日本を愛したドイツ人神父
日本はキリスト教文化を輸入したが、その信仰心は拒絶するので、西欧文化がよく分からない。カトリック教会の精鋭修道会たるイエズス會(Society of Jesus)は一般人に馴染みがないだろう。聖フランチェスコ・ザビエルなら、教科書で習ったから知っている人もいるだろう。ヨゼフ・ロゲンドルフ(Joseph Roggendorf)神父は、ドイツ出身のイエズス會士で、上智大学教授を務めた有名人であった。かの高名な渡部昇一・上智大学名誉教授の恩師といった方がいいだろう。ロゲンドルフ神父は古き良きヨーロッパの教養人であって、まさしく西歐紳士の名にふさわしい知識人であった。渡部先生もロゲン神父にたいへんな學恩があったらしく、先生がドイツに詳しいのはドイツ留学をしただけではなかった。戦前の日本に派遣されたロゲン神父は日本を愛し、神父から感銘を受けた多くの日本人は心から神父を愛した。日本人には本物の人格者が分かるのだ。こんな日本通のドイツ人神父が体験した回顧録が面白い。(ヨゼフ・ロゲンドルフ/ 聞き手 加藤恭子 『和魂・洋魂』 講談社 1979年)
ロゲンドルフ神父は米国のプロテスタント宣教師とは違って、たいへん頭が良く心掛けが素晴らしかった。ドイツでイエズス会に入って日本を宣教先に志願したとき、日本について勉強することにした。普通なら、語学教科書と能や歌舞伎といった伝統芸能などを学ぶだろう。しかし、ロゲンドルフ神父は意外な勉強をする。日本にいた叔父から歴史書とともに雑誌や絵本を送ってもらったのである。そのなかには、当時子供に人気があった講談社の『キング』が含まれていた。ロゲン神父はその大衆雑誌に載っている絵や写真を見て、日本文化の高さを感じたのである。( 『上掲書』p.36)
典型的なアメリカ人のプロテスタント宣教師は聖書を布教したいだけで来日する。日本語を習得するが、日本人の心には関心がない。温かい知識人家庭に育ったロゲンドルフ神父は、日本の庶民や子供がどんなことに興味があって、どう物事を感じるのかを知りたかったのである。日本についての学術書などいくら読んでも、子供の日常生活は外国から分からない。マンガ雑誌の『少年ジャンプ』やテレビの『仮面ライダー』を見た方が、よっぽど日本の子供を理解できる。
ロゲンルフ神父の日本語能力もすごい。ロンドン大学で日本文学(例えば島崎藤村など)を専攻された神父は、終戦の玉音放送を直立して拝聴した。昭和天皇の御詔勅は聞き取りづらかったので、鈴木貫太郎首相が喋ったのを聞いて理解したという。これは無理もない。日本人でさえ、陛下が何を仰っているのか分からなかったものも多かった。あまりも古典の教養が卓越していた陛下は、庶民的会話が不得意でいらした。だから、国民のなかには戦闘継続の放送かと勘違いした者がいたくらいだ。ロゲンドルフ神父によると、玉音放送を聞いて泣いている外人神父もいたという。日本の敗戦を聞いて、掠奪・強姦・暴力に走った朝鮮人と対照的である。こんな鮮人が「日本国民」であったことを我々は肝に銘じるべきである。
ロゲンドルフ神父は戦中日本人が叫んでいた「鬼畜米英」は本心でなかったことを語っていた。当時の日本人が敗戦で、「鬼畜米英」の国粋主義者からアメリカ万歳の「民主主義者」に豹変したのではないことを指摘する。「鬼畜米英」は戦時プロパガンダで、政府から押しつけられた思想だから、終戦で日本人の頭から消えてしまったのだ、と。それよりも、民衆政国家のアメリカ人やイギリス人の方が、悪質な戦時宣伝から抜け出せないのである。ロゲンドルフ神父は日本人について語る。
「日本人はね、口では何とかいっても、実際のアメリカ人に出会うと、悪意を持ち続けられない国民ですよ。こういうのは全アジアで日本だけ。」 (p.86)
ロゲンドルフ神父のおっしゃる通り。日本人の国民性をよく理解している。戦争が終わっても、ことある事にねちねち怨みを叫び続ける朝鮮人や支那人とは、根本的に、生物的に、人格的に違うのだ。神父は日本人が「ひとさま」という風に他人に「様」をつけ、他の人間に対して暖かみがあると説明する。また、日本人は勘がいいし、好奇心もある。アジア人と違って、外国人に敵愾心を持たず、他国をあまり挑発しない。戦争相手のアメリカ人に対しても憎悪をもっていなかった、と神父は語る。ロゲン神父に乾杯。中曽根康弘や田中真紀子、加藤紘一、二階俊博はよく聞け! 日本人はアジア人じゃないんだ。
「失礼しました」と謝る売春婦
終戦直後の東京をロゲン神父は回想する。新宿の闇市や赤線(売春地帯)附近で電車を待っていたときの事であった。赤線からある娘が出てきて、白い背広を着ていたロゲン神父に後ろから抱きついてきた。「ねえ、いらっしゃいよ」とその娘が神父を引っ張って誘う。ロゲンドルフ神父が振り返った瞬間、彼女は「あ、どうも失礼しました。すみません」と頭を下げて立ち去ったという。(p.93) 神父のローマン・カラー(襟首のカラー)に気づいた娘は、善悪をちゃんとわきまえていたらしい。もしかしたら、敗戦で没落した一般家庭の女性だったのかもしれない。しかし、パンパン・ガール(娼婦の俗称)が、やって良い事と悪い事をわきまえていたのだから、昔の日本人女性はたいしてものだ。東京や神奈川、大阪で客を引いている南鮮淫売など、本当に下品の塊みたいな動物である。いかにも朝鮮人らしい顔を整形して、勝手に密入国してくる盛り場の南京虫が朝鮮娼婦である。役所ははやく駆除すべきである。
日本の独特な法意識についてもロゲンドルフ神父は言及している。神父の知っている外国人が、慎重にクルマを運転していたら、自転車に乗った出前持ちにぶつかってしまった。怪我はなかったが、自転車が壊れてしまった。出前持ちの方が交通規則違反で、外人には罪が無いと警察官は言った。しかし、現場に集まった日本人からは、その外人に対して「五千円くらい払ってやったらどうです」という意見が出てきた。近所のおばはんも割り込んできて、「だって、かわいそうだもん」と言ってくる。その外人は「私には落ち度がないのに、なぜ罰金を」と戸惑う。警察官も「罰金じゃないんで。あの青年がかわいそうじゃありませんか」と言ってくる。( ヨセフ・ロゲンドルフ『ニッポンの大学生』 主婦の友社 昭和54年 p.79)
警察官も野次馬も法の正義を持ち出しているのではなく、人情を話していたのである。出前持ちがお店に帰ったら、叱られるかクビになるかもしれないからだ。その外人は日本人に好意をもつ在日外国人であり、日本人にも理解があったのだが、その意見にはビックリした。大岡裁きみたいな人情判決は理解できまい。
ロゲンドルフ神父は日本人の奇妙で不可思議な考えを話している。ある外国人か貧しい家庭の息子にお金を与え、進学から就職まで世話をしてやったという。ところが、その日本人はやがてその恩人たる外国人と疎遠になり、絶縁にまで発展する。外国人には何が起こったのか、何をしたから絶縁したのか見当もつかない。じつは、支援されていた日本人は、受けた恩が重なってきて返しきれないと感じ始めたのである。そこで、年賀状を送らないとか、引っ越しをしても新住所を教えなかったりして、その外人を遠ざけた。彼は、恩返しを期待していたのではなく、一般的な慈善のつもりだった。ところが、義理堅い日本人は受けた恩に報いねば、という気持ちが強い。恩返しの義務が心の負担になってしまう日本人。外国人はこうした日本人に驚いてしまうのだ。日本政府から奨学金を貰って何とも思わない支那人留学生があちこちにいる。中には犯罪者になって日本に報いる奴も大勢いるのだ。まったく、支那人なんかに入国を許したうえに、奨学金をくれてやるんだから、日本の政治家は脳が異常である。雀にその脳を移植したら後ろ向きに飛ぶだろう。猫なら背泳ぎで川を渡るんじゃないか。東北の子供たちは進学を断念して、税金を払いながら苦労しているのに。
ロゲンドルフ神父を排除した言論界
こんなにも立派なヨーロッパ紳士の鑑(かがみ)であるロゲンドルフ神父は、一般人に知られていないのは何故か。その答えは、ロゲンドルフ師の政治思想や不屈の精神にあった。ヨーロッパ知識人であったロゲンドルフ神父はヒトラーにも、スターリンにも反対していたのである。ロゲン神父について弟子の渡部先生が説明している。
「ヒトラーとスターリンこそ、断固抵抗しなければならぬおそるべき全体主義者である」という確信をえて、ロゲンドルフ師は三年間にわたるロンドン大学での日本学の研究成果を終えた。 ( 渡部昇一 「ロゲンドルフ師の思想と現代」 『一粒の麦 ヨゼフ・ロゲンドルフ師追悼文集』 南窓社 1983年 p.15 )
まさしく国家社会主義のナチ党と国際共産主義のソ連は同じ穴の貉(むじな)である。ヒトラーもスターリンも共に全体主義を掲げる独裁者である、とロゲン神父は喝破していた。今では常識でも、戦後の左傾化した日本言論界では、ロゲンドルフ神父は少数派に属していたのである。神父はアテネ文庫やアテネ新書に執筆するくらいの教養人だったから、戦後しばらくの間は自由な雰囲気の中で、師の著作が良心的出版社で歓迎されたのである。(p.20) ところが、昭和20年代が終わるころ、良心的だった出版社が共産主義あるいは社会主義的風潮に傾いた。コミュニズムとファシズムを同じ分類に入れるロゲン師の考え方では都合が悪かった。(p..21) 『ヨーロッパの危機』を出版していたロゲンドルフ師なら、いくらでも出版社からの依頼がきたはずである。
その後、安保闘争や、ベトナム戦争、カンボジアでの大量虐殺が起こって、左翼全体主義の残虐性が世間に知られるようになった。文藝春秋社の『諸君!』が発刊されてようやく、ロゲンドルフ神父の登場となった次第である。昭和30年から50代の言論界は、ほんとうに真っ赤に染まっていたのだ。防衛大学校長になった猪木正道などは、スターリンが大好きであった。日本の青年に国防を教える者がスターリンを尊敬していたのである。日教組の槙枝元文委員長は金日成崇拝者だった。日本の学校を朝鮮総連専門学校にするつもりだったのだろう。日本人なのに反日左翼の知識人がテレビや雑誌で持て囃される中、ドイツ人なのに親日で偉大な知識人が疎外されていたのだ。まったく嫌になってしまう我が祖国である。
人気ブログランキングへ
日本はキリスト教文化を輸入したが、その信仰心は拒絶するので、西欧文化がよく分からない。カトリック教会の精鋭修道会たるイエズス會(Society of Jesus)は一般人に馴染みがないだろう。聖フランチェスコ・ザビエルなら、教科書で習ったから知っている人もいるだろう。ヨゼフ・ロゲンドルフ(Joseph Roggendorf)神父は、ドイツ出身のイエズス會士で、上智大学教授を務めた有名人であった。かの高名な渡部昇一・上智大学名誉教授の恩師といった方がいいだろう。ロゲンドルフ神父は古き良きヨーロッパの教養人であって、まさしく西歐紳士の名にふさわしい知識人であった。渡部先生もロゲン神父にたいへんな學恩があったらしく、先生がドイツに詳しいのはドイツ留学をしただけではなかった。戦前の日本に派遣されたロゲン神父は日本を愛し、神父から感銘を受けた多くの日本人は心から神父を愛した。日本人には本物の人格者が分かるのだ。こんな日本通のドイツ人神父が体験した回顧録が面白い。(ヨゼフ・ロゲンドルフ/ 聞き手 加藤恭子 『和魂・洋魂』 講談社 1979年)
ロゲンドルフ神父は米国のプロテスタント宣教師とは違って、たいへん頭が良く心掛けが素晴らしかった。ドイツでイエズス会に入って日本を宣教先に志願したとき、日本について勉強することにした。普通なら、語学教科書と能や歌舞伎といった伝統芸能などを学ぶだろう。しかし、ロゲンドルフ神父は意外な勉強をする。日本にいた叔父から歴史書とともに雑誌や絵本を送ってもらったのである。そのなかには、当時子供に人気があった講談社の『キング』が含まれていた。ロゲン神父はその大衆雑誌に載っている絵や写真を見て、日本文化の高さを感じたのである。( 『上掲書』p.36)
典型的なアメリカ人のプロテスタント宣教師は聖書を布教したいだけで来日する。日本語を習得するが、日本人の心には関心がない。温かい知識人家庭に育ったロゲンドルフ神父は、日本の庶民や子供がどんなことに興味があって、どう物事を感じるのかを知りたかったのである。日本についての学術書などいくら読んでも、子供の日常生活は外国から分からない。マンガ雑誌の『少年ジャンプ』やテレビの『仮面ライダー』を見た方が、よっぽど日本の子供を理解できる。
ロゲンルフ神父の日本語能力もすごい。ロンドン大学で日本文学(例えば島崎藤村など)を専攻された神父は、終戦の玉音放送を直立して拝聴した。昭和天皇の御詔勅は聞き取りづらかったので、鈴木貫太郎首相が喋ったのを聞いて理解したという。これは無理もない。日本人でさえ、陛下が何を仰っているのか分からなかったものも多かった。あまりも古典の教養が卓越していた陛下は、庶民的会話が不得意でいらした。だから、国民のなかには戦闘継続の放送かと勘違いした者がいたくらいだ。ロゲンドルフ神父によると、玉音放送を聞いて泣いている外人神父もいたという。日本の敗戦を聞いて、掠奪・強姦・暴力に走った朝鮮人と対照的である。こんな鮮人が「日本国民」であったことを我々は肝に銘じるべきである。
ロゲンドルフ神父は戦中日本人が叫んでいた「鬼畜米英」は本心でなかったことを語っていた。当時の日本人が敗戦で、「鬼畜米英」の国粋主義者からアメリカ万歳の「民主主義者」に豹変したのではないことを指摘する。「鬼畜米英」は戦時プロパガンダで、政府から押しつけられた思想だから、終戦で日本人の頭から消えてしまったのだ、と。それよりも、民衆政国家のアメリカ人やイギリス人の方が、悪質な戦時宣伝から抜け出せないのである。ロゲンドルフ神父は日本人について語る。
「日本人はね、口では何とかいっても、実際のアメリカ人に出会うと、悪意を持ち続けられない国民ですよ。こういうのは全アジアで日本だけ。」 (p.86)
ロゲンドルフ神父のおっしゃる通り。日本人の国民性をよく理解している。戦争が終わっても、ことある事にねちねち怨みを叫び続ける朝鮮人や支那人とは、根本的に、生物的に、人格的に違うのだ。神父は日本人が「ひとさま」という風に他人に「様」をつけ、他の人間に対して暖かみがあると説明する。また、日本人は勘がいいし、好奇心もある。アジア人と違って、外国人に敵愾心を持たず、他国をあまり挑発しない。戦争相手のアメリカ人に対しても憎悪をもっていなかった、と神父は語る。ロゲン神父に乾杯。中曽根康弘や田中真紀子、加藤紘一、二階俊博はよく聞け! 日本人はアジア人じゃないんだ。
「失礼しました」と謝る売春婦
終戦直後の東京をロゲン神父は回想する。新宿の闇市や赤線(売春地帯)附近で電車を待っていたときの事であった。赤線からある娘が出てきて、白い背広を着ていたロゲン神父に後ろから抱きついてきた。「ねえ、いらっしゃいよ」とその娘が神父を引っ張って誘う。ロゲンドルフ神父が振り返った瞬間、彼女は「あ、どうも失礼しました。すみません」と頭を下げて立ち去ったという。(p.93) 神父のローマン・カラー(襟首のカラー)に気づいた娘は、善悪をちゃんとわきまえていたらしい。もしかしたら、敗戦で没落した一般家庭の女性だったのかもしれない。しかし、パンパン・ガール(娼婦の俗称)が、やって良い事と悪い事をわきまえていたのだから、昔の日本人女性はたいしてものだ。東京や神奈川、大阪で客を引いている南鮮淫売など、本当に下品の塊みたいな動物である。いかにも朝鮮人らしい顔を整形して、勝手に密入国してくる盛り場の南京虫が朝鮮娼婦である。役所ははやく駆除すべきである。
日本の独特な法意識についてもロゲンドルフ神父は言及している。神父の知っている外国人が、慎重にクルマを運転していたら、自転車に乗った出前持ちにぶつかってしまった。怪我はなかったが、自転車が壊れてしまった。出前持ちの方が交通規則違反で、外人には罪が無いと警察官は言った。しかし、現場に集まった日本人からは、その外人に対して「五千円くらい払ってやったらどうです」という意見が出てきた。近所のおばはんも割り込んできて、「だって、かわいそうだもん」と言ってくる。その外人は「私には落ち度がないのに、なぜ罰金を」と戸惑う。警察官も「罰金じゃないんで。あの青年がかわいそうじゃありませんか」と言ってくる。( ヨセフ・ロゲンドルフ『ニッポンの大学生』 主婦の友社 昭和54年 p.79)
警察官も野次馬も法の正義を持ち出しているのではなく、人情を話していたのである。出前持ちがお店に帰ったら、叱られるかクビになるかもしれないからだ。その外人は日本人に好意をもつ在日外国人であり、日本人にも理解があったのだが、その意見にはビックリした。大岡裁きみたいな人情判決は理解できまい。
ロゲンドルフ神父は日本人の奇妙で不可思議な考えを話している。ある外国人か貧しい家庭の息子にお金を与え、進学から就職まで世話をしてやったという。ところが、その日本人はやがてその恩人たる外国人と疎遠になり、絶縁にまで発展する。外国人には何が起こったのか、何をしたから絶縁したのか見当もつかない。じつは、支援されていた日本人は、受けた恩が重なってきて返しきれないと感じ始めたのである。そこで、年賀状を送らないとか、引っ越しをしても新住所を教えなかったりして、その外人を遠ざけた。彼は、恩返しを期待していたのではなく、一般的な慈善のつもりだった。ところが、義理堅い日本人は受けた恩に報いねば、という気持ちが強い。恩返しの義務が心の負担になってしまう日本人。外国人はこうした日本人に驚いてしまうのだ。日本政府から奨学金を貰って何とも思わない支那人留学生があちこちにいる。中には犯罪者になって日本に報いる奴も大勢いるのだ。まったく、支那人なんかに入国を許したうえに、奨学金をくれてやるんだから、日本の政治家は脳が異常である。雀にその脳を移植したら後ろ向きに飛ぶだろう。猫なら背泳ぎで川を渡るんじゃないか。東北の子供たちは進学を断念して、税金を払いながら苦労しているのに。
ロゲンドルフ神父を排除した言論界
こんなにも立派なヨーロッパ紳士の鑑(かがみ)であるロゲンドルフ神父は、一般人に知られていないのは何故か。その答えは、ロゲンドルフ師の政治思想や不屈の精神にあった。ヨーロッパ知識人であったロゲンドルフ神父はヒトラーにも、スターリンにも反対していたのである。ロゲン神父について弟子の渡部先生が説明している。
「ヒトラーとスターリンこそ、断固抵抗しなければならぬおそるべき全体主義者である」という確信をえて、ロゲンドルフ師は三年間にわたるロンドン大学での日本学の研究成果を終えた。 ( 渡部昇一 「ロゲンドルフ師の思想と現代」 『一粒の麦 ヨゼフ・ロゲンドルフ師追悼文集』 南窓社 1983年 p.15 )
まさしく国家社会主義のナチ党と国際共産主義のソ連は同じ穴の貉(むじな)である。ヒトラーもスターリンも共に全体主義を掲げる独裁者である、とロゲン神父は喝破していた。今では常識でも、戦後の左傾化した日本言論界では、ロゲンドルフ神父は少数派に属していたのである。神父はアテネ文庫やアテネ新書に執筆するくらいの教養人だったから、戦後しばらくの間は自由な雰囲気の中で、師の著作が良心的出版社で歓迎されたのである。(p.20) ところが、昭和20年代が終わるころ、良心的だった出版社が共産主義あるいは社会主義的風潮に傾いた。コミュニズムとファシズムを同じ分類に入れるロゲン師の考え方では都合が悪かった。(p..21) 『ヨーロッパの危機』を出版していたロゲンドルフ師なら、いくらでも出版社からの依頼がきたはずである。
その後、安保闘争や、ベトナム戦争、カンボジアでの大量虐殺が起こって、左翼全体主義の残虐性が世間に知られるようになった。文藝春秋社の『諸君!』が発刊されてようやく、ロゲンドルフ神父の登場となった次第である。昭和30年から50代の言論界は、ほんとうに真っ赤に染まっていたのだ。防衛大学校長になった猪木正道などは、スターリンが大好きであった。日本の青年に国防を教える者がスターリンを尊敬していたのである。日教組の槙枝元文委員長は金日成崇拝者だった。日本の学校を朝鮮総連専門学校にするつもりだったのだろう。日本人なのに反日左翼の知識人がテレビや雑誌で持て囃される中、ドイツ人なのに親日で偉大な知識人が疎外されていたのだ。まったく嫌になってしまう我が祖国である。
人気ブログランキングへ