容姿と能力の分別

    世界中の人間は千差万別だからそれぞれ違う。人間は皆平等に創られたというのは、透明人間は皆平等と言うのと同じ。10億年前のホモサピエンスを想像して「人権」や「人類みな兄弟」と教えている教師は、世間に出れは「潰しのきかない」ろくでなし、か大きな子供。親方日の丸の公務員が「男女平等」「能力主義」と言うのを商売人が聞けば、「役人には倒産の心配がないからね」と侮蔑のこもった笑いがこぼれてしまう。

  努力して習得できる能力(ability)と天賦の才(gift)があるように、容姿にだって違いがある。量(quantity)と質(quality)がそうである。体重を減らしたり、筋肉を増強することは努力で何とかなる。しかし、人種や容貌は生来の質であるから、神様が不平等に采配しているのだ。これを承知できないブスがフェミニストになったりする。

  この理由はなかなか言い辛いから、公で口にしない方がいい。醜女(しこめ)は在学中に男から誘われないから、勉強する時間がたくさんある。もっとも、物理や数学を勉強してくれれば、かなり社会に貢献するのだが、もともと凡庸だったりするので文系を選んだりする。ブスに生まれた私怨(resentment)が彼女らを女性学や政治学に向かわせてしまうのだ。(くれぐれも田嶋陽子を想像しないでもらいたい。) 学問への情熱ではなく、不美人を蔑ろにする社会への復讐心をバネに、大学院まで進んでしまうから厄介である。「女性学」というつまらぬ学位をとったとて世間で通用しないから、精神病患者収容施設である大学に就職するのだ。

  こうした醜女教授がさらに無邪気なブス学生を手なずけて弟子にすると、不動の学界ピラミッドが形成されるのである。ここからスピン・オフでフェミニスト官僚が役所と政府に浸透するのは見ての通り。大勢の男どもが競って美人学生に言い寄る光景を横目で見ながら、深夜の図書館で公務員試験勉強をするブスの怨みは恐ろしい。ついでに言うと、ルサンチマン(resentment)という言葉は、ある感情が何度も繰り返し現れることを意味している。男への敵意と美人への嫉妬がブスの孤独な心に何度も沸き上がってくる。押さえれば更に圧力が高まり、反動が大きくなって制禦不能となる。だから、十年二十年、いや生涯、男社会の転覆打倒に精魂を傾けることが出来るのだ。


渡る世間は不平等

  女は男と同様に能力で評価されねばならぬのか。美人が下着姿でモデルをやって大金を稼ぐこともあれば、ブスが工場で下着を縫っても基本給だけしかもらえない場合だってある。魅力的だから若くして結婚ができ、子供を産んで幸せな専業主婦を敵視するのは、子宮が萎んでも乳腺が枯れても独身のフェミニストくらいなものだ。フェミニストだって、いつか自分にも素敵な殿方が現れると妄想するが、気づけば40年が経ってしまったケースがよくある。預言者モーゼは同胞を率いて40年間砂漠を放浪したがシオン(約束の地)に着いた。しかし、フェミニストが率いるブス旅団は人生の荒んだ砂漠を永遠に流浪するしかない。フェミニズムの終着駅は錆び付いた無人駅の如し。井上陽水的に言えば、雨が降ってるのに『傘がない』、吹雪が荒れる『氷の世界』に一人で住んでいるようなもの。若い醜女はそれに気づかない。
  「女性差別反対!」と金切り声をあげて、「能力主義」を言い張る女には鳥肌が立つ。男が「女らしさ」を口にすればオス化したメスは「女性蔑視」だとわめき、「能力があるなら自営業を始めろ」と反論すれば、ヒステリーを起こして「ギァー」で終わり。本当に能力がある女性は叫ばない。たとえば、旅館や料亭の女将、大工棟梁の奥さん、保険の外交員のオバチャンなど。

  容姿格差はテニス界を見てみればよく分かる。日本でも有名なマリア・シャラポアは2004年のウィンブルドンで優勝したくらい実力もあったが、それ以上に目立つ美人である。しかし、実力の点から比較すれば、ヴィーナスとセレーナ・ウィリアムズ姉妹の方が実力は上である。テニスの試合では得点という実力で評価されるから誰も文句は言わないだろう。黒人姉妹の盛り上がった筋肉は男でさえ感嘆する。

  ところが、モデルの世界では実力評価の基準が消えて、主観的な基準から外見で判断される。モデル出演のギャラがまちまちだし、人気だって国や民族によって違ってくる。ランクではセレーナ・ウィリアムズの方が上で、美貌に恵まれたウージニーブシャールやダニエラ・ハンチコバの方が下だろう。日本で各人の写真集を出版したらどれが売れるか。ウィリアムズ姉妹の写真集は人気がでるとは思えない。アフリカでなら黒人男性が買い求めるだろうが、日本や欧米では難しい。シャラポワのポスターや写真集ならヒットするから出版社も喜んで投資するだろうし、スポーツ・メーカーもこぞってラケットやウェアを提供するだろう。

  選手の渾名でも違いがでてくる。「妖精」なんて「ネッシー」や「河童」と同じで、誰も見たことはない。それなのにシャラポワが来日したとき、テレビ局は彼女を「ロシアの妖精」と紹介していた。妖艶だから妖精なのか。では、ウィリアムズ姉妹を「アフリカのキング・コング」とか「アメリカのゴジラ」と呼んでいいものだろうか。とちらも創作物だからシャワポワの場合と同じ理屈だ。

  テニス・コートで黒人だから点数を減らしたり、外人だから優勝してもトロフィーを授与しないのは、不当な差別である。しかし、誰が美しくて、人気があって、礼賛されるかは、各国各人の自由なはずである。左翼が憧れる「平等社会」では、皆が醜美の区別無く暮らす世界か。能力だけが評価の基準で、両親や神様の贈り物で判断してはならぬのか。法律で皆を平等にできるとは思えない。どうしたって人の心には区別差別の気持ちが生まれてくる。全員を美男美女にできないが、全員を醜くすることなら出来る。顔に硫酸を掛けるか、鼻を削ぎ落とせば皆平等に醜くなる。あとは能力主義の世の中になるかもしれない。しかし、そんな世界に住みたい日本人は居ないだろう。

  フェミニストの中にも、美しく生まれたら素直な少女時代を過ごし、幸せな結婚をして子宝に恵まれる平凡な人生を送れたはずの者がいるだろう。鏡を見ながら世の男を怨む日々を送っても自らが不幸になるだけだ。男だって色々な趣味の奴もいるのだ。「蓼(たで)食う虫も好きすき」と言うではないか。寿命がある人生なんだから、明るく生きたらいいのにね。




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