明治維新は英雄時代である。攘夷開国をめぐり日本国内が分裂し、血みどろの戊辰戦争に発展した。日本人が敵味方に分かれて戦ったのだが、そこには残酷さと共に、美談があったのだから、まことに日本人の戦争は興味深い。今回は幕臣の榎本武揚(えのもとぶよう)と黒田清隆(くろだきよたか)の友情について紹介したい。その前に、二人の背景を短く述べてみよう。
俊才の榎本武揚
(左/榎本武揚)
武揚(釜次郎/かまじろう)は幼くして学問を好み、幕府の昌平黌(しょうへいこう)に入る前、ジョン万次郎こと中濱萬次郎(なかはま・まんじろう)について英語を学んだらしい。幕府が長崎に海軍伝習所を開いた時、そこで学ぼうとしたが、歳が若くて叶わなかったので、和蘭学伝習の員外生として遊学した。オランダ人ハルデスについて海軍機関の課程を学んだという。27歳の時オランダ留学選抜生となって、開陽丸(かいようまる)建造監督官を兼ね留学を命ぜられた。オランダでは陸海軍の兵制、法律学、化学器械学を研究したほか、当時発明されたばかりのモールス信号についても学んだのである。帰国後は開陽丸の艦長に任ぜられ、軍艦組頭取、軍艦奉行、若年寄格に昇進し、従五位和泉守にまでなった。
武揚が帰朝すると幕府は滅亡の危機に瀕しており、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の権威は失墜したのである。戦闘を放棄して江戸に戻った德川慶喜(けいき)は、恭順を意を示して蟄居(ちっきょ)の身になってしまう。勝海舟らの譲歩と官軍による德川家の処分は、武揚にとって受け入れ難かった。憤激に堪えられなかった武揚は、開陽や回天といった軍艦を奪い、荒井郁之助、松平太郎、永井玄蕃を始め、彰義隊の残党らと共に品川から脱走してしまった。蝦夷地(北海道)に向かう途中、船を修理するため仙台に立ち寄った時、大鳥圭介が土方歳三ら二千名を率いて仙台に逃れていたので、武揚らと合流することになった。(小笠原長生 『伝記大日本史 第十三巻 海軍篇』 雄山閣 昭和11年 p.65)
(左/大鳥圭介)
函館に赴いた武揚らは、上陸後津軽兵と戦い、勝利すると五稜郭を占領した。ここに永井玄蕃を函館奉行とし、居留外国人に告げて軍政をしいた。西歐の戦闘を観たことのある武揚は、戦時国際法を遵守し、戦闘力を失った負傷兵に危害を加えることはしなかった。負傷した官軍兵を手当して、津軽に送り返してやったという。西歐留学をした武揚にとったら当然のことでも、戦闘の昂奮が醒めやらぬ中で、敵兵の治療を手厚くするすることは中々できることではない。当時の日本では敵軍に対して、そこまでしなかったからである。蝦夷地を平定後、武揚らはアメリカ合衆国に倣って、入札(投票)で総裁を決めることになった。その結果、武揚が総裁に選ばれ、松平太郎が副総裁になり、大鳥圭介は陸軍奉行に選ばれるなど、各人が役職に就いたという。
蝦夷共和国を樹立したい武揚たちだったが、明治新政府はこれを認めない。明治2年3月になると、黒田清隆・山田顯義・中牟田倉之助ら諸将が薩長の兵を率いて討伐にやって来た。こうして榎本と黒田の対決が開始されたのである。五稜郭での戦いを述べる前に、ちょっとだけ黒田清隆について触れたい。
酒乱の黒田清隆
第二代内閣総理大臣になった黒田清隆は、文武両道を辨(わきま)えた薩摩隼人(さつまはやと)で、西郷隆盛の寵児であり、後に大久保利通の補佐役になった人物である。通称「了介(りょうすけ)」という。西郷に気に入られた黒田は、薩摩側の密使として、長州との同盟を実現するため奔走した。神戸で坂本龍馬と出遭い、薩長連合に意欲を燃やした黒田は、長州に赴き、桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作らと談判したのである。薩摩に恨み骨髄の長州藩士の中で、高杉は黒田を歓迎し、その申し出に了承してくれた。黒田が桂に上京して大久保や西郷に会って欲しいと勧誘した時、薩摩と組むことに反対していた奇兵隊は、桂の身に危害が及ぶのではと心配したらしい。上京すればきっと西郷に殺されるのでは、と恐れたからである。しかし、高杉は笑って「西郷は必ず木戸をころさない。殺されたとて可(よ)いじゃないか」と論じたという。(朝比奈知泉 『明治功臣録 玄の巻』 明治功臣録刊行会 1915年 p.459) 木戸が聞いたらムッとするだろうが、いかにも剛胆な晋作らしい言葉である。そうはいっても、皆が心配するだろうから、高杉は反対者の主だった者を木戸に同行させて、京都行きを了承させたのである。
(左/黒田清隆)
後に功績を認められて伯爵となった黒田は、天性はなはだ磊落朴素(らいらくぼくそ)、つまり細かいことにこだわらず大らかで、飾り気が無くて素直であったという。豪快で果敢な性格だったから、決断したら猛突進するタイプ。あっぱれな薩摩兵児(さつまへこ)の典型であった。刀剣に目がなかった黒田は、気に入った刀を見つけたら、お金を惜しまず手にしたという。ある時、刀剣商(とうけんしょう)が名刀ふた振りを売りに来て、これなら兜を割り、玉を斬ることも出来ます、と自慢したらしい。黒田は本当かと尋ね、庭に出て楓(かえで)の古株をその刀で斬ったところ、たちまち折れてしまった。そこで、もう一本の刀を手に取り、今度は松を斬りつけると、また折れててしまったが、空中に舞った刀の破片が黒田の右肩に刺さってしまった。するとその傷口から、血がたらたらと流れ、そばで観ていた商人は真っ青になって、そそくさと立ち去ってしまった。(中川克一 『近世 偉人百話』 至誠堂書店 明治42年 p.133)
幕末維新の志士には大酒飲みが多い。黒田の酒乱は有名で、酔っ払うと西郷從道に相撲を挑むが、從道の方がいつも勝っていたという。毎度負けてしまう黒田はたいそう不満だった。ある宴会で、給仕の振舞が悪いと、例の酒癖を引き起こし、從道がこれを宥めようとすると、清隆はますます狂暴になった。そこで名刀を抜いて從道の首を取るつもりで刀を振り上げた。すると從道は刃の下に自らの頸(くび)を差し延べる。これには一座の者皆色を失ったそうだ。憤怒に駆られた黒田であったが、從道の自若たる態度に動かされ、刀を畳に突き立て、さすが吉之助(隆盛)の弟だ、と感嘆し狂暴ぶりが収まった。翌日、酔いの覚めた黒田は、從道の邸宅を訪ね、昨日の無礼を謝罪したという。(名将言行録刊行会 『近世 名将言行録』 第1巻 吉川弘文館 昭和9年 pp.272-273)
(左/西郷從道)
当時の武士だと酒豪は珍しくないが、底なしの大酒飲みには周囲の者が大迷惑したらしい。黒田清子夫人も大層苦労したようで、ある時、松方正義、大山巌、西郷從道に懇願して、夫に酒を慎むよう説得してくれと頼んだ。そこで三人が黒田邸を訪れると、黒田は大いに喜び直ちに酒を振る舞った。禁酒を勧めにきた客にお酒を注ぐなんて、さぞ三人も気まずかったであろう。出された盃をしぶしぶ受け取った三人は、酒がいかに有害かを諄々(じゅんじゅん)と論じ、しきりに清子夫人の苦心を説いたのである。黒田は三人の言うことを黙って聴いていたが、最後に一言発した。黒田は自分に小言を云えるのは、西郷隆盛と大久保利通だけだ、と喝破したという。結局、三人の説得は無駄に終わり、松方らは退散したらしい。(偉人百話 p.134) こういうタイプの豪傑には、ちまちました説教など通じないのだ。でも、酔っ払って大暴れの薩摩隼人って、理性を失った熊みたいで始末に悪い。
流血の真剣白刃取り
(左/五稜郭)
函館に盤踞した幕臣たちの形勢は不利だった。五稜郭に籠城したからとて、圧倒的火力と物量を誇る官軍に勝つことはほぼ不可能だ。荒井郁之助や土方歳蔵らは軍艦「回天」に乗り込み、「蟠龍」と「高雄」の二艦を率いて出航し、敵艦隊と戦闘を始めた。しかし、官軍艦隊の攻撃はすさまじく、回天と蟠龍は退却し無事還ってこれたが、高雄は追撃されて降伏してしまった。陸と海の戦闘において武揚らの軍は奮闘したが、やはり官軍の攻撃は優位を保ち、武揚らは戦艦を失うし、陸戦でも多くの死傷者を出してしまう。激戦の最中、官軍の蛮行が起こった。函館を占領する官軍の中で、久留米藩士は函館病院を襲って、敵の負傷者を斬ろうとしたが、薩摩隊の山下喜次郎がその暴挙を止めた。しかるに、松前・津軽の兵は、高龍寺分院にいた負傷兵を惨殺し、火を放って分院を焼いてしまったのだ。薩摩藩以外の諸藩では、捕虜や負傷者を直ちに殺してしまうのが常だった。
五稜郭に立て籠もる武揚らに対し、官軍は降伏を勧めることにした。ところが、和議の申し出に、武揚らは蝦夷の地に独立政治圏を設けさせろ、と条件をつけてきた。征伐軍はこんな要求を飲めるはずがない。それに、武揚もそんな要求が通るはずはない思っていたから、残った者どもと玉粋を覚悟していたのである。官軍は薩摩藩の中山良三を遣わし、武揚たちに降伏を促したが、結局徒労に終わってしまった。しかし、最期を悟った武揚は、オランダ留学以来所蔵していた萬国海律全書二巻を兵火に焼くのはもったいないと考えた。この本はフランス人オルトランによって書かれたもので大変貴重であった。そこで、武揚はこの稀覯本(きこうぼん)を中山の手に渡し、将来我が海軍発展のために利用してくれ、と申し出たのである。この蔵書を受け取った黒田は、後に福澤諭吉に翻訳させ公にしたという。官軍はこの寄贈に感謝して、五稜郭に酒を届けたのである。(山崎有信 『大鳥圭介』 北文館 大正4年 p. 201) 賊軍と呼ばれても、その愛国心には一点の曇りもなかった。たとえ自分の命が消えるとも、祖国は永遠であることを確信していたのだ。
武揚は死後も日本の発展を願い、少しでも祖国に貢献したいと思っていた。武揚はさらに偉かった。五稜郭が官軍の攻撃に晒されているのに、丸毛牛之助(まるもうしのすけ)に命じて、敵の捕虜11名を還(かえ)すことにした。五稜郭が陥落した時、味方が捕虜を誤って殺すかもしれぬので、武揚は予め送還させたのである。この捕虜とは、高龍分院を襲撃し、病人怪我人を惨殺した松前・津軽の兵であった。悲しいことだが、最後の戦闘を迎えつつあった武揚たちの軍勢からは、脱走者が多数出ていたのである。逃走する兵もいれば、死闘を続ける兵もいた。戍将砲兵頭(じゅしょうほうへいがしら)の中島三郎助は、武勇を発揮し鉄砲で敵兵を斃(たお)すと、ついには抜刀(ばっとう)して敵軍に突撃した。鬼神と化した中島は奮闘したが、哀れ敵弾に当たって斃れてしまった。彼の子である中島恒太郎(21歳)と英次郎(19歳)は、父の討死を見て怒り、銃を捨てて刀を揮って敵中に斬り込んでいった。敵数人を斬ったが、ついに両人とも戦場の露と消えてしまった。中島の部下、朝比奈三郎、近藤彦吉、福島国太郎らの少年兵もこれに殉じたという。
(左/五稜郭での戦闘を描いた絵)
弾薬や兵糧が尽きようとする中、武揚は年少の者に、前途があるから、帰順して命を全うせよと命じたが、その者たちは応じず残って戦う事を選んだという。五稜郭に残った者たちは、戦死を覚悟し詩を作る者、歌を詠む者、それぞが辞世を作っていた。彼らの中に大塚霍之丞(おおつか・かくのじょう)がいて、辞世の句を今一度見直そうと、彼が二階に取りに行った時のことである。本営が置かれていた奉行屋敷の二階には四畳半の書斎があって、そこに榎本がいたという。隣には六畳の事務室があった。大塚が六畳の部屋に辞世を取りに行ったら、隣の部屋に榎本総裁が坐っていた。ところが、総裁の様子が変。南の方角を伏して拝んでいるのだ。榎本の脇には将軍から賜った脇差(わきざし)が一振り置いてある。大塚は階段を降りた振りをして、そっと様子を窺(うかが)っていたらしい。
榎本は皇城を拝し終わって、チョッキを外し腹を広げるや、脇差の鞘を払ってしっかりと握った。アッと思った大塚は階段から飛び上がる。彼はあわや突き立てようとする脇差の刃(やいば)を両手で捉(つか)まえた。大塚としては、榎本が柄(つか)を握っているから、どうしても刃を握るしかない。榎本総裁は「我、決心動かすべからず」と言って、脇差を引こうとする。大塚の方は「いけません」と言って手を離さない。両者の気迫恐るべし。白刃を素手で握っている大塚の左手が切れ、その指からは鮮血がほとばしる。赤い血で濡れながら、大塚が「大変、大変」と大声で叫んだので、階下の者たちが駆けつけると、そこには凄惨な光景があった。皆は「生死を共にすると言っておいて、独り先に死のうとは何事ですか。脇差を離しなさい」と命じるが、榎本は脇差を離さない。そうこうしている間にも、大塚の手からは血が流れている。榎本は「いかにも余が先に死のうとしたのは、これまで余が軍令の下に多くの人々を殺したから、今日は衆に代わって死ぬのだ」と言って、頑として脇差を離さなかった。そこで、みんなが榎本の指を一本づつ開いて、脇差をもぎ取ったのである。(『大鳥圭介』pp..203-204)
自害を阻止した仲間は、榎本に番兵十人をつけ監視させた。一同は階下で会議を開き、脇差を失った榎本は仕方ないので、高鼾(いびき)をかいて寝てしまったという。自刃(じじん)しようとした者が不貞寝(ふてね)をするなど、ここいらが榎本らしい。榎本は自分のせいで多くの部下を殺してしまったと責任を痛感していたのだ。榎本は真の将帥である。責任をすべて部下に押しつけて、自分だけ逃げようとする政治家とは大違いだ。後に高官となった榎本は、毎年五月箕輪圓通寺(みのわえんつうじ)で行われる戦歿者の供養には必ず出席したし、函館の碧血碑(へきけつひ)や咸臨丸(かんりんまる)の碑、鳥羽伏見の戦死者の碑といい、常に発起人や献金者となっていた。決死の覚悟を決めていた武揚であったが、諸将を説き伏せて条件付きの降伏を申し出たのである。官軍との談判を終えた後、榎本らは城に戻り、諸隊を整列させて、訣別の辞を述べたという。一同粛然とし、皆が涙を流す中、榎本、大鳥、松平、荒井の四人は門を出た。官軍の前に出頭した四人はいずれも割腹する覚悟であったが、鄭重(ていちょう)に扱われ、東京へ護送されたのである。
黒田の嘆願と西郷の対応
(左:木戸孝允/山縣有朋/西郷隆盛/右:大久保利通)
北海征討軍の凱旋後、榎本武揚らの処分について、御前会議の大問題となったらしい。木戸孝允や山縣有朋らは国賊なるがゆえ、斬首せねばならぬと主張したが、武揚の才能を惜しむ黒田は断固助命説を曲げなかった。それに五稜郭での会見で自分の首を賭けても助けると誓っていたのだ。伊藤博文も釜次郎(武揚)は逸材なので、処刑しては国家の損失になると思っていた。どうしても処罰に傾く評議を覆したかった黒田は、西郷隆盛を動かそうとし「榎本とは首を賭けて約束したのだから助けてやってくれ」と申し込んだという。すると西郷は平然として「それなら君の首をもらおう」という言い出し、黒田はついに二の句を挙げることが出来なかったらしい。(『明治功臣録』 p. 590) また、黒田の寛大論に対しての批判があった。ある中将が、武揚は賊軍の長だから誅殺せねば天下に示しがつかぬ、と発言したのだ。すると黒田は怒って「公(こう)らは自分が浅才(せんさい)だから、武揚の才幹(さいかん)を妬んで斬ろうとするのか。武揚を斬らんと欲するなら、先づ清隆の如き無用の材を斬れ」と罵倒し、席を蹴ってその場を去ってしまった。帰宅すると黒田は剃髪(ていはつ)して御前を騒がせてしまい、臣の罪は誅に当ると言い蟄居してしまった。(『偉人百話』 p.135)
(左:榎本武揚/右:大鳥圭介)
御前会議では斬首刑が提議されたが、黒田は既に榎本は軍門に降ったではないかと弁護し、彼ほどの人材は容易に得がたいと力説した。彼の命を助けて新政府にとうようすべし、との意見を述べるとともに、黒田は我が戦功に代えて死罪を赦してくれと懇願したのである。(『明治功臣録』 p.469) 黒田の熱心な建白書を読んだ大久保利通は黒田に賛成してくれたし、西郷も結局のところ折れたので、榎本一同は悉く赦免されることとなった。後に、榎本は公使としてロシアに派遣され、大鳥圭介は陸軍部長になり、荒井郁之助は軍艦奉行になったのは周知の事実。黒田の助命活動に榎本らは深く感謝した。後年、榎本の嗣子である武憲(たけのり)と黒田の娘梅子(うめこ)が結婚し、かくて無二の親友は親戚となった。
明治維新は体制の変革だったから、国内の不満分子が反乱を起こしても当然だった。尊皇精神篤い会津藩士ら幕臣を「賊軍」呼ばわりしたのだから、すんなりと薩長側に投降することはできない。歴史を学ぶ我々にとって、常に慙愧の念に堪えないのは、多くの逸材が命を失ったことである。幕末にあれほど多くの英雄俊才が出現したとは、今の日本と比べれば信じられない。もし、当時の若者が戊辰戦争や後の西南戦争で死ななければ、明治の日本にどれほど貢献したことか。生き残った元勲が偉大なら、死んでしまった志士も偉大だったはず。惜しい人物がたくさん戦場で散ってしまった。現在我々が国会で目にする議員どもが、いかに下劣であることか。「お国のために」という使命感がまったくない。国民が代議士を選ぶ民衆政治なのに、国民のためになる立派な人物が選ばれず、かえって国賊が増えているのだ。こう考えると、選挙がなかった幕末に偉人が綺羅星の如く現れたのは皮肉なことである。一流の人材を救った黒田清隆に感謝したい。つくづく思うが、明治とは奇蹟の時代であった。
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俊才の榎本武揚
(左/榎本武揚)
武揚(釜次郎/かまじろう)は幼くして学問を好み、幕府の昌平黌(しょうへいこう)に入る前、ジョン万次郎こと中濱萬次郎(なかはま・まんじろう)について英語を学んだらしい。幕府が長崎に海軍伝習所を開いた時、そこで学ぼうとしたが、歳が若くて叶わなかったので、和蘭学伝習の員外生として遊学した。オランダ人ハルデスについて海軍機関の課程を学んだという。27歳の時オランダ留学選抜生となって、開陽丸(かいようまる)建造監督官を兼ね留学を命ぜられた。オランダでは陸海軍の兵制、法律学、化学器械学を研究したほか、当時発明されたばかりのモールス信号についても学んだのである。帰国後は開陽丸の艦長に任ぜられ、軍艦組頭取、軍艦奉行、若年寄格に昇進し、従五位和泉守にまでなった。
武揚が帰朝すると幕府は滅亡の危機に瀕しており、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の権威は失墜したのである。戦闘を放棄して江戸に戻った德川慶喜(けいき)は、恭順を意を示して蟄居(ちっきょ)の身になってしまう。勝海舟らの譲歩と官軍による德川家の処分は、武揚にとって受け入れ難かった。憤激に堪えられなかった武揚は、開陽や回天といった軍艦を奪い、荒井郁之助、松平太郎、永井玄蕃を始め、彰義隊の残党らと共に品川から脱走してしまった。蝦夷地(北海道)に向かう途中、船を修理するため仙台に立ち寄った時、大鳥圭介が土方歳三ら二千名を率いて仙台に逃れていたので、武揚らと合流することになった。(小笠原長生 『伝記大日本史 第十三巻 海軍篇』 雄山閣 昭和11年 p.65)
(左/大鳥圭介)
函館に赴いた武揚らは、上陸後津軽兵と戦い、勝利すると五稜郭を占領した。ここに永井玄蕃を函館奉行とし、居留外国人に告げて軍政をしいた。西歐の戦闘を観たことのある武揚は、戦時国際法を遵守し、戦闘力を失った負傷兵に危害を加えることはしなかった。負傷した官軍兵を手当して、津軽に送り返してやったという。西歐留学をした武揚にとったら当然のことでも、戦闘の昂奮が醒めやらぬ中で、敵兵の治療を手厚くするすることは中々できることではない。当時の日本では敵軍に対して、そこまでしなかったからである。蝦夷地を平定後、武揚らはアメリカ合衆国に倣って、入札(投票)で総裁を決めることになった。その結果、武揚が総裁に選ばれ、松平太郎が副総裁になり、大鳥圭介は陸軍奉行に選ばれるなど、各人が役職に就いたという。
蝦夷共和国を樹立したい武揚たちだったが、明治新政府はこれを認めない。明治2年3月になると、黒田清隆・山田顯義・中牟田倉之助ら諸将が薩長の兵を率いて討伐にやって来た。こうして榎本と黒田の対決が開始されたのである。五稜郭での戦いを述べる前に、ちょっとだけ黒田清隆について触れたい。
酒乱の黒田清隆
第二代内閣総理大臣になった黒田清隆は、文武両道を辨(わきま)えた薩摩隼人(さつまはやと)で、西郷隆盛の寵児であり、後に大久保利通の補佐役になった人物である。通称「了介(りょうすけ)」という。西郷に気に入られた黒田は、薩摩側の密使として、長州との同盟を実現するため奔走した。神戸で坂本龍馬と出遭い、薩長連合に意欲を燃やした黒田は、長州に赴き、桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作らと談判したのである。薩摩に恨み骨髄の長州藩士の中で、高杉は黒田を歓迎し、その申し出に了承してくれた。黒田が桂に上京して大久保や西郷に会って欲しいと勧誘した時、薩摩と組むことに反対していた奇兵隊は、桂の身に危害が及ぶのではと心配したらしい。上京すればきっと西郷に殺されるのでは、と恐れたからである。しかし、高杉は笑って「西郷は必ず木戸をころさない。殺されたとて可(よ)いじゃないか」と論じたという。(朝比奈知泉 『明治功臣録 玄の巻』 明治功臣録刊行会 1915年 p.459) 木戸が聞いたらムッとするだろうが、いかにも剛胆な晋作らしい言葉である。そうはいっても、皆が心配するだろうから、高杉は反対者の主だった者を木戸に同行させて、京都行きを了承させたのである。
(左/黒田清隆)
後に功績を認められて伯爵となった黒田は、天性はなはだ磊落朴素(らいらくぼくそ)、つまり細かいことにこだわらず大らかで、飾り気が無くて素直であったという。豪快で果敢な性格だったから、決断したら猛突進するタイプ。あっぱれな薩摩兵児(さつまへこ)の典型であった。刀剣に目がなかった黒田は、気に入った刀を見つけたら、お金を惜しまず手にしたという。ある時、刀剣商(とうけんしょう)が名刀ふた振りを売りに来て、これなら兜を割り、玉を斬ることも出来ます、と自慢したらしい。黒田は本当かと尋ね、庭に出て楓(かえで)の古株をその刀で斬ったところ、たちまち折れてしまった。そこで、もう一本の刀を手に取り、今度は松を斬りつけると、また折れててしまったが、空中に舞った刀の破片が黒田の右肩に刺さってしまった。するとその傷口から、血がたらたらと流れ、そばで観ていた商人は真っ青になって、そそくさと立ち去ってしまった。(中川克一 『近世 偉人百話』 至誠堂書店 明治42年 p.133)
幕末維新の志士には大酒飲みが多い。黒田の酒乱は有名で、酔っ払うと西郷從道に相撲を挑むが、從道の方がいつも勝っていたという。毎度負けてしまう黒田はたいそう不満だった。ある宴会で、給仕の振舞が悪いと、例の酒癖を引き起こし、從道がこれを宥めようとすると、清隆はますます狂暴になった。そこで名刀を抜いて從道の首を取るつもりで刀を振り上げた。すると從道は刃の下に自らの頸(くび)を差し延べる。これには一座の者皆色を失ったそうだ。憤怒に駆られた黒田であったが、從道の自若たる態度に動かされ、刀を畳に突き立て、さすが吉之助(隆盛)の弟だ、と感嘆し狂暴ぶりが収まった。翌日、酔いの覚めた黒田は、從道の邸宅を訪ね、昨日の無礼を謝罪したという。(名将言行録刊行会 『近世 名将言行録』 第1巻 吉川弘文館 昭和9年 pp.272-273)
(左/西郷從道)
当時の武士だと酒豪は珍しくないが、底なしの大酒飲みには周囲の者が大迷惑したらしい。黒田清子夫人も大層苦労したようで、ある時、松方正義、大山巌、西郷從道に懇願して、夫に酒を慎むよう説得してくれと頼んだ。そこで三人が黒田邸を訪れると、黒田は大いに喜び直ちに酒を振る舞った。禁酒を勧めにきた客にお酒を注ぐなんて、さぞ三人も気まずかったであろう。出された盃をしぶしぶ受け取った三人は、酒がいかに有害かを諄々(じゅんじゅん)と論じ、しきりに清子夫人の苦心を説いたのである。黒田は三人の言うことを黙って聴いていたが、最後に一言発した。黒田は自分に小言を云えるのは、西郷隆盛と大久保利通だけだ、と喝破したという。結局、三人の説得は無駄に終わり、松方らは退散したらしい。(偉人百話 p.134) こういうタイプの豪傑には、ちまちました説教など通じないのだ。でも、酔っ払って大暴れの薩摩隼人って、理性を失った熊みたいで始末に悪い。
流血の真剣白刃取り
(左/五稜郭)
函館に盤踞した幕臣たちの形勢は不利だった。五稜郭に籠城したからとて、圧倒的火力と物量を誇る官軍に勝つことはほぼ不可能だ。荒井郁之助や土方歳蔵らは軍艦「回天」に乗り込み、「蟠龍」と「高雄」の二艦を率いて出航し、敵艦隊と戦闘を始めた。しかし、官軍艦隊の攻撃はすさまじく、回天と蟠龍は退却し無事還ってこれたが、高雄は追撃されて降伏してしまった。陸と海の戦闘において武揚らの軍は奮闘したが、やはり官軍の攻撃は優位を保ち、武揚らは戦艦を失うし、陸戦でも多くの死傷者を出してしまう。激戦の最中、官軍の蛮行が起こった。函館を占領する官軍の中で、久留米藩士は函館病院を襲って、敵の負傷者を斬ろうとしたが、薩摩隊の山下喜次郎がその暴挙を止めた。しかるに、松前・津軽の兵は、高龍寺分院にいた負傷兵を惨殺し、火を放って分院を焼いてしまったのだ。薩摩藩以外の諸藩では、捕虜や負傷者を直ちに殺してしまうのが常だった。
五稜郭に立て籠もる武揚らに対し、官軍は降伏を勧めることにした。ところが、和議の申し出に、武揚らは蝦夷の地に独立政治圏を設けさせろ、と条件をつけてきた。征伐軍はこんな要求を飲めるはずがない。それに、武揚もそんな要求が通るはずはない思っていたから、残った者どもと玉粋を覚悟していたのである。官軍は薩摩藩の中山良三を遣わし、武揚たちに降伏を促したが、結局徒労に終わってしまった。しかし、最期を悟った武揚は、オランダ留学以来所蔵していた萬国海律全書二巻を兵火に焼くのはもったいないと考えた。この本はフランス人オルトランによって書かれたもので大変貴重であった。そこで、武揚はこの稀覯本(きこうぼん)を中山の手に渡し、将来我が海軍発展のために利用してくれ、と申し出たのである。この蔵書を受け取った黒田は、後に福澤諭吉に翻訳させ公にしたという。官軍はこの寄贈に感謝して、五稜郭に酒を届けたのである。(山崎有信 『大鳥圭介』 北文館 大正4年 p. 201) 賊軍と呼ばれても、その愛国心には一点の曇りもなかった。たとえ自分の命が消えるとも、祖国は永遠であることを確信していたのだ。
武揚は死後も日本の発展を願い、少しでも祖国に貢献したいと思っていた。武揚はさらに偉かった。五稜郭が官軍の攻撃に晒されているのに、丸毛牛之助(まるもうしのすけ)に命じて、敵の捕虜11名を還(かえ)すことにした。五稜郭が陥落した時、味方が捕虜を誤って殺すかもしれぬので、武揚は予め送還させたのである。この捕虜とは、高龍分院を襲撃し、病人怪我人を惨殺した松前・津軽の兵であった。悲しいことだが、最後の戦闘を迎えつつあった武揚たちの軍勢からは、脱走者が多数出ていたのである。逃走する兵もいれば、死闘を続ける兵もいた。戍将砲兵頭(じゅしょうほうへいがしら)の中島三郎助は、武勇を発揮し鉄砲で敵兵を斃(たお)すと、ついには抜刀(ばっとう)して敵軍に突撃した。鬼神と化した中島は奮闘したが、哀れ敵弾に当たって斃れてしまった。彼の子である中島恒太郎(21歳)と英次郎(19歳)は、父の討死を見て怒り、銃を捨てて刀を揮って敵中に斬り込んでいった。敵数人を斬ったが、ついに両人とも戦場の露と消えてしまった。中島の部下、朝比奈三郎、近藤彦吉、福島国太郎らの少年兵もこれに殉じたという。
(左/五稜郭での戦闘を描いた絵)
弾薬や兵糧が尽きようとする中、武揚は年少の者に、前途があるから、帰順して命を全うせよと命じたが、その者たちは応じず残って戦う事を選んだという。五稜郭に残った者たちは、戦死を覚悟し詩を作る者、歌を詠む者、それぞが辞世を作っていた。彼らの中に大塚霍之丞(おおつか・かくのじょう)がいて、辞世の句を今一度見直そうと、彼が二階に取りに行った時のことである。本営が置かれていた奉行屋敷の二階には四畳半の書斎があって、そこに榎本がいたという。隣には六畳の事務室があった。大塚が六畳の部屋に辞世を取りに行ったら、隣の部屋に榎本総裁が坐っていた。ところが、総裁の様子が変。南の方角を伏して拝んでいるのだ。榎本の脇には将軍から賜った脇差(わきざし)が一振り置いてある。大塚は階段を降りた振りをして、そっと様子を窺(うかが)っていたらしい。
榎本は皇城を拝し終わって、チョッキを外し腹を広げるや、脇差の鞘を払ってしっかりと握った。アッと思った大塚は階段から飛び上がる。彼はあわや突き立てようとする脇差の刃(やいば)を両手で捉(つか)まえた。大塚としては、榎本が柄(つか)を握っているから、どうしても刃を握るしかない。榎本総裁は「我、決心動かすべからず」と言って、脇差を引こうとする。大塚の方は「いけません」と言って手を離さない。両者の気迫恐るべし。白刃を素手で握っている大塚の左手が切れ、その指からは鮮血がほとばしる。赤い血で濡れながら、大塚が「大変、大変」と大声で叫んだので、階下の者たちが駆けつけると、そこには凄惨な光景があった。皆は「生死を共にすると言っておいて、独り先に死のうとは何事ですか。脇差を離しなさい」と命じるが、榎本は脇差を離さない。そうこうしている間にも、大塚の手からは血が流れている。榎本は「いかにも余が先に死のうとしたのは、これまで余が軍令の下に多くの人々を殺したから、今日は衆に代わって死ぬのだ」と言って、頑として脇差を離さなかった。そこで、みんなが榎本の指を一本づつ開いて、脇差をもぎ取ったのである。(『大鳥圭介』pp..203-204)
自害を阻止した仲間は、榎本に番兵十人をつけ監視させた。一同は階下で会議を開き、脇差を失った榎本は仕方ないので、高鼾(いびき)をかいて寝てしまったという。自刃(じじん)しようとした者が不貞寝(ふてね)をするなど、ここいらが榎本らしい。榎本は自分のせいで多くの部下を殺してしまったと責任を痛感していたのだ。榎本は真の将帥である。責任をすべて部下に押しつけて、自分だけ逃げようとする政治家とは大違いだ。後に高官となった榎本は、毎年五月箕輪圓通寺(みのわえんつうじ)で行われる戦歿者の供養には必ず出席したし、函館の碧血碑(へきけつひ)や咸臨丸(かんりんまる)の碑、鳥羽伏見の戦死者の碑といい、常に発起人や献金者となっていた。決死の覚悟を決めていた武揚であったが、諸将を説き伏せて条件付きの降伏を申し出たのである。官軍との談判を終えた後、榎本らは城に戻り、諸隊を整列させて、訣別の辞を述べたという。一同粛然とし、皆が涙を流す中、榎本、大鳥、松平、荒井の四人は門を出た。官軍の前に出頭した四人はいずれも割腹する覚悟であったが、鄭重(ていちょう)に扱われ、東京へ護送されたのである。
黒田の嘆願と西郷の対応
(左:木戸孝允/山縣有朋/西郷隆盛/右:大久保利通)
北海征討軍の凱旋後、榎本武揚らの処分について、御前会議の大問題となったらしい。木戸孝允や山縣有朋らは国賊なるがゆえ、斬首せねばならぬと主張したが、武揚の才能を惜しむ黒田は断固助命説を曲げなかった。それに五稜郭での会見で自分の首を賭けても助けると誓っていたのだ。伊藤博文も釜次郎(武揚)は逸材なので、処刑しては国家の損失になると思っていた。どうしても処罰に傾く評議を覆したかった黒田は、西郷隆盛を動かそうとし「榎本とは首を賭けて約束したのだから助けてやってくれ」と申し込んだという。すると西郷は平然として「それなら君の首をもらおう」という言い出し、黒田はついに二の句を挙げることが出来なかったらしい。(『明治功臣録』 p. 590) また、黒田の寛大論に対しての批判があった。ある中将が、武揚は賊軍の長だから誅殺せねば天下に示しがつかぬ、と発言したのだ。すると黒田は怒って「公(こう)らは自分が浅才(せんさい)だから、武揚の才幹(さいかん)を妬んで斬ろうとするのか。武揚を斬らんと欲するなら、先づ清隆の如き無用の材を斬れ」と罵倒し、席を蹴ってその場を去ってしまった。帰宅すると黒田は剃髪(ていはつ)して御前を騒がせてしまい、臣の罪は誅に当ると言い蟄居してしまった。(『偉人百話』 p.135)
(左:榎本武揚/右:大鳥圭介)
御前会議では斬首刑が提議されたが、黒田は既に榎本は軍門に降ったではないかと弁護し、彼ほどの人材は容易に得がたいと力説した。彼の命を助けて新政府にとうようすべし、との意見を述べるとともに、黒田は我が戦功に代えて死罪を赦してくれと懇願したのである。(『明治功臣録』 p.469) 黒田の熱心な建白書を読んだ大久保利通は黒田に賛成してくれたし、西郷も結局のところ折れたので、榎本一同は悉く赦免されることとなった。後に、榎本は公使としてロシアに派遣され、大鳥圭介は陸軍部長になり、荒井郁之助は軍艦奉行になったのは周知の事実。黒田の助命活動に榎本らは深く感謝した。後年、榎本の嗣子である武憲(たけのり)と黒田の娘梅子(うめこ)が結婚し、かくて無二の親友は親戚となった。
明治維新は体制の変革だったから、国内の不満分子が反乱を起こしても当然だった。尊皇精神篤い会津藩士ら幕臣を「賊軍」呼ばわりしたのだから、すんなりと薩長側に投降することはできない。歴史を学ぶ我々にとって、常に慙愧の念に堪えないのは、多くの逸材が命を失ったことである。幕末にあれほど多くの英雄俊才が出現したとは、今の日本と比べれば信じられない。もし、当時の若者が戊辰戦争や後の西南戦争で死ななければ、明治の日本にどれほど貢献したことか。生き残った元勲が偉大なら、死んでしまった志士も偉大だったはず。惜しい人物がたくさん戦場で散ってしまった。現在我々が国会で目にする議員どもが、いかに下劣であることか。「お国のために」という使命感がまったくない。国民が代議士を選ぶ民衆政治なのに、国民のためになる立派な人物が選ばれず、かえって国賊が増えているのだ。こう考えると、選挙がなかった幕末に偉人が綺羅星の如く現れたのは皮肉なことである。一流の人材を救った黒田清隆に感謝したい。つくづく思うが、明治とは奇蹟の時代であった。
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