派手な乃木さんから峻厳な乃木院長へ

  キリスト教徒のあいだでは、イエズスの福音を伝え弘めた功績をもつ聖パウロは、子供だって知っている有名な使徒である。聖パウロの名を掲げた礼拝堂や大聖堂はよく見かけるだろう。使徒パウロなくして現在のキリスト教はない。しかし、この聖パウロはもともと熱心なユダヤ教徒で、サウルという名前であった。敬虔なユダヤ教徒からすれば、イエズスなる預言者もどきを信ずる輩は、異端者で容赦してはならぬ。そこで彼はキリスト信徒らを脅迫したり、殺そうと意気込んでいた。こうした迫害の旅を続けている途中、シリアのダマスコで「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という天主の声を聞き、キリスト教徒へ回心するに至ったのである。(使徒言行録 9 : 1-9)

  聖パウロの話をしたのは、乃木希典大将にとってのダマスコとはドイツであると言いたかったからである。我々が乃木大将と聞いたら、日露戦争で203高地の激戦を指揮した第三軍の司令官か、昭和天皇をご教育した学習院の院長閣下といった姿を思い出すだろう。ところが、ドイツ留学前の乃木少将は我々のイメージとはかなり違うのだ。(宿利重一 『乃木希典』 昭和4年を参照)

  明治16年2月5日、歩兵第一聯隊長から東京鎮臺参謀長になった乃木大佐は、翌年陸軍少将に任ぜられた。かねてから洋行したいと熱望していた歩兵旅団長乃木少将は、「ドイツ国留学」という辞令を受けた。この任務は実に重大で、陸軍の期待は尋常ではなかった。陸軍の軍隊編成改革や軍人教育を西洋に学び、軍の近代化を図らねばならぬ状況にあったのである。乃木少将は約一年かん、歐洲、特にドイツで研鑽を積むことになったのだ。帝國陸軍の統括および教育を完備するための訓令を受けたもう一人は、近衛歩兵第二旅団長の川上操六・陸軍少将であった。川上少将は薩摩藩の秀才で、後の日清戦争で参謀総長として大きな功績を残した。当時の陸軍は「川上を参謀部に、乃木を教育部に」配属しようと考えていたのである。

  乃木、川上の両少将は明治20年にドイツへ渡ったのである。当時のプロイセンは普仏戦争でフランスを破り、ドイツ帝国建設という大業を成し遂げたところである。西歐諸国や我が国は、対デンマーク戦争、普奥戦争、普仏戦争に勝ち、沖天の勢いにあるドイツに刮目していたのである。新興の途にある日本人にはドイツの軍事的栄光は眩しかった。殊に乃木少将が感銘する処は尋常ではなかったという。

  ベルリンでは乃木、川上両少将は参謀本部の老将軍ヘルムート・フォン・モルトケ総長(Helmut Karl Bernhard Graf von Moltke)を訪問したのである。モルトケ元帥は既に80歳を超えていたが、なお矍鑠(かくしゃく)として英雄としての威厳を備えていた。老将軍は日本についての知識が乏しく、日本は支那に属する小国程度にしか思っていなかったのであろう。川上と乃木両少将が戦術の研究目的でドイツへ留学に来たと、と言っても微笑せざるを得なかったのである。ドイツ語を充分に理解せぬ両名だったが、その真摯な態度と真剣な目的を聴いているうちに、モルトケ将軍は心を打たれてしまった。そこで老将軍はれらの申し出を快く承諾し、フランス語が出来るデュフェー(Dufais)・参謀大尉を両少将の付属教官に付けてくれたのだ。日本側はフランス語を解する楠瀬幸彦(くすのせさちひこ)大尉がデュフェー大尉の通訳となった。

  デュフェー大尉を迎えて戦術の研究をするこことなった両少将は、純然たる学生となり、ほとんど寝食を忘れて軍事の研究と新知識の咀嚼に励んだのである。明治21年に両少将は帰朝したが、その一年間に吸収したものは陸軍に資するところが多かった。両少将が心血を傾けて起稿した意見書は敬服に値する。その中で、我々が注目したいのは乃木少将が「軍人かくあるべし」と示したかった模範である。乃木少将はドイツの地方を巡り、人情と風俗を研究することで日本の前途に資するよう努力した。また、機会ある事にドイツの名士や軍人に接し、その家庭を訪れて交遊することを怠らなかった。

  この点につき、今日の我々はドイツをはじめとする西歐世界がどれほど立派かを再確認せねばならない。大東亜戦争の前後、我が国の知識人は執拗に白人国家敵視を煽り、日本国民が英米蘭仏を憎むよう仕向けていた。共産主義者の軍人文人らがソ連を助けるため、白人植民地主義からのアジア解放戦争を宣伝して日本を対英米戦へと導いたのである。だが、我々が地球上で一番大切なのは、祖国日本であり、アジア諸国ではない。栄光ある孤立が非現実的であるならば、日本人が交流すべき相手は西歐白人であり、陰険でおぞましいアジア人ではないのだ。たとえば、支那の軍人などは匪賊やゴロツキであって、一切尊敬に値しない輩である。支那人の性格は根本的に猜疑心で固まっているし、朝鮮人の民族性は暗い歴史を通して歪んでいるのだ。張作霖はアヘン中毒者だったし、毛沢東は支那大陸で殺戮の嵐を起こし、蒋介石は臺灣で住民虐殺を行った。日本の軍人で支那軍将校に会って感動した者などいないだろう。現実を振り返れば、アジアの黄色人種には感銘を受ける人士が少なかったのに、西洋の白色人種には尊敬する偉人が多かったのである。一流の教育を受けた乃木少将が、ドイツ留学で人生と人格が変わったことは特筆大書すべき事象である。

ハイカラ乃木からバンカラ乃木へ

  ドイツで立派な紳士や軍人と邂逅したことで、乃木少将は自分がまづ模範を示さねばならぬ、と痛感したのである。

  軍紀は軍人の精神なり、一事一物、一言一行も軍人名誉の制服を着する者は、軍紀の範囲を出るを許すべけんや。・・・軍紀、戦術の教育たるや、紙上の筆記、坐上の談論を以て検定し得るべき者にあらず。(p.329)

  だらしない軍人を批判した乃木少将も、昔の自分を思えば「汗顔(かんがん)に堪へず」と述べている。乃木少将は酒盃を離さないほどの酒豪であったし、料亭の宴会では芋掘りの真似をして皆でどんちゃん騒ぎをしていたのだ。繁華街で「乃木の豪遊」は有名であった。当時は名だたる料亭で酒宴を開くことが当然であったので、事あるごとに料亭で宴会を開き、進級、着任、転任、あるいは結婚披露の口実で飲み食いしていたのである。しかも、宴会費用の半額は藝妓の費用であった。それゆえ、乃木少将は、こんな悪習は上流に位置する者が改悛して反省しなければ減らないであろう、と嘆いたのである。軍人の心得を強調する乃木少将の反省は、立ち居振る舞いのみならず服装にまで及んだのである。

  独逸国軍人がよく自ら名誉を愛重するの一例を挙げれば、将校等が居常必ずその制服を脱せざるにおいてもまた見るべし。軍人の制服はただ勤務、儀式の用のみにあらず。常に名誉の制服を着するを以てその挙止、動作、礼節のごときも、一に軍紀の範囲を脱することなし、また脱するを得べからざるなり。・・・・将校の如きは終身の永き、常に制服着用するは、その不便に堪えざるなりと。軍人の制服は名誉の服なり。名誉を捨て、放恣を好むの心を懐て自らを省みざる者にして、軍人の上流に立ち、模範を示し、部下を教育するに、又軍紀の現勢を望むを得るの理あらんや。唯に部下の模範となるべきのみならず、徳義、礼節一国社会の上流に立ちて、一般の標準とならざるべからざる将校にして、自らを軍紀の範囲内に居るを苦しんで、寸暇もこれを遁るに汲々たるが如きは、そもそもまた何事ぞや。(pp.344-345)

  明治大帝に殉じて自害した軍神とは別人とも思えるほど、若き乃木大佐は派手な服装をしていたのだ。それゆえ「ハイカラであった乃木も、洋行したためにバンカラになった」と知人の間で評判になったくらいである。後の首相になる田中義一は回想して述べている。

  ・・・乃木将軍は、若い時代は陸軍きってのハイカラであった。着物でも紬(つむぎ)のひそろで、角帯を締め、ゾロリとした風をして「あれでも軍人か」と云われたものだ。ところがドイツ留学から帰った来た将軍は、友人が心配したとは反対に、恐ろしく蛮カラになった、着物も、愛玩の煙草入れも、皆人にくれてしまって、内でも、外でも、軍服で押し通すという変わり方、それがあまりに酷いので、その理由を聞くと「感ずる処あり」と云うのみで、どうしても云わなかった。今も知人仲間の謎となっている。(p359)

  ドイツから戻ってからというもの、乃木さんが急に変わったので知人らが理由を質せば、ただ「感ずる処あり」とのみ答えるだけであった。彼らはドイツでの衝撃を知らなかったのである。当初は、半年一年くらいすれば元の乃木に戻るであろう、と冷笑する者もいたが、三年、五年、十年を経ても乃木将軍の生活は変わらなかったのである。むしろ、帰朝した頃よりも段々と厳格になったくらいである。

  乃木将軍の服装規則は厳格であった。たとえば、軍服を着ていなかったから訪問客に会わなかった、というエピソードすらあったのである。将軍は普段から軍服を着用することを怠らなかった。臺灣総督に赴任するまでは、軍服一点張りではなく、洋服を着ていたが、和服を着ることはなかった。第11師団長として赴任する時、行李(こうり)の中に二枚の新しい浴衣が入っていたが、とうとうそれを一度も用いなかった。ある時、親戚の杉民治が乃木将軍を畳の部屋に招いたときも、洋服姿であったので、不自由ではないか、と尋ねたことがある。すると将軍はもの柔らかに答えた。

  「不自由では御坐いませぬ。居常にかういふ習慣がついていますので・・・」(p.363)

  このように「乃木式生活」を実践していた乃木将軍は、常に天皇陛下の名誉ある軍人であることを肝に銘じていた。たとえば、汽車に乗るときは三等車の切符を買わず、上流の高等武官である体面を汚さぬよう必ず一等車の切符を手にしたのである。近親者で軍籍にある者に対しては、「陛下の軍人であるから、体面を汚さぬよう汽船なら一等室に、汽車でも一等か二等車に乗るよう心掛けよ。もし二等車にも乗れぬようなら旅行せぬが良かろう」と忠告した。乃木将軍は再度ヨーロッパを旅行したときにも、一流のホテルに泊まり、高級自動車に常用したのである。しかし、乃木将軍は豪勢な生活を満喫したのではなく、その私生活は質素であり、極めて倹約に努めた。学習院でも子供たちには質実剛健を教え、自らもそれを実践していたことはよく知られている通り。日露戦争で多くの将兵を死なせてしまった悲劇の将軍は、ストア派の哲学者の如き生活を送り、国家への奉仕以外の生き甲斐を持たぬ生粋の軍人になっていたのである。殉死する前に迪宮殿下(昭和天皇)がご覧になった乃木大将とは、まさに人格的回心を経た英雄であった。



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