権力者と組んだユダヤ人政商
(左/ボリス・ベレゾフスキー)
ヘビのように狡猾なロシア皇帝ウラジミール・プーチンが、最初の二年間でまず叩き潰そうと思ったのは、グシンスキーとボリス・ベレゾフスキー(Boris Berezovsky)であった。欧米のユダヤ人と同じく、ベレゾフスキーも民衆に影響力を行使するテレビ・ネットワークを支配するユダヤ人である。このベレゾフスキーはギャングみたいな人相からは想像しがたい、アカデミック界から浮上した学者肌のオリガルヒであった。彼は数学を専攻した科学者で、モスクワ林業大学でシステム・コントロールとオペレーション・リサーチを研究していたという。ベレゾフスキーが理数系の分野を専攻したのは、彼がユダヤ人であったからだ。ベレゾフスキーが語ったところによれば、
俺には政界での将来なんて無いのさ・・・俺は政治エリートの一員じゃなかったしな。俺はユダヤ人だ。制約が山ほどあるのさ。そこんとこは、きっちり分かっている。(David E. Hoffman, The Oligarchs, Public Affairs, Oxford, 2002, p.130)
科学分野ならユダヤ人への不条理な差別は少ないだろうということで、ベレゾフスキーはコントロール・サイエンス学院に入り、自分の研究機関を主宰するようになった。応用数学を使って意志決定の過程を研究したらしい。1970年代にはハーバード・ビジネス・スクールで研究生活を送ったり、一時はカルフォルニア工科大学で研究をしたようだ。
学者生活を送っていたベレゾフスキーがビジネスマンに転身したキッカケとは何か? それは自動車販売であった。彼は当時ジグリー(Zhiguli)という乗用車を造っていたソ連最大の自動車会社、アフトヴァス(Avtovas)の経営コンサルタントになって活動していたのだ。流通や販売といった商売が苦手なロシア人は、生産した自動車をどう売ったらいいのか分からなかった。そこに目をつけたベレゾフスキーは、アフトヴァスの経営幹部に食い込んだのである。ベレゾフスキーは「ロゴヴァス(Logovaz)」を創立し、生産した車はロゴヴァスが安値で買い取ることにした。ベレゾフスキーは総合商社のような企業を目指したのであろう。破格の値段で製品を売り渡しても、アフトヴァスの経営幹部は自分の懐が痛むわけでもなかった。彼らは別段困らなかったし、それどころかロゴウァスの重役に迎えられたのである。最終的に廉価販売のしわ寄せは、労働者に押しつけられたのは言うまでもない。
(左/ポール・クレブニコフ)
共産主義体制下でのソ連では、物々交換が珍しくなく、需要と供給を仲介する込み入った売買なんて不得意だった。日本のような流通システムが発達していなかったから、怪しい仲介業者が暗躍したのである。ベレゾフスキーは商社を築いて、売り手と買い手を結ぶ取引を展開したのだ。彼は自家用車に爆弾を仕掛けられるような目に遭いながらも、モスクワの自動車市場に強固な支配権を確立したという。莫大な利潤を得るために、ベレゾフスキーは、チェチェン・マフィアの手も借りたらしい。こんな科学者なんて日本ではお目にかかれない。実験室に籠もって研究していた学者が、商売を始めたら山口組と手を結ぶなんて考えられない。やはりユダヤ人には倫理を無視した天賦の才が備わっているのだろう。『フォーブス』誌のポール・クレブニコフ記者によれば、ベレゾフスキーの商売に割り込もうとした者は、思いがけぬ不幸な死に方をしたという。こうした疑惑の死を報じたクレブニコフ記者も、2004年にモスクワで射殺されてしまった。(C.J. Chivers, Erin E. Arvedlund and Sophia Kishkovsky, Editor's Death Raises Questions about Change in Russia, The New York Times, July 18, 2004) 彼の暗殺はチェチェン人によるものとされているが、その背後にはベレゾフスキーがいたんじゃないか、と推測されている。
(左/アレクサンドル・ヴァローシン)
1993年、ベレゾフスキーはアレクサンドル・ヴァローシンと共同で、AVVA(全ロシア自動車聯合)と呼ばれる投資会社を設立した。彼はドイツのフォルクス・ワーゲンみたいな、国民車をつくろうと思いつき、その資本集めを考えついたのである。手始めに20億ドルほど必要だったので、資金集めの手段としてAVVAを開設し、株と引き替えができるというヴァウチャーを売り出した。このヴァウチャーは高級紙を使ったもので、わざわざスイスで印刷させ、紙幣のように見せかけていた。1株と印刷された株の額面は1万ルーブルで、理論上AVVAの株と交換できるというものだった。しかし、実際は株に見える紙を販売していたに過ぎない。ベレゾフスキーはその無価値の紙くずを売ったお金でアフトヴァス社の株をインサイダー価格で購入するつもりだったという。そして、アフトヴァスとジェネラル・モーターズ(GM)と合弁会社を設立して国民車を生産しようとするつもりだったらしい。しかし、合弁事業は実現されず、AVVA株は紙くず同然となった。しかし、ベレゾフスキーの懐は痛まず、むしろこの詐欺商法でかなりのお金を儲けたらしい。しかも、共同経営者のヴァローシンは、まもなくエリツィンの首席補佐官になり、その後もプーチンの首席補佐官に納まっている。彼がベレゾフスキーをエリツィン一族に紹介し、エリツィン側近との人脈作りに手を貸したのである。
NTVを所有していたウラジミール・グシンスキーと同じく、ベレゾフスキーもロシア公共テレビ(ORT)を使って自らの権力を維持していた。1994年に、エリツィン大統領は国営のチャンネル1を競売に掛けず民営化し、51パーセントの株は国家の所有としたが、残りを裕福な支持者に分割したのである。主な株主というのが、ベレゾフスキーを始めとするオリガルヒたちであり、ベレゾフスキーは19パーセントの株しか持っていなかったが、ORT経営陣の人事を掌握し、実質的な支配者となった。これは、エリツィンによる暗黙の了承を得ていたからできたことである。こうした癒着関係があったので、エリツィンが再選を控えて支持率が急落した時、オルガルヒの面々はエリツィンを救済するために、こぞって資金を集めたり、エリツィン支持のキャンペーンを張ったのだ。民衆からの人気を得ていた共産党が復権したら、ロシア国民を食い物にしてきたオリガルヒは真っ先に批判の矢面に立つだろう。彼らは財産を没収されたうえに処刑されるかも知れない、という恐怖に駆られたのだ。
(左:ベレゾフスキーとクシンスキー/中央:キリエンコ/右:プリマコフ)
後進国では政治家と商売人の不正な結託がひどい。ロシアで権力を振るうエリツィンを支持したオルガルヒは、権力者の恩顧という甘い汁を吸いながら不正蓄財に励んだのである。ベレゾフスキーはアエロフロート航空や石油会社シブネフチ、アルミ産業などにも手を伸ばし、その富を増大させていたのだ。また、ベレゾフスキーはエリツィン再選のご褒美として国家安全保障会議副書記に任命され、のちに独立国家共同体(CIS)調整機構執行書記にも任命された。ユダヤ人ペテン師を国家の要職に据えるとは、エリツィンによる国家の私物化は言語道断。のちにベレゾフスキーは両方のポストから解任されたが、それでもエリツィンの娘タチアーナや側近との人脈を維持していたので、依然として政界で影響力を駆使できたという。例えば、彼はセルゲイ・キリエンコ(Sergei Kiriyenko)首相の解任を仕掛けたらしく、後継者のイヴゲーニー・プリマコフ(Yevgeny Primakov)首相はその危険を察知した。彼はベレゾフスキーの側近をアエロフロートやORTから排除し、抵抗する者は税務調査や会計検査官を送って脅迫したのである。それでもベレゾフスキーは潰されず、なんと選挙に出馬して下院議員になってしまった。しかし、権力を握って安泰かと思われたベレゾフスキーに皮肉な事態が起こったのである。経済危機の煽りを受けたこともあり、エリツィンは強力な指導者を求めるようになったという。そこで、ベレゾフスキーの後押しもあって、FSB長官のプーチンを首相に任命したのだ。これは明らかに、プーチンを大統領に仕立てる布石である。エリツィンはその見返りとして、プーチンに自分の刑事訴追を免責させる腹であった。
(左/ロマン・アブラモヴィッチ)
権力者はその座から離れると哀れなものだ。エリツィンの娘による不正は目に余り、その収賄事件は政界から激しい非難を浴びていた。大統領が交代すれば、前政権への不正追及だって激しくなるだろう。プーチンはエリツィン一族と癒着していたベレゾフスキーを狙うようになっていた。ベレゾフスキーからの支援を受けて出世したプーチンだからこそ、かえってその影響力を警戒したのだろう。プーチンはこの危険なオルガルヒのベレゾフスキーに背を向け、不正行為を暴いて投獄するぞ、と脅しをかけた。意思の強いプーチンは追求の手を緩めず、ロシア・テレビ界の支柱たるORTをベレゾフスキーからもぎ取ってしまった。プーチンと対立したベレゾフスキーは下院議員を辞職し、外国に避難しようと思い始めたのである。彼は投資の一部を現金化した方がよいと考え、プーチンのお気に入りであったロマン・アブラモヴッィチに、石油会社のシブネフ株を売却したという。ついでに、ORTの持ち株も8千万ドルでアブラモヴッチに引き渡した。すると、アブラモヴィチはORT株に基づく自分の議決権を、親分のプーチンに恭しく献上したのである。こうして、皇帝プーチンはロシア最大のテレビ・ネットワークを掌握し、自分を批判するメディアを封殺したのだ。
(左:ベレゾフスキーが住んでいた英国の豪邸/右:恋人と一緒のベレゾフスキー)
新たな権力者プーチンと対立したベレゾフスキーは亡命を余儀なくされた。彼は最終的に英国に避難し、憎いプーチンを批判しながら、イングランドで贅沢な暮らしをしていたのである。しかし、そんな亡命者にも不幸な死が訪れた。2013年、彼の遺体が豪邸の浴室で発見されたのだ。(Richard Behar, Did Boris Berezovsky Kill Himself? More Compelling, Did He Kill Forbes Editor Paul Klebnikov?, Forbes, March 24, 2013) ブリテン捜査局の調べでは、他殺の痕跡がなく自殺という結論に達したらしい。しかし、ガーディアン紙のロシア特派員ルーク・ハーディング(Luke Harding)記者は自殺説を疑っている。彼はロシアの諜報機関がベレゾフスキーを自殺に見せかけて殺害したのではないか、と推測していた。そうした疑惑がある一方で、ベレゾフスキーは訴訟による裁判沙汰や破産の危機で悩んでいたとの情報もある。ロシア人亡命者でベレゾフスキーの友人であるニコライ・グルシュコフは、警察やマスコミが報じる自殺や自然死を信じていない。グルシュコフは「奴が自殺したなんて考えは糞食らえだ。・・・裁判の判決が下りた時、奴は活き活きとしていたし、家で待っている若い女について話していたんだ。あとになるが、奴は財政危機を乗り越えていたんだよ」と話していた。(Mark Adomanis, Was Boris Berezovsky Murdered? The Evidence Strongly Suggests No, But Luke Harding Says Maybe, Forbes, March 26, 2013)
(左:家族と一緒のベレゾフスキー/右:パーティーでのベレゾフスキー)
ただし、ロシアの秘密機関がベレゾフスキーを暗殺したのかどうか謎である。彼をロシアから追放し、権力基盤を固めたプーチンが、十年以上も経ってからわざわざ暗殺するほど、ベレゾフスキーに価値があったのか? 彼を殺すメリットとは何だったのか? プーチン側は英国の防諜機関MI5が暗殺したのだ、との憶測を流した。(Cyril Dixon, Boris Berezovsky ‘died by hanging’as Kremlin blames MI5, Express, March 26, 2013) これと対照的な、別の推測もある。もしかしたら、ロシア諜報機関による暗殺からベレゾフスキーを守るため、MI5が自殺を装って彼を隠匿したのではないか、との噂も流れた。(Will Stewart, Is Boris Berezovsky ALIVE?, Daily Mail, 26 September 2013) 英国側としてもプーチンのイメージを悪くできるし、利用価値のあるベレゾフスキーを温存できるので、何らかのメリットがある。しかし、本当のところは分からない。諜報機関が絡むと真相は闇の中だ。
資源が豊富なロシアを搾取
共産主義国では逆説(パラドックス)が起こる。理屈では無産労働者(プロレタリアート)の為に建てられた楽園だったのに、いざ出来上がると専制支配、赤い貴族の出現、庶民の搾取と弾圧、貧困の深刻化といった地上の生き地獄が実現される。ロシア、支那、北朝鮮を調べれば一目瞭然。共産主義体制が崩壊したロシアに、成り上がり型の大富豪が誕生した理由は何か? それは北方の半アジア大国が天然資源に恵まれていたからである。何と言っても、石油、天然ガス、ニッケル、アルミニウム、鉄鉱石、レアメタルなどが豊富に埋まっているのだ。だが、この資源国は計画経済と国家所有を前提とした法制度しかなく、自由市場経済における私営企業が存在するなんて考えていない。したがって、民間企業や私有化に関するルールや規制が無かった。まぁ、あったとしても権力者が勝手に歪曲するだろうし、規則や手続きを無視したって、怖い政治家や官僚を掣肘(せいちゅう)しようだなんて国民もいないのだ。傲慢さを絵に描いたようなエリツィンが、法治主義のルールを気にするわけないし、暗殺を厭わないプーチンが、公正な手続きを遵守するわけないだろう。
(左/ミハイル・ホドルコフスキー)
石油成金のオリガルヒとくれば、日本人や欧米人なら、まずミハイル・ホドルコフスキー(Mikhail Khodorkovsky)を思い浮かべるだろう。彼は1963年に生まれたユダヤ人で、モスクワの共同アパートに住む貧しい家庭に育ったが、その才能を活かし大富豪への階段を昇ることになる。彼は元々共産主義者青年同盟(コムソモール/Komsomol)出身で、名門メンデレーエフ化学技術学院を卒業した後、別の大学で法律や金融・財政を学んだという。共産主義思想を植え込まれたロシア人なら、馬鹿の一つ覚えのように共産主義思想の擁護者になりがちだが、ユダヤ人のホドルコフスキーはひと味もふた味も違った。彼は大学の級友とコーヒー・ショップやディスコ・クラブを開いたり、ソ連では希少価値のある品を販売したり、と手広く商売をこなしていたようだ。一時は、「ナポレオン」といったブランデーやスイス産の偽ヴォッカを扱ったり、中でも人気だったのは荒く洗濯したジーンズであった。西側のポップ・カルチャーはロシア人青年の垂涎の的であったからだ。西歐の文化に憧れたロシア人の欲求はすごかった。若い娘の中には、コール・ガールになってもいいから、フランスのパリに住みたいと考えるものがいたくらいだ。若くて美しい時期を工場労働で無駄にしたり、国営食料品店で配給を受けたりする生活なんてで嫌だ。雪が降りしきる寒い中、行列に並んで買うのが黒くなった腐りかけの肉だったりする。公営の狭くて汚いアパートで、脂肪分の多い料理を食べながら、ジャガイモのような体型になってゆく。お洒落をしたい年頃なのに、高品質の化粧品もないし、気の利いた娯楽も少ないから、車の中でのセックスが最高の楽しみだったりする。気がつけば肌はかさかさ、シミ皺だらけの顔にはヒゲが生え、小太りの中高年ババアが一丁出来上がり。そんな人生はゾっとするだろう。(考えてもしょうがないけど、なんで可愛らしいロシア人少女が、中年過ぎると大型のブルドッグになってしまうのか不思議である。)
商才のあるホドルコフスキーは、資金調達のために「メナテップ(Menatep)」と称する協同組合を結成した。科学分野の研究やコンピューター開発に必要な技術や部品も提供したらしい。彼にとって、コンピューターの購入販売は主な収入源となっていた。ホドルコフスキーはまた、ヴェニスの商人みたいに、金貸し業も同時に行っていたという。この協同組合は1988年に「メナテップ」銀行に再編され、「商業新生銀行」として公式に営業免許を受けたのである。この新生銀行は国営銀行とのジョイント・ベンチャーで、資本金は250万ルーブルであったという。創立当時はコムソモール中央委員会をはじめ色々な共産党員が資金を持ち込んだらしく、不正な資金洗浄を行ったようだ。悧巧なホドルコフスキーは警察の嫌がらせや捜査をかわすため、国家委員会の役人に袖の下を渡していたらしい。やはり、灰色のビジネスに手を染める連中は、いざという時のために準備しているものだ。「メナテップ」は再免許を受けて株式会社となり、ホドルコフスキーが取締役会の会長におさまった。彼の欲望はまだこんなもんじゃない。1991年に「メナテップ株主クラブ」を発足させて、政府が国有企業を私有化する時代のチャンスを見逃さなかった。ホドルコフスキーはヴァウチャーを集めて私有化された企業を支配するし、メナテップ・バンクが株を集めれば、それを管理するために「ロスプロム」を設立した。メナテップは各分野に手を広げ、子会社を抱え始めたという。それは化学、建設、織物、鉱業、消費財、石油の分野であった。
(左:ヘンリー・キッシンジャー/中央:ジェイコブ・ロスチャイルド/右:ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー)
こうしたカテゴリーの中で、もっとも成功したのが石油部門の子会社、「ユーコス(Yukos)」であることは言うまでもない。ユーコスはロシア最大の石油会社に成長し、ホドルコスキー帝國の支柱となった。1995年にはグループ管理会社として「ロスプロム」を設立したが、ホドルコフスキーはその取締役会会長になる。成功する悪党は幸運なものが多い。1998年に起こった金融危機でメナテップ銀行は破綻するが、ホドルコフスキーはユーコスを何とか守り抜いたのだ。こうした苦難をくぐり抜けると、翌年は石油価格が高騰して、ユーコスの価値はうなぎ登り。ダーティーなイメージを払拭するために、西歐の幹部をユーコスに招いたり、と透明な経営に務めたらしい。また、公共精神があることを宣伝するために、アメリカの議会図書館に100万ドルの寄附を行い、オープン・ロシア財団を設立すると、ヘンリー・キッシンジャーやジェイコブ・ロスチャイルドを理事会のメンバーに迎えたという。キッシンジャーは確かに有名人だが、いかがわしいユダヤ人に変わりがない。ニクソン大統領から「俺のユダ公(My Jew boy)」と呼ばれた元国務長官は、副大統領のネルソン・ロックフェラーの方に忠誠を誓っていたのだ。ジョン・F・ケネディーからも侮蔑されたキッシンジャーは、支那でもコンサルタント業務を請け負ったりして儲けていたらしい。自らの地位を安泰にするため、ホドルフスキーは不動の地位を誇るロスチャイルドをパトロンにし、プーチンからの攻撃に備えたのかも知れない。
(右/法廷でのホドルコフスキー)
ホドルコフスキーは自らの石油帝國を更に拡大しようと、大手石油会社「シブネチ」を吸収合併しようと試みた。しかも、その合併で誕生する会社の株式に、アメリカの巨大石油会社エクソン・モービルを引き込もうとしたのだ。ロシアの主権を自らの手に握っておきたいプーチンにとって、巨万の富を築くホドルコフキスーは脅威となってしまう。危険な芽は早めに刈り取っておかねばならない。ロシア検察当局は脱税などの容疑で、ホドルコフスキーに禁固10年を求刑した。裁判では禁固9年の刑を言い渡され、服役中に2013年プーチンの恩赦を受けて釈放されたのである。ホドルコフスキーの釈放には、ドイツの元外相ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー(Hand=Dietrich Genscher)が動いていたという。(Secret diplomacy in Kordorkovsky case, Pravda, 24 December 2013) また、彼の釈放前にヘンリー・キッシンジャーがモスクワに渡り、プーチンやセルゲイ・イワノフと会談していたというから、奇妙な偶然である。刑期が2017年までに延長されたホドルコフスキーは、恩赦を得るためにプーチンと取引できる何かを隠し持っていたのだろう。あのプーチンが人道主義で動くはずはない。必ず裏取引があったはずだ。なぜドイツのゲンシャーが、悪徳商人の保釈を求めてプーチンと交渉したのか、甚だ不思議である。ただし、釈放されたホドルコフスキーが、再びロシアの政治に介入することはないだろう。今度は命が危ないからだ。
(左:ヨシフ・スターリン/中央:毛沢東/右:フランクリン・ローズヴェルト)
ロシアの支配者になるような政治家は実に狡賢い。独裁者は冷徹な目で現実を認識し、邪魔者を早めに片付けようとする。自分の権力基盤にとって脅威となる悪魔は小さなうちに抹殺しようとする。ユダヤ人は金銭を持ち始めると実に厄介だ。厚顔無恥な上に欲の皮が突っ張っている。しかも、世界各地に強力な仲間を持ち、同種のよしみで協力を求めることができる。世界ユダヤ人会議なんて恐ろしい組織まで持っている。日本人が「世界日本人会議」を組織するなんて発想は無い。せいぜい歐洲と北米に、日本アニメ同好会を結成するくらいだ。大学の教授や新聞社の論説委員はけっして口にしないが、ヒトラーやスターリンは悪党だったから、ユダヤ人の危険性に気づいていたし、その脅威を早めに潰してしまおうと思ったはずだ。ヒトラーはドイツで金融を支配するユダヤ人を排斥したかったし、米国や英国にはびこるユダヤ勢力を警戒していた。ユダヤ人だらけのボルシェビキを肉眼で見たスターリンは、ロシアの実権を握るやユダヤ人を排斥したり、ヒトラー以上にユダヤ人を虐殺したのである。邪魔者どころか、将来自らの権力を脅かすユダヤ人に対し、スターリンは先手を打ったといえよう。いかにも野蛮なスターリンらしいが、安心を確保するためには皆殺しが一番。ワルい奴は同類の臭いが分かるのだ。日本人みたいな甘っちょろい民族は、ユダヤ人の本性が分からない。明らかに分かる支那人や朝鮮人に対しても、厳しい処置をとれない日本人が、海千山千のユダヤ人に対抗でき訳がないだろう。島国で平和に暮らしてきた日本人に、大量虐殺が当然のアジア大陸は理解できない。血なまぐさい生活が日常のアジア人は、心に闇を持ち、執念深くて陰険だ。如何なる手段を用いても勝利を確実にする。公正や名誉を求めるなんて、平和な民族の道楽である。ユダヤ人の本性は、同類のアラブ人と対峙した時に現れる。迫害されて哀れなユダヤ人というイメージを日本人は持っているが、そんな幻想はパレスチナ紛争で牙をむき出しにしたユダヤ人を見れば、粉々に消し飛んでしまうだろう。
(左:アドルフ・ヒトラー/右:ウィンストン・チャーチル)
ロシアを自分の物にしたプーチンなら、ユダヤ人に支配された欧米諸国をあざ笑うだろう。第二次世界大戦を冷静に眺めてみれば奇妙なことに気づくはずだ。英国のチャーチルが、あれほどドイツと闘いたかった理由のひとつは、迫害されるユダヤ人を救いたかったからである。異常なまでにユダヤ人贔屓だったチャーチルは、同胞のイギリス人を犠牲にしてまで異邦人たるユダヤ人を救いたかったのである。チャーチルとユダヤ人の関係は滅多に書かれないが、調べてみると驚愕の史実が出てくる。第一次大戦で歐洲政治への介入を嫌がったアメリカ国民は、ユダヤ人好きのローズヴェルトによって戦争に引きずり込まれてしまった。共産主義が大嫌いだった英米が、天敵ソ連と同盟を結び、ドイツ人と戦うことを選んだのだ。逆にヒトラーは英米との闘いを望んでいなかった。むしろ、同盟を結びたかったくらいである。莫大な犠牲を払った大戦が終結すると、一番得をしたのはスターリンで、二番目が毛沢東、三番目が米国、認めたくないだろうが英国は負け組である。ユダヤ人を助けて、大英帝国は没落。イギリス人エリートは大量に死んでしまうし、植民地での人種的優越もなくなって、白人の王国だったブリテンに有色人種が逆流してきた。解放されたユダヤ人はおぞましいイスラエルに向かわず、アングロ世界に住み着いたのである。気前よく移住を許した米国や英連邦のアングロ系国民は、ユダヤ人に国家の中枢を握られてしまった。しかし、言論界をユダヤ人に支配された欧米諸国では、こんな簡単な事実を述べる学者はまずいないし、テレビ局がユダヤ人支配の現実を描くドキュメンタリー番組を作ることはない。大抵の歴史家は既存の枠組みの中で、歴史書を綴っているので、外界から歴史を見ることはないのだ。ユダヤ人が設定した枠からはみ出た歴史書は、「反ユダヤ主義」との烙印を押されて、「トンデモ本」と分類されてしまう。ロシアの現実を見ることは、日本人にとって意義がある。露骨な権力闘争は良い勉強になるのだ。
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(左/ボリス・ベレゾフスキー)
ヘビのように狡猾なロシア皇帝ウラジミール・プーチンが、最初の二年間でまず叩き潰そうと思ったのは、グシンスキーとボリス・ベレゾフスキー(Boris Berezovsky)であった。欧米のユダヤ人と同じく、ベレゾフスキーも民衆に影響力を行使するテレビ・ネットワークを支配するユダヤ人である。このベレゾフスキーはギャングみたいな人相からは想像しがたい、アカデミック界から浮上した学者肌のオリガルヒであった。彼は数学を専攻した科学者で、モスクワ林業大学でシステム・コントロールとオペレーション・リサーチを研究していたという。ベレゾフスキーが理数系の分野を専攻したのは、彼がユダヤ人であったからだ。ベレゾフスキーが語ったところによれば、
俺には政界での将来なんて無いのさ・・・俺は政治エリートの一員じゃなかったしな。俺はユダヤ人だ。制約が山ほどあるのさ。そこんとこは、きっちり分かっている。(David E. Hoffman, The Oligarchs, Public Affairs, Oxford, 2002, p.130)
科学分野ならユダヤ人への不条理な差別は少ないだろうということで、ベレゾフスキーはコントロール・サイエンス学院に入り、自分の研究機関を主宰するようになった。応用数学を使って意志決定の過程を研究したらしい。1970年代にはハーバード・ビジネス・スクールで研究生活を送ったり、一時はカルフォルニア工科大学で研究をしたようだ。
学者生活を送っていたベレゾフスキーがビジネスマンに転身したキッカケとは何か? それは自動車販売であった。彼は当時ジグリー(Zhiguli)という乗用車を造っていたソ連最大の自動車会社、アフトヴァス(Avtovas)の経営コンサルタントになって活動していたのだ。流通や販売といった商売が苦手なロシア人は、生産した自動車をどう売ったらいいのか分からなかった。そこに目をつけたベレゾフスキーは、アフトヴァスの経営幹部に食い込んだのである。ベレゾフスキーは「ロゴヴァス(Logovaz)」を創立し、生産した車はロゴヴァスが安値で買い取ることにした。ベレゾフスキーは総合商社のような企業を目指したのであろう。破格の値段で製品を売り渡しても、アフトヴァスの経営幹部は自分の懐が痛むわけでもなかった。彼らは別段困らなかったし、それどころかロゴウァスの重役に迎えられたのである。最終的に廉価販売のしわ寄せは、労働者に押しつけられたのは言うまでもない。
(左/ポール・クレブニコフ)
共産主義体制下でのソ連では、物々交換が珍しくなく、需要と供給を仲介する込み入った売買なんて不得意だった。日本のような流通システムが発達していなかったから、怪しい仲介業者が暗躍したのである。ベレゾフスキーは商社を築いて、売り手と買い手を結ぶ取引を展開したのだ。彼は自家用車に爆弾を仕掛けられるような目に遭いながらも、モスクワの自動車市場に強固な支配権を確立したという。莫大な利潤を得るために、ベレゾフスキーは、チェチェン・マフィアの手も借りたらしい。こんな科学者なんて日本ではお目にかかれない。実験室に籠もって研究していた学者が、商売を始めたら山口組と手を結ぶなんて考えられない。やはりユダヤ人には倫理を無視した天賦の才が備わっているのだろう。『フォーブス』誌のポール・クレブニコフ記者によれば、ベレゾフスキーの商売に割り込もうとした者は、思いがけぬ不幸な死に方をしたという。こうした疑惑の死を報じたクレブニコフ記者も、2004年にモスクワで射殺されてしまった。(C.J. Chivers, Erin E. Arvedlund and Sophia Kishkovsky, Editor's Death Raises Questions about Change in Russia, The New York Times, July 18, 2004) 彼の暗殺はチェチェン人によるものとされているが、その背後にはベレゾフスキーがいたんじゃないか、と推測されている。
(左/アレクサンドル・ヴァローシン)
1993年、ベレゾフスキーはアレクサンドル・ヴァローシンと共同で、AVVA(全ロシア自動車聯合)と呼ばれる投資会社を設立した。彼はドイツのフォルクス・ワーゲンみたいな、国民車をつくろうと思いつき、その資本集めを考えついたのである。手始めに20億ドルほど必要だったので、資金集めの手段としてAVVAを開設し、株と引き替えができるというヴァウチャーを売り出した。このヴァウチャーは高級紙を使ったもので、わざわざスイスで印刷させ、紙幣のように見せかけていた。1株と印刷された株の額面は1万ルーブルで、理論上AVVAの株と交換できるというものだった。しかし、実際は株に見える紙を販売していたに過ぎない。ベレゾフスキーはその無価値の紙くずを売ったお金でアフトヴァス社の株をインサイダー価格で購入するつもりだったという。そして、アフトヴァスとジェネラル・モーターズ(GM)と合弁会社を設立して国民車を生産しようとするつもりだったらしい。しかし、合弁事業は実現されず、AVVA株は紙くず同然となった。しかし、ベレゾフスキーの懐は痛まず、むしろこの詐欺商法でかなりのお金を儲けたらしい。しかも、共同経営者のヴァローシンは、まもなくエリツィンの首席補佐官になり、その後もプーチンの首席補佐官に納まっている。彼がベレゾフスキーをエリツィン一族に紹介し、エリツィン側近との人脈作りに手を貸したのである。
NTVを所有していたウラジミール・グシンスキーと同じく、ベレゾフスキーもロシア公共テレビ(ORT)を使って自らの権力を維持していた。1994年に、エリツィン大統領は国営のチャンネル1を競売に掛けず民営化し、51パーセントの株は国家の所有としたが、残りを裕福な支持者に分割したのである。主な株主というのが、ベレゾフスキーを始めとするオリガルヒたちであり、ベレゾフスキーは19パーセントの株しか持っていなかったが、ORT経営陣の人事を掌握し、実質的な支配者となった。これは、エリツィンによる暗黙の了承を得ていたからできたことである。こうした癒着関係があったので、エリツィンが再選を控えて支持率が急落した時、オルガルヒの面々はエリツィンを救済するために、こぞって資金を集めたり、エリツィン支持のキャンペーンを張ったのだ。民衆からの人気を得ていた共産党が復権したら、ロシア国民を食い物にしてきたオリガルヒは真っ先に批判の矢面に立つだろう。彼らは財産を没収されたうえに処刑されるかも知れない、という恐怖に駆られたのだ。
(左:ベレゾフスキーとクシンスキー/中央:キリエンコ/右:プリマコフ)
後進国では政治家と商売人の不正な結託がひどい。ロシアで権力を振るうエリツィンを支持したオルガルヒは、権力者の恩顧という甘い汁を吸いながら不正蓄財に励んだのである。ベレゾフスキーはアエロフロート航空や石油会社シブネフチ、アルミ産業などにも手を伸ばし、その富を増大させていたのだ。また、ベレゾフスキーはエリツィン再選のご褒美として国家安全保障会議副書記に任命され、のちに独立国家共同体(CIS)調整機構執行書記にも任命された。ユダヤ人ペテン師を国家の要職に据えるとは、エリツィンによる国家の私物化は言語道断。のちにベレゾフスキーは両方のポストから解任されたが、それでもエリツィンの娘タチアーナや側近との人脈を維持していたので、依然として政界で影響力を駆使できたという。例えば、彼はセルゲイ・キリエンコ(Sergei Kiriyenko)首相の解任を仕掛けたらしく、後継者のイヴゲーニー・プリマコフ(Yevgeny Primakov)首相はその危険を察知した。彼はベレゾフスキーの側近をアエロフロートやORTから排除し、抵抗する者は税務調査や会計検査官を送って脅迫したのである。それでもベレゾフスキーは潰されず、なんと選挙に出馬して下院議員になってしまった。しかし、権力を握って安泰かと思われたベレゾフスキーに皮肉な事態が起こったのである。経済危機の煽りを受けたこともあり、エリツィンは強力な指導者を求めるようになったという。そこで、ベレゾフスキーの後押しもあって、FSB長官のプーチンを首相に任命したのだ。これは明らかに、プーチンを大統領に仕立てる布石である。エリツィンはその見返りとして、プーチンに自分の刑事訴追を免責させる腹であった。
(左/ロマン・アブラモヴィッチ)
権力者はその座から離れると哀れなものだ。エリツィンの娘による不正は目に余り、その収賄事件は政界から激しい非難を浴びていた。大統領が交代すれば、前政権への不正追及だって激しくなるだろう。プーチンはエリツィン一族と癒着していたベレゾフスキーを狙うようになっていた。ベレゾフスキーからの支援を受けて出世したプーチンだからこそ、かえってその影響力を警戒したのだろう。プーチンはこの危険なオルガルヒのベレゾフスキーに背を向け、不正行為を暴いて投獄するぞ、と脅しをかけた。意思の強いプーチンは追求の手を緩めず、ロシア・テレビ界の支柱たるORTをベレゾフスキーからもぎ取ってしまった。プーチンと対立したベレゾフスキーは下院議員を辞職し、外国に避難しようと思い始めたのである。彼は投資の一部を現金化した方がよいと考え、プーチンのお気に入りであったロマン・アブラモヴッィチに、石油会社のシブネフ株を売却したという。ついでに、ORTの持ち株も8千万ドルでアブラモヴッチに引き渡した。すると、アブラモヴィチはORT株に基づく自分の議決権を、親分のプーチンに恭しく献上したのである。こうして、皇帝プーチンはロシア最大のテレビ・ネットワークを掌握し、自分を批判するメディアを封殺したのだ。
(左:ベレゾフスキーが住んでいた英国の豪邸/右:恋人と一緒のベレゾフスキー)
新たな権力者プーチンと対立したベレゾフスキーは亡命を余儀なくされた。彼は最終的に英国に避難し、憎いプーチンを批判しながら、イングランドで贅沢な暮らしをしていたのである。しかし、そんな亡命者にも不幸な死が訪れた。2013年、彼の遺体が豪邸の浴室で発見されたのだ。(Richard Behar, Did Boris Berezovsky Kill Himself? More Compelling, Did He Kill Forbes Editor Paul Klebnikov?, Forbes, March 24, 2013) ブリテン捜査局の調べでは、他殺の痕跡がなく自殺という結論に達したらしい。しかし、ガーディアン紙のロシア特派員ルーク・ハーディング(Luke Harding)記者は自殺説を疑っている。彼はロシアの諜報機関がベレゾフスキーを自殺に見せかけて殺害したのではないか、と推測していた。そうした疑惑がある一方で、ベレゾフスキーは訴訟による裁判沙汰や破産の危機で悩んでいたとの情報もある。ロシア人亡命者でベレゾフスキーの友人であるニコライ・グルシュコフは、警察やマスコミが報じる自殺や自然死を信じていない。グルシュコフは「奴が自殺したなんて考えは糞食らえだ。・・・裁判の判決が下りた時、奴は活き活きとしていたし、家で待っている若い女について話していたんだ。あとになるが、奴は財政危機を乗り越えていたんだよ」と話していた。(Mark Adomanis, Was Boris Berezovsky Murdered? The Evidence Strongly Suggests No, But Luke Harding Says Maybe, Forbes, March 26, 2013)
(左:家族と一緒のベレゾフスキー/右:パーティーでのベレゾフスキー)
ただし、ロシアの秘密機関がベレゾフスキーを暗殺したのかどうか謎である。彼をロシアから追放し、権力基盤を固めたプーチンが、十年以上も経ってからわざわざ暗殺するほど、ベレゾフスキーに価値があったのか? 彼を殺すメリットとは何だったのか? プーチン側は英国の防諜機関MI5が暗殺したのだ、との憶測を流した。(Cyril Dixon, Boris Berezovsky ‘died by hanging’as Kremlin blames MI5, Express, March 26, 2013) これと対照的な、別の推測もある。もしかしたら、ロシア諜報機関による暗殺からベレゾフスキーを守るため、MI5が自殺を装って彼を隠匿したのではないか、との噂も流れた。(Will Stewart, Is Boris Berezovsky ALIVE?, Daily Mail, 26 September 2013) 英国側としてもプーチンのイメージを悪くできるし、利用価値のあるベレゾフスキーを温存できるので、何らかのメリットがある。しかし、本当のところは分からない。諜報機関が絡むと真相は闇の中だ。
資源が豊富なロシアを搾取
共産主義国では逆説(パラドックス)が起こる。理屈では無産労働者(プロレタリアート)の為に建てられた楽園だったのに、いざ出来上がると専制支配、赤い貴族の出現、庶民の搾取と弾圧、貧困の深刻化といった地上の生き地獄が実現される。ロシア、支那、北朝鮮を調べれば一目瞭然。共産主義体制が崩壊したロシアに、成り上がり型の大富豪が誕生した理由は何か? それは北方の半アジア大国が天然資源に恵まれていたからである。何と言っても、石油、天然ガス、ニッケル、アルミニウム、鉄鉱石、レアメタルなどが豊富に埋まっているのだ。だが、この資源国は計画経済と国家所有を前提とした法制度しかなく、自由市場経済における私営企業が存在するなんて考えていない。したがって、民間企業や私有化に関するルールや規制が無かった。まぁ、あったとしても権力者が勝手に歪曲するだろうし、規則や手続きを無視したって、怖い政治家や官僚を掣肘(せいちゅう)しようだなんて国民もいないのだ。傲慢さを絵に描いたようなエリツィンが、法治主義のルールを気にするわけないし、暗殺を厭わないプーチンが、公正な手続きを遵守するわけないだろう。
(左/ミハイル・ホドルコフスキー)
石油成金のオリガルヒとくれば、日本人や欧米人なら、まずミハイル・ホドルコフスキー(Mikhail Khodorkovsky)を思い浮かべるだろう。彼は1963年に生まれたユダヤ人で、モスクワの共同アパートに住む貧しい家庭に育ったが、その才能を活かし大富豪への階段を昇ることになる。彼は元々共産主義者青年同盟(コムソモール/Komsomol)出身で、名門メンデレーエフ化学技術学院を卒業した後、別の大学で法律や金融・財政を学んだという。共産主義思想を植え込まれたロシア人なら、馬鹿の一つ覚えのように共産主義思想の擁護者になりがちだが、ユダヤ人のホドルコフスキーはひと味もふた味も違った。彼は大学の級友とコーヒー・ショップやディスコ・クラブを開いたり、ソ連では希少価値のある品を販売したり、と手広く商売をこなしていたようだ。一時は、「ナポレオン」といったブランデーやスイス産の偽ヴォッカを扱ったり、中でも人気だったのは荒く洗濯したジーンズであった。西側のポップ・カルチャーはロシア人青年の垂涎の的であったからだ。西歐の文化に憧れたロシア人の欲求はすごかった。若い娘の中には、コール・ガールになってもいいから、フランスのパリに住みたいと考えるものがいたくらいだ。若くて美しい時期を工場労働で無駄にしたり、国営食料品店で配給を受けたりする生活なんてで嫌だ。雪が降りしきる寒い中、行列に並んで買うのが黒くなった腐りかけの肉だったりする。公営の狭くて汚いアパートで、脂肪分の多い料理を食べながら、ジャガイモのような体型になってゆく。お洒落をしたい年頃なのに、高品質の化粧品もないし、気の利いた娯楽も少ないから、車の中でのセックスが最高の楽しみだったりする。気がつけば肌はかさかさ、シミ皺だらけの顔にはヒゲが生え、小太りの中高年ババアが一丁出来上がり。そんな人生はゾっとするだろう。(考えてもしょうがないけど、なんで可愛らしいロシア人少女が、中年過ぎると大型のブルドッグになってしまうのか不思議である。)
商才のあるホドルコフスキーは、資金調達のために「メナテップ(Menatep)」と称する協同組合を結成した。科学分野の研究やコンピューター開発に必要な技術や部品も提供したらしい。彼にとって、コンピューターの購入販売は主な収入源となっていた。ホドルコフスキーはまた、ヴェニスの商人みたいに、金貸し業も同時に行っていたという。この協同組合は1988年に「メナテップ」銀行に再編され、「商業新生銀行」として公式に営業免許を受けたのである。この新生銀行は国営銀行とのジョイント・ベンチャーで、資本金は250万ルーブルであったという。創立当時はコムソモール中央委員会をはじめ色々な共産党員が資金を持ち込んだらしく、不正な資金洗浄を行ったようだ。悧巧なホドルコフスキーは警察の嫌がらせや捜査をかわすため、国家委員会の役人に袖の下を渡していたらしい。やはり、灰色のビジネスに手を染める連中は、いざという時のために準備しているものだ。「メナテップ」は再免許を受けて株式会社となり、ホドルコフスキーが取締役会の会長におさまった。彼の欲望はまだこんなもんじゃない。1991年に「メナテップ株主クラブ」を発足させて、政府が国有企業を私有化する時代のチャンスを見逃さなかった。ホドルコフスキーはヴァウチャーを集めて私有化された企業を支配するし、メナテップ・バンクが株を集めれば、それを管理するために「ロスプロム」を設立した。メナテップは各分野に手を広げ、子会社を抱え始めたという。それは化学、建設、織物、鉱業、消費財、石油の分野であった。
(左:ヘンリー・キッシンジャー/中央:ジェイコブ・ロスチャイルド/右:ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー)
こうしたカテゴリーの中で、もっとも成功したのが石油部門の子会社、「ユーコス(Yukos)」であることは言うまでもない。ユーコスはロシア最大の石油会社に成長し、ホドルコスキー帝國の支柱となった。1995年にはグループ管理会社として「ロスプロム」を設立したが、ホドルコフスキーはその取締役会会長になる。成功する悪党は幸運なものが多い。1998年に起こった金融危機でメナテップ銀行は破綻するが、ホドルコフスキーはユーコスを何とか守り抜いたのだ。こうした苦難をくぐり抜けると、翌年は石油価格が高騰して、ユーコスの価値はうなぎ登り。ダーティーなイメージを払拭するために、西歐の幹部をユーコスに招いたり、と透明な経営に務めたらしい。また、公共精神があることを宣伝するために、アメリカの議会図書館に100万ドルの寄附を行い、オープン・ロシア財団を設立すると、ヘンリー・キッシンジャーやジェイコブ・ロスチャイルドを理事会のメンバーに迎えたという。キッシンジャーは確かに有名人だが、いかがわしいユダヤ人に変わりがない。ニクソン大統領から「俺のユダ公(My Jew boy)」と呼ばれた元国務長官は、副大統領のネルソン・ロックフェラーの方に忠誠を誓っていたのだ。ジョン・F・ケネディーからも侮蔑されたキッシンジャーは、支那でもコンサルタント業務を請け負ったりして儲けていたらしい。自らの地位を安泰にするため、ホドルフスキーは不動の地位を誇るロスチャイルドをパトロンにし、プーチンからの攻撃に備えたのかも知れない。
(右/法廷でのホドルコフスキー)
ホドルコフスキーは自らの石油帝國を更に拡大しようと、大手石油会社「シブネチ」を吸収合併しようと試みた。しかも、その合併で誕生する会社の株式に、アメリカの巨大石油会社エクソン・モービルを引き込もうとしたのだ。ロシアの主権を自らの手に握っておきたいプーチンにとって、巨万の富を築くホドルコフキスーは脅威となってしまう。危険な芽は早めに刈り取っておかねばならない。ロシア検察当局は脱税などの容疑で、ホドルコフスキーに禁固10年を求刑した。裁判では禁固9年の刑を言い渡され、服役中に2013年プーチンの恩赦を受けて釈放されたのである。ホドルコフスキーの釈放には、ドイツの元外相ハンス・ディートリッヒ・ゲンシャー(Hand=Dietrich Genscher)が動いていたという。(Secret diplomacy in Kordorkovsky case, Pravda, 24 December 2013) また、彼の釈放前にヘンリー・キッシンジャーがモスクワに渡り、プーチンやセルゲイ・イワノフと会談していたというから、奇妙な偶然である。刑期が2017年までに延長されたホドルコフスキーは、恩赦を得るためにプーチンと取引できる何かを隠し持っていたのだろう。あのプーチンが人道主義で動くはずはない。必ず裏取引があったはずだ。なぜドイツのゲンシャーが、悪徳商人の保釈を求めてプーチンと交渉したのか、甚だ不思議である。ただし、釈放されたホドルコフスキーが、再びロシアの政治に介入することはないだろう。今度は命が危ないからだ。
(左:ヨシフ・スターリン/中央:毛沢東/右:フランクリン・ローズヴェルト)
ロシアの支配者になるような政治家は実に狡賢い。独裁者は冷徹な目で現実を認識し、邪魔者を早めに片付けようとする。自分の権力基盤にとって脅威となる悪魔は小さなうちに抹殺しようとする。ユダヤ人は金銭を持ち始めると実に厄介だ。厚顔無恥な上に欲の皮が突っ張っている。しかも、世界各地に強力な仲間を持ち、同種のよしみで協力を求めることができる。世界ユダヤ人会議なんて恐ろしい組織まで持っている。日本人が「世界日本人会議」を組織するなんて発想は無い。せいぜい歐洲と北米に、日本アニメ同好会を結成するくらいだ。大学の教授や新聞社の論説委員はけっして口にしないが、ヒトラーやスターリンは悪党だったから、ユダヤ人の危険性に気づいていたし、その脅威を早めに潰してしまおうと思ったはずだ。ヒトラーはドイツで金融を支配するユダヤ人を排斥したかったし、米国や英国にはびこるユダヤ勢力を警戒していた。ユダヤ人だらけのボルシェビキを肉眼で見たスターリンは、ロシアの実権を握るやユダヤ人を排斥したり、ヒトラー以上にユダヤ人を虐殺したのである。邪魔者どころか、将来自らの権力を脅かすユダヤ人に対し、スターリンは先手を打ったといえよう。いかにも野蛮なスターリンらしいが、安心を確保するためには皆殺しが一番。ワルい奴は同類の臭いが分かるのだ。日本人みたいな甘っちょろい民族は、ユダヤ人の本性が分からない。明らかに分かる支那人や朝鮮人に対しても、厳しい処置をとれない日本人が、海千山千のユダヤ人に対抗でき訳がないだろう。島国で平和に暮らしてきた日本人に、大量虐殺が当然のアジア大陸は理解できない。血なまぐさい生活が日常のアジア人は、心に闇を持ち、執念深くて陰険だ。如何なる手段を用いても勝利を確実にする。公正や名誉を求めるなんて、平和な民族の道楽である。ユダヤ人の本性は、同類のアラブ人と対峙した時に現れる。迫害されて哀れなユダヤ人というイメージを日本人は持っているが、そんな幻想はパレスチナ紛争で牙をむき出しにしたユダヤ人を見れば、粉々に消し飛んでしまうだろう。
(左:アドルフ・ヒトラー/右:ウィンストン・チャーチル)
ロシアを自分の物にしたプーチンなら、ユダヤ人に支配された欧米諸国をあざ笑うだろう。第二次世界大戦を冷静に眺めてみれば奇妙なことに気づくはずだ。英国のチャーチルが、あれほどドイツと闘いたかった理由のひとつは、迫害されるユダヤ人を救いたかったからである。異常なまでにユダヤ人贔屓だったチャーチルは、同胞のイギリス人を犠牲にしてまで異邦人たるユダヤ人を救いたかったのである。チャーチルとユダヤ人の関係は滅多に書かれないが、調べてみると驚愕の史実が出てくる。第一次大戦で歐洲政治への介入を嫌がったアメリカ国民は、ユダヤ人好きのローズヴェルトによって戦争に引きずり込まれてしまった。共産主義が大嫌いだった英米が、天敵ソ連と同盟を結び、ドイツ人と戦うことを選んだのだ。逆にヒトラーは英米との闘いを望んでいなかった。むしろ、同盟を結びたかったくらいである。莫大な犠牲を払った大戦が終結すると、一番得をしたのはスターリンで、二番目が毛沢東、三番目が米国、認めたくないだろうが英国は負け組である。ユダヤ人を助けて、大英帝国は没落。イギリス人エリートは大量に死んでしまうし、植民地での人種的優越もなくなって、白人の王国だったブリテンに有色人種が逆流してきた。解放されたユダヤ人はおぞましいイスラエルに向かわず、アングロ世界に住み着いたのである。気前よく移住を許した米国や英連邦のアングロ系国民は、ユダヤ人に国家の中枢を握られてしまった。しかし、言論界をユダヤ人に支配された欧米諸国では、こんな簡単な事実を述べる学者はまずいないし、テレビ局がユダヤ人支配の現実を描くドキュメンタリー番組を作ることはない。大抵の歴史家は既存の枠組みの中で、歴史書を綴っているので、外界から歴史を見ることはないのだ。ユダヤ人が設定した枠からはみ出た歴史書は、「反ユダヤ主義」との烙印を押されて、「トンデモ本」と分類されてしまう。ロシアの現実を見ることは、日本人にとって意義がある。露骨な権力闘争は良い勉強になるのだ。
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