無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2015年09月

黒い捨て犬を養子にするハリウッド女優

有色人種を養子にする流行

  ハリウッドにはリベラル派が圧倒的に多い。共和党支持者の俳優なんか、ほんの一握りしか居ないんだから。でも、強いて挙げるとすれば、ライフル協会のマスッコト的広告塔だったチャールトン・ヘストンとか、リバタリアンでカーメル市長になったクリント・イーストウッド、形式的な共和党員だけど中身は民衆党員のアーノルド・シュワルツネッガー、くらいじゃないか。一方、左翼思想の俳優を数えたらキリが無い。有名人をちょっと挙げれば、ジョージ・クルーニー、マット・デーモン、アレックボールドウィン、ベン・アフレック、オリヴィア・ワイルド、スーザイ・サランドン、アシュリー・ジャッドなど、すぐ思い浮かぶだろう。そうした役者に、ユダヤ人の監督やプロデューサーを加えたら、トイレット・ペーパーみたいに長くなるので止めにする。

  こんな赤いハリウッドで蔓延している流行の一つが、白人女優による有色人種の養子縁組である。彼女たちは子供を産めない体というわけじゃないけど、白人の子供を選ばず、なぜか黒人やアジア人の子供を養子にしたがる。日本人の女優では滅多にないことだが、異人種混淆社会のアメリカでは白人の母親と黒人の養子という組み合わせが結構ある。例えば、南アフリカ出身のボーア系女優であるシャーリーズ・セロンは、結婚できない行き遅れ(spinster)じゃないし、絶対に醜女(しこめ)ではない。結婚相手なら困らないこの美人女優は、結婚して実子を産むより、黒人のジャクソンを養子にすることを選んだ。また、キアヌ・リーヴスと『スピード』で共演したサンドラ・ブロックは、ジェシー・ジェイムズと結婚したが離婚に終わったという。しかし、離婚間際に予てから計画していた養子縁組を断念せず、ルイス・ブランドという黒人の子供を引き取った。浮気者であった亭主を放り出しても、異人種の子供を迎えたというのは、いかにも藝人らしい行動である。

  人気役者同士の結婚は長続きしないケースが多い。オーストラリア出身の二流女優だったニコール・キッドマンは、『トップガン』で有名になったトム・クルーズと結婚して、注目を浴びたことはよく知られている。このカップルも実子をもうけず、白人の娘イザベラと黒人の息子コナーを養子に迎えたのだ。彼らは2001年に離婚し、トムは女優のケイティー・ホームズと再婚し、娘をもうけたが2012年に離婚。トム・クルーズとニコール・キッドマンの養子はニコールが引き取ったようだが、そのニコールもキース・アーバンと再婚した。彼らには待望の娘サンディーがうまれ、ニコールはたいそう可愛がっている。これで彼女は子供を産める体であったことが証明されたわけだ。

    一方、ニコールと養女のイザベラには深い親子の絆は無いように思われる。報道によれば、ニコールは成長したイザベラが「ママ(Mummy)」と呼んだ時、「ニコールと呼びなさい」と言いつけたらしい。育ての親にしては、ちょっと冷たい感じがしてしまう。また、ニコールは人気トーク・ショー番組『ジミー・キンメル・ライブ』に出演した時、司会者との会話の中で、実子のサンディーを長女と呼んで話題になった。これを聞いていた視聴者は、養女のイザベラが長女のはずだが、と思ったらしい。我々でも、養女のイザベラはどんな立場なんだ、と言いたくなる。しかし、世間通のオバちゃん達なら、「何らかんや言っても、実の子じゃないからねぇ~」と解説するんじゃないか。年齢的に妊娠がきつくなったニコールは、次女を望んだ時、夫婦の受精卵を用いた代理出産を選んだそうだ。彼女は無事に生まれた女を抱いて幸せそうだった。成人した養子はニコールやトムと親しいようだが、親子の感情は薄いのではないか? 離婚したトムとニコールは、それぞれ実の子を持っているから、養子との絆は友人関係みたいなものだろう。やはり、「血は水よりも濃い」と言うからね。

  正常な日本人からすれば、黒人を養子にするのが、なぜ素晴らしいのか分からない。人気歌手のマドンナは俳優カルロス・リオンとの間に娘のローデスをもうけ、再婚相手のガイ・リッチーとの間では息子のロコを産んでいた。ところが、マドンナはアフリカのマラウイ共和国を訪れ、現地でバントゥー系の黒人から男の子を得ようと苦労したらしい。たぶんチュワ族の黒人だろう。色々と複雑な手続きや“いざこざ”があったようだが、強引に養子縁組を進めてしまったらしい。やはりお金に物を言わせたんじゃないか。ただ、普通の感覚を持つ日本人からすれば、黒人のデイヴッドをそこまでして欲しいのか、と疑問に思ってしまう。我々には、巨万の富をもてあました大物歌手が、たまたま貧乏国を訪れた際、惨めなアフリカ人を目にしたから、憐れみの感情が湧いたのでは、としか思えない。マドンナはデイヴィッドに加え、マーシーという黒人の男の子を養子にしているのだ。あれぼど多岐にわたる藝能活動を展開している彼女が、四人の子供を養育しているなんて信じられない。たぶん何人か乳母を雇って面倒を見させているのだろう。

  しかし、よくよく考えてみれば、マドンナは実際の人間を用いて「ママごと」遊びをしているんじゃないか? 本当の育児なら、多忙な藝能活動と両立できないだろう。例えば、明朝早くから仕事なのに、前日に子供が熱を出したり、鼻詰まりや咳で一晩中看病したあとで、コンサートやテレビ番組の収録なんてできない。子供を持てば耳鼻科、歯医者、小児科、皮膚科、外科、などへ連れて行かねばならないし、学芸会や発表会、交流会、スポーツ大会などにも出席して、子供の姿を見てやらないと、子供たちは孤独感を味わうことになる。スーパー・スターだと、こうした事を全て出来るのかも知れないが、片親で幼い子供4人の育児は相当きついはず。犬を4匹飼うのとは訳が違う。たぶん、マドンナの育児とは、日本人の母親が示すような、一緒に布団で寝る親子密着型というか、言葉より肌で通じ合う愛情といったものではなく、親と子が一定の距離を保つサバザした関係なのかも知れない。

  一般にユダヤ人は黒人が嫌いだが、リベラル思想が強く「人類愛」を強調したい金持ちは別なのかも知れない。映画監督のスティーブン・スビルバークは、女優のケイト・キャプショーと再婚した時、彼女が養子にしていたテオを受け容れ、さらに二人でミカエラという黒人の娘を養子にしていた。ケイトには前夫ロバート・キャプショーとの間に、ジェシカという実の娘がいるのだが、テオという黒人を養子にしていたのだ。スピルバーグとケイト・キャプショーの家庭は、連れ子や養子で複雑だが、サーシャとソウヤー、デストリィという実子もちゃんといる。まあ、うなるほど財産があるから生活には困らないのだろう。それにしても、離婚と再婚、再離婚を繰り返した両親を持つ連れ子や養子、実子はどんな気持ちなのか、端から見ていても複雑なのは理解できる。

  嫁姑問題は日本ばかりかアメリカにもある。超人気男優と女優のカップルと言えば、ブラット・ピット&アンジェリーナ・ジョリーだろう。TVドラマ『フレンズ』で人気者となったジェニファー・アニストンを捨てて、共演者の人気女優アンジェリーナに乗り換えたピット氏は大変話題になった。ところが、彼女には少々というか、かなり厄介な問題があった。美しい容姿を受け継ぐが、頭の旋毛(つむじ)が左巻きで、精神的に異常ときている。それというのも、生まれて間もない頃に、父親で有名俳優のジョン・ボイトに捨てられ、母のマーシェリンと暮らすこととなったからだ。自分勝手な父親のせいで、アンジーは兄のジェイムズと一緒に母子家庭で育つことになる。しかし、彼女は学校に通っていても友達と仲良く接することができず、むしろダサい格好を疎まれ孤立することが多かったという。こうして孤独になったアンジーは、さらに根暗な性質を深めて行き、「死」という観念にのめり込んでで行く。寂しさゆえか絶望したのか、手首を切って自殺未遂も起こしたらしい。当時のアンジーは葬儀屋になるのが希望だったようで、遺体の防腐処置まで勉強したという。

  惨めな少女時代を送っても、蛙の子は蛙で、アンジーは女優の道を目指すようになり、徐々にキャリアを積んで行く。そうしてついに『トゥーム・レーダー』で一躍人気女優になった。この映画の撮影でカンボジアを訪れることになり、悲しい幼年時代を過ごしたアンジーは、国連機関の人道支援活動に興味を持つようになる。そこで、悲惨な環境で毎日を過ごす戦争孤児や貧民の子供を知るようになった。2001年、アンジーはカンボジアの孤児院を訪問し、そこにいたマードック少年を養子にしようと決めたそうだ。しかし、このカンボジア人少年を選んだ理由がすごい。アンジーは一番可愛らしい子を選ばず、直感的に「この子 !」と思えるような孤児を拾ったのだという。(Michell Tauber, And Baby Makes Two, People Magazine, August 4, 2003) これじゃあ、まるで捨て犬や野良犬を収容する保健所に赴き、誰も引き取り手のいない不細工な犬を貰ってくるようなものだ。可愛い仔犬はいずれ誰かが引き受けてくれるから、それよりも汚くて哀れな犬を選んだ方が「善いこと」をした気分になる。アンジーの憐憫はまだ続く。彼女はエチオピア人の女子ザハラとベトナム人男子パックスを養子に迎え喜んでいた。有色人種の子供を養子にすると、リベラル嗜好の藝能界とマスコミには好評みたい。まぁ、巨額の出演料をもらうハリウッド・スターの女優だから、あと数十人アフリカ人やアジア人の養子を取っても、生活費にはまったく困らないだろう。

  順調にキャリアを積むアンジーは、映画『Mr & Mrs スミス』で人気俳優のブラッド・ピットに出遭い、彼の恋人ジェニファー・アニストンから奪う形で、彼との同棲生活に入ったらしい。二人にはシャイロという娘に加え、ヴィヴィエンヌとノックスという双子が生まれ、彼らは合計6人の子供を擁する異人種混淆家族となった。ところが、このスーパー・カップルが結婚したのは、子供が生まれて数年後の2014年である。離婚家庭で育ったアンジーや彼女の両親はいいだろうが、ピット家の母親ジェーンはどんな感想だったのか知りたいところだ。ブラッドの母親は、アメリカによくいる普通の保守的女性で、信仰心の篤いキリスト教徒である。彼女は地元新聞に投書をし、共和党の大統領候補ミット・ロムニー元知事に投票するよう呼びかけた。彼女は、高いモラルとビジネスの経験を持ち、妊娠中絶と同性愛に反対するキリスト教徒で良き家庭人のロムニー氏を拒絶する前に、キリスト教徒の皆さんは祈って考えましょう、と訴えた。そして、オバマに反対するよう読者に促したという。

  投書の内容から判断すれば、ジェーン・ピットは古き良き時代のアメリカを継承する、まっとうなアメリカ人女性のように思われる。ベトナム戦争反対世代のビル・クリントンと違う、1950年代のアイゼンハワー時代を懐かしむ善良なアメリカ国民、といったところか。彼女は、我々日本人にとって親しみやすいタイプのアメリカ人である。ところが、こうした母親に育てられたのに、息子のブラッドはオバマの熱烈な支持者で、そのうえ同性愛擁護者。多分、左翼思考のアンジーから多大な影響を受けたのかも知れない。まともな躾をする中流家庭で育った青年が、キリスト教信仰をそっちのけで、反米思考に凝り固まった黒人を応援し、あろう事か吐き気がするホモ連中に同情するなんて考えられない。どう見たって、左翼主義のハリウッドと嫁のアンジーによる悪影響としか思われず、姑のジェーンからすれば、元の恋人ジェニファー・アニストンの方がましに思えてくる。義理の母となるジェーンにとっては、父親との関係が良好なジェニファーの方が、まともな娘に思えてくる。しかし、色々と問題がある嫁でも、孫を三人産んでもらったのだから、ジェーンとしては文句は言えまい。

  女同士がぶつかれば火花の一つくらい勃発するものだ。案の定、頭のおかしい嫁と保守的な姑の間には諍(いさか)いが絶えない。例えば、アンジーは娘のシャイロにボーイッシュな服装をさせるもんだから、祖母のジェーンは気に入らず、孫娘に女の子らしい服を買い与えたそうだ。そしたら、嫁のアンジーはムっとしたらしい。自分の家庭に干渉された、とでも思ったのだろう。自分の教育方針にちょっかいを出す義理の母というのは厄介だ。しかし、祖母からすれば、孫娘のシャイロが養子の息子たちと同じ格好をしているのに、それを咎めないアンジーは母親の自覚が無いように思えてしまう。女の子は女の子らしい服装をさせ、女の子としての躾をするべきだ、という信条をジェーンは持っているから、嫁の放埒な教育方針に反発しても当然だ。これは邪推だが、祖母のジェーンと祖父のビルは、息子夫婦が異人種の養子を持っていることにも不満なのではないか? 妊娠できる体なのに、わざわざ外国から養子を取るなんて馬鹿げている。

  ブラッドの母ジェーンは違うだろうが、アメリカ人の保守的な親には、息子あるいは娘夫婦が有色人種の養子を取ることに反対する者がけっこう多い。不妊の体であれば仕方ないとして諦めるが、それでも養子にするなら白人の赤ん坊が良いのに、と愚痴をこぼしてしまうのだ。アンジーのように妊娠可能な嫁なら、なおさら異人種の養子を取る事への反発が強くなる。あるアメリカ白人の祖母は、息子夫婦が黒人の養女を迎えたことが嫌だったという。その白人夫婦には、ちゃんと実子が二人居たのに、よりにもよって黒人の子供を斡旋業者からもらってきた。あるクリスマスの頃である。二人の孫はおばあちゃんからオモチャをもらって大喜び。祖母の方も、飛び跳ねて喜ぶ孫を見て満足していた。しかし、養子の黒人娘にはプレゼントが無かった。もちろん、養父母からのクリスマス・プレゼントはあったのだが、義理の兄弟はもう一つ特別なプレゼントをもらったのである。それを見ていた彼女は羨ましかったが、同時に悲しくなったという。祖母からすれば黒人の養女は赤の他人だし、もともとその養子縁組に反対していたのだから、プレゼントを渡す義理は無い。幼い少女だってそれくらいは理解できるが、色黒の養女にとっては、家族の一員でないことを思い知らされる場面であった。彼女は実の祖母に甘える兄弟を横目で見ながら、自分が養子先に属していないことを実感したらしい。いくら子供とはいえ、透明な壁は見えるのだ。

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(左: 白人の赤ん坊 / 中央と右: 黒人の赤ん坊)

  元々ショー・ビジネス界というのは、ヤクザな世界だから一般常識から外れた社会である。それでも、白人女優が次々と黒人を養子に取るのは、一種の流行としか思えない。白人女優が“白人”の赤ん坊を養子にしたら気まずいのか? もし、「私は白人だから白人の子供が好きなの」と正直に言えない雰囲気があるとすれば、そうした社会こそ異常である。仮に妊娠できない女性が、自分と同じ種類の子供を養子にする、と言ったら誰が批判できるのか? 養子縁組に関して、黒人を育てる方が立派という理屈はあるまい。それに、有色人種の養子を取る白人女優には、妊娠可能な身体なのに、わざと外国人や異人種の子供を選ぶ者が多い。一般人の親なら、子供をたくさん欲しければ、自分で産めばいいじゃないか、と考えてしまうだろう。しかし、ハリウッド女優は出産に適した20代を下積み時代とし、30代を良い作品に巡り会うチャンスと考えている。したがって、貴重な30代を妊娠と出産、育児にあてることで無駄にしたくないのだ。しかし、結婚はしなくてもいいが、子供は欲しくなるから、大金を使ってでも他人の子供を入手しようと考える。それに養子の方が気が楽だ。自分の子供ではないから、乳母を雇って面倒を見させればいいし、撮影の合間に暇ができれば、子供を抱いて母親のような気分になれる。だも、これじぁ、都会に住む金持ちが、犬を飼うのと同じだ。裕福な飼い主は、散歩や餌といった面倒なことは「何でも屋」にまかせ、仕事が終わったら愛犬を可愛がるだけ。ハリウッド女優にとったら、黒人の養子はこうした犬と変わりがない。

白人に養子にされた黒人の悲劇

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(上写真 / 高値がつきそうな白人の子供)

  アメリカには不妊症に悩むカップルが多く、養子斡旋業が盛んである。ところが、養子を望む夫婦の大半が白人家庭なので、白い赤ん坊の供給が足りなくなり、需要と供給のバランスが崩れている。そもそも、白人女性で自分の子供を手放そうとする者が少ないから、白人の赤ん坊は品不足となり、当然の結果として値段が高い。業者にとって望ましいのは、10代の白人少女が妊娠して、養育できないから里子に出すというケースである。こうした赤ん坊は健康だし、同級生の白人少年とセックスした結果の子供というケースが多いから、外見や人種的にもOKとなり上等品扱い。裕福なカップルに高値を吹っかけても承諾されることは間違いない。だって、フェラーリを一台買おうと思えば、いくら高価な赤ん坊とはいえ安い買い物だ。しかし、現実には白人の子供は少ないから、斡旋業者は売れ残りになりがちな黒人を勧めてくる。言っちゃ悪いが、在庫処分セールと同じだ。もし、お客が黒人の購入を渋るようなら、ちょっと色の違ったアジア人、あるいは白人に近いヒスパニックの子供を薦めたりする。業者としても早めに子供を捌かないと、養子の価値が目減りしてしまうのだ。お客は物心のついていない子供を欲しがる傾向があり、小学生くらいの子供だと敬遠しがちになる。白人の赤ん坊が入手困難と分かったカップルは、仕方なく黒人を養子にするが、引き取られた黒人の子供は幸せになるとは限らない。人種問題についてしばしば発言しているランダル・ケネディー(Randall Kannedy)は、黒人を養子にした白人のダグラス・ベイツを取り上げている。(Randall Kenndey, White Parents, Black Children, The American Prospect, July 23, 2002)

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(上写真/黒人の赤ん坊と黒人混血児)

  1970年、J.ダグラス・ベイツ(Douglas Bates)と妻のグロリア(Gloria)夫人は、二人の息子を持っていたが、養子を一人取ろうと考えていた。それというのも、グロリア夫人は娘を欲しがっていたからだ。夫のダグラスは妻の妊娠を心配していたので、養女を貰うことに決めたらしい。彼らはオレゴン州の児童福祉局に問い合わせ、人種は問わないから、少し大きくなった女の子を斡旋して欲しい、と伝えたそうだ。すると、福祉局は4歳になる女の子をよこしてきた。彼女は黒人の父と白人の母から生まれた混血児で、ベイツ夫妻はリン(Lynn)と名づけた。リンの両親は共にヘロイン所持で服役していた犯罪者である。彼らは釈放されても娘の面倒を見なかったので、福祉局がその子を預かることになったという。だいたい、子供を見棄てる親とはこんなものだ。

  2年後、ベイツ家は二番目の養女を迎えることになった。この女の子も父親が黒人で、母親は14歳の白人だという。実のところ、彼女は別の白人夫婦に引き取られていたのだが、隣人からの嫌がらせや反対に遭って、彼女を諦めたそうだ。そこで、ベイツ夫妻は哀れに思ったのか、この見棄てられた女の子を引き取ることに決めたという。ベイツ夫妻は彼女をリスカ(Liska)と名づけた。

  黒人との混血児は、白人夫妻と容貌や肌の色が著しく異なるので、周囲の者はどうしても奇異に感じるし、彼らと接する者も言葉では表現できぬ違和感や不快感を持ってしまう。ベイツ氏のある伯父は彼らに対し、「どうして綺麗な水に汚い泥を混ぜるような真似をしたがるんだ? 」と述べたそうだ。また、ベイツ夫妻が住む地域は大半が白人労働者階級だったので、近所の住民はリンとリスカを「ニッガー(niggers/黒んぼ)」と呼んでいたという。(1970年代のアメリカでは、まだ言葉狩りが浸透していなかったので、一般人は正直な表現を用いていたのである。) そこで、ベイツ家は人種差別の少ない、より「啓蒙された」所得の高い人々が住む地域に引っ越したそうだ。つまり、黒人の子をモロに嫌がらない、いわゆる「リベラル」的人物が多い住宅地に移ったということだ。

  高額所得者や要職に就く大人は本音を現さないからいいけど、自分の正直な気持ちを圧殺できない子供は、どうしても露骨な反応を示してしまう。ある日、小学校に通うリンが、フォーク・ダンスの授業を受けたところ、少年のグループがリンに対し、「ボクたちの手に触れるんじゃない。服の袖を掴めよ」と命令したそうだ。これを聞いたベイツ夫妻は、彼女に「あの子達は腕白なだけで、人種とは関係ないんだよ」と諭したそうだが、リンはこの偽善的な説明を拒んだという。いくら小学生だって、同級生が何を本気で嫌っているのかは、一瞬で分かるだろう。学校でショックを受けたリンは、見え透いた嘘を語る養父母にガッカリしたし、彼らとの溝をさらに深めたそうだ。ベイツ夫妻は正直に「人種問題」を語るべきだった。黒い肌の娘を傷つけまいとしてついた嘘が、さらに彼女を傷つけるとは考えていなかったのだ。

  子供は本能で動くから、大人がいくら叱っても無駄である。それに、叱ることで却って逆効果となる場合もあるのだ。リンによると、同級生の男子たちは、「アフリカ人の虱(しらみ)なんて嫌だ !」と馬鹿にしたそうである。女の子たちはもっと残酷であった。リンが4年生の時、女子児童たちはリンが白人用の便座に坐ることを許さず、「黒人用の便座に坐れ」と言いつけたそうだ。つまり、白人の女子は黒人が坐った便座を使いたくない、ということだろう。これは1960年代までにあった、人種別の便所を彷彿させる光景である。 その「黒人用便器(black toilet)」は養母のグロリアが学校に訴えたことで無くなったという。やはり、子供は感情に正直だから、種族が違う同級生を仲間と思えないし、一緒に暮らすことを嫌がるから、その拒絶反応が陰湿なイジメとなってしまうのだ。

  白人家庭で育ったリンとリスカだが、白人の同級生とは馴染めなかったという。努力しても越えられない「人種の壁」は厚かった。精神は白人のようでも、肉体は依然として黒人だからしょうがない。そんなリンは高校を卒業すると、ちょいと知り合ったばかりの男とセックスをし、あっという間に妊娠。しかし、軽率と思える彼女の言い分は、黒人に生まれた者にとって身につまされる内容であった。リンは言う。「私は誰かに、つまり遺伝子的に同じ人に属していると思いたいの。骨の髄から同じ血が流れている人達、私と同じ顔つきをしている人達に属している、という気持ちが欲しいのよ。赤ちゃんを産んだ時、私の人生の中で初めて、肉体的な絆をもった気がするわ。」こうした生々しい告白は、愛情で人種差別を越えられる、という薄っぺらな人類愛を持つリベラル夫婦にとっては衝撃だろう。心から湧き上がるリンの本音は、彼らにとって脳天を直撃する霆(いかずち)のようなものだ。黒人の血が流れた娘の悲痛な叫びは、白人に生まれ育った両親には分からない。善意から黒人を育てた白人夫婦は、養子から辛い体験を聞かされて、初めて「人種と遺伝子」の重要性に気づくのだ。

  リンの後に高校を卒業した妹のリスカも、姉と同じ道を歩んだという。リスカはある男とセックスして妊娠したが、彼と別れてオレゴンからロス・アンジェルスに引っ越した。そこでリスカは別の男と出遭ったそうだ。しかし、選んだ男はこれまた、どうしようもない“ロクでなし”であった。バーナード・リーという新しい恋人は、リスカに結婚を約束し、赤ん坊も一緒に育てようと言ってくれたそうだ。ところが、このバーナードは失業中の麻薬中毒者で、おまけに暴力をふるう前科者であった。こんな野郎の育った環境は誰だって想像がつく。予想通りというか、バーナードの父親はゴロツキで、母親は麻薬中毒者の売春婦。乱暴な恋人を嫌ったリスカは、彼の元を去った。しかし、バーナードは承知しない。彼は留守番電話に、「上等だ、リスカ。テメエの白い糞親を心配しろよ。ただし、お前が奴らの葬儀に出る時だがな。オレは本気だぞ。お前がどこに居るのか、オレは知っているだ !」という脅迫メッセージを残したそうだ。恐怖を覚えたベイツ氏は警察に保護を求め、ショット・ガンまで購入したという。

  ベイツ夫妻が混血児を育てたことに、一体どんな意味があったのか? 彼らの善意は自己満足だろう。養子にされた異人種の子供が、どんな風に成長し、どう考えるのかを考慮していなかったのだ。土砂降りの雨の日に、道端で見つけた仔犬を引き取るならいい。ずぶ濡れの仔犬は、温かい部屋と美味しい餌にありつけて、飼い主になついて感謝するだろう。飼い犬は野良犬のような自由が無くても、気楽で毎日餌がもらえる生活から逃れようとはしない。しかし、黒人の子供は人間である。いくら毎日美味しいご飯をもらったからと言ってて、人間としての「誇り」を持ちたいし、自分と同じ種族の者と交流し、お互いの「絆」を確かめ合いたいのだ。たとえ、白人の養父母が立派な教育を与えても、それは黒人集団が与える「アイデンティティー」の替わりとはならない。黒人の養子は、血と肉で繋がる連帯感が欲しいのだ。白人の親は自分が勝手に描いた理想像を養子に押しつけているだけである。

黒人の人種的アイデンティティーとは

  新薬開発のために犠牲となる動物は可哀想だが、人間を実験台にする事は出来ないので仕方ない。もし、人間を使って失敗したらどうするのか? まさか、首を刎ねて屠殺するわけには行かないだろう。だから、取り返しのつかない人体実験や社会実験は止めるべきだ。悲しい結果になった責任は誰が取るのか? おおよそ、嫌な責任は誰もが避けようとするし、みんな知らぬ顔を決め込んでしまうのがオチだ。臭い物には蓋をする。そして、時が過ぎるのを待つのが一般的だ。こう考えれば、異人種を養子にする、という実験は悲惨な結果に終わることか多いから、分別のある大人であれば避けるのが普通である。また、失敗を忘却せず、そこから教訓を得ることも重要であろう。したがって、白人家庭に貰われた黒人の子供が、どんな出来事を体験したかを知ることは我々にとって有益である。

Chad Goller-Sojourner(左/チャド・ゴラー・ソジョナー)
  チャド・ゴラー・ソジョナー(Chad Goller-Sojourner)は、1970年代に養子にされた黒人で、過ごした環境は白人ばかりだったという。近所の住民はほぼ白人だったし、教会へ行けば信徒も白人だけだった。せめて教会くらいは、黒人ばかりのバプティスト教会だったら、チャドも幸せだったろうが、やはり家族で一緒の教会に通うのが普通だから、養父母の教会に通わされたのだろう。笑ったら失礼だけど、チャドは黒人が怖かったらしい。街中で黒人の群れに出くわすと異様に感じたし、ラップ・ミュージックさえ怖かったという。そんなチャドだが、接触する人々は彼を黒人と見なしたから、嫌でも黒人であることを意識せざるを得なかった。

  チャドは大学生になると、養父母の家を離れて暮らすようになり、黒人学生と過ごす時間が多くなった。彼が大学二年生の時、初めて黒人のパーティーに参加し、騒ぎすぎて警察官がやって来たそうだ。何人かの学生は急いで逃げたそうだが、チャドはその時あることに気づいたという。警官が黒人を見る目つきが、かつて自分が街頭で黒人を見る目つきと似ていたのだ。彼は大学生活の中で黒人意識に目覚めて行く。チャドは家族名の「ゴラー」に「ゾジョナー」という名を付け加え、自分の文化的ルーツを勉強したいとの希望から、専攻もアフロ・アメリカ研究に変えてしまったという。彼は白人が黒人の養子を取るならば、黒人の歴史や文化を学び、黒人の友人を作るべきだ、と語っていた。「あなたが黒人を全く知らないのに、どうして黒人の子を自宅に連れて行こうとするのか」とチャドは問いかける。(Danielle C. Belton, 3 Black Adoptees on Racial Identity After Growing Up in White Homes, The Root, January 27, 2015) つまり、黒人を養子に取るなら、養父母は黒人文化に浸るべきだ、と言いたいのだろう。

Lisa Marie Rollings(左/リサ・マリー・ローリングス)
 人間は「見かけ」じゃないよ、「心だよ」というのは簡単だが、初めて会う人や付き合いの浅い人の前では無意味である。世間の多数派が盲(めくら)ならいいが、大抵の人間は目が見えるから、どうしても各人の肉体を意識してしまう。黒人のリサ・マリー・ローリングス(Lisa Marie Rollings)は、白人家庭に引き取られ、ワシントン州にある白人ばかりの地域で育ったという。近所で黒人なのは彼女だけ。白人コミュニティーの中で、ただ一人黒人として過ごすのは、「恐ろしく苦痛だった」とリサは回顧している。気が狂いそうになるくらい辛かったそうで、言葉による差別はもちろんのこと、ドツかれることもしばしばで、あらゆる事が嫌だったらしい。彼女の養父母は「人種を意識しない(colorblind)」環境で育てようとしたらしいが、全く不可能だったという。白人家族の保護膜(veil)で包もうとしたが、それは白人の特権でしかなく、リサには何の意味も成さなかった。「私は養子として育ててもらったけど、養父母とは絆をまったく持てなかったわ。私は白人ばかりのコミュニティーと、全生徒が白人のプロテスタントという学校に通ったの。私の黒人という概念は消されてしまったのよ。でも、みんなが見る眼には、黒人としての私が映っていたの」、とリサは語る。彼女は異人種の養子縁組みに反対する訳ではないが、黒人の養子が白人家庭で育った結果どうなるかを考えると、やはり同種族による縁組みが望ましく、異人種養子は「最後の手段」であるべきだ、と主張していた。

  黒人と白人が共存するというのは、実際にやってみると非常に難しい。ハリウッド女優のように、お金持ちの道楽娘が、気晴らしやちょっとした善意で、黒人を養子に取る場合、彼女たちに罪悪感は無い。したがって、彼女たちは養子が異なる人種の間で育つと、どんな感情を持つのかに関心が無いのだ。 例えば、アンジェリーナ・ジョリーは寂しさ故に、カンボジア人やベトナム人、エチオピア人の養子と白い肌の実子を共に育てている。だが、こうした人種混淆生活はどちらの子供にとっても良いとは言えぬ。彼女の実子は母親を独占したいという欲求が芽生えるし、義理の兄弟と喧嘩した時に、つい怒りで「何だグック(gook/アジア人への蔑称)」とか「黒んぼ(nigger)」と言ってしまうかも知れない。さらに、それを母親から叱られれば余計に依怙地になってしまうだろう。たぶん、アンジーのような母親なら、傷ついた養子を慰めるため、「本気じゃないから、くよくよしちゃダメよ」、と諭すに違いない。しかし、侮蔑された養子は、「やっぱりオレはママやパパの子じゃないんだ」と思ってしまうだろう。こうした苦い体験を噛みしめた養子は、育ててくれた両親に感謝をするだろうが、どこか心の隅で怨んでしまうのかも知れない。

異民族混淆社会に突入する日本

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(写真/日本に来るかも知れないアジア人)

  我が国はこれから崩壊への道を歩もうとしている。ドイツやスウェーデンは移民や難民を受け容れた結果、国民の遺伝子が祖先と異質なものになってしまった。彼らは国境が曖昧になり、国民の肉体が変質しても、行政機構が存続するから、国家は大丈夫と思っている。まるで、鏡に映る身体が浅黒くなっているのに、頭蓋骨は昔のままだから、北欧人だと思っている間抜けのようだ。移民や難民は脅威なのに、それを撃退できない西歐人は、ぼんやりと静かに滅びかけている。日本人は難民を単なる「可哀想な人々」、としか思っていないが、将来の隣人や義理の兄弟、娘の夫、息子の嫁で孫の母親になるとは想像していない。支那人や朝鮮人、フィリピン人やタイ人、イラク人、クルド人、などが家族になるとは思っていないだろう。しかし、難民が一旦日本に上陸すれば、決して祖国に戻ろうとはしないから、永久に我が国に住みつくことになる。たとえ、日本国籍を取得できずとも、日本政府からの福祉を受けるし、日本に住むだけでも最高の幸せとなる。特に、支那人は日本の空気を吸うだけでも感動してしまう。新鮮な空気と澄みきった水は、まるで宝石のようだ。それに、お金が無くても急病になれば、救急車で運んでもらえるし、場合によってはER(緊急治療)室で手術をしてもらえるから、地上の楽園だ。支那では絶対に考えられない。日本には願いが叶う魔法のランプがそこら中にあるのだ。一方、日本人は異民族という重荷を背負って日本海に沈んで行くのである。

  難民や移民は恥の感覚が無いから強い。遠慮が美徳である日本人は露骨に言わないが、日本に来る異邦人は根本的に図々しい連中である。外人の分際なのに、どんどん日本人に要求するし、厄介になって“すまない”とも思わない。特に、日本人は子供に甘いから、外人どもはせっせと「子作り」に勤しむ。異民族だって性慾があるから、彼ら同士でセックスをするし、日本人とも性交して混血児を作るだろう。だが、日系日本人は混血児を同胞と見なすのか? 大人は「金持ち喧嘩せず」の原則で、外国人や帰化人と穏やかに接し、角が立たぬよう交際する“コツ”を心得ている。しかし、子供はまだ自己欺瞞の練習が足りないから、どうしても露骨な嫌悪感を表してしまう。例えば、顔つきがフィリピン風やビルマ風の子供が、日系人の子供の中に混ざって、仲良く遊ぶと想像できるのか? 日系人の小学生だと、フォーク・ダンスを練習する時、アジア系の同級生を拒絶するかも知れない。帰化人や混血児の生徒に対し、「ボクの手に触れんなよ。シャツの袖を掴めよ」と言ったらクラスで問題になるだろう。担任はその日系生徒を叱るだろうし、叱られた子供は余計アジア系の子供に恨みを抱くだろう。そうなれば、教師の陰に隠れてイジメが起きるだろうし、クラスが民族・人種別のグループに別れて分裂することになる。あたかも、アメリカの刑務所みたいな状態になるだろう。こうなれば、いくら心理カウンセラーを雇っても無駄である。肉体的な違いを嫌ったイジメは、どんなに大人が注意しても無くならない。たとえ、イジメによる自殺者が出ても、解決策の無いまま事態が悪化するだけだ。

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(左: 支那人の赤ん坊 / 中央: 朝鮮人男性 / 右: 日本国籍を取った支那人スパイの張景子)

  今のところ日本には100万人程度の支那人移民や、帰化した朝鮮人および在日朝鮮人が存在するそうだ。しかも、これから経済移民や難民が増加するから、日本政府はなし崩し的に外国人を受け容れ始めるに違いない。経済界は低賃金労働者を確保できるので、移民推進の議員を支援するだろう。一方、移民・難民を歓迎しない庶民は、纏まった票田にならないから、政治的勢力にはならない。それに、外人流入への反対は特殊利益を生まないという欠点がある。仮に、移民や難民を排除できたとしても、苦労した議員には庶民からの献金や企業からのキック・バックが無いのだ。単に「災難が去って良かったね」という安心感が残るだけで、マスコミから非難を浴びた議員には見返りがない。それなら大企業の手下になって、廉価な移民を輸入した方が得である。一般人は自分の生活に害が及ぶまで反対の声を上げないから、外人排斥は一部の「極右勢力」のデモに留まり、排除しようとしても中途半端になってしまう。誤解を恐れずに言えば、一度入国した外人を取り除くということは、独裁者でなければできない。それくらい移民・難民問題は厄介なのだ。

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(左: 黒人と朝鮮人の混血児 / 右: 顔面を変える朝鮮人女性)

  難民対策で盲点なのは、難民申請をする外国人が、何度却下されても申請を繰り返し、その間に子供を作ってしまうことである。難民申請中に産まれた子供は、いったい日本人なのか、それとも両親の出身国の国籍を得るのか不明確である。本国に戻る意思のない難民は、何としてでも日本に居坐るし、左翼団体が支援をしているから、ゴネ得のチャンスだって舞い込んでくるだろう。そうやって時間稼ぎをすれば、子供は幼稚園児になり、小学校へ通う年齢になる。日本に居続けたい難民の両親は、日本で育った子供をダシにして、日本での永住を訴えかけるだろう。それに、NHKやTBSが左翼の難民支援団体と連携し、特集番組を組んで日本政府に圧力をかけ、視聴者に対し「難民の子供を救え」、というキャンペーンを張るに違いない。左翼人権派団体は、難民の子供をできるだけ多く集めて、ニュース番組で取り上げ、「子供の人権」とやらを楯に取って、難民家族の特別永住を認めさせるだろう。こうなれば、難民たちは日本国籍を得たのも同然である。日本人と肉体的・文化的にも関係ない異邦人が、日本の至る所に住みつき、日本国民になって投票権まで持つようになるだろう。こうしたシナリオは、在日朝鮮人で証明済みだ。

  まだ健全な家族観を持つ日本人は、アジア人やアフリカ人の移民や難民を養子にする気はないだろう。しかし、国家規模で考えれば、もう既に異質な肉体を持つ養子を何百万、何千万人も抱えているのだ。一見すると日本人に見える人物でも、祖父母の一人が朝鮮人や支那人である者や、両親の片方がアジア人という混血児も増えている。日本人とは日本人の両親から生まれた者を意味するから、朝鮮人や支那人の遺伝子が混ざった人物は、どこかしら精神が濁ってしまうのだ。半世紀以上も日本に住み、かつては日本国民だった朝鮮人で、心から日本の歴史を愛し、皇室を尊び、我が国の伝統を守りたい帰化鮮人はどれほどいるのか? 日本の歴史に無関心で、日本の先人を侮蔑し、皇室を呪う朝鮮人ならいくらでもいるだろう。異邦人は日本国籍を取っても、日本国という家族の一員にはならない。これからの日本には、単なる島の住民という混血児が増えるばかりで、日系人は頑固で偏屈な右翼と定義されるだろう。浅黒い顔をした混血児や北京語が母国語の永住支那人、在日10世を誇る帰化鮮人の子孫が、普通の日本人となるのだ。現在の日本人は「バブルの頃は良かったなぁ」と懐かしむ者が多いが、やがて「日本人が多数派の頃は良かったなぁ」と後悔する日がきっと来るだろう。

  



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醜いアメリカン・ビューティー / 軍人を侮辱するホモのユダヤ人

家庭をぶち壊すハリウッド

  アメリカの価値を破壊する事が、ハリウッド映画の特徴である。西海岸を支配するユダヤ人は、アメリカ人の伝統や血筋が大嫌い。名誉を重んずる軍人や洗練されたマナーを身につけた西歐紳士、貞淑で洗練された貴婦人、勇敢で従順な青年、敬虔なキリスト教徒などを、心から憎んでいる。それというのも、こうした立派な人物は、ユダヤ人のゲットーには存在しないからだ。一千年以上も西欧社会にたかって暮らしてきたユダヤ人は、ヨーロッパ人に憧れる一方で、繰り返し拒絶されるという苦い歴史がある。TVアニメ『妖怪人間ベム』に出てくる、ベム、ベラ、ベロをつい思い出してしまう。この妖怪たちは毎度、「はやく人間になりたい」と望むけど、如何なる方法で人間になれるのかが分からない。ユダヤ人も同様の口癖を持ち、「はやくヨーロッパ人になりたい」と切望するが、なかなか“ヨーロッパ人”という「まっとうな人間」になれずに悩んでいた。穢多(エタ)程度の下層民だったユダヤ人は、第18世紀にゲットーから解放されたが、肉体と精神をヨーロッパ風にすることは遂にできなかった。たとえ、西欧文化を学び高級なスーツに身を包んでも、鏡に映った姿はユダヤ人のままであったからだ。

  「批判理論」はユダヤ人の十八番(おはこ)である。自分のことを棚に上げ、他人の事を辛辣に批判する。ユダヤ人カール・マルクスは、他人を“けなす”事にかけては超一流だった。貧乏人のマルクスは、全ドイツ労働者同盟を創設したフェルディナント・ラサール(Ferdinad Lassalle)から、さんざん世話になったのに、彼との仲にひびが入ると、その容姿を馬鹿にして、黒んぼの血が混じった奴と罵ったらしい。日本のマルクス主義なら、耳が痛くなるような教祖の正体だ。西欧社会に住むユダヤ人は、多かれ少なかれ西歐白人に不満がある。だから、ユダヤ人は力を持ち始めた時、自分たちを毛嫌いした白人どもに、何としても復讐したい気分になってしまうのだ。映画でアメリカ人家庭を描く時、悪意の種を所々にちりばめて、観客に「アメリカ人なんて、しょせん偽善の塊なのだ」というメッセージを盛り込むことが多い。例えば、ファミリー・ドラマだと姦通を密かに続ける善良な夫とか、女刑事や弁護士といったキャラクターなら離婚経験者かレズビアン。金髪碧眼の白人女子大生なら、意地悪で頭が空っぽのアバズレ。キリスト教を扱えば、幼女を犯す牧師や神父を描き、同性愛者に偏見を持つ南部白人とかをオマケにつける。アメリカのTVドラマ・シリーズや映画を観れば、こうしたキャラクター設定が珍しくないのが分かる。

  近年のアメリカ・ドラマで特徴的なのは、同性愛者のキャラクターが、当り前のように設定されていることだ。例えば、同性愛者を主題にした『ウィル・アンド・クレース』とか『モダン・ファミリー』、『Lの世界』を思い出せば分かるだろう。こうしたドラマでは、ゲイやレズビアンを嫌う者の方が間違いとされ、同性愛を理解せぬ偏屈者と見なされるのだ。全米ネットワークのABC放送は、人種混淆や左翼思想を擦り込む最悪局の一つで、『モダン・ファミリー』というドラマで同性愛を掩護していたのである。ゲイのカップルが娘を育てる、というおぞましい内容なのに、明るくコミカルに描いていた。このドラマを手掛けたのは、スティーヴン・レヴィタン(Steven Levitan)というユダヤ人脚本家である。米国にあるゲイ・レズビアンに対する名誉毀損同盟(GLAAD/Gay and Lesbian Alliance Against Defamation)によれば、ABC局は同性愛者を最も擁護するテレビ局10社のうちの一つであるそうだ。(Kristine Marsh, ABC Family Leads the Way in All Things Gay, Media Research Center, April 1, 2013)

  ABCと同じくNBCも悪質だ。このテレビ局は、以前に同性愛者を主人公にした『ウィル&グレース』を放送したことがある。このドラマを書いたのは、デイヴィッド・コーハン(David Kphan)というユダヤ人脚本家で、妹はあの奇抜な格好をしたジェンジ・コーハン(Jenji Kohan)だ。彼女は子供を養うため大麻の密売人となった母親を描いたTVドラマ『ウィーズ(Weeds)』を制作し、その後、刑務所ドラマ『オレンジ・イズ・ザ・ニュー・ブラック(Orange Is the New Black』を書いてヒットさせたユダヤ人脚本家である。このユダヤ人女は、普通の白人女性が犯罪に手を染めるストーリーが大好きだ。ジェンジはなぜか、主人公をユダヤ教を捨てたユダヤ人主婦とか、アバズレのユダヤ女とかにしない。ユダヤ人らしい容姿の女優が主人公だと視聴率が悪くなるせいもあるが、彼女は自分の同類であるユダヤ人のイメージを悪くするような真似はしたくないのだろう。

  頭のおかしい妹を持ったデイヴィッドが組んだ相棒も異常だった。ゲイのマックス・ムチニック(Jason Max Mutchnick)が、『ウィル&グレース』の共同脚本家を務めていたのだ。マックスはエリック・ハイマン(Eric Hyman)という弁護士と結婚し、代理出産で二人の娘を獲得したという。生まれた時からゲイの親に育てられる少女なんて、考えるだけでもゾっとするし、第一その子供が余りにも不憫だ。同性愛結婚だってトンデモないのに、そのうえ代理出産で赤ん坊を手にすることを許すとは、アメリカ社会が如何に病んでいるかの証拠である。NBCはさらに同性愛を宣伝すべく、『ニュー・ノーマル(The New Normal)』というドラマを放送し、その中でゲイのカップルを登場させたのだ。この脚本を書いたのは、アリソン・アドラー(Allison Beth Adler)というユダヤ人レズビアンで、サラ・ギルバートという女優と同棲していたが、後に別れたそうである。共同脚本家のライアン・マーフィー(Ryan Murphy)はゲイで、デイヴィッド・ミラーという男性と結婚した。彼らもローガンとフォードという二人の息子を持つゲイ・カップルである。ドラマの中でも、ブライアンとデイヴィッドというゲイ・カップルが、隣人の子連れ女性に代理母を頼むというストーリーである。この離婚女性のキャラクター設定は、何故か金髪の白人女性である。黒人とか支那人、アラブ系女性ではダメらしい。

  この『ニュー・ノーマル』は、家庭を大切にする保守派キリスト教徒の反発を招き、彼らの猛烈な抗議によってシーズン1で放映中止となった。まあ、いずれ似たようなゲイ・ドラマを作るだろうが、NBCは視聴者の猛反発に屈したようだ。しかし、フィクションのドラマとはいえ、ABCやNBCはおろか、ケーブル・ネットワークのHBO、FX、CW、FOXなどの各局が、伝統的家族像を悉くぶち壊すようなドラマを流しているのだ。もし、日本で普通のホーム・ドラマにゲイ・カップルが現れたら大変だ。男同士が抱き合ったり、代理母を使って養子を取るなんてシーンは、視聴者からの嫌悪感を招くし、スポンサーだってクレームをつけてくる。しかし、社会道徳が崩壊したアメリカでは、それを容認する風潮があるのだ。ユダヤ人が横行するハリウッドで生産される、反米プロパガンダ映像が如何に有害かが分かるだろう。そうした有害映画の中から、1999年に公開され大ヒット作品となった『アメリカン・ビューティー』を紹介したい。

少女に恋をする中年男

  『アメリカン・ビューティー』は、アカデミー賞で監督賞、脚本賞、主演男優賞などを貰ったばかりか、ゴールデン・グローブ賞まで受賞した作品である。ストーリーは、ごく“ありふれた”家族の日常を語るところから始まった。主人公レスター・バーナム(ケヴィン・スペイシー)は、女房と娘を持つ中流家庭の父親で、典型的な中年のホワイト・カラーである。しかし、順調な日々は突然崩れ、上司と揉めたことで解雇されてしまう。妻のキャロリン(アネット・ベニング)は、仕事熱心な不動産業者で、売上げを伸ばそうと野心満々。彼らの一人娘ジェーンは、凡庸な16歳の白人娘で、これまたよくいる親にちょっと反抗的な女子高生だ。バーナム家の隣には、海兵隊を退いたフランク・フィッツ大佐(クリス・クーパー)とその家族が引っ越してきた。彼の妻バーバラは、寡黙で夫に従順な専業主婦。規律正しい軍人の亭主に口答え一つしない。彼らの息子リッキーは、一見すると大人しそうな高校生だが、何でも映像に撮りたがるちょっと変わった写真オタク。いつもビデオ・カメラを携帯し、人物や風景など何でも記録しているので、彼の部屋には録画テープが溢れている。しかし、父親のフッツ大佐は、息子の裏稼業を知らないのだ。リッキーは撮影機材の費用をケーターリングのアルバイトで稼いでいる、と父親に話して納得させていた。ところが、実はマリファナを密売して資金を貯めていたのである。以前、彼は大麻吸飲を父親に見つかったことがあり、そのせいで軍隊学校と精神病院に入れられた過去を持つ。厳格さを絵に描いたような父の前では、リッキーも口答えできず、一兵卒みたいに服従しているのだ。

  ある日、レスターは娘がやっているチア・リーディングを鑑賞するため、バスケット・ボールの試合が行われる体育館に足を運んだ。妻と一緒に客席で娘ジェーンのパフォーマンスを眺めているレスター。ところが、ふと気づけば、娘と一緒に演じているアンジェラ・ヘインズに一目惚れ。娘の演技そっちのけで、妖艶な姿をしたアンジェラを頭に描き、うっとりしながらそのエッチな空想にふけるレスターであった。娘の友人たるアンジェラは、金髪の白人美少女だから、たいそう男の子にモテるらしい。それゆえ、アンジェラはその男性遍歴をジェーンに自慢していたのだ。美形のアンジェラと比べると、地味な感じのジェーンは見劣りがする。しかし、カメラを回して彼女たちを撮影するリッキーにとっては、ジェーンの方が魅力的に思えてしまう。リッキーは自然とジェーンに焦点を合わせながら、こっそりと彼女を撮影していたのだ。繊細な感情を持たぬアンジェラは、オタク族のリッキーを気持ち悪い奴と思っていたが、ジェーンは嫌うどころが、次第にリッキーと親密になる。彼らは終いに肌を許す間柄になってしまうのだ。

  恋愛は活力の元(もと)である。これは古今東西、普遍の真理である。女房子供を持った父親でも、現役の男子なら、若い娘に惹かれてしまうこともあるさ。性慾と理性は一致しない時がある。体育館での出逢いから胸をときめかすレスターは、娘に伴って自宅にやって来たアンジェラを大歓迎。ジェーンは自分の部屋にアンジェラを招き、女の子同士の話に花を咲かせていた。気になってしょうがないレスターは、娘たちの話を盗み聞きしてしまう。その会話のなかで、アンジェラは筋肉質の男性に惹かれると告白する。それを知ったレスターは、早速ガレージに向かい、しばらく使っていない器具を取り出し、急にフットネスに励むようになった。妻のキャロリンは不思議がるが、特別反対する理由がない。肉体的に若返ったレスターは、精神も若くなってしまった。彼は何気なくリッキーを訪ね、大麻を売ってもらっい、一服しながら昔を思い出す。まるで、1970年代によくいたカルフォルニア大学の学生みたいだ。観客はレスターを通して、ベトナム反戦やヒッピーを思い出す。

  現代のアメリカで、仮面夫婦は珍しくない。妻に性的な魅力を感じなくなった中年男性は多いし、亭主より自分の仕事に夢中になる妻もいる。女房のキャロリンは同業の不動産業者バディー・ケインとライバル関係にあったが、ふとしたことで惚れてしまい、不倫関係を結んでしまう。一方、レスターは上司と口論の末、会社を辞めてしまったと妻に打ち明ける。驚いて怒り出すキャロリンに対して、詫びる様子もないレスターは、次の仕事を見つけてきた。それは以前のような管理職ではなく、ファスト・フードの店員というアルバイトであった。それでも前向きなレスターは、筋力トレーニングを欠かさない。一生懸命になって体を鍛えるレスターを、リッキーは隣の家から覗いていた。何でも記録する癖のあるリッキーは、裸になって汗を流すレスターを撮影していたのだ。そんな彼の家族は暗く、食事時でも会話がほとんど無いくらい冷めた家庭である。海兵隊ひと筋のフッツ大佐は、大のホモ嫌い。ある時、近所にゲイのカップルが引っ越してきて、フィッツ家の玄関に立ち、挨拶に訪れた。訪問セールスと勘違いしたフィッツ大佐は、彼らが同性愛者と知って不快感を催す。だが、この父親には隠し事があった。リッキーは親密になったジェーンに、父親のコレクションを内緒で見せたことがある。年代物の拳銃や武器が陳列されたケースの中から、絶対に触れてはならない皿を、ジェーンに見せるリッキー。その皿をひっくり返すと、裏にナチスの鉤十字が記されていたのだ。

  悲劇は偶然に起こるようにできている。ファスト・フード店で働き始めたレスターは、ドライブ・スルーでお客の注文を受ける係になっていた。そこへ、妻キャロリンが運転するクルマがやって来て、外に設置されたマイクに向かって注文する。ハンバーガーを受け取るため、クルマを進ませ、支払いをしようとした時、隣に坐っていた不倫相手のケインが、彼女に抱きつきキスをしながらじゃれていた。そんな二人に「お待ちどう様」と笑顔で接したのがレスター。突然、予想もしなかった亭主の顔を見たキャロリンは真っ青になった。その場を直ちに去ったキャロリンは離婚を覚悟する。一方、息子の大麻吸飲を疑っていたフッツ大佐は、リッキーの部屋を調べていた時に、偶然レスターの録画テープを目にした。再生したテープには、上半身裸で筋肉を鍛える隣人が映っている。しばらくして、その部屋から隣のバーナム家を覗いてみると、レスターがガレージでトレーニングをしていたのである。すると、息子のリッキーがレスターを訪ねてきた。運動して疲れたレスターは、ソファーに仰向きになって寝転ぶ。彼の足下ではリッキーが大麻を紙に詰め、舌を使って巻きたばこを作っていた。しかし、フィッツ大佐の場所からは、ガレージの様子がよく判らない。彼には息子がレスターの下半身に何かをしているように見えたのだ。

  バーナム家から自宅に戻ったリッキーは、暗い自分の部屋に父親がいるのに驚いた。フィッツ大佐はホモと勘違いした息子を激しく問い詰める。父に反発したリッキーは、同性愛関係を認める嘘の告白を父親にしてしまう。激昂したフィッツ大佐は、リッキーを殴りつけ勘当してしまった。親子喧嘩を仲裁できない母に別れを告げて家を出るリッキー。ニューヨークに行き映像業界で働くことにしたリッキーは、ジェーンを連れて新たな生活を送ろ
うと誘った。そこには丁度、アンジェラがいて、二人の馬鹿げた駆け落ちを批判する。ところが、普段と違うリッキーは、冷徹な表情でアンジェラの実態を抉るようなを批判してしまう。完璧に言い負かされたアンジェラは泣き崩れる。本気で心配してくれる恋人がいなかったアンジェラは、そのことをリノッキーに見透かされて傷ついてしまったのだ。

  息子を失ったフィッツ大佐は、土砂降りの雨の中、リッキーがトレーニングに励むガレージにやって来た。思い詰めた大佐を見て、どうしたのか分からず戸惑うレスター。すると、ずぶ濡れの大佐は、いきなりレスターに抱きつき、キスをしようとした。驚いたレスターは彼を突き放す。何と大佐はゲイだった。レスターを同性愛者と勘違いしたフランク・フィッツは、悲しみを紛らわそうとレスターの体を求めたのである。勘違いと気づいた大佐は、無言のままガレージを去った。その後、レスターは暗い台所で、一人で坐っているアンジェラを発見する。傷心のアンジェラは、レスターに自分が美しいかどうかを尋ねた。美しいと答えるレスターを、アンジェラは肉体関係へと誘惑する。彼女を仰向けにし、服を脱がせようとしたレスターは、アンジェラが処女であることを知る。念願叶ってアンジェラを射止めたのに、レスターは意外な告白にショックを受け、欲情がどこかに行ってしまった。冷静になったレスターは、彼女と向き合って話すだけ。やはり、処女だと気が引けるのかも。

  その頃、全てを失う羽目になった妻キャロリンは、クルマの中で昂奮しながら、どうすべきか考えていた。しかし、彼女はクルマの中にあった拳銃に手を延ばす。アンジェラと心を通わせたレスターは、家族の記念写真を目にして微笑む。アンジェラはバスルームに入ってしまい、台所にはレスターただ一人。すると、背後から何者かが近づいてきて、彼の後頭部を撃つ。不審者に射殺されたレスターは即死。鮮血が流れるテーブルに顔を載せ、目を開いたまま死亡したレスター。自宅に居たキャロリンは、クローゼットの中で泣き崩れていた。リッキーとジェーンは、レスターの遺体を台所で発見する。家に戻ったフッツ大佐の服には、血がついていた。犯人はフィッツ大佐という衝撃の結末だ。彼はコレクションの中から拳銃を持ち出し、自分の恥ずかしい性癖を隠すため、レスターを抹殺したのである。

アメリカ軍人を侮蔑するユダヤ人

  一般的に言って、ユダヤ人は商人や学者を目指す者は多いが、愛国心から軍人を志す者は少ない。彼らの社会では、軍人よりラビの方が偉いからだ。それに、西欧世界はユダヤ人にとって祖国ではないから、命を賭けて尽くすほどの価値を見いだせない。もちろん、入隊を希望するユダヤ青年はいるが、それは格好がいいからで、アメリカの理念や伝統を守るためではないだろう。それというのも、合衆国ができた当時、アメリカ人の主体はイギリス系住民で、ユダヤ人は居候ていどの存在だったからだ。狡賢いユダヤ人は合衆国など、しょせん異邦人の国家ということを弁えているので、何も自ら進んで片輪(かたわ)になることはない、と考えてしまう。戦場で火だるまになったり、手足を切断するような目に遭うよりも、政府の官僚や金融業者、起業家になってお金を手にする方を選ぶ。苛酷な訓練で肉体的に辛い兵役より、甘美な生活が待っているビジネスの方が、遙かに魅力的なことを理解しているのがユダヤ人。一方、勉強よりも野外活動が好きな低能白人は、戦争映画に感動して軍隊に入ってしまう。知的産業に殺到するユダヤ人からすれば、軍人を選ぶ奴らは馬鹿としか思えない。現実的には、軍人などホワイト・ハウスに群がる権力者の傭兵である。死んでしまったら、いくら英雄として奉られても、本人がどう思っているか分からないじゃないか。それに、たとえ戦場を生き延びても、大抵は身体障害者か精神異常者になって帰ってくるのが相場である。子供の頃から頭の良いユダヤ人は、こうした実態を分かっているので軍隊に入らない。

  ユダヤ人が軍人を嫌うのには理由(わけ)がある。肉体的に自信が無いユダヤ人は、腕力で問題を解決しようとする白人が嫌いなのだ。ユダヤ人社会には決闘文化がないので、武器を取って決着をつけるやり方を野蛮と考えてしまう。しかも、軍人になるようなタイプの白人から、学生時代にイジメられたりした経験のあるユダヤ人は、一生その恨みを抱き続ける。もちろん、軍人を尊敬する者もいるが、軍人の親を持たないユダヤ人の青年は、あまり軍隊に良いイメージを持っていないのだ。とりわけ、ドイツ系やスコット系の南部白人が群がる海兵隊や陸軍には、ユダヤ人が嫌いなタイプがたくさんいるから、ひ弱なユダヤ人は敢えて入隊しようとは思わない。映画業界に進もうとするユダヤ人なら、きつい軍事訓練を受けた者はまずいないだろう。それに、ハリウッドのユダヤ人には、「自由」を掲げて放埒な生活を送るロクでなしや、怠惰、淫行、男色、無秩序、叛逆などを正当化する者がやたらと多い。ふしだらな生活を誰よりも好むハリウッドのユダヤ人は、規律や義務、名誉、権威、忠誠、愛国心などを尊ぶ軍人とは、根本的に違うのだ。リベラルなユダヤ人にとって、このような徳目は、「自由」を窒息させるものとしか思えない。

  『アメリカン・ビューティー』では、海兵隊大佐であることを常に自慢するフランク・フィッツ大佐を、わざとネガティヴに描いている。ゲイの隣人が挨拶に訪れた時、フィッツは誇らしげに「海兵隊の大佐」を口にした。いかにも、権威主義者のような口調で喋るフィッツ大佐は、観客に傲慢な軍人と映ってしまう。映画の脚本家は、フランク・フィッツを頑固でやかましく、息子を部下のように扱う偏屈オヤジと設定している。しかも、融通の利かない厳格な軍人フランクは、趣味が拳銃やライフルのコレクションで、ひそかにナチス・グッズを集めていたのだ。どうして規律を重んじる西欧系軍人だと、ナチス関連の骨董品を集める趣味になるのか? しかも、偽善者のホモときている。隣人のゲイ・カップルを忌々しく思っているのに、実は自分もホモだった、という筋書きには悪意を感じる。海兵隊員に対する侮辱じゃないか。そもそも、ゲイで海兵隊員になる奴がいても、大佐にまでなれる者は滅多にいまい。連隊長や大隊長でホモなんて、いくらなんでもおかしいだろう。

  映画の中で、息子が薬物を使用していないかどうかを調べるために、尿を出せとコップを渡すフィッツ大佐のシーンがある。ところが、息子のリッキーの方が一枚上手(うわて)であった。友人の尿を冷蔵庫に保管していたのだ。ハリウッドのドラマや映画では、息子に対して権威をふるう軍人の父親、という設定はよくある。CBSの人気TVドラマ「クリミナル・マインド(Criminal Minds)」でも、連続殺人鬼や精神異常者が、父親に虐待された過去を持つ、という設定が多い。しかし、特徴的なのは、そうした子供を折檻(せっかん)する親は、白人、軍人、キリスト教徒になっているのが普通。決して、犯罪者をユダヤ教徒にしない。現実社会でよくある、幼児ポルノにのめり込んだユダヤ人とか、同性愛のユダヤ人異常者、少女に猥褻行為をはたらくラビ、といったキャラクター設定はないのだ。割礼の時、赤ん坊の小さなペニスを啜(すす)るラビなんて、ドラマでは絶対見られない。キリスト教徒の白人なら、幼女強姦魔から狂信的テロリストまで、呆れるほどバラエティーに富んでいる。ユダヤ人は異教徒のアメリカ人に対しては、どんな侮辱を加えようが、「表現の自由」とか「藝術の自由」だと思っている。

制作者は同性愛者

  一般人は、食堂で料理を注文した時、誰が作ったのか知りたがるけど、映画となれば出演者にしか興味がない。老舗のうどん屋だと、麵を捏ねて延ばす店主を見ながら、素材やつゆに興味を示す。しかし、映画だと素材の役者だけに目が向けられ、作っている責任者はどうでもよくなる。不潔な手で麵を捏ねる料理人は嫌だが、破廉恥な頭を持つ監督や脚本家だと気にならないから不思議だ。『アメリカン・ビューティー』の監督は、有名なサム・メンデス(Sam Mendes)である。一般人には映画『タイタニック』に出演した、ケイト・ウィンスレット(Kate Winslet)の亭主と紹介した方が分かりやすいかも知れない。彼が手掛けた映画には、ジェイク・ギレンホール主演の『ジャーヘッド』、007シリーズの『スカイフォール』、そしてトム・ハンクスとポール・ニューマンが共演した『ロード・トゥ・パーディッション』がある。ちなみに、三番目の作品は、日本のドラマ『子連れ狼』にヒントを得て書かれた小説が原作になっているようだ。原作者のマックス・アラン・コリンズは、コミック作品も書く人物だから、日本文化に詳しいのだろう。ハリウッドの脚本家とか漫画家は、よく日本の作品を見ているという。筆者も英語の字幕版『子連れ狼』を見たことがあるので、アメリカ人にもファンがいることが分かる。そういえば昔、NYのマンハッタンで、ストランド・ブックストアーからの帰り道、18番通りである店のショーウィンドーに「マッハ・ゴー・ゴー」のポスターが貼ってあった。米国で懐かしいアニメのポスターを見たことは、今でも印象に残っている。

  ハリウッドのユダヤ人は意識しないにせよ、西欧文化に基づくアメリカ社会を憎んでいる。西歐人とは違った容姿をもつ異邦人は、アメリカ白人に同化できない「よそ者」として育つから、アメリカの伝統や西欧的価値に反発を感じてしまう。そこで、彼らは映画を作るようになると、憎いアメリカ人に復讐を果たそうと試みる。『アメリカン・ビューティー』の制作者は、アメリカ白人の中流家庭を描く時、偽善に満ちた形だけの家族とか、愛情の冷めた夫婦、根暗でグレた娘、麻薬密売の息子といったキャラクター設定を行い、平凡だが温かい堅気の家族という理想を木っ端微塵に打ち砕く。ユダヤ人は、アメリカ白人がどんなに上部(うわべ)を繕っても、根本的に邪悪で淫乱な奴、と伝えたいのだ。それゆえ、レスターはあろうことか、娘の親友に発情するスケベ親父(オヤジ)だし、一方、レスターを誘惑するアンジェラは、金髪で青い目をした美少女だが、ねじ曲がった性格を持つ淫売として描かれている。レスターの妻は典型的キャリア・ウーマンで、外では仮面夫婦を演じるが、家に戻れば亭主との仲は最悪。しかも、同業者と姦通する尻軽女だ。娘のジェーンは、ちょっと豊かな中流家庭に育ちでも、親に反発する凡庸な女子高生。隣に住むリッキーは、表面的には寡黙でおとなしい青年だが、裏でマリファナを扱う密売人ときている。高校生なのに、G13という特別な大麻を2千ドルで販売しているのだ。

  バーナム家を冷たい家庭に描いたのは、監督のサム・メンデスらしい。彼は英国育ちで、ケンブリッジ大学卒のイギリス人と見られているか、実際はポルトガル系ユダヤ人である。父のジェイムズは、カリブ海に浮かぶトリニダード・トバコで育ったポルトガル系の大学教師であった。母親のヴァレリーはブリテン系ユダヤ人で、サムが3歳の時に夫ジェイムズと離婚し、一人息子を連れて英国に戻ったという。彼女は児童文学の作家だったらしく、サムはこの母親から影響を受けて育ったらしい。(Gaby Wood, How Sam Become The Man, The Guardian, 14 December 2008) 彼は両親が揃った温かい家庭を知らない。ユダヤ人母子家庭で育ったサムが、健全なアメリカ人の中流家庭を尊重するのは無理。ユダヤ人監督というのは、無意識的に西歐キリスト教の家庭に「ケチ」をつけたがる。左翼嗜好の彼らは、親子が仲睦まじく暮らす日々なんて大嫌い。体裁を取り繕う理想的家族が、激しく諍(いさか)いを交えながら崩壊する様子を描くことに快感を得るのだ。これは、よく耳にする「シャーデンフロイデ(schadenfreude)」という喜びである。他人の不幸は蜜の味だからね。

  『アメリカン・ビューティー』で、なぜ海兵隊のフィッツ大佐が、ゲイという設定なのかについては、裏事情があった。実は、脚本家のアラン・ボール(Alan Ball)とプロデュサーのブルース・コーエン(Bruce Cohen)が、有名な同性愛者だったのだ。コーエンは、ガブリエル・ケイトンとロサンジェルスで結婚式を挙げ、市長代理のエリッグ・カーセッティが立会人を務めたという。このユダヤ人ホモは、政治活動にも熱心で、同性愛者の平等権を目指すアメリカ財団(American Foundation fo Equal Rights)の会長に就いていた。そして、仕事上の相棒でゲイのドン・ジンクス(Don Jinks)と一緒に、『ミルク』という映画を制作したことでも有名。この作品は、合衆国で最初にゲイであることを宣言した公職者、ハーヴェイ・ミルク(Harvey Bernard Milk)の伝記である。彼は同性愛者のメッカたるサンフランシスコで市長になった人物だ。このゲイ市長は、同性愛者のみならず、有色人種や少数民族、社会的弱者などの代弁者を気取り、当時の保守的なアメリカ世論に反抗していたという。しかし、突然悲劇は訪れた。1978年、元同僚議員のダン・ホワイトにより暗殺され還らぬ人に。この映画は日本でも公開されたが、全くヒットせず、人々の記憶に残らぬ作品であったと言えよう。

  日本では話題にもならなかったが、本国アメリカでは好評だった。札付きの左翼俳優、ショーン・ペン(Sean Penn)がミルクを演じて、アカデミー主演男優賞を取ったのだ。映画の宣伝では言及されていなかったが、ミルクは東欧系ユダヤ人であった。コール・クラヴィッツによれば、ミルクの鼻や声でユダヤ人と分かるのに、批評家たちはわざとそのことに触れなかったらしい。(Cole Krawitz, Why are't folks talking about Harvey Milk being Jewish, J Voice, December 8, 2008) 『ミルク』でゲイ市長を演じたショーン・ペンは、極左役者として有名で、べェネゼェエラの独裁者、故ユーゴ・チャベス大統領と親しかった。彼の左翼思想は父親譲りだ。彼の父レオンは筋金入りの共産主義者で、過激派を輩出するロシア系ユダヤ人である。レオンは組合活動を通して反米活動を続ける赤い俳優で、余りにも熱心だったためか、ついに連邦議会のブラック・リストに載ってしまった。そんな経歴から、彼は表舞台に立つ役者の仕事がなくなり、テレビの制作者という裏舞台に廻ったという。『ミルク』にはその他、エミール・ヒルシュ(Emile Hirsch)とかジェイムズ・フランコ(James Franco)、といったユダヤ人俳優が出演していた。兇弾に斃れたユダヤ人の英雄を、ユダヤ人プロデューサーが演出し、ユダヤ人俳優を起用して美化する、というおぞましい作品である。

  『アメリカン・ビューティー』の脚本を手掛けたアラン・ボールも、同性愛者の権利獲得に熱心だ。彼はピーター・マクディシ(Peter Mcdisssi)というレバノン人俳優と恋仲である。ゲイと公表しているボール氏は、娯楽作品を通して、一般人に同性愛者を受け容れるよう洗脳している。ボールが制作するTVドラマ『トゥルー・ブラッド(True Blood)』は好評らしい。出演者のアンナ・パキンとスティーヴン・モイヤーが、私生活でも親密になって結婚したから、随分と話題になった。シーズン7まで作られた同番組は、現代のアメリカ南部を舞台にした吸血鬼の物語。日本人の科学者によって開発されてた人工血液「トゥルー・ブラッド」により、ヴァンパイアは人を襲って血を啜る必要がなくなったという。人間に無害となった吸血鬼たちは、柩(ひつぎ)から出てきて「アメリカ・ヴァンパイア同盟」を結成し、吸血鬼の権利を主張するようになる。合衆国憲法を修正して、法の下に人間と吸血鬼が平等に扱われるよう願うのだ。(J. Bryan Lowder, True Blood's Queer Legacy, Slate, June 25, 2014)

  ゲイのアラン・ボールは、こうした吸血鬼と同性愛者を重ねているようだ。彼は一般人が異質な集団を排除せず、その違いを認め合い、共存することを訴えているのだ。だから、危害を加えない吸血鬼や同性愛者を排斥しする者は、理解力に欠ける頑固者で、無教養な田舎者として描かれる。だから、『アメリカン・ビューティー』でも、同性愛者のカップルを「ファゴット(ホモ野郎/faggot)」と罵るフランク・フィッツ大佐は、頑固で不寛容な白人の典型いう設定になっていたのだ。政治活動にも関心があるボール氏は、GLSEN(Gay, Lesbian and Straight Education Network)が主宰する授賞式にも参加していた。このGLSENという組織は、同性愛者の若者が学校でイジメられずに学べるよう、安全性を確保するために活動している団体である。彼らは社会に於ける「多様性(diversity)」を呼びかけているそうだ。左翼はこうした甘い言葉を用いて、健全な伝統社会を壊して行く。様々な価値観を持った人々が共存する社会とは、社会を維持する常識や絆を取り除いた、無規範の世界を意味する。そこでは、オッサン同士がペニスをしゃぶり合ったり、数人のオバはんが互いに股間をもみ合う状態が、容認され非難されることがない。ユダヤ人は、彼らの社会では許されない理想的自由を、異邦人の社会で実現したいのだ。あのいかめしい顔をしたラビに叱られない社会は素晴らしく、禁止された男色や淫乱に耽ることができる。

  制作者のボールやコーエンがゲイなら、出演者のアネット・ベニングにも同性愛にまつわる問題があった。彼女は『マーシャル・ロー(The Siege)』や『アメリカン・プレジデント』に出演した女優で、ハリウッドでも名うての左翼俳優ウォーレン・ビーティー(Warren Beatty)と結婚したことでも有名だ。彼らにはキャサリン(Kathlyn)とベンジャミン、イザベル、エラという4人の子供がいるのだが、長女のキャサリンに問題があった。彼女は女性であることに悩んでいた。体は女でも心は男なのだ。そして、彼女は性転換を図り、名前もキャサリンからスティーヴン・アイラ・ビーティー(Stephen Ira Beatty)に変えたという。監督派教会のキリスト教徒を両親に持つアネットにとって、娘が息子になるというのは辛いことだろう。中西部のカンザス州で育ったアネットは、男になった孫娘を両親にどう説明したのか? 映画と違って簡単には行くまい。肉体的異変はしょうがないが、それを積極的に容認する風潮はどこか異常である。

同性愛者があふれる映画の都

  1924年に民族別移民割り当てが改正された後、ユダヤ人の入国が緩和され、さらに第二次世界大戦で、多くのユダヤ難民をアメリカ人は受け容れてしまった。こんにち、移民排斥論者が危惧した状況が起こっている。昔のアメリカ社会なら、同性愛者が堂々とテレビに出演したり、ゲイやレズビアンを題材にしたTVドラマなど想像できなかった。1980年代からちらほらと、ゲイのキャラクターがドラマに出てきたのを覚えている。例えば、ユダヤ人コメディアンのにビリー・クスタルが、コメディーの『ソープ(Soap)』でゲイの役を演じていた。また、ユダヤ人女優のグレン・クローズが、軍隊内の同性愛を扱ったドラマ『サーヴィンク・イン・サイレンス』に出演していたのだ。1990年代になると、ゲイやレズビアンが続々とテレビに現れてきた。人気コメディアンヌのエレン・デジェネレス(Ellen DeGeners)は、1997年レズビアンであることを世間に公表し、各テレビ局はこぞって話題にしていた。彼女には、ポーティア・デ・ロシッという恋人がいるそうだ。ハリウッドでは、エイズに罹った同性愛者を主人公にした、『フィラデルフィア』が作られ、トム・ハンクスが出演していたのである。

Daddy’s_Roommate_coverDaddy's Wedding 1daddys_roommate_in_bed









(左: 「パパのルームメイト」 / 中央: 「パパのウェディング / 右: 「パパのルームメイト」の一部)

  ついでに言えば、アメリカで有名な「反毀損同盟(ADL)」や「保守派ユダヤ教徒シナゴーグ聯合(United Synagogue of Conservative Judaism)」といったユダヤ人団体は、同性愛者を容認する教育を支持している。日本人には信じられないが、『パパのルーム・メイト(Daddy's Roommate)』や『パパの結婚式(Daddy's Wedding)』といった絵本がある。こういった児童書は、同性愛者への偏見を取り除こうとするのが目的だ。つまり、幼い子供にゲイやレズビアンを普通に見る習慣をつけさせる、とんでもない洗脳読本である。『パパのルーム・メイト』では、妻と離婚した父親が息子を引き取り、ゲイの男と同棲を始めるという内容だ。想像するだけでも穢らわしいが、幼い少年とホモのオッサン二人が、一緒に暮らすのをほのぼのと描いている絵本だから恐れ入る。こんな児童書が小学校の図書室に置かれていたのだ。ところが、父兄からの猛烈な抗議によって、取り除かれたらしい。しかし、こうした本を購入した図書館員はどんな連中なんだ? 教育現場には、至る所に左翼が潜んでいるのだろう。NHKの教育テレビが作る子供向け番組だって油断ならないぞ。

  ハリウッドには同性愛者の監督やプロデューサーが異常に多い。有名人を挙げれば大変だから一部を紹介する。名作『マイ・フェア・レディー』を監督したジョージ・クコー(George Cukor)、オリヴィア・ニュートン・ジョンとジョン・トラボルタが共演した『グリース』の監督ランダル・クレイザー(Randal Kleiser)、日系英国人カズオ・イシグロの小説を映画化した『日の名残り』を手掛けたジェイムズ・アイヴォリー(James Ivory)がゲイ。その他、『パイレーツ・オブ・カリビアン』のロバート・マーシャル監督や『アマデウス』を作ったサイモン・キャロー監督、TVドラマ『セックス・アンド・ザ・シティー』のマイケル・パトリック・キング監督が同性愛者だ。監督業もする女優ジョディー・フォスターはレズビアンで、人気ドラマ『24』に英国首相役で登場したスティーヴン・フライもゲイ。有名な司会者ロジー・オドンネルもレズビアンである。報道番組でも同性愛者が堂々と出演している。MSNBCではレイチェル・マドー(Rachel Maddow)がレズビアンで、スーザン・ミクラという女をパートナーにしている。CNNでは、アンダーソン・クーパーが有名だ。彼はベン・マイサニというゲイ・バー経営者を恋人にしているそうである。もう、同性愛者のハリウッド俳優や有力制作者を挙げるとキリがない。

  アメリカのユダヤ人は在日朝鮮人と似ている。寄生先の国で豊かで自由な生活を送っているのに、その国を真に愛することができない。異質な血統をもつ民族は、集(たか)っている国の歴史を尊重でないばかりか、嫌われた記憶ばかりが強く残る。国家に忠誠を尽くし、命を投げ出す覚悟の軍人を愚弄するなんて、普通の国民にはできない。危険な任務に就く軍人には、たとえドラマという虚構の中でも、何らかの敬意を払うべきだ。海兵隊は一番死亡率が高く、有事になれば真っ先に投入される部隊である。そうした海兵隊の大佐を、偽善者のホモにし、挙げ句の果てに卑劣な殺人者にしたてあげる、ユダヤ人の精神には嘔吐(へど)が出る。これからは朝鮮人のみならず、アジア系の映画制作者が我が国で増えるだろう。朝鮮人がドラマで、日本の武士や帝國陸海軍の将兵を設定する時、どんな考えで日本人の先祖を描くのか? また、大東亜戦争の映画を撮る時、昭和天皇をどう扱うのか興味がある。帰化朝鮮系の映画監督は、人相の悪い俳優を用いて、昭和天皇の役を演じさせるかも知れない。リアリティーを追求する、という名目で、日本の武士を愚弄する作品を作る事だって考えられる。戦国武将を題材にした映画を企画する時、男色の武将を登場させて、男同士の淫乱なシーンを撮影するかも知れないのだ。NHKの大河ドラマならやりかねない。ユダヤ人や朝鮮人といった賤民は、寄生先の社会が大切にする価値観を徹底的に批判し、根底から覆すことに喜びを感じるのだろう。多民族共存の時代とか、寛容性に富む社会、とかいった勝手な理想を掲げて、主流民族の伝統的生活様式を破壊する。しかる後に、自分たちに都合の良い社会に変えて行こうとするはずだ。フィクションの映画だからいいじゃないか、と高を括っているときっと後悔するようになるだろう。




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