無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2015年07月

アジア系混血児が日本で急増する / 外来種族が支配する未来

社会主義政権への不安と期待

  安保法案で左翼が息を吹き返し、あちこちで騒いでいる。棺桶に片足を入れたような高齢左翼から、大学でくるくるパーにされた若者まで、安倍政権打倒に向けて元気なようだ。もう高齢になった60年安保闘争の生き残りはともかく、若者がお祭り騒ぎで国防反対に参加する風潮は見過ごせない。日教組教育が薄れてきたとはいえ、左翼教師が減っているわけではないから油断は禁物。しかも、最近だと危険な兆候がある。学校でアジア人混血児が増えているのだ。敗戦後の昭和から平成の初期までは、左巻きの教師が「日本人の子供」を「反日分子」にしようとしていた。願わくば「革命戦士」にしたかったが、さすがに火焔瓶を投げつける若者を大量生産することは難しく、日教組教育の目的は途中で挫折したようだ。ところが、日教組に思わぬ朗報が舞い込んできた。「反日予備軍」にできる子供たちが学校に現れたのである。今までは「如何にして生徒を日本嫌いにすべきか」というのが課題だった。しかし、アジア混血児や帰化アジア人の子供なら、最初から外人であり、「反日分子」に仕込む手間が省けている。アジア人という劣等感を持つ子供は、潜在的に「反日感情」を持っているから、日系人生徒より日本を憎む感情が強い。左翼教師は彼ら中から将来の「反日知識人」や「左翼エリート」を養成するだろう。

  現在の新左翼は旧左翼とちょっと違う。敗戦直後から70年安保世代までの左翼は、共産主義政権に憧れていた。日本共産党はソ連のモスクワが本店で、代々木の共産党は「コミンテルン日本支部」だから、KGBの命令に絶対服従。ソ連軍が侵攻しやすいようにアメリカ軍を排除するのが、共産党と進歩的知識人の役目だった。社会党委員長の石橋政嗣(いしばし・まさし)が唱えていた「非武装中立論」とは、自衛隊を警察予備隊くらいに縮小させ、核武装の米軍を追い払って、ソ連軍が占領しやすいよう下拵えすることであった。要は、邪魔なアメリカ兵を掃除して、ロシア兵のために赤絨毯を用意するといったものだ。待ちに待ったソ連軍侵攻の曉(あかつき)には、石橋以下社会党の面々が赤軍将校にご褒美をねだるという魂胆だった。ただ、もしそうなった時には、きっと社会党と共産党との間に、恩賞のぶんどり合戦が起きたんじゃないか? ロシア人を前にして、誰が一番「日米安保廃止」に貢献したかで揉めたりして。売国奴の口喧嘩は醜いからね~ぇ。「平和」とか「反戦」を掲げる左翼ほど腹黒く欲の皮が突っ張っているものだ。

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(左: スターリン / 中央: 石橋政嗣 / 右: 清水幾太郎)

  今となっては笑ってしまうが、敗戦後の知識人は、やがて日本にも共産主義革命が起こるだろうと期待していた。何せ社会主義とか共産主義というのは、「必然的」に到来する未来であるからだ。岸政権の頃はまだ社会主義の全盛期。進歩的知識人は恐ろしい赤軍の占領に備えて、ソ連賛美のアリバイを残そうと必死だった。彼らは共産主義政権になっても言い訳ができるように、準備していたのである。この恐怖についいて、安保闘争における代表的知識人であった清水幾太郎(しみず・いくたろう)が述べている。当時の知識人は「反米」というのが格好よく、「ソ連との連帯」とか「社会主義政権」を口にする方が「インテリ」らしく見えた。この世代は、朝日新聞を購読しているのが「知識人家庭の証拠」と思っていた。鼻で笑いたくなるが、彼らは真面目にこの赤新聞を読んでいたのだ。ソ連の軍事力に怯えていた清水氏は、日本の地理的・政治的状況を考慮していた。

  アメリカと深く結ばれることによって、欲せずして、ロシアの深い敵意の的になるのではないか。私の ─ おそらくは、私たちの ─ 眼には、何時も一枚の地図が見えていた。真ん中に日本列島があり、細い海峡によって僅かに大陸から距てられている。何処から見ても、日本は、大陸の小さな附属品のようなものもである。日本の劣等の右側には、漠々たる大平洋が横たわって、その向こう側にアメリカが霞んでいる。大陸は、共産主義のロシアに連なり、既に中国も共産主義の世界に入っている。吹けば飛ぶように小さな日本、戦争に敗れた弱い日本、何一つ資源のない貧しい日本・・・・。

大学や論壇で活躍していた知識人にとって、日本は資源の乏しい弱小国でしかなかった。真っ赤に染まったユーラシア大陸を地図上で見れば、ソ連軍が朝鮮半島から日本まで来るのは、時間の問題かと思われた。「共産主義は世界史の必然」と信じていた青瓢箪(あおびょうたん)は、明日はハンガリーやチェコみたいになっちゃうかも、と半信半疑で震えていたのである。彼らはこうした不安を心に秘めながらも、未来を確実に予測している達人、つまり愚民より目覚めている高級人間を気取っていたのだ。清水氏は本音を語っている。

  講和問題は、この日本にとって問題であった。誰も口に出して言わなかったが、また、口に出すのは立派な議論だけであったが、全面講和論者の多くは─私を含めて─ロシアが恐ろしかったのではないか。大戦末期におけるソヴィエトの行動から見ても、何をやるか判らない国の直ぐ近くに私たちは生きているのであり、アメリカは、孤立主義の本能が目覚めたら、何時大平洋の向うへ帰ってしまうか知れたものではない。嘘か本当か、ソヴィエト軍に占領してもらいたかった、と呟く共産主義者やマルクス・レーニン主義者を除いて、全面講和論者の多くは、ロシアへの恐怖を単独講和論者と共有していた。ただ、後者が恐怖を率直に表現することが出来たのに対して、前者は、その機会を失い、往々、怖れるものを美化する破目に陥ってた。(清水幾太郎 『わが人生の断片』 下巻 文藝春秋 昭和57年 pp.104-105)

  ちなみに、単独講和論者とは「アメリカと平和条約を結んでしまおう」という現実派で、全面講和論者とは「ソ連や支那も含めて条約を締結すべし」という空論派である。全面講和論に与する「進歩的知識人」には、純粋にソ連が好きという人物もいたが、多くは人を何とも思わずに粛正できる怖いロシア人に、ゴマを擦っておこうという卑しい根性の持ち主であった。ところが、いつまで経っても社会主義政権にもならないし、自衛隊を廃絶することも出来ない。そうしている内にレーガン政権が誕生し、希望の星だったソ連が崩壊してしまった。あら大変。困った。しまった。どうしよう。嗚呼(ああ)、共産主義政権は永遠に訪れないことが決定。知識人の未来予測なんてこんなもんだ。武闘派コミュニストはしょんぼり。それにもめげず、日本共産党は頑固一徹「民主主義」と「反戦・平和」を保持。中には「赤旗」を捨てて「緑の旗」にしようかな、と思う不届き者がいたりして。福島瑞穂や辻元清美みたいな狡賢い奴は、時代の潮流を見越して「社会民主党」に鞍替え。フランスやドイツ風の社会主義者に転身して左翼的姿勢を守った。豪邸を所有していた共産党の不和哲郎は、兄貴の上田耕一郎と共に、内心ほっとしただろう。「よかった共産革命が起きなくて」と呟いたんじゃないか? 皮肉にも、豊かなブルジョアになった共産党委員長は、党員を搾取したからプロレタリアート革命を怖れていたのかもしれない。

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(左: 福島瑞穂 / 辻元清美 / 不破哲三 / 右: 上田耕一郎)

  しかし、冷戦崩壊後の日本では、徹底的な左翼潰しが行われなかった。左翼思想には大きな目的がなくなったが、「伝統的日本への憎悪」や「幸せな国民国家の破壊」を目標とする行動様式(ethos)だけは残っていたのだ。旧式左翼に養成された新型左翼たちは、共産主義政権の樹立を求めていない。しかし、伝統的な日本が嫌いという感情だけは人一倍強い。例えば、彼らはマッカーサー憲法を改憲あるいは廃止をすれば、日本は直ぐ侵略国になると考えている。日本は本質的に狂暴で、軍隊を持てばすぐ支那や朝鮮を武力弾圧すると信じているのだ。大東亜戦争に於ける国家犯罪を謝罪しない右翼どもが政権を握れば、必ずや武器で他国を威嚇すると考えている左翼には、ほとほと困る。日本人が武器を放棄すればアジアは平和になると思っているのだ。こういう妄想に取り憑かれた連中は、支那の核搭載攻撃型潜水艦や、多弾頭化された核ミサイルに関心はないし、平和とは軍事的優位でのみ保障されるという基礎知識がない。戦争の目的とは右翼政治家の征服欲で、一般人は徴兵されて死ぬだけと思っている。実際に闘う国民だからこそ、政府に充分な武器を備えるよう要求すべきなのだ。彼らには有事となった場合に機能する国家を、前もって構築するという発想がない。一般左翼には「邪悪な日本軍」というイメージしかないのである。

  日本人に正常な国防意識を持たせるためには、自分が日本国民であり、先祖から国家を受け継いだ子孫であることを自覚せねばならない。日本は自分の祖先が守った貴重な国家であると認識し、子孫へ譲渡する義務があるという意識を持てば、一般人にも国家を如何に防衛するかという思想が芽生えるだろう。ちょうど、結婚して女房と子供を持った亭主が、家族への責任感を肌で感じるように。ところが、日本の学校では逆の認識を植え付けている。まず、日本の過去を邪悪なものにし、生徒を犯罪者の祖先と切り離すことで、系譜の意識を抹殺しようとする。花や葉を枯らすには、まずその根を絶つことが肝要。左翼教師が皇室と国民の紐帯を切断するのは、日本民族の一体感を廃絶する一環なのだ。子供が国民意識を持たないよう、出来るだけ日本国を穢らわしい物体にし、国家とは「一般市民」を抑圧する組織と教え込む。そして、国家に抗議する左翼教師は、自分が子供の模範であるかのように振る舞う。子供の前ではっきりとは言えないが、「正義の味方は先生なんだぞ」と巧みに仄めかす。これこそ我が国で行われている歴史教育の正体である。さらに許せないのは、日教組が子供を悖徳(はいとく)の輩にしてきたことだ。倫理道徳が備わった立派な若者だと、共産主義や“市民活動”に同調しないから、左翼教師は子供たちをアカンタレの出来損ないにすべく努力した。「市民活動家」上がりの菅直人が披露したダメ息子、源太郎を見れば、左翼活動家の家庭教育が如何にだらしないかが分かるだろう。江田三郎の息子、江田五月(えだ・さつき)だって、自民党に殴り込みをかけた愚連隊で、与党の役職に就けば態度を変える変節漢。学生時代の江田はアメリカの核に反対していたのに、科学技術庁で長官になったら「核反対」の看板はこっそり外していたのだ。左翼で立派な人物などまずいないだろう。

アジア系国民の怨念

  すっかりひ弱になった日本人の子供に比べたら、アジア系の子供は将来の有望株に見える。何せ、最初から日本人ではないし、心の奥底に「日本憎し」の感情がとぐろを巻いているから、左翼になりやすい。例えば、フィリピン人の混血児には、水商売の母親を持つ子供が多く、その出自にどこか暗い影が差している。両親がどのように知り合い結婚に至ったのか、あるいは、なぜ自分には父親がいないのか、どうして母親は未婚のまま自分を産んだのか、といった点を曖昧にしたい心理がはたらく。友達の両親を見れば普通の日本人なのに、フィリピン人の母親は、奇妙な訛(なまり)を交えた日本語を喋るし、顔つきだって東南アジア風だったりする。大好きな母親の過去は何となく訊くことができない。中学生にでもなれば、フィリピン人酌婦が客相手に何をするのかが分かってくるし、友達も薄々気づいているから、敢えて言及しないのだ。しかも、フィリピン人混血児だと下層階級に生まれやすいから、躾が行き届いていないし、学力だって低い。たとえ、学校の成績が良くても、それは国語や英語といった科目で、厳密な考察や論理的思考が必要とされる数学や物理ではないだろう。

  したがって、大学進学となれば、ほとんどの混血児は文系を選択する。問題なのは、法学部や国際関係学部といった左翼の巣窟に入るアジア系の学生だ。アジア地域研究とかエスニック研究などを専攻したら大変。下らない勉強に取り組むアジア系学生は、日本を攻撃することが学問の目的になってしまうのだ。彼らは東南アジアに於ける日本軍の国家犯罪を非難したり、移民・難民の受け入れを積極的に推進するようになる。こうした役立たず学生が卒業すれば、国連とかNPOに勤めだすかも知れない。海外援助という口実で日本人の税金をばらまくことが、日本の国際貢献だと思い込む。母親の祖国フィリピンを訪れれば、自分と似たような顔つきの子供がゴミの中で暮らしているから、自然と同情心が湧いてくる。同胞愛に目覚めた混血児は、巨額の海外援助金を注ぎ込むことが自分の使命(vocation)と思えてくるし、惨めな同胞を救ったという幸福感(euphoria)に浸ることができる。日本人からすれば、フィリピンへの支援など、お金をドブに捨てるようなものだ。しかし、フィリピン人混血児にとっては、母の国に貢献したことになる。日本人はアジア系混血児が勉強して政府の役人になることを想定していない。彼らが心の祖国へ送金するとは想像していないのだ。役人にとって税金は他人の銭である。いくら浪費しても痛みは感じない。この危険性に気づいてからでは遅いのだ。

  フィリピン人やタイ人の親を持つ混血児は、日本で生まれ育っても日本人という自信がない。それというのも、国民という概念には血統が深く係わるからだ。オットー・ダン(Otto Dann)が言うように、国民(ネイション)とは、共通の歴史的な由来に基づいて政治的な利益共同体を形成する社会集団である。国民はみずからを連帯共同体として理解するが、それは同じ血統を共有する民族、つまりラテン語でいう「ナチオ(natio)」によって構成される集団と認識しているからだ。幕末の日本が明治維新を経て直ぐ国民国家になれたのは、日本が既に血統を同じくする集団で、萬世一系の皇室を戴いていたからである。二千年以上も同じ土地で同じ民族が共同生活をしてきたのだ。数千年かけて日本人同士の紐帯が複雑に発達し、隅々に至るまで強靱化されてきたから、日本は世界でも稀な国民国家である。日本人にやや近いのが、イギリス人とドイツ人であることを考えれば、如何に土地と血統が結びつく歴史が重要であるかが分かるだろう。それなのに、明治の日本は致命的愚策を犯してしまった。日韓併合で、地球上で最も下劣な民族を日本国民にしてしまったのだ。ゲルマン人なら日本に多大な貢献をしただろうが、朝鮮人だとオナラを口から出すくらいの特技しかない。日韓併合は貧乏籤(くじ)どころじゃなかった。まるで、性病に罹った疫病神が寝床に入ってきたようなものだ。こんな朝鮮人に大金を貢いだ日本人は、感謝されずに怨みを買っただけ。桁外れの税金を浪費したうえに、在日朝鮮人という外来生物を背負い込んだのである。

  朝鮮人が日本人を怨む原因は、日本人ではなく彼ら自身にある。朝鮮人は朝鮮人に生まれたことが悔しいのだ。在日朝鮮人の老人やその子供たちは、「日本人から差別された ! 」とわめき散らすが、「どうして朝鮮人は馬鹿にされたり、嫌われるのか」という根本問題を詮索しない。肝心要の点を考えないのが朝鮮人の特徴だ。日本人が彼らを嫌うのは、戦後の混乱期に、第三国人が大暴れしたことが原因かもしれない。しかし、それだけではないだろう。日本人は朝鮮人の血統や民族性、文化、風習などを“生理的”に受けつけないのだ。理屈ではないから、日本人だってなぜ嫌いかを明言できない。ところが朝鮮人の方は、なぜ日本人に嫌われるのかが分かっている。特に、在日朝鮮人は朝鮮文化を毛嫌いしていた。「朝鮮」という言葉をことさら問題にするのは、朝鮮文化が低級で、朝鮮人が劣等民族と認識しているからである。日本人がその恥に触れると、鼻水垂らしながら激怒するのは、これが理由なんだろう。

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(左: 頭に甕を載せる朝鮮人 / 右: 頭にザルを載せる朝鮮人たち)

  高度先進国の日本に生まれてしまった朝鮮人の子供は、幼少期から劣等感を持って生活する。親の稼業がクズ鉄拾いとかドブロクの密造、養豚業、屠殺業などで、友人に見栄が張れないということがある。しかし、朝鮮人の子供にとって知られたくないのは、親が気違いの「いたこ」になる姿だ。日本にも死者の霊魂を呼び寄せる「いたこ」がいるが、こうした巫女は例外的存在だ。しかし、朝鮮の女は呪術的「いたこ」になることが普通である。この不気味なシャーマニズムについて、有名な在日鮮人姜尚中(かん・しようちゅう)が母親の思い出として語っていた。(生まれ育った熊本で使っていた通名は永野鉄男である。) 彼には「下関のおばさん」かいて、チマ・チョゴリで身を包み、足はゴムシンというゴム製の白い靴を履いていたそうだ。朝鮮半島でよく見かける、典型的な鮮人ババアである。以下は、姜尚中の回想だ。

  (おばさんは)悠然と家にやって来る。それは、日本人たちが見ると異様な光景に映ったに違いない。わたしはそれがたまらなくいやだった。下関のおばさんが来ると、ずっと逃げ回っていた。(姜尚中 『在日』 講談社 2004年p.45)

まあ、鉄男少年にとり、いかにも朝鮮人風のバアさんは迷惑な存在で、一緒にいるところを友達に見られたくなかったのだろう。この「おばさん」が吉凶禍福を占うために、鉄男の家にやって来たから嫌で堪らない。このバアさんが来たことで、彼の母親が「真の朝鮮女」に変身するのだ。鉄男の母親はドラや太鼓に合わせて踊り出し、トランス状態になる。想像しただけでゾっとするだろう。鉄男の母親は厄除けと禍福を占う言葉を発しながら、家中を徘徊したというから、子供にとったら一生のトラウマになる。この時ばかりは、儀式の中心が女となり、男どもは片隅に追いやられ縮こまっていたらしい。こんな気違い踊りが二、三日も続くというから驚きである。占いが凶と出れば、それを鎮めるために、鉄男の母親は金峰山に出掛けて滝に打たれる行(ぎょう)に勤(いそ)しんだという。これじゃあ、息子の鉄男は早く時が過ぎることを祈るしかない。しかし、こんな時に限って時間がゆっくり進むのだ。姜尚中は近所の評判を記している。

  周りの友人たちからもよく、「鉄男君の家は変じゃなかね。あんなにドラや太鼓を叩いて・・・・」と、まるで母が気がふれたのではないかと噂された。わたしはただその数日間の儀式が早く終わることを願うだけだった。(pp.45-46)

  在日鮮人のスターを演じる姜尚中は、亡き母の思い出として半ば美化しながら回顧しているが、当時は相当恥ずかしかったんじゃないか。朝鮮人丸出しのおばさんと気違い踊りの母親を目にした少年は、ドロドロした朝鮮文化を思い知る。こんな体験をしたら、朝鮮人に生まれたことを理不尽な天罰と思うだろう。朝鮮人の誇りなんて嘘っぱちである。それにもし、こんな姿になった母親を友達に見られたら、屈辱で堪らなくなり、学校に行きたくないだろう。また、姜尚中には都会育ちの転校生で、憧れの女の子がいたそうだから、彼女に見られたら赤面して逃げ出したんじゃないか? 朝鮮文化はとにかく野暮ったい。「アリラン」なんていう朝鮮の歌は日本人にとって奇妙だし、耳にするのも嫌な民謡である。アリランとは朝鮮の峠を意味するが、歌詞が何であれ、朝鮮の民族衣装とパンソリ(朝鮮の太鼓)を叩く姿は、在日朝鮮人だって恥ずかしいと思うから参加したくない。民族意識に固執する朝鮮人中高年は、朝鮮文化を伝えようと子や孫にアリランを教えるが、若い世代には押しつけとしか思えないだろう。日本の文化と比べれば、朝鮮人のやることなすことがダサく見える。先祖供養だって腐乱死体の山を背負っているようで、苦痛なだけだ。儀式となれば若い女は下女か奴卑程度の扱いだから、自由と対等に慣れた在日朝鮮女性には耐えられない。朝鮮人と結婚した日本人女性ならもっと悲惨である。朝鮮人に零落(おちぶ)れたことを実感するからだ。日本人の感覚を身につけてしまった朝鮮人の若者にとって、因習で凝り固まった朝鮮文化など学ぶ価値もないし、下層階級として生きる恥辱の象徴である。

  在日朝鮮人にとって最も心に突き刺さる言葉は、「朝鮮人はなぜ日本に住み続けるんだ ? 」とか「朝鮮人は自慢の朝鮮へ帰れ ! 」である。ちよっと賢い朝鮮人なら強制連行説は嘘と分かるし、あの暗くて悲惨な朝鮮に帰ることは死んでも取りたくない選択だ。しかし、朝鮮人にとって民族の誇りを否定したら何も残らない。日本人に跪いて「お願いだから日本人にしてください」と頼むなんて絶対できないし、厳格な上下関係が身に染みついている彼らには到底できない。乞食民族と分かっているのに、朝鮮人は日本人の兄貴分だと思っている。馬鹿らしい発想だが、朝鮮人に論理的思考はないから仕方がない。それでも、嫌いな日本に大勢で移住してくる朝鮮人は異常である。朝鮮独自の文化など全く無価値。魅力的で朝鮮独自の文化と思ってるものは、ほとんど日本文化のパクリなのに、朝鮮は世界トップレベルの国家と自惚れている。こんな朝鮮人が日本に帰化しても、立派な日本国民にはならない。むしろ、国籍取得により朝鮮と断絶したことで、心の故郷を失った根無し草になるだろう。朝鮮系国民は自分のアイデンティティーが真空状態になっている。肉体は朝鮮人なのに、精神は朝鮮人でもないし、ましてや日本人でもない。だから、愛国心を持つよう教育されたって、空虚な念仏にしか聞こえないのだ。肉体と精神がズレたうえに、自己識別に歪みが生じたまま成長するから、性格がひねくれてしまう。背骨が曲がったままで大人になる帰化鮮人およびその子孫は、精神的片輪(かたわ)で跛(びこ)を引きながら人生を歩むことになる。こんな朝鮮系国民が、日本の国防や民族の存亡を考えるわけがない。

日本人の条件と宗教

  情けない国から来た親を持つアジア系混血児には、堂々と「私は日本人です」と言えない心苦しさがある。特に、日本の伝統に浸かる時、どうも居心地が悪いのだ。父母が両方とも日本人である生粋の日本人だと、昔から続く慣習や行事に抵抗はない。それは祖父母、曾祖父母が日本人であったため、「自分は日本人なのか」といった疑問を敢えて考えることがないからだ。しかも、先祖の話が即、日本の歴史と連動するから、日本の過去が自分の過去となる。こんな幸福は、異民族雑居が普通の外国では滅多にない。アジア地域だと部族が違えば宗教や風習が違う。日本人みたいに、国民的一体感を持つなんて無理。国民国家をすんなりと持てた日本は、世界史的に見たら例外である。日本人は自国の幸運に気づいていないのだ。同質民族による国民構成に加え、異民族による征服がないし、王朝の交代が全く無い。神代から続く皇統なんて地球上で日本だけ。天皇陛下と国民が肉体と精神で結合しているから、日本人は奇蹟の民族だ。こうした高濃度の国民性をもつ日本だからこそ、異質な遺伝子を有するアジア系混血児は疎外感を抱くのである。

  アジア系混血児にとって、最も困惑するのが皇室と英霊に対する崇敬である。神道が係わっているのに、その神道が曖昧模糊とした信仰で、明確な教義もなければ、これといった教典すらないのだ。昔ながらの伝統に則る信仰心だと、外国人はどのように入信したらいいのか分からない。信徒になる条件もはっきりしないから、神主に尋ねても糠(ぬか)に釘(クギ)といった手応えしかないのだ。手っ取り早く言えば、日本人の両親から生まれれば、自動的に神道の信者になれるというだけの話。外国人が日本の神様を拝んでも問題はないけど、来世で美女に囲まれるとか、天国に招かれて永遠の命を貰えるといった利益は無い。日本人が古来から持つ信仰は、天地の神様にお願いしたり、ご先祖様に感謝するといったことが基本で、信徒をまとめ上げる厳格な戒律は必要ないのだ。村の神社にお参りをしないと、日本人の資格を剥奪されるとか、異端者として糾弾されるといった恐怖もない。また、意外なことだが、神道は日本の土着宗教なのに、神主が政権を左右することがなかった。外国ならラビとかイマーム、枢機卿といった聖職者が君主とつるんで政治を壟断(ろうだん)するのに、日本だと将軍は仏教の坊主を知恵袋にするくらい。武家の棟梁は家老や直臣の方を重要視していた。だから、家康が頼りにした大僧正の天海は例外的存在。日本人でも英国のチャールズ1世に仕えたウィリアム・ロード(William Laud)大司教なら知っているだろう。外国だと、こうした組み合わせの方が普通だ。政教分離が室町時代に確立された日本は超先進国だった。

  日本人は歴史的にいつも同じメンバーで暮らしてきたから、熾烈な宗教対立を持たないし理解もできない。もちろん仏教徒が宗派争いをする事はあったが、日本人の半数が殺戮されるといった内乱はなかった。仏教徒は納得しないだろうが、信長の比叡山焼き討ちは一向宗が政治に容喙(ようかい)したからだ。神道には教義解釈論争もないし、逸脱者を処罰する異端審問所も無かったから、日本社会が恐怖政治に陥ることはなかった。先祖代々同じ土地に暮らす日本人には、究極的には皆家族という意識がある。各家庭が様々な仏教の宗派で分かれていても、夏祭りやお正月になると、そんなことを構わずにみんなで祝ってしまうルーズさがいい。日本人は唯一絶対神に服従する強烈な宗教を好まないし、海外に亡命してまで固持したい信仰もなかった。日本人は神様が人間のためにあり、人間が犠牲になる宗教は信仰に値しないと考えてしまうのだ。神道では祈りが成就されなくても人々は報復を考えない。例えば、天皇陛下が五穀豊穣を祈願なされたのに、天災で凶作になったとしよう。それでも、民衆は陛下を怨まないし、石を投げつけようとする者は皆無。一時的に日本人はガッカリするが、再びやる気を起こすし、陛下のお言葉を聞けば、勇気百倍になる。落胆していた人も来年に向けて頑張ろうとする。朝鮮人のように、人生の不幸を嘆き悲しんだ挙げ句、路上にしゃがみこんでキセルを吹かし、一日中ボケ~と空を眺めるなんてことはしないのだ。

  外国だと日本人はアジア人と見なされるが、宗教面を調べれば、古代ギリシア人やローマ人に近い。強盗のような兵隊しか持たなかった支那・朝鮮と一緒にするより、尚武の精神に溢れたローマ人やゲルマン人と比べた方が分かりやすいだろう。日本と同じく、古代ローマには、八百万の神々で満ちていた。人間と神々が同数いたんじゃないかと思えるくらい。ローマ人の家庭には保護者とか立法者、道徳的根源としての神が存在すると信じられていて、神々は人の形を取らぬ精霊と考えられていた。古代ではゾロアスター教に見られるように火が貴重で、炎を崇拝する宗教があってもおかしくはない。ヴェスタ(Vesta)は炉床の神様と考えられ、暖炉の火は生命と家庭の存続を象徴すものである。したがって、この炎は決して絶やしてはならない。ローマ人は食事をする度に、その一部をヴェスタに供えたという。また、暖炉の上には家庭の様々な神々を象徴する小さな像が置かれていた。有名なラーレス(Lares)は建物や畑を含めた家庭の守護神だし、ペナーテス(Penates)は、戸棚や納戸、物置にある家族の蓄えを守る神である。

  ローマ人の宗教には人間の誕生と人生に深く結びつく神様がいたという。敬虔な信仰に包まれたローマでは、大人が子供たちに生命の根源を教えていたのだ。母親は胎内に新たな命を生み出す精霊ジュノー(Juno)を宿し、父親は子をもうける精霊ゲニウス(Genius)を有する。そして、子供たちの中にも守護神とか魂であるゲニウスやジュノーがいると信じられていた。ゲニウスやジュノーは、限りある命を持つ人間に内在する神の種子というわけだ。現在の狂った日本と比べれば、古代ローマは数千倍も健全である。日教組支配の学校では、やれ「ジェンダー・フリーで男女平等」だとか、「性転換者や同性愛者に偏見を持ってはなりません」と注意したり、「女性は妊娠中絶を選択できますよ」と教えている。不道徳な教師から「生命を大切に」なんて説教されたって、子供にとっては馬耳東風だ。道徳は家庭で教えてもらうのが一番。神々を心から尊ぶ家庭で育った子供にとって、他人を殺すことは命の精霊を抹殺することになる。神聖な魂を信じる子供なら、冒瀆(ぼうとく)を避けるだろう。ローマ人が大切にした敬虔さ(pietas)を伴わない、道徳教育など無意味である。

  孤独な現代の子供と違い、ローマに生まれた子供は神々に囲まれて暮らしていた。彼らの周りには「ディ・マネス(Di Manes)」という死者の魂(精霊)がいて、壁に掛けられていたデスマスクに宿るこの精霊は、子供が祖先の道から外れてはならないと忠告したそうだ。系譜意識の強かったローマ人は、偉大な先人に倣って生きるように心掛けたから、祖先の遺風(mos maiorum)を行動の規範にしたという。ローマ人は個人という単体で生きていなかった。家に飾られている祖先の彫像は、家族が死んだ者やこれから生まれてくる子孫を含む、と伝えていたのだ。有名なジャーナリストのウィル・デューラント(Will Durant)は言う、

  祖先や子孫は家族の精神を構成し、時間を超えて現世の家族と一体化しているのだ。ローマでは、家族が国家を支配していたのである。(ウィル・デューラント 『誰が文明を創ったか』 高田亜樹 訳 PHP研究書 2004年 p.163)

  ローマの子供たちは家の外に出ても神々に囲まれていた。世界そのものが神であり、地球はテラ・マーテル(Terra Marter/母なる大地)として、時には女性や多産多作をもたらすボナ・デア(Bona Dea/善き神)という姿で現れた。畑に行けば種まきの神サルトゥルヌス(Saturnus)がいるし、ケレス(Ceres)は作物の神様で、火をおこす神はウルカーヌス(Vulcanus)である。天空には最高神のユピテル(Jupiter)がいるし、海や水の中にはネプトゥーヌス(Neptunus)という神様がいた。マイア(Maia)は春や植物の生長をもたらす神だし、森に行けば木に宿る精霊シルヴァーヌス(Silvanus)がいたり、とあちこちに神様がいたのだ。ローマ人の宗教は、その保守思想の基礎となり、個人や家庭、国家に秩序と力強さをもたらしたのである。ディーラントはこう述べている。

  子供が物心つく前に、信仰は規律、義務、良識を植えつけた。家庭に神の裁可と加護を与え、親子の間に強い敬愛の念を浸透させた。宗教は公共生活のすべての側面に厳粛さをもたらし、国家と神々を密接に結びつけて、信仰心と愛国主義を一体化させ、その結果ローマ人の愛国心は他のどの時代の社会よりも強固なものになった。宗教こそが、ローマ人の鋼のように強力な性格を形成し、五百年にわたる古典世界の支配を支えたのである。(上掲書 p.165)

  日本人は啓示宗教を持たないから、宗教心が薄いように思われている。しかし、鉄の戒律を持たぬ宗教だから、かえって柔軟で自由があり、民衆が自発的に信仰心を持つのだ。イスラム教やユダヤ教だと、毎日が宗教的戒律に縛られていて息苦しいが、日本の自然崇拝や先祖崇敬は長期的中断があっても構わない。体の中から拝みたい欲求が生まれたら拝めばいいという、寛大な信仰形式だから二千年以上も続いてきたのである。キリスト教に飽きてきたゲルマン人には、日本の自然崇拝はちょっと懐かしい。ゲルマニアで消滅した古代宗教でも、日本人にとったら珍しくもない信仰である。古代世界で大樹を信仰していたドイツ人も、今やキリスト教徒か無神論者になってしまった。そんな彼らが日本の飛騨を訪れて、鬱蒼とした森の中で太古の巨木を見ると感動してしまう。木には人間を引きつける神秘が宿っているのだ。

Roman Deities 1Jupiter 1Mars 1








(左: ローマの神々のレリーフ / 中央: ユピテル / 右: マルス)

  ヨーロッパでは若者の失業率が高いが、地元の神様も失業中だ。ローマ人は軍神マルス(Mars)を崇拝したが、現在のイタリア人はキリスト教徒だから、ローマに憧れても偶像崇拝ができない。信者をなくした軍神は寂しい。しかし、日本人なら誰でも八幡神社で武家の英雄、源義家を拝むことができる。ヨーロッパの軍人は死んだらお墓に埋葬されるだけ。勇敢な将兵なら勲章を与えられて英雄と呼ばれるが、人々から崇められる聖人にすらなれない。しかし、日本だと軍人が神様になれる。八幡太郎義家はもちろんのこと、乃木希典大将や広瀬武夫中佐も軍神になった。日本では偉人が神様になれるから素晴らしい。学問の神様から野球の神様、さらにはラーメンの神様までいるのだ。職人だって腕が良ければ、天下一の称号が貰えたし、人間国宝までいるから一神教の国民は驚いてしまう。日本の驚異は古代からの信仰が今でも活きていることだけではない。古代人と同じ肉体が子孫に受け継がれているから特殊なのだ。

  アジア系混血児には真の愛国心を持つことができない。なぜなら、彼らには別の遺伝子が混ざってしまい、全身が日本と一致しないからだ。日系日本人なら自然と湧き起こる感情なのに、アジア系混血児だと国を愛する気持ちが肉体の何処かで詰まってしまうのだ。愛国心は個人と国家がぴったり融合していないと発生しない。日本人は血統と歴史、信仰、文化、言語、などが一本の糸で結びつく珍しい民族である。言葉で理屈を捏ねなくても、その場の空気を読んで以心伝心が可能となるから驚き。それは、みんなが同じ感覚を共有しているからだ。しかし、こんな事は通常ありえないから、外国人の眼には日本国民が超能力者集団と映ってしまう。いくらなんでも、一億人以上いる日本人が、家族のような絆を持つとは信じられない。国民意識などこれっぽっちもないアメリカ人が見れば、天皇陛下のもとで一致団結する日本人は、カルト集団の信者にしか思えない。なるほど、アメリカ人は愛国心が強いと言われるが、それは各個人が星条旗を仰いで勝手な理念を描いているだけで、バラバラな育ちをした国民の連帯はビスケットよりも脆いのだ。アメリカの現状を眺めている我々だって、他人事では済まされなくなった。日本国民は大家族という前提が崩れてきたのだ。日本人にアジア移民が増えたことで、強靱だった国民的連帯感に亀裂が生じたのである。

  日本人とアジア系混血児の違いは、皇室に対する感情に最も多く表れる。例えば、在日朝鮮人は帰化しても天皇陛下を敬愛する気にはなれない。民族意識の強い朝鮮人が、書類の上で日本国民となっても、肉体が日本民族に変化するわけではないからだ。政治に興味のない朝鮮人でも、皇室の話題が持ち上がれば、「何で俺があんなジジイに頭を下げなきゃならないんだ」という反発が湧き上がる。ことさら皇室を敵視するわけでもない朝鮮人でさえ、何となく陛下を尊敬することに抵抗を感じてしまうのだ。本人にも理由は分からない。しかし、心の何処かに、祖国朝鮮を征服した憎き日本の親玉という意識があるからだろう。帰化朝鮮人は自分の血族でもない天皇陛下に恭順を示すことができない。常識的に考えたって、利益目的で他人の戸籍に潜り込んだ養子が、いきなり世帯主を実父のように敬うなんてありえないだろう。帰化鮮人にとったら、日本のパスポートを持つことが、どうして尊皇精神へと繋がるのか分からない。彼らは正月になると大勢の日本人が、天皇陛下に拝謁しようと集まる光景を冷ややかな眼で見ている。「天皇なんてどこが偉いんだ ? 」というのが、帰化鮮人の本音だろう。ひねくれ者の朝鮮人がインテリになればもっと厄介になる。天皇陛下を公然と侮辱することが、教養と格好良さの證(あかし)となるからだ。

  このような歪んだ精神の持ち主が、国家公務員試験に合格し、高級官僚、特に外交官になれば、日本の国益を損なうことでも平気で行うだろう。例えば、「竹島は元々韓国領だ」とか「南鮮の国民に直接的国家賠償をすべきだ」といった考えで、外交を進める虞(おそれ)がある。本能的に日本を呪う朝鮮系国民には、こうした反日思想が正義と映るのだ。彼らには日本の国家的名誉という観念は無い。なぜなら、命を賭けて国家の独立を守った日本人とは無関係な祖先を持つからだ。朝鮮系国民にとり、日系国民が大切にする名誉は、軍国主義者の戦利品に過ぎない。朝鮮系総理大臣が誕生すれば、南鮮ばかりではなく、北鮮に対しても日本を代表して謝罪するだろう。そして、北鮮に賠償金を出したり、気前の良い経済援助を与えるかも知れない。想像するだけで恐ろしいが、朝鮮系首相やアジア系議員は、天皇陛下を朝鮮に連れ出し、謝罪文を朗読するよう命じるかもしれない。彼らにとって皇族は無駄飯食いとしか映らないから、政治的に利用しても何ら罪悪感を持たないし、政府の命令に従順だからペットに思えてくる。恐ろしい悪夢はまだある。日本で権力を握った朝鮮系議員は、日系国民より朝鮮人の方に親近感を覚えてしまうだろう。もし、北鮮が崩壊して大量の難民が出れば、日本を難民受入国にして手厚くもてなすはずだ。たぶん、日本国籍を無料でプレゼントにするだろう。そうなれば、他のアジア系議員だって、祖国から大量の移民を招き入れたくなる。こうして、日本はアジアの泥沼に沈むのだ。

  現在の日本人は国家意識を失っている。今の生活水準が維持できるなら、軍事を考える必要性はないし、人口が減って困るなら移民を入れればいいと考えてしまう。経団連会長の榊原定征(さかきばら・さだゆき)などは、戦後教育が生み出した愚かな日本人の典型で、目の前にある銭を勘定することが最大の経綸だと思っている。人口減少社会への対応として、移民に頼らざるを得ないから、国家のドアを開けるべし、と公言していた。(『経団連会長、人口減少社会「移民へのドア開けないと」』 日経新聞 平成27年7月23日) これじゃあ馬鹿丸出しだ。昔ならちょっとは日本の将来を心配する憂国の財界人がいたものだ。しかし、今ではこうした人物はほぼ絶滅し、安い賃金労働者を確保したいがために、国家が混乱しても構わないとする財界人が多い。もっと呆れるのは、そんなことすら念頭にない経営者が存在するということだ。移民を入れても日本人は増えないし、一旦移民を受け入れれば、途中で止めることはできなくなる。アジア移民が増えれば、日本人と結婚する者だって増えるだろう。そうした国際結婚から生まれた子供は、日本人にならないから、ますます日本人が減少し、アジア人が繁殖する結果になる。日本を解体することに執念を燃やす現代左翼にとっては、千載一遇のチャンスになった。学校では、左翼教師が非国民教育をしなくとも、非国民たるアジア系混血児が増えているのだ。このまま行けば、日本はローマ帝國と同じ道を歩むようになるだろう。日本国籍をもつが肉体は支那人とかタイ人で、日系日本人とは無縁のアウトサイダーとなる。しかし、そんな部外者民族もやがて、堂々と「日本人」を名乗る日がやって来る。そうなってから、後世の日系人はどこで誤ったのかという歴史捜査を始めるだろう。現在の我々が批判される未来は直ぐ近くに迫っているのだ。


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チャーチルは英国の英雄なのか? / ユダヤ人の救済者たるブリテン首相

ユダヤ人にとっての救世主がチャーチル

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(左: ナチス式敬礼をするヒトラー / 右: 中央で敬礼をするエリザベス王女)

  ブリテンの大衆紙『ザ・サン(The Sun)』が、エリザベス女王のナチス式敬礼を報道した。とはいっても現在の話ではなく、女王が7歳の頃の出来事である。エドワード8世に倣って右手を斜め上に挙げ、カメラに向かって敬礼をした時の模様を撮影した、短いフィルムが公開されたのだ。この映像は1933年に撮影されたもので、当時エドワード8世はナチ・ドイツに好意を抱いていたから、ドイツの敬礼をエリザベス王女に教えたのだろう。しかし、英国王室は元々ザールフェルトのザックス・コーブルク・ゴータ家(Haus Sachsen-Coburg und Gotha)の血統なんだから、ドイツに親近感を持っていても不思議じゃないだろう。ちなみに、英語を6年間も学んだ公立学校の高校生で、英国王室の名称を知らない者は多い。筆者が高校生の頃、プランタジネット家やスチュアート家、チューダー家は知っていても、女王エリザベス2世の王朝名を知る級友はいなかった。驚くことに教科書で教えないのだ。共産主義者が英語の教科書を執筆していていたのかも。あるいは、単に興味が無かったから、とか。いずれにしても、愚民化教育は日本の宿痾(しゅくあ)である。英国王室は、第一次世界大戦でドイツと険悪になったから、「ウィンザー家」に改名しただけ。(ちなみに、女王と結婚した若き海軍士官、エディンバラ公爵フィリップ殿下はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーバーク・グルックスブルク家の出身。ギリシアとデンマークの王子様だった。)

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(左: ベラミー式敬礼をするアメリカの子供/中央: ヒトラー/右: ナチス式敬礼のヒラリー?)

  イングランドとドイツは同じゲルマン貴族の国家なのに、戦争により不倶戴天の敵になってしまった。しかし、ドイツ系王朝を戴くイギリス人が、異常なまでにドイツ人を憎むのは、どうしても解せない。この裏には根深い策略がある。こう考えると何か臭う。無敵の太陽を御覧の方には、何となく予想がつくのでは? 「もしかしてユダヤ人?」と仰るかたは正解。「またかよ~、いいかげんにしろ !」と言わないでね。筆者も心苦しいんだから。でも、学校の歴史教科書が一番悪い。給料をもらっている学校教師が、生徒にちゃんと事実を伝えていないから、卒業生が歴史に疎いのだ。連合国がヒトラーを倒し、ナチズムから世界を救ったというイメージを植え付けたままで、「はい、みんな良くできました」と卒業証書を渡してしまう学校が問題なのだ。卒業証書は授業料を納めた領収書じゃないんだぞ。ユダヤ人はドイツ人を完璧な悪魔にして、英米のゲルマン系国民がドイツに共感や連帯感を持たないよう、両者の間に楔(くさび)を打ち込んでいたのだ。(この事については、別の機会で述べてみたい。)

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(左: 右手を挙げるジョージ王子/中央: エリザベス女王/右: 写真を掲載した「ザ・サン」の表紙)

  ほとんどの教科書でウィンストン・チャーチル卿は、邪悪なナチ・ドイツをやっつけた偉大な首相と紹介されている。しかし、待てよ。そんなに立派な首相が、なぜ戦後の選挙で失脚したんだ? しかも、ファシズム国家から自由主義国家を守る、という理屈をつけていたが、ソ連こそ超ファシズム国家だったじゃないか。スターリンなんか独裁者の見本だ。ポルポトや金日成だって三舎(さんしゃ)を避けるだろう。勝利の祝杯に酔うイギリス人が、振り返ってみれば大英帝国は崩壊していたのだ。これじゃせっかくの酔いが醒めじゃないか。しかも、戦争目的だって達成されていなかったのだ。当初、ポーランドをヒトラーから救うために起こした戦争なのに、戦争が終わってみればスターリンのものとなっていた。もっとも、亡くなったローズヴェルト大統領は、共産主義に好意的だったから、望み通りの結果だったのかもしれない。そもそも、ファシズムに対するデモクラシーの戦いという構図だっておかしいだろう。英米の軍人にとって、赤いロシア兵が友軍なんてゾっとする。

  ヒトラーという巨大な悪者を見つけたチャーチルは、ゲーム感覚の戦争に大喜びだったが、戦場で命を賭ける将兵にとったら冗談じゃない。常識で考えてみれば、英米の行動には異常なことがたくさんあった。国家社会主義者のヒトラーはダメで、国際共産主義者のスターリンならいいのか? ヒトラーが数百万人のユダヤ人を虐殺したと騒ぐくせに、まともな検証をしない英米の指導者は、スターリンによる数千万人ものユダヤ人やウクライナ人虐殺には余り言及しなかった。チャーチルは稀代の戦略家という評判だが、連合軍はノルマンディーに上陸する作戦をとってしまい、東欧からドイツに攻め込んだソ連軍は、ちゃっかりポーランドやハンガリーを掌中に収めてしまった。連合軍はバルカン半島に上陸し、そこから北上してドイツ軍を攻めれば、東欧は英米の支配下となったかもしれない。世界征服を目指すヒトラーを打倒したら、ドイツの半分と東欧がソ連に占領されてしまったでは、何のための大戦だったか分からなくなる。あんなにニコニコしていたスターリンおじさんが、終戦と同時に冷酷なヤクザになってしまった。ヒトラーという悪魔を退治するために、スターリンという化け物を育ててしまった英米は自業自得だ。チャーチルは「鉄のカーテン」演説をする前に、民衆を集めてウェストミンスター大聖堂で懺悔しろ。

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(左: スターリン / ヒトラー / ローズベルト / 右: チャーチル)

  第二次世界大戦では、イギリス人は貧乏くじを引いたようなものである。大量の戦死者を出した歐洲大戦争で、チャーチルは負け犬となり、スターリンが最大の受益者になってしまった。国際社会に於ける英国の地位は低下し、米国とソ連の狭間に埋没したのだから悔しい。スペイン帝國と同じ運命を辿るとは。血みどろの激戦をかいくぐったイギリス兵にしてみたら、ナチ・ドイツと闘わずに同盟を組み、ヒトラーをおだててソ連と闘うようけしかければ良かった。英米軍の下級士官は口にしないが、結局得をしたのはユダヤ人である。そこで、チャーチルはイギリス人じゃなくてユダヤ人のために、英国を対ドイツ戦に引きずり込んだのではないか、という疑問がどうしても湧いてしまうのだ。同胞のイギリス人を犠牲にしてまで、チャーチルはユダヤ人を救いたかったのだろうか? 第二次世界大戦は余りにも複雑で、研究用の関連資料も膨大なので、真実を暴くことは困難である。しかし、チャーチルとユダヤ人の関係を垣間見れば、どうしたって怪しいと思えてしまう。チャーチルの伝記はたくさんあるが、ユダヤ人との関係を述べた本は少ない。そうした中で傑出しているのが、マーティン・ギルバートによる『チャーチルとユダヤ人』という本である。(Martin Gilbert, Churchill and the Jews, Simon & Schuster, London, 2007) このギルバートはチャーチル評伝の第一人者で、チャーチル研究の専門家でなくても、ちょっと教養のある一般読者なら知っている歴史家である。このユダヤ人学者が書いた本では、他の学者が触れていないチャーチルの側面が、詳しく述べられているのでたいへん有益だ。反ユダヤ主義者のいかがわしい本ではなく、高名で定評のあるユダヤ人研究家ギルバートの名著が、日本で翻訳されていないのは誠に残念である。

  マールバラ公爵の御曹司ウィンストン・チャーチルは、ユダヤ人の先祖を持たないのに、まるで身内のようにユダヤ人を庇ったり、特別扱いして友情を深める。それは父ランドルフ卿譲りだった。ユダヤ人を一般的に唾棄していた貴族社会にあって、ランドルフ・チャーチルは個別のユダヤ人と親交があったたから、当時としてはかなりの変わり者。ユダヤ人とディナーを共にするなんて、イギリス貴族なら我慢できない。不愉快きわまりないのに、ランドルフ卿は平気だった。もっとも、初代マールバラ公爵のジョン・チャーチルも、ユダヤ人と関係を持っていたのだ。司令官としてスペイン継承戦争に出陣したジョンには、ソロモン・デ・メディナ(Solomon de Medina)というユダヤ人の子分がいた。このソロモンは、親分のために物資や資金を調達し、ついでに軍事情報も仕入れてくれる便利屋であり、英国で初めて騎士の称号を得たユダヤ教徒である。しかし、重宝な小間使いだが、厄介なことも引き起こしたようだ。ジョン・チャーチルは武勲に輝く総大将なのに、ソロモンの言いがかりがもとで、袖の下を貰ったという汚名を着せられ、世間から非難されたことがある。ソロモンに軍需物資の調達を任せた見返りに、「心付け」として年に6,000ポンドもソロモンからせびって懐にしていたというのだ。嫌疑は確かなようだが、貴族のマールバラ公にしたら、それほど悪いこととは思っていなかったのかも知れない。重要なことは、昔からユダヤ人は貴族に取り入っていたということだ。

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(左: マーティン・ギルバート / ジョン・チャーチル / ランドルフ・チャーチル / 右: ネイサン・ロスチャイルド)

  父ランドルフ同様、息子のウィンストンもユダヤ人と仲が良かった。初代ロスチャイルド男爵(Baron Nathan Meyer Rothschild)の息子ナサニエル(Nathaniel Charles)は、ウィンストンと同じハロー(Harrow)校に通い、二人は遊び仲間だったという。後年、ナサニエルの息子ヴィクター(Victor)は、父の親友を気遣い、身近に付き添って警護をしていた。戦争中、彼はウィンストンに贈られる食べ物やタバコに毒が仕込まれていないかをチェックしたというのだ。ある時、ヴィクターは英国の港で爆発するようセットされた時限爆弾を、タマネギの箱の中から発見し、大惨事を防ぐという手柄を立てた。ウィンストンはこれを絶賛し、ヴィクターにジョージ十字勲章を与えるべきだ、と推薦したという。(Martin Gilbert, Churchill and the Jews,  p.2) これはいくら何でも褒めすぎだろう。この程度で勲章ものなのか? やはり、チャーチルにはユダヤ人を称賛する癖がある。

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(左: ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルド/ライオネル・ネイサン・ロスチャイルド/モウリス・デ・ヒルシュ/右: アーネスト・カッセル)

  貴族だから人脈が広いのも分かるが、チャーチルの周りにはやたらとユダヤ人が多い。彼の弟ジャックはレオポルド・ロスチャイルドの息子、ライオネル・ロスチャイルド(Lionel Rothschild)と同級生で仲が良かったらしい。ウィンストンには、ユダヤ人のヴォイス・トレーナーまでいたのだ。ドイツ生まれのフェリクス・シモン卿(Sir Felix Semon)は、演説での発音をウィンストンに教えたという。ウィンストンは彼の両親が付き合っていたユダヤ人とも交流を継承していた。オーストリア生まれのモーリス・デ・ヒルシュ男爵(Baron Maurice de Hirsch)という慈善活動家がいて、ウィンストンの両親はロンドンにある彼の邸宅に度々招かれていたという。このユダヤ人男爵には養子がいて、モーリスという名前だったが、周りからトゥティーと呼ばれていて、後にフォレスト男爵(Baron de Forest)となった。ウィンストンもトゥティーと親しくなり、学校が休みになるとパリにある彼の邸宅に遊びに行ったそうだ。こうしてウィンストンは、子供の頃からユダヤ人と付き合って成長したのである。

  1895年に政界の異端児ランドルフ卿はこの世を去った。余りにも早すぎる死であり、ウィンストンは本当の父を知る前に亡くしてしまったのだ。しかし、ランドルフのユダヤ人脈は絶えずに、ウィストンの資産となった。ロスチャイルド卿やアーネスト・カッセル(Sir Ernest Cassel)、ヒルシュ男爵は、ちょくちょくチャーチル邸を訪ね、亡き友人の息子を何かと助けたという。ユダヤ人が吸い付いていたのは何もチャーチル家だけでない。もう嫌になるくらいユダヤ人は、アングロ・サクソン社会に絡みついていたのだ。ユダヤ人は歐洲の金融界で頭角を現し、ヨーロッパ人を凌ぐ銀行家も登場したくらい、本来の才能を開花させていた。伝統的に貿易が得意なユダヤ人は、お金を貯めて出世すると、その蓄積した富で更に人脈を広げ、貴族社会に深く食い込んでいったのである。こうしてユダヤ人のビジネスマンはヨーロッパ世界に浸透しながら、哀れなユダヤ同胞のために献金したり、必要とあらば異教徒の欧米人を利用して同胞を助けていた。例えば、先ほどのヒルシュ男爵は、ロシアで苦しむユダヤ難民に1万ポンド寄附したり、ロシア政府に200万ポンド渡して、ユダヤ人に対して教育を施すよう頼んだこともあった。ロシア政府は金を受け取ったが、外人からの内政干渉は受けないと拒否。いかにもロシア人らしい図々しさである。このヒルシュ男爵はシオニストで、迫害されていたユダヤ人のために、カナダあるいはアルゼンチン、パレスチナといった何処かにユダヤ人入植地を建設しようと熱心だった。彼は200万ポンドを出して「ユダヤ殖民協会(Jewish Colonization Association)」を創設し、ユダヤ難民が安住できる土地を求めていたらしい。お金が有り余ってしょうがないヒルシュは、後に700万ポンドを追加投入したというから、相当な太っ腹である。(当時のポンドを現在の日本円に換算するのはちょっと難しいが、200万ポンドで約60億から100億円くらいの価値と見なせばいいんじゃないか。)

  若きウィストン・チャーチルを財政面で支えたのは、あの有名なアーネスト・カッセル卿であった。彼はアシュケナージのユダヤ人高利貸しを父に持ち、ケルンで生まれた帰化ユダヤ人である。1860年代、16歳で単身ブリテンに渡り、リバプールの穀物取引会社に勤務し、天賦の才を発揮したという。間もなく彼は才能を認められ、パリにあるアングロ・エジプト銀行に転勤となった。そこで偶然、カッセルはモウリス・デ・ヒルシュ男爵と出逢ったのである。まったくユダヤ人の世間は狭い。かつて笹川良一が謳っていた「人類みな兄弟」は妄想だが、「ユダヤ人は皆いとこ」は本当じゃないのか? 有名なユダヤ人が色々な場所で遭遇し、濃密な人脈を広げて行き、蜘蛛の巣よりも強靱なネットワークを築くから、よそ者は太刀打ちできない。ユダヤ人は異教徒を簡単に見棄てるが、同胞だとみんなで助け合う。普仏戦争が勃発したとき、速やかにパリを脱出できるよう、ヒルシュ男爵はカッセルにロンドンに在住するユダヤ人銀行家、ビスコフシェイム(Bischoffsheim)とゴールドシュミット(Goldschmidt)を紹介してやった。(両方とも超有名なユダヤ人大富豪である。) 突出した商才でメキメキ頭角を現すカッセルは、ビスコフシェイムとゴールドシュミットで働き出すと、一年経たずして200ポンドから5000ポンドも稼ぐようになったらしい。彼はシベリアの金鉱やアメリカの鉄道会社、スウェーデンの鉄鉱石に投資して儲けたようだ。こういう賭はユダヤ人の特技である。

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(左: エドワード7世/ウィリアム・ゴードン・カミング/クレメンタイン・チャーチル/右: エドゥイナ・アシュリーとルイス・マウントバッテン)

  ヨーロッパに住みつくユダヤ人は、お金儲けに全く才能が無い貴族に取り憑く。カッセル卿が接近した相手は、当時のプリンス・オブ・ウェイルズで後に国王となる、エドワード7世であった。このエドワードときたら典型的な困り者。アンドリュー王子みたい。これもイングランドの伝統だろうか? 女好きはしょうがないとして、太ったから好きなダンスを諦めて、ギャンブルに嵌まったからさあ大変。よせばいいのに賭場に出入りするようになった。ある時、トランビイー・クロフト(Tranby Croft)で開かれたギャンブルに王子様も誘われて、バカラ賭博に興じていたのである。ところが、ウィリアム・ゴードン・カミング卿というスコットランド護衛隊の中佐が、カード・ゲームで「いかさま」を行い、八百長騒ぎで現場は蜂の巣を突いたようだった。このトラブルを巡って裁判が開かれ、驚くことに、証人としてエドワード王子に召喚状が出たのである。これにはヴィクトリア女王もご立腹。何とかならぬものか、と側近に相談したが、妙案が浮かばすヤキモキ状態のまま。ところが、エドワード王子は気にもとめず堂々と出廷したそうだ。王族のスキャンダルは昔からあったから、エリザベス女王だけが特別に不幸というわけでもない。ともかく、こんな博打好きの王子様に取り入って、個人資産の面倒を見たのがカッセルであった。もともとエドワード王子は、ヒルシュ男爵と親しく、ヒルシュがカッセルを王子に紹介したのである。そのヒルシュが亡くなると、彼の役目をカッセルが引き継ぎ、エドワード王子が持つ個人資産のポートフォリオを管理したのだ。金融の知識など全く無い貴族に金融資産のリスクヘッジや投資先を選定するなんて無理。だから、商才に長けたユダヤ人が重宝されたのである。(日本人だって野田佳彦みたいなボンクラ財務大臣より、是銀<これぎん>さんの方がいい。是川銀蔵<これかわ・ぎんぞう>は「昭和の相場師」と呼ばれた投資の神様。)

  話をチャーチルに戻す。戦史の研究なら得意のウィンストンでも、資産運用は得意とは言えなかった。そこで、カッセルが亡きランドルフ卿の息子を財政的に支援したのである。従軍記者として南アフリカに赴こうとしていたウィンストンは、資金繰りに困っていた。すると、親切なカッセルは彼に100ポンドを手渡し、ロスチャイルド卿もその若者に150ポンド与えたという。これだけ貰えば充分だ。当時の貨幣価値からすれば、中流家庭の年収に匹敵する額だ。さらに、カッセルはウィンストンが政界に入って二年になる1902年、1万ポンドを貸してやり、それを元手にウィンストンは日本の国債を購入したのである。ウィンストンは弟のジャックに「ちょっとばかり儲けちゃった」と語ったそうだ。カッセルはその後も財政的に支援を続け、アメリカの鉄道会社の証券も購入してやったという。そこから出た利益で、ウィンストンはタイピストを雇えたというから、そこそこ儲けたのであろう。さらに、ウィンストンがクレメンタイン(Clementine)と結婚するや、結婚祝いとして500ポンドもプレゼント。(現在だと約500万ないし800万円の価値がある。) そんなカッセルが亡くなった時、チャーチルは孫娘のエドウィナ・アシュリー(Edwina Ashley)に、お爺様はみんなから信頼され、尊敬され、称えられた公正な善人だった、と語ったそうだ。(上掲書 p.5) これだけ親切にされれば、葬式で涙くらい流すだろう。(ちなみに、エドウィナはマウント・テンプル男爵の娘で、日本人がよく知るビルマ総督ルイス・マウントバッテン卿と結婚したのだ。彼女の母がカッセルの娘アメイラ。)

ユダヤ人の入国を支援

  政治家にとって何よりも重大なのは選挙に勝つことだ。議席を持つから権勢を振るえる。ところが、権力の座から滑り落ちればただの人。落選すれば周囲に集(たか)っていた人が、きれいにいなくなるから惨めだ。チャーチルは最初、貴族らしく保守党議員であった。しかし、段々と自由党の政策に賛成するようになり、ついに禁断の鞍替えをすることになる。オーダムから選出されていたチャーチルは、自由党から出馬するにあたり、マンチェスター北西部の選挙区から誘いを受けたのだ。その選挙区にはちょいとした特徴があり、有権者の3分の1がユダヤ人であった。チャーチルがユダヤ住民の招きを受けたのも、実は保守党が提出した外人規制法案(Alien Bill)を何とかしてもらいたからである。当時、ロシアに住むユダヤ人は塗炭の苦しみにあえいでいた。それだけなら我慢できるが、貧乏なユダヤ人は、ロシア人からのポグロムにも怯える日々を送っていたのだ。彼らは冷酷無惨な迫害を逃れるべく、野蛮なロシアから一路英国を目指したのである。(でも、どうして英国なんだ? トルコやアラビアに行けばいいじゃないか?) しかし、イギリス人はユダヤ人の大量流入を歓迎しない。それどころか、ユダヤ移民を規制しようとさえするのだ。民族意識の強いユダヤ人は、味方となるイギリス人議員を求めていた。そこで白羽の矢が立ったのがチャーチルというわけ。

  マンチェスター地区で、自由党候補となるチャーチルを最も支持したのは、オールド・ヘブライ協会マンチェスター支部の総裁たるネイサン・ラスキ(Nathan Laski)であった。「あれっ、もしかして」と思うかたは政治学専攻の人かも。日本の左翼学者が持て囃した社会主義者、ハロルド・ラスキ(Harold Laski)の父親である。このネイサン・ラスキは筋金入りのユダヤ人で、グレート・シナゴーグの理事長や英国ユダヤ人代表者会議のメンバーという経歴を持ち、マンチェスター・ユダヤ病院の理事長でもあった。チャーチルは保守的思想の持ち主と思われがちだが、イングランドの伝統や国益に添わない人物との交流も躊躇わなかった。例えば、マールバラ公爵の息子なのに、貴族社会を憎むロイド・ジョージと昵懇の仲だった。他の貴族連中はウェイルズからやって来た靴屋の倅(せがれ)を唾棄していた。高名な経済学者で貴族のジョン・メイナード・ケインズ卿は、ロイド・ジョージを変節漢で俗物とみなし、「ウェイルズの魔術師」扱い。古代ケルトの悪夢に取り憑かれた魔法の森の住人、とも呼んでいた。無責任なロイド・ジョージには、サクソン人の善悪から逸脱した狡猾さと権勢欲にまみれた性格がある、とまでこき下ろしていたのだ。

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(左: ハロルド・ラスキ / 中央: ジョン・メイナード・ケインズ / 右: デイヴィッド・ロイド・ジョージ)

  意外なことにチャーチルは、あの社会主義者の重鎮ビアトリスとシドニー・ウエッブ夫妻(Beatrice & Sidney Webb)とも交流があった。チャーチルは商務長官の頃、各種産業の最低賃金を決めたり、失業者が職を得られるための職安定所を設置したことがある。この時、彼はフェビアン協会のウエッブ夫妻と協力して事を進めていたのだ。非常に短期間であったが、チャーチルは社会主義者たちのお気に入りであった。(ロバート・ペイン 『チャーチル』 佐藤亮一 訳 法政大学出版局 1993年 p.117) チャーチルの知られざる一面は、それだけではない。彼が尊敬していたのはムッソリーニだったし、最初の頃はヒトラーに対して厳粛な敬意と同情心を持っていた。チャーチルはヒトラーに直接対面していないが、息子のランドルフがヒトラーの選挙運動に同行していたので、彼は息子との会話を通してヒトラーを評価していたのだ。ついでに言えば、チャーチルはヒトラーが人種を基にして、ユダヤ人を差別するとこに反対していたが、彼もインド人に対して根深い人種的偏見を持っていた。例えば、「インド人が選挙に参加できるか」という質問に対して、「彼らは余りにも無知で誰に投票したらいいのか分からないのだ」、と答えていた。続けて曰く、

  四十五万人にのぼる村で、四、五人が小屋に集まって彼らの共有する問題を議論するような、そんな簡単な組織すら作ることができない身分の卑しい原始人なのだ。(ペイン 上掲書 p.209)

  大英帝国の貴族たるチャーチルは、支配者としてインドに君臨する事を悪いと感じていなかったし、優越者の目線で被支配者のインド人を見下していたのである。卓越した文明を有する民族は、劣等民族を支配しても当然という考えを持っていた。日本人やアメリカ人は現在の価値観で、第二次大戦前のドイツ人を非難するが、あの頃はチャーチルのような白色人種優越思想を持つ者など珍しくなかった。とりわけ、チャーチルがガンジーについて語る時は、常に悪意と侮蔑に満ちていたという。ガンジーの見苦しい姿はチャーチルを不愉快にさせ、その赤裸な格好はチャーチルに嫌悪感を与えたのである。しかも、インド独立の主導者だから、チャーチルは特に警戒心を持っていた。チャーチルは演説で、「ガンジー主義を粉砕せねばならぬ」とか、「虎に猫の餌を与えて満足させようなど無駄なことだ」と述べていた。さらに、英国がインドの国民会議派に統治を譲った場合にも触れていたのだ。もし、インド人がインドを自ら統治するようになったら、英国は単なる歐洲の一国家に過ぎなくなるだろうし、白人はインド人のお情けでインド滞在を許される事態になってしまう、とチャーチルは憂慮。次ぎに彼は、インド人が債務の履行を拒否した場合にも言及する。この債務不履行がもし起きれば、ドイツから提供されるであろう白人の外人部隊が、ヒンドゥー教徒の軍事的優位を確保するために雇われるだろう、とまで述べていた。我々なら呆れてしまうが、チャーチルはこんな突拍子もないことまで懸念していたのだ。(上掲書 p.210) 凄まじいくらいインド人への侮蔑に満ちている。こんな帝国主義者のチャーチルが、ヒトラーのユダヤ人差別を非難していたのだ。ナチ・ドイツの世界征服を警告していたチャーチルだが、既に英国が世界各地を征服していたことをチャーチルは理解していたのだろうか?

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(左: シドニー・ウエッブ / 中央: ベアトリス・ウェッブ / 右: ガンジー)

  随分脱線してしまった。話をネイサン・ラスキに戻す。外国で苦しむ同胞を助けようと、ラスキはチャーチルに政府の外人規制法案(Alien Bill)を、議会で阻止してもらうよう働きかけた。ラスキは外人規制法を何とか廃案に持って行きたかったから、チャーチルが議会で奮闘できるよう、移民についての統計を含めた資料を渡したのである。つくづく思うが、こういう綿密な妨害作戦にかけてはユダヤ人の右に出る民族はいない。アメリカで有罪を無罪に変えてしまう、やり手のユダヤ人弁護士をよく見かけるが、漠然とだが納得できてしまう。ラスキから渡された資料を参考にし、ブリテンにおける外人のパーセンテージは総人口の1パーセントにも満たず、取るに足らぬ数であるとチャーチルは主張した。入国してくる外人だって年に約7千人ほどに過ぎない。ブリテンに比べたら、ドイツにおける外人の比率は2倍で、フランスだと4倍にもなるんだから、ビクビクすんなという主張である。つまり、チャーチルは難民に対して昔から寛容な態度を有する英国が、これくらいの移民で騒いじゃいけないよ、と言いたいわけだ。

  外人規制法を潰そうとするチャーチルの執念はすさまじかった。まず、チャーチルは批判の矛先を内務大臣アレタス・エイカーズ・ダグラス(Aretas Akers-Douglas)に向けたのだ。入国管理官や警察官は、事実に基づく行動とそれを報告するのが本来の任務であり、入国者の人格や信頼性を検査するのは越権行為であると述べ、それを許している内務大臣を批判したのである。(ギルバート p.8) 実際のところ、チャーチルは内務大臣の反ユダヤ主義を恐れていたのである。それでも、チャーチルは批判の手を緩めない。政府が外人規制法案を通したいのは、ユダヤ人が入ってくることで、競争相手が増えるのを嫌う商人を配慮してのことだろうと指摘した。そして、保守党は投票権の無い外国人をイジメることで、地元で見守る有権者の歓心を買おうと躍起なのではないか、と言い放った。レトリックが上手いチャーチルは、ブリテン国民の自慢をくすぐることにした。ブリテンの労働者は圧政に苦しむ外国人に冷たいはずはない、と世論をおだてる。そして、哀れな外国人を温かく向かい入れないのは、古来から自由の伝統と歓待を誇るブリテンの名誉を汚すものではないのか、と訴えた。でも、それはフランス人とかオランダ人のプロテスタント信徒であって、宗教を異にする醜い容姿の中東アジア人ではない。

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(上写真/イギリス人になってしまいそうなユダヤ人男性のサンプル)

  1904年6月8日、チャーチルは自由党の議席から最初の演説を行い、充分な議論もせずに外人規制法案を押し通そうとする政府を批判した。士族院(House of Commons)で色々と議論が交わされたが、その法案は小委員会に附された。(「ハウス・オブ・コモンズ」とはコミュニティーの代表者が集まる議場で、代議士は主に騎士階級の準貴族で、庶民が選ばれることはまずなかった。「庶民院」なんてというのは意図的な誤訳。) ところが、チャーチルはその委員会のメンバーなのだ。腕をまくって本領発揮。一方、ユダヤ人移民に反対の勢力は、世論の反ユダヤ感情に訴えかけた。例えば、「ザ・サン」紙はチャーチルが法案に反対するのはロスチャイルド卿の“勅命”を受けているからだ、と批判した。この他にも、チャーチルが裕福なユダヤ人のポケットに入っているからだとか、ユダヤ人から銭を貰っているからだろう、という野次まであった。しかし、チャーチルはそんな誹謗中傷なんか気にしない。法案潰しに集中したチャーチルの気迫は衰えなかった。

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(上写真 /イギリス人になりそうな ユダヤ人女性のサンプル)

  外人規制法案を廃案に持ち込みたいチャーチルは執拗に食い下がった。その法案は11項目から成り、合計240行になる。法案反対議員はその条項一つ一つを事細かく吟味した。検討委員会のメンバーで、ユダヤ移民に反対のウィリアム・エヴァンス・ゴードンは、チャーチルが代理を務める集団から受けた指示に忠実なようだ、と皮肉を込めて評したという。この批評に対してチャーチルはたいそう腹を立てたらしい。彼は自らの理念で反対していたので、支持者の命令で動いていたわけではなかったからだ。固い信念を持つチャーチルは、同僚の自由党議員と共に、法案の内容を一語一語検討する、という作戦に出た。七日目の委員会では、一つの条項にある、たった3行について全議論を費やしたのだ。こんな調子だと、あとに残る10項目233行にどれだけの時間が費やされることか。審議継続に頭を悩ませた政府は、ついに法案を諦めたのである。(p.10) 粘り強い努力を重ねたチャーチルは、ついに勝利をもぎ取った。ブリテンに入国したいユダヤ人を阻止する法案は葬り去られたのである。こうして防御壁が低くなったことで、ユダヤ人がブリテンに流入し、やがて戦争でチャーチルを支援するユダヤ人が現れてくるのだ。

Aretas Akers Douglas 1William Evans Gordon 1Herbert Gladstone 1Henry Campbell Bannerman 1








(左: アレタス・エイカーズ・ダグラス / ウィリアム・エヴァンス・ゴードン / ハーバート・グラッドストーン / 右: ヘンリー・キャンベル・バナーマン)

  保守党の法案を廃案に持ち込無事には成功したチャーチルだが、今度は自由党版の外人規制法案に直面することとなる。チャーチルの努力も空しく、この法案は1906年に議会を通過してしまった。これは保守党による法案を修正したものだが、本質的に移民に制限を加える法律だった。チャーチルは内務大臣のハーバート・グラッドストーン(Herbert Gladstone)に、この法案はユダヤ人コミュニティーをいたく失望させるものであり、自由党がこの愚かな制定法を撤去されんことを願う、という抗議文を送ったそうだ。またもや、チャーチルはユダヤ社会の代理人となって、法案を攻撃したのである。この法案は一等あるいは二等船室に乗ってやってくる、詐欺師や放浪者、ならず者、盗人が入国するのを防がないのに、貧しいが正直な者だと入国禁止となる。この正直な移民は単に充分な資産が無いという理由だけで、望ましくない者と見なされ、希望の国イングランドから再び圧政の国ロシアへと送り返されてしまう。これはグロテスクな法律である、とチャーチルは憤慨した。一等船室のキップをねだったり、借りたり、あるいは盗んだりする外国人だと、入国歓迎となる。ところが、お金を節約し、三等客室でやって来る者は拒絶されるのだ。チャーチルは怒りを込めて、この法案は役立たずで、腹立たしいと非難した。(p.16)

  チャーチルはまた、外国人規制法案で提示されている帰化料金が高い、と言ってヘンリー・キャンベル・バナーマン(Sir Henry Campbell-Bannerman)首相に抗議していた。経済的余裕が無い移民にとって大変な負担になるし、払えない移民も出てくるだろう。チャーチルは熱心に活動したが、その努力は実らなかったようだ。そもそも、ユダヤ移民に関心がある議員は少なく、ユダヤ支持者のチャーチルは自由党内部でも少数派だった。しかし、これだけユダヤ人に尽くしたのだから、チャーチルがユダヤ人による色々な支援を受けるのも当然だろう。チャーチルが偉大な宰相と絶賛される背景には、彼が長年に亘ってユダヤ人を助けたという経歴があったのだ。ユダヤ人を味方につけると、様々なメリットが生まれてくるという教訓である。


チャーチルが持っていたユダヤ人脈

  イングランド貴族にはユダヤ人が多い。これはイギリス人が如何に気取っていようが、所詮お金の亡者という証拠である。金銭をちらつかせれば、イングランド国王は羞じらいもなくユダヤ人を貴族にしてしまう。ブリテン島がユダヤ人の根城になっている所以である。貴族とは高貴な血筋の者や武勲をたてた騎士がなるものなのに、世間から蔑まれるユダヤ人が堂々と爵位を受けているのだ。イギリス人は人種意識が高いのに、ユダヤ人となれば、その意識が薄れてしまうから、現在の惨状を招いたのである。チャーチルの父ランドルフがアメリカのジェローム家からジェニーを迎える時、チャーチルの親戚は良い顔をしなかったという。それでも娘サラが選んだ婿よりは遙かにマシだった。サラの婚約者は事もあろうにユダヤ人。当時、38歳の喜劇役者ヴィクター・オリヴァー・フォン・サメック(Victor Oliver von Samek)は、二回の離婚歴を持つオーストリア生まれのユダヤ人である。父ウィンストンの顔が曇った。こんな過去を持つ俳優に、22歳の愛娘を嫁がせることは気が進まない。それに、こんな女たらしの藝人だと、何か隠しているじゃないかと心配するのは、親として当然だろう。

  二人の結婚に反対だったチャーチルは、在ニューヨークの弁護士ルイス・レヴィー(Louis Levy)にヴィクターの二番目の離婚について調査するよう依頼した。チャーチルは既に最初の結婚について調べ上げていたので、二度の婚姻の他に別の結婚歴が無いかどうか知りたかったのである。レヴィーの調査で、ヴィクターに対する嫌疑は晴れ、チャーチルは娘の結婚にしぶしぶ同意したという。それでも家族の一員になったから、ヴィクターの面倒を見てやらねばならない。チャーチルは義理の息子が英国に帰化できるよう取り計らった。そこで、ユダヤ人の婿がスムーズにブリテン国籍を取れるよう、彼が国務大臣の時に部下であったアレクサンダー・マクスウェル卿(Sir Alexander Maxwell)に手紙を送ったらしい。ところが、サラとヴィクターの仲は永遠とは行かず、1945年に離婚する羽目となり、サラ・チャーチルはその後二回も結婚することになる。まあ、これはこれで良かったんじゃないか。チャーチルは娘婿のヴィクターが嫌いで、一度も反りが合わなかったのだから。

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(左: ヴィクター・オリヴァー / 中央: チラ・チャーチル / 右: アレクサンダー・マクスウェル)

  ユダヤ人の婿とは上手く行かなかったが、他のユダヤ人とは仲良しになれた。チャーチルがシオニズムの理解者になった原因の一つに、有名なシオニストのハイム・ワイズマン博士(Dr. Chaim Wisemann)との邂逅(かいこう)がある。ワスイズマンはロシア生まれのユダヤ人で、ジュネーヴからやって来た化学者なのだが、パレスチナにユダヤ人国家を建設したいと切望する猛烈なシオニストでもあった。当時、シオニストには二つの派閥があって、その一つは、ユダヤ人の国家はイェルサレムのあるシオンの地、つまりパレスチナに建設すべし、と主張する人々である。その筆頭が、イスラエルの理念的父祖テオドール・ヘルツェル(Theodor Herzl)であった。しかし、この建設には、パレスチナを領土とするオスマン・トルコが邪魔になり、実行が難しいという欠点があった。もう一つは、英国が有する植民地の何処かにユダヤ人国家を作ろう、と提案する者たちである。この派閥には「領土優先主義者(Territorialists)」というグループがあって、イングランドにもそうした組織があった。この集団に賛成だったのが、英国在住のユダヤ人劇作家、イスラエル・ザングウィル(Israel Zangwill)で、「メルティング・ポット(人種のるつぼ)」という言葉は、人気を博した彼の劇から由来する。領土優先主義者は南米かアフリカにユダヤ人入植地を模索していたらしい。例えば、英国が領有するケニアの一部に、ユダヤ人殖民地を作ろうと提案していた。一方、ロスチャイルド卿やヒルシュ男爵らは、カナダかアルゼンチンに、ユダヤ人が農地を開拓する入植地を検討していたという。

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(左: ハイム・ワイズマン / アルバート・スターン / テオドール・ヘルツェル / 右: イスラエル・ザンクウィル)

  チャーチルがハイム・ワイズマンと親しくなったのは、第一次世界大戦の頃であった。ボーア人とは違ってドイツ人との戦いだから、武器弾薬が桁違いに必要となる。しかも、相手は歐洲最強の軍事大国だ。デイヴッド・ロイド・ジョージが首相なると、チャーチルは軍需大臣に任命された。この役職でも、またユダヤ人と係わることになる。戦車生産の指揮を執っていたのは、アルバート・スターン卿(Sir Albert Stern)というユダヤ人技術者で、熱心なシオニストであった。もう一人は推進燃料の調達を担当するフレデリック・ネイサン卿(Sir Frederic Nathan)であった。ワイズマンは彼のもとで働いていたのだが、実はこの7年前、チャーチルが内務大臣の時、ワイズマンの英国帰化を承認していたのである。英国海軍研究所で所長になったワイズマンは、バクテリアを使って爆薬の大量生産を行い、軍の需要に応えようとしていたのだ。英国軍はコーダイト(紐状の無煙火薬)を確保するため、アセトンを大量に生産する必要があった。そこでワイズマンはバクテリアを使ってアセトンを作ろうとし、そのために西洋栃の実(horse chestnuts)が必要であったという。日本国民と同じく、戦争となればイギリス国民は協力するものだ。学校の子供達が2万5千トンもの栃の実を集めて、軍需省に届けたという。チャーチルには、バクテリアの生産と栃の実がどう結びつくのか分からなかったが、少なくともライフルや高射砲に使われる火薬だということは理解できたらしい。とにかく、ユダヤ人は至る所で活躍していたのである。ドレスデン空爆の時に協力した、フレデリック・リンデマン(Adolphus Frederick Lindemann)教授もそうだが、チャーチルの周りにはユダヤ人が実に多かった。

Frederck Nathan , SirFrederick Lindemann 3Horse Chestnuts







(左: フレデリック・ネイサン / 中央: フレデリック・リンデマン / 右: 西洋栃の実)

  チャーチルがジャーナリストに持て囃されたのは、ユダヤ人を贔屓したからだが、ユダヤ・メディアと深く結びついていたことも理由の一つである。マスメディアはユダヤ人の牙城である。ユダヤ人は各国に住みついているので、ユダヤ・コネクションは殊のほか強靱で、国際社会では絶大な力を持っている。そうした一人に、イミル・レヴェス(Imre Revesz)、後に「エメリー・レヴェス(Emery Reves)」と呼ばれるハンガリー系ユダヤ人がいた。彼は 1930年代にベルリンで出版会社を設立し、ヨーロッパの政治家が書いた記事を取り扱う仕事をしていたという。しかし、ヒトラーの台頭でドイツにいられなくなり、バリに本拠地を移す羽目になった。そこで、彼は国際的メディア網を形成して、反ナチス知識人を数多く起用したという。そんな中、1937年にレヴェスはチャーチルと初めて会うことになる。その四日後に、レヴェスはチャーチルが反ナチスの急先鋒であることに目をつけ、彼が書く記事を一手に引き受けたかったので、チャーチルと独占契約を結んだのである。レヴェスはチャーチルの記事を歐洲各国で掲載するため、様々なヨーロッパの言語に翻訳し、ブリテン連邦や北米にも流したという。

Emery Reves 2(左/エメリー・レヴェス)
    ユダヤ人贔屓の政治家で、英国貴族の有名人が書く反ナチス記事だから、ユダヤ人出版者にとっては貴重な攻撃手段である。レヴェスは気前よく、チャーチルに60パーセントの印税を払い、記事一本につき最低25ポンド支払うという保障も加えたのだ。チャーチルの記事は2週間ごとに、ヨーロッパの主要都市24カ所で掲載されたという。その中には、パリ、コペンハーゲン、ストックフォルム、フリュッセル、オスロ、ヘルシンキ、プラハ、ウィーン、ワルシャワ、アテネ、ブタペストなどが含まれていた。(p.139) ユダヤ人が書くナチ・ドイツ批判は、ヨーロッパ人から身内を庇う記事と見なされてしまうが、イギリス貴族、しかもマールバラ公爵の嫡男が書く記事には千鈞の重みがある。人間の心理を巧みに操るユダヤ人は、同胞の利益を謀る場合、自らのユダヤ人顔を世間に晒すことはしない。それよりも、見栄えのいい別人種を代弁者に仕立てるのだ。いわば腹話術師の人形みたいなものである。実は腹話術師が口を動かさずに喋っているだけなのに、観客はあたかもダミーが話していると錯覚するのだ。ユダヤ人が表に出て喋ると世間は不快感を催すから、彼らは裏で黒子(くろこ)に徹する。政敵を倒すためなら、便利な西歐人に銭は惜しまない。

  パレスチナを巡るシオニストとチャーチルの関係を述べると長くなるから、興味のある方はギルバート氏の本を手に取るようお勧めする。日本人の学者でチャーチルを称賛したり、評伝を書く者はいたが、ユダヤ人との交際に絞って論じた学者はいないんじゃないか? 欧米にはユダヤ人がかなり浸透しているが、そのユダヤ世界の奥地に分け入って、丹念に研究する大学教授とは誰なのか? もちろん、哀れなユダヤ人に同情して、ホロコーストやパレスチナ紛争などを勉強する学者はいるだろう。しかし、ユダヤ人の本質を見抜いて、辛辣に批判する学者はほとんどいないのだ。無名の学者ならいそうだが、保守派雑誌や民放テレビに出てくる学者では皆無だろう。日本人は欧米社会の政治や歴史を熱心に勉強しているが、ユダヤ人研究では手抜きが多い。特に西歐史の勉強でユダヤ人を考慮しないと、生々しい歴史が分からなくなる。やはり、教科書に記される綺麗な歴史ではない、ドロドロとした裏面史を学ばないと、本当の理解はできないだろう。歴史の勉強は別の角度から見ることも大切なのだ。



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