無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2015年03月

敵が親友になった / 榎本武揚と黒田清隆の友情

  明治維新は英雄時代である。攘夷開国をめぐり日本国内が分裂し、血みどろの戊辰戦争に発展した。日本人が敵味方に分かれて戦ったのだが、そこには残酷さと共に、美談があったのだから、まことに日本人の戦争は興味深い。今回は幕臣の榎本武揚(えのもとぶよう)と黒田清隆(くろだきよたか)の友情について紹介したい。その前に、二人の背景を短く述べてみよう。

俊才の榎本武揚

Enomoto 4 (左/榎本武揚)
  武揚(釜次郎/かまじろう)は幼くして学問を好み、幕府の昌平黌(しょうへいこう)に入る前、ジョン万次郎こと中濱萬次郎(なかはま・まんじろう)について英語を学んだらしい。幕府が長崎に海軍伝習所を開いた時、そこで学ぼうとしたが、歳が若くて叶わなかったので、和蘭学伝習の員外生として遊学した。オランダ人ハルデスについて海軍機関の課程を学んだという。27歳の時オランダ留学選抜生となって、開陽丸(かいようまる)建造監督官を兼ね留学を命ぜられた。オランダでは陸海軍の兵制、法律学、化学器械学を研究したほか、当時発明されたばかりのモールス信号についても学んだのである。帰国後は開陽丸の艦長に任ぜられ、軍艦組頭取、軍艦奉行、若年寄格に昇進し、従五位和泉守にまでなった。

  武揚が帰朝すると幕府は滅亡の危機に瀕しており、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の権威は失墜したのである。戦闘を放棄して江戸に戻った德川慶喜(けいき)は、恭順を意を示して蟄居(ちっきょ)の身になってしまう。勝海舟らの譲歩と官軍による德川家の処分は、武揚にとって受け入れ難かった。憤激に堪えられなかった武揚は、開陽や回天といった軍艦を奪い、荒井郁之助、松平太郎、永井玄蕃を始め、彰義隊の残党らと共に品川から脱走してしまった。蝦夷地(北海道)に向かう途中、船を修理するため仙台に立ち寄った時、大鳥圭介が土方歳三ら二千名を率いて仙台に逃れていたので、武揚らと合流することになった。(小笠原長生 『伝記大日本史 第十三巻 海軍篇』 雄山閣  昭和11年 p.65)

ootori 2 (左/大鳥圭介) 
 函館に赴いた武揚らは、上陸後津軽兵と戦い、勝利すると五稜郭を占領した。ここに永井玄蕃を函館奉行とし、居留外国人に告げて軍政をしいた。西歐の戦闘を観たことのある武揚は、戦時国際法を遵守し、戦闘力を失った負傷兵に危害を加えることはしなかった。負傷した官軍兵を手当して、津軽に送り返してやったという。西歐留学をした武揚にとったら当然のことでも、戦闘の昂奮が醒めやらぬ中で、敵兵の治療を手厚くするすることは中々できることではない。当時の日本では敵軍に対して、そこまでしなかったからである。蝦夷地を平定後、武揚らはアメリカ合衆国に倣って、入札(投票)で総裁を決めることになった。その結果、武揚が総裁に選ばれ、松平太郎が副総裁になり、大鳥圭介は陸軍奉行に選ばれるなど、各人が役職に就いたという。

  蝦夷共和国を樹立したい武揚たちだったが、明治新政府はこれを認めない。明治2年3月になると、黒田清隆・山田顯義・中牟田倉之助ら諸将が薩長の兵を率いて討伐にやって来た。こうして榎本と黒田の対決が開始されたのである。五稜郭での戦いを述べる前に、ちょっとだけ黒田清隆について触れたい。

酒乱の黒田清隆

  第二代内閣総理大臣になった黒田清隆は、文武両道を辨(わきま)えた薩摩隼人(さつまはやと)で、西郷隆盛の寵児であり、後に大久保利通の補佐役になった人物である。通称「了介(りょうすけ)」という。西郷に気に入られた黒田は、薩摩側の密使として、長州との同盟を実現するため奔走した。神戸で坂本龍馬と出遭い、薩長連合に意欲を燃やした黒田は、長州に赴き、桂小五郎(木戸孝允)や高杉晋作らと談判したのである。薩摩に恨み骨髄の長州藩士の中で、高杉は黒田を歓迎し、その申し出に了承してくれた。黒田が桂に上京して大久保や西郷に会って欲しいと勧誘した時、薩摩と組むことに反対していた奇兵隊は、桂の身に危害が及ぶのではと心配したらしい。上京すればきっと西郷に殺されるのでは、と恐れたからである。しかし、高杉は笑って「西郷は必ず木戸をころさない。殺されたとて可(よ)いじゃないか」と論じたという。(朝比奈知泉 『明治功臣録 玄の巻』 明治功臣録刊行会 1915年 p.459) 木戸が聞いたらムッとするだろうが、いかにも剛胆な晋作らしい言葉である。そうはいっても、皆が心配するだろうから、高杉は反対者の主だった者を木戸に同行させて、京都行きを了承させたのである。

Kuroda Kiyotaka (左/黒田清隆)
  後に功績を認められて伯爵となった黒田は、天性はなはだ磊落朴素(らいらくぼくそ)、つまり細かいことにこだわらず大らかで、飾り気が無くて素直であったという。豪快で果敢な性格だったから、決断したら猛突進するタイプ。あっぱれな薩摩兵児(さつまへこ)の典型であった。刀剣に目がなかった黒田は、気に入った刀を見つけたら、お金を惜しまず手にしたという。ある時、刀剣商(とうけんしょう)が名刀ふた振りを売りに来て、これなら兜を割り、玉を斬ることも出来ます、と自慢したらしい。黒田は本当かと尋ね、庭に出て楓(かえで)の古株をその刀で斬ったところ、たちまち折れてしまった。そこで、もう一本の刀を手に取り、今度は松を斬りつけると、また折れててしまったが、空中に舞った刀の破片が黒田の右肩に刺さってしまった。するとその傷口から、血がたらたらと流れ、そばで観ていた商人は真っ青になって、そそくさと立ち去ってしまった。(中川克一 『近世 偉人百話』 至誠堂書店 明治42年 p.133)

  幕末維新の志士には大酒飲みが多い。黒田の酒乱は有名で、酔っ払うと西郷從道に相撲を挑むが、從道の方がいつも勝っていたという。毎度負けてしまう黒田はたいそう不満だった。ある宴会で、給仕の振舞が悪いと、例の酒癖を引き起こし、從道がこれを宥めようとすると、清隆はますます狂暴になった。そこで名刀を抜いて從道の首を取るつもりで刀を振り上げた。すると從道は刃の下に自らの頸(くび)を差し延べる。これには一座の者皆色を失ったそうだ。憤怒に駆られた黒田であったが、從道の自若たる態度に動かされ、刀を畳に突き立て、さすが吉之助(隆盛)の弟だ、と感嘆し狂暴ぶりが収まった。翌日、酔いの覚めた黒田は、從道の邸宅を訪ね、昨日の無礼を謝罪したという。(名将言行録刊行会 『近世 名将言行録』 第1巻 吉川弘文館 昭和9年 pp.272-273)

Saigo Judou (左/西郷從道)
  当時の武士だと酒豪は珍しくないが、底なしの大酒飲みには周囲の者が大迷惑したらしい。黒田清子夫人も大層苦労したようで、ある時、松方正義、大山巌、西郷從道に懇願して、夫に酒を慎むよう説得してくれと頼んだ。そこで三人が黒田邸を訪れると、黒田は大いに喜び直ちに酒を振る舞った。禁酒を勧めにきた客にお酒を注ぐなんて、さぞ三人も気まずかったであろう。出された盃をしぶしぶ受け取った三人は、酒がいかに有害かを諄々(じゅんじゅん)と論じ、しきりに清子夫人の苦心を説いたのである。黒田は三人の言うことを黙って聴いていたが、最後に一言発した。黒田は自分に小言を云えるのは、西郷隆盛と大久保利通だけだ、と喝破したという。結局、三人の説得は無駄に終わり、松方らは退散したらしい。(偉人百話 p.134) こういうタイプの豪傑には、ちまちました説教など通じないのだ。でも、酔っ払って大暴れの薩摩隼人って、理性を失った熊みたいで始末に悪い。


流血の真剣白刃取り

Goryoukaku






 (左/五稜郭)

  函館に盤踞した幕臣たちの形勢は不利だった。五稜郭に籠城したからとて、圧倒的火力と物量を誇る官軍に勝つことはほぼ不可能だ。荒井郁之助や土方歳蔵らは軍艦「回天」に乗り込み、「蟠龍」と「高雄」の二艦を率いて出航し、敵艦隊と戦闘を始めた。しかし、官軍艦隊の攻撃はすさまじく、回天と蟠龍は退却し無事還ってこれたが、高雄は追撃されて降伏してしまった。陸と海の戦闘において武揚らの軍は奮闘したが、やはり官軍の攻撃は優位を保ち、武揚らは戦艦を失うし、陸戦でも多くの死傷者を出してしまう。激戦の最中、官軍の蛮行が起こった。函館を占領する官軍の中で、久留米藩士は函館病院を襲って、敵の負傷者を斬ろうとしたが、薩摩隊の山下喜次郎がその暴挙を止めた。しかるに、松前・津軽の兵は、高龍寺分院にいた負傷兵を惨殺し、火を放って分院を焼いてしまったのだ。薩摩藩以外の諸藩では、捕虜や負傷者を直ちに殺してしまうのが常だった。

Hakodate 1
  五稜郭に立て籠もる武揚らに対し、官軍は降伏を勧めることにした。ところが、和議の申し出に、武揚らは蝦夷の地に独立政治圏を設けさせろ、と条件をつけてきた。征伐軍はこんな要求を飲めるはずがない。それに、武揚もそんな要求が通るはずはない思っていたから、残った者どもと玉粋を覚悟していたのである。官軍は薩摩藩の中山良三を遣わし、武揚たちに降伏を促したが、結局徒労に終わってしまった。しかし、最期を悟った武揚は、オランダ留学以来所蔵していた萬国海律全書二巻を兵火に焼くのはもったいないと考えた。この本はフランス人オルトランによって書かれたもので大変貴重であった。そこで、武揚はこの稀覯本(きこうぼん)を中山の手に渡し、将来我が海軍発展のために利用してくれ、と申し出たのである。この蔵書を受け取った黒田は、後に福澤諭吉に翻訳させ公にしたという。官軍はこの寄贈に感謝して、五稜郭に酒を届けたのである。(山崎有信 『大鳥圭介』 北文館 大正4年 p. 201) 賊軍と呼ばれても、その愛国心には一点の曇りもなかった。たとえ自分の命が消えるとも、祖国は永遠であることを確信していたのだ。

  武揚は死後も日本の発展を願い、少しでも祖国に貢献したいと思っていた。武揚はさらに偉かった。五稜郭が官軍の攻撃に晒されているのに、丸毛牛之助(まるもうしのすけ)に命じて、敵の捕虜11名を還(かえ)すことにした。五稜郭が陥落した時、味方が捕虜を誤って殺すかもしれぬので、武揚は予め送還させたのである。この捕虜とは、高龍分院を襲撃し、病人怪我人を惨殺した松前・津軽の兵であった。悲しいことだが、最後の戦闘を迎えつつあった武揚たちの軍勢からは、脱走者が多数出ていたのである。逃走する兵もいれば、死闘を続ける兵もいた。戍将砲兵頭(じゅしょうほうへいがしら)の中島三郎助は、武勇を発揮し鉄砲で敵兵を斃(たお)すと、ついには抜刀(ばっとう)して敵軍に突撃した。鬼神と化した中島は奮闘したが、哀れ敵弾に当たって斃れてしまった。彼の子である中島恒太郎(21歳)と英次郎(19歳)は、父の討死を見て怒り、銃を捨てて刀を揮って敵中に斬り込んでいった。敵数人を斬ったが、ついに両人とも戦場の露と消えてしまった。中島の部下、朝比奈三郎、近藤彦吉、福島国太郎らの少年兵もこれに殉じたという。

Hakodate 2 (左/五稜郭での戦闘を描いた絵)
  弾薬や兵糧が尽きようとする中、武揚は年少の者に、前途があるから、帰順して命を全うせよと命じたが、その者たちは応じず残って戦う事を選んだという。五稜郭に残った者たちは、戦死を覚悟し詩を作る者、歌を詠む者、それぞが辞世を作っていた。彼らの中に大塚霍之丞(おおつか・かくのじょう)がいて、辞世の句を今一度見直そうと、彼が二階に取りに行った時のことである。本営が置かれていた奉行屋敷の二階には四畳半の書斎があって、そこに榎本がいたという。隣には六畳の事務室があった。大塚が六畳の部屋に辞世を取りに行ったら、隣の部屋に榎本総裁が坐っていた。ところが、総裁の様子が変。南の方角を伏して拝んでいるのだ。榎本の脇には将軍から賜った脇差(わきざし)が一振り置いてある。大塚は階段を降りた振りをして、そっと様子を窺(うかが)っていたらしい。

  榎本は皇城を拝し終わって、チョッキを外し腹を広げるや、脇差の鞘を払ってしっかりと握った。アッと思った大塚は階段から飛び上がる。彼はあわや突き立てようとする脇差の刃(やいば)を両手で捉(つか)まえた。大塚としては、榎本が柄(つか)を握っているから、どうしても刃を握るしかない。榎本総裁は「我、決心動かすべからず」と言って、脇差を引こうとする。大塚の方は「いけません」と言って手を離さない。両者の気迫恐るべし。白刃を素手で握っている大塚の左手が切れ、その指からは鮮血がほとばしる。赤い血で濡れながら、大塚が「大変、大変」と大声で叫んだので、階下の者たちが駆けつけると、そこには凄惨な光景があった。皆は「生死を共にすると言っておいて、独り先に死のうとは何事ですか。脇差を離しなさい」と命じるが、榎本は脇差を離さない。そうこうしている間にも、大塚の手からは血が流れている。榎本は「いかにも余が先に死のうとしたのは、これまで余が軍令の下に多くの人々を殺したから、今日は衆に代わって死ぬのだ」と言って、頑として脇差を離さなかった。そこで、みんなが榎本の指を一本づつ開いて、脇差をもぎ取ったのである。(『大鳥圭介』pp..203-204)

  自害を阻止した仲間は、榎本に番兵十人をつけ監視させた。一同は階下で会議を開き、脇差を失った榎本は仕方ないので、高鼾(いびき)をかいて寝てしまったという。自刃(じじん)しようとした者が不貞寝(ふてね)をするなど、ここいらが榎本らしい。榎本は自分のせいで多くの部下を殺してしまったと責任を痛感していたのだ。榎本は真の将帥である。責任をすべて部下に押しつけて、自分だけ逃げようとする政治家とは大違いだ。後に高官となった榎本は、毎年五月箕輪圓通寺(みのわえんつうじ)で行われる戦歿者の供養には必ず出席したし、函館の碧血碑(へきけつひ)や咸臨丸(かんりんまる)の碑、鳥羽伏見の戦死者の碑といい、常に発起人や献金者となっていた。決死の覚悟を決めていた武揚であったが、諸将を説き伏せて条件付きの降伏を申し出たのである。官軍との談判を終えた後、榎本らは城に戻り、諸隊を整列させて、訣別の辞を述べたという。一同粛然とし、皆が涙を流す中、榎本、大鳥、松平、荒井の四人は門を出た。官軍の前に出頭した四人はいずれも割腹する覚悟であったが、鄭重(ていちょう)に扱われ、東京へ護送されたのである。

黒田の嘆願と西郷の対応

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(左:木戸孝允/山縣有朋/西郷隆盛/右:大久保利通)

  北海征討軍の凱旋後、榎本武揚らの処分について、御前会議の大問題となったらしい。木戸孝允や山縣有朋らは国賊なるがゆえ、斬首せねばならぬと主張したが、武揚の才能を惜しむ黒田は断固助命説を曲げなかった。それに五稜郭での会見で自分の首を賭けても助けると誓っていたのだ。伊藤博文も釜次郎(武揚)は逸材なので、処刑しては国家の損失になると思っていた。どうしても処罰に傾く評議を覆したかった黒田は、西郷隆盛を動かそうとし「榎本とは首を賭けて約束したのだから助けてやってくれ」と申し込んだという。すると西郷は平然として「それなら君の首をもらおう」という言い出し、黒田はついに二の句を挙げることが出来なかったらしい。(『明治功臣録』 p. 590) また、黒田の寛大論に対しての批判があった。ある中将が、武揚は賊軍の長だから誅殺せねば天下に示しがつかぬ、と発言したのだ。すると黒田は怒って「公(こう)らは自分が浅才(せんさい)だから、武揚の才幹(さいかん)を妬んで斬ろうとするのか。武揚を斬らんと欲するなら、先づ清隆の如き無用の材を斬れ」と罵倒し、席を蹴ってその場を去ってしまった。帰宅すると黒田は剃髪(ていはつ)して御前を騒がせてしまい、臣の罪は誅に当ると言い蟄居してしまった。(『偉人百話』 p.135)

Enomoto 2OOtori 3 (左:榎本武揚/右:大鳥圭介)
  御前会議では斬首刑が提議されたが、黒田は既に榎本は軍門に降ったではないかと弁護し、彼ほどの人材は容易に得がたいと力説した。彼の命を助けて新政府にとうようすべし、との意見を述べるとともに、黒田は我が戦功に代えて死罪を赦してくれと懇願したのである。(『明治功臣録』 p.469) 黒田の熱心な建白書を読んだ大久保利通は黒田に賛成してくれたし、西郷も結局のところ折れたので、榎本一同は悉く赦免されることとなった。後に、榎本は公使としてロシアに派遣され、大鳥圭介は陸軍部長になり、荒井郁之助は軍艦奉行になったのは周知の事実。黒田の助命活動に榎本らは深く感謝した。後年、榎本の嗣子である武憲(たけのり)と黒田の娘梅子(うめこ)が結婚し、かくて無二の親友は親戚となった。

  明治維新は体制の変革だったから、国内の不満分子が反乱を起こしても当然だった。尊皇精神篤い会津藩士ら幕臣を「賊軍」呼ばわりしたのだから、すんなりと薩長側に投降することはできない。歴史を学ぶ我々にとって、常に慙愧の念に堪えないのは、多くの逸材が命を失ったことである。幕末にあれほど多くの英雄俊才が出現したとは、今の日本と比べれば信じられない。もし、当時の若者が戊辰戦争や後の西南戦争で死ななければ、明治の日本にどれほど貢献したことか。生き残った元勲が偉大なら、死んでしまった志士も偉大だったはず。惜しい人物がたくさん戦場で散ってしまった。現在我々が国会で目にする議員どもが、いかに下劣であることか。「お国のために」という使命感がまったくない。国民が代議士を選ぶ民衆政治なのに、国民のためになる立派な人物が選ばれず、かえって国賊が増えているのだ。こう考えると、選挙がなかった幕末に偉人が綺羅星の如く現れたのは皮肉なことである。一流の人材を救った黒田清隆に感謝したい。つくづく思うが、明治とは奇蹟の時代であった。




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帰化支那人が政治家になる / 移民の侵略を受けたカナダの例

足下から支那人が浸透する

  ついに支那人が日本侵略を開始した。もちろん、人民解放軍による軍事作戦ではない。兵器を使わない、人海戦略である。東京には支那人がごまんと住んでいて、近年日本国籍を取る支那人が急激に増えた。あの分かりやすい工作員、張景子が堂々と帰化し、一般人を笑顔と流暢な日本語で洗脳している。張の役目は対日宣伝工作と無知な大衆に支那人を紹介させる「つなぎ役」であろう。また、「日本中国経済交流促進会」の代表・韓暁清も帰化した支那人エージェントである。慾の皮が突っ張った日本人に支那投資を勧めて、まんまと支那に送ってしまった。14億ないし16億人の悪人が棲息する支那を、巨大市場と勘違いした日本のビジネスマンは、身ぐるみ剥がされて帰国したのだ。「支那人排斥法」が無い日本では、国籍の無料配布が横行し、お金に困った支那人は日本にたかろうと、あの手この手で永住権を手に入れようと努力する。北京政府も日本の甘い国籍取得制度を利用し、面倒見切れない貧民や病人を日本に送り込む。かくて日本はガラクタのような支那賤民を処分するゴミ捨て場と化した。

  日本を征服するのに刃物は要らぬ。図々しい支那人民を日本に廃棄して、あちこちに支那人街を作らせる。大量の支那人が日本に帰化すれば、その中から政治家が現れ、合法的に立法府を占拠できる。資金と支援は北京政府から支給されるし、公共精神のカケラも無い支那人は、一円でも多く利益をくれる支那人候補に投票するだろう。腐敗は都市から始まる。日本に帰化した李小牧(リー・シャオムー)は、春の地方統一選挙で、新宿区議に立候補するらしい。売国組織の民主党から出馬するそうだ。李は湖南省出身で、1988年に来日し、歌舞伎町で「湖南菜館」を経営したという。歌舞伎町の飲食店や風俗店を紹介していたというから、要は客引きのようなブローカーである。怪しい店とつるんで日本人をカモにしていたんじゃないか。善意で紹介していたとは思えない。支那人の親切には、必ず裏があるからだ。

  世界中で嫌われ者調査を行えば、支那人が常にトップじゃないのか。支那人は大都会に集中し、どんな状況下でも生き延び繁殖する。本当かどうか知らないが、台所でゴキブリを1匹見つければ10匹いると思え、と聞いたことがある。ならば、都会で支那人を1人見つければ30人くらいると推測した方がいいだろう。一旦、日本に支那街が出来れば、100年経っても変わらない。誰も支那人と隣人になりたくないだろう。それに、支那街で金持ちになった者が、古巣を退去しても、空いた場所にはまた別の支那人が住み着く。支那の貧乏人は蟻のようにどこからともなくやって来る。さらに厄介なのは、支那街に境界線はなく、支那人が周辺地域へ徐々に浸透し、支那街が拡大してしまうのだ。

  支那人は努力せずに、日本人を駆逐できる。支那人がやって来れば、地元の日本人が郊外か僻地に引っ越してしまう。まるでフン族を恐れたヨーロッパ人みたいに移住を強いられる。ベンチに坐る日本人の隣に、ガチョウのように話す支那人が坐れば、日本人は即座に立ち去ってしまう。公園で子供を遊ばせる日本人は、支那人が集まってくれば、不愉快だし、唾や痰を吐く姿に嫌悪感を抱く。公共プールに支那人がやって来れば、一緒に泳ぎたくない。臭いだけではない水虫の足で入ってくる支那人は、肛門に糞がついていればプールの中で洗浄するだろう。しかも、プールの中で垢を落としたり、鼻水や痰を流すことはもちろん、小便だって平気で垂れ流す。支那人の子供なら水中で大便小便など普通だ。支那人は原因不明の病気を持っているから、性病くらいで驚いちゃいけない。B型肝炎、梅毒、ヘルペス、結核、何でもありだ。「そんな ! 」思う日本人は甘い。子供に食堂や電車、病院で排便させる支那人が実際いる。彼らは他人の迷惑を考えない。自分中心で生きる支那人は周囲を敵と見なす。日本人の常識は通用しないのだ。

華僑による侵略

  国境意識が無い支那人はどこにでも進出する。雲南省のヘビが隣のベトナムに侵入したって不思議じゃないだろう。同じことだ。超人的欲望をもつ支那人に不可能はない。彼らは5千年前から地球市民。支那人は国名さえ持っていなかった。日清戦争後、日本にやって来た支那人留学生が、知り合いになった日本人から「国名」を聞かれてまごついた。中華と蛮族の地だけの世界観に、いちいち国名は要らない。支那人にとって世界は一つ。支配者の王朝があるだけ。だから、唐や元、宋、清という王朝名で充分だった。区別があるとすれば、支那文明の及ぶ地域が高級人間の住む場所で、そこから離れた地域は“化外の地”である。ところが、支那人は昔から「民族のるつぼ(melting pot)」で、どんな民族をも同化させてしまう。たとえて言うなら、巨大な甕(かめ)みたいなもので、白菜からクズ野菜はもちろんのこと、履き古した草履や廃棄処分の畳だって漬け物にしてしまう。唐辛子を混ぜれば、重金属や高濃度の農薬がスパイスになっていても気付かない。犬の糞やネズミの死骸が甕の底に沈んでいたって平気。支那人なら、カビの生えた米だって漂白剤を使って白米にし、ドロドロした漬け物を載せてご馳走様。自分で喰わなければ、日本人に「ねぇ、旦那。今回特別安くしときますから、一杯召し上がっては? 」、と勧めてお金をせしめる。ゼニが命の支那人は、儲け口かあると耳にすれば、たとえ日のなか水のなか、溶岩の中にだって飛び込める。一か八かの博打が得意。商売上手でなけりゃ、筋肉労働をする苦力(クーリー)になってひと稼ぎ。タイ、ビルマ、マレーシア、と何処にでも行く。お金をくれるなら、深海の原子力潜水艦を素潜りで探すのだ。支那人の辞書に「不可能」はない。ただし「心優しい日本人」にだけは、逆立ちしてもなれないけど。

  明治維新を経て海外視察を出来るようになった日本人が、アジア諸国を訪れたら、あちこちに支那人を発見してビックリ。西歐白人の植民地はケシカランと憤った日本人は、その侵略者に仕えて暴利を貪(むさぼ)る支那人を目にした。たとえば、オランダ人はインドネシアを植民地にしたが、彼らの収奪に加えて支那人による原住民の搾取も酷かった。数の上で少数派だってヨーロッパ人支配者は、多数派の原住民を統治するため、支那人を中間管理職のように使ったのである。支那人はその性格上、他民族と協力するより、血族や同胞の支那人と結託してゼニ儲けに邁進するから、ヨーロッパ人としては、現地人を役人にするより安心かつ便利であった。多くの場合、現地人の憎しみは雲の上から命令する白人より、実際に接触する支那人に向けられることの方が多い。支那人は利益第一主義が信条だから、ヨーロッパの支配者が現地人をどんなに搾取しようがお構いなし。そのおこぼれに預かったり、白人以上に“ピンはね”をして儲ければ良いのだ。賄賂文化を当然とする支那人は、不届きなオランダ人支配者にとり入って、更なる利益を求める。したがって、原住民は更に窮乏化し、植民地の支配構造はますます堅固になった。

  東インド会社を運営するオランダ人は、日本人と違って現地人の福祉向上なんて考えない。現地の資源や住民を利用して収益を上げれば満足。だから、細々(こまごま)とした地方行政は面倒だし、端(はな)っからやりたくない。そこで支那人を登用する。汗水垂らして働きたくない白人支配者は、様々な産業を便利な支那人に丸投げ。上前をハネるだけで懐が膨らむというわけ。悪代官のようなオランダ人は、これまた悪徳商人の鑑(かがみ)たる支那商人と結託する。ニコニコした支那人は「お代官様、なにとぞ手前どもに独占権を」と饅頭の箱に小判を入れて差し出す。そうすると、オランダ人の官吏は「おぬしも悪よのう。ふふフ。良きにはからえ」と独占権を与えてしまう。支那人にとって賄賂は社会の潤滑油。お金は神様だ。孔子なんて貧乏学者に用はない。支那人のラップ・ミュージックでは、金貨が詰まった袋が楽器となる。ジャラジャラ鳴る音に合わせて踊るのだ。

  支那人はインドネシアで植物を植え、胡椒などのスパイスを採取し、田んぼで米を作るが、それは自分のためであり、原住民の富を悉(ことごと)く掠奪しているだけ。支那人はオランダ支配のもと様々な便益を得ていた。オランダ人は最大の商業根拠地であったバタビア港へ貿易を集中させたかったから、他の港に高率関税をかけてライバルを蹴落とそうとした。オランダ商品と競争して輸入される外国製品に対して2倍の輸入税をかけたという。しかし、支那人によるバタビア貿易はこういう苛酷な制限を免れていた。支那からやって来る貨物船は、一隻あたり550レアル払うだけで、一切の煩雑な手続きから免除されていた。( 満鉄東亜経済調査局 『蘭領印度に於ける華僑』 昭和15年/ 1986年 青史社 p.12) 商売の才能に乏しい現地人はもっぱら支那人に雇われる労働者のまま。利益をしこたま貯める支那人は着実に権力と財力をつけてくる。今も昔も支那人は変わらない。

  利益を上げる近道は「独占」である。昔、デイヴッド・ロックフェラーが言っていたが「競争」は悪だ。独占体制には旨味がある。支那人は製糖業ばかりではなく、砂糖からつくる醸造酒まで独占していたのだ。甘蔗(かんしゃ/サトウキビ)栽培や精糖工場の経営は、貧しい華僑が携わり、バタビアの豪商支那人から資金を調達していた。1カ所の工場で働く200名の職人中、平均60人くらいが華僑であったらしい。1710年の頃、バタビア近郊の農村に130の工場があったから、7,000人以上の華僑が精糖工場で働いていた計算になる。目ざとい支那人は砂糖ばかりか塩までも独占していたのだ。シンガポールで有名なトマス・ラッフルズ卿は、「オランダ統治下で、塩の製造は排他的特権として支那人に下請けされていた」と語っていた。(Sir Thomas Stamford Raffles, The History of Java, Vol 1, Second Edition, John Murray, London, 1830, p.198)

  東南アジア諸国で活動する華僑や客家を説明すると長くなってしまうので省略するが、インドネシアにおける華僑人口を紹介したい。
       欧州人      支那人
1860年       43,876                221,438
1900年       91,142                537,316
1920年      186,114               809,039 
1930年      240,417              1,233,214

  支那人は現地人が商業的才能が乏しく勤勉性も無いことを見抜き、支那大陸から続々と押しかけてくる。それに当時、清朝の満洲人に反抗していた明朝の残党が大量に流入してきた。この支那人共がこれまたどうしようも無い悪党で、蛮行をはたらき現地人と揉めていたという。情けない話しだが、インドネシアの原住民は外国人の土地収奪に対抗する保護者もいなかった。現地の土侯や東インド会社が庶民を守ってくれるはずもない。支那人が進出してきたことで、土民の小商いは破滅したうえに、農業・興業は停滞の一途。土民の生活は支那人による独占請負制度のせいで苦しくなった。哀れな土民は支那人に隷属し、活動の自由が奪われ、彼らの経済的発展は多大な制約を受けた。(『蘭領印度に於ける華僑』p.27) なんか未来の日本人みたい。和民やユニクロ程度で「ブラック企業」だなんて騒いでいる日本人は甘い。支那人に支配されれば、まともな生活など高嶺の花になったしまう。支那人政治家が誕生すれば、支那系帰化人の内閣の閣僚や官僚ばかりではなく、財界や政界で暗躍するに違いない。腐敗を摘発する検事だって支那系だろうし、公平なはずの裁判官だって支那人だろう。裁判員に帰化支那人が混じれば判決は日本人に不利となる。やがてコネや不正が横行し、格差社会は支那大陸並みになるだろう。

支那人の十八番たる人口侵略

  支那人は誰に征服されようともへっちゃらだ。殺されなければ後はどうでもいい。身ぐるみ剥がされてスカンピンになっても、裸一貫でまたのし上がればよいだけの話。支配者だって人間だろう。慾があれば隙がある。腹が減れば飯を喰いたい。スケベ心があれば女が欲しいし、旨い酒を飲めば酔っ払う。金貨を1枚持てば、もう1枚欲しくなる。故郷が異民族に占拠されたって逃げれば良いだけのこと。三十六計逃げるにしかず。ほとぼりが冷めたら戻ってこよう。たとえ「蒙古人が国土を奪った」としても、その土地をモンゴル沙漠へ持ち帰るわけではない。蒙古人が滅んでも、土地は残る。それなら異人が死ぬまで気楽に待つだろう。支那通の長野朗は「支那人は戦ひに勝つも負けても発展する」と喝破している。(長野朗 『民族戦』 柴山教育出版 昭和16年 p.78) 支那人が勝った時には、征服された領土の男は、本国各地に分散させ同化させる。その後、女と老人だけが残った所に支那人が入植して、彼らを同化させるという。要は、男を追い出して、女を頂くと言うのが支那人のやり方だ。しかし、戦いに負けた時は、支那人は多数派の強みで、やって来た征服者を飲み込んで同化してしまう。そうして支配者の祖国にどんどん押しかけて住み着く。すると、ここでもまた同化を開始するのだ。踏まれても蹴られてもめげない支那人は、支配民族と混血して、彼らを支那人にしてしまう。恐ろしいほど図々しい奴らである。

     支那人の本性を理解した数少ない日本人研究者である長野氏によれば、支那人は自分の領土の一部を占領されるくらいは何とも思っていないらしい。外国の金で立派に返して貰うくらいに思っている。(上掲書 p.79) 支那の強みは、支那大陸が地球上で最低の土地であることだ。どんな外国人がそこを占領しようとも、それ以上酷くならない。支那人は最低の種族で国家を持っていないのだ。支那皇帝と比べれば、日本の犯罪者の方が遙かに人間らしい。ヤクザだって支那の役人ほど無茶な搾取はしないだろう。殺した相手の肉を食べる組長なんかいない。一方、支那の街は征服者だって呆れてしまう。そこら辺に黴菌・糞尿・害虫・ゴミ・乞食があって、住んでいて不愉快だ。支配した領民は海千山千、煮ても焼いても食えない奴らばかり。命令しても抜け穴を探して、逃れようとするし、命令した役人を抱き込もうとする。支配者の方が支那人化して腐敗してしまう。規律が緩み、道徳が廃れ、仲間同士の裏切りや反目が頻発して、征服者は衰えてくる。あの強靱な蒙古人だって支那人の毒牙にかかってしまったくらいだ。

    神が腐敗している支那人は、どんな汚い所でも眠ることが出来るし、便所の中でも食事が出来る。黴菌の倉庫たる支那に日本人が住むと気が狂ってしまうのではないか。日本人の女子高生なら、支那の臭いを嗅いだだけで昏睡状態になったしまう。領地を欲しがった戦国大名だって、支那全土を貰うことは避けたい。それどころか、大金を積まれたって断る。疫病神より有害な支那人を臣下にするなんて想像できないだろう。一方、支那人の夢は日本人に支配されることだ。朝鮮人がうらやましい。あんな最低ランクの乞食集団が、日本人のお陰で立派になった。日本人は毎日やって来るサンタクロースのような天使で、プレゼントをくれるだけでなく、煙突を掃除してくれたり、別荘を建ててくれた上に、食事・医療・教育・道路・鉄道まで作ってくれるのだ。退却すれば全部財産を置いていってくれるばかりじゃない。詫び状と札束の山を送ってくる。人間離れした善意の日本人は、銀河系の外から来た宇宙人なのかもしれない。ただし、鳩山由紀夫と違う惑星である。

消滅するイギリス的カナダ

  支那人を受け入れたことで、アングロ・サクソン世界は崩壊の危機にある。たとえば、カナダはオーストラリア同様、多民族・多文化主義の害悪に冒されており、街並みが醜悪になったり、支那人の遺伝子がカナダ白人の中に流入してしまった。支那人の人口侵略は人間と土地を犯す。支那人と結婚した西欧系カナダ人は、当然混血児をもうける。しかし、その子供は英語を話し、カナダ文化を身につけても、やはり支那人になってしまう。支那人の遺伝子を持つことで、ヨーロッパ系カナダ人との自覚を持てずに、心の大半が支那人化されてしまうのだ。イナゴの大群みたいに飛来する支那移民を外人とは考えない。むしろ可哀想な同胞と考え、定住できるよう手伝いたくなる。イギリス系カナダ人なら追い払い出したい移民でも、混血児にとったら自分の同族だから、移民排斥論者は自分の敵とみなす。支那人のみならずアジア系カナダ人全体が、西欧系社会を守りたいカナダ人と対立するのだ。イギリス系カナダ人は北欧系の赤ん坊が欲しいのに、白人の出生率は低く、急増するのはアジア移民の子供ばかり。かつてはブリティッシュ・カナダだったのに、今じゃエイジアン・カナダである。

 支那混血児が支那人贔屓なのは分かるとしても、カナダ政府が売国行為をしてきたことは異常であろう。カナダ政府は大金を投資する支那人を受け入れる誘致政策を28年間も続けてきた。最近になって、ようやく支那移民の弊害に気がついて、そのプログラムを廃止することにしたそうだ。(Mark O'Neill, China emigration flood to continue despite Canadian decision, Hong Kong Economic Journal, February 25, 2014) 金を持つ支那人なら国籍を与えようとするカナダ人は、文字通り売国政策を掲げていた。カナダには懐にゼニを詰め込んだ支那人ばかりではなく、腹に子供を宿した支那女が殺到したのである。赤ん坊をカナダで産んで、カナダ国籍を持つ子供にしたいと計画する支那人が大量発生した。「パスポート・ベビー(passport baby)」を目指して来訪する支那人妊婦は、カナダの入管でいかに役人の尋問や検査をくぐり抜けるかのテクニックを習っていた。つまり、支那にはカナダ人職員を如何に騙すかを教えるコーチやコンサルタンドがいたのだ。(Joseph Brean, Tory crackdown on ‘birth tourism will eliminate Canadian passport babies, National Post, March 5, 2012) まったく、支那人ってのは悪いことには熱心だが、まともなことに頭を使わない。犯罪だと嬉しくなって努力する。支那人は犯罪を気にせず、カナダを乗っ取ろうとしているのに、白人のカナダを守ろうとす国民はネオ・ナチ扱いだ。カナダはもともと白人国家だから、その人種構成を守るのは当然だろう。伝統を継承することが素晴らしいなら、遺伝子を守ることだって大切なはず。アフリカ人がブラック・アフリカを守りたいと言えば、誰も反対しないだろう。なぜカナダ人が同じことを言うとレイシストなんだ?

  支那人は一般人でもヤクザより不動産業者に向いている。地上げ屋は恐喝罪を警戒しながら住民に立ち退きを迫る。派手な服を着た柄の悪いチンピラが「テメエ ! どかねえとどうなるかわかってんのか!! 口の中に手を突っ込んで舌を引き抜くぞ。ついでに目ん玉と金玉取ってやろうか」となどと言って、むりやり契約書に判子を押させて追い出す。しかし、支那人はそんな荒技を用いない。カナダのある都市に住み着いて“支那人らしく”暮らせばよい。街角で支那語を話し、他人の迷惑考えず、唾を飛ばしながら口論したり、そこら中にゴミを捨てたり、痰を吐けばカナダ人は不愉快になる。支那系住民が増えた商店街には、支那人が営む安物雑貨店や食堂、酒場、風俗店が出来上がるだろう。客だってほとんどが支那人だ。英語より北京語や上海語が普通になる。学校にも支那人の子供があふれ出し、卒倒したカナダ人の親は白人主流の私立学校を探し出す。一人二人と次々に支那人が集まれば、そこはチャイナタウンとなって、カナダ白人は自主的に立ち退いてしまう。

  支那人はまず都心部に集まる。多民族主義を掲げるカナダには支那人ばかりではなく、フィリピン人、アフリカ人、インド人、アラブ人といった有色人種がたくさん住んでいる。カナダの国勢調査局(National Household Survey/NHS)によれば、2011年には152,300人のフィリピン人が移住してきたし、それに続き支那人が122100人、インド人が121,400人も移民してきたという。(Immigration and Ethnocultural Diversity in Cnada, 2011 ,p.8) 支那人は都会志向だから、カナダのトロント、ヴァンクーヴァー、モントリオールが狙われた。カナダに移住してきた外人の63.4パーセントが子の三大都市に住んでいるのだ。トロントが一番悲惨で、カナダに来た外人の37.4パーセントがそこへ流入したのだ。2011年に約2,537,400人がトロントに住み、人口の46パーセントを占める。

  ヴァンクーヴァーには移民913,300人がやって来て、人口の40パーセントを占めるに至った。モントリオールの場合だと、移民の846,600人がそこに住み着き、人口の22.6パーセントを占めるという。(p.10) アフリカ黒人やイスラム教徒の中東アジア人でさえ嫌なのに、尊大な支那人がやって来たのだ。あの野蛮なロシア人だって手を焼く支那人を、温和なカナダ人がどうこうできるはずがない。支那人が集まれば、必ず支那料理店ができ、蟻のように薄汚い支那人がたむろする。どんな食材なのか不明な上に、下水溝油で揚げた物をむしゃむしゃ喰っている。脂ぎった料理を目にしたカナダ人は食欲を失うどころじゃない。料理店の近くにだって寄りつきたくないのだ。しかし、無知な白人は喜んで喰っている。情報に疎い欧米人は、支那人がどんな民族なのか理解していないから、偽装食品にお金を払っているのだ。集団としての支那人は大量破壊兵器に匹敵する。核爆弾や炭疽菌と同じく、都市に投下されれば住民は消滅してしまう。支那人街に住もうとするカナダ白人なんていない。毎日不愉快な支那人に会うなんてゾっとする。肥だめと同じ臭いの息を吐く支那人と挨拶したくないのも当然だ。支那人が来れば故郷がなくなる。この危険性に気付いても排斥できないカナダ人は駆逐されるだけだ。

  日本人は日本の良さを分かっていない。我が国が素晴らしいのは、日本人が日本を構成しているからだ。天のイタズラか神様からの試練か何か分からぬが、地球上で最良の日本が、最悪の暗黒大陸からすぐそばにある。同じ哺乳類とは思えない、爬虫類のような支那人が、我が国に住み着き、国籍を取得し、政治権力を握ろうとしている。田舎なら難しいかもしれぬが、都会なら不真面目な有権者がたくさんいるから、支那人でも当選するかもしれない。支那人のことだ、口八丁手八丁で住民をたらし込み、裏献金を駆使して、新宿の有力者を籠絡(ろうらく)するだろう。売国奴の巣窟たる民主党には、これからも多くの帰化アジア人が集結するに違いない。もっと賢い支那帰化人は自民党から出馬するだろう。支那利権をちらつかせれば、北京政府の手先でも平気で支持する輩(やから)が多いのだ。波風を嫌い丸く収めようとする日本人は、遠慮や恥を知らぬ支那人に対抗できない。単なる個人の日本人と人民解放軍を背にした北京政府だと勝負にならず、日本人の敗北は必定。支那人に占領されてから、支那人排斥論者になっても遅いのだ。マスコミからレイシストとか右翼と呼ばれようが、アジア人の日本永住や国籍取得を阻止せねばならない。こう非難する左翼に限って、事態が深刻になった時、責任を取らず、知らぬ振りを決め込む。過去を綺麗さっぱり忘れて「なぜこうなったのでしょうか?」なんて白々しいセリフを口にする。李小牧に投票する有権者は匿名だから、将来への責任は持たない。いずれ怒った日本人は「誰だ? あんな奴に投票したのは」と責任者追求を始めるだろう。でも、後悔先に立たずである。




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