選挙の現実は厳しい
自民党の柿沢未途(かきざわ・みと)が公職選挙法違反で辞職したので、四月に東京15区では衆議院の補欠選挙が行われることになった。そこで、まだ議員を出していない日本保守党から、飯山陽(いいやま・あかり)博士が出馬することになったという。ただ、どこまで彼女が得票数を伸ばせるのか、期待と不安が入り交じっている。というのも、新人の飯山氏には地盤や看板が無いからだ。しかも、自民党がどんな候補(隠し球)を用意しているのかも判らない。公明党の動きだって不明だ。
選挙には莫大な費用がかかるのは誰だって解っている。ただ、お金だけじゃなく、現地での知名度や人脈も選挙の行方を左右するから、それが無いのは本当に致命的だ。それゆえ、“落下傘候補”の飯山氏にとっては、かなり厳しい戦いになるはず。いくらベストセラーの知識人とはいえ、その「人気度」は中東問題に関心がある読書人やYouTubeの視聴者に限られている。また、頼りとなる「支持者」といっても、全国に散らばっているから、インターネット上での人気と実際の支持率には大きなギャップがある。江東区に5千人とか1万人のファンが集中しているなら別だが、投票所に赴く有権者の大半は、言論界に詳しくない普通の国民だ。手元の情報源といえば、もっぱらテレビと新聞の偏向報道くらい。日テレの「ミヤネ屋」が、飯山氏を取り上げ、彼女の思想や経歴、過去の言論を特集することはないだろう。
注目すべきは、金銭スキャンダルで揺れる自民党が、東京15区に誰を擁立するかだ。公明党は学会の命令で動くだけ。もし、柿沢氏の贔屓票が加算されれば、両党の推薦候補はかなり有利となる。ただ、ここでもし、小池百合子が衆院選に参戦すれば、飯田氏の当選は絶望的だ。おそらく、商店街や利益団体の票は小池氏に流れてしまうだろう。また、「知名度」だけで投票する有権者も多いから、出馬表明の時点で小池氏の当選は確実となる。
そもそも、小池氏は自民党の有力者である二階俊博・元幹事長と昵懇の間柄だ。二人は「保守党」時代の“元同志”でもある。今でも二人の利害関係は続いており、そこへ再び実権を取り戻したい菅義偉が絡んでくるから、「ポスト岸田」も小池百合子になってしまう可能性がある。日本新党からデビューした小池氏は、細川護煕のパターンを再現するかも知れないのだ。つまり、“外様大名(無所属)”でも“将軍職(首相の座)”に就くという戦略だ。
また、岸田内閣に退屈したマスコミも大胆な女帝に飛びつくから、ひよっとしたら「小池ブーム」の再来になるかも知れない。特に、再選が危うい自民党議員は小池マジックに希望を託す。比例復活で当選した議員となれば、次の選挙で落選という恐怖が頭を横切っている。それなら、たとえ「失望の党」を作った張本人でも、老婆のサリーちゃんにすがりつく。だいたい、岸田の次が石破茂や茂木俊充、河野太郎、上川陽子じゃ、ほぼ確実に永田町から「さよなら」だ。それなら、「亡国の女神」でもいいから、「救済の女狐」に賭けた方がいい。
どの国でも、民衆政治(デモクラシー)を採用すれば、時間の違いこそあれ、確実に衆愚政治(オクロクラシー)へと転落する。古代ギリシアの哲学者は、英邁な王様によ君主政か、貴族政を中核とした混交政体(mixed constitution)を理想としていた。日本の教師が称賛する「デモクラシー(民衆の支配)」なんて、プラトンから見れば「劣者の支配(カキストクラシー(kakistocracy)」でしかない。「最悪の者(カキストス / kakistos)」が「最善の者(アリストス / aristos)」を斥けて支配者となる訳だから、国家的な自殺行為だ。
ちなみに、ギリシア人やローマ人が讃えた「高貴な人」や「卓越した人」というのは、血統による「世襲貴族」というより、「才幹(virtus)」に恵まれた優越者を指す。西歐社会では、ペリクレスやキンキナートゥスといった歴史上の偉人が為政者の模範となっている。民衆はルキウス・ブルータス(Lucius Junius Brutus)やマーカス・キケロ(Marcus Tullius Cicero)、ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)、あるいはウェリントン公爵やジョージ・ワシントンの中に「正義(iustitia)」や「思慮(prudentia)」「勇気(fortitudo)」といった徳目を感じ取り、その人物が放つ「威厳(dignitas)」に敬服する。
( ルキウス・ブルータス / マーカス・キケロ / ウェリントン公爵 / ジョージ・ワシントン)
一方、大東亜戦争に負けて米国の属州になった日本では、優秀な人材は永田町に向かわず、銭儲けが出来るビジネス界へと流れて行く。戦国時代の武将ならともかく、現在の政界で「重厚さ(gravitas)」や「尊厳(austoritas)」を備えた議員なんて虫眼鏡でも発見できまい。 むしろ、「ヴェニスの商人」みたいな連中が標準だ。あとは利権漁りの税金泥棒や華僑の買弁みたいな奴がほとんど。政治活動費は議員のポケット・マネーと化し、温泉旅行や外食の費用、あるいは愛人とのデート代になっている。カラオケ店やSMクラブで「政治の話」をすれば、それだって「政治活動の一環」と言えるから、公費を使っても一向に構わない。軍事・外政は国政の要だが、たいした票にならないという理由で、国防は自衛隊と役人へ丸投げだ。バイデン政権は日本から1.5兆円を巻き上げたが、宗主国に隷属する日本政府とくれば、何らかの追加注文で、あと数兆円を献上することになるだろう。
冷たくなった日本人の精神
敗戦後、進歩的知識人はデモクラシーを大絶賛。「国民が主権者」という妄想(or嘘)をバラ撒いていた。しかし、「主権者的国民」の多数は不満なようで、「投票したい人物が見つからない」と呟いている。確かに、自民党から出馬する人でも、「誰、この人?」と尋ねたくなるような人物がほとんど。また、そうじゃなくても、自民党の組織に属していた支部長とか、利益団体の回し者、代議士の後釜を狙う元秘書、県会議員から国会議員への昇進を目論む野心家、総務省からのた天下り官僚、特殊法人の元役員、宗教団体のメンバーといった候補者ばかりだ。“カタギ”の一般国民は、自分の職業を辞めてまで議員になろうとは思わない。衆院の小選挙区に挑む候補者だと、300万円の供託金が必要となるし、もし得票数が少なければ没収となるから、普通の国民は尻込みする。それでも、時々、憂国の士が登場し、私益にならない国益を主張する。だが、戦後教育で国家意識を喪失した国民には馬耳東風だ。駅前で熱心に訴えかけても、肝心の大衆は振り向かず、虚しい声が響き渡るだけ。無名の候補者だと「知名度」を上げるだけで精一杯。落選すれば惨めな失業者になってしまうし、家族崩壊の切っ掛けになることもある。
暗殺された安倍晋三や陰謀で失脚した中川昭一を見れば判る通り、「人気者」や「ルーキー」となる政治家には、素質や能力だけではなく、その人を“偉大”に見せるオーラが必要になってくる。確かに、安倍氏や中川氏と同じタイプの世襲議員には、最初から先代の威光が附いているから選挙は比較的楽な試練となる。親からの地盤を引き継いでいるから、落選のリスクは少なく、危ない金策に走ることもない。「失言王」の麻生太郎だって、何があっても落選することはないから、「御免ね!」と笑顔で謝り、次の選挙でもトップ当選だ。
評論家は文句を垂れるが、「親の七光り」は政治家にとって貴重な財産となる。田中真紀子なんて政治手腕はおろか、人望すら全く無かったが、オヤジ譲りのダミ声と喋り方で好評を博していた。知能が低い小泉進次郎だって、曾祖父以来の地盤を受け継いでいるから、岸田内閣がどうなろうとも進次郎は安泰だ。田中派のホープであったが、ゼネコン瀆職で失脚した中村喜四郎・元建設大臣も世襲議員である。ただ、彼は父親の名前まで受け継いでいた。本名は「中村伸」というが、選挙で有利だから父親の名前「中村喜四郎」を踏襲し、オヤジの名前で当選を繰り返していた。地元のジイちゃんバアちゃんにしたら、父親でも息子でも、たいした違いは無い。投票所で「馴染みの名前」を書いて終わり。国会議員は歌舞伎役者じゃないけど、贔屓筋のお客様を大切にする点では同じである。「中村屋」が「萬屋」に変わっても、舞台の演技に変わりはない。
スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセット(José Ortega Y Gasset)は、なぜ祖国が没落したのかを考察していた。確かに、スペインは斜陽国家のままで、嘗ての栄光が復活する兆しはない。オルテガは傑出した政治指導者が現れない原因を分析し、次のように述べていた。世間の人々はよく「今日のスペインには人物がいない」と愚痴をこぼす。だが、スペインには本当に偉大な「人物」が居ないのか? なるほど、スペインには長い間、ビスマルク(Otto von Bismarck)やカブール(Camillo Benso Cavour)に匹敵する政治家は現れなかった。
しかし、民衆が求める偉大な人はオルテガの同世代にも居たはずで、「人物の不在」は本人ではなく民衆の側に原因があった。オルテガによれば、「人物」というのは、「当人が持っている資質にあるのではなく、民衆や、集団や、大衆がある種の選ばれた人に与えるものである」という。(「無脊椎のスペイン」『オルテガ著作集』第2巻、桑名一博訳、白水社、1969年、p.311.)つまり、「人物らしさ」は、彼の人格にではなく、その周囲にあるそうだ。これは「集団的表象に由来するもので、その人物を取り巻く神秘的な光輪、感情的な後光」であるという。民衆はそのような人たちを信じ称賛する。そして、これに対する信仰や尊敬が平凡な人格の周りに集積し、皆の前に現れていたのだ。
確かに、地元の有権者や著名な財界人、大学教授やジャーナリストが、若き新人を「一廉の人物」と評すれば、巷の庶民は“何となく”その人が偉く見えてくるし、“まとも”な事を言っただけでも、「やはり、あの人は違うねぇ~」と感心する。「クールビス」しか業績のない小池百合子も大衆の熱狂から生まれた政治家の一人だ。ただし、彼女は詐欺師の度胸と才能を有していた。恩人の朝堂院大覚(松浦良右)は騙されないが、小池氏は魔性の笑顔で有力者のジジイどもを次々と籠絡する。竹村健一、細川護煕、羽田孜、二階俊博、小沢一郎、小泉純一郎と、見事なまでの“ジジイ殺し”だ。飯山氏には真似の出来ない藝当である。
自分の容姿に自信を持っているのか、小池氏は女優並みのオーラを放つ。街頭演説で大衆を前にすれば、キャスターの腕前で聴衆を魅了する。石原慎太郎から「年増の厚化粧」と馬鹿にされても逆上せず、サラリとかわして受け流す。一方、「飯田いかり」ちゃんは、イスラム学者の中田考(なかだ・こう)や東大の池内恵(いけうち・さとし)から攻撃されれば、即座に反撃する。学会から干されても降参しないし、YouTuberとなって闘うから筋金入りだ。
小池氏はイメージの重要性を解っている。烏合の衆にとって、「公約の履行」なんてどうでもいい。一般人は小池氏の服装や表情の方に興味を示す。政治に疎い大衆は、行政と立法が自分の生活に結びつくとは思わない。華やかな都知事を目に出来れば、それで満足だ。百合子女王が、銀座のママでも都庁のババでも構わない。
飯山氏なら厄介な移民問題、特にクルド人やトルコ人、アラブ人の流入に関する規制に本腰を入れると思うが、一般国民は移民や難民問題に興味は無いから、彼女の主張は「糠に釘」という結果になる。小池氏も治安維持には一言ありそうだが、有効的な対策は考えて居ないだろう。むしろ、外国人の定住に力を入れそうだ。昔、小池氏は「トルコ嬢」や「トルコ風呂」といった名称の廃止に尽力し、在日トルコ人の悩みに応えたことがある。もし、小池氏のパトロン企業が低賃金労働者を欲すれば、彼女は掌返しで移民賛成派に回るだろう。ちなみに、当時、特殊浴場の業界が新たな名称を公募したところ、貿易会社の石田誠一さんが提案した「ソープランド」に決まった。小池氏は鷹のように勘が鋭く、世間の動向を読む感覚に優れている。
脱線したので話を戻す。古代ギリシアと現代日本の共通点は、民衆の心が冷めていることだ。オルテガによれば、「指導的な人物の社会的価値は、大衆の持つ情熱の度合い」によって決まるそうだ。(上掲書p.313.) となれば、ナポレオン・ボナパルトでもアドルフ・ヒトラーでも、大衆の熱狂で“のし上がった”ことになる。学校の教科書だと、独裁者の演説によって大衆が熱狂したことになっているが、実際は大衆の情熱がカリスマ的指導者を生み出したのかも知れない。
フランス人は革命のスローガンに感動し、ロシア遠征で散々な目に遭ってもナポレオンを愛した。そして、ギロチンで貴族の首が飛べば、その流血にも興奮していたからゾッとする。ヴェルサイユ条約で屈辱を嘗めたドイツ人は、復讐に燃えてナショナリズムの権化と化した。ユダヤ人の害悪を取り上げ、民衆の憎しみを煽った伍長は、ウォール街の支援を受けて独裁者となった。米国でもヒトラーは「話題の人」となり、有名な『Time』誌はヒトラー総統のポートレイトを表紙に用い、1938年の「Man of the Year」にしていた。戦後、ユダヤ人の強力な政治プロパガンダが吹き荒れたから、ヒトラーは「悪魔の化身」になってしまったが、当時のドイツ国民からは圧倒的な支持を得ていた。
日本は占領軍が支配する前から、相当“大衆化”が社会であった。日本人は鰯の群れと同じで、両隣の動きに合わせて泳ぐ。時代の潮流に敏感だから、空気を読めない奴は“のけ者”だ。しかも、熱しやすくて冷めやすい。そして、嫉妬心も強いから、秀でた者が出てくると引きずり下ろしたくなる。皇室のメリットは、嫉妬心の拡散とその鎮火にある。権勢を誇る為政者が、いくら出世しても真の支配者にはなれない。ユーラシア大陸とは違っており、主権を持った終身独裁官なんて無理。所詮、日本の天下人は「平民のなかのプリンチェプス(第一人者)」に過ぎず、どんなに頑張っても天皇陛下にはなれない。
話を戻す。日本の民衆は政界に「逸材」がいないと嘆く。デモクラシーを疑うオルテガによれば、民衆には優れた者に対する低俗な恨みがあるという。大衆は優れた人物に対しての熱狂と社会的献身を悉く拒絶する。こうした事態を自ら招きながら、民衆は政界に「人物がいない」と愚痴をこぼす。岸田文雄に投票しながら、「税金が高いよねぇ~」と不満を漏らす広島県民は、自分の行動を反省しろ。
ソクラテスの時代にも豪腕の為政者はいたが、既にギリシア人の心は冷たくなっていた。人々の精神が萎縮し、神話を創造する力さえない。国家の衰退というのは、いつの時代にも起こりうる。哀しいのは、人々がもはや怪力者の背後に「神秘的な燐光」を見出すことが出来なくなっていることだ。
緊縮財政が猛威を振るった平成時代に、一般国民の生活は徐々に貧しくなった。普通の日本人は、反抗精神すら湧いてこない“無気力な群衆”と化している。ぼんやりとした不安に怯え、暗い将来しか描けない庶民は、どんな秕政でも我慢する。消費税や社会保険税が増額されても辛抱だ。抗議デモさえ無い。むしろ節約生活で耐え忍ぶ。岸田内閣が移民促進に舵を取っても沈黙だ。外人の流入に反対するわけでもない。それよりも、アジア人とは競合しない管理職に就こうと考え、より一層、受験勉強に励もうとする。こうなれば、「子孫への配慮」は消滅し、「自己犠牲の愛国心」なんかは死語となる。「今だけ、カネだけ、自分だけ」が国民の行動原理となれば、納税逃れのコスモポリタン、すなわち各国を移動する「永遠の旅人」が成功者の理想となってしまうだろう。
テレビや雑誌に招かれる政治評論家は、飯山氏の出馬を聞いて「あんんなのは当選しないよ!」と小馬鹿にするが、筆者は偉いと思う。現在の地位や職業を棄てて政界へ飛び込む訳だから、相当な覚悟があるはずだ。たとえ当選しても、直ぐに儲かるとは限らないし、様々な要求を聞いたり、何らかの団体から圧力を受ければ、全国の支持者から非難を浴び.るだろう。見ず知らずの者から「この裏切者!」と罵倒されれば腹が立つ。特殊利益団体の手先となれば、一般有権者を裏切っても平気だが、大きな期待を背負った飯山氏だと大変だ。支持者の落胆も大きい。自民党には左翼議員がウジャウジャいるから、保守派議員がいくら頑張っても無駄な場合がある。亡くなった安倍総理でも、政権を維持するために左翼議員となっていた。
チャンネル桜の水島総社長は、参政党や日本保守党にケチをつけ、偽装保守のレッテルを貼っていたが、属州の日本で政治家となれば変節漢になるのか普通だ。左翼以外の選択肢といったら「ノンポリ」くらいしかない。与党を批判する野党が碌でなしばかりとくれば、選択肢の無い選挙が現実の政治となる。若者に自民党支持者が多いのは、消極的な選択が蔓延しているからだ。普通の国民は政治に興味が無いから、「誰が議員になっても同じだ。野党はだらしないから選ばない。政策や公約なんて解らないけど、名前を聞いたことがある候補者だから自民党に入れているだけ」というのが彼らの本音だろう。
自民党に改革意識が芽生えるのは、落選議員が続出した時だけである。水島社長のように「参政党も駄目。日本保守党も偽物」と言えば、残る選択肢は自民党だけとなる。もし、次の総選挙で自民党が多数を占めれば、岸田内閣の路線が温存され、もっと酷い左翼政策が実施されるだろう。もし、奇蹟的に飯山氏が当選すれば、自民党本部にとって衝撃となる。庶民の反抗しか自民党を変える手段は無い。デモクラシーでは民衆が民衆の命運を悲惨にする。快適な部屋でリストカットする少女みたいで恐ろしい。
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