幼年時代から英邁だった明治天皇


  明治天皇は日本史に燦然と輝くお天道様である。太陽が無いと地球上の生物は死滅するように、皇室がないと日本人は存在しない。しかし、敗戦後は日教組により天皇陛下の御聖蹟(ごせいせき)や皇室伝統について教えることは無くなってしまった。左翼教師から「皇国史観だ、軍国主義だ」と批判され、日本史を習う青年が皇室を何も知らずに卒業しててしまうのである。英国史を学ぶ生徒がイングランド国王についての知識が無いまま、卒業となったら誰だって驚愕してしまうだろう。皇室あっての我が国なのに、天皇陛下について庶民が全く無知というのは異常である。そこで明治天皇について数あるエピソードの幾つかを紹介したい。

  明治天皇御諱(いみな/実名)は睦仁(むつひと)、孝明天皇の第二の皇子であった。御生母は中山忠能(なかやまただよし)の娘、督権典侍(こうのごんすけ)中山慶子(なかやまけいこ)。孝明天皇が幼き明治天皇を祐宮(さちのみや)と名づけられた。

  ご幼少の明治天皇を物語る面白いエピソードがある。宮はご幼少の頃より馬を好まれた。ある時、関白近衛忠煕(このえただひろ)が参殿したときに、宮は「じいや馬になれ、腹ばいへ」と仰せになった。ご無理と申し上げるが、やむなく膝を折って宮を乗せられたのである。宮は「はいどうどう」と仰って遊ばれた。摂政関白を四つん這いにさせて馬乗りにしたのは、藤原氏を除いてご幼少の大帝以外にないであろう。( 山本八之烝 『嗚呼 明治大帝』 明治大帝報徳會 大正11年  p.13)

  陛下がまだ7歳の時、英照皇太后が木馬をご褒美に賜わされたところ、非常にお気に入りとなり、毎朝その木馬に乗られたそうである。四足の下に車が取り付けられた木馬に跨り、朱色の手綱をつけ、お側の稚児らに曳かせて廊下をゴロゴロと行き来していたのである。ある日、何かの弾みでその木馬が壊れてしまい、修理するのに手間が掛かってしまうこととなった。宮はしきりに木馬をせがんだが、容易に直せないから仕方ない。そこで宮がどうしてもせがむので、御局に仕える菊崎という女性(女房)が、「御馬の代わりになりましょう。いざ、菊崎の背にお召させ給え」と言うと、四つん這いになって進み出た。これを見て宮は「これは良き馬ぞ」とお笑いになりながら、ひらりと跨ったのである。

  藤崎という女性(女房) が緋色の紐を持ってきて、これを手綱とされるよう進言した。藤崎の口にくわえさせ、手綱代わりとなされた。木馬よりも興味を示された宮は、名馬「菊崎」に鞭打ってご参内されたのである。廊下の角に来ると、宮は菊崎に「馬や、ひひんと啼(な)け」と仰った。菊崎が「ひひん」と申せば、ご満足の宮であった。こうして菊崎らを局に帰らせるとき、宮は「権典侍(ごんすけ/御生母)、秣(まぐさ)をたべさせよ、秣は着物がよかろう」と仰った。ご生母慶子が「今日は間に合わぬので、明日にでも仕立てて差し上げましょう」と申したそうだ。宮は「然らば、まづこれを取らすぞ」と仰り、お菓子や大切な玩具を菊崎・藤崎に賜ったのである。両名は宮の大御心(おおみごころ)に心を動かされ、感泣したという。(秋山pp.3-5)

帝王になる御学問

  皇室の教育は我々庶民とかけ離れている。天皇陛下が一般人とは比較にならぬほど教養が深く、驚くほど学問の筋が良いのは当然かもしれない。祐宮5歳の時に手習いを始め、漢書は四書五経の素読で伏原宣諭(ふせはらのりさと)卿がご教授申し上げて、國書は中山忠能卿がご教授申し上げた。和歌の稽古は7、8歳の頃より始められた。陛下が常に和歌を詠まれたのをわれわれは知っている。しかし、平民の世界で言えば、幼稚園児から漢籍の英才教育などまず有り得ない。しかも、明治の元勲や軍人といった学問を積んだ武士に囲まれた上に、一流の知識人が御教育掛に選ばれたのである。

  明治天皇の侍講は豪華な顔ぶれが揃っていた。熊本藩士の儒者、元田永孚(もとだながさね)は朱子学の大家で有名だ。高辻修長(たかつじのぶなが)博士や権中納言・冷泉為理(れいぜんためただ)、平田篤胤の子孫である平田鐵胤(ひらたかねたね)も侍講としてご教育の任務を果たした。また、外務卿として有名な副島種臣(そえじまたねおみ)は、漢籍の知識は超一級、政界でも威信を放つ豪傑であった。こうした一流の師を重んぜられた明治天皇は、熱心に学問を積まれ、卓越した資質をもつ名君に成長なされたのである。陛下は「少しでも疑わしきことあれば、充分に御質問あって御會得の行かざるまでは捨て置き給わず何事においても徹底しないと気が済まないご性格であったので、ご政務についても同様でいらした。」( 秋山四郎 『講話資料』 大日本圖書株式會社 大正2年 p.15)

  陛下は何事にも深くご注意あそばされ、一切の政治は自らご裁可され各種の条例法規が制定された経緯をよくご記憶なされていた。ことさら明治天皇の記憶力は卓越していたのである。一方、大臣らはよく交代していたので、調査が行き届かず、政治問題などについて奏上(そうじょう)したときに、陛下からご下問されると答えに窮することがあった。ご質問は急所を突くものだったりするので、よほど調査してからでないと、大臣は陛下の御前に出られない。実に周到なご質問を給わった元老大官などでも冷や汗を流したことがあるという。( 勝原権之助編 『御德高き明治天皇』 柳澤盛栄堂 大正元年 pp.67-68) 陛下は万事筋道を通し、条理に背くことは決してお取り上げにならなかった。しかし、お心が広い陛下は一言の下にお叱りになることはなかった。

    宮のご性質は質実剛健にて、懦弱(だじゃく) を嫌われたのである。ご愛読書も、源平盛衰記、太平記、太閤記などの軍記物で、雨の夜には御学友を集めて、源平の合戦、建武の中興の御事蹟、新田貞義・楠正成の誠忠、豊臣秀吉の朝鮮征伐を語ったという。遊びは乗馬の他に相撲を好まれ、御学友と相撲を取ったりした。御体格も良かったので皆を負かしたという。(秋山 pp.15-16)

  明治天皇は新しい日本を率先して体現なされた。宮中の伝統を変革しする陛下は、軍服を召されて西洋君主のように振る舞われた。まるで剛直な武家の棟梁のようである。陛下は、まさに男らしい才幹(virtu)を発揮されたのだ。古来から朝廷、幕府、大名家に至るまで女性の権力が強いため、君徳を傷つけ御政道を乱したことがあった。明治天皇は宮中を厳格にして、女性がいっさい政道に容喙(ようかい)せぬよう定めた。帝は後宮にいるより、強者(つわもの)揃いの侍従とご一緒だった。村田新八、高島鞆之助、有地品之允、山岡鐵太郎、米田虎雄と過ごされ、元来英気盛んなご性質の天皇陛下は、更に一層英気を養ったのである。

臣下との交友

  吹き上げ御所には鳩かが多く棲んでいて、侍従らが射てそれを陛下に示したが、やがて撃ち尽くしてしまった。有地品之允(ありちしなのじょう)が御濠に群れる雁を射留めて大いに得意がり、これを献上しようとした。しかし、御濠の雁ではお咎めを受けるのではと推測した有地は、空飛ぶ雁を射留めたりと申し上げた。高島鞆之助(たかしまとものすけ)が手に取って頭部の傷口を調べると、「これは上から射られた傷なり」と高島の嘘が見破られてしまった。当惑した品之允をご覧になった陛下はお笑いになり、有地にはお咎めは無かったという。周りの者からは、「御濠に銃を放つは不埒至極なり」と責められ、品之允はしょげ返ったらしい。その後、品之允を見かけた陛下は「有地、雁はどうじゃ、射て参らせぬか」とお声を掛けられ、叱られた品之允を慰めた。君臣水魚の親しさは麗しいものである。

  習志野にて大演習があった。近衛都督陸軍大将の西郷隆盛を始め、陸軍少将篠原國幹(しのはらくにもと)や野津道貫(のづみちつら)がお供をした。明治天皇は自ら剣を翳して先頭に立たれ、馬に跨り宮城から習志野まで兵を率いたのである。大元帥陛下が抜刀して兵を率いるは世界に例がないことで、爽快なる御姿は誰もが慴伏(しょうふく)せずにはいられなかった。演習中には露営すること二晩、士卒と辛苦を共にするという陛下のお考えであった。ある夜は雨風が強く吹き、陛下の天幕が倒れてお体が濡れてしまったのである。部下の手を患わせぬためご自身で天幕を引き起こそうとなされた。別の天幕で寝ていた西郷隆盛が物音に気づいて目を覚まし、倒れた天幕へ向かい、闇を覗くとそこに陛下のお姿を発見したのである。「そこにおはしますは陛下では」と訪ねた。「いかにも朕なり、天幕倒れたれば、起さんとするなり」と仰った。西郷は驚き、早速天幕を引き起こそうとするが力が及ばず、部下を呼ぼうとした。すると陛下は「起こすな」と申しつけた。しかし、そこは従わずに部下を呼び起こして天幕を直させたのである。

陛下の傷病兵の御慰問

  西郷隆盛が下野して薩摩に帰ったら、不平士族に担がれ西南戦争が起こり、未曾有の戦乱となってしまった。激戦ゆえに死傷者多数にのぼり、官軍だけでも死者6000人に達し、それに負傷者が加わった。陛下は陸軍臨時病院を設けさせ、傷病兵を療養させたのである。陛下は患者らを御慰問された。身体が自由になる者は寝台を降りて、右側に立って敬礼をし、体が動かぬ者は寝台の上から敬礼をした。寝たきりの者は目礼をして敬礼の代わりとした。

  ある患者は寝台の上に坐っていたが、敬礼しようとした際、激痛を感じ眉をしかめた。陛下はこれを御覧になり、その部屋を出たあと、院長の石黒忠悳・一等軍医に対し、朕に敬礼するために苦痛を増すことがあってはならぬ、朕がここに臨む趣意に背くから、次の部屋の患者にはあらかじめよく伝えておくよう命じた。このお言葉を頂いた石黒院長とお供の木戸孝允や側近の者は皆感涙にむせんだ。石黒は次室の入口で、そのお言葉を患者一同に伝えようとしたが、感激のあまり声が出ない。ようやく伝達すると、これを聞いた傷病兵らも皆感泣したという。(渡邊幾治郎 『明治天皇の聖德 軍事』 千倉書房 昭和16年 pp.99-100) 皆このような陛下の御為ならは命も惜しくはないと思ったそうである。

  日清戦争の時、陛下は常に戦地の将兵を気になされており、戦況の報告だと深夜といえども起床なされ、臣下を召されて子細に軍の行動をお調べになった。常に戦地におられるかの如く、御服は何時も軍服を召されていたのである。同じ軍服をずっとお召しになっていたので、服の裏が破れてしまった。侍従の日野西資博が新しい服と交換しては、と申し上げても中々お許しにならない。陛下は「まだよい、今夜脱いでおく故、修繕しておけ」と仰る。そこで日野西が不器用な手つきで針をもって繕ったが、むろん上手く縫えていない。翌日陛下はこれをお召しになって「日野西、御前なかなか裁縫がうまい」とお褒めの言葉を下さる。

  陛下はいつもご自分が一兵卒であるかのように心がけていらした。戦場で命懸けの激戦に堪える将兵を思ってのことである。侍臣が陛下を気遣って長椅子を御座所に備え付けようとお伺いを申し上げると、陛下は「それは何だ」とお尋ねになる。「これはご休息あそばされる安楽椅子でございます」と答えた。すると陛下は「戦地に安楽椅子が備え付けてあるのか」とお尋ねになった。このお言葉ひとつで安楽椅子は御座所に備えられることはなかった。( 渡邊 上掲書 pp.200-201)

  ある演習の時の出来事である。陛下は丘陵の下を過ぎようとしたとき、一兵卒が苦しそうに息をして路傍に倒れていた。そこで陛下は侍従武官を呼び、「急病と見ゆ、侍医に診察させよ」と仰った。侍従武官はその兵卒を抱き起こし、侍医と共に介護したのである。その後、侍従武官はその助けた兵に陛下のお心使いを伝えたところ、兵は「かく卑しき一兵卒の身をもって天皇陛下の御高恩に浴す。今は死すとも遺憾なし」と言い、感泣していたのである。

我が軍の兵に涙

明治34年に仙台地方で大演習が行われたときの話である。天皇陛下は岡澤侍従武官長に命じて入隊年次の異なる兵卒二人を呼び出した。陛下の御前に新潟県日越村出身の長谷川二四郎・一等兵と同県有田村出身の
高橋久之助・二等兵か現れた。陛下は両名にいろいろとご質問された。

  「父母兄弟のことを思い、故郷を想う情に堪えないか」
  「故郷を想い退営したいと思ったことはないのか」
  「連日の演習に疲れて兵役の苦労に泣くことはないのか」

とお尋ねになり、上手く答えずとも良い、正直に思ったままを申すよう命じたのである。この木訥な兵卒らは、この御下問に答えるべく口を開いた。

  「お答えします。男子として兵役に就くことが出来ないことは恥辱であります。我らは幸いにして健康の身体をもって入営することができたのは一身の光栄であります。我々は真に愚かな者でありますが、国家有事の日には、上は皇室、下は国民の為に忠義を尽くすことが出来れば我々の光栄であります。我々が入営するとき父母兄弟は喜んで我々を送り、我々が名誉を得ることを冀(こいねが)っていました。我々は兵役を苦しいと思ったことはありません。わずか数日の演習を厭うようでは軍人の本分に違うものであります。・・・我々は困苦と戦い缺乏(けつぼう)に堪えて、忠義を尽くそうと考えております。」

  天皇陛下は二人の兵卒を見つめながら時々うなづかれた。そこで陛下は二人にその背嚢(はいのう)を見せよと命じた。両名は背嚢を開き、陛下に中身をお見せした。底には弁当箱があり、前夜支給された朝昼の二食があった。朝の分は既に食べてしまったので、昼の分が残っていた。見れば半熟の飯に、塩鮭と梅干、それにに韮(ニラ)があるのみであった。侍従武官長はこれを見て、こんな粗食で不満を抱くこことはないのか、と二人に訪ねた。「我々は一命を国家に捧げた軍人であります。こればかりの難儀を不平とするようでは、どうして実践に臨まれましょう、我々は卑賤な者であります。この食物で決して不足はありません」と答えた。

  この問答をお聞きあそばされた陛下は、兵卒の境遇を思い、その龍顔(りゅうがん)を背けられた。陛下の目には玉の露が輝いていた。武官らは二人の奉答と陛下の涙を拝して、感涙に咽(むせ)ばぬ者はいなかった。侍従武官長は陛下に向かって「この二卒は洵(まこと)に軍人の亀鑑(きかん)であります」と申し上げた。(渡邊 pp.104-107)

  どうだろうか、諸君。これは明治天皇の御聖徳のごく一部である。こんなに素晴らしい天皇陛下を我々の祖先は敬愛していたのである。学校では左翼の歴史教師らが、皇室を罵倒する一方で、陛下にまつわる珠玉のエピソードを一切教えないのだ。洗脳したい子供らが尊皇精神を持っては困るし、日本に誇りを持たれてはまずい。陛下の美談は闇に葬るに限る。しかし、陛下が国民を愛した事実は闇の中から何度も浮上してくるのだ。明治天皇の御聖徳を聞くと、日本人に生まれて本当によかったと思う。



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