響きの悪い言葉は抹殺

  テレビ番組には放送禁止用語や言い換え、または変な言葉が多い。たとえば、昔からある職業の名称を響きが悪いからといって、誰の発案か分からずに変更してしまうのだ。「按摩(あんま)」は「マッサージ師」に、「女給」は「ウェイトレス」になる。かつて「スチューワーデス」と言われていた花形の職業は、「キャビン・アテンダントCA」になってしまった。もともと「エアー・ホステス」が水商売の女みたいだから、「スチュワーデス」に変えたはずなのに。「女中」が「家政婦」になって、「産婆」が「助産婦」になったし、「乳母」は英語で「ナニー」と呼ばれる。しかし、「乳母車」は英語の「ストローラー(stroller)」とか「ベイビー・バギー(baby buggy)」ではなく、なぜか「ベビー・カー」だ。まるで赤ん坊が運転する小型車みたいだ。
  
   黒柳徹子は異常なくらい「政治的正しさ(political correctness)」にうるさい。この“政治的正しさ”というのは、隠れ共産主義者による伝統文化破壊の一手段である。言葉には歴史的経緯があり、偶然の出来事や独特な香り、信仰上の由来など様々だ。これらを削ぎ落として、民族の言葉を無色透明、または無味乾燥の伝達手段に変えたいのだ。学校の名簿でも、男子は「くん」で、女子を「さん」附けで呼ぶのは、“男女差別”でイケナイと左翼は主張する。でも、日本語では「男ことば」と「女ことば」があるのに、これを否定されたら、男女の区別が薄くなる。つまり中性人間の製造が目的なのだ。左翼はこうやって文化破壊を一歩進めるのである。話を戻そう。

  テレ朝の『徹子の部屋』に高中正義がゲストで出演し、自分の半生や家族について語った時のことである。ギターリストの高中氏の実家は雀荘らしく、父親が支那人である。母親は日本人で、「お袋は看護婦だったんですけど」と高中氏が説明していた。すると黒柳氏は、彼の話中にも拘わらず、直ぐに「看護師」と訂正した。「看護婦」はそれほど悪い言葉なのか? 看護婦は賤業ではく、尊敬され感謝される職業なのに、訂正する程の用語では無かろう。何気ない高中氏の昔話であるのに、即座に訂正した黒柳氏には驚いてしまった。もし、「昔さあ、お袋はトルコ嬢でしてね」という会話なら「ソープ嬢」と訂正するのは分かる。一般人の患者なら病院で看護師を見かけたら、つい「看護婦さん」と声を掛けてしまうだろう。それとも、河原こじき(芝居の役者)の黒柳氏は、何らかの怨みがあるのか?

  身体障碍者(しんたいしょうがいしゃ)に対する用語について、テレビ局が神経を尖らせるのは理解できるが、歴史番組や時代劇、文学作品紹介で、禁句をもうけるのは文化の破壊だろう。「ちんば(足の不自由な人)」や「つんぼ(耳の聞こえない人)」、「かたわ(身障者)」、「おし(口のきけない人)」は、テレビで禁止されている。しかし、「めくら判」や「片手落ち」、「明きめくら」は慣用的な言葉だから、禁止するのはおかしい。ドストエフスキーの『白痴』は何ていうタイトルに変えるのか。ダフ・クーパーの評伝『タレーラン』では、タレーランが「びっこをひいていた」と訳されている。(曽村保信/訳 中央公論社 1979 p.24) 「びっこ」が禁止用語だと「足の不自由な」に替えるのか? 時代劇で、岡っ引きが同心に「あのびっこが」とか「このめくらのジジィが」というセリフなら普通だが、「この足の不自由な野郎が」とか「目のご不自由な男性高齢者が」と言ったらおかしい。最近は「ビルマ」をミャンマーと呼ぶから、子供が竹山道雄の名作『ビルマの竪琴』を聞いても、どこの国か分からない。アレクサンダー大王のペルシア遠征も、“イラン”遠征になるのだろうか。

  以前、TBSのイブニング・ニュースで、刺青(いれずみ/入れ墨)を後悔する女性を特集していた。同局の取材記者が、若い頃気軽に彫った刺青を悔いている女性に密着取材した。そのナレーションでは、刺青をしきりに「タトゥー」と呼んでいた。筆者は番組制作者に、なぜ日本語の「刺青」ではなく英語の「タトゥー」を使用するのか、その理由を尋ねた。制作者の話を要約すると、「刺青」と呼べば何か怖い響きがあるという。それはそうだろう。暴力団員が彫っているのだから。しかし、制作者曰く、「刺青」だとヤクザが背中に彫る龍や般若みたいで、「タトゥー」だと“ポップ”な感じがするという。天使とかハート、バラの花柄、アルファベツトの文字などが「ポップ」な刺青であるらしい。日本のテレビ局は、刺青のデザインで呼称を替えていたのである。それに刺青をしている人への配慮もあったらしい。一般人をヤクザ者みたいに扱うのが嫌なのだろう。しかし、用語を換えたからといって、中身が変化するわけじゃない。このように、テレビの報道番組では、視聴者が制作者を問いたださないと本音を吐かないのである。ブラック企業を批判するマスコミも、本性がブラックだったとは。まさしくブラック・ジョークだ。

   これまたTBSだが、あるニュース番組で、殺人事件の容疑者が長屋(apartmennt house)から、警官に連行されるところを中継していた。ところが、現地リポーターは「あ、ただいま容疑者がマンション(mansion)から現れました」と声を上げたのである。でも、そのマンションは一軒家の豪邸(マンション)には見えなかった。賃貸長屋(アパート)に住む犯人が大邸宅から出てきた、と実況中継するのは誤報である。日本では何故、高級長屋をマンションと呼んで、アパートと呼ばないのか不思議である。だって、ワゴン車で逃走した容疑者を、ジープで逃走したとは報道しないだろう。もし不動産強業者なら、不正表示だろう。食品業者が輸入牛肉を和牛と呼べば罪になる。でも、マスコミはお咎めなし。変だ。

  新聞の政治用語も奇妙だ。フランスやドイツで移民流入に反対する政党が支持を増やすと、外国人排斥を掲げる「極右勢力」の台頭と騒ぐ。フランスの国民戦線のマリーヌ・ル・ペン(Marine Le Pen)党首がフランス国民の支持を得ると、新聞やテレビは「極右政党」の危険性を日本人に伝える。しかし、国民戦線は王党派(右翼)ではない。ジャン・マリ・ル・ペン前党首(マリーヌの父)は、自分が共和政信奉者であると公言していた。これでは左翼(王室と貴族の反対党)みたいだ。左翼ではないル・ペン氏は、非難にめげず、ガリア系フランス人の保存を訴えている保守派である。古代からガリアに住む白色ケルト人の子孫を守るために、アラブ人やアフリカ人を排除しようとしているだけだ。

  それにしても不可解だ。なぜ産経新聞までが、ル・ペン氏らを極右扱いするのか分からない。筆者は産経新聞に尋ねたことがある。もし、朝日新聞が産経を「右翼新聞」と呼んだら、産経新聞は反論すのか、と。産経は“まっとうな新聞”です、との返事であった。産経新聞は愛国新聞とか保守的メディアというなら納得するだろう。しかし、極左の札付き羽織ゴロから「右翼」呼ばわりされれば、産経が怒って当然だ。(戦前は新聞屋を「脅迫を用いる羽織を着たゴロツキ」と呼んでいた。) 国民戦線だって、フランスの保守的政党であって、表だって口に出来ない庶民の常識を述べているだけだろう。移民を引き込む極左勢力から「極右」と呼ばれているだけなのに、産経の特派員記者は朝日・毎日と歩調を合わせて、「右翼」と報道していたのである。だが、産経側の理由を聞くと、特派員は現地新聞の言葉を単に和訳していただけらしい。これでは特派員を歐洲に置く意味がない。産経新聞の方も、次第に筆者の意見に賛成してくれた。

  米国の無知な左翼メディアは安倍首相を、タカ派の「ナショナリスト」とか「右翼政治家」と呼んでいた。しかし、我々からすれば安倍首相が靖國神社に参拝したから、極右政治家とは思わないだろう。別の視点から見れば、よりはっきり分かる。たとえば、マイナス28度のシベリアからみれば、気温25度の東京は熱帯地域だ。我々ならシベリアの住民に賛成しない。ロシアが寒すぎるだけだ。同様に、朝日新聞や赤旗が安倍首相を「極右」とか「国粋主義者」呼んだら、我々は「お前らが極端な左翼なんだよ」と反論すればよい。遙か左から見れば、中央は極右である。それにもし、安倍氏が右翼なら、レーガン大統領は「ウルトラ極右政治家」であるが、今では誰もそんなことは言わない。産経新聞も本当は記者の外部評価を取り入れないと、朝日新聞みたいに衰退するかもよ。昔フジテレビが民放一位だったのに、気がつけばテレビ東京の後ろを歩いているのだから。(まさかテレビ埼玉に抜かれることはないと思うけど。)慰安婦問題で地に堕ちた朝日新聞を産経記者は笑っているが、新聞業界自体が没落しているのだから、うかうかして居れないだろう。


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