無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2015年03月

オバマ夫人の隠したい過去 / 出来の悪い優等生の論文

2年生をスキップ

Michelle-Obama 8











  今年3月に米国からミシェル・オバマ大統領夫人が来日した。今まで日本を軽視していたのに、急に暇ができたのか、日本を訪問したくなったらしい。日本人より支那人に媚びたオバマ夫人は、亭主のバラクが来日する時、同伴せずに米国で夫を見送ったのだ。黒人ファースト・レディーには、これといった特別な興味が無いから、彼女が来ても来なくてもどうでもよい。人気者のキャロライン・ケネディー大使が活躍した方が、日本人は嬉しいのではないか。落ち目の亭主に代わって、安倍晋三首相と昭恵夫人に会い、ちょっとばかし御機嫌を取っておこうか、といった腹づもりなのかもしれない。普通の日本人なら、どんな素性か分からない黒人女より、イングランド王国の可愛らしいジョージ王子と美人のキャサリン妃を見たい。ミシェル夫人がどこを見学しようが自由だが、外務省の飯倉公館で日本人に説教を垂れたというから、ちょいと批判のひとつでもしたくなる。ミシェル夫人はどの面下げて演説したのか? 自分の過去を棚に上げて、日本人に対して「女子教育の重要性」を訴える、なんておこがましい。

  ミシエル夫人は米国で「Let Girl Learn(少女たちに学ばせよ)」というプロジェクトを熱心に進めているらしい。世界の後進国や貧乏国では、学校に通えない少女が6200万人いるそうで、彼女たちに勉強の機会を与えたいと訴えている。誰も反対しないだろうし、結構なことだ。しかし、日本人に訴えるミシェル夫人は、「もっと国連に金を出せ」とでも言いたいのか? アメリカ国内でも教育が不充分なのに、他国の少女を援助したり、日本人からお金をむしり取ろうとするとは言語道断。ミシェル夫人は日本を訪問するくらいなら、ワシントンの連邦議会に赴いて、合衆国政府によるイスラエルへの巨額な軍事支援を削減するよう提案したらどうだ? 数千億ドル減らして後進国にくれてやればいじゃないか。日本人は教育の大切さを黒人に言われなくても分かっている。それより、ミッシェル夫人はどうだったのか? 彼女は若い頃、黒人という立場で有名大学に入れたが、本当に猛勉強したのか? 日本人に堂々と語れる学生時代だったのか? 脳天気な日本人を騙せても、全ての日本人を騙すことはできないぞ。

Michelle Obama 5  ミシェル大統領夫人は1964年1月17日にミシェル・ラヴォーン・ロビンソン(Michelle LaVaughn Robinson)としてシカゴ生まれた。幼いミシェルは腐敗の都で育ち、兄クレイグとベッドルームを共有するなど、貧乏な長屋暮らしを送ったという。父親のフレイザーは市役所でポンプ係として勤務していた。たぶん下っ端の雑用係従だろう。勤勉な黒人労働者の娘ミッシェルは、学校の成績が良かったらしい。小学校に通った彼女はお利口さんだから2年生を飛ばして進級したという。(Katherine Skiba, Biographer tracks Michelle Obama from a Chicago youth to first black first lady, Chicago Tribune, March 22, 2015) こう聞けば誰でも「えっ ! 第二学年を飛び級か」と驚くだろう。

    しかし、早合点してはいけない。本当にミッシェルが神童だったからか? 怪しいぞ。黒人がいっぱいのシカゴの小学校で、はたしてまともな授業があったのか。中流家庭の白人が通うような小学校で、黒人のミッシェルが頭角を現したのなら、本当に賢い子供だったかもしれない。しかし、その話は鵜呑みにできない。人種隔離の残滓が残る1970年代で、黒人が通う公立学校だとすれば、どれくらいの教育水準だったのか疑問である。 当時の黒人児童の学力はかなり低かったのではないか? 貧困家庭の低脳児に合わせた学習内容だったから、ちょっとマシなミシェルが飛び級できたのかもしれない。つまり、授業内容があまりに幼稚だったから、二年生を抜かしても問題なかったのだろう。英語・算数・理科・社会の全てが低レベルの内容なら、ちょっと勉強すれはマスターできたのではないか? 成績の良い日本の小1でも、2年生を飛ばしていきなり3年生になったら、戸惑ってしまうだろう。とにかく当時の教科書を見てみたい。

  ミシェル夫人は高校でも優秀な生徒だったそうで、兄のクレイグに続いて名門プリンストン大学に進学した。彼女が専攻したのは、経済学とか物理学ではなく社会学で、しかもアフリカ系アメリカ人研究である。「ああ、民族研究ね」とうなづく日本人は事情通かも。米国の大学でアフリカ研究とか黒人学、ヒスパニック文化を専攻した学生の就職先なんてほとんどない。有色人種の不満や愚痴を研究した学生なんて、どの企業が欲しいと思うのか? こんな科目を取った学生が、どんな授業を受けるのかは容易に想像できる。民族学の教師は「教授」の肩書きを持っているが、その実態は大学勤務の左翼活動家と呼んだ方がよい。授業なんか学問とは呼べぬ代物だ。黒人学生が白人社会への怒りを論文に綴れば、花丸印の「大変よくできました」という判子を押して貰える。クズ黒人が集まる学科に白人学生などいない。そこは勉強が不得意な学生が、卒業証書を貰うための学部である。無事に卒業した黒人が学士(bachelor)様となっても、文句だけが得意のロクでなしは、有色人種の政治団体か黒人学校の教師にしかなれない。あとは有色人種優遇制度を利用して、人種平等の原理が建前の役所や、政府関係の民間企業に潜り込めればしめたもの。これを逃せば大卒の失業者だ。

Michelle obama 3  優秀な教授陣を揃えたプリンストン大学で、勉強熱心なはずのミシェルは何をしていたのか? ズバリ言えば左翼活動。ダメな黒人でも怨念を流暢に喋れば喝采を浴びる分野だ。膨大な資料を精査したり、論理的思考を磨く必要は無い。白人によって抑圧されたと叫んでいりゃ合格。ミシェルがドイツ語を習得してマックス・ウェバーの著作を読んだり、ヴィルフレド・パレート(Vilfred Pareto)やタルコット・パーソンズ(Talcott Parsons)の業績を学んだとは思えない。明らかなことは、彼女が第三世界センター(Third World Center/TWC)という極左集団に所属し、その役員会に名を連ねたことだ。この組織は、黒人の結束(Black Solidarity)を推進し、白人社会への憎悪を表明していた。案の定、講演会を開いた時、悪名高いマルキストのマニング・マラブル(Manning Marable)をゲストに招いたという。人種思想にこだわっていた組織のメンバーは、「キャンパスの白人学生は、自覚していなだけで、皆レイシストだ」と主張していた。しかし、そんなTWC役員もレイシストであったから矛盾している。1984年、彼らが会合を開いた時、非白人学生は白人学生を拒む権利があると言い出した。また、彼らは学部長に少数民族(つまり有色人学生)だけの会合を持ちたい、と要求していたのだ。(John Hurley, Black students ,university debate closed meeting policy, The Daily Princetonian, November 29, 1984) こんな要求は不当だろう。もし、白人学生が有色人を排除し、白人だけの会合を持ったら、黒人学生は賛成するのか? きっと大騒ぎして、反対の抗議デモを起こすのではないか。黒人なら人種主義を掲げても批判されないというのはおかしい。

  民衆扇動家だからしょうがないいが、黒人活動家は個々の黒人がだらしないことに目を瞑(つぶ)り、黒人を抑圧する白人社会が悪いと非難する。黒人はいくら能力があっでも、有色人種だから社会の要職に就けないのだ、と言いたいのであろう。自分たちの仲間を増やしたいTWCメンバーは、キャンパスにおける制度的人種差別(institutionalized racism)を取り上げ、大学の経営者側にもっと少数民族を入学させるよう圧力をかけた。調子に乗った彼らは、あろうことか少数民族の教授も増やせと要求したきた。つまり、プリンストン大学は人種差別に凝り固まっているから、有色人種の学生や教員を排除してきたのだ、と主張する。こんなのイチャモンだろう。まるでゴネ得を狙う労働組合の幹部と同じだ。ミシェル・ロビンソン(オバマ)の在籍当時、黒人教授はわずか五人だけ。南米系やプエル・トリコ系の教授はゼロ。でも、大学がどんな人物を雇おうが大学の自由じゃないか。白人教授ばかりでも、大抵の学生は困らないし、学問の質が落ちなければいいのだ。もし、有色人種に優秀な人材が多いのなら、黒人だらけの大学はとっくに名門校になっているはず。黒人が多数派のハワード大学は、未だに黒人のたまり場で、ちっとも一流大学になれない。それに、黒人生徒はスポーツや音楽には興味を示すが、数学や物理といった知的努力が求められる学科には進まない。やはり、黒人生徒ばかりが集まると、勉強しないから、白人学級に混ぜねばならぬ。白人生徒にとっては、迷惑千万な話しだが、黒人はそうでもしないと勉強しないのだ。彼らは自助努力が出来ない。黒人活動家は必ず、白人の名門校に黒人を無理矢理押しつける。そうすれば簡単に高い地位が手に入るからだ。自分たちで私塾をつくって、名門校にする発想がない。黒人に緒方洪庵や吉田松陰、福澤諭吉のような人物が現れないことが、彼らの劣等性を証明しているのだ。

文法的におかしい卒業論文

  ミシェル・オバマが優等生というのは神話だろう。彼女は黒人だから、有色人種優遇制度によって名門プリンストンに入学できたのだ。しかし、難関の有名校に潜り込めても、肉体が変化して白人になれるわけではない。今でも同じだろうが、当時のプリンストン大学も、裕福な白人学生が多かった。中流家庭の白人学生だって、せっかく一流大学に入ったのだから、友人には立派な人物を求める。下層階級の黒人とつきあって何の得があるというのか? それに、黒人学生は人種割当(quota)制度のお陰で大学に入学できたから、必死に勉強して入った白人学生の前では肩身が狭かった。ミシェルは白人学生からの侮蔑を受けたというから、彼女が白人社会を憎む気持ちは理解できる。しかし、左翼活動に没頭して、肝心の学問を疎かにしていたことは反省すべきだ。

michelle obama 1  ミシェルの卒業論文とはどんなものだったか? 当初、彼女の学位論文は固く閉ざされていたが、世間の圧力でようやく公開された。すると読んでびっくり。「なんだこれ」といったのが大方の感想である。卒業論文だから、社会学部で勉強した成果のはず。ところが、タイトルは「プリンストン大で教育された黒人と黒人社会(Princeton-Educated Blacks and the Black Community)」だって。おい、おい。こんなの左翼のアジビラじゃないか。しんぶん赤旗に載せる読者の投稿みたい。100ページにも満たない(実質60ページくらい)パンフレット程度の論文で、参考文献がたったの8冊。本文中に書物からの引用は10個もないのだ。内容はスカスカで文法の誤りがあちこちにある。しかも、文章が黒人英語のままだから、教養あるアメリカ人にとって理解しづらい。いつも話している黒人英語で書いたんじゃないか。彼女にとって普通の表現でも、学術論文としては不可だ。日本人の筆者が読んでもおかしい点に気付く。たとえば、イントロ部分からして変だ。

  ミシェルは第1章から混乱した文法を使っている。
    The Purpose of this study is to examine various attitudes of Black Princeton alumni in their present state and as they are perceived by the alumni to have changed over time.(p.1) 彼女が「they」で指しているのは、「attitudes(態度)」のつもりだろうが、一般のアメリカ人なら「alumni(卒業生)」を指しているように読めるから、意味が通じず、変な文章に思えてくる。ミシェルは代名詞の使い方が分かっていなかった。

  次に、彼女の文章は単語の語順がぎこちない。たとえば、「In years to come if their attitudes do change, is it possible・・・・」(p.1)は「If their attitudes do change in years to come, is it possible・・・・」と書き直した方が良い。ミシェルは読書の習慣を持たず、まともな本を読んだことがないのだろう。基本的な文章の書き方が分かっていないのだ。(という筆者も文章が拙いので他人のことは言えないが。えへへ。ご勘弁を。) 日本人は日本語文法を学ばなくても、何んとなく書けてしまう。しかし、英米人はちゃんと英文法を勉強するから、他人がおかしな文章を書くと、すぐ見抜いてしまうのだ。

  論文の最初から至る所に、へんてこな文章がある。「Will they feel any obligation as a member of the Black community to help other Black in particular who are less fortunate than themselves・・・」(p.2)では「in particular」が余計だ。ミシェルは「彼らは黒人社会の一員として、自分より恵まれない他の黒人を助けようとする義務を感じるのだろうか?」と言いたかったのであろう。だから「As a member of the Black community, will they feel any obligation to help other Blacks who are less fortunate than themselves・・・」と変えた方が良いのでは? 

  もう校正するのが嫌になってしまうが、もう一つだけ説明しよう。彼女は「This realization has presently, made my goals to actively utilize my resources to benefit the Black community more desirable.」と書くが、やはり読みづらい。「presently」は要らない。「It is more desirable for my goal to utilize my resources・・・」 とか「This realization has increased the desirability of my goal・・・」とかにすれば、もっとスッキリするだろう。彼女の論文を読み進むと、うんざりするくらい文法ミスに遭遇する。日本人だって鼻で笑ってしまう作文だ。内容(matter)と文体(manner)がとにかく酷い。ミシェルは学生時代に何冊学術書を読んだのか? もしかすると、黒人左翼のクズ本がほとんどだったりして。

  日本人の筆者がこんな風に、米国のファースト・レディーを批評したら、アメリカ人は嫌な顔をするだろう。しかし、人種主義で黒人を甘やかすことは、黒人のためにもならない。いくら黒人家庭が貧しくとも、今の米国社会なら、いくらでも勉強する機会を持てるのだ。もし、今の米国と幕末・明治の日本を比べてみれば分かる。有名な話しだが、貧しかった勝海舟は日蘭辞書を夜中に書き写して、二冊コピーを作った。一冊は自分で持ち、もう一冊を売ってお金を得たのである。一体何人のアメリカ黒人が辞書を書き写して勉強するのだろうか。黒人の学力が低いのは、社会のせいではなく、彼ら自身の怠惰が元兇なのだ。

Michelle obama 9 (左/バラクとミシェルの似たもの夫婦)

  公教育を向上させようと意欲を燃やすミシェル夫人だが、自分の過去は他人に誇れるのか? 彼女は優秀な子供だったと、アメリカの黒人たちは持て囃すが、実際のところ、アホな黒人生徒と比べて優秀だったのだろう。もし、白人生徒と一緒のクラスで、公平な成績評価を受けたら、凡庸な生徒か劣等生だったかもしれない。大学では左翼活動に夢中だったから、きちんとした学問を身につけぬまま卒業したのだろう。ハーバード・ロー・スクールに進んだが、本腰を入れて勉強したかは不明である。彼女は実力で就職したのか? シカゴ大学病院に雇われた時だって、地元地域の有色人種を世話する仕事だった。これは要するに黒人女性だから出来た仕事だろう。白人職員だと黒人とギクシャクするから、同じ肌をした女を選んだだけ。夫のバラクと同様に、黒人だから名門校に進学でき、就職だって黒人という点を強調したから可能だった。しかも、夫婦揃って反米のマルキスト。心の底から白人社会を憎んでいる。

  オバマ夫人が来日するのは、何らかの政治的目的があるからで、我々としては冷ややかに見ていればよかった。腹立たしいのは、テレビや新聞の報道が、みな提灯記事ばかりだったことにある。なんでいつも日本のマスコミは肝心な事情を報道しないのか。無教養の元左翼学生が、日本人に教育のことで説教しようなんて傲慢だろう。ミシェル夫人に過去を問う記者が誰もいないとは情けない。彼女の論文すら読んだことがないのだろう。夫のバラクがアメリカを心底憎むマルキスト、という事実さえ指摘しないのだから、日本人記者は何を取材しているのか。日本国民に伝えるのは、ゴマすり記事のオンパレードじゃ、インターネットに人気が出るのも当然だろう。未だに新聞購読料やNHK受信料を払っている国民は、もういい加減やめたらどうだ?

   

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子猫を生き埋めにした教師

感覚が異なる高校教師

  千葉県船橋市にある県立薬園台(やくえんだい)高校で、野良猫が産んだ仔猫五匹か生き埋めにされたそうだ。殺してしまったのは、同校に勤務する教師だったそうで、生徒三人に穴を掘るよう命じた後、自分で仔猫を埋めたらしい。生徒の親が学校に通報して事件が発覚したという。(産経新聞平成27年3月23日) 仔猫を生き埋めにしたのは、処分に困り一人で解決したかったからという。本人としてはこんなに大事件になるとは思っていなかったのかもしれない。彼が知っている田舎では、猫を埋めて殺す慣習があったから、今回それを思い出して埋めてしまったのではないか。それに、保健所に引き取ってもらっても、いずれ殺処分だから自分でやってしまおうと考えたのか。彼が真相を語るかどうか疑問だ。いずれにせよ、この教員はさほど残酷な行為とは思っていなかったに違いない。

  マスコミは今回のゾッとする事件を、教師としてあるまじき行為として取り上げ、ショックをうけた生徒がいると報道していた。テレビ番組では例の尾木直樹という教育評論家が、「トラウマ(心的傷害)」を受けた生徒にカウンセラーをつけろ、とコメントしていた。何でいちいち精神科の専門家を呼ばねばならないのか? 高校の校長や担任教師が、「生き埋めは可愛そうだから、やってはダメだよ」と諭(さと)せば充分じゃないか。哀しい思いをした生徒はいるだろうが、二三日経てば元気になるさ。それに、高校生も野良猫や野良犬をどうすべきか、考える機会を得たと思えばいいじゃないか。世の中には残酷なことが身近で起こるものだ。保健所にはたくさんのペットが持ち込まれ、職員が嫌な思いをしながら殺している。ブリーダーの中には、仔犬や仔猫を札束としか見ていない業者がいて、売れ残りを冷酷に殺しているのだ。おそらく生き埋めにした教師は、猫に特別な感情を持たず、厄介な生き物くらいに考えていたのだろう。猫好きな者からすれば、言語道断の行為でも、無感情の者にとっては、害虫みたいなもんだ。しかし、他の教員に相談しないで殺してしまうとは、この教師の常識はどうなっているのか? 直ぐに生き埋めにしようと考える、その発想が怖い。採用試験には人格検査がないのだろう。

  こんな冷淡な意見を述べる筆者だが、じつは愛猫家であるし、以前は猫を一匹飼っていた。自分のペット自慢はしたくないので、ちょっと躊躇(ためら)いがある。簡単に述べると、飼っていたのはアメリカン・ショート・ヘアの雑種で、「サムエル(愛称サムちゃん)」と名づけていた。17年も生きて3年ほど前に亡くなったのだが、いつも一緒に暮らしていたので、いわば書斎の相棒といったところ。猫を飼うと他人の猫まで可愛く思えるから、野良猫の子であっても、生き埋めにしようとは絶対思わない。仔猫を殺した高校教師は、ペットを飼ったことがないんじゃないか。幼い時でも犬や兎を飼ったことがあれば、小さな動物を即座に抹殺しようとは考えないだろう。仔猫に対して同情(sympathy)が無かったのかもしれない。

他人に共感する能力

  英語で「哀れみ」をさす言葉は「pity」で、不幸な者を見て「可愛そう」とか「気の毒」に思うことを指す。ルネッサンス期の巨匠ミケランジェロが、磔(はりつけ)にされて死んだイエズスを抱きかかえるマリア像は有名で、「ピエタ(pietās)」と称される。無惨に殺された我が子をいたわる母の悲しみを表現した彫刻だ。聖母マリアが我が子に“憐憫の情(ピエタ)”を抱く姿は誰でも分かる。死んだ子を実際に抱かなくても、その悲しみを類推し、自分が経験した悲しみと適合させるのだ。よく誰かに向かって、「他人(ひと)の気持ちが分からないのか」と怒る人がいるが、怒られた者には同類の感情が保有されていないのだろう。以前とんでもない事件があった。ある支那の街で、路上に幼児が倒れていたが、通行人の誰も助けようとせず、その子は車に轢かれてしまった。日本人なら直ぐに助けに行くだろう。支那人には他人を助けるという感情が湧かないのだ。人間が倒れてい苦しんでいることを理解できても、その人が味わう感情を自分の中で探し出して、共感することをしないのだ。ただし、その子が高級腕時計を所持していれば、抱きかかえて介護する振りをするだろう。しかし、その腕時計は親切な支那人のポケットに入ってしまう。「親切」とか「同情」という言葉は、支那人の辞書にない。ただし、「詐欺師入門」とか「お金持ちになる秘訣」といった本になら載っている。

  人間には他者に対する様々な感情がある。誰でも利己主義(egoism)なら持っているし、それを追求し押し通すことも簡単だ。しかし、他人の利益のために動くこと「利他主義(altruism)」となれば、少々難しくなる。利他主義とは、他者の利益を促進するために、心理的あるいは肉体的に自らを用いる傾向とか行動である。(Pathological Altruism, eds.by Barbara Oakely, Ariel Knafo, Guruprasad Madhavan, and David Sloan Wilson, Oxford University Press, 2012, p.4, p.11) 要するに、他人のため一肌脱ごうとする行いだ。極端なものだと、自分の命に代えて他人の命を助けることである。軍人が利他主義の体現者であろう。危険な戦場に自ら赴き、同胞を守ろうとする自己犠牲の精神は尊い。自国の女子供が敵によって凌辱されたり、虐殺されるのは忍びがたいので、死んでも彼らを守りたいと命がけで戦うのだ。神風特攻隊は究極的な利他主義であった。

  我々には他人のために何かしたいという本能が備わっているのかもしれない。他人の苦痛に共感し、何かしてあげようと思う。困っている人がいたら助けてあげようとする心理だ。友人や家族なら、その傾向はもっと強くなる。大人だとひと目を気にするし、何とかできる能力を持つから、人助けをしやすい。ところが、無力な赤ん坊やよちよち歩きの幼児でも、他者のために何かしようとする。どうやら生得意識があるらしい。たとえば、新生児に他の赤ん坊が泣いている録音テープを聞かせると、その新生児は泣き始める。赤ん坊でも他の赤ん坊がぐずっていたり悲しんでいたりすると、それに共感して同じ行動を取るという。病院で一人が泣くと次々と他の赤ん坊が泣くのはこのせいかもしれない。それに幼児は他の幼児に興味津々だ。集団で暮らすための能力が本質的に備わっているんじゃないか。

  これが赤ん坊ではなく、少し歩けるようになった乳幼児だと、もっと顕著に人助けを始めるという。18ヶ月の幼児ジュリーをもつある母親の体験談がある。彼女は近所の人に赤ん坊のブライアンを見てくれと頼まれたそうだ。預けた母親が去ると、ブライアンは泣き始めた。まぁ、当然だ。そこでぐずる赤ん坊をあやそうと、高い椅子に置いたり、クッキーを与えようとした。ブライアンが泣き出すと、娘のジュリーが驚き、心配し始めた。彼女は固くなり、その赤ん坊を覗き込み、手をさしのべようとした。ブライアンはクッキーを投げ捨てたが、ジュリーハそれを戻してやった。彼女の母親はそれを見て驚いた。普段のジュリーはクッキーをみな食べてしまうからだ。ジュリーはクッキーを皿に戻すと、上目遣いで唇を噛みしめ、赤ん坊の周りをグルグル回っていたという。哀しそうな表情を示して、母親の方を見ていた。母親はブライアンを遊び用の柵に置いたが、泣き止まない。ジュリーは柵に近づき、赤ん坊の方をさすってやったり、その子の髪を撫でてやったりしたという。ジュリーは鳥の鳴き声を真似てブライアンをなだめようとしたらしい。不安になったジュリーは、台所にいた母親のもとにやって来て、彼女の手を引いて居間に連れ出した。そして母親の手を取ったジュリーは、その手をブライアンの頭に置いたという。(Pathological Altruism, p331)

  言葉が喋れない幼児でも、泣いている赤ん坊を何とか助けてやりたいと思っての行動なのだろう。大人になると様々な意識や悪知恵が身につくから、子供のような気持ちは持てないのかもしれない。とくに現在の我々は同胞を見殺しにしている。北朝鮮に拉致された日本人を何が何でも救おうとは考えない。考えるのも面倒だし、自分の家族でもない。それに、軍事行動を取ったら、自分に何か不利益や危害が及ぶのでは、と推測してしまう。だから、解決策を政府に丸投げ。後は知らぬ振りを決め込む。拉致被害者家族が涙ながらに訴えても、軍隊の出動を国民は選ばない。自分の家族が攫われたわけではないからだ。同情の言葉を寄せても、軍隊による救出作戦には及び腰。敗戦以前の日本人なら持っていた、同胞への感情を現在の我々は持っていないのだ。さらに酷いことが予想される。拉致被害者が死に絶えれば、問題解決となり、戦後賠償と呼ばぬ巨額の経済援助を北朝鮮に貢ぐだろう。同胞のために復讐するより、賠償援助で一儲けしようとする日本人が出てくるのは、今からでも予想できる。

瞑想できる人間

  猫を飼っている人には分かるだろうが、猫は気ままなくせに主人になつき、おねだりするのに主人に冷たい時がある。しかも、趣味というか好みにうるさい。筆者の飼い猫サムちゃんは、海苔が大好物だったが、安い海苔には完全無視。目の前に置いてもスンとも動かない。しかし、パリパリの黒い高級海苔だと、そのパリっとした音を聞きつけて、一目散にやって来る。お坐りして、筆者の膝に前足をちょこんと載せて、「ちょうだい」のポーズをとる。ちゃっかりしたものだ。犬と同じく猫は絶対音感がある。筆者が呼ぶとすぐ近寄ってくるが、他人が物まねた声では飛んでこない。聴覚が鋭く、記憶力も抜群。人間だと似ている声だから騙されるが、猫は騙されないのだ。「オレオレ詐欺」に引っかかる人間は、音声の識別能力が劣っているのだろう。類推能力が発達しているぶん、ちょっと変な声でも本人のものと錯覚してしまうからだ。猫は推測しないというか、そもそもできない。もしも、猫が受話器を取ったら、詐欺師に向かって「ニャめんなよ」と言うだろう。違う声には反応しないのだ。猫の聴力は優れているから、仰向けになって昼寝していても、床に皿やフォークを落とすと、急にビクっとする。相当大きな衝撃音なのだろう。うちのサムちやんは落雷に怯えていた。空爆みたいに聞こえていたのではないか。

  日向で寝ている猫を眺めていると、実に心がなごむ。しかし、我々は動物のある特性に気付く。猫ばかりではないが、動物はいつも周囲のあらゆる気配に聞き耳を立てている。絶えず注意を払い、危険を察知すれば、すぐ反射的に逃げようとする。動物は常に恐怖の世界に生きており、周囲の環境に操られながら生活している。スペインの有名な哲学者ホセ・オルテガ(José Ortega Y Gasset)は言う。「動物は自己の存在を律しもしなければ、自分から生きるのでもなく、つねに自分以外の他者に注意しているのだ。」(オルテガ 『個人と社会』 A.マタイス/佐々木孝 訳  白水社 1989 p.24) ところが、人間は周囲の世界や刺戟から抜け出し、それを無視することが出来る。すなわち、外部の世界から自分自身の中に没頭することができるのだ。目を閉じて、自己に沈潜する(ensimismarse)ことができる。動物は純粋の自己疎外である。自己に沈潜することができない。(p.27) 我々が瞑想(meditation)できるというのは、特殊なな能力である。座禅を組んで「無」の境地に至ることは、他の動物には不可能だ。人間が技術をもち、自分の都合にあわせて、外界を変形させることができるのは、自分自身の中に沈むことができるからだ。こうして内部世界を構築し、再び外部世界に戻ってゆく。そして以前にはもっていなかった自分をもつのである。ちょっと難しくなったが、我々が創作活動できるのも、自分の内面に引きこもり、考えを纏めることができるからだ。猫が猫のマンガを書いたり、来月ピクニックに行こうかな、と計画を立てない。寝たい時に寝るし、お腹(なか)が減ったら、餌をねだるだけ。だから、猫は自由気ままでいいなぁ、と人間はつい思ってしまう。

  最近、猫を特集したテレビ番組を偶然みた。日本人はどうも猫好きらしい。番組の街頭インタヴューを受けたあるカナダ人が言っていた。日本だと猫のキャラクター商品やデザインが多いらしい。ハロー・キティーやドラえもん、妖怪ウォッチがそうだ。その他、日本のアニメでも猫のキャラクターが結構ある。たとえば、サザエさんの家で飼われている「たま」が昔から有名だ。今だと「ドラゴンボール」の「カリン様」かなあ。それに、「クロネコヤマト」という宅配業者もあれば、「猫侍」というコメディー風時代劇まである。猫なのに人間みたいに描かれるアニメもある。「じゃりン子チエ」の小鉄がそうだし、「宇宙戦艦ヤマト」だと、軍医の佐渡酒造の猫が思い浮かぶ。佐渡先生と一緒にお酒を飲む猫って、いかにも日本らしい設定である。原作者の松本零士は、赤塚不二夫と同じく、猫好きだったのだろう。世間ではあまり知られていないが、「サムライ・ミーくん」というマンガまでかいていたのだ。日本ならではのアニメといったら、「猫ラーメン」だろう。「大将」と呼ばれる主人公の猫は、当初すし職人を目指していたが、シャリを握ると毛だらけになるので、ラーメンを作るようになったという。アメリカのディズニーでは考えられないアニメ作品である。アメリカ人の子供向けアニメはとにかくつまらない。繊細さと遊び心、それに「かわいらしさ」に欠けるのだ。

  最後に、飼い猫のサムちゃんの晩年についてちょっと。高齢猫で腎臓が異常になったので、死ぬ数日前は、衰弱がひどかった。餌を食べられなくなったので、動物病院に連れて行き、点滴を打ってもらった。サムちゃんの前足に獣医が針を刺して、点滴が終わるまでそこを抑えるよう言われたので、筆者は30分くらいサムちゃんの前足を握っていた。初めての点滴である。緊張したサムはじっとしていたが、少し楽になったように見えた。するとサムちゃんの目から一筋の涙が流れた。この涙は本当につらい。こちらの目頭も熱くなってしまった。生まれたての頃から見てきたサムちゃんが初めて泣いたのだ。自宅に連れ帰っても、ずうっとぐったりして、息が荒くつらそうだった。命の炎が消えかかっている。それから三日後の朝、サムちゃんは息を引き取っていた。そっと抱き上げると、いつもの暖かい体が冷たくなっていた。筆者は「つらかったね。もうだいじょうぶだから。今までありがとうな」としか言えなかった。




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