高貴な存在が都市の基礎


    秋篠宮佳子内親王殿下が去年12月29日にご成人になられたことは、日本国民として本当に嬉しい。世間では佳子内親王殿下が可愛いとの評判がたっているそうだ。そりゃそうだろう。同感だ。神様の系譜にある皇族のかたなのだから、文字通り“神々しい”のだ。こんなに美しいプリンセスをもてたのだから、支那人や朝鮮人はさぞ日本人が羨ましいだろう。彼らの国には皇族でさえ及ばない富豪がいるが、その支配者は腐敗臭の下郎しかいないのだ。だが、粗野な支那人と下品な朝鮮人にはふさわしい。ただ我々にとって腹立たしいのは、帰化した支那人や朝鮮人などのアジア人も形式上、天皇陛下の日本国民となってしまったことである。佳子内親王殿下が彼らのプリンセスなのか? 帰化朝鮮人が「佳子さま可愛い」なんて言い出したら、気持ち悪いし、「お前らの皇族ではないぞ」と釘を刺したくなる。

  皇室が存在することを日本人は馴れてしまっているが、内親王殿下が成人されたことですら話題になるのは、考えてみれば不思議な現象だ。時間だけは貧富や身分に関係なく平等なのだから、殿下だけが特別な時間の流れをもつ訳ではない。皇統に属される貴族だから我々は嬉しいのである。京都が寂しいのは、天皇陛下がしばし留守にするだけだったのに、明治以来ずっと東京にいらしたままお戻りにならない。由緒ある寺院や歴史的建造物があるのに、京都の中心はポッカリ穴が開いたまま。せめて皇太子殿下がお住まいになっていたら、京都の国民は大喜びで「殿下萬歳」を叫ぶだろう。ゴルフ場やカラオケ・バーの坊主なんかいらない。都には高貴な人物が必須である。

  地方都市がサビれたり、片田舎が過疎化するのは、活気ある中心が存在しないからである。江戸時代は各藩にお殿様がいて、藩の財政難や天災が起こっても、藩主を中心に皆が力を合わせて克服できた。ところが、明治維新で廃藩置県や身分制度廃止により、郷土の経綸(けいりん)を司る指導層が弱体化してしまった。入れ札で選ばれた議員と月給取りの役人が、地方自治体を運営しているのだ。こんな公務員が地元の中心となって満足か? 夏祭りや町内運動会に地方議員や国会議員が招待されるが、彼らに接して胸がドキドキする庶民はいないだろう。学習院の運動会に皇太子殿下と妃殿下がいらしたら、みんな両殿下に注目するし、愛子内親王殿下が走れば、そのお姿に感動するはずだ。子供が頑張る運動会に、眩しい日光が注がれ、大きな華が咲いたようなもものである。

  巷では経済評論家や大学教授が、アベノミックスをギャアギャア議論して、公共投資を増やせ、とかデフレ対策をとか、金融緩和策だ、円安で輸出拡大だ、とか騒いでいる。仕舞いには外国人労働者を輸入せよ、とまで言い出した。竹中平蔵は一体どれだけ日本を破壊したら気が済むのか。筆者も昔は経済学を一通り学んでみたが、結局のところ後智慧の学問である、との悟りに達した。確かに、投資額と経済効果とかは計算できるが、そんなことで地方の再生化は実現しないのだ。地方議員などは、立派な市役所や大病院ができ、イオンでも出店すれば街の中心になると思っている。竹下登が「ふるさと創生論」を唱えたり、公明党が無理矢理「地域振興券」をバラ撒いてみたりしたが、地方の衰退が止まらなかった。橋や道路のインフラを作ったら、土建屋は喜ぶが、それで住民に活気が戻ったとは思えない。地方を活気づけるには、中央政府からの掴みゼニではなく、貴族と信仰が鍵なのだ。

国家は神聖

  そこでヨーロッパを参考にして考えてみよう。ユリウス・カエサルがローマ軍を率いてゲルマニアやガリアを征服した頃、今の西歐世界はどう猛な野蛮人と森くらいしかなかった。ドイツのケルン(Köln) とはローマ軍が建設した入植地である。南ドイツの方が豊かな文化遺跡があるのも、ローマ人とその後継者たる聖職者がローマ文化を持ち込み、発展させたからからである。それにオットー大帝の弟ブルーノ(Bruno)がケルンの司教になったくらい、その地は神聖ローマ帝国にとって重要であった。ヨーロッパの発展は、キリスト教会とゲルマン君主の共同作業であるから、神聖ローマ帝國はたんに世俗領主の縄張りではなく、天上の国が投影された地上の国である。だから、皇帝の秩序は天上の秩序を反映すべし、との帝國理念があった。(フェルディナント・ザイプト『図説 中世の光と影』 原書房1996年 p.29) そういえば、西ローマ帝國が衰退したときに人々が頼ったのはローマ教会であった。無秩序から信徒を守ろうとする聖職者は、使命感と行政手腕を兼ね備えていたし、何よりも民衆から尊敬されていた。ミラノでは聖アンブロシウス(Sanctus Ambrosius)が指導者になっていたくらいだ。

  ヨーロッパの都市は、教会や修道院を中核として発展し、そこに世俗君主が庇護者(パトロン)として君臨していたのである。庶民や商人が自然と集まって形成された都市など無い。まづ外敵から住民を防禦するために城塞を築くのは、騎士の棟梁たる封建君主しかできないだろう。西歐によく「何とかブルク」という地名があるのは、城壁で囲まれた都市だからである。オットー大帝が建設したマグデブルク(Magdeburg)は有名だ。そこには殉教者の聖カタリナ(Sancta Catharina Alexandrina)と帝國守護聖人の聖マウリティウス(St. Mauritius)に捧げられた大聖堂があるし、オットー大帝とその妃エドギタ(Eadgyth)の棺も安置されている。(エドギタは英国のアルフレッド大王の孫娘) 中世の頃は宗教が生活の中心だったので、都市には必ず人々が憧れる神聖なものが必要であった。だから聖人の遺骸とかキリストゆかりの槍、つまり運命の槍(Heilige Lanze)7ロンギヌスの槍(Spear of Longinus)といった伝説の宝物が、都市や教会に秘蔵されているのだ。国会議事堂で福田康夫や野田佳彦の肖像画なんて誰も見たくないだろう。魑魅魍魎の面なんか吐き気がする。(もっとも、妖怪ウォッチなら子供は見たい。) 伝説の偉人や聖人、または天使をもつことで都市の庶民はそれを誇りにしたのである。

  ヨーロッパの父たるカール大帝(Karl der Große/Charlemagne)が、息子ルートウィッヒ敬虔王の戴冠式を行ったアーヘン(Aachen/ Aix-la-Chapelle)はカロリンガ帝國の中心であった。アーヘン(別名アクス・ラ・シャペル)は温泉が出たのでローマ人が浴場を作ったことが起源で、カール大帝も冬にはそこで過ごしたという。ここにも教会が建てられ、宮廷礼拝堂も建設されたのだ。別の有名都市にランス(Rheims)が挙げられよう。そこは歴代のフランス国王が戴冠した地で、聖レミギウス(Sanctus Remigius)が、フランク王クローヴィスに洗礼を施し、聖油を塗って祝福したことは非常に有名。その聖油は天から鳩が降りてきてレミギウスに渡したという伝説があるくらいだ。歐洲各地にはこうした聖なる伝説を有する教会や修道院がたくさんある。我々日本人が訪れても感動するのは、そうした神聖な歴史と遺産に触れるからだろう。今だって美しい礼拝堂や大聖堂を見れば、当時の人々が如何に魂の救済を求めたかが分かる。たんに豪族の首領が支配するだけでは領地は繁栄しない。高貴な精神が必要だ。都市の活気は信仰心によって支えられていたのである。

  明治維新は偉大な変革であったが、地域の中心を世襲領主から選挙知事に替えたことは誤りだ。入れ札による“民意”などアイドル歌手の人気投票よりつまらない。ハコモノを造って地域新興を叫ぶオッさんやバアさんに、住民は魅力を感じない。役人が地方交付税でつくった民族博物館屋や文化会館に、県知事や県会議員がテープ・カットに訪れるが、住民は知らぬ顔で気づきもしない。でも、そこに天皇陛下か皇太子殿下、または皇族のどなたかが、ご訪問となれば人だかりができる。もし、これが壮大な神社とか緑豊かな森だったらもっと嬉しい。皇族がいらっしゃらなくても、藩主が在席することで祭祀や儀式に重厚さが加わる。福島の復興だって、もし會津藩主の松平家が存在したら、もっと再興への活気が生まれたかも知れない。役人が賠償金をいくら配っても、福島県民は税金中毒患者のままであろう。

  かりに、佳子内親王殿下がある地方都市に永住されたら、その地域はランクが上がるだろう。穢らわしいアジア人を排除し、学校などの公共施設を改善することの意義が出てくる。街に税金を投資することは、高貴な人物のためという意識が発生し、成人した子供も地元を離れることなく、郷里の誇りも生まれてくる。老人だって神聖な皇族の近くを散歩することが楽しい。江戸城周辺のジョギング老人を見れば分かるだろう。毎朝拝んだってよいし、もしかしたら皇族と偶然出会えるかも知れない。それに反して、散歩中に菅直人に出会ったらその日一日が不愉快だ。東北地方なら国民が石を投げつけるだろう。こんなゲス野郎が選挙で選ばれて、未だに税金で食っているのだ。とはいっても、皇族をそんなに増やせないから、藩主を如何に復活させるか、あるいは高貴な人物をいかに各自治体がもつか、の方が重要な課題である。街の中心には鎮守の森とか、神社、お城でなければ、真の復興は有り得ない。

  元旦の初日の出は神社や山頂で見るから素晴らしいのだ。飲み屋街かパチンコ屋で眺めたら、すがすがしくないし有り難みもない。宮城(きゅうじょう/いわゆる皇居)で皇族に拝謁する日本人ならこうした意味が分かるはずだ。日本は瑞穂の国で神洲だなぁ、と感じる幸せを大切にしたい。



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