無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2015年05月

ターミネーターが抹殺するアメリカ文化 / 人種混淆のハリウッド映画

人種的多様性は嫌だ

  今年2015年は、ヒット・シリーズ映画の続編が公開されるので楽しみだが、予告編を見ると少々がっかりする。『ターミネーター・ジェネシス(Terminator Genesys)』と『スター・ウォーズ/フォースの覚醒(Satr Wars Episode VII: The Force Awakens)』が制作されたそうだが、そのキャスティングが人種的配慮に基づくので魅力が半減しそうだ。高い興行収益を望む映画会社としては、一人でも多くの観客を取り込みたいから、あらゆる人種・民族を引きつける役者陣にしたかったのだろう。西欧系俳優ばかりでは、有色人種が興味を示さないかも、と怖れるあまり、かえって特徴の無い地味な出演者になってしまった。

  『ターミネーター』はパート2で止めておけば良かった。低予算で作ったパート1が、予想以上にヒットしたため、配給会社は大喜び。ジェイムズ・キャメロン(James Cameron)監督は一躍ハリウッド界の巨匠になってしまった。ボディー・ビルダー上がりのアーノルド・シュワルツネッガー(Arnold Schwartzenegger)も、この作品で一挙に大スターになっている。何度撃たれても平然と立ち向かってくる、冷酷なサイボーグという設定が斬新で、演技が下手なシュワルツネッガーであっても、その無表情がかえってプラスに転じ、役柄が妙に嵌まっていた。アメリカ人って複雑なストーリーよりも、単純明快なアクション映画が好きなんだよねぇー。『デス・ノート』みたいな凝った漫画は、絶対に映画化されない。平均的アメリカ人はストーリーを追うことができないし、巧妙なトリックが理解できないからだ。人々の知能がばらばらなアメリカでは、誰でも分かる勧善懲悪でハッピー・エンドの作品でなきゃ受けない。悲惨な結末で終わってしまうフランス映画はヒットしないのだ。筆者が高校生の時好きだったフランス映画『隣の女(La Femme d'à côté)』は、不倫関係の女が男を殺して自殺するという悲しい結末だった。暗いエンディングだったから、アメリカでは全然話題にならなかったらしい。もっとも、フランス映画じたいに興味が無いから当然なのだが。

  第1作目の『ターミネーター』は大ヒットするとは予想されていなかったから、共演者も無名の俳優がキャスティングされたのは周知の事実。サラ・コナー役のリンダ・ハミルトン(Linda Hamilton)やカイル・リース役のマイケル・ビーン(Michael Biehn)なんか誰も知らなかった。映画会社も期待していなかったから、西欧系白人役者で問題なかったのだろう。それに制作されたのが1980年代前半だったから、まだ多民族主義の圧力が弱かった。ハミルトンとビーンが共に金髪の白人で、ユダヤ人でなかったのは、成功すると期待されていないB級作品だったからだ。(ちなみに、リンダ・ハミルトンは後にキャメロン監督と結婚して、彼にとり第四番目の夫人となった。第三番目の夫人は、あのキャサリン・ビグロー監督である。) 予想外のヒット映画となった「ターミネーター」は、続編が制作され、サラの息子ジョン・コナーにエドワード・ファーロン(Edward Furlong)が抜擢された。彼は全くの新人で、キャメロン監督の目にとまったことで、いきなりスター。噂では、リンダ・ハミルトンの息子役をこなす人物を探していたキャメロン監督は、エドワードの顔つきを見て気に入ったらしい。自然な親子に見える西歐人を起用したかったのだろう。もしキャメロン監督がユダヤ人なら、シャイア・ラブーフ(Shaia LaBeouf)みたいなユダヤ人子役をキャスティングしたんじゃないか。スティーヴン・スピルバークみたいなユダヤ人監督は、もてあそぶ女優は西歐人でも、その肌に触れる男優はユダヤ人を使うことが多い。

  第2作目の『ターミネーター』は好評だったが、第3作目は期待したほどの興行収益を得られなかった。前作でジョン・コナーを演じたエドワード・ファーロンが堕落したので、代わりの俳優がニック・ストール(Nick Stahl)であった。しかし、ニックを見て日本のファンはガッカリした。銀幕に映ったニックの顔に何ら魅力が無かったのだ。やはり、俳優には何らかのオーラが必要なのだろう。パート3のストーリーも凡庸で、これといって意外な展開がなかったから、観客がボヤいたのも無理はない。期待が大きかった分、落胆も大きかった。第4作の『ターミネーター(Salvation)』は監督が有名なマックGに替わり、ジョン・コナー役にクリスチャン・ベール(Christian Bale)が起用されたから、ヒットしそうな予感がした。ところが、いざ蓋を開けてみると、期待したほどの利益が上がっていない。ターミネーター役がサム・ワーシントン(Sam Worthinton)では、存在感が薄いし迫力に欠ける。やはりシュワルツネッガーが主役じゃないと、ターミネーターじゃないのだ。それに、カイル・リース役がアントン・イェルチン(Anton Yelchin)じゃ、弱々しい印象を観客に与えてしまう。彼がカイルを演じると、どことなくキャラクターを損ねている気がしてならない。彼はロシア系ユダヤ人で、銃を持った勇敢な戦士役より、研究室の大学生といった役が似合いそうである。

  待ちに待ったシュワルツネッガーが、ようやく知事の任期を終えて、ターミネーターに戻ってきたことは嬉しいが、第5作目の出演俳優が酷いのでまたもやガッカリ。最も腹立たしいのは、液体金属型サイボーグのT-1000役を朝鮮人俳優のイ・ビョンホン(Lee Byung -hun)にしたことだ。第2作でロバート・パトリック(Robert Patrick)が演じていたサイボーグ役を、三流役者の朝鮮人にあてがうとは、多民族主義の弊害も甚だしい。端正な顔つきのパトリック氏が、冷酷な殺人マシーンを見事に演じていたから、観客は映像に釘付けになった。しかも、パトリックとシュワルツネッガーが繰り広げる挌闘シーンには凄味と迫力がある。やはり役者には華がないと。それなのに、最新作では朝鮮人役者のイ氏が抜擢されて、T-1000のキャラクターが台無しである。まるでB級の香港映画みたいだ。彼を選んだ人物は誰なんだ? 確かに、監督のアラン・テイラー(Alan Taylor)が承諾したのだから、最終的には彼の責任だろう。しかし、つい邪推したくなる。もしかしたら、プロダクションの誰かが朝鮮人と癒着していたのではないか ? 朝鮮系俳優を有名にする任務をおびた誰かの指金だろう。普通の感覚でキャスティングしたとは思えない。余りにも酷すぎる。

  イ・ビョンホンの起用だけではなく、カイル・リース役に抜擢されたジェイ・コートーニー(Jai Courtney)も魅力に欠ける俳優だ。『ダイハード(a Good Day to Die Hard)』で、ジョン・マクレーン(ブルース・ウィルス)の息子役を演じていたが、役と人物が合っていなかった。駄作に近い作品である。今回期待されている『ターミネーター・ジェネシス』は、第二作のリメイクだが、質を落とした新作に思えてくる。年を取ったシュワルツネッガーが現れるし、サラ・コナー役を若手女優エミリア・クラーク(Emilia Clarke)が演じるから、全く別なキャラクターに見えてしまう。彼女より、レーナ・ヒーディ(Lena Headey)の方がましだ。彼女はテレビ版『サラ・コナー』に出演していたから、クラークより適任である。今やハリウッドは過去のヒット作をリメイクして儲けることしか頭にない。作品の質より話題性で銭を稼ぐ事を優先しているのだ。したがって、キャスティングには、色々な人種を混ぜてより多くの民族を引きつけようとする。たとえば、イ・ビョンホンを起用して、米国と韓国の朝鮮人客を呼び込もうとしているのだろう。馬鹿らしいが、大金を注ぎ込む作品だと、制作費回収が大前提となってしまうのだ。

ユダヤ人によるSF超大作


  第1作目の『スター・ウォーズ』も、やはり低予算映画で、ヒットするとは予想されていなかった。SF映画の『フラッシュ・ゴードン』見たいな作品を撮りたかったジョージ・ルーカスは、スター・ウォーズを完成させるまでに苦労をしたみたいで、歴史的な大ヒットに大喜び。多大な予算を用意できなかったから、ヒットさせるために一番面白そうな第4エピソードを最初に映画化したそうだ。主役のマーク・ハミル(Mark Hamill)は無名俳優だったし、ハリソン・フォード(Harrison Ford)も大した俳優じゃなかった。キャリー・フィッシャー(Carrie Fisher)なんて『スター・ウォーズ』だけの女優だ。美人でもないフィシャーは、単なるユダヤ人女優で、他の作品に出演したって、レイア姫の印象が消えなくて使いづらい。低予算の問題もありルーカスは有名俳優を使えなかったので、そのぶん自由に出演者を選べたのだろう。マーク・ハミルは素朴な白人青年といった感じだったし、何と言ってもオビ・ワン・ケノビ役のアレック・ギネス(Alec Guiness)が光っていた。イギリス人俳優には実力派が多い。独特の雰囲気を醸し出すし、セリフ廻しも上手い。ギネス氏は映画『クロムウェル』で、国王チャールズ1世を演じていたが、これがまた素晴らしかった。映画の中でギネス氏は国王の威厳を放ち、しゃべり方も上品でいかにも貴族らしいアクセントで話している。名優ギネス氏は『アラビアのローレンス』でファイサル王子を演じたし、『戦場にかける橋』ではニコルソン隊長を演じていた。どちらも記憶に残る演技である。ギネス氏を起用したのは、まさしく正解だった。ルーカス氏が慧眼(けいがん)を持っていたというより、役柄のイメージに合った俳優を適切に選んだ結果である。制作会社からの妙なゴリ押しがない時は良い作品が生まれるものだ。

  作品がドル箱になると、色々な思惑や圧力、要求が絡まってきて、藝術作品というより金の卵となってしまう。しかも、監督のルーカス氏が『スター・ウォーズ』の権利をディズニー社に売り渡したのだ。あのユダヤ人マイケル・アイズナーの手に渡ってしまったら、どのように改造されるか誰だって想像がつくだろう。銭の亡者によって名作がズタズタにされるのだ。ディズニー社だって、ユダヤ資本に身売りされたから、創立者のウォルト・ディズニー氏が大切にした理念などゴミ箱行きである。フロリダ州のディズニー・ワールドではゲイ・パレードが開催されるし、『白雪姫』などの名作アニメは、多人種主義でメチャクチャに改悪されてしまう。純粋に漫画を愛したディズニー氏は、子供に素晴らしい感動を与えることに夢中だった。しかし、世界戦略をとる経営陣からは、ディズニー氏の嗜好は白人主義と受け取られ、、ヒスパニックや黒人、アジア人を無視していると判断されてしまった。いずれ、白雪姫やシンデレラは白人女性ではなく、アフリカ系かヒスパニックになるかも知れない。白雪姫が黒雪姫なんてブラック・ジョークだ。王子様が黒い姫を見たら、キスをせずにそのまま通り過ぎてしまうだろう。永久に眠ったままのお姫様では、名作アニメではなく短編コントだ。シンデレラがインド人か支那人なら、お姫様に見えず、便所掃除の召使いみたいで、クーリー(苦力)と呼ばれてしまうだろう。

  新たな三部作の第1弾となる『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のキャスティングを見たらガッカリするというより、呆れて物が言えなくなる。レイ役にはイギリス人若手女優のデイジー・リドリー(Daisy Ridley)が起用されたが、ぱっとしない平凡な女性である。フィン役には黒人俳優のジョン・ボイエ(John Boyega)が抜擢された。これには黒人客を引きつけようとする意図がミエミエである。いかにも、ハリウッドらしい人選だ。黒人を主役級にして、「ちゃんと人種的バランスをとっていますよ」、と観客にアピールしている。また、黒人女優だってしっかり出演している。ルピタ・ニョンゴ(Lupita Nyong'o)という女優は、メキシコ出身のケニア人である。オリジナル・メンバーのハリソン・フォードが出演するから話題を攫っているが、今回ハン・ソロの息子らしいカイロ・レン役を、アダム・ドライヴァー(Adam Driver)が演じるようだ。一体、どんな頭をした奴がキャスティングの責任者なんだ?  以前このブログで紹介した『ガールズ』に出演していた俳優だが、こんな人物が主要キャラクターを射止めるなんて昔なら考えられない。

  人種の多様性を重視するスター・ウォーズでは、さらに異質な肉体を持った俳優を起用している。オスカー・アイザック(Oscar Isaac)はガテマラ出身の俳優だし、アンディ-・サーキス(Andy Serkis)はアルメニア系イラク人を父に持つ役者だ。彼の容姿は中東アジア人らしくても、国籍はブリテンとなっている。サーキス氏は人気映画『ロード・オブ・ザ・リング』でゴラム(Gollum)を間接的に演じていたから、日本でもよく知られているだろう。今回のスター・ウォースで一番ましな役者といったら、マックス・フォン・シドー(Max von Sidow)くらいである。彼はスウェーデン出身の名優で、あの『エクソシスト』でメリン神父を演じた人物だ。アレック・ギネス見たいなオーラを持つ俳優で、唯一名作にふさわしい役者である。

  最新作のスター・ウォーズで注目すべき点は、監督がジョージ・ルーカスからユダヤ人監督のジェフリー・J・エイブラム(Jeffrey Jacob Abrams)に替わったことだ。ユダヤ人制作者の特徴は、まず同胞のユダヤ系役者を優先し、その次ぎに人種的構成を考えることにある。西欧系白人の国であったアメリカを、意識的あるいは無意識的に嫌い、宿主の人種意識を変革しようとするのだ。しかし、その時には自らの欲望を混ぜながら破壊しようとする。例えば、西欧系白人男性には、冷血漢や犯罪者、裏切者、頑固者といった役柄を割り当てる。白人俳優には変態とか、黒人を差別する偏見の持ち主、上流階級の名士だが麻薬使用者といった役を命じる。ユダヤ人の俳優には、女にもてる優しい紳士、各人種を平等に扱う正義漢、弱者を救う弁護士、権力に立ち向かう刑事、米国を助けるイスラエル諜報員、といった現実とは違う役柄を創作する。しかも、さえないユダヤ人が金髪の北欧女性と恋に落ちる設定だったりする。アメリカ白人が怒り出すのは、映画の中で美しい白人娘と黒人をセックスさせることだ。例えばTVドラマの『アロー』が挙げられる。しかし、ユダヤ人女性と黒人男性の不倫とか、アラブ人女性とユダヤ人男性のセックスとかはほとんど無い。ユダヤ人は意図的な嫌がらせを、娯楽作品の中に混ぜてしまうのだ。

  ユダヤ人監督には、西歐人男性を貶めようとする感情と、高嶺の花たる西欧系女性を好む傾向がある。ユダヤ人は白人娘に憧れを抱くが、彼女の父親は異質な種族の男を排斥しようとする。1960年代までのアメリカでは、ユダヤ人などは家に招いて食事をするような人間ではなかった。テキサスやジョージアなどの白人酒場に、ユダヤ人がのこのこ入って行くようなことはなかったようだ。ホテルだってユダヤ人が宿泊すると格が落ちるので断る場合が多かった。だから、ユダヤ人は白人の男どもに敵意を抱いていたのである。そんな訳で、ユダヤ人監督は、映画の中で自分の復讐心を満たすため、南部白人を愚弄するような場面を作るのだ。『CSI』や『クリミナル・マインド』を観ればわかる。スティーブン・スピルバーグの映画を注意深く観ていると、ユダヤ人同胞に対する贔屓(ひいき)と北欧系少女に対する好みが分かるだろう。もっとも、商売だから映像を華やかにし、作品を魅力的にするため、わざと起用していたのかも知れない。映画『ET』では金髪の名子役ドリュー・バリモア(Drew Barrymore)を使い、TVドラマ『テイクン(Taken)』では可愛らしいダコタ・ファニング(Dakota Fanning)を登用していた。大人の女優でもキャサリン・モリス(Kathryn Morris)を連続して使っていたから、お気に入りの女性だったのかも知れない。実生活では、『インディアナ・ジョーンズ』に出演していたケイト・キャプショー(Kate Capshaw)と結婚していた。

  しかし、男優をキャスティングする際には、西欧系男優よりもユダヤ人を優先するようだ。たとえば、『ジョーズ』や『未知との遭遇』で主役を務めたリチャード・ドレフュス(Richard Dreyfuss)、『フック』でのダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)、『ザ・ロスト・ワールド/ジュラシックパーク』のジェフ・ゴールドブラム(Jeff Goldblum)、『トランスフォーマーズ』でのシャイア・ラブーフなどを思い出せば分かるだろう。もちろん、ハリウッドにはユダヤ系俳優がうじゃうじゃいるから致し方ないが、それでも異常に多い。ユダヤ系のハリソン・フォードをちょくちょく使っていたのは、たんに大物スターだからだろう。しかし、スピルバーグ氏が同胞のぱっとしない、華のない凡庸なユダヤ人や黒人女優を主役に登用しないのも変だ。それに、『アミスタッド』のような作品で、黒人奴隷の悲劇を描いているが、ユダヤ人の奴隷商について沈黙しているのは納得できない。彼の作品『ミュンヘン』では、イスラエルの報復テロを擁護しているが、イスラエルのイルグン(テロ集団)が二人のイギリス兵を捕まえ、吊し首にした事件は映画にしないだろう。(Irgun Announces Hanging of Two British Soldiers ; Warns of More Reprisals, The Jewish Telegraphic Agency, JUly 31, 1947) また、米国の機密情報を盗んで捕まったユダヤ人ジョナサン・ポラード(Jonathan Pollard)は、スピルバーグ監督の興味を引かない。イスラエルのスパイを務めていたポラードを映画にすることは、心の祖国イスラエルに対する裏切り行為になるからだ。

  ユダヤ人の映画監督や脚本家が西歐人に抱く恨みは、在日朝鮮人が持つ日本人への怨念と共通するものがある。在日あるいは帰化鮮人の内面には、何らかの日本人男性に対する敵意があるはずだ。一般的に、異民族同士の男は警戒心や敵愾心をもつ傾向がある。しかし、朝鮮人男性は日本人女性に対して激しい憎しみがない。やはり、性欲の対象、すなわち肉体的に征服する相手だから、心の余裕ができて寛大になれるのだろう。日本人を心から憎む帰化鮮人の代表といえば、まず第一に孫正義が挙げられる。ソフトバンクのCM(テレビ広告)を見れば一目瞭然。日本人の父親を白い犬にして、その息子を黒人に設定するなど、日本人を公然と侮辱している。孫会長は同胞に向けて、「日本人に復讐してますよ」とメッセージを送っているのだろう。犬の妻は樋口可南子にし、その娘を上戸彩にしているところを見れば、朝鮮人の欲望がうかがえる。つまり、おしとやかな日本人妻と可愛らしい娘を支配下に置きたい、という無意識の願望があるのだろう。注目すべきは、白戸家の祖母文子(若子文子)の再婚相手に、朝鮮系の若手俳優、松田翔太を抜擢したことだ。白戸家の犬と黒人が嫉妬するような、若くてハンサムな義理の祖父に、朝鮮系役者を用いたのである。日本の男は食肉用の動物と劣等人種という設定なのに、偉そうな態度の祖父には二枚目の朝鮮人を据えたのだ。孫正義の発想を疑わない日本人は本当に脳天気である。米国のユダヤ人が、対立するイギリス系およびスコット系の白人男性に怨みを抱き、映像の中で彼らを貶める復讐と重ね合わせれば理解できるはずだ。他国に寄生する異民族には、卑しさと陰険さの共通点があると認識すべきである。

タブー破りの先駆的映画


  『スター・ウォーズ』と並ぶSF人気映画、『スター・トレック(Star Trek)』を手掛けたJ.J.エイブラムが、スター・ウォース最新作の監督を務めるから、映画での俳優選びは、人種構成を配慮したキャスティングになるだろう。見事予想通り、多民族主義の結果となった。スタート・レックはかつてスキャンダルを起こしたことがある。劇中で捕らわれたカーク船長(ウィリアム・シャトナー/William Shatner)と黒人のウーラ副長(ニシェル・ニコルズ/Nichelle Nichols)がキスをする場面があった。(もっとも、シャトナー氏はユダヤ人だから、白人視聴者は目くじらを立てることもなかったのだ。彼の本名はSchattnerである。) 放送されたのは1968年で、アメリカでは異人種結婚がタブー視されていた時代である。それなのに、テレビ画面に堂々と黒人とのキス・シーンが流れたのだ。白人社会を叩き潰そうとするハリウッドの意図が窺われる作品であった。『スター・トレック』の制作スタッフは、熱心に多民族社会を促進しようとし、積極的に少数民族を役に登用したのである。たとえば、日系俳優のジョージ・タケイやロシア系のウォルター・コーニッグを起用したのだ。(Scott Mendelson, How ‘Star Wars’can be the next‘Star Trek’, Forbes, November 6, 2013)

   多様な人種を登庸する伝統がある『スター・トレック』を復活させたエイブラムズ監督なら、『スター・ウォーズ』を多民族教育の教科書にするくらい朝飯前だ。彼は作品の伝統を大切にし、カーク船長役にユダヤ人俳優のクリス・パイン(Chris Pine)を抜擢した。パインの母親はロシアから来たユダヤ移民の娘で、彼自身は不可知論者だそうだ。ちなみに、初代スポック博士を演じたのは、ユダヤ人俳優のレオナード・ニモイ(Leonard Nimoy)だが、新作ではイタリア系のザカリー・クウィント(Zachary Quinto)が登用されてしまった。しかし、ご安心を。彼は公然たるゲイで、ジョナサン・グロフとデートしたり、マイルズ・マクミランと同棲したりするホモセクシャルである。カトリック信徒の両親がどう思っているか分からぬが、教会で結婚式を挙げることはなさそうだ。いかにもリベラル風なエイブラム監督は、様々な文化や趣味を尊重するユダヤ人らしい。

  エイブラム監督が多民族主義の映画を作るのは、何も個人的趣味だけではなさそうだ。アメリカには映画会社に多様な人種を採用するよう圧力をかける団体が存在する。映画やTVドラマに西欧系白人が多く出演しているから、その割合を低くしろ、という抗議があるそうだ。たとえば、TVドラマは白人役者が多く、人種的多様性(racial diversity)が足りないと指摘される。少数民族、すなわち有色人俳優の割合が低い番組が多いというわけだ。無料放送のテレビ局を見てみると、有色人の率が10パーセント以下の番組が全体の23.2パーセントを占め、有色率が11から20パーセントの番組だと全体の35.4パーセントを占めるようになる。有色率が31から40パーセントになる番組は、全体のたった15.2パーセントだ。この例をあげれば、『マイク&モリー』『ボーンズ』『スキャンダル』『ロー&オーダー』となる。(2014 Hollywood Diversity Report: Making Sense of the Disconnect, The Ralph J. Bunche Center for African-American Studies at UCLA, February 2014, p.11) 有料のケーブル・テレビ局になると、少し内容が違ってくる。有色人の比率が10パーセント以下の番組は、全体の37パーセントを占め、11から20パーセント以下の番組だと、全体の25.3パーセントを占めるのだ。やはり、お金を払って視聴する番組だと、お客の要求を真摯に考えないと経営が成り立たないからだろう。アメリカ白人の視聴者が、お金を払ってまで有色人種が出演するドラマを観たいとは思わない。黒人やヒスパニック出演者の比率をある程度抑えないと、画面が暗くなって魅力が低下してしまう。もちろん、黒人やヒスパニック視聴者を狙った専用チャンネルも存在するから、白人ばかりのケーブルテレビ局があってもいいはずだ。視聴者が望んだ番組を制作し、販売するのは自由社会の特徴である。それにイチャモンをつけてくる黒人団体の方が異常なのだ。白人ばかりの番組に文句があるなら、黒人俳優ばかりのドラマを作って販売すれば良いだろう。日本では日本人だらけの番組を制作・販売しているじゃないか。自由なドラマ作りを憎む黒人や少数民族は、インドやトルコ、ブラジルに移住すればよい。ただし、これらの有色人国家では、もっと露骨な白人至上主義がはびこっているけど。(日本ではあまり報道していないが、びっくりするような藝能事情がある。) こうした国々と比べれば、肌色民族の日本人は幸せな国に住んでいるなぁ、としみじみ思えてくる。

  エピソード7からはじまる『スター・ウォーズ』新三部作は、益々多民族・多文化主義が濃厚となるだろう。世界中に公開して大金を儲けようとしているから、キャストに様々な人種を登用して非西歐人にアビールするんじゃないか。とくに、有色人の子供をターゲットにするディズニー社が制作するのだから、支那人やインド人、アラブ人にまで媚びる配役を計画するだろう。悪役は西歐人にすれば大丈夫。暗黒卿のシーヴ・パルパティーン役は、スコット人俳優のイアン・マクダミッド(Ian McDiarmid)を当てたが、どこからも非難は無かった。彼を見ていると、どことなく元KKKの民衆党議員ロバート・バード(Robert Byrd)氏を思い出してしまう。亡くなったバード上院議員は9選を果たす長老代議士であったが、何となく暗黒卿が似合う二枚舌の政治家であった。ドゥークー伯爵を演じたクリストファー・リー(Christopher Lee)は、吸血鬼ドラキュラ伯爵で有名だったから問題なし。暗黒界の悪役だって不思議じゃない。前三部作ではデンマーク系のヘイデン・クリスティンセン(Hayden Christensen)やスコット系ユアン・マクレガー(Ewan McGregor)を使ったから、西歐人の観客にはサービスしたはずだ。最新作では、老けたキャリー・フィシャーが出演するようだ。かつてレイア姫を演じたユダヤ人女優の老後が見える。パドメ・アミダラ役にを演じたナタリー・ポートマン(Natalie Portman)は、西欧系観客とユダヤ人の両方を満足させる人選だった。西歐人の遺伝子を多く持つナタリー・ポートマンを使えば、西歐人とユダヤ人の観客が納得するから、ルーカス監督は頭がいい。

  主要キャストを西歐人にしておくなら、人種的バランスを取るために黒人俳優を起用するのも当然だろう。ジェダイ・マスター役にはサミュエル・L・ジャクソン(Samuel L. Jackson)を用いた。またもや「偉い役どころは黒人」というハリウッドの慣習に従った配役である。FBI長官とか上院議員には黒人俳優をあてることが多い。現実を反映して、黒人を下っ端に使ったり、犯罪者役を命じると、黒人評論家から文句が出る。TVドラマ『ザ・ワイヤー(The Wire)』は、リアルに黒人犯罪者の街ボルティモアを描いて批判を受けた。CBSテレビには日本の「警視庁24時」みたいなリアリティー番組『コップス(COPS)』がある。この番組は結構人気があったのだが、黒人犯罪者ばかり映し出すドキュメンタリー番組として批判されてしまった。そんなこと言ったって、現実的に黒人が多くの暴力犯罪を起こしているのだから、非難したってしょうがないだろう。筆者もニューヨークのある宿に泊まっていた時、夜中にうるさいので窓の外を覗くと、黒人どもが拳銃をぶっ放していた。眠かったのに安眠を妨害されて迷惑だった。それでも疲れていたから熟睡。38口径拳銃みたいな軽い銃声音だったから良かった。また別の地域での出来事。夜中にある通りを歩いていたら、道の先で黒人同士が拳銃で殺し合っていたので、しぶしぶ迂回せねばならず遠回りだった。余りにもつまらない事件だったので、野次馬になる気もしなかった。黒人が殺人事件を起こすのは勝手だが、街路地で銃撃戦を行うと周りの通行人に当たってしまうので迷惑だ。日本で起これば好奇心から見てしまうが、米国だと毎度のことで時間の無駄に思えてくる。言うまでもないが、一般の日本人滞在者は夜中に歩かない方が悧巧だ。

人選の自由がない藝術作品

  ヒット作品を利用して、アメリカ社会を精神的に変えてしまおう、とするユダヤ人は有害種族である。アメリカはイギリス系入植者が建てた国だから、西欧系国民が主流でも仕方ないだろう。嫌ならイスラエルに住めばいいのである。ユダヤ人が西歐人から憎まれるのは、映画を商業的に成功させるために、ヨーロッパ人の主役を用いながら、所々でユダヤ人共演者を混ぜたり、ユダヤ人の思想を植え付けるからだ。たとえば、ユダヤ人が制作した映画『スパイダーマン』では、最初ピーター・パーカー役にトビー・マグワイアー(Tobey Maguire)を起用したが、二代目はユダヤ人のアンドリュー・ガーフィールド(Andrew Garfield)にしてしまった。共演者のジェイムズ・フランコ(James Franco)もユダヤ人俳優である。ヒロインのメリー・ジェーンは白人女優のままで、ユダヤ人がヒーローの映画に作りかえてしまった。最近では映画会社側が、黒人俳優のドナルド・グローヴァー(Donald Glover)を、ピーター・パーカー役に据えようと考えたらしい。さすがに、黒人スパイダーマンは評判が悪かったので却下したようだ。日本だってブーイングが起きるんじゃないか。アフリカ人スパイターマンじゃ映画を観に行く人が減るだろう。しかし、かつてはヒスパニック役者をスパイダーマンにしようとする企画があったから、一概に無謀な計画とは言えなかった。アメリカ国内で有色人種の人口が急増したから、ビジネス・チャンスと見たのだろう。これも「オバマ・ショック」の余波かも知れない。ちなみに、トビー・マグワイアーは、ユダヤ人宝石デザイナーであるジェニファー・マイヤーと結婚したそうだ。マグガイアー氏は閨閥(けいばつ)で、俳優生命が安泰となったんじゃないか。女房の実父はユニヴァーサル・スタジオのCEOロナルド・マイヤー氏である。岳父が映画化界の大物だし、ジェニファーの義父はラビのデイヴッド・バロンであるから、ユダヤ人脈をバックにつけたことになる。ユダヤ・ハリウッド社会で出世が望めそうだ。

  人種の多様性で配役を決めるのは『ターミネーター』や『スター・ウォーズ』ばかりではない。新たに作られるマーヴェル映画『ファンタスティク・フォー(Fantastic Four)』でも、ちゃんと黒人とユダヤ人の役者を混ぜている。アイリス系女優のケイト・マラ(Kate Mara)とイギリス系俳優のアンドリュー・ジェイムズ・ベル(Andrew James Bell)を支柱にして、黒人俳優のマイケル・B・ジョーダン(Michael B. Jordan)とユダヤ人俳優のマイルズ・テラー(Miles Teller)を加えている。前作では黒人ヒーローを入れていなかったから反省したのだろう。アメリカでは映画の題材が枯渇したのか、銭を稼げるスーパー・ヒーロー映画が多く作られる。そうした作品では、如何なる人種を用いても不自然ではないから、世界規模の市場を見据えた時、制作会社と投資家にとって誠に都合が良い。無国籍映画は儲かる。舞台はアメリカでも出演者は地球市民だから、英語を喋っていても障碍にならない。外国では吹き替え版が普通で、日本のように字幕で観たいなんて客は少ない。アメリカ映画が低迷しているのは、特徴があるようで内容が乏しい作品が生産されるようになったからだ。投資額が大きくなった上に、制作会社が巨額な収益を期待するあまり、内容より売上げ高を優先させてしまうのだ。有名俳優のギャラが高くても、集客力があれば良いとする風潮が蔓延している。マーヴェル・コミックのヒーローを寄せ集めて作った『アヴェンジャーズ』なんて映画は、興業収益と関連グッズ販売の為に生み出された、長編CF(コマーシャル・フィルム)に過ぎない。

  アメリカではもはや、西欧系俳優だけで映画を作る事なんて出来ないだろう。もし、そんな作品を作れたら、意外にヒットするんじゃないか。音楽界では、ポップスやカントリー、ジャズ、ロックといったジャンルに別れていても商売が成立している。たとえば、マライア・キャリーのようなゴスペル・ポップがある一方で、ハード・ロック専門のメタリカが人気を保っている。また、軽いロックのボンジョビ、ダンス音楽のブリトニー・スピアーズだって好評を博している。それなら、映画だって、黒人やユダヤ人抜きの配役で、全編西歐中心のドラマを作ってもも良いのではないか。世の中にはヒスパニック女優ばかりのメロ・ドラマや、黒人だらけのコメディー映画だってあるのだ。

    人種比率の縛りがあるアメリカ人が、日本の漫画やアニメを観れば、その自由さに驚くだろう。未だに人気の高い『装甲騎兵ボトムズ』のキリコ・キュービィーと恋人のフィアナやライバルのイプシロンは西歐人タイプだ。昔のアニメも凄い。少女に人気があった『エースをねらえ』では、竜崎麗香(お蝶夫人)は北欧美女の設定で、宗方仁コーチだって西歐人タイプで、サッカーの岡ちゃん(岡田武史)みたいな日本人ではない。コミックとアニメで人気の『コブラ』だと、大胆に描かれる美女は、明らかに北欧女性だ。しかし、原作者の寺沢武一が、好きなようにデザインしているのだから問題ないだろう。それに、文句をつけない日本人だって偉い。日本はアメリカのような表現の制約がなくて、藝術の自由が保障された先進国だ。(ついでに言えば、アニメの実写化は止めて欲しい。『北斗の拳』『クライング・フリーマン』『ドラゴンボール』『マッハGoGo』を観れば分かるとおり、無惨な結果に終わっている。)

  自由な漫画アニメを楽しんでいる日本人なのに、アニメ制作会社は多文化主義や人種的配慮をアニメに持ち込んでいる。たとえば、2009年に制作された『サイボーク009/RE: CYBORG』では、オリジナルのキャラクター・デザインを修正している。支那人のサイボーグたる006は、滑稽な支那人顔のキャラクターだったのに、その特徴を消して凡庸な張々湖(ちゃんちゃんこ)にしている。アメリカン・インディアンの005ジェロニモですら、かなり修正された姿になってしまった。一番ひどいのは、ケニア人ピュンマのデザイン変更である。分厚い唇をもつ008は、顔がオリジナルと別人になってしまった。1960年代の劇場版からはほど遠いキャラクター・デザインで、黒人差別を是正した結果だろう。しかし、原作者の石ノ森章太郎は、黒人を愚弄するために描いたのではないから、オリジナル作品を尊重すべきだ。日本に蔓延する自己検閲の因習は実に陰険である。

    昔の原作を現在の価値観で改造してしまうのは嫌なものである。文学でも、谷崎潤一郎の小説を文部省漢字と現代假名遣ひで表記したら味が変わるだろう。幸田露伴や森鷗外の小説出でも同じ結果になるはずだ。永井豪の『ハレンチ学園』を破廉恥だから出版禁止としたらおかしい。映画『座頭市』でも同じ問題が持ち上がる。劇中の同心や岡っ引きが、主人公の「いち」を「盲(めくら)のあんま」と呼ばず「目のご不自由なマッサージ師」と言い換えたら観客は白けてしまう。それに、日本人ばかりの時代劇はけしからん、ということで、朝鮮人や支那人の役をつけ加えるようになったらお仕舞いである。映画や漫画は所詮フィクションなんだから、政治とは切り離して制作すればいいのだ。原作者が勝手気ままに描いた作品を、庶民が自由に購入できることが大切である。配役が偏見と差別に基づいてもいいじゃないか。サイボーグの『ターミネーター』をシュワルツネッガーでなく、胡錦濤が演じてもいいだろう。そのほうがリアリティーがある。ただし、チベット人は観に行かないだろうが。中華思想に凝り固まった支那人だって、胡錦濤版ターミネーターは観ないだろう。支那人なら正直だから、西洋人が出演する映画にお金を払うんじゃないか。朝鮮人のイ・ビョンホンなどボロクソに酷評するだろう。アメリカ白人が、支那人の自由な意見表明を聞いたら、内心うらやむかもしれない。アメリカ人が持てない言論の自由が、支那人にあったら悔しがるだろうな。



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支那人観光客に媚びるマスコミと売国議員

日本に押し寄せる劣等民族

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(左:写真を撮る支那人観光客/右:電車の中で脱糞する支那人)

  支那人観光客は日本の商売人にとって麻薬と同じ効果がある。覚醒剤を注射すると元気になり、夜遅くなっても疲れないし、眠らなくても平気だ。しかし、覚醒剤を打ち続けると、段々とそれ無しには生活できず、仕舞いには覚醒剤のために働く「シャブ中」になってしまう。観光業者も同じで、最初は大量に押し寄せる支那人が魅力的と思ってしまうのだ。どんなに下品で嫌な客でも、札束を落としてくれる異邦人だと、愚痴をこぼしながらもひれ伏してしまう。情けないことだが、売上げが低迷した観光地は気取っていられない。利益獲得のためなら土下座するのが商売人である。武士の商法とは違うのだ。消費低迷で悲鳴を上げる商人にとって、支那人観光客を連れてくる二階俊博は神様に見えてくる。江沢民の家来になった二階でも、利益をもたらせば七福神の仲間に見えてしまう。たが、支那人観光客に依存する日本商人は、やがて支那人の奴隷となるだろう。大金をちらつかせる支那人の御機嫌取りにあくせくする日本人が増えて、支那人がどんなに下劣な行為を犯しても、見ない振りを決め込むようになる。日本商人は自分の店が存続するなら、観光地が荒れても我慢するだろうし、大量の支那人が日本に住み着いても、さしたる抵抗も示さず静かに諦めるだろう。

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(左:買い物に熱中する支那人/右:買い物で疲れ果てた支那人)

  日本のテレビ局は支那人擁護の宣伝機関と化している。フジテレビが5月24日に放送した「新報道2001」で、支那人観光客のマナー違反を特集していた。裕福になった下等民族が高級民族の国にやって来て、日本の製品やサービスを買っている、との内容である。ただし、その支那人どものマナーが目に余るほど酷いということだった。観光地や温泉、旅館、食堂、土産物店で働く日本人は、がさつな支那人に接っしても作り笑顔を絶やさない。内心では嫌だが、札束を切る支那人には頭を下げてしまうのだ。しかし、普通に働く従業員は支那人の実態を目の当たりにして驚くだろう。たとえば、タバコや弁当容器のポイ捨てだって嫌なのに、大勢の支那人が食堂を占拠して、ガチョウのように騒ぎながら飯を喰う。しかも、外で買ってきた魚や寿司をテーブルに広げて皆でかじりつく。持ち込み料理を平気で食っている姿に、店主が気づいても注意できずに我慢しているのが現状だ。支那人が去った後の店内は汚く、床にチキンの骨や食べかす、ゴミが散らばっており、従業員が清掃する羽目になる。日本人客ならテーブルだけですむのに、支那人だと椅子や床、その他の箇所を注意して拭かなければならない。しかも、支那人と同じ時刻に入店した日本人は不愉快な思いをして店を出ることになる。「こんな店、二度と来ない」と怒ったり、「なんだこの支那人どもは?」と不快に感じる日本人観光客も多いはずだ。気分転換に美しい景観を楽しもうとしたのに、醜悪な支那人と遭遇し、嫌な思い出を作ることになる。これじゃ、せっかくの旅行が台無しだろう。支那人が来ることで、お金に換算できない損害だってあるのだ。

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(左:尻割れパンツを穿く支那人の子供/右:噴水で足を洗う支那人)

  フジテレビの「新報道2001」みたいな番組は、事件を視聴者に解説するというより、支那・朝鮮側の宣伝をする事が主目的なのだ。コメンテーターの人選だって巧妙に仕組んでいる。支那人を代表して朱健栄を出演させるのは、北京政府の工作員を直に出しているのと同じだろう。ヤクザ問題を討論するのに、現役ヤクザを出演させて、暴力団の言い分を放送するようなものだ。たとえ、弁護士が出演しても、その人物が暴力団専属だと、警察批判をしたり、ヤクザへの偏見を是正する発言をするだろう。ヤクザの「人権」や「名誉毀損」など言いだしたら、聞いている視聴者が馬鹿らしい。朝鮮との外政交渉だって似たようなものだ。朝鮮人が引き起こす事件を議論する時、日本人は馬鹿真面目に朝鮮人の意見を拝聴する。日本人は気違いの言うことを何で毎回真剣に考慮するのか? 朝鮮問題となれば、よくしゃしゃり出てくる東海大学の金慶珠。この金氏は、祖国南鮮が嫌いで日本に住んでいるくせに、日韓友好の幻想をふりまく有害鮮人。自分の存在価値をアピールする事だけに熱心な人物だ。彼女の講義を受けている日本人学生は何を学んでいるのか? 単位取得だけのために受講している学生ならお気の毒。真面目に聞いている学生ならアホじゃないか。日本の視聴者にとって何ら利益も無いのに、フジやテレ朝が飽きもせず出演を依頼するのは、朝鮮系企業へのゴマすりだろう。こういう報道番組は、無料で観ている視聴者を愚弄しているか、無視しているかのどちらかである。番組制作者は、お金をくれる朝鮮系スポンサーや支那ビジネスを展開する日本人に目を向けているのだ。勉強好きな国民性を持つ日本人は、テレビ局の実態を疑問視せず、日曜の朝にプロパガンダ放送を熱心に観ている。下らない日曜の政治番組は、北朝鮮のヤラセ報道と本質的に変わらないのだ。大卒だから知識人と思っている中高年視聴者は、番組に出演している御用学者の意見を聞くことで、世の中の動きを理解したような気分になっている。

  フジテレビのプロパガンダ放送では、一応日本人の反論を述べるゲストを呼んでいる。支那問題には富坂聡を、そして朝鮮問題には武貞秀士をコメンテーターに据えていたが、こうした人選も番組制作者の意図が現れている。確かに、富坂氏は支那人のマナー違反を具体的に指摘して、支那に対して厳しい意見を述べているようなポーズを取るが、支那人が本質的に下劣で治療不可能であることまでは口にしない。制作者側としては、支那人を根本的に否定しない富坂氏は、便利で使いやすく安心できる専門家である。武貞氏も安全な専門家である。支那人の酷いマナーは所得が上がれば改善される、といった幻想を発言するから安全な人物だ。所得が上がってマナーが良くなるなら、共産党幹部は皆紳士である。日本のマスコミは「支那人のマナー違反」を取り上げるが、そもそも支那人に文明人のマナーがあったのか? 「支那人のマナー」とは何か? 実態が分からないし、日本人が想像するような礼儀作法ではないだろう。例えば、道端に痰(たん)を吐く時、支那人はマナーを気にするのか? 大便をした時に、自分の肛門は拭くが、便器の糞を流すことはない。自分の便器ではないからだ。高級温泉旅館に泊まれば、高い料金を払ったから、かえって自分勝手な振る舞いをしたくなる。支那人には上品さや他人への気遣いというものがない。日本人客への迷惑を考慮せず、大きな声でキャアギャア話をするのが支那人である。支那人は他人がどう思うかは気にならない。公共精神が発達しなかった支那では、自分の利益だけを考えるのが、生活の智慧であり生き抜く秘訣である。北京政府が支那人観光客のマナー改善に取り組んでいる、と日本のマスコミは報道するが、桁違いの不正を行っている共産党幹部が庶民のマナーを云々するなんてチャンチャラ可笑しいだろう。数百億円を強奪した殺人犯が、缶詰一個を万引きした泥棒に対して説教するようなものだ。

  「新報道2001」の出演者は腹話術の人形みたいなものだ。ゲストは期待された内容を喋るだけ。危険な発言をする学者や評論家は最初から排除されている。視聴者は人形劇を見ている子供と変わらない。しかも、本音トークと言いながら、テレビ局側の意見に誘導しているだけだ。それなら、番組のチーフ・ディレクター中村陽子とチーフ・プロデューサーの井上義則が画面に登場して発言した方が、よほどスッキリする。番組のゲストは支那人が来日して日本人と接触すれば、日本の良さを知り、日本に対する偏見がなくなり、好印象をもって帰国するだろう、なんて呑気なことを話していた。こういうのが、脳味噌が沸騰してしまった日本人の典型的な発想である。来日した支那人は、日本人がいかに甘っちょろく馬鹿な民族かを実感するだろう。帰国した支那人は当然故郷の同胞に日本旅行の土産話をするはずだ。そうすると、支那人は益々日本へ移住したくなる。外国人に親切で、ダダを捏ねれば滞在を許し、うまくだませば福祉を喰い物にできる。偽造した国民健康保険証を手にすれば、低料金で高度な医療を受けられるし、何と言っても医者や看護婦が信じられぬくらい優しい。また、支那とは違って、井戸水が美味しくて空気が綺麗。義務教育どころか、高等教育まで受けられる。たとえ刑務所に入っても、罰則は軽いし、刑期だって短い。清潔な牢屋は快適で、職業訓練もして貰えたうえに、健康食も用意されているのだ。まるでサマー・キャンプに入ったみたい。支那の田舎ではエイズが蔓延したり、工場による汚染で病気になるし、人生の楽しみもない。日本の刑務所ではテレビを観れるし、歌謡コンサートまで開かれるのだ。野球大会もあったりして充実した刑務所暮らしが待っている。こう考えれば、支那人が夢に見る桃源郷は日本であろう。南京虫のごとき支那人観光客が、やがて日本への移住者か密入国者になり、日本国籍を取得して同胞になるのだ。考えただけでも恐ろしいが、この悪夢がじわじわと現実になっている。

自分の国が外国になる日

Chinese workers in ItalyChinese Illegals in Italy








(左:繊維工場で働く支那人/右:火災を嘆く支那人被害者)

  支那人は世界中何処にでも移住するグローバル浮浪者だ。東南アジアのみならず、北米や欧州、アフリカにだって住み着く。日本人にとって意外なのは、支那人がイタリアに移住していることだ。日本人はイタリア製のドレスや靴に対して良いイメージを持つ。熟練の職人が流行の服やハイヒールを作っているから、高級品との先入観がある。しかし、メイド・イン・イタリーという札が附いていても、実際は汗だくの支那人が適当に作っている靴や服だったりするのだ。イタリアには支那人が大量に棲息している地域がある。繊維産業がさかんな街、トスカーナ地方のプラートでは、薄汚い工場で支那人が低価格の服を作っている。人口18万のプラートに、支那人が3万人も住んでいて、その上これとは別に不法支那人が3万人いるんだから恐ろしい。(Christine Spolar, Chinese immigrants transform Italy's fashion industry, Chcago Tribune, January 2, 2009) こんな地方都市に支那人が住み着いたら、街全体が支那人だらけになってしまう。支那人はイナゴの大群と同じで、街を去るのはそこが廃墟となった時である。収奪する物がなくなった時に支那人から解放されるのだ。支那人はイタリア国籍を取得したって、イタリア人になれないし、現地のイタリリア人も彼らを同胞とは思わない。プラートでオフィスを構える支那系帰化人ロベルト・イェ(Roberto Ye)はこう語る。「俺は自分に言い聞かせてるんだ。ここはシカゴやニューヨークのチャイナタウンじゃないってね。ここは支那だ。ここじゃ白人は外国人なんだよ」と。いかにも中華思想の権化たる支那人らしい言い草だ。イタリアに潜り込んで生活基盤を固めたら、何処の国であろうと支那人の租界にしてしまう。イタリアのイタリア人を外人扱いにする支那人とは、日本人では考えられぬ発想の持ち主である。

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(左:支那語の看板が目立つプラートの街並み/右:支那人労働者の風刺画)

  先進国は外国からの低賃金労働者を排除せねばならない。自国民の賃金が上昇すると、企業経営者は低賃金でも一生懸命働く外人を雇いたくなる。特に低価格の衣類製造業は、ローテク産業で未熟練工を雇っても成立する業界なので、どうしても闇工場が成立してしまう。しかし、闇の工場でも炎で炙り出されることがある。不法に支那人を働かせている被服工場には防災設備など無いから、一旦火災が発生するとパニックが起きるし、逃げ遅れる者が出てしまう。外からは怪しまれないように工場は密閉されているし、窓には鉄格子が嵌められていたりするから、逃げ遅れた者は焼け死んでしまうのだ。プラート警察に捕まった支那人で、違法労働者のチェンは、1日13時間から17時間働き、日給2ないし3ユーロをもらっていた。この給料はイタリアの最低賃金を大きく下回る額だ。(Erika Kinetz, Fire exposes illegal Chinese factories in Italy, AP, October 18, 2014) こうした不法就労者が増えれば、彼らを対象にした店が出現する。ヴィア・ピストワズという商店街は、支那人街に変貌してしまったという。支那料理店や床屋、旅行代理店、食料品店、学校などができてしまった。公園では大勢の支那人が太極拳をしているから、イタリア人からすれば不愉快で、くつろげる公共の場ではない。

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(左:支那人で混み合う水泳プール/右:電車で排便をさせる支那人)

  支那人労働者が増えれば、それに比例して支那関連の問題が出てくる。公園以外でも、他の公共施設が支那人だらけになってしまうのだ。例えば、公営スポーツ施設にある水泳プールは低料金だから、支那人が友人や家族を連れてやって来る。人間が泳ぐプールなのに、ガチョウかカラスの棲息する池に変わってしまう。しかも、水虫、いぼ痔、いんきん、肝炎など様々な病気を持つ支那人が大勢水に浸かるから不潔だ。子供が水中で放尿など当り前。脱糞しないだけマシと思わねばならない。支那人の鼻水、痰、唾、尿が大量に吐き出される水の中で泳ぐなんて、気持ち悪さを通り越すから日本人は寄りつかない。垢がたまった体をこする奴がいるかも知れないから、注意が必要だ。公共施設は下層外人に占領されやすい欠点を持つ。庶民が安く使える公共施設なのに、賤しい支那人が押し寄せることで日本人が避けるようになり、実質的に支那人専用施設となってしまう。しかも、使用しない日本人の税金で運営されるから、重税感にあえぐ日本人から不満が出てくる。公営施設だけでなく、民間施設も被害を受けるだろう。気持ちよく汗を流す銭湯で支那人と一緒に湯船に浸かるなんて嫌だ。温泉だって支那人客が来ると日本人からの苦情が増える。頭の良い旅館経営者は、日本人の客を逃したくないから、「支那人お断り」の方針に切り替えるだろう。旅館を汚くされた上に、評判を落とすくらいなら、支那人客を排斥した方が長期的利益に叶うからだ。

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(左:アヘン吸飲の支那人/右:支那移民を描いた風刺画)

  支那人に甘い国は徐々に浸食され、最終的に国家ごと乗っ取られてしまう。その良い具体例がオーストラリアである。オーストラリアの人口は約2300万人になっており、その4分の1が外国生まれの者で占められているという。昔はイギリス系移民が主流だったのに、白豪主義を放棄してからというもの、アジア系移民が増大し、支那人が移民リストのトップになってしまった。英国が香港を北京政府に戻したら、西歐帝国主義を非難する支那人が英連邦に移住したのだから、笑ってしまうだろう。カナダと同じで、オーストラリアも支那人の移民先となり、大量の支那人が流入してしまった。支那からの留学生だって、卒業してもそのままオーストラリアに居残り、オーストリア国籍を取るようになった。シドニーの支那協会で会長を務めるダフネ・ロウ・ケリーによれば、何らかの資格を持つ若い支那人なら、祖国に戻らず、オーストラリアに留まる事を選択するという。(Chinese Top List of Australia's new Settlers, Voice of america, August 15, 2011) しかし、こうした支那人も時が経てば、オーストラリアの白人は人種差別が激しいなどと文句をつけてくる。図々しい支那人は国籍取得前だと、従順な振りをするが、一旦帰化してしまえば元の傲慢な支那人に戻ってしまうのだ。オーストラリアが白人国家ということを承知で帰化したのに、支那人団体を結成して多民族・多文化主義をイギリス系国民に押しつけてくる。

外国移民の責任者はいない

 日本では「ヘイト・スピーチ」取締法の流れができつつあるが、オーストラリアでは既に言論弾圧が通常になっている。電車内で支那人に腹が立ったオーストラリア人女性が、支那人客に対して罵声を浴びせた廉(かど)で警察に捕まってしまう事件が起きた。(‘Go back to China’: Austral;ian police charge for racist train trant, South China Morning Post, 3 July 2014) 逮捕されたのはカレン・ベイリー(Karen Bailey)という55歳の白人女性だが、事の起こりは電車内での座席が原因だったらしい。彼女が夫のいる養老施設から帰る途中で乗車したのだが、座席に支那人の母親と息子二人が席に坐っていたことが癪にさわったらしい。ベイリー氏が、支那人の母親ジェイド・マーに「あんたのだらしない息子たちをどかしなさい」と言いつけたという。しかし、その子供たちはどかずに坐り続けたので、ベイリー氏が激昂して支那人に対する罵詈雑言を並べ立てたのである。彼女は支那語もどきの言葉を発したり、自分の眼を指で吊り上げて、支那人の目つきを馬鹿にしたのだ。こうした騒動を電車内の乗客が撮影して、動画をインターネットに流したのである。ベイリー氏は養護施設での支那人看護婦に不満を持っていたらしく、電車での支那人親子は、お門違いのとばっちりを受けたのかも知れない。しかし、ベイリー氏が口にした「だらしない子供たち(bogan children)」という言葉に、どことなく引っかかる。(Kate Lyons and Sally Lee, Get your f***ing bogan children off the seat, Daily Mail, 4 July 2014) 映像には支那人親子が映っていないので、どんな支那人か分からない。しかし、親子で座席にむかつくような姿で“ぐたー”と坐っていたんじゃないか? 他人への気配りというエチケットがない支那人だと、他の乗客を無視して図々しいオーラを放っていたのではないか?

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(左:支那語らしき言葉を喋るベイリー/右:支那人の目をまねるベイリー)

  これは筆者の体験だが、オレゴン州とニュージャージー州で「グレイハウンド」という長距離バスに乗った時、支那人の乗客を見たことがある。オレゴン州のケースでは、座席に横柄な態度で坐った支那人2名が、支那語で会話していたから不愉快な雑音が耳障りだった。筆者がその支那人を観察していたら、一人の支那人がバスの床に唾を吐いたのだ。日本でなら注意するが、多民族主義を信奉する米国だから静観していた。ニュージャージーのケースでも、支那人乗客がバスの床に痰を吐いた。汚いと思ったが、有色人種優遇策をとる米国なので、筆者は黙って見ていた。日本のバスなら叩きのめす。刑事事件になっても構わない。支那人が同乗するだけで不愉快なことが多い。筆者が渡米する時、ユナイテッド航空に登場した時のこと。筆者の斜め前に坐っていた支那人女は、アメリカ人スチュワーデスを女中みたいに扱っていた。日本航空なら、筆者はその支那人女を注意したが、アメリカの会社だから無視していた。それに、アメリカ人に支那人の悪い印象が残るので、結構な事だと考えたからである。筆者はアメリカ人スチュワーデスから受けるサービスに対し、毎回礼儀正しくお礼を述べ日本からの乗客だと告げた。日本人が鄭重に接すれば、アメリカ人だって悪い気はしないだろう。

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(左:唾を吐く支那人/右:唾・痰を吐くことを禁止する看板)

   ベイリー氏がマー氏と子供たちに不満をぶつけたのは不当かも知れない。しかし、彼女が激怒した動機の背景には、オーストラリアが抱える人種問題があるはずだ。彼女が特別な人種偏見をもつ白人至上主義者とは思えない。普段はどこにでもいるオーストラリア版オバタリアンだろう。しかし、日頃から押し殺している不満が、彼女の内心で充満しており、電車の中で見た支那人の傲慢な姿が、起爆剤となって怒りが爆発したのかも知れない。そうでなければ、いきなり電車の中で支那人親子を見つけて「イチャモン」をつける人物なんて異常者だ。ベイリー氏は警察に捕まって、自分の行為について反省したというが、こういった事件を聞けばオーストラリア白人ならひっそりと彼女に同情してしまうだろう。支那人にむかついても、公然と怒りをぶつけることができないのだ。昔のオーストラリアだったら、白人が主流だったから、支那人がデカい顔をしてのさばることなどなかった。イギリス系国民は自ら白豪主義を捨てるという愚かな選択をしてしまい、結果的に国家的自殺行為をしたのである。利益に目が眩んだオーストラリアの政治家や企業家は責任を取らない。彼らは自分の都合で有色移民を引き入れたが、問題が起これば税金(他人のゼニ)で解決しようとする。移民を輸入した企業経営者は、移民が住めない豪華な住宅地に住んでいるし、移動だって高級リムジンか自家用ジェト機を使うだろう。バスや電車なんて貧乏庶民の交通手段である。通勤ラッシュの満員電車なんて想像できない。ちなみに、JRの山手線は奴隷船より混んでいるという。日本人勤労者は奴隷よりも酷い状態で通勤しているのだ。

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(左:オーストラリアでの支那人街/右:尻を丸出しにする支那人男)

  これといった政治権力を持たない庶民は、政府が勝手に決めたことでも従わなければならない。確かに、各人は一票を持っているが、それはバラバラに点在しているから、固まった票田にならない。創価学会のような宗教組織なら、鉄の規律と支配者により信者が統率され、全国規模で票を動かすことができる。しかし、平凡な暮らしを送る一般人は全国規模で団結をして移民に反対することはない。井戸端会議で愚痴をこぼすことはあっても、1万人規模で国会に押しかけて座り込みを続けるなんてことはできないだろう。毎日の家事や仕事に追われるのが精一杯の庶民は政治的に無力である。白人だけで平穏な街に支那人労働者が群れ始めれば、そこに支那料理店や雑貨店ができてくるだろう。白人は支那人の店に近寄らないけど、支那人客はどこからともなく寄ってきて街中で支那語が飛び交う事態になる。支那語の看板が目立ち始めて、街の景観が支那風に変貌し、西欧風の街並みが消えてしまうのだ。高額所得者の白人はさっさっと街を去り、残るのは引っ越し費用がない低所得の白人ばかりとなる。そうすると、移民と日々接する低所得白人は、知らぬ間に不平が胸の奥に充満し、どこかで吐き出したくなる。たとえば、サッカーの国際試合で、オーストラリア白人は支那系国民と支那チームを同一視して、支那系オーストラリア人を路上で罵倒するといったことも起きるだろう。街頭でオーストラリア白人と支那系帰化人が喧嘩を始めてもおかしくはない。下層民ほど露骨に感情をぶつけるものだ。

  多民族主義が蔓延しているオーストラリアでは、白色国民が細やかな抗議を示している。自分の車にオーストラリア国旗を取り付けて走行しているという。こうした人の43パーセントは、他国が経験した問題からオーストラリアを救うのは白豪主義だと考えている。(David Weber, Aussie flag flyersd more racist: survey, ABC News,24 January 2012) 調査の結果によれば、国旗を掲げている人は、普通の人より人種差別の傾向が強いという。マスコミの調査は左翼思考によって行われるから、原因を説明せず、もっぱら結果を重要視する。国旗を掲揚するオーストラリア人は、国家の構成員が遺伝子的に変化していることに気づいたからだろう。子供の頃は、西歐人が当り前の町内が、今やアフリカ黒人、アラブ系イスラム教徒、支那人やマレー人といったアジア人、インド人、パキスタン人、ビルマ人で溢れているのだ。

  オーストラリアの高齢者なら家族のアルバムを開き、昔の街並みや白人ばかりの隣人といった写真を懐かしむだろう。そういえば、筆者が米国にいた時、証明写真を撮ってもらおうと写真店を訪ねたことがある。その店番を若い白人女性がしていて、暇なので雑談をしたことがある。その日、彼女はたまたま祖父の代わりに店番をしていたそうだ。彼女はおじいさんのアルバムを取り出し、セピア色の写真を見せながら、色々と街の歴史を語ってくれた。彼女は現在の街並みに不満らしく、アラブ系移民が流入したことで、街の雰囲気が悪くなったし、以前のような安心感がなくなって残念だと語っていた。彼女はとても白人至上主義者とは思えない、温和でごく普通の西欧系女性だ。外国人労働者が増え、帰化人も増加すれば、温厚な日本人でもやがて人種差別主義者になるだろう。ちょっとした違和感や嫌悪感でも、それが積もれば山となる。いつかは感情の雪崩が起きるだろう。

  移民を望んでいない庶民が、移民と共存せねばならぬ、とは納得が行かないだろう。移民を引き入れた者が、移民への健康保健料や教育費を負担し、不愉快でも同じ場所に居住し、各移民の保証人となって暮らせば良い。移民が刑事事件を起こせば、その保証人が損害賠償金を支払うようにすべきだ。以前、静岡県でひき逃げを犯したブラジル人が、さっさと祖国に帰ってしまい、日本の警察が手を出せぬ事態となった。容疑者引き渡し条約がなかったので、ブラジル政府は犯人を日本側に引き渡さなかった。代理処罰ということで、被害者家族は泣き寝入り。もちろん、そのブラジル人を雇った企業が責任を持つ義務はない。突然の不幸に苦しむ庶民は何処に怒りをぶつけていいのやら分からず、位牌を持ちながらただ悔し涙を流すだけだとは。外国人労働者を望まない一般国民が、いつ襲いかかるか分からぬ事件に怯えながら暮らすのだ。移民を引き入れた政治家は、現役時代に貯め込んだ裏金と議員年金とで幸せに余生を送るだろう。税金を巻き上げられた上に、移民と暮らす羽目になる庶民は哀れである。不幸が訪れた時に、「まさか自分に」と嘆いても遅いのだ。後悔するくらいなら、前もって移民に反対するほうがいい。「支那人反対!」と叫んだら、案外気分が良いかもしれない。



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