デモクラシーは最悪の統治形態

  日本人は「民主主義」という民衆参加型の政治形態を喜んでいるのに、いつまで経っても政治不満が高い。投票権があるのに、「天気が悪い」とか「遊園地へ出かける」、「デートがあるから」といった理由で棄権する人が意外と多いのだ。この原因を政治学者や評論家がいろいろ解説しているが、どれも我々の頭にしっくりこない。我々庶民にとって一番わかりやすい理由とは、ずばり「日本人の体質(constitution)に合わない」ということである。たとえば、小麦や卵、牛乳で作った料理が栄養になるといっても、人によってはアレルギー反応を起こしたり、お腹を下したりするだろう。つまり、人はそれぞれ体の特別な性質をもっている。国家や民族も同様で、それぞれ体質が違うのだ。「憲法」と訳されているコンスティテューションは、元々「性質」とか「体質」を意味する。イングランド王国には、成文化されない国の性質(Constitution)があり、それを先祖代々継承しているのだ。だから未だに憲法典を持たないし、持つ必要がない。我が国も同じで、マッカーサー憲法は日本の国体(constitution)に合わないから、不具合が生じるし、アメリカ流民主主義も肌に合わない。肌に合わない化粧品を使ったことがある女性なら分かるであろう。

  ちなみに、筆者が「民主主義」ではなく、「民衆政治」という用語を使う理由を述べたい。漢字で「民主」とは「民衆の主人またはお頭(かしら)」を指し「君主」意味するので、ややこしくなるからデモス(民衆)の「支配(クラティア)」の方を訳語として採用する。小学校中学校では漢字の授業があるが、教師は漢和辞書を生徒に引かせても、漢字の意味を教えぬ場合がある。支那人にとって「民(デモス)」は「針で目を突かれた者」則ち「盲(めくら)の奴隷」を意味する。だから、日本人が「民主主義」を使うのはおかしい。もっと、小沢一郎や菅直人の「民主党」にとって、日本国民は「一票乞食」であるから、盲の奴隷とたいして変わらないのであろう。事実、小沢は南鮮に渡り、朝鮮人の前で日本人を間抜けで自分で物事を決められないどうしようもない国民だ、と貶していた。小沢が「国民」と「天皇」の主人気取りであったのを国民は覚えているだろう。宮澤喜一が江沢民に天皇陛下を売り飛ばしたとき、自民党を裏で支配していたは田中派の小沢だし、この老いぼれ喜一を首相にしてやったのも小沢である。

  簡単に殺される命が安い支那人と違って、日本人は天皇陛下の奴隷ではなく、「赤子(せきし)」または「大み宝(おおみたから)」である。大名にとっても「民」は大切にすべき藩の礎(いしずえ)であった。五箇条の御誓文で一般国民を信頼したのは、武士も農民もみな平等な日本人だからである。支那では民衆とは皇帝の私有物、搾取してよい家畜、殺したって構わない虫けらなのだ。古代ギリシア人なら、日本人を自由な市民とみなし、支那人を奴隷のバルバロイ(野蛮人)と考えるであろう。

  敗戦後の日本では岩波書店や朝日新聞に飼われた進歩的文化人が、しきりに「民主主義」(デモクラシー)を賛美して、その陰で平等主義を推し進めていた。平等思想で共産主義革命を実行したかったのである。また、エリート気取りの大学生は教養課程で「政治学原論」をとって、政治が分かったような気分に浸っていたのだ。しかし、彼らは古代ギリシアの偉大な哲学者アリストテレスを真剣に学んでいなかった。この万能の哲人は「デモクラシー」を堕落した政治形態と見なしていたのである。アリストテレスは『政治学(Aristotelis Politica)』で基本的「國制」の種類、つまり一人による、少数による、多数による政体を述べて考察を加えている。そして、これらの「國制」から逸脱したものを挙げている。

  僭主制が王制のそれであり、寡頭制が貴族制のそれであり、民主制が「國制」のそれである。というのは僭主制は独裁者の利益を目標とする独裁制であり、寡頭制は富裕者の利益を目標とするものであり、民主制は貧困者の利益を目標とするものである。(アリストテレス 『政治学』第三巻第七章40 山本光雄訳 岩波文庫 1279b)

  アリストテレスは「民主制(δημοκρατια/dhmokratia)」を「多数の貧民による支配」と考えていたのである。日本人が礼賛していた「民主主義」など古代ギリシアの知識人からすれば、「欲の皮が張った愚民」による代議政体としか思えない。では、アリストテレスが考えていた「正しい」多数者による政体とは何だったのか。日本語では何の事やら分からぬ「國制」と和訳されているギリシア語は、原文では「ポリティア(πολιτεια/politeia)」である。つまり立憲民衆政治(constitutional democracy)と訳してみた方がいいかもしれない。民衆の欲望または意思ではなく、「法の支配」による多数者の政治を意味している。アリストテレスは人間の意見や要望は気まぐれで恣意的なので、「法」によって支配されねばならないと考えていた。日本ではマスコミの御用学者や無責任な評論家が、「民意」だ「庶民の感覚」だとか言って「輿論(よろん)」をしばしば煽るのは国民のためではない。左翼思考のマスコミは、一般国民など中学生並みの頭しか持たない「愚民」とみなしているから、いいように操れると考えている。彼らにとって皇室がある立憲君主制を破壊するには、さもしい根性を持つ民衆政体の方が便利だからであろう。いまでは信じられないだろうが、赤いマスコミ人は、民衆革命を実現してソ連軍が日本に侵攻してくれるのを、心待ちにしていたのである。

北欧でしか機能しないデモクラシー

  民衆政治とはイングランド、ドイツ、オランダ、デンマーク、スウェーデンなど北欧諸国でしか機能しない。これらに共通しているのは、ゲルマン民族またはノルマン民族のヴァイキングといった戦士が作った国家であることだ。王国の政治(まつりごと)は支配者に委託したまま、その政策に盲従することはしない。国王は存在するが、それは高貴な血統を誇る総大将であり、戦争において最高司令官を務めることが主要な役目となる。もし、平時に王が独裁権をふるって専制君主になるならば、腕力に訴えても戦士たる部下が謀反を起こす。ドイツ人のように北方民族は、自分たちの国家と実感できる独立小国を好む。戦士国民から遠ざかった皇帝による大帝国よりも、国王は貴族戦士のなかまから推戴された棟梁といった存在で、将兵からの人気者であることが望ましい。グスタフ・フーバー(Gustav Faber)によると、

  我が強く、自由な考え方をするノルマン人は服従しようとしなかった。彼らはみな、現代では「指導性」と呼ばれるものに対する特許をもっていると信じていた。誰もが自分の王であった。(グスタフ・ファーバー 『ノルマン民族の秘密』 岡淳・戸叶勝也 訳 佑学社 1977年 p.44)
 
  民衆政をとる民族が王国の命運を決めるときは、祖国に義務と権利を有する将兵がその意思を公の場で表明できる。戦場では皆平等に恐怖と直面し、流血の惨事を顧みず命懸けで戦うからである。自由のためなら命を賭ける覚悟がそれぞれの戦士にある。王国の将来は自分やその家族、氏族の運命と直結しているのだ。それゆえノルマン人は独立不羈の精神が旺盛にも拘わらず、厳格な部隊を編成できたし、勇猛果敢に戦えたのである。自分が家族と王国の為に闘っている事を実感できたので、君主制であってもデモクラシーを自慢できたのであろう。

  北欧民族の戦士はそれぞれが兵卒として王に従うし、場合によっては部下を率いる武将になる資質をもつ。軍隊の指揮官はしばしば自ら決断を下すが、場合によっては部下の意見を聞き判断することもある。剣をもつ戦士国民はそれぞれが家族の主(あるじ)であるから、「親方日の丸」といった雇われ人根性で生きていないのだ。イギリス人にとって自宅は城であり、国王陛下でさえもその家に入るときは、その主の許可を取らねばならぬ。民衆政の代表たるイングランドでは、独立する国民が服従しているのである。善き國制が機能するためには構成員の質が問題なのである。アリストテレスが述べているように、

「支配された者でなければ善き支配者たることは出来ない」という言葉も実際真実である。善き国民は支配されることも支配することも知り、且つ出来なければならない。そうしてそれが国民の德である、すなわち、自由人の支配をその両面において知ることが。 (『政治学』第三巻 第四章 1277b 10)

  明治維新が成功したのは、武士が主導権を握って日本の独立を実現したからである。農民や商人が主体となって天下の政治(まつりごと)を行ったのではない。庶民は武士を尊敬して新政府に従順であったし、明治天皇は維新の元勲を信頼して政治・軍事を任せていたのである。国家の命運を背負った武士は自ら責任と義務を自覚し、国民の為に政治家として奔走したのである。日本は立憲君主(皇室)と士族と、庶民が協調して政治を行う、混淆政体(mixed constitution)の国家である。

  デモクラシーなどは日本人の体質に合わない。国家意識を持たない農民・商人がその代弁者を入れ札で選んだところで、誰も信用しないし尊敬もないだろう。代議士だって世襲の武家から選出されたエリートではないから、国庫から税金を鷲づかみにすることが目的である。国家の名誉などは士族の趣味であって、平民には何の値打ちもない。官僚は支那人ですらうんざりする「科挙」で登用された小役人だ。公共心や道義心などは科目にない。官僚が公金横領したって、その子や孫に自分の生き恥が継承されるわけでもない。辞任すればお咎め無し。また、裁判官を国民審査で選ぶなんて、月で兎を探すようなもので、実感が沸かないから日本人には無駄。遠山の金さんを江戸の庶民が選んだことがあったのか?

  何回選挙を繰り返したって、日本の政治は良くならないし、政界再編をしたって新聞が儲かるだけで、国民には損ばかり回ってくるだけだろう。かつて日本は武士の国だったのに、敗戦で商人(あきんど)の国になってしまった。国防軍が無いのに国家の独立や毅然たる外交など無理な注文である。国家の名誉を刀で守る気概のない町人に自由や矜持(きょうじ)が無いのは当然である。我々が唯一誇りに思えるのは皇室である。天皇陛下を民衆が人気投票で選んだのではないからだ。民衆にとって大切なのは自分たちで選んだ制度ではなく、歴史の偶然から生まれた武家社会であり、記憶を超えた古来からの神聖な皇室伝統である。日本の政治が良くなるのは、刀を持った国民が主体となる統治形態に変わったときであろう。
  


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