少年時代を朝鮮で過ごした世代

  朝鮮統治時代には多くの日本人が朝鮮半島に住んでいたことは、今となっては信じられないくらいである。敗戦と共に多くの日本人居住者が引き揚げてきた。当然その中には朝鮮生まれの内地人(日本人)がいて、少年時代を朝鮮人と過ごした子供がいたのである。これら半島育ちの日本人が、戦後日本の学校に通って左翼教育を真に受けた結果、朝鮮統治に対する罪悪感をもつ日本人が誕生したのだ。有名なのが、電通の会長を務めた成田豊で、京城(現在のソウル)で育ったという。成田氏は植民地の朝鮮人が貧さから盗みをはたらいたり、日本人から殴る蹴るの冷たい仕打ちを見たという。日本人が普段からむやみに威張ったり、朝鮮人を一級下の者として見下すことにショックを受けたらしい。学校では「人は平等だ」教えられたが、現実は違ったという。

  同じ人間なのに、なぜ。そんな違和感が、子供心に刻まれた。(成田豊 『広告と生きる』 日本経済新聞出版社 2009年 p.16)

   子供だった成田氏が周りの大人の事情や当時の朝鮮人社会を理解していたとは思えない。朝鮮の不甲斐ない社会状況やうんざりするような風習は、子供に分かるはずがない。朝鮮人を差別し、馬鹿にする日本人としか見えなかったのだろう。成田氏が中年くらいまで朝鮮に住んでいたら、朝鮮統治の事情が分かって罪悪感をもたなかったかもしれない。電通がつまらない朝鮮人歌手や南鮮ドラマをテレビでゴリ押しした結果、多くの日本人が拒絶反応を示したのを覚えていよう。成田会長の個人的感情も絡んでの朝鮮文化ブームの演出だったが、いくら天下の電通でも日本人に低級文化を押しつけることは出来なかったのだ。朝鮮人が吐いた痰(たん)を嘗めろ、と命令したって日本人は嫌がるだろう。それと同じで、日本人は朝鮮人が吐き出す文化を飲み込みたくないのである。敗戦で日本へ戻った成田氏が朝鮮研究を専攻した形跡は見当たらないから、少年時代の記憶が残ったたまま、大人になったのだろう。成田氏は晩年まで単純な朝鮮びいきを反省しなかった。

  もう一人、少年時代を朝鮮で送った日本人がいる。本田靖春だ。『諸君!』に文章を書いたことがある識者なので覚えているかたもいるかもしれない。左翼史観で教育されてしまった本田氏は、帰化問題で悩む梁政明(日本での通名 山村政明)に同情したりする。朝鮮人は一般に、精神的に歪んだ後進国民であると子に気づかなかったりであろう。本田氏は「朝鮮人に対しては、かつての加害者であったし、いまも加害者だという認識がはっきりある」と述べている。(本田靖春 『私のなかの朝鮮人』 文春文庫 1984年 p.24)
 
  朝鮮統治を悪かったと反省している本田氏だが、少年時代には朝鮮人との対立を経験しているのだ。日本人町に住んでいたが、通学時には朝鮮人街を通らねばならなかった。朝は何でもないのだが、下校時に問題が起きたという。朝鮮人街を足早に抜けようとするや、鮮人の子供らが石を投げてきたり、道をふさいで唾を吐きかけたりして挑発してきた。朝鮮人らには戦術があって、先に年少者をけしかけて、日本人を油断させる。年端もいかぬ子供と見なして、その頭をこずいたりすると、大群がどっと現れる具合であった。本田氏が小学四年生の時にちょっとした事件が起きた。ある子供と下校時に朝鮮人街を通過したとき、朝鮮人の小学生二人に唾を吐きかけられたので、手に持っていた上履きの袋で鮮人の横面を張ったという。

     しかし、本田氏は帰り道を朝鮮人に尾行されていたのである。しばらくすると、「雲霞の如き大軍」が彼の家に押し寄せたのである。両親とも留守であったので、裏庭から抜け出し、同級生に武器を持って応援に来てくれるよう頼んだのである。家に戻った本田氏はお湯を沸かしたそうである。そうこうするうち、友人等が木刀や空気銃を持って、総勢10人が応援に来た。本田氏は玄関を開けて、塀越しに熱湯を朝鮮人らに浴びせかけると、ついで空気銃を乱射して、敵が怯んだ隙に木刀で一斉に斬り込んだのである。それ以降、本田氏は鮮人の子供らに目を付けられ、彼らの波状攻撃に悩まされたという。本田氏はカーバイトを捏ねて爆弾を作ろうとしたこともあった。

  敵の襲来は止むことがなかったので、本田氏はついに父親の日本刀を持ち出した。本当に斬るつもりはなく、鞘を払って抜き身をかざして門を出たという。公平に言えば、朝鮮人は武器をもって彼を攻撃したことはなかった。本田氏は当時を回想する。

  だから、私が挑発と受け取り、襲来と感じていた彼らの皇道派、集団による憎悪の表現ということなのであろう。( p.161)

朝鮮人が日本人を憎んでいたことを本田氏は身に沁みて自覚している。それでも、彼は胸のどこかに朝鮮人への罪悪感が残っているのだ。

  朝鮮総督府はは「内鮮一体」と宣いい、「皇民化」政策を朝鮮人に押しつけていたが、日本人と朝鮮人が一つだなどということは、日本人も朝鮮人もだれ一人思っていなかった。お互いは、はっきり異民族同志として認識し合っていたし、それだけではなく、彼らはわれわれを憎み、われわれは彼ら嫌っていた。( p.162)

本田氏は日本の朝鮮支配の帰結として朝鮮が分断された、と考えていた。(p.174)戦争の動乱で多くの朝鮮人が血を流している隣で、日本は朝鮮特需に沸いていたことを批判している。朝鮮戦争はスターリンの傀儡金日成(本名金聖柱)が起こし、支那軍が支援した動乱である。我が国が戦争特需で潤ったことがは、戦争の原因とは関係ない。こうした自虐史観がいかに日本人を蝕んでいたが分かる。

汚い朝鮮人が作った料理

  本田氏が住んでいたのは日本人町で会ったが、金さんという元両班らしい朝鮮人一家が例外的に結住んでいたという。(朝鮮人が自分の祖先を両班という時は注意せねばならない。)金さんの家では他の朝鮮人家庭同様、一家挙げてキムチ作りをしていた。キムチがよい加減に漬かる頃になると、金さんは自家製キムチを本田宅に届けたそうである。本田氏の母親はキムチを届けてくれた金家の使いの者に鄭重に礼をのべる。だが、その使いが帰った後、せっかくのキムチはゴミ箱へ直行するのである。これは本田家のならわしであった。金家からはキムチだけではなく、盆、正月、祭りの度ごとに餅などの届け物が来る。そのすべてがキムチと同様の運命をたどる。戦争が始まって物資が足りなくなっても母親の態度は変わらなかったという。

  本田氏は京城にいたあいだキムチを一度も口にしたことがなかったという。本田少年は母親に不平を漏らしたそうだ。しかし、彼の母親は抗議を受け付けず、こう言うのであった。
  「また赤痢にでもなったらどうするの」(p.29)
この一言で本田少年は沈黙してしまう。彼は三歳の時、生きるか死ぬかの赤痢を経験していたのだ。母親は何かにつけ赤痢の話を彼にしたという。母親は息子を心配する気持ちが強かったので、赤痢という伝染病に対する恐怖心を植え付けたのである。本田邸には朝鮮人の洗濯女と子守娘が雇われていた。朝鮮人の子守は幼き本田氏を可愛がってくれたそうで、彼女が時折おやつを口移しに本田少年に与えたりしたようである。本田氏は彼女の家で、いろいろ貰っているうちに赤痢にかかったらしい。本田氏の母親が感染経路を子守娘ないし彼女の家庭と決めつけたことはなかった。だが、幼き息子が赤痢にかかったことで、本田氏の母親は朝鮮社会の衛生状態や、鮮人の衛生観念に敏感となったようである。

  彼の母親は娘時代に薬専を出て、病院勤めをしたらしく、衛生知識に詳しかったらしい。便所の脇にはいつもクレゾール溶液が用意され、本田氏は用便の後はもとより外から帰る度に、必ず手の消毒をさせられたのである。本田氏は朝鮮の飴売りを覚えていた。近所を巡回する朝鮮人の飴売りは、大きなハサミを用いて飴を切り売りしたそうである。飴売りがまわってくると子供たちが寄ってきて、こぞって買っていったそうだ。しかし、本田少年は一度もその飴を口にしたことはなかったという。彼の母親は言ったそうだ。「どうしても飴を食べたいのなら、一度朝鮮飴を作っているところを見てからにしなさい。両手に唾をつけて塊を伸ばしていくんですよ」と諭したという。本田氏は母親の言葉に逆らえなかった。(p.32)本田氏は衛生観念を教えてくれた母親に感謝するも、朝鮮人に対する嫌悪感も教えたのではないか、と回想している。

不潔な朝鮮と身震いするほどの汚さ

  「差別感」への反発や「正義感」に燃えてしまう少年時代にはよくあることだが、本田少年は母親と口論したことがある。彼の母は「あなたはフタタこと目には『日本が悪い』と言うけれども、私たちがどんな悪いことをしたんですか。鉄道もないところに、内地より立派な鉄道を敷いてあげたじゃありませんか。電気がなかったところに電気をつけてあげたのも日本ですよ。物がなくなってからだって、朝鮮人にも同じだけ、砂糖を配給してあげたのは、いったい誰なんです」と陳べた。まったくその通り。本田氏のご母堂は正しい。これが当時の日本人に共通した意見であったことは間違いない。日本人がどれだけ朝鮮で税金を浪費したことか。日本国民の方が被害者である。乞食の群れが何の冀望もなく棲息していたのが、李氏朝鮮の実態であった。朝鮮の貧困とは、日本人が考える「貧乏」とは質が違う。たとえば、日本の鳥取砂丘と火星の沙漠(さばく)は同日の談ではない。朝鮮の貧困は日本人の想像を超えていたのである。現在朝鮮人が日本統治を鼻水タラしながら糾弾しているが、鮮人どもは実態を知らないのだ。朝鮮人の馬鹿は漬け物甕に沈めるに限る。

  しかし、本田氏は、母親の正論を否定して言う、

  こういう考え方は、かつての朝鮮植民者の「一世」に、ほぼ共通している。(p.33)

これだから戦後世代はダメなんだ。日教組教育で脳味噌がコンクリート化しているのだろう。創意工夫や新鮮なアイディアを一切遮断した牢固な朝鮮が、いかに時代遅れで惨めであったかを本田氏の世代は知らないのだ。明治維新後に朝鮮へ渡った日本人は朝鮮の汚さに卒倒したのである。朝鮮の暮らしは小便大便だらけで、道や街角には糞尿が垂れ流されて臭気で鼻が曲がりそうだった。曲がるというより、腐って顔から堕ちそうである。現在の日本人女性が見たら確実に気絶するだろう。塩崎誓月という日本人が朝鮮に渡ったら、山の如き蝿に驚いたという。朝鮮人は食べ物や食器に蝿の群れがたかっていても気にしない。よほどのことがなければ、蝿は殺されないのだ。朝鮮人の家では蝿が、

  天井から壁から白い処は糞尿で真っ黒にし、主人が昼寝の口あたりから鼻の中まで卵を産み付けてその植民地と心得ている。( 塩崎誓月 『最新の韓半島』 青木嵩山堂 明治39年 p.183)

  日本人が戦慄を覚えるのは蝿だけではない。オンドルで暖められた朝鮮人の家では南京虫が大繁殖していたのである。朝鮮の宿に泊まった外国人はこぞってこの南京虫に悩まされる。

  夜半このおそるべき虫が群れをなして来襲しその音は陣風の如しという程だ。刺されれば則ち腫れ膨れ甚だしきは癩病患者の如き形状をなすに至る。こやつは殺虫剤で見事に斃れ、翌朝屍体を検するに数十百匹に上ることがある。 (上掲書 p.184)

  哀れにも南京虫に刺されていた朝鮮人には、虱(シラミ)もたかっていたのである。夏ならまだしも冬になると危険で、滅多に朝鮮人の側に近づけない。朝鮮人は虱がたかっていても恥ずかしく思っていなかったのである。こんな朝鮮だから、蚤(ノミ)くらいで騒いでいたらとても暮らせない。水に糞尿が混じっていたって平気で飲めなくては朝鮮暮らしは不可能だ。朝鮮には人間らしい生活を送る文明が絶無であった。進歩的文化人は日本の文明は朝鮮からきたなんて戯言をほざいている。こういう奴らは朝鮮に3日も暮らせないだろう。こうした気是戦車に限って、安全で清潔な日本から一歩も出たくないのだ。 

  本田氏のような朝鮮育ちの日本人は、内面に矛盾を抱えて成長したのである。日本に戻って青年時代を過ごすが、不思議と朝鮮に戻って暮らしたいとは思わない。だが、おぼろげな記憶があるので、朝鮮に対して幻覚にも似た郷愁をもつ。中高年になって朝鮮に渡ると、幼き頃を思い出すが、美しい記憶に乏しい。これが西歐の文明化された社会なら、懐かしさと憬れで胸がいっぱいになる。美しい自然と洗練された人々と再会すれば、心が浮かれるのだ。しかし、日本人にとって支那大陸や朝鮮半島は、陰惨な記憶の押し入れといった方がよいだろう。元乞食の朝鮮人が身なりを整えて来日しても、日本人は嬉しくない。何故か蠅叩きに手が伸びてしまわなければいいのだが。「朝鮮人帰れ!」かヘイト・スピーチなら、アブラカタブラ「朝鮮人は消えろ」と呪文を唱えてみたらどうだろう?



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