は毛沢東の阿片売上高を4万4760キロと推定している。値段にすると24億法幣という天文学的数字である。(今日の価格にすれば約6億4000万ドル、日本円に換算すれば640億円くらいだ)

  1944年になると共産党は大変な金持ちになっていた。マルクスは宗教を阿片呼ばわりしたが、毛沢東はその阿片で共産党を維持したのである。共産主義者が麻薬だけは資本制(capitalism)で製造し、自由市場(free market)で販売したのだ。鄧小平の社会主義的市場経済に感心していた日本の評論家どもは支那の歴史に無知だった。しかも、共産党幹部の生活は劇的に向上したのである。他の地域からやって来た幹部は、延安の同志らが豪華な食事を楽しんでいたことに驚いた。食事は何十皿も出てきて、どのテーブルにも食べ残しが大量にあった。阿片王の鄧宝珊が久しぶりに毛沢東に会ったとき、最初の挨拶は「毛主席は太られましたね」だった。共産主義者は清廉の士みたいに装うが、その実態は酒池肉林に溺れる欲張りの俗物である。その一方で、庶民は搾取され、悲惨な生活を送る農民が大量にいたのだ。死亡率が出生率を上回り、ある地域では5対1の割合になっていた。

日本で広がる麻薬汚染

  戦後闇市を知っている日本国民なら、支那人が日本で荒稼ぎしていたことを覚えているはずだ。昭和29年7月に警視庁は、世界最大の麻薬王と言われた李金水を東京吉祥寺の自宅で逮捕した。地下の密造工場から発見された約8キロのモルヒネ塩は、押収量として前例がないほどのものだった。警察は今度こそ彼らの組織を一網打尽にしてやろうと躍起になった。しかし、支那人麻薬王の李は、ひとりで罪を背負い、仲間が日本を脱出するまで口を割らなかった。そのため李と共同で香港に密輸商社「大春行」を経営していた陳金石は逮捕を免れ、李が逮捕されて三日後に羽田を飛び立っていたという。結局、李に懲役六年が求刑されただけで、背後の国際組織は謎のままであり、日本国内の密売網も無傷のままであった。李が逮捕されても、代わりの者が次々とやって来るだけで、支那人密輸組織は日本で大金を稼いでいたのである。

  押収した李のモルヒネ塩から推測して、バンコックで製造され香港を経由して空輸されたことが明らかとなった。日本に船で密輸される場合は、ヨーロッパ船籍の支那人下級船員が持ち込むことが多かった。「麻薬ひと握りあれば一生暮らせる」と言われたくらいだから、支那人は喜んで密売人になったのである。様々な方法で麻薬を日本に持ち込み、支那人麻薬組織は、一年間に3トンも密輸して約60億円稼いだという。日本人中毒者から得たこの利益は、支那共産党に環流したのである。(毎日新聞社編『白い手黄色い手』 昭和31年, p.42)

  北京政府は阿片栽培を一般農民には許さず、傷病軍人あるいは戦没者遺族に限られていた。いわば戦争犠牲者への厚生保護対策の一環であった。党中央委員会の統括のもとに生産が行われ、販売は主に対外貿易部が担当する。製造工場は、大連製薬廠、対外貿易部中国土産出漢口公司加工総廠、商業部専売事業公司直属加工総廠などであった。製造された麻薬は、バンコックに至る南方ルート、廈門(アモイ)・広東・香港を結ぶ香港ルート、大連北鮮からの北方ルートから自由主義諸国へ拡散したのである。代金はココム(対共産圏輸出制限委員会)で禁止している戦略物資の輸入代金に当てられたのである。麻薬密輸は民間貿易に任せて政府機関はノータッチを装っていたのだ。

  昭和25年10月日共九州地方委員会議長山本齊は旧朝鮮人連盟幹部の孫亨からヘロイン4ポンドを受け取って検挙された。共産党の活動資金に渡されたモノだった。共産主義者は目的のためなら手段を選ばぬわけだ。孫は数日後には闇夜に紛れて北朝鮮に渡ってしまった。当局は必死になって孫の背後にいる人物と見られる朴孔隆なる支那人を追ったが、足取りは全くつかめなかった。ところが、28年6月に上井満里子という23歳の看護婦がヘロイン所持の疑いで逮捕されたのである。厚生省麻薬課に捕まった上井は、朴孔隆の指示を受けていたことを自供した。彼女は柳田洋子、市川マリ子、渡瀬愛子などの偽名を持ち、これまでにも麻薬や覚醒剤所持違反で5回当局に捕まっていたのである。他の仲間4名と共に、朴から渡されたヘロインを、立川基地および名古屋の小牧基地周辺で売っていたという。(p.44)

  だが、取調べの係官が、女だからちょっと気を緩めた隙に、彼女は便所でバッグの二重底に隠していたヘロインを処分してしまった。証拠を隠滅されてしまってはしょうがない。彼女は間もなく釈放となった。捜査官は極秘に彼女を監視したが、何ら手がかりがつかめず一ヶ月後に捜査は打ち切られてしまった。彼女は拘束されたとき、係官にこうつぶやいたという。「同胞の日本人にだけは決して売りませんでした」と。麻薬密売に手を染めてしまった看護婦にも、日本人の良心がほんの僅かだが残っていたのである。戦前に育った者は今の日本人と違うのだろう。日本で生まれ育った者なら、同じ日本人を傷つけることに躊躇(ためら)いを感じるはずだ。全日本国民を貶めた朝日新聞の植村隆より、ヘロインの密売人の方が偉かったとは。朝日新聞社で誰か切腹する奴はいないのか?



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