無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2015年06月

占領軍にいた日本の恩人 チャールズ・ウィロビー少将

反共の闘士だったドイツ系アメリカ人

  日本人は外政が下手だ。日本では皆が昔からの知り合いで、お互い気心が知れているから、奸計を用いぬとも上手くやっていける。欲を張って人を騙せばちょっとは儲かるが、そこで信用を落とせば一生の損。みんなからつまはじきになるなら、正直に筋を通して生きて行こうと思う。大金持ちになれぬとも、お天道様に恥じぬ生活を送ればいいじゃないか、と考えればそこそこ生きていける。日本は実にいい国だ。こんな幸せな日本だと陰謀は要らない。しかし、外国人との政治では斬ったハッタは当り前。誠実一徹じゃ埒が明かない。深慮遠謀も必要だ。外政というゲームでは、八百長やちょろまかしをする奴が居るから、油断がならない。日本人は『ガンバの冒険』に出てくるネズミたちみたいだ。恐ろしい白イタチのノロイに立ち向かうのに、ガンバは直情型の熱血漢で、相棒のボーボときたら、おっとりした食いしん坊。頼りになりそうな親分肌のヨイショは、力持ちだがオツムが足りない。ガクシャ頭は良いが腕力が無い。忠太は純情なだけ。せめてイカサマくらいのズル賢さがないと兇悪な化け物に勝てない。大日本帝国は強力な陸海軍を持っていたのに、政治と戦略が無かったから負けてしまった。占領されたのは残念だが、逆境に遭っても何とか有利な状況を作り出すことは重要であろう。

ガンバの冒険ガンバの冒険ノロイ2






(左: カンバと仲間たち / 右: 白イタチの「ノロイ」)

  敗戦は悔しいが、冷戦構造が明確になったことは、日本にとって不利とは言えまい。むしろ、ようやく本当の脅威、ロシアが日米の敵となってよかった。占領軍にはチャールズ・ケーディス(Charles L. Kades)という、日本に有害なニューディーラーがいたが、彼に対立するチャールス・A・ウィロビー(Charles Andrew Willoughby)少将という反共の闘士もいたのだ。日本人はこうした立派なアメリカ人を仲間にして国益を促進すべきである。日本の保守派言論人はアメリカ人への憎しみを掻き立てることで、支那人やロシア人にとって有利な状況をつくろうとする。狡猾な支那人なら日米離反を実現するために、アメリカ白人を怨む保守派知識人を支援するだろう。財政的あるいは政治的に応援し、テレビ番組にも出演できるよう取り計らえば、彼らは簡単に忠犬となる。自衛官にもロシアや支那の手先になっている人物がいるだろう。支那人やロシア人のエージェントなら、陸上自衛隊の福山隆・元陸将のような人物を背後から支えるだろう。反日自衛官らは日本人が無意識に持つ「アメリカ憎し」の感情を増幅させようとする。日本人が冷徹な政治(リアル・ポリティクス)を考えぬよう、「アメリカは日本を利用して使い捨てにする ! 」と叫んで反米感情を焚きつけるのだ。何処の国だって自分中心の政治をするだろう。当り前じゃないか。日本人が感情的になると、その陰で支那人工作員がほくそ笑む。アメリカにこき使われるのが嫌なら、日本人がアメリカを利用すればいいじゃないか。日本の保守派は本当にチョロい。

カンバの冒険 ボーボガンバの冒険イカサマ







(左: ガンバとボーボ / 右: イカサマ)

  日本にとり米国が重要ならば、日本に利益をもたらすアメリカ人を我々は厚遇すべきである。日本を解体しようと励む左翼思想の民政局に対して、日本を共産主義の防波堤にしようとしたウィロビー少将は偉かった。でも、このアメリカ軍人は如何なる人物なのか? ウィロビー少将はドイツ系アメリカ人で、1892年3月8日ドイツのハイデルベルクで生をうける。父親はフォン・ツェッペ・ワイデンバッハ(T. von Tscheppe -Weidenbach)男爵で、母親はメリーランド州バルティモア出身のエマ・ウィロビー(Emma Willoughby)であった。少将の本名はアドルフ・カール・ツェッペ・ワイテンバッハ(Adolf Karl Tscheppe-Weidenbach)といい、アメリカに帰化したのでワイデンバッハを英語風にウィロビーに改めたのである。(Frank Kluckhohn, Heidelberg to Madrid--The Story of General Willoughby, The Reporter, August 19, 1952) 少年時代をドイツで送っていたから、ウィロビー少将はドイツ語アクセントで英語を喋っていたのだ。彼はハイデルベルク大学やパリのソルボンヌ大学に通い、哲学や言語学を専攻していたという。そんな訳で、父のドイツ語と母の英語に加え、フランス語やスペイン語も流暢に話せた。1910年、18歳の頃に米国へ渡り、帰化手続きを済ませて合衆国陸軍に入隊したらしい。軍隊生活を三年くらい送り、軍曹になったところで除隊し、ペンシルヴァニア州のゲッティスバーグ大学に入った。そこを卒業すると、ウィロビーはカンザス大学に進学して修士号を取得する。女学校や大学で語学を教えた後、再び陸軍に戻り、今度は歩兵部隊の中尉となった。第一次世界大戦が勃発すると歐洲で戦い、フランスでは航空部隊に配属となったそうだ。戦後に帰国すると歩兵部隊の指揮官に昇格したが、大尉になった頃、軍の諜報部に異動し南米へ派遣されたという。ウェネズェラやコロンビア、エクアドルでは、大使館附駐在武官として任務をこなしたらしい。参謀養成学校では講師として軍事史や諜報活動を教え、天性の才能を発揮して評判も良かったという。

  ウィロビー少将の軍歴は立派で、軍事に関する著作まである。彼は第一次世界大戦についての研究書『The Economic and Military Participation of the United States in the War 1917-1918』を執筆し、この本は翻訳されラテン・アメリカ諸国でも読まれたという。その他にも、軍事・諜報を扱う雑誌『Command and General Staff School Quarterly』の編集を担当したり、軍事教科書として『The Element of Maneuver in War』を出版したのである。ウィロビーは軍事教官として卓越していたが、第二次世界大戦が起こると参謀としてもその手腕を発揮した。フィリピンではダグラス・マッカーサー将軍の補佐官として活躍したし、ニューギニアの戦闘では勇敢な行為を評価され「殊勲十字章(Distinguished Service Cross)」を受勲。これなら、GHQ最高司令部でウィロビーがマッカーサー将軍の信頼を受けていたのも頷けよう。こう述べるとコチコチの軍人みたいに思えるが、ウィロビーは武藝一辺倒の無骨者ではなかった。文学にも通じた教養人で、陸軍参謀学校では演劇の才能が評判だったという。演劇クラブではロマンティクな役柄を見事に演じる才能があったらしい。

Charles Willoughby 2Bitter 3Douglus MacArthur 1









(左: チャールズ・ウィロビー少将 / 中央: ブルーノ・ビッテル神父 / 右: ダグラン・マッカーサー元帥)

  マッカーサー将軍の参謀として日本に赴任した時、ウィロビー少将は偶然イエズス会士のブルーノ・ビッテル神父と出逢った。ビッテル神父が靖國神社を救った話は以前このブログで紹介したから省略する。ビッテル神父は元ドイツ陸軍士官で、第一次世界大戦で勇猛果敢に戦い鉄十字勲章をもらった武人であった。エリート司祭のイエズス会士には凄い人が多い。ハイデルベルクの名家に生まれたアメリカ軍人と、最高裁判事だった父を持つ名門ビッテル家の聖職者は、初対面なのに挨拶を交わすとすぐ打ち解けたのである。(ビッテル家はあの有名な「ベルヒステスガーデン」の別荘を所有していた。) ビッテル神父がベルダンでの戦闘に参加していたことを告げると、ウィロビー少将は驚いてしまった。彼も同じ戦場にいたのだ。さっそく詳しい話を聴くために自分のオィスに神父を招いたという。西部戦線で戦ったウィロビーにしたら、まさか日本でかつてのライバルに遭遇するとは予想していなかったのだ。「ヒル304」で交戦した二人の指揮官は、思い出話に花を咲かせたのだろう。高貴な精神を持つドイツ人の交友は清々しい。戦争の怨みを何時までもネチネチこぼすユダヤ人と大違いだ。

  日本では「頭の良い人」とは試験秀才を指すが、欧米では「判断力の優れた人」を意味する。愚者は細部に捕らわれ、賢者は本質に迫るのだ。ヨーロッパ貴族の青い血が流れているせいなのか分からぬが、ウィロビー少将は慧眼(けいがん)の持ち主である。日本人を処罰することに夢中な占領軍将校とは違って、彼は共産主義の危険性を察知して上層部に警告した。彼は何が米国にとっての脅威なのかを把握していたのだ。CIC(対敵防諜部隊)からの報告を検討したウィロビー少将は、GHQ民政局(GS)や経済科学局(ESS)に蔓延(はびこ)っている「ニューディーラー」たちを排斥しようとした。彼は総司令部の各部局に左翼主義者が浸透している状態を何とかせねばと考える。ウィロビーは言う、

  総司令部の各部局に在職している外国分子を統計的に分析してみると、ソ連またはソ連衛星国の背景をもった職員の割合がかなり高い。GHQに雇われている(無国籍者を含む)三百四人の外国人の内、最大グループを形成する二十八パーセント(八十五名)はソ連衛星国の出身である。そのうち四十二名はソ連の市民権の持ち主である。通常の治安概念からみれば、このグループは事実上の脅威となるはずである。ことに最近ソ連は、元の白系ロシア人の全員、および無国籍者をソ連市民として登録してきているからなおさらである。(C.A. ウィロビー 『GHQ知られざる諜報戦』 延禎訳 山川出版社 2011年 p.177)

こうした報告を聞けば、日本人なら直ぐ民政局に勤務していたベアテ・シロタ・ゴードン(BeateSirota Gordon)を思い出すだろう。彼女のことを聞いたことがない人は、土井たか子の後継者たる福島瑞穂や極左憲法学者の辻村みよ子に訊いてみたらいい。喜んで教えてくれるだろう。(でも、直接尋ねるのは穢らわしいから、このブログを読みつつけてね。)

根無し草の赤いユダヤ人

beate sirota gordon(左/ベアテ・シロタ・ゴードン)
  ベアテはユダヤ人の両親のもと、1923年ウィーンで生まれた無国籍者であった。キエフ生まれの両親は、帝政ロシアからウィーンに逃れ、そこから日本に渡ってきたのである。音楽家レオ・シロタの娘は幼少期を日本で過ごすが、大学教育は米国のミルズ・カレッジで受けた。不思議なのは、これといった収入のないシロタ家なのに、娘をアメリカの大学に入れるだけの余裕があったことだ。1946年の報告によれば、シロタ夫妻は日本にいるロシア人と親しく付き合っていて、ソ連大使館で演奏会を開いたり、デレビヤンコ将軍の手配でソ連に旅行ができたという。何か臭いぞ ! あのロシア人が無国籍のユダヤ人に何の見返りも求めず、タダで親切にするわけがない。それに、シロタ一家は国籍が無いのにウィーンの警察長官による紹介状を携えて日本にやって来たのだ。これじゃ、日本人だって怪しむだろう。シロタ夫妻は二度もアメリカに渡ったが、アメリカ国籍を取ろうとはせず、相変わらず日本に留まっていたのである。1939年には円安になって、厳しい為替統制令が敷かれているにもかかわらず、彼らは娘をアメリカ留学に出すことができた。(上掲書 p.196) ロシア人はシロタ夫妻を日本における「モグラ」、つまり情報収集員として使っていたんじゃないか? そうでなければ全く不可解だ。

  日本滞在を通して、シロタ夫妻はとりわけ日本の警察と官僚に対して憎しみを抱いたらしい。こうした憎悪は娘のベアテに受け継がれたようで、彼女は警察官と地方官僚の追放に辣腕を振ったそうだ。たとえば、ベアテは共産主義者を逮捕した警察官をパージする際、その範囲を1931年以前にまで拡張することを断固主張したのである。その結果、1928年5月に共産主義者を逮捕した警察官を、数百人も追放の対象にしようと企てたらしい。当時逮捕された者の中に、共産党の幹部が多く含まれていたことは何を意味するのか? 恨み骨髄の共産党員らがベアテに働きかけたんじゃないか? もしかしたら、ソ連のエージェントが邪魔な警察官を排除しようと裏で糸を引いていたのかも知れない。さらにベアテが怪しいのは、彼女が民政局に雇われる際の保証人の中に、レーモン・ラバルというアルゼンチン領事館員がいたのだ。彼は戦争勃発時に香港で捕らえられ、1942年最初の交換船で日本から本国に送還された過去を持つ。その後、アルゼンチン国籍を捨てて、アメリカ国籍を取得し、極東情勢に関する左翼文書を出版していたという。ベアテの背後には疑惑の人物が潜んでいたのだ。  

  こんな怪しい人物が民政局に勤務して、憲法草案に携わったのだ。法律家上がりのホイットニー准将や左翼のケーディス大佐にとって、日本の憲法は兇暴な猿を閉じ込める檻か、狂人に着せる拘束衣のようなもの。建国の父祖が制定した合衆国憲法とは性質を異にする法典である。日本を民主化する、などと意気込んでいたケーディスだが、実際は野蛮な日本人を仕置きするのが目的だった。したがって、懲罰を主眼とした憲法案だから、ベアテのようなズブの素人でも参加を許されたのだ。伝統破壊が大好きなユダヤ人が混ざっていたのだから、さあ大変。他人の文化をぶち壊すことにかけては超一流なのがユダヤ人ときている。男女平等を金科玉条にするベアテには、男尊女卑が普通の日本社会を改造できるチャンスが与えられたのだ。(ユダヤ人社会の男尊女卑は、日本とは比べものにならない程ひどい。) ベアテは憲法草案に当たり、各国の憲法を勉強したと嘯(うそぶいて)いているが、肝心な合衆国憲法は無視。彼女が勉強したとすれば、おそらくソ連憲法だろう。建前を並べただけの憲法を熱心に読んだんじゃないか? ソ連では革命戦士なら男女平等だし、女性参政権も実施されていたから、西歐や日本の伝統を憎むベアテにとってソ連は理想社会である。

ベアテ・シロタ・ゴードン3Krupskaya 1Charles Kedes










(左: 若い頃のベアテ・シロタ / 中央:レーニンの妻クルプスカヤ / 右:チャールズ・ケーディス)

  赤いベアテによる憲法上の害悪は、第24条の婚姻条項だろう。婚姻は両性の合意にのみ基づいて成立する、なんて全く余計なお世話だ。そもそも、なんで憲法に結婚の条項を盛り込む必要があるのか。結婚は国家権力の行使とは関係なく、むしろ宗教や慣習の問題であろう。個人や家族の私生活をいちいち憲法で規定するなど馬鹿げている。アメリカ人やイギリス人なら、「アホか !」と言って瞬間的に却下する。ベアテの提案は、個人を完全に国家の歯車にしたい共産主義者の発想だ。彼女はレーニンの妻ナデジタ・クルプスカヤ(Nadezhda K. Krupskaya)と同類である。共産圏では夫婦生活が国家の管理下にあるし、生まれた子供は共産党の所有物。保育園の増設を要求する日本の左翼は、ソ連のように庶民を公私にわたって支配したい。共産国だと、監視官を兼ねる幼稚園の保母は、園児たちに親が家庭で何を話したか尋ねる。何も分からぬ子供は、恐ろしい密告者になるのだ。無邪気な子供の内緒話によって親が秘密警察に連行されるケースもあった。孤児(みなしご)になった子供は、国家が面倒をみて立派な共産主義者に育てる。(子育ての苦労に同情する振りをして、「他人に子供を預けよ」と叫ぶフェミニスト議員は、親子の情を薄くすることを目指しているのだ。家族離反こそ革命への第一歩である。) 留学先のアメリカで男女不平等を見たベアテだが、単なる小娘にはアメリカ社会を変える力など微塵も無かった。“進歩的”ユダヤ人にとって、“遅れた”国アメリカは癪に触るが、賤民の彼らにはどうしようもない。ところが、日本で占領軍に勤めたベアテは、突然「絶対的命令者」の地位に昇ることができた。重要な国家の基本法なのに、小娘の戯言(たわごと)が挿入され、それが実現されたのだ。本当に日本は惨めである。

  占領が終わって月日が経っても、ベアテは憲法草案に参加した経歴を自慢していた。あるインタヴューを聞くと、ベアテが如何に異常な人間かが分かる。たとえば、極左学者のジョン・ダワーが書いた『敗北を抱きしめて』を「すごい本」と称賛したり、マッカーサー憲法に盛り込まれた「市民権(civil rights)」の章は、一番進歩的な憲法とはしゃいでいた。(GenerationTimes 2007年4月26日、伊藤剛によるインタヴュー) 戦争と武力の放棄とか交戦権の否定を謳った第9条を日本の左翼は絶賛しているが、ベアテも同じ意見で、「世界中の憲法を改正して、平和を謳った『9条』を入れれば一番良い」とほざいていた。会話の途中で、マッカーサー将軍が大統領になりたがっていた話に触れた時、ベアテは明らかな嘘も語っていた。「大体のアメリカ人は陸軍出身の人を大統領にするのが嫌いなんです。アイゼンハワーは大統領になりましたが、大統領になる前に陸軍を辞めて、コロンビア大学の学長になっているんですよ」、とデタラメのオンパレード。それなら、ケネディーやニクソンは海軍出身だから大統領になれたのか? ジョージ・H・W・ブッシュは、第二次大戦中パイロットとして戦ったことを、事あるごとにと自慢していたし、息子のジョージもテキサス州空軍のパイロットであったことが一番の誇りである。軍服姿を披露したくてうずうずしていたのだ。彼はハーバード大学でMBA(経営学修士号)を取ったが、そんなことは自慢にできなかった。ひ弱な学校秀才よりも、男らしい軍人の方が尊敬されるからだ。軍歴を嫌うアメリカ人なんて赤い少数派だけ。ベアテはアメリカ人じゃなくて、ユダヤ人について語っていたのだろう。日本人相手なら、どんな嘘でも通用すると思っていたのだ。ベアテに舐められていることに気づかぬとは、取材した日本人は相当な間抜けである。

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(左: ドワイト・アイゼンワー / ジョン・F・ケネディー / 父親のジョージ・H・W・ブッシュ / 右: 息子のジョージ・W・ブッシュ)

  ベアテはインダヴューで「根無し草」の本性を暴露していた。彼女は自分を「コンモポリタン」と呼んでいる。「日本のことも大好きです。でも、ひとつの国に対して何か特別な『patriotism(愛国心)』が私にはない。多分それは、いろんな国へ行って生活をしてきたからでしょうね」と告白していた。世界各国の人々は基本的に同じ「人間」という認識を持つベアテは、「patriotism」に興味が無いそうだ。こんな無国籍浮浪者の戯(ざ)れ言を拝聴するなんて、日本の左翼どもは本当に頭がおかしい。しかし、彼女が出版した『1945年のクリスマス』を購読する日本人が実際いるのだ。とはいっても、購入したのは日本の図書館や左翼分子がほとんど。腹立たしいのは、『ベアテの贈り物』という映画まで作成され、全国で上映されていたのだ。これが純粋に商売で上映されたのなら分かる。しかし、こんなつまらない映画でも、左翼活動家が小規模ながら全国各地で上映できたのは、男女共同参画委員会がバックに附いていたからである。地方自治体の公共施設で、赤い役人と左翼が協力して、一般人をかき集めていたのだ。もちろん、営業利益が目的ではなく、洗脳布教が狙いだった。「The Gift from Beate」の公式サイトに掲載された、全国各地の上映会リストを見れば目が眩んでしまう。そこには、公民館や学習センターで開かれた上映会がズラリと記載されている。「『ベアテの贈り物』上映委員会」とか、「ジェンダーフリー社会の実現を目指すハーモニー21」、「女性ネットぷらんの会」、「国際女性教育振興会」など、いかにも左翼臭プンプン。反日フェミニスト連中は税金を使って、コツコツと地道な活動を重ねていたのだ。一般人は気づいていないが、億単位の税金が左翼活動家に分配されているのである。マスコミはこうした無駄遣いを報道しない。やはり同じ穴のムジナだからだろう。

日本弱体化を図る左翼アメリカ人

Eleanor Hadley 1(左/エリノア・ハドレー)
  ベアテに加えてウィロビー少将が調査対象にした左翼思想の持ち主は、GHQ民政局に勤めるエリノア・M・ハドレー(Eleanor M. Hadley)だった。彼女が交際していた人物に左翼思想の者がいたという。『ワールド・レポート』紙の東京特派員ジョセフ・フロム(Joseph Fromm)と交際していたハドレーは、ゴードン・ウォーカー(Gordon Walker)やマーク・ゲイン(Mark Gayn)、デイヴィド・コンデ(David W. Conde)といった左翼細胞とも付き合っていたのだ。案の定、ハドレーはフロムと一緒に、ソ連のタス通信東京支局長サモイロフが主催したパーティーにも出席しており、居合わせたロシア人記者たちとも親しい関係にあったという。民政局の中でも、彼女は非常に急進的な経済・政治観を持っており、財閥解体に意欲を燃やしていたらしい。そんなハドレーはミルズ・カレッジを卒業後、日本に留学し、1939年から40年まで東京帝國大学に通っていたのだ。日本について何らかの不満を抱いていたのかも知れない。

Joseph Fromm JournalistMark Gayn 2








(左:  ジョセフ・フロム / 右: マーク・ゲイン)

  GHQ民政局の左翼があれほど熱心に「日本民主化」に励んでいたのは、本国アメリカでは叶わぬ夢が実現できるからだ。ハドレーが取り組んでいた三井・三菱・住友・安田といった巨大財閥の解体は、資本制を憎む彼女にとって気持ちがいい。財閥解体など英米では絶対不可能。そんなことは口にも出せない。ブリテンでは老舗のマーチャント・バンカーは国家の中枢を担っているから、ハドレーみたいな左翼は直ぐに粛正されてしまう。いくらなんでも、ベアリング(Baring)商会やジャーディン・マセソン(Jardine , Matheson)商会を本気で潰そうなんて思う役人はいない。ロスチャイルド家の解体に至っては、マンガの世界でもあり得ないだろう。アメリカでも同じで、ロックフェラー家のスタンダード・オイルやチェース・ナショナル銀行に手をつけようとは誰も思わない。ハドレーがそんなことをしたら、CIAのアレン・ダレスや兄のジョン・フォスター・ダレス国務長官が鉄槌を下す。彼らはサリバン・クロムウェル法律事務所の法律家だから、色々なビジネスマンと繋がっているのだ。必殺仕掛人を雇わずとも、指を動かすだけで即クビにできる。それに、トルーマン政権を見れば財界と繋がっている者ばかりじゃないか。たとえば、初代国防長官のジェイムズ・フォレスタル(James Vincent Forrestal)は有名なディロン・リード(Dillon Read & Co.)社の出身だし、友人で高名な核戦略家ポール・ニッツェ(Paul H. Nitze)も嘗ての同僚だった。したがって、GHQの左翼分子は、敵国日本だから思い存分社会主義革命を実行できたのだ。

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(左:ウィリアム・ジャーディン / ジェイムズ・マセソン / ジェイムズ・フォレスタル / 右:ポール・ニッチェ)

  ハドリーたち左翼スタッフは財閥のリーダーが軍事侵略や経済搾取、専制政治を助長したとみなして、日本の巨大企業体を破壊することに執念を燃やしていた。ところが事態が変わってきた。左翼どものピンチ。戦前でも日本の財閥はアメリカ企業や多国籍企業と結託して商売を行っていた。だから、米国のエスタブリッシュメント、つまりビジネス界の大御所たちは、再び日米貿易で利益を得ることを欲したのである。日本を破壊し貧乏にしたからといって、アメリカ企業が儲かるわけではない。そこで、財閥一族と昵懇になっていたジョセフ・グルーなどが中心となって、ジャパン・ロビーを発足させたのだ。こうして結成されたのが「アメリカ対日協議会(American Concil on Japan/ AJC )である。グルー大使と元国務次官のウィリアム・キャッスル(William Richard Castle, Jr.)が共に名誉会長に選ばれた。しかし、ジャパン・ロビーの活動を現場で仕切っていたのは、ジェイムズ・リー・カウフマン(James Lee Kauffman)たちであった。彼は戦前日本で開業していた外人弁護士で、「ハーバード・ロー・レヴュー」の元編集者という経歴を持つ。しかも、東京帝國大学で法学部教授に就いていたから日本については詳しかった。こう言えば、カウフマンはいかにも学者肌の人物に思えるが、彼にはブローカーとしての顔があった。彼はアメリカの銀行が日本で債券を発行する際、米国側の代理人を務めていたという。彼の他に『ニューズウィーク』誌のジャーナリスト二名が加わっていた。ハリー・カーン(Harry Frederick Kern)とコンプトン・パケナム(Compton Pakenham)である。彼らがメディアを通して紙の援護射撃を行い、マッカーサーの占領政策を批判していたのだ。アメリカ対日協議会のメンバーは、最高司令部の政策は重大な過ちであると、との点で一致していたという。彼らは、SCAP(最高指令部)による日本経済の構造改革は、失敗に終わったと発表したのだ。(グレン・デイビス/ジョン・G・ロバーツ 『軍隊無き占領』 森山尚美 訳 新潮社 1996年 p. 61)

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(左ジョセフ・グルー / ウィリアム・キャッスル / ハリー・カーン/右アレン・ダレス)


日本の味方を養成すべし

  日本に幸運が回ってきた。アメリカ対日協議会は財閥解体の中止と公職追放の廃止を要求したのである。AJCのメンバーには力強い味方が現れた。第8軍司令官だったロバート・L・アイケルバーガー(Robert Lawrence Eichelberger)中将から好意的意見をもらえたのだ。中将は「SCAP(最高司令部)の改革は共産主義を育てている」と批判し、「日本を再軍備すればソ連の膨張主義に対し、強力な抑止力となろう」との見解を述べた。AJCはこれらの主張と共に、充分に訓練された武装警察隊を提言したり、天皇問題は日本人自らの手で解決すべきだ、という意見を表明したのである。つまり、アメリカは皇室に干渉するな、という意味である。そして、日本人は連合国から韓国を受けて独自の政治制度を作り、自ら共産主義者に対応すべし、との考えも公表していたのだ。こうしたアメリカ人なら、日本の国益に合致するではないか。英米派の吉田茂やその懐刀、白洲次郎を始め、彼らと親しい木内信胤(きうち・のぶたね)や渡辺武・元子爵、その他元財閥の大物たちがACJに協力したのは当然だった。日本人の将来を考えるなら、日本の経済復興を望むアメリカ人ビジネスマンや、共産主義の脅威を叩こうとする軍人を味方につけることは得策であろう。

  日本人は反日的アメリカ人を“日本語”で非難することは熱心に行うが、日本にとって好ましいアメリカ人を彼らの本国で褒めたり、日本に有利なアメリカ人を育成しようとはしない。日本の悪口を書くジャーナリストや学者を個人的に攻撃せず、日本国内でぶつぶつ言いながら日本語で罵るのだ。本来外務省と裏で結託した言論人が日本の名誉を守るべきなのに、外交官と民間人が水と油のように別れている。アメリカ白人の悪行を非難する時間と費用があるなら、日本に好意を持つ白人を養成して現地の宣伝スタッフとすれば良いのだ。日本の共産化を防いだウィロビー少将が、日本の保守的雑誌でどれほど取り上げられたのか? アメリカの左翼学者からは、ウィロビー少将は良く思われていなかった。ジョセフ・マッカーシー上院議員と同じく、「反共バラノイア」といった烙印を押されて無視されている。しかし、ウィロビー少将の炯眼は正しかった。『ニッポン日記』の著者として有名なマーク・ゲイン(本名Moe Ginsburg)は、満洲生まれの赤いユダヤ人ジャーナリストで、共産主義者が集う『アメラシア(Ameracia)』誌に関係していた。(Mark Gayn Dead at 72, The Jewish Telegraph Agency, December 28, 1981) 支那で育ち、革命後のソ連に住んでいたゲインは、隠れ共産主義者だったのかも知れない。生前はイスラエルに非常な関心を抱いていたという。

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(左:チャールズ・ウィロビー少将 / 中央:ジョセフ・マッカーシー / 右:海兵隊時代のマッカーシー)

  ハドレーが交流していたデイヴッド・コンデは共産党員だった。彼の著作は日本で翻訳・出版されているから、コンデの名は日本人に馴染みがあるが、奇妙なことに英語で書かれた原書は英米で出版されていないのだ。『現代朝鮮史』(太平出版社)とか『分裂朝鮮の歴史』を出したから、朝鮮史の専門家みたいに思われているが、故郷のカナダや移住先のアメリカでは全くの無名である。こんな人物がアメリカ軍の心理作戦局に従事したり、占領軍総司令部の情報教育部映画課長になっていたのだ。コンデと接触していたハドレーをウィロビーは危険分子と見なしていた。1947年にハーバード大学に戻って博士論文を仕上げようと考えていたハドレーは、CIAから誘いを受けたという。ところが、CIAはオファーを取り下げてしまった。CIA局員が彼女のバックグラウント・チェックを行ったところ、ハドレーがブラックリストに乗っていることが判明したのだ。(Sara Jean Green, Eleanor Hadley spent her life standing up to oppressionm dies at 90 , The Seattle Times , Jne 6, 2007) ウィロビー少将が要注意人物と指定したことで、ハドレーはCIAで働けなかったのである。よかった、よかった。アメリカ人も彼のお陰で胡散臭い左翼を公職から排除できたのだ。ウィロビー少将やマッカーシー上院議員のような反共の愛国者がいなかったら、アメリカ政府の内部にはもっと多くの共産主義者やその仲間が繁殖したであろう。「マッカーシーの赤狩り」といった汚名は、正体を見破られた者やピンクの反米主義者から由来する。そりゃあ、せっかく政府内部に潜り込めて共産化に着手しようとした連中は、途中で邪魔されたんだから怨むだろう。日本人は左翼分子からの一方的な非難を鵜呑みにすべきではない。

  日本の保守派言論人は不思議なもので、日本の国益を増進するよりも、アメリカ人を批判することに快感を覚える。アメリカに反日派が多いなら、日本の味方を増やすか、アメリカ人を分断すればいいじゃないか。日本を援護するアメリカ白人がほとんどいないのは、日本の理解者になっても利益が見込めないからだ。日本学を専攻する大学生には優良な就職先を斡旋したり、日本を好意的に報道するジャーナリストは、日本政府が裏で手を回して花形記者に昇格させてやればいいのだ。日本を応援すると色々な特典がもらえると分かれば、日本愛好者が増えるだろう。日本アニメのファンが欧米で多いのは、楽しいという快感や利益があるからで、日本語を習得すれば未翻訳の漫画雑誌が読めるという利益がさらに生じる。英語の吹き替え版がない古いアニメも、インターネットで視聴できるのだ。日本の国益に貢献したウィロビー少将を忘却する日本人は愚かである。銅像の一つでも建ててやればいじゃないか。国会に飾る総理大臣の肖像画なんて要らないだろう。宮澤喜一や竹下登、福田康夫の似顔絵なんか誰が見たいのか? アメリカ人だけど日本の味方をする議員や学者を、彼らの祖国で褒めてやれば、褒められた方だって嫌な気持ちはしないだろう。また、政治家になりたい若者を青田買いして、選挙を支援してやれば一生日本に感謝するに違いない。共和党や大学に行けば、野心家の青年は一杯いるのだ。親日派アメリカ人が本国で名誉を手にしたり、良いポストにつけるよう日本政府が働きかければ、アメリカの若者も彼らに見習って甘い汁を吸おうと欲するだろう。北京政府は既に日米で行っているのに、我が国は全然やっていない。大使館員がやることといったら、日本からの議員がやって来た時にツアー・ガイドを務めることだったりする。政治家の御機嫌を得たら、もらった予算でワインや絵画の購入に当ててしまうのだ。こんな外交官なんて要らない。外務省は外国で税金を浪費する役所である。外務大臣だった陸奥宗光はどう思っているのか知りたいなぁ。副島蒼海(そえじま・そうかい)ならカンカンだぞ。  



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日本を占領した赤いユダヤ人

占領軍に潜むニュー・ディーラー

  日本の保守派論客には、敗戦利得者の左翼を隠そうとする者がいる。この間、チャンネル桜に高橋史朗が出演し、アメリカ占領軍が我が国に対して行ったウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(WGIP)について語っていた。アメリカ政府が奸計を用いて日本人に罪悪感を植え付けたのだ、と高橋氏は熱弁を振るっているが、何となく白けてしまう。もちろん原爆攻撃や焼夷弾虐殺は許しがたい。しかし、惨敗した日本に反撃のチャンスはなかったのも事実。昭和天皇は新聞記者から原爆投下について質問を受けた時、「戦争ですから」とお答えになった。さすが陛下は鋭い。核心を突いたご発言である。明治の頃から「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは常識だった。勝者のアメリカ軍が日本を賊軍扱いしたのは当然じゃないか。我が軍だって多くのアメリカ兵を殺したのだから、アメリカ人が日本人に復讐しようとするのは自然な感情だろう。戦国時代だと、戦に負ければ家門の取り潰しの目に遭ったし、時には家系が断絶する事さえあった。德川家康だって大阪冬・夏の陣で勝利を収めた後、豊臣家を滅亡させている。勝利を確実なものにするため、危険な芽はすべて摘んでしまったのだ。そのうえ、参勤交代制をつくることで、有力大名の財力を削ごうと謀ったのである。德川家は戦後支配体制を盤石なものにした。こんなことは庶民の子供だって知っている。日本の保守派がアメリカの戦後支配体制を非難するのは分かるが、戦後の罪悪史観を大切に保存したのはアメリカ人ではなく日本人の左翼であった。占領期間が終わったのに、米軍の悪行を隠匿しようと努力した日本人こそ日本の敵である。

高橋史朗2aida yuji泉井久之助Yamamoto Isoroku








(左:高橋史朗 / 會田雄次 / 泉井久之助 / 右:山本五十六)

  江藤淳などの保守派知識人はアメリカ軍批判で矛を収めるので、占領軍の背後で甘い汁を吸った左翼を見逃しているのだ。日米開戦前から我が国は狂っていた。戦争計画を作成せずに大国アメリカとの戦争を決断した閣僚は、負けた時にどうなるのか考えていなかったのだ。極悪人の山本五十六など、1、2年暴れたあとに我が国がどうなろうと知ったこっちゃない、という態度であった。第一次世界大戦で、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が身の危険を感じ亡命したが、天皇陛下はどこかに亡命することが出来るのか? 一般には日本が軍国主義国と思われているが、ちっともミリタリズムの国家ではなかった。敗戦を想定しなかった政府首脳は怠慢である。立派だった會田雄次・京都大学教授がある思い出を語っている。昭和16年12月8日、會田先生はラジオで対米戦争が始まったという大本営発表を聞いたそうだ。先生はいつも通り京都大の西洋史研究室に通われ、進々堂で昼食を取ったという。そこには長大なテーブルがかあって、言語学の泉井久之助(いずい・ひさのすけ)教授がある人と一緒に坐っていた。泉井先生は海軍の招待で南洋委任統治の島々を回って帰国したところである。先生は土産話をかたったそうだ。

  サイパンもよい島ですが、マルタをくりぬいて大砲のように見せかけたのを葉っぱなどで要塞のように偽装し、グアムの方を向けて並べたりしている。あんな子供だましのようなことをしてアメリカを刺戟し戦争にでもなったら大変ですぜ。(會田雄次 『歴史家の立場』 PHP研究所 1997年 p.106)

  どうやら泉井先生とその友人はラジオのニュースを聞いていなかったらしい。そこで會田先生はもう戦争が始まった事を告げたのだが、泉井先生は「そんなことを言って脅かしちゃいけません」と相手にしなかったという。進々堂には話の邪魔になるのでラジオ等の音響機材を置いていなかったのだ。そこで、會田先生は泉井先生を近くの喫茶店まで連れ出し、大本営発表を繰り返しているラジオを聴かせたという。すると、泉井先生は「あっ」と小さく叫んで顔色を変えてしまった。みんな沈黙したままで、暗澹たる気持ちになったらしい。当時は、軍人でない一般人でも我が軍の戦闘能力を分かっていたのである。大学教師が分かるのに、前線で戦う将兵が米軍の実力を知らないわけないだろう。ましてや、戦略を日夜練っている参謀将校が知らぬ訳がない。惨敗を予想しても口に出せなかったのが実情だったのではないか。

  一方、敗戦によって共産主義革命を実現させようと大東亜戦争を起こした赤い軍官僚や政治家、知識人は対米戦争に勝つことよりも、現体制の崩壊とソ連による占領を望んでいた。敗戦で一番得をしたのは日本の共産主義者である。戦前は「天皇制打倒」なんて言ったら誰もついてこないし、むしろ離反者が増えて共産党が縮小してしまう。野坂参三だってその手段は遠慮していたのだ。しかし、日本が敗戦となれば帝政ロシアと同じ状態になって、共産主義革命がしやすくなる。だから、打倒すべき帝國日本が敗れたことは、日本人共産主義者にとって天佑(てんゆう)だった。日本にとって更に不運だったのは、占領軍に大勢の赤いアメリカ人、すなわちニューディールに共鳴する左翼分子が混じっていたことである。

  敗戦によって得をした日本人を述べる前に、アメリカ軍最高司令部に棲みついていた社会主義者やソ連シンパについて紹介したい。占領軍にはフランクリン・D・ローズヴェルト大統領と同じ種類の左翼分子が大量に流れ込んでいた。憎い敵国に送り込むのだから、行政官や軍人の人格検査などしていたかったのだろう。それに、ローズヴェルト政権内部には、赤い官僚やビンクの民間人がたくさん雇われていたから、各人が仲間を引きずり込んでいたのだ。左翼は自分の地位を最大限利用し、できるだけ多くの仲間にポストを与える。こうして出来たネットワークはとても頑丈になり、誰か一人が失脚したり退職しても赤い同志がすぐ後を引き継ぐのだ。保守的で立派な人間ほど徒党を作って権力を独占しようとしない。偉人は鶏群の一鶴(けいぐんのいっかく)、つまり凡人のなかに混じっている秀才みたいなものである。秀才の群れに凡人が一人混じっているなんて非現実的だ。立派な人は普通、鷲のように凜然(りんぜん)として存在するから、鳩や雀のように群れて行動しない。アメリカ軍でも事情は同じである。

日本に有害な占領軍のユダヤ

Courtney Whitney 1(左/コートニー・ホイットニー)
  まず、左翼的アメリカ人の伏魔殿となっていたのがGHQの民政局(Government Section/GS)だ。局長のコートニー・ホイットニー(Courtney Whitney)准将は、共和党員だったが民衆党のニューディールを支持していた左翼的人物。彼はフィリピンでゲリラ組織を拡大すべく陸軍中佐としてマッカーサーの司令部に呼ばれた法律家であった。当時のアメリカでは不況を経験した民衆党支持者が多数派で、しかもインテリの間では社会主義が流行していたのだ。ホイットニーがローズヴェルト大統領の経済政策に惹かれていても不思議ではない。だが、こうした真っ赤ではないがピンク系の法律家が、責任者に就任すると人事的災厄が広がるものだ。ホイットニー准将はチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)を次長に据え、国会課長にジャスティン・ウィリアムズ(Justin Williams)、法規課長にはマイロ・ローウェル(Milo Rowell)を配置した。その他アルフレット・ハッセー(Alfred Hussey)やジャック・ネピア(Jack Napier)といった人物を配下に据えて、日本の「民主化」に取り組んだのである。ホイットニーがこうした赤い軍人を排除せずに部下にしたのは、敵国日本がどうしようもないほど野蛮で遅れた劣等国という認識があったからだろう。容共主義者には進歩派を気取る知識人が多いので、ホイットニーも共産主義を軽く考えていた弁護士だったのであろう。

  アメリカ占領軍内でもケーディス民政局次長は最も有害な人物であった。彼はニューヨーク生まれのユダヤ人で、ハーバード・ロー・スクールを出た民事担当の軍人であった。「また~ぁ、ユダヤ人なの」と嘆くなかれ。人口比率からすれば、アメリカではユダヤ人は少数民族なのに、知識層では多数派なのだ。ケーディスは激戦を経た武人ではなく、軍隊での事務をこなす役人といった方が適切である。彼は大学を卒業した後、公共事業局(Public Works Administration)のアシスタントを経て、ローズヴェルト政権下の財務省に入ったという。ということは、あのユダヤ人長官のヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(Henry Morgenthau,Jr.)に仕えていたということだ。類は友を呼ぶ。左翼ユダヤ人同士、磁石のように引き合ったのか、あるいは財務省に巣くう赤い官僚の手引きで入省できたのか、実情はよく分からないまま。しかし、よりにもよってこんな左翼分子が、憲法草案の実質的指揮官になっていたのだから恐ろしい。

チャールズ・ケーディス 1FDR 13








(左けチャールズ・ケーディス/中央けヘンリリー・モーゲンソー/右けフランクリン・ローズヴェルト)

  ケーディスのような赤いユダヤ人が描く「民主化」と、日本を弱体化させようと目論む最高司令部の意図が合致したのだから、我が国にとっては不幸の始まりである。GHQの基本方針は日本の「民主化」にあった。その為の第一歩はポツダム宣言に盛り込まれた条項の実施。つまり、アメリカに刃向かった戦争犯罪人を処刑して、戦争協力者をすべての公職から追放する事である。公職追放は1946年1月4日、マッカーサー元帥の指令により開始され、政財官はおろか社会・大学・言論界にまで及んだのである。その後2年間で約20万人以上が追放されてしまう。注目すべきは、この追放により保守的な日本人が大勢、重要な職場から排除されたことである。戦前の日本は軍国主義に傾き、侵略を好む超国家主義が君臨していたと説明されるが、実際は共産主義に染まり、国家転覆を企む赤い軍官僚に支配されていたのだ。彼らとは別に、要職にいた者が一般的に、日本の政策を支持する国家主義者だったのは当然だ。むしろ、政府の方針に背いて邪魔をする方が異常である。

  これはドイツにも当てはまることで、ナチ党に従ったからといって、保守的なドイツ人を糾弾する戦後の風潮は間違っている。アメリカにも公職追放に該当する軍人は多かった。日本の空爆を指揮したカーチス・ルメイは大量殺戮者だったが、戦後になっても処刑されなかったし、驚くことに日本政府から叙勲される栄誉も受けたのだ。民間人大虐殺の共犯、ロバート・マクナマラはフォードの社長になって、ケネディー政権で国防長官にまで出世した。両者とも負ければ戦争犯罪人になることを自覚していたのだ。とにかく、公職追放は我が国にとって大打撃となった。優秀な保守派が粛正されて、凡庸で左翼がかった人物が後釜に坐ったのてある。彼らにとり戦後は利益をもたらす時代だから否定するはずがない。特に大学では左翼学者が伸び伸びと活躍でき、人事を独占したのだ。戦後の体制を固守しようと必死だったのは、こうした敗戦利得者であった。しかし、新聞やテレビで、占領軍の対日政策で得をした日本人のリストは一切現れない。保守派言論人でさえ、アメリカ批判で追求の手を止めているのだ。本当は、アメリカの占領政策を陰で支えた日本人こそ一番の敵である。

チャールズ・ケーディス 4Curtis_LeMay_(USAF)Robert McNamara 4








(左:晩年のケーディス/中央:カーティス・ルメイ/右:ロバート・マクナマラ)

  ケーディス率いる民政局の左翼軍人たちは、「民主化」という口実のもと、彼らの「左寄り」ないし「社会主義的」政策の邪魔になる日本人を次々と追放したのである。GHQ内部からも民政局は優秀な日本人を取り除いてしまった、という批判が噴出したくらいだ。それに民政局の公職追放には、“身内贔屓(ひいき)”があった。社会党代議士の松本治一郎は東條英機の「翼賛選挙」で推薦議員になっていたから、当然追放の対象者になっていたはずである。しかし、民政局は松本が革新系議員であるから手心を加えたという。ケーディスは追放指令を出した覚えもないとシラを切り、松本を追放するつもりもないとまで公言したそうだ。ケーディスらの「民主化」とは社会主義的体制を目指した国家改造計画である。要するに、彼らは理想社会(実際は共産主義世界)を“計画”し、実行しようとする善人と自負していたのだ。馬鹿らしいが、知識人は自分の理性で社会を設計できると自惚れているから、社会を動かせる権力を握った瞬間、飛び上がって有頂天になる。責任を取らずにすむ地位に就くと、机上の空論を実行したくなるのだ。社会主義者ではないマッカーサーが彼らを許していたのは、当初日本人を兇悪な侵略主義者と見なしていたからである。日本をよく理解していなかった元帥は、極悪な日本の国家主義者を追放し、彼らの敵となっていた共産主義者を解放することは正しい政策だと思っていた。日本統治を成功させたいマッカーサー元帥は、占領政策を進めて行くうちに、次第にこの方針が間違いであったことに気づく。

  日本で権勢をふるっていたケーディスも、1948年になるとワシントンの対日政策が変化したことで失脚することになる。ソ連との対立を深刻に考えていたペンタゴンの将校たちは、日本を赤化しようとするケーディスの手法を批判していたのだ。しかも、ケーディスには弱点があった。彼は妻子持ちなのに、日本で元子爵夫人の鳥尾鶴代(とりお・つるよ)と不倫関係にあったのだ。これは彼を日本から追放しようとする者にとっては好都合のスキャンダルであった。このケーディスが失脚したことは、我が国にとって僥倖(ぎょうこう)である。それでも、ケーディスが残した爪痕は深い。マッカーサー憲法の草案、農地改革、選挙法改正、財閥解体など、日本社会をズタズタにしてしまったのだ。とにかく、日本は「民主的」ではなく、「軍国主義的」で「封建的」な遅れた国というのが、ケーディスら進歩的社会主義者の対日認識であった。軍人が国家の中枢にいたら「軍国主義」というならアメリカも同じだし、在郷軍人組織が全米各地にあるのはどう説明するのか? 武装して国土を守る民兵(ミリシア)という伝統がアメリカにはあるが、これを進歩派はどう解釈するのか? 騎士道精神がなかったユダヤ人は、テキサスやヴァージニアなどの南部白人が嫌いで、腕力で問題を解決しようとする西歐人にしばしば反発した。ユダヤ人は武藝よりも勉強を好み、軍隊よりも法律事務所に入りたがる。要は文弱なだけ。左翼系アメリカ人やユダヤ人は、「封建制」をも憎むが、そんなこといったら歐洲の貴族は軒並み遅れた思想の持ち主になる。特に英国の名門貴族はみな中世封建領主の子孫であり、有事になれば軍隊の統率者に様変わり。彼らの上に君臨する国王陛下はガーター騎士団の総長だ。しかも、アングリカン教会の首長も兼ねているから、国家宗教の頂点に立つ最高神祇官、封建貴族を束ねる武人の棟梁である。これでは天皇陛下みたいで、イングランド国王も、古くさい遅れた国の象徴になってしまう。

  日本の民主化を掲げる左翼イデオローグは、社会主義革命のためにその尖兵となる労働者を育成しようとする。赤いGHQスタッフが労働者の権利を強く推進するのは、何も日本人を助けるためではなく、革命の下ごしらえをするためであった。共産主義者が用意した「無産労働者/プロレタリアート」は、耳にするのも汚らわしい言葉である。左翼どもは憎しみを煽る言葉を次々と生み出す。資本家による労働者の搾取とか、暗いイメージの雇用関係を築き上げるのだ。こんな言い草を聞けば、江戸時代の日本人なら眉をひそめたくなるだろう。江戸の職人は宵越しの銭を持たないその日暮らしが多かったが、貧乏長屋に住む彼らが親方から搾取されているから、幕府もろとも雇用主を打倒しよう、なんて考えなかった。渡る世間が冷たくても、誰かが温かい手を差し延べてくれたし、職人を雇う親方だって無情な雇用主というわけでもない。職人や人夫を使う親方は、私生活に至るまで彼らの面倒をよく見たし、実の親みたいに慕われていた人物もいたのだ。

  役人にも立派な人物がいて、鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵(通称)はその代表格。火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)の長谷川宣以(のぶため)は、人足寄場(にんそくよせば)で、犯罪者の更生事業にも熱心だった。罪を犯した者が手に職を以て喰っていけるように再教育を施したのである。その当時の罪人も素直で、ふて腐れず真面目に技術を習得し、平蔵の温情に感謝しながら人足寄席場を出て行ったらしい。感動する江戸時代の一面である。日本人は本当に素晴らしい民族で、当時の江戸の犯罪率は信じられないくらい低かった。こんな清い日本に、あの穢らわしいユダヤ人マルクスの思想が浸透し、日本人の精神が汚染されたのだ。共産主義者は日本人の魂を腐蝕させる不逞の輩である。たとえば、皇室打倒などまともな日本人には恐ろしくて想像できなかった。昔なら、犯罪者だって「天子様がいらっしゃるぞ ! 」となれば、襟を正して土下座する。可笑しいのは、明治の日本人は営利誘拐を憎んだという。銭のために子供を攫うなんて酷え奴だ、と怒ったそうだ。たとえ犯罪者でも子供を拉致するなど不届き千万。子供は皆で大切にするのが常識以前の良識だったから、誘拐犯をとりわけ憎んだという。でも、犯罪者は元々不埒な者じゃないのか? 犯罪にも倫理を求めてしまうとは、いかにも日本人らしい。こうしたことから日本が、如何に倫理の高い国だったかが分かる。 

  脱線したから話を戻す。F.W.マーカット(F.W. Marqat)率いる経済科学局には赤いスタッフが潜んでいた。経済科学局で労働関係を担当していたアンソニー・コンスタンチーノ(Anthony Constantino)は、日本に派遣される前、長期間左翼活動を行っていた前科を持つ。米国ではアメリカ鉄鋼労働費用議会にオルグ(組織世話人)として雇われていたらしい。つまり、労働者をまとめ上げる専属活動家であったわけだ。彼は1940年から41年にかけて4回も逮捕されているのにもかかわらず、その地位に就くことができた。コンスタンチーノはその逮捕歴を隠していたらしい。こうしたセキュリティーの甘さを見れば、アメリカ軍が適当に日本を扱っていたことが分かる。日本改造が懲罰事業だったので、軍政官の人物検査が杜撰だったのだろう。1946年6月にに起こった読売新聞社のストで、コンスタンチーノはこの労働争議を沈静化するどころか、さらに悪化させたのである。ストは労使の話し合いで6月25日に解決されたのに、彼はストが再開されるようこの騒動に介入したのだ。コンスタンチーノは最高司令部の許可も無しに警察、社長、その他の関係者を喚問し、ストの実行者に総司令部の指示があるかのような幻想を持たせたのである。そのため、労働者はストを再開し、デモを繰り広げ、脅しを掛けたり暴力に訴えたりしたという。ついでに、デモの労働者たちは反米・反占領軍のプラカードを掲げたというから、GHQのお偉方も立腹。とばっちりを受けた読売新聞の社長、正力松太郎(しょうりき・まつたろう)は辞任する羽目になり、ついには戦犯指定になってしまった。(この経緯は別の機会に話す。)

  コンスタンチーノは確信的左翼だった。共産主義シンパの彼は、1946年5月に起きた日本赤十字病院の労使争議でも、スト実行者を支持するような態度に出たらしい。 彼は他の労働争議でも自分の職権を超えて、スト実行者に支持を与えたり、総司令部は彼らに介入しないだろう、という印象を与えてストを煽ったのだ。チャールズ・ウィロビー(Charles Willoughby)によれば、コンスタンチーノは日本の共産党と親密な関係にあったようだ。特に、悪名高い志賀義雄(しが・よしお)と個人的に接触していたという。コンスタンチーノに仕えていたアシスタントのスターリング・D・コレット(Staerling D. Collet)もマルキストであったらしい。その他、経済科学局で左翼的思想の人物と見なされた人物には、調査統計課のジュリア・マーガレット・ストーン、労働条件課長のレオン・ベッカー、統計研究課のハリー・ブルンナーが挙げられる。それにしても、労働問題になぜ左翼分子が多く集まるかといえば、保守的な優等生は大学で労使関係を専攻しないからだ。労働問題という分野は暗いし、第一つまらない。健康で前途有望な人物が専門にする科目じゃないだろう。常識的に考えてみて、労働関係の教科書を開いて嬉しいと思う奴がいるのか? 高貴な精神を持つ保守派青年なら、無味乾燥した内容の文章を暗記するなんて堪えられない。それなら、美しい自然の中で乗馬をしたり、愛国心に燃えて軍事訓練をした方が有意義に思える。言いづらいことだが、資本家や経営者に怨みを抱く陰湿な学生が労務関係研究者になりやすい。マルクス主義といった下品な思想に惹かれる学生は、たいてい根性が賤しい輩(やから)である。他人の懐を覗いて嫉妬するなど、躾の良い家庭の子供ならできない。

正力松太郎1馬場恒吾(左:正力松太郎/右:馬場恒吾)
  労使闘争の放火魔たるコンスタンチーノには同類の相棒がいた。経済科学局労働課長のセオドア・コーエン(Theodore Cohen)だ。1946年に読売新聞でストライキが発生した時、これを収拾すべきコーエンは逆の行動を取った。彼は警察官や馬場恒吾(ばば・つねご)社長を自分の事務所に呼びつけ、総司令部の政策と偽り、ストライキ側を奨励したというのだ。(C.A. ウィロビー『GHQ 知られざる諜報戦 ウィロビー回顧録』 延禎訳 山川出版者 2011年 p.203) コーエンに勇気づけられたストの連中は、デモを企てたうえに、暴力行為の騒ぎを起こしたという。相次いで起きたストライキやデモの背後には、コンスタンチーノとコーエンがいたらしい。ところで、社会主義に染まった労働者を煽ったコーエンとは一体何者なのか? 勘のいい方は、もう推測できますね。毎度お馴染みの回答です。そう、彼はユダヤ人でした。何か八百長のクイズ番組みたいだが、左翼にはユダヤ人が多すぎるのだ。(これって民族的病気なのか?)

  セオドア・コーエンは1939年、コロンビア大学院で日本の労働運動について論文を書き卒業した。この修士論文を買われてOSS(アメリカ諜報局)に入ったという。彼が最初に手掛けた仕事は、太平洋のマーシャル諸島やカロライナ群島海域における対日政治戦略であった。その任務を果たしたのち、ローズヴェルト政権で副大統領を務めていたヘンリー・ウォレスが直轄していた経済戦略局敵国課に、OSSから出向いて編入したのである。経済戦略局は間もなく外国経済局に編成されたのだが、コーエンはこの局内で『民政ガイド 日本に於ける労働組合と団体交渉』という戦略ペーパーを書き上げた。これが後にアメリカの対日労働戦略の基本となるのだ。驚くことに、合衆国政府はミッドウェー開戦やソロモン開戦に勝った(昭和17年)頃、既に対日戦争後の占領政策に取りかかっていたのである。コーエンの『民政ガイド』は、こうした占領政策ガイドラインの一環であった。

  日本とは直接係わりの無いコーエンだが、なぜ日本の労働運動を修士論文のテーマにしたのか? ジャーナリストの大森実のインタヴューで、コーエンは理由を述べていた。当時のアメリカで日本の労働運動についての資料を入手するなど非常に難しかったはずなのに、なぜ選んだのか? そうした大森氏の質問に答えて曰く、

  別に動機なんてありませんよ。学位をとるためには、なにかを選択せねばなりませんね。当時、日本の労働運動なんか誰も知らないテーマでした。英語で書かれた例も少ないし、まったくないといえる状態でした。・・・・研究テーマというものは、ある程度まで深く研究された問題ですと、かなりの努力が必要とされるものでしょうが、日本の労働運動は、米国でまったく研究されたことのない課題だったので、新聞のようなはっきりした公開材料でも資料として役立ったわけです。(大森実 『赤旗とGHQ』 講談社 昭和56年 p.269)

つまり、コーエンが日本の労働運動を論文テーマに選んだのは、簡単に学位が取れるという理由からだった。確かに、論文を審査する教授でさえ、彼の選んだテーマについては素人であろう。だから、少々いい加減な解釈や調査でも、修士号がもらえたのかも知れない。第一、日本語の資料など誰も読めなかったろうから、コーエンが使った資料を検証することなどできない。したがって、ちょろまかしが可能だ。これがヨーロッパの労働運動なら、膨大な資料の精読をしなければならないから大変になる。教授陣の死角を突いたコーエンは狡賢い。

  しかし、いくら楽なテーマ選んだとしても、やはり日本の労働運動に目をつけるというのは珍しい。コーエンは元々社会主義に惹かれていたから、外国の労働問題にも興味を示し、論文のテーマで日本を選んだのではないか? 赤い頭のユダヤ人だったから、社会主義に関連していれば未知なる日本でも良いと思ったのであろう。西歐人と違って、ユダヤ人は外国文化に対しての抵抗感がない。やはり、千年以上も他国にたかって暮らしてきた寄生民族は、馴染みのない文化でも調べてみようとする好奇心がある。誰も手をつけていない領域には、もしかしたらお金儲けのチャンスがあるかもしれない。だから、ユダヤ人は世界各地に進出して拠点を築き、物流や情報網を支配して大金持ちになれるのだ。片田舎でのんびり暮らすアメリカ白人は、そもそも外国文化に興味を持たない。馴染みのある生活で満足する。日本人なんか別の惑星に住むエイリアンだから、その言葉を理解しようとは考えない。怠惰なアメリカ人は、英語の姉妹語たるドイツ語やフランス語でさえ勉強を嫌がるのだ。日本語が必修科目になったらアメリカ人は全員不登校になる。だから、文法や表記がまったく異質な日本語を、自ら進んで学ぶなどあり得ない。

  こう考えると、日本語を習得するユダヤ人は特殊だ。そういえば、シカゴで育ったデーブ・スペクターが少年時代、日本の漫画に興味を持ったのもユダヤ人だったからじゃないか? 日本語を覚えたスペクター氏が、ハリウッド関連ニュースを独占的に日本で紹介し、大儲けしたのもうなづける。こうした発想はアメリカ白人に少ない。ついでにいえば、スペクターは日本人女性と結婚しているが、コーエンも日本人女性を妻に持っていた。ユダヤ人は外国人配偶者に対しても抵抗がない。有名なロック・バンド「メガデス」のギターリストだったマーティ・フリードマンは、ツアー中にも日本語を勉強して、ついに日本語を習得したという。日本に移住後、日本のテレビ番組に多数出演していたし、夫人も日本人女性だ。ハリウッドスターのスティーヴン・シガールも日本人女性と結婚していて、大阪弁も流暢に話せた。しかも当時、合気道に興味を示して習得するアメリカ人は珍しかった。彼がこの不思議な東洋武術をアメリカ人に披露して有名になった事はみんなが知っている。本当にユダヤ人は異質な文化の習得が早い。

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(左けデーブ・スペクター/中央マーティー・フリードマン/右けスティーヴン・シガール)

  日本での生活経験があるユダヤ人は、合衆国政府にとり何かと重宝な種族のようだ。戦後、国家安全保障法によって発足したばかりのCIAから日本に送り込まれたポール・ブルーム(Paul Charles Blum)もユダヤ人であった。彼はCIAから派遣された初代東京支局長である。彼の親友には、日本に帰化したドナルド・キーン教授がいた。キーン氏はアメリカ軍の諜報担当士官で、日本兵捕虜を尋問する際、通訳を務めていた経歴を持つ。キーン氏は友人ブルームの正体を知らず、国務省の外交官だと思っていたらしい。それというのも、マッカーサー元帥が占領時代の日本で、CIAの活動を認めなかったからだ。CIAとしては、マッカーサーに内緒でキャリア要員を送り込んでいたわけである。ただ、日本人で彼の正式な身分を知っている人物がいた。元海軍中佐の藤村義朗である。藤村中佐は戦時中、スイスでブルームと一緒に終戦工作に携わっていたので、ブルームが国務省の大使館員ではないことを分かっていたのだ。(春名幹男 『秘密のファイル(上)  CIAの対日工作』 共同通信社 2000年 p.193)

  OSS(戦時諜報局)ベルン支局のアレン・ダレスの右腕として活躍したポール・ブルームは、横浜の外人居留地、山手に生まれたユダヤ人。父親のアンリはユダヤ系フランス人でアルザス地方の出身であったから、フランス人民戦線のレオン・ブルム首相とは遠縁に当たるそうだ。横浜のオッペンハイマー商会に務めた後、ウィトコフスキー商会の支配人になり、スイスの時計を輸入したり、絹や銀を扱っていたという。母親のローズはユダヤ系アメリカ人で、叔父の貿易商ステーツ・アイザックスを頼って来日したらしい。この叔父は根岸にある横浜競馬場を建てたことでも知られている。この両親から生まれたポールは横浜のセント・ジョセフ国際学校に通ったが、日本人の子供との交流はなかったという。当時の山手は普通の日本人と隔離されていたから、ポールは自然と日本語を学ぶことはなかった。アメリカのイェール大学を卒業後、第一次世界大戦が勃発すると、、アメリカ軍に志願し野戦衛生隊に所属したという。その後、ブルームはパリに居をを構え物書きになり、東京では三島由紀夫とも親しくなった。

Donald Keene 2(左/ドナルド・キーン)
    ところが、ドイツ軍のパリ入城で、ブルームはニューヨークに逃れ羽目となり、コロンビア大学で日本語を学び直したのである。こうしたことから、偶然キーン氏に出逢ったのである。キーン氏は当時フランス文学を学んでいたが、ブルームは日本文学を薦めたという。 フランスで育ったアメリカ人はたくさんいるが、日本のことをよく知っているアメリカ人は少ないので、日本文学を専攻した方がキーン氏の将来にとって良かろう、と提案した。これまたユダヤ人らしい柔軟な発想だ。もっとも、キーン氏は日本人捕虜の尋問を行ったことで日本文学を目指したという。不気味な日本人だったのに、調べてみると繊細な感情を持つことが分かった。キーン氏は日本人青年が愚痴ばかりを手紙に記すアメリカ兵と違うことに気がついたという。彼は祖国で帰りを待つ両親を心配する一方で、国家に尽くすという純粋な気持ちに溢れた日本兵に感銘を受けたらしい。米軍が押収した日本兵の手記や手紙を読んで、キーン氏はとても感動したのだ。

  CIAの東京支局長になったものの、外交官を装っていたブルームには部下も少なかったし、マッカーサーの目を気にしながらの活動だから、どうしても情報収集には制約があった。そこで、彼は各界のリーダーと接触して、トップレベルの情報を集めようとしたのである。彼は毎月第二火曜日に著名人を集めた夕食会を開いたという。そこには、日本を代表する知識人が集まったのだが、あいにくこのメンバーは真っ赤であった。朝日新聞論説主幹の笠信太郎(りゅう・しんたろう)は、言うまでもなく近衛文麿が主催した「昭和研究会」の中心メンバーで「朝飯会」にも属していた。吉田茂に反して全面講和を主張し、日米安保闘争では岸信介に反対。絵に描いたような極左のジャーナリストである。しかも、世界連邦運動を提唱するなど、妄想もたくましく救いようのない馬鹿。日本をソ連に売り渡そうと頑張っていた頃の典型的朝日人だ。笠はまさしく左翼路線まっしぐらの黄金期を代表する人物。80歳代の朝日OBには懐かしいだろう。

松本重治2松方三郎松方正義2東畑精一 2






(左:松本重治 / 松方三郎 / 松方正義 / 右:東畑精一)

  国際文化会館理事長の松本重治は、明治の元勲松方正義の孫で、共産主義者の巣窟たる太平洋問題調査会(IPR)を通して国際活動を広げていた。彼も近衛の朝飯会に参加しており、近衛文麿や尾崎實秀、西園寺公一とも親しかったという。子だくさんの松方正義には妾の子がいて、松方三郎もその一人。共同通信社専務理事の松方もブルームの集会に顔を出していた。京都大学で河上肇の薫陶を受けたので、これまた真っ赤。彼もIPRに参加していた、国際派の隠れ共産主義者である。昭和研究会に属していた蠟山政道(ろうやま・まさみち)も、この火曜会に出席していたのだ。蠟山については以前述べたから省略。経済学者の東畑精一(とうはた・せいいち)も昭和研究会のメンバーで、社会主義かぶれの農業経済学者。戦後に活躍した経済学者はほとんどが左翼で、政治・経済での自由主義を掲げる学者などほぼ皆無だった。マルキストの大内兵衛(おおうち・ひょうべい)や都留重人(つる・しげと)など今となっては忘れ去られた過去の人で、彼らの著作は紙くず同然である。ブルームが集めた人物は左翼ばかり。ユダヤ人のブルームは任務として彼らと付き合っていたのか、それとも馬が合ったので交流していたのか、実際のところは分からない。彼は冷戦が深刻化した1950年代初期にCIAを辞めたらしい。ブルームは辞任後、親友の藤村義朗が経営する青山のジュピター社で非常勤取締役に就任したそうだ。

蠟山政道笠信太郎 2大内兵衛都留重人







(左: 蠟山政道 / 笠信太郎 / 大内兵衛 / 右: 都留重人)

  アメリカ占領軍の対日政策はソ連の台頭により、日本を懲罰することから、反共の砦にする方向へ舵が切られた。日本にとって幸運だったのは、GHQの参謀部G-IIにチャールズ・ウィロビーが配置されたことだ。左翼思想の持ち主が多いGHQの中で、反共思想を持つウィロビーは傑出していた。次回は彼について述べてみたい。




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