グローバリストの奴隷育成

  文部科学省の中央教育審議会で子供に英語教育を施す環境作りを議論しているそうだ。(『日本の議論』「英語」は本当に必要なのか / 産経新聞<電子版> 2014年12月20日) 平成28年度にも改定される新学習指導要領では、小学生高学年から英語が科目として導入されるんだって。高校生には英語で討論や交渉力を高めるような教育方針にするという。まったく役人ってのは、どうして余計なことだけでなく、邪魔な改定をするのだろう? 小学生に英語教育など不必要だし、他の教科の時間を削るから有害である。どうせ現場の教師はてんてこまいになって、やる気のない子供は無理強いされてふくれっ面するだけだ。多少興味を示す子供だって、たかが数時間の授業だから挨拶程度でおしまい。すぐペラペラ喋れると期待した子供は授業に失望するだろう。かくして英語の授業はお遊戯の時間となって、子供の学力はみるみる低下するだけ。したり顔のお役人様にいい英語を教えましょう。
Bloody fool, arsehole ! (アホんだら)

  文部官僚や学校教師は立場上の損得勘定をしているから脇に寄せといて、肝心の子供はどのような意見をもっているのか。ベネッセが6200人にアンケートした調査によれば、中高校生の90パーセントが仕事で英語を使うようになる、と予測していることが分かった。テレビや雑誌、学校などで英語の必要性が宣伝されているから当然だろう。しかし、「自分自身が英語を使うイメージがあるか」との問いに対しては、中学生44パーセント、高校生46パーセントが「ほとんどない」と答えたそうだ。具体的な仕事に就いていない生徒に、切迫した現実的必要性はないだろう。

  ところが、英語教育を推進したいのは財界だ。経団連からやって来た三宅龍哉委員は、海外に社員を派遣するときに企業が英語教育をせねばならぬ、と不満の意見を述べた。要は企業が英語教育費を負担することになるから、学校の方(税立施設)で費用と時間を持ってくれ、と要求しているのだ。虫のいい提案だろう。

  もっとけしからんのは、元入試センター教授の小野博・福岡大学客員教授だ。小野氏は「社会情勢の変化により日本企業のアジア進出が更に拡大したり、逆に移民を受け入れるなど、今後日本社会は変化を余儀なくされる可能性が高い。英語は必ず必要になる」と断言したそうだ。こういう馬鹿が教授になっているのだから、いかに大学が堕落しているか分かるだろう。イギリス人が日本に移住してくるわけがなく、おもに英語圏のアジア人を想定しているのだろう。たとえば、フィリピン人のためにどうして我が国の子供が英語を勉強せねばならぬのか。フィリピン人が移民せぬよう防ぐことの方がよっぽど重要である。「社会情勢の変化」という“まやかし”の言葉を用いるところなど、小野氏には如何にも詐欺師的匂いがする。まるで彼は国境を破壊してアジア人を引き入れようとするグローバリストの手先みたいだ。

  小野氏のような腰巾着を登用する財界と役人は、日本人労働者の生活水準をアジア人並(つまり奴隷状態)に下げて、低賃金でこき使いたいだけだろう。そのために小学生から低賃金労働者にすべく、税金を使って調教しようとする肚は見え透いている。国際企業にとりアジアはリスクが高い。社会インフラが貧弱だったり、政情不安で暴動を気にせねばならない。せっかくの投資がパーになったら大変だ。安全で便利な日本で製品を作りたい。日本にインドやシナ、フィリピンから安い労働者を輸入して、利益を最大限まで上げたい。その時、日本人労働者がアジア人と共同して作業できるために、共通語たる簡単な英語が必要なだけだろう。その英語だって簡単な単語を並べて、お互いに推理しながらの意思疎通だ。

  じゃあ聞くが、英語を社員に強要する社長や重役たちは本当に英語で会話しているのか? そんなに英語力が重要なら、英米の有能人物を雇えばよいだろう。そんなこと言ったらお偉方は沈黙。つまり、自分たちは“日本人社員”に向かって、“日本語”で言いたい放題の指図をしたいが、社員どもは雑談でさえ英語を使えと命令するのだ。ユニクロや楽天の社員はどう思っているのだろうか? 日本語では傲慢な態度の重役らは、英米の白人社員の前だと、そのお粗末な英語を披露せねばならぬから、態度が急変して作り笑顔になることがよくある。彼らは同期の重役仲間とは、日本語で会話しながら“のびのびと”ゴルフを楽しむ。ゴルフ場が会議室。英語で雑談などしない。二極分化している日本では、上流階級の子弟は、進学校で英才教育を受けながら日本語で会話をし、低能教育しか受けていない低賃金労働者は、社会の底辺から抜け出せぬ人生を送り、職場ではブロークン英語を強要される仕組みが出来上がる。

怨みのこもった英語教育熱

  日本人が「英語だ、英会話だ」と騒ぐ原因は、多くの国民に学校での英語教育に対する怨みがあるからだろう。十年間くらい勉強したのに、イギリス人やアメリカ人の前でちっとも流暢に喋れないどころか、外人の話を聴き取ることすらできない。そうした若者が親になったら、自分の子供だけは違った教育で英語を流暢に話せるようにさせたい、などと決意して欧米系のインターナショナル学校に入れたりするのだ。勉強が出来なかった親に限って、お金で環境さえ整えれば我が子は自分と違った秀才になると思っていやがる。ばぁーか。蛙の子はカエルだ。日本では英語が喋れるくらいで、自慢になり仕事がもらえる。日テレで英語を披露していた関根麻里という藝人(何の藝かな?)は、米国なら単なる小娘だからテレビに出られない。オヤジの関根勤のほうがよっぽど外国で通用する。だってカマキリ姿でギャグをする藝人の方がアメリカ人にとって面白い。(若きラビット関根の十八番。ただし娘の番組は一度しか観ていないので詳しく語れない。ゴメンなさい。) つまり、子供にはまづ中身のある教育を施し、立派な日本人に育てることが優先事項である。

  元NHKワシントン特派員だった日高義樹の英語なんて酷かった。テレビ東京のレギュラー番組で、ヘンリー・キッシンジャーにインタヴューしたとき、日高氏は、たんに自分の英語を自慢したいがために、通訳を附けずに対談していた。もともと教養がない日高氏が、不慣れな英語を使って鋭い質問など出来るはずがない。台本通りの質問を得意げに吐いていたから、視聴者はつまらないし、どうでもよくなってシラケてしまう。日高のアホは英語より先に政治や歴史を勉強しろ。むかしソニーが輝いていた頃、盛田昭夫会長の話は傾聴に値するものだった。彼の英語は拙(つたな)くても、思わず聞きたくなるようなモノだった。盛田氏の個人的魅力があったからかも知れないが、彼は米国で信念と情熱を込めて中身のある議論を交わしていたのだ。対話しているアメリカ人は、極東アジアから来た英語を喋る九官鳥ではなく、背骨の通った日本の国士を相手にしていたのである。

  つい最近、エアー・バッグ製造のタカタが、缺陷(けっかん)製品のリコール問題で社長が米国の公聴会に召喚され弁明していた。しかし、彼の英語はどちらかと言えば下手で、筆者は大企業の社長でもこの程度かと思った。(詳しく言えば、話す英語にリズムや強弱がないのだ) 大切なのは弁明の中身であり、誠意を示す表現なり態度である。見え透いた嘘を流暢な英語で語っても、アメリカ人は感心しないのだ。個人的魅力がない日本人がいくら英語を喋っても、そのへんのパンク野郎か乞食と同じだろう。日本人は人格形成を蔑ろにして、簡単な英語で空虚な会話を習得しようとしている。せっかく英語を習得したのに、アメリカ人から「へぇー、英語上手ね。あんた香港からの支那人?」て尋ねられたら、日本人は「何を無礼者」と怒るだろう。語学より大切なことがあるのだ。

英語学習より英国史が先

  数学教育についても言いたいことがあるが、今回は語学教育に限って述べたい。日本人が英語を勉強するときには、何らかの目的があってのことだろう。子供はいったい英語で何がしたいのかがはっきりしないまま、学校で英語を詰め込まれるのだから、英語嫌いになって当然だ。日本の公教育は子供に勉強が嫌いになるようプログラムされている。「そんなこととないぞ。こっちとら、一生懸命頑張ってるんだ」と教師は反論するだろう。でも、スクールがギリシア語の「スコラ(σχλη)」から由来することは周知の通り。つまりギリシア人は日常の雑用や仕事を奴隷にやらせて暇だから、みんなで集まって宇宙や地球の構造や摂理を探求するといった趣味に興じていたのだ。だから、幾何学や哲学、論理学といった学問をあれこれ討論しても、定期テストや入試なんか持ち出さなかった。もちろん最低限の基礎知識は必要だ。まったくの素人では議論にならない。ただ、船大工なら親方が新入り職人をテストすることはあっても、プラトンやソクラテスが哲学の議論で仲間に学期末試験なんて課さない。謂わば「オタク族」の集まりにそんなの要らないのだ。しかし、現在の学校では、子供を将来の労働者にすべく、効率的に職業訓練を施したいから、実力試験を課して達成度を測りたいのである。食肉にされるブロイラーが餌と抗生物質で効率的に飼育されるのと同じ要領。家庭で日本語を話している小学生や中学生が、いきなり外国語を強要され、試験でランクづけされたあげく、もっと勉強しろと命令されたら楽しいはずがない。一週間にたった数時間の授業で文法(syntax/grammar)や発音が全く違う言語を習得するなど無理。苦痛のみが増幅するだけだ。一方、ヨーロッパ人にとって英語は姉妹語だから簡単(gravy)である。

chesterton 1  ここで、英国の有名な偉人ギルバート・K.・チェスタトン(Gilbert Keith Chesterton)を紹介したい。筆者も大好きなイギリス人批評家で、日本でも人気の高い碩学の知識人である。チェスタトンは『デイリー・ニューズ』紙に『歴史VS.歴史家』という文章を掲載した。若いときに彼は、「学校に通っている児童には歴史のみを教えるべし」と喝破した。(G.K.Chesterton, History Versus the Historians, Daily News, 25 July, 1908, in Lunacy and Letters, ed. by Dorothy Collins, Sheed & Ward, London, 1958, pp.128-129) チェスタトンが暴論に思えるような意見を述べたのは、当時の古典科目ではラテン語の習得は必修であったからだ。そしてラテン語の教授方法に苦言を呈したのである。「少年は単にラテン語を学ぶだけではラテン語の重要性は分からぬ。しかし、ラテン人の歴史を学ぶことで、それが分かるであろう。」とチェスタトンは提案したのだ。(ラテン人とはローマ人を指す。)

  さすがチェスタトンの炯眼(けいがん)は鋭い。彼が言うには、アウステルリッツ(Austerlit)という地名を地理の授業だけで覚えることはナンセンスだ。単なる計算を学ぶ算数の授業だって同じこと。しかし、フランス皇帝ナポレオン1世が、アウステルリッツでオーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)とロシア皇帝アレクサンドル1世を相手に干戈(かんか)を交えた一大決戦(Bataille d'Austerlitz)となれば話が違う。子供だって大物武将三人が睨み合った三帝会戦(Dreikaiserschlacht)なら、教師の話を手に汗握って聞き入るだろう。日本の子供も桶狭間の戦いや川中島の合戦の話は面白い。弱小藩の織田信長が“海道一の弓取り”今川義元の首をとった逆転劇はスリル満載。智将の上杉謙信と猛将の武田信玄がぶつかった戦の講談は大人だって楽しい。砲兵出身の名将ナポレオンが計算をしたり、地図を見ながら策を練る姿を聞けば、子供たちも地理と算数に興味が沸くだろう。

  チェスタトンは一件無味乾燥な科目でも、その背景を教えてもらえば、子供が“知的好奇心(intellectual curiosity)”が芽生えることを指摘しているのだ。幾何学が嫌いな生徒でも、十字軍のロマンティクな物語やサラセン人の世界を知れば、そのへんてこな数字の羅列に興味を示すかも知れない。(ギリシアの「幾何学Algebra」は中東アジアを経由して西洋に導入されたから。) 英語では「何が何だか分からぬ(It's Greek to me.)」と表現して、ギリシア語などイギリス人には「ちんぷんかんぷん」だろうが、ギリシア人の文化藝術を知れば、その難解な言語を学びたくなる。チェスタトンは、「歴史はすべての学問を、たとえ人類学でも人間臭くする」と言う。「人類学」を人間に親しみのある学問にするとは、いかにもチェスタトンらしいヒューモアだ。

  日本人が外国語習得について考えてみれば、おかしな事に気づくだろう。朝鮮を統治していたのに朝鮮語を喋れる半島在住の日本人(内地人)がほとんどいなかった。朝鮮総督府の役人でさえ、朝鮮語を学ぼうとする者が滅多にいなかったのだ。理由は簡単。馬鹿らしいから。朝鮮人なんて不潔で下劣な民族の言葉をどうして一流国の日本人が学ぶ必要があるのか。初めて見る糞尿だらけの極貧国に、日本人が憧れるような文化はない。朝鮮に渡った日本の知識人だって、儒教を朝鮮人から学ぼうとは思わなかった。小便さえ自分でしなかった両班の姿を見れば笑ってしまうだろう。日本人にはアカンタレと乞食が何を話そうが興味ない。ロシア語なら陸軍将兵も必要を感じたから学ぶ者がいたし、ドイツ語は尊敬するドイツ陸軍とドイツ文化の言葉だから、強制されなくても日本人は進んで学んだのである。現在、支那語に人気がないのは、支那人を見れは納得できる。だって、支那人と話して嬉しいのか?

  我々日本人が英語を学ぶときは、まづ英国史を勉強すべきだ。特殊な職業を目指す子共は別だが、語学能力を本業とせぬ一般の日本人は、イギリス人が如何なる歴史を送ったのか、どんな功績を残したのか、彼らはなぜ大帝国を築くことが出来たのか、などを知るべきだ。そして興味をそそられた者が、イギリス人を自分で理解するために英語を専攻すべきだ。大学入試のためだけの英語とは違い、そこにはイギリス人が感じた事を彼らの言葉で自分も感じることができる喜びがある。こうした語学勉強なら一生続けられるだろう。「ハロー、レッツ・スピーク・イングリッシュ」なんて謳う幼児英会話教室は要らない。



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