図々しい居候
人にそれぞれ性質があるように、国家にも独自の体質がある。アメリカ合衆国が人為的国家なら、我が日本は自然と神話の産物だ。アメリカ人が自国を天主(God)に祝福された共和国と考え、日本人を得体の知れない(enigmatic)民族と思おうが彼らの勝手。我々からすれば、アメリカのキリスト教徒は可哀想だ。彼らが信じる救世主イエズスは、大昔に昇天したまま戻ってこない。幽霊さえいない寂しい国家だ。一方、日本人は神様の子孫たる天皇陛下をいつでも拝謁できるし、お言葉だって毎年拝聴できる。キリスト教ではモーゼやアブラハム、預言者といった特別な人物しか、創造主の言葉を聞いたことがないのだ。こうした違いがあっても、両国民はお互いの文化を尊重するし、イチャモンをつけようとしない。ところが、西歐人を羨むユダヤ人は、西欧文化がお気に召さない。街で見かけた美女を附け狙うストーカーと同じ心理をもつ。「俺が好きなのに、あの女は俺に振り向きもしない」と腹を立てるのだ。変態精神に凝り固まったユダヤ人は、自分がブサイクなのを棚に上げて、「アメリカ人女の心は曲がってる。よし、俺様がその根性を叩き直してやろう」と考える。そこで早速、藝能界を支配するユダヤ人は、アメリカ人の精神改造に取りかかり、汚れた西欧的脳味噌を娯楽映像で洗濯しようとすのだ。
アメリカ合衆国は入植地のイギリス人が、叛乱を起こして建設した国家である。彼らがイギリス文化を継承しながら、独自の文化を築くのは彼らの自由である。白色人種のイギリス人が、アメリカ大陸で白人のパラダイスを理想としたっていいじゃないか。肌色人種の日本人は、南アフリカ共和国が兇暴な黒人の天下になっても気にしない。アフリカは黒人の居住地だからだ。我々はイラクがシーア派の国家になろうが邪魔をしないし、イランが世俗国家に転換したって騒がない。日本の庶民には常識があるので、他国のお家事情に干渉しない。隣の家がキュウリの漬け物を作るのを見て、白菜にしろと注文をつけないだろう。姑が嫁の味噌汁を気に入らなければ、自分で別の味噌汁を作ればいい。しかし、ユダヤ人は西歐白人の国家に泊めてもらった異邦人なのに、いつの間にか居候(いそうろう)の身分を忘れて、主人の生活態度を批判するようになった。世話になった旦那の財布を握ったり、主人の女房に指図する。調子に乗ったユダヤ人は、子供の躾けにまで干渉し出す。もし、こんな居候がいたら、即刻家から叩き出されるだろう。だが、現在のアメリカでは逆転現象が起こっている。
アメリカに住むユダヤ人にとって一番脅威なのは、白人至上主義者の存在である。人種意識の高い白人は、本能的に異質な民族を嫌う。特に田舎のアメリカ白人は、理屈で丸め込むことが出来ない。そこで、ユダヤ人は都会の気取った白人から洗脳しようと考える。凡庸なアメリカ人は文字ばかりの本を薦めても直ぐ飽きてしまうので、動く絵本すなわち映画で説明しないと分からない。あるコメディアンが披露したジョークがある。「ジョージ・W・ブッシュ大統領は、寝る前に読書するそうです。たたし、絵本ですがね」と馬鹿にし、観客は大笑いしていた。ハーバード大学の経営学修士号を持ってるげと、ブッシュ大統領はインテリ臭くなかったからだ。ユダヤ人はアメリカ白人から仲間として認めてもらえなかったから、彼らの西歐文化やキリスト教を憎むし、自らの肉体的特徴を讃美する西欧系アメリカ人をやっつけたいと思う。よく知られているのは、フランクフルト学派のユダヤ知識人で、難解な学術用語を使って初心(うぶ)なアメリカ人を騙していた。日本の新左翼が大好きだったヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse)やマックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer)、ジェルジ・ルカーチ(Gyorgy Lukacs)、セオドア・アドルノ(Theodor Adorno)を思い出せば分かる。丸山真男なんかを尊敬していた左翼なら懐かしい名前だろう。このユダヤ人どもは、「理性」とか「客観性」などの言葉をちりばめた「啓蒙思想」を口にしながら、西歐人の行動様式や思考形態を“批判”していた。
(左: ヘルベルト・マルクーゼ / マックス・ホルクハイマー/ジェルジ・ルカーチ / 右: セオドア・アドルノ)
一般人は彼らの文章が難解で、まどろっこしいから何を言わんとしているのか理解できない。簡単に言えばこうだ。例えば、男性と交際するのも恋文を交換したり、手を握っただけで頬を赤く染めるような、若い娘は「抑圧された社会」で育っているからおかしい。もっと淫乱でいい、とフランクフルト学派は言いたいのだ。また、厳格な父親をもつ家庭は抑圧的で、子供の自主性を押さえ込んでいるから、もっと自由を与えろ、と勧める。しかし、父親の権威をなくして育った子供は、単なる我が儘のガキんちょで、放埒なだけだ。しかし、悖徳のユダヤ人左翼にとっては、礼儀作法の正しい士族の子や名家の貞淑な娘というのは、「伝統」や「家訓」といった拘束衣に縛られた隷属民に過ぎない。権威者の長老や父親の桎梏から、若者を解放してあげるのが、正義と自由をもたらす“立派”で“先進的”なユダヤ知識人というわけ。倫理的に卓越し、高尚な精神を持つユダヤ知識人は、奇妙な因習と息苦しい家庭から、無知蒙昧なアメリカ白人どもを解放してやるんだ、と意気込んでいたのだ。アメリカ人なら、「あのユダヤ坊主どもは何言ってやがんだ ? 」と怪訝に思うだろう。フランクフルト学派のユダヤ人が南部の白人の前にしゃしゃり出れば、「俺たちより優れたユダヤ人だって ? お前が俺たちに説教するだと ? ふざけんな ! 」と襟首を掴まれて睨まれる違いない。しかし、腕力勝負を避けるユダヤ人は「男らしい」決闘を好まない。文化ホールや大学の講堂に都会人を招いて、いかにも上品そうに振る舞い、気取った口調で講義を垂れる。しかし、学術用語が分からない馬鹿な大衆には、映画を使ってアメリカ白人が如何に偏屈な人種であるかを教えてあげるのだ。ここでは、ユダヤ人が作った反人種主義の映画の中で、筆者が印象に残った作品を紹介したい。
大したことのないKKK(クー・クラックス・クラン)
1988年に公開された『背信の日々(Betrayed)』は、トム・ベレンジャー(Tom Berenger)とデブラ・ウィンガー(Debra Winger)という有名俳優が共演していた。安心できるスターを揃えた制作者たちは、さぞかし「ヒットするのでは」と期待したことだろう。ところが、蓋を開けてみると、興行的にはあまり成功した映画ではなかった。興行成績はともかく、この作品は、いかにもハリウッドのユダヤ人が作りそうな、白人を懲らしめるためのプロパガンダ映画である。ちなみに、主人公のデブラ・ウィンガーは、正統派ユダヤ教徒の両親を持つユダヤ人で、10代の頃イスラエルのキブツ(kibbutz)に参加したことがあった。このキブツとは、イスラエルに入植したユダヤ人のある一派が始めた、集団主義に基づく自治的共同体である。理想的な共産主義的農村と言った方が分かりやすいかも知れないが、要は平等な者が集まって農作業したり、共同生活をしながらユダヤ的絆を深める運動である。1970年代くらいまで人気があったが、1980年代になると次第に縮小していったらしい。外国に住むユダヤ人の若者が魅了され、キブツに集まったという。例えば、米国からは後に人気コメディアンになるジェリー・サインフェルド(Jerry Seinfeld)や俳優のサーシャ・バロン・コーエン(Sacha Baron Cohen)といったユダヤ人が参加していたし、非ユダヤ人では映画『エイリアン』で有名になった女優のシガニー・ウィバー(Sigourney Weaver)やデュランデュランのヴォーカル、サイモン・ル・ボン(Simon Le Bon)が訪れていた。1970年代は新左翼の全盛期だったから、非ユダヤ人の西歐人でも、ちょいっと左翼かぶれな若者はキブツに興味があたったらしい。
物語は、シカゴで活躍するトーク・ラジオの司会者が、白人至上主義者によって射殺されることから始まる。暗殺された被害者は、都会に住む典型的なリベラル派のユダヤ人。保守的な田舎の白人から憎まれても不思議ではないくらいの左翼的人物だ。「ゲイやレズビアンも対等な人間だ」と主張する、いわゆる「人権派」のリベラル文化人。彼を嫌う白人たちは、「シカゴ」を「病んだ(シック/Sick)街」に引っ掛けて、「シック・カゴ」と発音する。このシーンは実際に起きた殺人事件を基に作られていた。1984年、コロラド州デンヴァーでラジオ・トーク・ショーの司会を務めるアラン・バーグ(Alan Berg)が射殺される事件が起きている。犯人は「騎士団(The Order)」という白人組織に属するデイヴィッド・レインを始めとするネオ・ナチ4人組であった。セミ・オート・マシンガンのマック10が、実際の殺人に使われたので、映画でも同型の銃が小道具として用いられている。射殺されたバーグ氏はユダヤ人であった。
シカゴで起きた殺人事件を調べるため、FBIエージェントのキャサリン・ウィーヴァー(デブラ・ウィンガー)は、ケイティー・フィリップスという偽名を用いて潜入捜査に取りかかった。彼女はネブラスカ州の片田舎で農業を営むゲイリー・シモンズ(トム・ベレンジャー)という白人男性に好意を持たれる。ゲイリーは息子ジョーイと娘レイチェルを持つ父親だが、交通事故で妻に先立たれ、母親と一緒に暮らしているという設定。ゲイリーはケイティーに惚れて、二人は親密になる。しばらくして、ケイティーは田舎町で開催される独立記念日のお祭りに招かれた。子供用にちょっとした遊園地を提供するイベントは、いかにも中西部の古き良きアメリカを象徴する祭りである。地域に住む家族がそれぞれ集まって祝う記念日は、ほのぼのとして気分が良い。ケイティーはゲイリーの家族に温かく歓迎された。特に母親を亡くして寂しがるレイチェルからは、母親のように慕われる。ゲイリーの母が子供達の面倒を見ていたが、やはり年増のおばあちゃんより、若いケイティーの方が魅力的。彼女も子供達を可愛がり、潜入捜査を忘れるほどゲイリーに惹かれ始めた。ただし、町のみんなにすんなりと受け入れられたわけではない。ゲイリーの仲間の一人ウェスは用心深く、ケテイーがイナゴ(grasshopper/政府の犬)じゃないか、と疑っていたのだ。
ケイティーに惚れたゲイリーは、彼女とベッドを共にすると、ある夜、特別な狩りに連れ出した。ゲイリーの白人仲間が集う場所には、黒人青年が連行されてきたのだ。猟犬とライフルを抱えた白人どもが、10発しか弾の入っていない銃を黒人に渡して解放する。彼らはその黒人を追跡してハンティングを楽しむのだ。この人間狩りで哀れな黒人は射殺され、何も出来なかったケイティーは罪悪感に苛まれる。映画の主題が、白人至上主義者の典型的な残虐性と、黒人に対する底知れぬ憎しみにあることは明白だ。観客は、集団リンチを行う冷酷な白人に嘔吐を催すが、一般の白人を適当に殺しまくる現実の黒人とは対比しない。今だって黒人による「ノック・アウト・ゲーム」があるじゃないか。無防備の通行人をいきなり殴りつけて、転倒させることで喜ぶ黒人がいるのだ。中には頭を道路に打ちつけて死亡する被害者もいる。FBIの本部に戻ったケイティーは、上司で元恋人のマイク・カーンズに殺人を報告するが、更なる情報収集のためにゲイリーの元に戻るよう説得される。彼は躊躇う部下にゲイリーの正体を教える。ゲイリーの妻は交通事故ではなく、意図的に殺されたことを、カーンズはケイティーに告げたのだ。恐ろしい夫の元から逃げ出した妻は、夫の仲間に見つかって轢き殺されたのである。この場面では、「またか」とうんざりしてしまうプロットがある。捜査チームにアル・サンダース(アルバート・ホール)という黒人捜査官が加わっているのだ。ハリウッドの定番だから仕方ないのだが、黒人俳優は警察官役がとても多い。理想的な法秩序の番人は黒人なのだ。ハリウッドには、FBIのエリート・チームに必ず黒人を入れるという規則があるのかも。高度な知識と能力を備える黒人は少なく、本来FBIやCIAに黒人は多くない。実際、有色人種優遇制(affirmative action)という逆差別制度がないと黒人が要職に就けないのだ。
ゲイリーのもとに帰ったケイティーは、白人至上主義者らの陰謀を探ろうとする。親密になった彼女に隠し事をしたくないゲイリーは、徐々に秘密を打ち明けるようになった。彼は全米に蔓延る白人の秘密組織に属していたのだ。しかし、ケイティーにはまだその全貌が掴めない。ここで興味深いのは、ケイティーと心を通わせる子供達を見る観客が、知らず知らずのうちに再教育されている点だ。この作品は根深い人種偏見を持つアメリカ白人を更生させる目的をもつ。ゲイリーの娘レイチェルと息子のジョーイは、寝室に来てくれたケティーに向かって、平然と黒ん坊とユダヤ人に対する侮蔑語を口にするのだ。父親から教わった黒人とユダヤ人への偏見を、当然の如く喋る子供に観客は衝撃を受ける。普通のアメリカ人なら、純粋で無邪気な子供に憎悪と敵意を植え付ける父親に拒絶反応を示すだろう。親に従順で可愛らしい子供が口にするから余計衝撃的なのだ。これがシカゴでよく見かける黒人少年なら、観客は「さもありなん」と納得して驚かない。筆者にも経験があるが、黒人家庭の子供は躾が悪く、下品な言葉を自然と発するから参ってしまう。周りの大人が低能で、語彙が少なく、「品格」という概念も無いから、子供の前で卑猥な言葉を平気で口にする。近所の子供だって似たり寄ったりだから、物心がつく頃には小さなギャングなってしまうのだ。
映画は白人至上主義者のKKKが好む排他的キャンプを映し出す。ゲイリーは子供とケティーを連れて、モンタナ州にあるネオ・ナチのキャンプ場へと向かった。そこにはゲイリーの友人や武器を持ったミリシア(武装民間人)がうようよ居るのだ。キャンプ場ではKKKの集会が開かれており、炎がともされた巨大な十字架を前にして、賛美歌を合唱する人々がいる。また別の所では、軍服を着た大人が子供達にライフル射撃の訓練を施していて、ゲイリーの娘レイチェルも民兵から撃ち方を習う。こうした異様なキャンプにジャック・カーペンターという下院に出馬予定の政治家が現れた。彼にはゲイリーの古い友人であるフリンが補佐官として附いていたが、ゲイリーにはカーペンターが票を貰うため、みんなに媚びる偽善者と見えてしまい気に入らない。ユダヤ人の脚本家や監督は、アメリカの南部や片田舎で政治家になろうとす白人至上主義者を憎んでいる。だから、黒人を始めとするマイノリティーを排斥しようとする白人勢力を、一般人が恐れて近づきたくない暴力的右翼として描くのだ。映画の冒頭で、武装した白人至上主義者が、クルマを降りようとしたユダヤ人DJを殺したとき、スプレーでクルマの車体にZOGと落書きをするシーンがあった。これは「シオニスト<ユダヤ人>に支配された政府(Zionist Occupied Government)」の略だ。ユダヤ人演出家は、「合衆国政府がユダヤ人に支配されている、と妄想を抱く白人のクズどもは、こんな奴らですよ」と暗に言いたいのである。でも、現実を見るとKKKの戯言(たわごと)が本当になっているからすごい。兇暴な白人レイシストは、古代イスラエルの預言者と同じだった。(例えば、旧約聖書のエレミヤ書44章を読んでね。) 真実を告げる預言者は、ユダヤの民衆から投石を喰らう末路になる。
白人至上主義者は大義に燃えるがお金が無い。ユダヤ人のように国際金融を操って大金を儲けたり、政治献金を行って更なる権力を手にする、といったことが出来ないのだ。せいぜい、小麦を栽培するか、牛を育てる程度。心血注いで競走馬を育てたって、競馬場の胴元がユダヤ人だったりする。貧乏農夫でしかないゲイリーの仲間たちは、全国的テロを行う資金調達のため、地方銀行を襲うことにした。現金強奪は成功したのだが、強盗団の一人、あのケイティーを疑っていたウェスが、逃走中に警備員に撃たれて死んでしまった。予想外の悲劇にショックをうける強盗団。しかし、その射殺は予め用意されていたシナリオだった。銀行の警備員に扮した黒人捜査員サンダースが、ウェスに狙いをつけて撃ったのである。覆面捜査員のケティーを疑うウェスは、作戦継続に邪魔なので始末したというわけ。ユダヤ人の映画では度々、社会の擁護者たる黒人が下劣な白人犯罪者を射殺するシーンが見られる。現実の世界では、国民の安全を守っている白人警官が、チンピラの黒人や有色人種の兇悪犯を射殺しているのに、ユダヤ人はフィクション映画の中でその立場を逆転させ、黒人が正義の名の下に白人を殺すという脚本にしていた。白人を憎み銭を愛するユダヤ人は、黒人観客が気分爽快になるよう計算しているのだ。
ケティーと一緒に銀行強盗を実行したゲイリーは、彼女にやがて開始される大規模テロ計画を打ち明ける。彼が床下に隠した書類には、全米各地に広がる白人至上主義者のネットワークが書かれているのだ。ケティーはゲイリーが留守の間に、その書類を持ち出し、上司のカーンズに渡してしまう。しかしその後、政治家のカーペンターに仕えているフリンが、ゲイリーにFBIの極秘資料を見せ、ケティーが潜入捜査官のキャサリン・ウィーヴァーであることを教えてしまうのだ。愕然とするゲイリー。正体がバレたとは気づかぬケティーは、普段通りゲイリーとベッドを共にするが、側で寝るゲイリーの魂は砕け散っていた。テロ決行の当日、ゲイリーはケイティーをクルマに乗せて、ある場所に連れて行く。誰も居ない工事中のビルで、ある人物をライフルで狙撃する計画だった。その標的はなんと、白人票を求めたジャク・カーペンターである。補佐官のフリンはカーペンターを抹殺して、自分が候補者になる魂胆だった。フリンは志半ばで暗殺された友人の後継者として、マスコミの脚光を浴びるという筋書きを立てたのだ。
ライフルを構えるゲイリーは最後の賭に出た。彼はケティーの正体がバレていたことを明かす。FBI捜査官と分かった以上、彼女は目の前で行われようとしている殺人を阻止せねばならない。拳銃を向けるケティーが、引き金を引くのか、それとも暗殺を見逃すのか、ゲイリーは決断を迫る。躊躇いながらも、彼女は選択を強いるゲイリーの胸に、銃弾を撃ち込んでしまった。その後、ケイティーは哀しみに満ちたゲイリーの顔が忘れられず、上司が引き留めるのを無視してFBIを去ることに。しばらく時が経ち、再びゲイリーの町に戻ったケイティーは、教会から出てくるレイチェルを見つけて抱きかかえた。しかし、教会に出席している人々の視線は鋭く冷たい。レイチェルを呼び戻す祖母の目つきは険悪だ。物語はレイチェルがケイティーに手を振って別れを告げる場面で終わる。
アメリカの過去を憎む者が制作者に
『背信の日々』はアメリカ白人が、二度と過去の白人社会に戻らぬよう、調教するためのプロパガンダ映画である。原作者はヨゼフ・エステルハス(Jozef A. Esterhs)というハンガリー系アメリカ人で、ハンガリー貴族のエステルハージ(Eszterhazy)家に連なる血筋らしい。ところが彼には話したくない事実があった。第二次世界大戦中、彼の父親は祖国ハンガリーでナチ・ドイツの協力者であったという。ヨゼフは大人になってから、父親がナチスのために反ユダヤ主義のパンフレットを書いていたことを知り、とても恥ずかしく思ったらしい。それ以来、ナチ党の手下だった父親とは絶縁関係にある。アメリカに渡ったヨゼフは映画界に入って職に就き、ジェニファー・ビールスがダンサーを演じた『フラッシュダンス』や、シャロン・ストーンの代表作『氷の微笑』を手掛けた。『氷の微笑』は、シャロンがノーパンで警察のインタヴューに応じるシーンばかりが話題になる映画だった。それでもエステルハスは、300万ドルほどの大金を手にしたんだから良かったじゃないか。とにかく重要なのは、ユダヤ人に対する罪悪感を持った脚本家が、『背信の日々』の原作を書いていたことだ。
原作者はナチスの片棒を担いだ父親を恥じていたが、監督は共産主義者の父親を持って困っていた。監督のコスタ・ガヴラス(本名/Konstantinos Gavras)は、父親がコミュニストでソ連シンパときていたから、ギリシア国内で大学に通えず、フランスに渡って勉強したという。彼がフランス経由のギリシア移民であったのは、父親の経歴に原因があったのだ。カヴラスは政治色の強い映画を撮る監督で、フランスの名優イヴ・モンタンが主演した『戒厳令』や、ジャック・レモン主演で南米の軍事クーデタを描いた『ミッシング』がよく知られている。曰く附きの原作者と監督が制作した『背信の日々』には、これまたユダヤ人の大物プロデューサーが就いていた。アーウィン・ウィンクラー(Irwin Winkler)は、あの「ロッキー」シリーズ1、2、3、4、5全てを手掛けた人物で、その他にもダスティン・ホフマン主演の『アウトブレイク』やロバート・デ・ニーロの傑作『レイジング・ブル』で有名だ。こんなユダヤ人の大御所が、白人至上主義者を題材とした映画をプロデュースするんだから、観る前からどんな作品なのか容易に想像がつく。ユダヤ人が支配する社会の実態や、イスラエル・ロビーに膝を屈する政治家に触れるわけがない。だいたい、財力の乏しい白人を巨悪のように描く一方で、世界的規模のパワー・ゲームを行う大富豪のユダヤ人は無視、なんておかしいだろう。お金が無いから、女房が縫ってくれた白頭巾を着て、寂(さび)れた田舎の森で騒ぐしか能のないKKKが、一体どれほど怖いのか?
映画の配役じたいがそもそも意図的だ。感情に流されず、職務に忠実なFBIの潜入捜査官はユダヤ人女優で、冷静沈着な同僚が黒人俳優である。知的で正義感に燃えた捜査官には、マイノリティーがなるという不文律があるのだろう。ところが、KKKの主人公は映画『プラトーン』で有名になったトム・ベレンジャーときている。ユダヤ人監督であるオリヴァー・ストーンのヒット作では、ベレンジャーはベトナム人を残酷に殺しても平気な鬼軍曹という役柄であった。本質的に文弱のユダヤ人は、武力で片をつけようとする白人男性が嫌いだ。一方、西欧系白人は、本能的にセム人種を敵視する。ユダヤ人からすれば、ベレンジャーみたいな白人は、娘に近づこうとするユダヤ人を有無を言わさず拒絶する父親のように見える。ベレンジャーは南部や中西部によくいる典型的な白人が似合う。ベレンジャーの容姿は、よそ者が寄りつかない南部の酒場で、事情を知らないユダヤ人や黒人が入ってきた時、もの凄い形相で睨み付ける白人を思わせるのだ。日本の映画ファンには、トム・ベレンジャーは『山猫は眠らない(Sniper)』で優秀なスナイパー、トマス・ベケットを演じた俳優として人気がある。ベレンジャーには、孤独だが愛国心に溢れた海兵隊の狙撃手がよく似合う。何はともあれ、ユダヤ人が描く南部人とは、考えが狭く偏見に満ちた田舎者とか、学歴が低いことを何とも思わないのに、銃器となるや異様な関心を示す荒くれ者といった人物が一般的。一方、ユダヤ人は寛容な心を持ち教養豊かな都会人とか、洗練されたマナーと人道主義に溢れた精神を持つ陽気な紳士、となる。絶対に、強欲で臆病な投資家とか、陰険で下品な左翼とは描かれない。
白人中心のアメリカは許さないユダヤ人
ユダヤ人は『背信の日々』といった映画で大衆を教育しながら、現実の社会に現れる白人政治家を吊し上げる。ユダヤ人が所有し運営するテレビ局では、彼らが雇うキャスターと御用学者で番組が制作され、どんな地位にある者でも、白人社会を掲げる政治家だと、恐ろしい仕置きに掛けられてしまう。ユダヤ人有権者には民衆党支持者が多いが、贔屓政党の議員であろうと容赦はしない。天寿を全うして亡くなったロバート・バード(Robert Byrd)上院議員は、民衆党の長老議員として有名だった。何と1953年に上院議員となってから、ウェスト・ヴァージニアの選挙区で連続8期の当選を果たし、2010年まで上院の座を守り続けていたのだ。ところが、驚くほど長い任期を務めたバード議員には、触れられたくない黒い経歴があった。1940年代、彼は友人等と共にKKKの仲間を集め、ウェスト・ヴァージニア州のソフィアに支部を設けたという。政治的才能に長けていたバード氏は、友人達の人望を集め支部のリーダー格になった。しかし、1953年に連邦下院に出馬するためKKKの仲間とは縁を切り、以後は反共主義者として振る舞ったらしい。だが、執念深いユダヤ・メディアは、公的に懺悔を表明しない限り許さないので、バード議員はさっさと降伏したようだ。あるメディアのインタヴューで、「私が犯した最大の誤りは、クー・クラックス・クランに加わった事だ」と述べていた。(Timothy Noah, What About Byrd, Slate, December 18, 2002) 黒人に反対する姿勢は不利とみたバード議員は、長いこと“良心的”リベラル派の重鎮であった。
ここでちょっと脱線するが、日本の政界を振り返ってみたい。少し前に、フジテレビの『ワイドなショー』という番組の録画映像を観たことがある。番組には宮澤喜一の孫娘ラフルアー宮澤エマが、ゲストとして出演していた。彼女は偶然元総理大臣の孫というだけで、藝人活動の一環で出演したのだから何も悪くはない。ところが、司会の東野幸治や松本人志が、宮澤喜一を褒め称えていたのだ。どうせ、プロデューサーからの入れ智慧か何かで、彼女の家系を絶賛するよう指示されていたのだろう。詳しいことが分からない視聴者は、宮澤喜一が偉かったかのような印象を受ける。しかし、この宮澤という首相は、徴兵逃れの上に、天皇陛下を江沢民に売り飛ばす売国奴であった。母方の祖父小川平吉が有力議員だったから、前線送りを免れることができたのだ。つまり、母ちゃんが息子の安全を父ちゃんに頼んだのだろう。同級生の侮蔑を肌で感じた宮澤は、過去をほじくり出されぬよう、左翼メディアの親分たる朝日新聞に媚びた。リベラル派をアピールしてテレ朝にゴマを擦る卑劣漢なんて吐き気がする。
フジテレビの『報道2001』では、あの小野田寛郎少尉と同席する場面があった。司会の竹村健一や小野田氏の前でも、涼しい顔をしていた宮澤の映像をもう一度再放送して欲しい。終戦が伝わらず何年もフィリピンで臨戦態勢をとっていた英雄が、帰国しても居場所が無く、軍人が蔑まれる社会になっていた。一方、南方戦線で飢え死にしたり、肉片となって消滅した将兵に見向きもしなかった卑怯者は、国際派やハト派を演じて総理大臣になれた。卑劣な真似をすれば出世できる日本は、本当に腐敗している。立派な軍人と醜い下郎が共演する、おぞましい映像を流したフジテレビは、何も知らぬ孫娘を使って一儲けしたいのだろう。実にイヤらしいテレビ局である。(日曜日は「ドラゴンボール」と「NHK杯将棋」しか観ない筆者だが、フジテレビはワイド・ショーでも洗脳をしていたとは。今では竹村健一の「世相を斬る」が懐かしい。)
(左: 若い頃のサーモンド / 右: 晩年のサーモンド議員)
話を戻す。左翼メディアに屈服したのは、バード上院議員だけではない。彼と同じく上院の長老だったストロム・サーモンド(Strom Thurmond)議員も、白人社会を維持し、黒人を排除することに熱心だった政治家であった。元サウス・カロライナ州知事のサーモンドは、黒人をを差別するジム・クロウ法に賛成していたくらいの白人主義者で、南部民衆党員の名物議員である。彼は元々リベラル的人物だったらしく、フランクリン・ローズヴェルトのニュー・ディールを熱心に支持していたという。当時、社会主義者ではないけど、ピンク色の大統領を支持したアメリカ人は多く、レーガン大統領も民衆党員だった。しかし、トルーマン大統領が市民権運動に傾くと、サーモンドは民衆党と袂を分かち、南部民衆党員を代表とする独立派の大統領候補者となった。奇妙に思えるかも知れないが、南部民衆党員はリベラル派の経済政策を支持しても、人種や社会問題となれば共和党員みたいな保守派になる。教育現場で白人と黒人の生徒を混ぜてしまう「ブラウン判決」が最高裁で下されると、サーモンドは公民権法に反対するため、議会で24時間もの議事妨害(filibuster)に出たという。南部にはアメリカ政治の重心があり、地元意識と愛国心の強い有権者が多い。だから、共和党・民衆党を問わず保守的な政治家なら、黒人を押さえ込む人種隔離政策を主張し、共産主義とリベラル思想に反対した方が、絶対選挙に有利である。
テキサス州選出のリンドン・ジョンソンが大統領に昇格し、公民権運動を後押しするようになると、1964年サーモンド議員は共和党に入った。当時の共和党には、保守派の希望であるバリー・ゴールドウォーターが居て、大統領を目指していた。1960年代までのアメリカでは、公の席で黒人との統合に反対だ、と口に出来たのだ。彼も公民権運動に反対していて、南部で人気が高かったものの、リベラル派寄りの共和党員が離れてしまい、結局大統領になれなかった。ちなみに、ゴールドウォーターは監督教会(Episcopal Church)所属のキリスト教徒であったが、ユダヤ系アメリカ人である。意外に思えるが、彼は黒人組織NAACPのアリゾナ支部を創立したメンバーであったのだ。したがって、彼は頭ごなしに公民権法に反対していたのではない。1964年の法律に異議を唱えていたのは、公共施設の使用に関する第2項と、公平な雇用に関する第7項が、州の権限を侵食していると考えたからである。(Lee Edwards, Barry M. Goldwater : The Most Consequential Loser in American Politics, The Heritage Foundation, First Principles, No. 11, July 3, 2014, p.8) 大きな声では言えないが、まともな教育を受けていない低能な黒人に、組織運営なんか出来るわけないじゃないか。ユダヤ人が指導者や裏方になったからこそ、公民権運動は成功したのだ。彼らはユダヤ人が白人社会を破壊するための駒でしかない。NAACPの創立メンバーは、ほとんどユダヤ人である。
(左: バリー・ゴールドウォーター / フィリス・シュラフリー / ロナルド・レーガン / 右: ウィリアム・バックリー)
彼は大統領になれなかったが、有名な女性保守派論客のフィリス・シュラフリー(Phyllis Schlafly)たちから、熱烈な支持を受け、テキサスやカルフォルニアで票を伸ばすことができた。こうした保守派の勢力が後に、カルフォルニア州知事のロナルド・レーガンに結集されたからこそ、1980年代に共和党が政権を奪回できたのである。失われたアメリカの伝統を復活しようと呼びかけたレーガンは、リベラル路線に不満を持つ南部保守派の民衆党員たちを魅了し、地滑り的な大勝利を収めることができた。それにとりわけ、レーガンは陽気だった。彼が集会に現れると、みんな愉快な話やユーモアを期待する。共和党の躍進で一つ注意せねばならない点がある。それは共和党保守派がユダヤ人を批判しなかったことだ。例えば、『ナショナル・レヴュー』誌の創立者で、保守派の重鎮だったウィリアム・バックリー(William F. Buckley, Jr.)は、保守派陣営に潜り込んでいたユダヤ人を批判しなかった。本当に左翼分子を攻撃するなら、保守に偽装したユダヤ人を抉り出さなくてはならない。しかし、裕福なユダヤ人を批判すると、雑誌の広告収入が減少するし、テレビ番組への出演が無くなってしまう。だから、抽象的な左翼批判に留めて、左翼勢力の核心を突かぬよう配慮していたのだ。アメリカの保守勢力が抱える哀しいお家事情である。やせ我慢は武士だから出来るのであって、金銭の神が君臨するアメリカでは、保守派の国士もユダの金貨に目が眩むのだ。「お金は大事だよ~ぉ」と謳った保険会社アフラックスのCMを思い出す。
(左: エシー・マエ・ワシントン・ウィリアウムズ / 中央: サーモンド議員の家族 / 右: サーモンド夫人のナンシー)
サーモンド議員は人種隔離制度を支持した過去を公式に謝罪していないが、彼の行動は若き日の過ちを悔いているように思える。1970年代、彼は南部上院議員として初めて黒人の秘書を雇ったし、黒人の連邦判事を後押しした。1980年代には投票権法(Voting Rights Act)支持に回り、マーティン・ルーサー・キングの誕生日を全米の祝日にしようと働きかけたのである。1940年代には、人種隔離を破壊し、黒人が白人の劇場やプール、住宅、教会に入ってくるのを許すよう南部人に強制するには、まだ軍隊が足りないぞ、と豪語していた人物が、月日を経るうちに段々と黒人に擦り寄っていたのだ。(Timothy Noah, The Legend of Strom's Remorse, Slate, December 16, 2002) 北部のインテリとは違ってガッツのある南部人でさえ、社会正義を掲げた左翼勢力による集中攻撃には耐えられなかったのである。これを見れば、マスコミによる白人社会撲滅キャンペーンが如何に凄まじかった分かがるだろう。ちなみに、サーモンド議員には、混血児の隠し子がいた。その子はエシー・マエ・ワシントン・ウィリアムズ(Essie Mae Washington-Williams)という作家である。サーモンドの実家には黒人の女中がいて、当時22歳だったサーモンドは、16歳の彼女に手をつけて孕(はら)ませた。彼は軽率な行為から生まれたこの娘を公表できず、100歳近くなるまで黙っていたのである。だから、人種隔離を支持する一方で、黒人への配慮を見せていたのだ。
(左: トレント・ロット / 中央: ジェファソン・デイヴィス / 右: SPLCのユダヤ人マーク・ポトック)
リベラル派が支援する民衆党員ですら攻撃されたのだから、況んや共和党議員なら容赦なく折檻(せっかん)されるはずだ。左翼の棍棒が上院多数派総務(Majority Leader)のトレント・ロット(Trent Lott)議員に振り下ろされたのである。ストロム・サーモンド議員の100歳を祝うパーティーで、ロット上院議員は、「彼が大統領選に出馬していたら、我々は彼に投票していただろう。我々はその事を誇りにしていたはずだ。全国民が我々の指導に従っていれば、長年の問題は綺麗に片づいていたはずなのに」と述べていた。(John Nichols, Trent Lott's Uptown Klan, The Nation, December 12, 2002) ロット議員の政治姿勢には、白人意識の強いアメリカ人に賛同する傾向があった。例えば、南北戦争で南部大統領になったジェファソン・デイヴィスは、叛逆者扱いだったので、アメリカ国民権を喪失したままになっていた。ロットはデイヴィスの国籍回復に尽力していたのだ。彼はまた、異人種デートを禁止する事で有名だったボブ・ジョーンズ大学が、優遇税制を受けられるよう働きかけたという。ミシシッピー州選出の上院議員だったからしょうがないのだが、ロットは「南軍の息子たち(Sons of the Confederacy)」という組織を支持していた。黒人奴隷を保持するために戦った将兵の息子たちが作った親睦団体だ。アフリカ系アメリカ人が激怒しても無理はない。
それにロット議員は、あの悪名高い「南部救貧法センター(SPLC)」が非難する、「保守派市民カウンシル(the Council of Conservative Citizens)と繋がりを持っていたのだ。ユダヤ人が設立した左翼団体SPLCは、この保守派団体を「ホワイト・カラーのKKK」と呼んでいた。こうした左翼連中は、保守派団体の中にユダヤ人批判者がいたり、鉤十字がプリントされたTシャツを着た参加者がいたりすると、「あっ ! ネオ・ナチの集会だ」と騒ぎだし、雑誌や新聞に特筆大書する。これは余り知られていないが、SPLCはユダヤ人や左翼支援者から寄付金を集めるため、ネオ・ナチや極右グループのリストをちょくちょく公表しているが、その統計で悪質な操作をしているのだ。例えば、たった2、3人程度の同好会や私書箱だけの右翼団体、ナチ・グッズを集めているだけの個人でさえ、極右勢力の一つとカウントして、全米に散らばる反ユダヤ人組織のように宣伝している。呆れてしまうが、会員が幽霊になってしまった右翼団体だって、彼らにとっては脅威なのだ。確かに別の意味で恐ろしい。KKK組織が減少すると献金が減ってしまうのだ。そうなっては困るから、事情を知らない一般人の恐怖心を熱心に煽っていた。したがって、マイノリティーや弱者救済という看板を掲げていても、ユダヤ人が創立した金儲け団体というのが、SPLCの正体である。巨額の献金に目が眩んだユダヤ人達にとっては、黒人どもの境遇改善より、組織の存続の方が重要なのだ。
(左: ハミルトン・フィッシュ / チャールズ・リンドバーグ / パイロット姿のリンドバーグ / 右: ヘルマン・ゲーリング)
自分たちの民族を最優先に考えるユダヤ人は、愛国心の塊みたいなアメリカの英雄にだって、非難の矛先を向けるのだ。彼らはナチ・ドイツに好意的だったチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)を糾弾する。偉大なるパイロットだったリンドバーグが、ドイツ空軍のヘルマン・ゲーリング元帥によって、ベルリン・オリンピックに招待されたことは有名である。以前、ゲリーングはヒトラーの名代で、リンドバーグにドイツ鷲十字勲章を贈っていたのだ。真の愛国者だったリンドバーグは、「アメリカ第一主義者(America First)」だったから、ユダヤ人の間では評判が悪い。現在なら、大統領候補にもなった保守派の重鎮パット・ブキャナン(Patrick Buchanan)がそうだ。ローズヴェルト大統領の友人で、戦争を契機に訣別した下院議員ハミルトン・フッシュ(Hamilton Fish)も、ユダヤ人や左翼知識人から孤立主義者として揶揄されていた。しかし、アメリカ兵の命を第一に考えたフッシュ議員は、歐洲大戦は不毛に終わることを予見していたのだ。アメリカにおいて、品格を持つ古風な政治家は彼で最後だろう。リンドバークも古き良きアメリカを代表する紳士であった。1941年9月11日、アイオワ州デモインで開催された集会で、リンドバーグはユダヤ人が合衆国を戦争に追い込もうとしている、と非難したのだ。(Rafael Medoff, President Lindberg ? Roth's New Novel Raises Questions about Antisemitism, The David S. Wyman Institute for Holocaust Studies, September 2004)
(左/ーネスト・ホリングス)
今ではユダヤ人が第一次大戦と同じく、第二次大戦もアメリカ軍を戦争に引きずり込もうとしたのは明らかなのに、ユダヤ知識人はアメリカ優先主義者を辛辣に批判する。サダム・フセイン打倒を掲げてブッシュ大統領が戦争を提起した時、アーネスト・ホリングズ(Ernest Hollings)上院議員は、イスラエルの安全を確保するため、アメリカ合衆国を利用しているのだろう、と喝破した。実際、大量破壊兵器が見つからなかったのに、アメリカ軍はイラクを攻撃したし、後にその情報自体が「ガセネタ」と判明したから、アメリカ兵は嫌になってしまう。結局、得をしたのはイスラエルだった。それに、軍事施設の建設を請け負ったハリバートン社が、チェイニー副大統領の古巣ということが知れ渡ったから、国民の猜疑心は益々深くなったのだ。もっとおかしいのは、ワールト・トレード・センターの残骸を、ブッシュ大統領がさっさと処分してしまい、ビルの鉄骨をクズ鉄として支那に輸出したことである。ビル倒壊の原因究明を命じる立場の最高司令官が、率先して証拠隠滅を計ったのだ。ベテラン刑事ならブッシュ大統領に手錠を掛けたくなるだろう。不思議なことに、陰謀映画ならお得意のハリウッドが、9/11テロの大統領加担説を映画化しないことだ。いくらフィクションでも、絶対にしてはならぬ掟があるのだろう。
(左: デック・チェイニー / 右: ジョージ・ブッシュ)
アメリカは偉大なようで異常な国である。異邦人が建国の民を侮蔑する事ができるのに、建国者の子孫はユダヤ移民の末裔を批判できない。アメリカ白人は祖先の罪を糾弾され、良心の代表者と称するユダヤ人に詫びている。人道主義や平等思想はユダヤ人の特許となってしまった。映画館の座席に坐るアメリカ白人は、まるでサンヘドリン(ユダヤ教徒の宗教法廷)の被告席に坐っているみたいだ。人種偏見と無知蒙昧に凝り固まった白人は、映画の中でユダヤ人の検事と判事によって裁かれる。こうした再教育映画は、やがて日本でも定着するだろう。映画界に進出した朝鮮人や支那人の子孫が、映画監督やプロデューサーとなって、反日映画を当り前のように作るに違いない。映画に投資する朝鮮系スポンサーなら直ぐ見つかるだろう。だって、パチンコ屋とか高利貸し、通信会社、菓子メーカーなど、いくらでもいるじゃないか。朝鮮系帰化人の俳優が正義の味方になって、朝鮮人や支那人を嫌う日系人を叩きのめす映画が制作されるかも知れない。
(左/ジョン・ウー)
昔の日活映画のような勧善懲悪の作品が企画され、米国でお金持ちになった支那人や朝鮮人が出資することだってあるだろう。実際、『フェイス・オフ』や『ブロークン・アロー』、『ミッション・インポシブル2』を手掛けた支那人監督ジョン・ウーは、若い頃小林旭主演の映画を何度も見たという、大の日活ファンである。朝鮮半島の南鮮人だって、昭和の日本ドラマをこっそり見て感動していたのだ。日本人の感覚を身につけた朝鮮人が、日本人向け映画を撮影するのは簡単だろう。出資者を見つけた監督なら、朝鮮人女性を拉致する反日映画だって可能だ。冷酷な日本人憲兵が、トラックに詰め込んだ朝鮮娘を輪姦して、郭(くるわ)に売り飛ばす、といったシナリオを書くかも知れない。フィクションと断れば制作は自由だし、アメリカ人俳優を使ったハリウッドとの合作映画なら、セリフも英語で世界中で公開できる。支那人ならユダヤ人の映画会社と組んで、「南京大虐殺」映画を再び企画するかも知れない。将来、日系日本人が日本人の血筋であることを恥じる日が来るだろう。映画の中で極悪人とされ保守的日本人が、朝鮮系巡査や支那系捜査官に射殺されるシーンを見て、拍手を送る日系人の子供が居たら哀しい。作り話だから、といって笑っていられない時代が来た時、日本人はどうするのか。
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人にそれぞれ性質があるように、国家にも独自の体質がある。アメリカ合衆国が人為的国家なら、我が日本は自然と神話の産物だ。アメリカ人が自国を天主(God)に祝福された共和国と考え、日本人を得体の知れない(enigmatic)民族と思おうが彼らの勝手。我々からすれば、アメリカのキリスト教徒は可哀想だ。彼らが信じる救世主イエズスは、大昔に昇天したまま戻ってこない。幽霊さえいない寂しい国家だ。一方、日本人は神様の子孫たる天皇陛下をいつでも拝謁できるし、お言葉だって毎年拝聴できる。キリスト教ではモーゼやアブラハム、預言者といった特別な人物しか、創造主の言葉を聞いたことがないのだ。こうした違いがあっても、両国民はお互いの文化を尊重するし、イチャモンをつけようとしない。ところが、西歐人を羨むユダヤ人は、西欧文化がお気に召さない。街で見かけた美女を附け狙うストーカーと同じ心理をもつ。「俺が好きなのに、あの女は俺に振り向きもしない」と腹を立てるのだ。変態精神に凝り固まったユダヤ人は、自分がブサイクなのを棚に上げて、「アメリカ人女の心は曲がってる。よし、俺様がその根性を叩き直してやろう」と考える。そこで早速、藝能界を支配するユダヤ人は、アメリカ人の精神改造に取りかかり、汚れた西欧的脳味噌を娯楽映像で洗濯しようとすのだ。
アメリカ合衆国は入植地のイギリス人が、叛乱を起こして建設した国家である。彼らがイギリス文化を継承しながら、独自の文化を築くのは彼らの自由である。白色人種のイギリス人が、アメリカ大陸で白人のパラダイスを理想としたっていいじゃないか。肌色人種の日本人は、南アフリカ共和国が兇暴な黒人の天下になっても気にしない。アフリカは黒人の居住地だからだ。我々はイラクがシーア派の国家になろうが邪魔をしないし、イランが世俗国家に転換したって騒がない。日本の庶民には常識があるので、他国のお家事情に干渉しない。隣の家がキュウリの漬け物を作るのを見て、白菜にしろと注文をつけないだろう。姑が嫁の味噌汁を気に入らなければ、自分で別の味噌汁を作ればいい。しかし、ユダヤ人は西歐白人の国家に泊めてもらった異邦人なのに、いつの間にか居候(いそうろう)の身分を忘れて、主人の生活態度を批判するようになった。世話になった旦那の財布を握ったり、主人の女房に指図する。調子に乗ったユダヤ人は、子供の躾けにまで干渉し出す。もし、こんな居候がいたら、即刻家から叩き出されるだろう。だが、現在のアメリカでは逆転現象が起こっている。
アメリカに住むユダヤ人にとって一番脅威なのは、白人至上主義者の存在である。人種意識の高い白人は、本能的に異質な民族を嫌う。特に田舎のアメリカ白人は、理屈で丸め込むことが出来ない。そこで、ユダヤ人は都会の気取った白人から洗脳しようと考える。凡庸なアメリカ人は文字ばかりの本を薦めても直ぐ飽きてしまうので、動く絵本すなわち映画で説明しないと分からない。あるコメディアンが披露したジョークがある。「ジョージ・W・ブッシュ大統領は、寝る前に読書するそうです。たたし、絵本ですがね」と馬鹿にし、観客は大笑いしていた。ハーバード大学の経営学修士号を持ってるげと、ブッシュ大統領はインテリ臭くなかったからだ。ユダヤ人はアメリカ白人から仲間として認めてもらえなかったから、彼らの西歐文化やキリスト教を憎むし、自らの肉体的特徴を讃美する西欧系アメリカ人をやっつけたいと思う。よく知られているのは、フランクフルト学派のユダヤ知識人で、難解な学術用語を使って初心(うぶ)なアメリカ人を騙していた。日本の新左翼が大好きだったヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse)やマックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer)、ジェルジ・ルカーチ(Gyorgy Lukacs)、セオドア・アドルノ(Theodor Adorno)を思い出せば分かる。丸山真男なんかを尊敬していた左翼なら懐かしい名前だろう。このユダヤ人どもは、「理性」とか「客観性」などの言葉をちりばめた「啓蒙思想」を口にしながら、西歐人の行動様式や思考形態を“批判”していた。
(左: ヘルベルト・マルクーゼ / マックス・ホルクハイマー/ジェルジ・ルカーチ / 右: セオドア・アドルノ)
一般人は彼らの文章が難解で、まどろっこしいから何を言わんとしているのか理解できない。簡単に言えばこうだ。例えば、男性と交際するのも恋文を交換したり、手を握っただけで頬を赤く染めるような、若い娘は「抑圧された社会」で育っているからおかしい。もっと淫乱でいい、とフランクフルト学派は言いたいのだ。また、厳格な父親をもつ家庭は抑圧的で、子供の自主性を押さえ込んでいるから、もっと自由を与えろ、と勧める。しかし、父親の権威をなくして育った子供は、単なる我が儘のガキんちょで、放埒なだけだ。しかし、悖徳のユダヤ人左翼にとっては、礼儀作法の正しい士族の子や名家の貞淑な娘というのは、「伝統」や「家訓」といった拘束衣に縛られた隷属民に過ぎない。権威者の長老や父親の桎梏から、若者を解放してあげるのが、正義と自由をもたらす“立派”で“先進的”なユダヤ知識人というわけ。倫理的に卓越し、高尚な精神を持つユダヤ知識人は、奇妙な因習と息苦しい家庭から、無知蒙昧なアメリカ白人どもを解放してやるんだ、と意気込んでいたのだ。アメリカ人なら、「あのユダヤ坊主どもは何言ってやがんだ ? 」と怪訝に思うだろう。フランクフルト学派のユダヤ人が南部の白人の前にしゃしゃり出れば、「俺たちより優れたユダヤ人だって ? お前が俺たちに説教するだと ? ふざけんな ! 」と襟首を掴まれて睨まれる違いない。しかし、腕力勝負を避けるユダヤ人は「男らしい」決闘を好まない。文化ホールや大学の講堂に都会人を招いて、いかにも上品そうに振る舞い、気取った口調で講義を垂れる。しかし、学術用語が分からない馬鹿な大衆には、映画を使ってアメリカ白人が如何に偏屈な人種であるかを教えてあげるのだ。ここでは、ユダヤ人が作った反人種主義の映画の中で、筆者が印象に残った作品を紹介したい。
大したことのないKKK(クー・クラックス・クラン)
1988年に公開された『背信の日々(Betrayed)』は、トム・ベレンジャー(Tom Berenger)とデブラ・ウィンガー(Debra Winger)という有名俳優が共演していた。安心できるスターを揃えた制作者たちは、さぞかし「ヒットするのでは」と期待したことだろう。ところが、蓋を開けてみると、興行的にはあまり成功した映画ではなかった。興行成績はともかく、この作品は、いかにもハリウッドのユダヤ人が作りそうな、白人を懲らしめるためのプロパガンダ映画である。ちなみに、主人公のデブラ・ウィンガーは、正統派ユダヤ教徒の両親を持つユダヤ人で、10代の頃イスラエルのキブツ(kibbutz)に参加したことがあった。このキブツとは、イスラエルに入植したユダヤ人のある一派が始めた、集団主義に基づく自治的共同体である。理想的な共産主義的農村と言った方が分かりやすいかも知れないが、要は平等な者が集まって農作業したり、共同生活をしながらユダヤ的絆を深める運動である。1970年代くらいまで人気があったが、1980年代になると次第に縮小していったらしい。外国に住むユダヤ人の若者が魅了され、キブツに集まったという。例えば、米国からは後に人気コメディアンになるジェリー・サインフェルド(Jerry Seinfeld)や俳優のサーシャ・バロン・コーエン(Sacha Baron Cohen)といったユダヤ人が参加していたし、非ユダヤ人では映画『エイリアン』で有名になった女優のシガニー・ウィバー(Sigourney Weaver)やデュランデュランのヴォーカル、サイモン・ル・ボン(Simon Le Bon)が訪れていた。1970年代は新左翼の全盛期だったから、非ユダヤ人の西歐人でも、ちょいっと左翼かぶれな若者はキブツに興味があたったらしい。
物語は、シカゴで活躍するトーク・ラジオの司会者が、白人至上主義者によって射殺されることから始まる。暗殺された被害者は、都会に住む典型的なリベラル派のユダヤ人。保守的な田舎の白人から憎まれても不思議ではないくらいの左翼的人物だ。「ゲイやレズビアンも対等な人間だ」と主張する、いわゆる「人権派」のリベラル文化人。彼を嫌う白人たちは、「シカゴ」を「病んだ(シック/Sick)街」に引っ掛けて、「シック・カゴ」と発音する。このシーンは実際に起きた殺人事件を基に作られていた。1984年、コロラド州デンヴァーでラジオ・トーク・ショーの司会を務めるアラン・バーグ(Alan Berg)が射殺される事件が起きている。犯人は「騎士団(The Order)」という白人組織に属するデイヴィッド・レインを始めとするネオ・ナチ4人組であった。セミ・オート・マシンガンのマック10が、実際の殺人に使われたので、映画でも同型の銃が小道具として用いられている。射殺されたバーグ氏はユダヤ人であった。
シカゴで起きた殺人事件を調べるため、FBIエージェントのキャサリン・ウィーヴァー(デブラ・ウィンガー)は、ケイティー・フィリップスという偽名を用いて潜入捜査に取りかかった。彼女はネブラスカ州の片田舎で農業を営むゲイリー・シモンズ(トム・ベレンジャー)という白人男性に好意を持たれる。ゲイリーは息子ジョーイと娘レイチェルを持つ父親だが、交通事故で妻に先立たれ、母親と一緒に暮らしているという設定。ゲイリーはケイティーに惚れて、二人は親密になる。しばらくして、ケイティーは田舎町で開催される独立記念日のお祭りに招かれた。子供用にちょっとした遊園地を提供するイベントは、いかにも中西部の古き良きアメリカを象徴する祭りである。地域に住む家族がそれぞれ集まって祝う記念日は、ほのぼのとして気分が良い。ケイティーはゲイリーの家族に温かく歓迎された。特に母親を亡くして寂しがるレイチェルからは、母親のように慕われる。ゲイリーの母が子供達の面倒を見ていたが、やはり年増のおばあちゃんより、若いケイティーの方が魅力的。彼女も子供達を可愛がり、潜入捜査を忘れるほどゲイリーに惹かれ始めた。ただし、町のみんなにすんなりと受け入れられたわけではない。ゲイリーの仲間の一人ウェスは用心深く、ケテイーがイナゴ(grasshopper/政府の犬)じゃないか、と疑っていたのだ。
ケイティーに惚れたゲイリーは、彼女とベッドを共にすると、ある夜、特別な狩りに連れ出した。ゲイリーの白人仲間が集う場所には、黒人青年が連行されてきたのだ。猟犬とライフルを抱えた白人どもが、10発しか弾の入っていない銃を黒人に渡して解放する。彼らはその黒人を追跡してハンティングを楽しむのだ。この人間狩りで哀れな黒人は射殺され、何も出来なかったケイティーは罪悪感に苛まれる。映画の主題が、白人至上主義者の典型的な残虐性と、黒人に対する底知れぬ憎しみにあることは明白だ。観客は、集団リンチを行う冷酷な白人に嘔吐を催すが、一般の白人を適当に殺しまくる現実の黒人とは対比しない。今だって黒人による「ノック・アウト・ゲーム」があるじゃないか。無防備の通行人をいきなり殴りつけて、転倒させることで喜ぶ黒人がいるのだ。中には頭を道路に打ちつけて死亡する被害者もいる。FBIの本部に戻ったケイティーは、上司で元恋人のマイク・カーンズに殺人を報告するが、更なる情報収集のためにゲイリーの元に戻るよう説得される。彼は躊躇う部下にゲイリーの正体を教える。ゲイリーの妻は交通事故ではなく、意図的に殺されたことを、カーンズはケイティーに告げたのだ。恐ろしい夫の元から逃げ出した妻は、夫の仲間に見つかって轢き殺されたのである。この場面では、「またか」とうんざりしてしまうプロットがある。捜査チームにアル・サンダース(アルバート・ホール)という黒人捜査官が加わっているのだ。ハリウッドの定番だから仕方ないのだが、黒人俳優は警察官役がとても多い。理想的な法秩序の番人は黒人なのだ。ハリウッドには、FBIのエリート・チームに必ず黒人を入れるという規則があるのかも。高度な知識と能力を備える黒人は少なく、本来FBIやCIAに黒人は多くない。実際、有色人種優遇制(affirmative action)という逆差別制度がないと黒人が要職に就けないのだ。
ゲイリーのもとに帰ったケイティーは、白人至上主義者らの陰謀を探ろうとする。親密になった彼女に隠し事をしたくないゲイリーは、徐々に秘密を打ち明けるようになった。彼は全米に蔓延る白人の秘密組織に属していたのだ。しかし、ケイティーにはまだその全貌が掴めない。ここで興味深いのは、ケイティーと心を通わせる子供達を見る観客が、知らず知らずのうちに再教育されている点だ。この作品は根深い人種偏見を持つアメリカ白人を更生させる目的をもつ。ゲイリーの娘レイチェルと息子のジョーイは、寝室に来てくれたケティーに向かって、平然と黒ん坊とユダヤ人に対する侮蔑語を口にするのだ。父親から教わった黒人とユダヤ人への偏見を、当然の如く喋る子供に観客は衝撃を受ける。普通のアメリカ人なら、純粋で無邪気な子供に憎悪と敵意を植え付ける父親に拒絶反応を示すだろう。親に従順で可愛らしい子供が口にするから余計衝撃的なのだ。これがシカゴでよく見かける黒人少年なら、観客は「さもありなん」と納得して驚かない。筆者にも経験があるが、黒人家庭の子供は躾が悪く、下品な言葉を自然と発するから参ってしまう。周りの大人が低能で、語彙が少なく、「品格」という概念も無いから、子供の前で卑猥な言葉を平気で口にする。近所の子供だって似たり寄ったりだから、物心がつく頃には小さなギャングなってしまうのだ。
映画は白人至上主義者のKKKが好む排他的キャンプを映し出す。ゲイリーは子供とケティーを連れて、モンタナ州にあるネオ・ナチのキャンプ場へと向かった。そこにはゲイリーの友人や武器を持ったミリシア(武装民間人)がうようよ居るのだ。キャンプ場ではKKKの集会が開かれており、炎がともされた巨大な十字架を前にして、賛美歌を合唱する人々がいる。また別の所では、軍服を着た大人が子供達にライフル射撃の訓練を施していて、ゲイリーの娘レイチェルも民兵から撃ち方を習う。こうした異様なキャンプにジャック・カーペンターという下院に出馬予定の政治家が現れた。彼にはゲイリーの古い友人であるフリンが補佐官として附いていたが、ゲイリーにはカーペンターが票を貰うため、みんなに媚びる偽善者と見えてしまい気に入らない。ユダヤ人の脚本家や監督は、アメリカの南部や片田舎で政治家になろうとす白人至上主義者を憎んでいる。だから、黒人を始めとするマイノリティーを排斥しようとする白人勢力を、一般人が恐れて近づきたくない暴力的右翼として描くのだ。映画の冒頭で、武装した白人至上主義者が、クルマを降りようとしたユダヤ人DJを殺したとき、スプレーでクルマの車体にZOGと落書きをするシーンがあった。これは「シオニスト<ユダヤ人>に支配された政府(Zionist Occupied Government)」の略だ。ユダヤ人演出家は、「合衆国政府がユダヤ人に支配されている、と妄想を抱く白人のクズどもは、こんな奴らですよ」と暗に言いたいのである。でも、現実を見るとKKKの戯言(たわごと)が本当になっているからすごい。兇暴な白人レイシストは、古代イスラエルの預言者と同じだった。(例えば、旧約聖書のエレミヤ書44章を読んでね。) 真実を告げる預言者は、ユダヤの民衆から投石を喰らう末路になる。
白人至上主義者は大義に燃えるがお金が無い。ユダヤ人のように国際金融を操って大金を儲けたり、政治献金を行って更なる権力を手にする、といったことが出来ないのだ。せいぜい、小麦を栽培するか、牛を育てる程度。心血注いで競走馬を育てたって、競馬場の胴元がユダヤ人だったりする。貧乏農夫でしかないゲイリーの仲間たちは、全国的テロを行う資金調達のため、地方銀行を襲うことにした。現金強奪は成功したのだが、強盗団の一人、あのケイティーを疑っていたウェスが、逃走中に警備員に撃たれて死んでしまった。予想外の悲劇にショックをうける強盗団。しかし、その射殺は予め用意されていたシナリオだった。銀行の警備員に扮した黒人捜査員サンダースが、ウェスに狙いをつけて撃ったのである。覆面捜査員のケティーを疑うウェスは、作戦継続に邪魔なので始末したというわけ。ユダヤ人の映画では度々、社会の擁護者たる黒人が下劣な白人犯罪者を射殺するシーンが見られる。現実の世界では、国民の安全を守っている白人警官が、チンピラの黒人や有色人種の兇悪犯を射殺しているのに、ユダヤ人はフィクション映画の中でその立場を逆転させ、黒人が正義の名の下に白人を殺すという脚本にしていた。白人を憎み銭を愛するユダヤ人は、黒人観客が気分爽快になるよう計算しているのだ。
ケティーと一緒に銀行強盗を実行したゲイリーは、彼女にやがて開始される大規模テロ計画を打ち明ける。彼が床下に隠した書類には、全米各地に広がる白人至上主義者のネットワークが書かれているのだ。ケティーはゲイリーが留守の間に、その書類を持ち出し、上司のカーンズに渡してしまう。しかしその後、政治家のカーペンターに仕えているフリンが、ゲイリーにFBIの極秘資料を見せ、ケティーが潜入捜査官のキャサリン・ウィーヴァーであることを教えてしまうのだ。愕然とするゲイリー。正体がバレたとは気づかぬケティーは、普段通りゲイリーとベッドを共にするが、側で寝るゲイリーの魂は砕け散っていた。テロ決行の当日、ゲイリーはケイティーをクルマに乗せて、ある場所に連れて行く。誰も居ない工事中のビルで、ある人物をライフルで狙撃する計画だった。その標的はなんと、白人票を求めたジャク・カーペンターである。補佐官のフリンはカーペンターを抹殺して、自分が候補者になる魂胆だった。フリンは志半ばで暗殺された友人の後継者として、マスコミの脚光を浴びるという筋書きを立てたのだ。
ライフルを構えるゲイリーは最後の賭に出た。彼はケティーの正体がバレていたことを明かす。FBI捜査官と分かった以上、彼女は目の前で行われようとしている殺人を阻止せねばならない。拳銃を向けるケティーが、引き金を引くのか、それとも暗殺を見逃すのか、ゲイリーは決断を迫る。躊躇いながらも、彼女は選択を強いるゲイリーの胸に、銃弾を撃ち込んでしまった。その後、ケイティーは哀しみに満ちたゲイリーの顔が忘れられず、上司が引き留めるのを無視してFBIを去ることに。しばらく時が経ち、再びゲイリーの町に戻ったケイティーは、教会から出てくるレイチェルを見つけて抱きかかえた。しかし、教会に出席している人々の視線は鋭く冷たい。レイチェルを呼び戻す祖母の目つきは険悪だ。物語はレイチェルがケイティーに手を振って別れを告げる場面で終わる。
アメリカの過去を憎む者が制作者に
『背信の日々』はアメリカ白人が、二度と過去の白人社会に戻らぬよう、調教するためのプロパガンダ映画である。原作者はヨゼフ・エステルハス(Jozef A. Esterhs)というハンガリー系アメリカ人で、ハンガリー貴族のエステルハージ(Eszterhazy)家に連なる血筋らしい。ところが彼には話したくない事実があった。第二次世界大戦中、彼の父親は祖国ハンガリーでナチ・ドイツの協力者であったという。ヨゼフは大人になってから、父親がナチスのために反ユダヤ主義のパンフレットを書いていたことを知り、とても恥ずかしく思ったらしい。それ以来、ナチ党の手下だった父親とは絶縁関係にある。アメリカに渡ったヨゼフは映画界に入って職に就き、ジェニファー・ビールスがダンサーを演じた『フラッシュダンス』や、シャロン・ストーンの代表作『氷の微笑』を手掛けた。『氷の微笑』は、シャロンがノーパンで警察のインタヴューに応じるシーンばかりが話題になる映画だった。それでもエステルハスは、300万ドルほどの大金を手にしたんだから良かったじゃないか。とにかく重要なのは、ユダヤ人に対する罪悪感を持った脚本家が、『背信の日々』の原作を書いていたことだ。
原作者はナチスの片棒を担いだ父親を恥じていたが、監督は共産主義者の父親を持って困っていた。監督のコスタ・ガヴラス(本名/Konstantinos Gavras)は、父親がコミュニストでソ連シンパときていたから、ギリシア国内で大学に通えず、フランスに渡って勉強したという。彼がフランス経由のギリシア移民であったのは、父親の経歴に原因があったのだ。カヴラスは政治色の強い映画を撮る監督で、フランスの名優イヴ・モンタンが主演した『戒厳令』や、ジャック・レモン主演で南米の軍事クーデタを描いた『ミッシング』がよく知られている。曰く附きの原作者と監督が制作した『背信の日々』には、これまたユダヤ人の大物プロデューサーが就いていた。アーウィン・ウィンクラー(Irwin Winkler)は、あの「ロッキー」シリーズ1、2、3、4、5全てを手掛けた人物で、その他にもダスティン・ホフマン主演の『アウトブレイク』やロバート・デ・ニーロの傑作『レイジング・ブル』で有名だ。こんなユダヤ人の大御所が、白人至上主義者を題材とした映画をプロデュースするんだから、観る前からどんな作品なのか容易に想像がつく。ユダヤ人が支配する社会の実態や、イスラエル・ロビーに膝を屈する政治家に触れるわけがない。だいたい、財力の乏しい白人を巨悪のように描く一方で、世界的規模のパワー・ゲームを行う大富豪のユダヤ人は無視、なんておかしいだろう。お金が無いから、女房が縫ってくれた白頭巾を着て、寂(さび)れた田舎の森で騒ぐしか能のないKKKが、一体どれほど怖いのか?
映画の配役じたいがそもそも意図的だ。感情に流されず、職務に忠実なFBIの潜入捜査官はユダヤ人女優で、冷静沈着な同僚が黒人俳優である。知的で正義感に燃えた捜査官には、マイノリティーがなるという不文律があるのだろう。ところが、KKKの主人公は映画『プラトーン』で有名になったトム・ベレンジャーときている。ユダヤ人監督であるオリヴァー・ストーンのヒット作では、ベレンジャーはベトナム人を残酷に殺しても平気な鬼軍曹という役柄であった。本質的に文弱のユダヤ人は、武力で片をつけようとする白人男性が嫌いだ。一方、西欧系白人は、本能的にセム人種を敵視する。ユダヤ人からすれば、ベレンジャーみたいな白人は、娘に近づこうとするユダヤ人を有無を言わさず拒絶する父親のように見える。ベレンジャーは南部や中西部によくいる典型的な白人が似合う。ベレンジャーの容姿は、よそ者が寄りつかない南部の酒場で、事情を知らないユダヤ人や黒人が入ってきた時、もの凄い形相で睨み付ける白人を思わせるのだ。日本の映画ファンには、トム・ベレンジャーは『山猫は眠らない(Sniper)』で優秀なスナイパー、トマス・ベケットを演じた俳優として人気がある。ベレンジャーには、孤独だが愛国心に溢れた海兵隊の狙撃手がよく似合う。何はともあれ、ユダヤ人が描く南部人とは、考えが狭く偏見に満ちた田舎者とか、学歴が低いことを何とも思わないのに、銃器となるや異様な関心を示す荒くれ者といった人物が一般的。一方、ユダヤ人は寛容な心を持ち教養豊かな都会人とか、洗練されたマナーと人道主義に溢れた精神を持つ陽気な紳士、となる。絶対に、強欲で臆病な投資家とか、陰険で下品な左翼とは描かれない。
白人中心のアメリカは許さないユダヤ人
ユダヤ人は『背信の日々』といった映画で大衆を教育しながら、現実の社会に現れる白人政治家を吊し上げる。ユダヤ人が所有し運営するテレビ局では、彼らが雇うキャスターと御用学者で番組が制作され、どんな地位にある者でも、白人社会を掲げる政治家だと、恐ろしい仕置きに掛けられてしまう。ユダヤ人有権者には民衆党支持者が多いが、贔屓政党の議員であろうと容赦はしない。天寿を全うして亡くなったロバート・バード(Robert Byrd)上院議員は、民衆党の長老議員として有名だった。何と1953年に上院議員となってから、ウェスト・ヴァージニアの選挙区で連続8期の当選を果たし、2010年まで上院の座を守り続けていたのだ。ところが、驚くほど長い任期を務めたバード議員には、触れられたくない黒い経歴があった。1940年代、彼は友人等と共にKKKの仲間を集め、ウェスト・ヴァージニア州のソフィアに支部を設けたという。政治的才能に長けていたバード氏は、友人達の人望を集め支部のリーダー格になった。しかし、1953年に連邦下院に出馬するためKKKの仲間とは縁を切り、以後は反共主義者として振る舞ったらしい。だが、執念深いユダヤ・メディアは、公的に懺悔を表明しない限り許さないので、バード議員はさっさと降伏したようだ。あるメディアのインタヴューで、「私が犯した最大の誤りは、クー・クラックス・クランに加わった事だ」と述べていた。(Timothy Noah, What About Byrd, Slate, December 18, 2002) 黒人に反対する姿勢は不利とみたバード議員は、長いこと“良心的”リベラル派の重鎮であった。
ここでちょっと脱線するが、日本の政界を振り返ってみたい。少し前に、フジテレビの『ワイドなショー』という番組の録画映像を観たことがある。番組には宮澤喜一の孫娘ラフルアー宮澤エマが、ゲストとして出演していた。彼女は偶然元総理大臣の孫というだけで、藝人活動の一環で出演したのだから何も悪くはない。ところが、司会の東野幸治や松本人志が、宮澤喜一を褒め称えていたのだ。どうせ、プロデューサーからの入れ智慧か何かで、彼女の家系を絶賛するよう指示されていたのだろう。詳しいことが分からない視聴者は、宮澤喜一が偉かったかのような印象を受ける。しかし、この宮澤という首相は、徴兵逃れの上に、天皇陛下を江沢民に売り飛ばす売国奴であった。母方の祖父小川平吉が有力議員だったから、前線送りを免れることができたのだ。つまり、母ちゃんが息子の安全を父ちゃんに頼んだのだろう。同級生の侮蔑を肌で感じた宮澤は、過去をほじくり出されぬよう、左翼メディアの親分たる朝日新聞に媚びた。リベラル派をアピールしてテレ朝にゴマを擦る卑劣漢なんて吐き気がする。
フジテレビの『報道2001』では、あの小野田寛郎少尉と同席する場面があった。司会の竹村健一や小野田氏の前でも、涼しい顔をしていた宮澤の映像をもう一度再放送して欲しい。終戦が伝わらず何年もフィリピンで臨戦態勢をとっていた英雄が、帰国しても居場所が無く、軍人が蔑まれる社会になっていた。一方、南方戦線で飢え死にしたり、肉片となって消滅した将兵に見向きもしなかった卑怯者は、国際派やハト派を演じて総理大臣になれた。卑劣な真似をすれば出世できる日本は、本当に腐敗している。立派な軍人と醜い下郎が共演する、おぞましい映像を流したフジテレビは、何も知らぬ孫娘を使って一儲けしたいのだろう。実にイヤらしいテレビ局である。(日曜日は「ドラゴンボール」と「NHK杯将棋」しか観ない筆者だが、フジテレビはワイド・ショーでも洗脳をしていたとは。今では竹村健一の「世相を斬る」が懐かしい。)
(左: 若い頃のサーモンド / 右: 晩年のサーモンド議員)
話を戻す。左翼メディアに屈服したのは、バード上院議員だけではない。彼と同じく上院の長老だったストロム・サーモンド(Strom Thurmond)議員も、白人社会を維持し、黒人を排除することに熱心だった政治家であった。元サウス・カロライナ州知事のサーモンドは、黒人をを差別するジム・クロウ法に賛成していたくらいの白人主義者で、南部民衆党員の名物議員である。彼は元々リベラル的人物だったらしく、フランクリン・ローズヴェルトのニュー・ディールを熱心に支持していたという。当時、社会主義者ではないけど、ピンク色の大統領を支持したアメリカ人は多く、レーガン大統領も民衆党員だった。しかし、トルーマン大統領が市民権運動に傾くと、サーモンドは民衆党と袂を分かち、南部民衆党員を代表とする独立派の大統領候補者となった。奇妙に思えるかも知れないが、南部民衆党員はリベラル派の経済政策を支持しても、人種や社会問題となれば共和党員みたいな保守派になる。教育現場で白人と黒人の生徒を混ぜてしまう「ブラウン判決」が最高裁で下されると、サーモンドは公民権法に反対するため、議会で24時間もの議事妨害(filibuster)に出たという。南部にはアメリカ政治の重心があり、地元意識と愛国心の強い有権者が多い。だから、共和党・民衆党を問わず保守的な政治家なら、黒人を押さえ込む人種隔離政策を主張し、共産主義とリベラル思想に反対した方が、絶対選挙に有利である。
テキサス州選出のリンドン・ジョンソンが大統領に昇格し、公民権運動を後押しするようになると、1964年サーモンド議員は共和党に入った。当時の共和党には、保守派の希望であるバリー・ゴールドウォーターが居て、大統領を目指していた。1960年代までのアメリカでは、公の席で黒人との統合に反対だ、と口に出来たのだ。彼も公民権運動に反対していて、南部で人気が高かったものの、リベラル派寄りの共和党員が離れてしまい、結局大統領になれなかった。ちなみに、ゴールドウォーターは監督教会(Episcopal Church)所属のキリスト教徒であったが、ユダヤ系アメリカ人である。意外に思えるが、彼は黒人組織NAACPのアリゾナ支部を創立したメンバーであったのだ。したがって、彼は頭ごなしに公民権法に反対していたのではない。1964年の法律に異議を唱えていたのは、公共施設の使用に関する第2項と、公平な雇用に関する第7項が、州の権限を侵食していると考えたからである。(Lee Edwards, Barry M. Goldwater : The Most Consequential Loser in American Politics, The Heritage Foundation, First Principles, No. 11, July 3, 2014, p.8) 大きな声では言えないが、まともな教育を受けていない低能な黒人に、組織運営なんか出来るわけないじゃないか。ユダヤ人が指導者や裏方になったからこそ、公民権運動は成功したのだ。彼らはユダヤ人が白人社会を破壊するための駒でしかない。NAACPの創立メンバーは、ほとんどユダヤ人である。
(左: バリー・ゴールドウォーター / フィリス・シュラフリー / ロナルド・レーガン / 右: ウィリアム・バックリー)
彼は大統領になれなかったが、有名な女性保守派論客のフィリス・シュラフリー(Phyllis Schlafly)たちから、熱烈な支持を受け、テキサスやカルフォルニアで票を伸ばすことができた。こうした保守派の勢力が後に、カルフォルニア州知事のロナルド・レーガンに結集されたからこそ、1980年代に共和党が政権を奪回できたのである。失われたアメリカの伝統を復活しようと呼びかけたレーガンは、リベラル路線に不満を持つ南部保守派の民衆党員たちを魅了し、地滑り的な大勝利を収めることができた。それにとりわけ、レーガンは陽気だった。彼が集会に現れると、みんな愉快な話やユーモアを期待する。共和党の躍進で一つ注意せねばならない点がある。それは共和党保守派がユダヤ人を批判しなかったことだ。例えば、『ナショナル・レヴュー』誌の創立者で、保守派の重鎮だったウィリアム・バックリー(William F. Buckley, Jr.)は、保守派陣営に潜り込んでいたユダヤ人を批判しなかった。本当に左翼分子を攻撃するなら、保守に偽装したユダヤ人を抉り出さなくてはならない。しかし、裕福なユダヤ人を批判すると、雑誌の広告収入が減少するし、テレビ番組への出演が無くなってしまう。だから、抽象的な左翼批判に留めて、左翼勢力の核心を突かぬよう配慮していたのだ。アメリカの保守勢力が抱える哀しいお家事情である。やせ我慢は武士だから出来るのであって、金銭の神が君臨するアメリカでは、保守派の国士もユダの金貨に目が眩むのだ。「お金は大事だよ~ぉ」と謳った保険会社アフラックスのCMを思い出す。
(左: エシー・マエ・ワシントン・ウィリアウムズ / 中央: サーモンド議員の家族 / 右: サーモンド夫人のナンシー)
サーモンド議員は人種隔離制度を支持した過去を公式に謝罪していないが、彼の行動は若き日の過ちを悔いているように思える。1970年代、彼は南部上院議員として初めて黒人の秘書を雇ったし、黒人の連邦判事を後押しした。1980年代には投票権法(Voting Rights Act)支持に回り、マーティン・ルーサー・キングの誕生日を全米の祝日にしようと働きかけたのである。1940年代には、人種隔離を破壊し、黒人が白人の劇場やプール、住宅、教会に入ってくるのを許すよう南部人に強制するには、まだ軍隊が足りないぞ、と豪語していた人物が、月日を経るうちに段々と黒人に擦り寄っていたのだ。(Timothy Noah, The Legend of Strom's Remorse, Slate, December 16, 2002) 北部のインテリとは違ってガッツのある南部人でさえ、社会正義を掲げた左翼勢力による集中攻撃には耐えられなかったのである。これを見れば、マスコミによる白人社会撲滅キャンペーンが如何に凄まじかった分かがるだろう。ちなみに、サーモンド議員には、混血児の隠し子がいた。その子はエシー・マエ・ワシントン・ウィリアムズ(Essie Mae Washington-Williams)という作家である。サーモンドの実家には黒人の女中がいて、当時22歳だったサーモンドは、16歳の彼女に手をつけて孕(はら)ませた。彼は軽率な行為から生まれたこの娘を公表できず、100歳近くなるまで黙っていたのである。だから、人種隔離を支持する一方で、黒人への配慮を見せていたのだ。
(左: トレント・ロット / 中央: ジェファソン・デイヴィス / 右: SPLCのユダヤ人マーク・ポトック)
リベラル派が支援する民衆党員ですら攻撃されたのだから、況んや共和党議員なら容赦なく折檻(せっかん)されるはずだ。左翼の棍棒が上院多数派総務(Majority Leader)のトレント・ロット(Trent Lott)議員に振り下ろされたのである。ストロム・サーモンド議員の100歳を祝うパーティーで、ロット上院議員は、「彼が大統領選に出馬していたら、我々は彼に投票していただろう。我々はその事を誇りにしていたはずだ。全国民が我々の指導に従っていれば、長年の問題は綺麗に片づいていたはずなのに」と述べていた。(John Nichols, Trent Lott's Uptown Klan, The Nation, December 12, 2002) ロット議員の政治姿勢には、白人意識の強いアメリカ人に賛同する傾向があった。例えば、南北戦争で南部大統領になったジェファソン・デイヴィスは、叛逆者扱いだったので、アメリカ国民権を喪失したままになっていた。ロットはデイヴィスの国籍回復に尽力していたのだ。彼はまた、異人種デートを禁止する事で有名だったボブ・ジョーンズ大学が、優遇税制を受けられるよう働きかけたという。ミシシッピー州選出の上院議員だったからしょうがないのだが、ロットは「南軍の息子たち(Sons of the Confederacy)」という組織を支持していた。黒人奴隷を保持するために戦った将兵の息子たちが作った親睦団体だ。アフリカ系アメリカ人が激怒しても無理はない。
それにロット議員は、あの悪名高い「南部救貧法センター(SPLC)」が非難する、「保守派市民カウンシル(the Council of Conservative Citizens)と繋がりを持っていたのだ。ユダヤ人が設立した左翼団体SPLCは、この保守派団体を「ホワイト・カラーのKKK」と呼んでいた。こうした左翼連中は、保守派団体の中にユダヤ人批判者がいたり、鉤十字がプリントされたTシャツを着た参加者がいたりすると、「あっ ! ネオ・ナチの集会だ」と騒ぎだし、雑誌や新聞に特筆大書する。これは余り知られていないが、SPLCはユダヤ人や左翼支援者から寄付金を集めるため、ネオ・ナチや極右グループのリストをちょくちょく公表しているが、その統計で悪質な操作をしているのだ。例えば、たった2、3人程度の同好会や私書箱だけの右翼団体、ナチ・グッズを集めているだけの個人でさえ、極右勢力の一つとカウントして、全米に散らばる反ユダヤ人組織のように宣伝している。呆れてしまうが、会員が幽霊になってしまった右翼団体だって、彼らにとっては脅威なのだ。確かに別の意味で恐ろしい。KKK組織が減少すると献金が減ってしまうのだ。そうなっては困るから、事情を知らない一般人の恐怖心を熱心に煽っていた。したがって、マイノリティーや弱者救済という看板を掲げていても、ユダヤ人が創立した金儲け団体というのが、SPLCの正体である。巨額の献金に目が眩んだユダヤ人達にとっては、黒人どもの境遇改善より、組織の存続の方が重要なのだ。
(左: ハミルトン・フィッシュ / チャールズ・リンドバーグ / パイロット姿のリンドバーグ / 右: ヘルマン・ゲーリング)
自分たちの民族を最優先に考えるユダヤ人は、愛国心の塊みたいなアメリカの英雄にだって、非難の矛先を向けるのだ。彼らはナチ・ドイツに好意的だったチャールズ・リンドバーグ(Charles Lindbergh)を糾弾する。偉大なるパイロットだったリンドバーグが、ドイツ空軍のヘルマン・ゲーリング元帥によって、ベルリン・オリンピックに招待されたことは有名である。以前、ゲリーングはヒトラーの名代で、リンドバーグにドイツ鷲十字勲章を贈っていたのだ。真の愛国者だったリンドバーグは、「アメリカ第一主義者(America First)」だったから、ユダヤ人の間では評判が悪い。現在なら、大統領候補にもなった保守派の重鎮パット・ブキャナン(Patrick Buchanan)がそうだ。ローズヴェルト大統領の友人で、戦争を契機に訣別した下院議員ハミルトン・フッシュ(Hamilton Fish)も、ユダヤ人や左翼知識人から孤立主義者として揶揄されていた。しかし、アメリカ兵の命を第一に考えたフッシュ議員は、歐洲大戦は不毛に終わることを予見していたのだ。アメリカにおいて、品格を持つ古風な政治家は彼で最後だろう。リンドバークも古き良きアメリカを代表する紳士であった。1941年9月11日、アイオワ州デモインで開催された集会で、リンドバーグはユダヤ人が合衆国を戦争に追い込もうとしている、と非難したのだ。(Rafael Medoff, President Lindberg ? Roth's New Novel Raises Questions about Antisemitism, The David S. Wyman Institute for Holocaust Studies, September 2004)
(左/ーネスト・ホリングス)
今ではユダヤ人が第一次大戦と同じく、第二次大戦もアメリカ軍を戦争に引きずり込もうとしたのは明らかなのに、ユダヤ知識人はアメリカ優先主義者を辛辣に批判する。サダム・フセイン打倒を掲げてブッシュ大統領が戦争を提起した時、アーネスト・ホリングズ(Ernest Hollings)上院議員は、イスラエルの安全を確保するため、アメリカ合衆国を利用しているのだろう、と喝破した。実際、大量破壊兵器が見つからなかったのに、アメリカ軍はイラクを攻撃したし、後にその情報自体が「ガセネタ」と判明したから、アメリカ兵は嫌になってしまう。結局、得をしたのはイスラエルだった。それに、軍事施設の建設を請け負ったハリバートン社が、チェイニー副大統領の古巣ということが知れ渡ったから、国民の猜疑心は益々深くなったのだ。もっとおかしいのは、ワールト・トレード・センターの残骸を、ブッシュ大統領がさっさと処分してしまい、ビルの鉄骨をクズ鉄として支那に輸出したことである。ビル倒壊の原因究明を命じる立場の最高司令官が、率先して証拠隠滅を計ったのだ。ベテラン刑事ならブッシュ大統領に手錠を掛けたくなるだろう。不思議なことに、陰謀映画ならお得意のハリウッドが、9/11テロの大統領加担説を映画化しないことだ。いくらフィクションでも、絶対にしてはならぬ掟があるのだろう。
(左: デック・チェイニー / 右: ジョージ・ブッシュ)
アメリカは偉大なようで異常な国である。異邦人が建国の民を侮蔑する事ができるのに、建国者の子孫はユダヤ移民の末裔を批判できない。アメリカ白人は祖先の罪を糾弾され、良心の代表者と称するユダヤ人に詫びている。人道主義や平等思想はユダヤ人の特許となってしまった。映画館の座席に坐るアメリカ白人は、まるでサンヘドリン(ユダヤ教徒の宗教法廷)の被告席に坐っているみたいだ。人種偏見と無知蒙昧に凝り固まった白人は、映画の中でユダヤ人の検事と判事によって裁かれる。こうした再教育映画は、やがて日本でも定着するだろう。映画界に進出した朝鮮人や支那人の子孫が、映画監督やプロデューサーとなって、反日映画を当り前のように作るに違いない。映画に投資する朝鮮系スポンサーなら直ぐ見つかるだろう。だって、パチンコ屋とか高利貸し、通信会社、菓子メーカーなど、いくらでもいるじゃないか。朝鮮系帰化人の俳優が正義の味方になって、朝鮮人や支那人を嫌う日系人を叩きのめす映画が制作されるかも知れない。
(左/ジョン・ウー)
昔の日活映画のような勧善懲悪の作品が企画され、米国でお金持ちになった支那人や朝鮮人が出資することだってあるだろう。実際、『フェイス・オフ』や『ブロークン・アロー』、『ミッション・インポシブル2』を手掛けた支那人監督ジョン・ウーは、若い頃小林旭主演の映画を何度も見たという、大の日活ファンである。朝鮮半島の南鮮人だって、昭和の日本ドラマをこっそり見て感動していたのだ。日本人の感覚を身につけた朝鮮人が、日本人向け映画を撮影するのは簡単だろう。出資者を見つけた監督なら、朝鮮人女性を拉致する反日映画だって可能だ。冷酷な日本人憲兵が、トラックに詰め込んだ朝鮮娘を輪姦して、郭(くるわ)に売り飛ばす、といったシナリオを書くかも知れない。フィクションと断れば制作は自由だし、アメリカ人俳優を使ったハリウッドとの合作映画なら、セリフも英語で世界中で公開できる。支那人ならユダヤ人の映画会社と組んで、「南京大虐殺」映画を再び企画するかも知れない。将来、日系日本人が日本人の血筋であることを恥じる日が来るだろう。映画の中で極悪人とされ保守的日本人が、朝鮮系巡査や支那系捜査官に射殺されるシーンを見て、拍手を送る日系人の子供が居たら哀しい。作り話だから、といって笑っていられない時代が来た時、日本人はどうするのか。
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