有色人種を養子にする流行
ハリウッドにはリベラル派が圧倒的に多い。共和党支持者の俳優なんか、ほんの一握りしか居ないんだから。でも、強いて挙げるとすれば、ライフル協会のマスッコト的広告塔だったチャールトン・ヘストンとか、リバタリアンでカーメル市長になったクリント・イーストウッド、形式的な共和党員だけど中身は民衆党員のアーノルド・シュワルツネッガー、くらいじゃないか。一方、左翼思想の俳優を数えたらキリが無い。有名人をちょっと挙げれば、ジョージ・クルーニー、マット・デーモン、アレックボールドウィン、ベン・アフレック、オリヴィア・ワイルド、スーザイ・サランドン、アシュリー・ジャッドなど、すぐ思い浮かぶだろう。そうした役者に、ユダヤ人の監督やプロデューサーを加えたら、トイレット・ペーパーみたいに長くなるので止めにする。
こんな赤いハリウッドで蔓延している流行の一つが、白人女優による有色人種の養子縁組である。彼女たちは子供を産めない体というわけじゃないけど、白人の子供を選ばず、なぜか黒人やアジア人の子供を養子にしたがる。日本人の女優では滅多にないことだが、異人種混淆社会のアメリカでは白人の母親と黒人の養子という組み合わせが結構ある。例えば、南アフリカ出身のボーア系女優であるシャーリーズ・セロンは、結婚できない行き遅れ(spinster)じゃないし、絶対に醜女(しこめ)ではない。結婚相手なら困らないこの美人女優は、結婚して実子を産むより、黒人のジャクソンを養子にすることを選んだ。また、キアヌ・リーヴスと『スピード』で共演したサンドラ・ブロックは、ジェシー・ジェイムズと結婚したが離婚に終わったという。しかし、離婚間際に予てから計画していた養子縁組を断念せず、ルイス・ブランドという黒人の子供を引き取った。浮気者であった亭主を放り出しても、異人種の子供を迎えたというのは、いかにも藝人らしい行動である。
人気役者同士の結婚は長続きしないケースが多い。オーストラリア出身の二流女優だったニコール・キッドマンは、『トップガン』で有名になったトム・クルーズと結婚して、注目を浴びたことはよく知られている。このカップルも実子をもうけず、白人の娘イザベラと黒人の息子コナーを養子に迎えたのだ。彼らは2001年に離婚し、トムは女優のケイティー・ホームズと再婚し、娘をもうけたが2012年に離婚。トム・クルーズとニコール・キッドマンの養子はニコールが引き取ったようだが、そのニコールもキース・アーバンと再婚した。彼らには待望の娘サンディーがうまれ、ニコールはたいそう可愛がっている。これで彼女は子供を産める体であったことが証明されたわけだ。
一方、ニコールと養女のイザベラには深い親子の絆は無いように思われる。報道によれば、ニコールは成長したイザベラが「ママ(Mummy)」と呼んだ時、「ニコールと呼びなさい」と言いつけたらしい。育ての親にしては、ちょっと冷たい感じがしてしまう。また、ニコールは人気トーク・ショー番組『ジミー・キンメル・ライブ』に出演した時、司会者との会話の中で、実子のサンディーを長女と呼んで話題になった。これを聞いていた視聴者は、養女のイザベラが長女のはずだが、と思ったらしい。我々でも、養女のイザベラはどんな立場なんだ、と言いたくなる。しかし、世間通のオバちゃん達なら、「何らかんや言っても、実の子じゃないからねぇ~」と解説するんじゃないか。年齢的に妊娠がきつくなったニコールは、次女を望んだ時、夫婦の受精卵を用いた代理出産を選んだそうだ。彼女は無事に生まれた女を抱いて幸せそうだった。成人した養子はニコールやトムと親しいようだが、親子の感情は薄いのではないか? 離婚したトムとニコールは、それぞれ実の子を持っているから、養子との絆は友人関係みたいなものだろう。やはり、「血は水よりも濃い」と言うからね。
正常な日本人からすれば、黒人を養子にするのが、なぜ素晴らしいのか分からない。人気歌手のマドンナは俳優カルロス・リオンとの間に娘のローデスをもうけ、再婚相手のガイ・リッチーとの間では息子のロコを産んでいた。ところが、マドンナはアフリカのマラウイ共和国を訪れ、現地でバントゥー系の黒人から男の子を得ようと苦労したらしい。たぶんチュワ族の黒人だろう。色々と複雑な手続きや“いざこざ”があったようだが、強引に養子縁組を進めてしまったらしい。やはりお金に物を言わせたんじゃないか。ただ、普通の感覚を持つ日本人からすれば、黒人のデイヴッドをそこまでして欲しいのか、と疑問に思ってしまう。我々には、巨万の富をもてあました大物歌手が、たまたま貧乏国を訪れた際、惨めなアフリカ人を目にしたから、憐れみの感情が湧いたのでは、としか思えない。マドンナはデイヴィッドに加え、マーシーという黒人の男の子を養子にしているのだ。あれぼど多岐にわたる藝能活動を展開している彼女が、四人の子供を養育しているなんて信じられない。たぶん何人か乳母を雇って面倒を見させているのだろう。
しかし、よくよく考えてみれば、マドンナは実際の人間を用いて「ママごと」遊びをしているんじゃないか? 本当の育児なら、多忙な藝能活動と両立できないだろう。例えば、明朝早くから仕事なのに、前日に子供が熱を出したり、鼻詰まりや咳で一晩中看病したあとで、コンサートやテレビ番組の収録なんてできない。子供を持てば耳鼻科、歯医者、小児科、皮膚科、外科、などへ連れて行かねばならないし、学芸会や発表会、交流会、スポーツ大会などにも出席して、子供の姿を見てやらないと、子供たちは孤独感を味わうことになる。スーパー・スターだと、こうした事を全て出来るのかも知れないが、片親で幼い子供4人の育児は相当きついはず。犬を4匹飼うのとは訳が違う。たぶん、マドンナの育児とは、日本人の母親が示すような、一緒に布団で寝る親子密着型というか、言葉より肌で通じ合う愛情といったものではなく、親と子が一定の距離を保つサバザした関係なのかも知れない。
一般にユダヤ人は黒人が嫌いだが、リベラル思想が強く「人類愛」を強調したい金持ちは別なのかも知れない。映画監督のスティーブン・スビルバークは、女優のケイト・キャプショーと再婚した時、彼女が養子にしていたテオを受け容れ、さらに二人でミカエラという黒人の娘を養子にしていた。ケイトには前夫ロバート・キャプショーとの間に、ジェシカという実の娘がいるのだが、テオという黒人を養子にしていたのだ。スピルバーグとケイト・キャプショーの家庭は、連れ子や養子で複雑だが、サーシャとソウヤー、デストリィという実子もちゃんといる。まあ、うなるほど財産があるから生活には困らないのだろう。それにしても、離婚と再婚、再離婚を繰り返した両親を持つ連れ子や養子、実子はどんな気持ちなのか、端から見ていても複雑なのは理解できる。
嫁姑問題は日本ばかりかアメリカにもある。超人気男優と女優のカップルと言えば、ブラット・ピット&アンジェリーナ・ジョリーだろう。TVドラマ『フレンズ』で人気者となったジェニファー・アニストンを捨てて、共演者の人気女優アンジェリーナに乗り換えたピット氏は大変話題になった。ところが、彼女には少々というか、かなり厄介な問題があった。美しい容姿を受け継ぐが、頭の旋毛(つむじ)が左巻きで、精神的に異常ときている。それというのも、生まれて間もない頃に、父親で有名俳優のジョン・ボイトに捨てられ、母のマーシェリンと暮らすこととなったからだ。自分勝手な父親のせいで、アンジーは兄のジェイムズと一緒に母子家庭で育つことになる。しかし、彼女は学校に通っていても友達と仲良く接することができず、むしろダサい格好を疎まれ孤立することが多かったという。こうして孤独になったアンジーは、さらに根暗な性質を深めて行き、「死」という観念にのめり込んでで行く。寂しさゆえか絶望したのか、手首を切って自殺未遂も起こしたらしい。当時のアンジーは葬儀屋になるのが希望だったようで、遺体の防腐処置まで勉強したという。
惨めな少女時代を送っても、蛙の子は蛙で、アンジーは女優の道を目指すようになり、徐々にキャリアを積んで行く。そうしてついに『トゥーム・レーダー』で一躍人気女優になった。この映画の撮影でカンボジアを訪れることになり、悲しい幼年時代を過ごしたアンジーは、国連機関の人道支援活動に興味を持つようになる。そこで、悲惨な環境で毎日を過ごす戦争孤児や貧民の子供を知るようになった。2001年、アンジーはカンボジアの孤児院を訪問し、そこにいたマードック少年を養子にしようと決めたそうだ。しかし、このカンボジア人少年を選んだ理由がすごい。アンジーは一番可愛らしい子を選ばず、直感的に「この子 !」と思えるような孤児を拾ったのだという。(Michell Tauber, And Baby Makes Two, People Magazine, August 4, 2003) これじゃあ、まるで捨て犬や野良犬を収容する保健所に赴き、誰も引き取り手のいない不細工な犬を貰ってくるようなものだ。可愛い仔犬はいずれ誰かが引き受けてくれるから、それよりも汚くて哀れな犬を選んだ方が「善いこと」をした気分になる。アンジーの憐憫はまだ続く。彼女はエチオピア人の女子ザハラとベトナム人男子パックスを養子に迎え喜んでいた。有色人種の子供を養子にすると、リベラル嗜好の藝能界とマスコミには好評みたい。まぁ、巨額の出演料をもらうハリウッド・スターの女優だから、あと数十人アフリカ人やアジア人の養子を取っても、生活費にはまったく困らないだろう。
順調にキャリアを積むアンジーは、映画『Mr & Mrs スミス』で人気俳優のブラッド・ピットに出遭い、彼の恋人ジェニファー・アニストンから奪う形で、彼との同棲生活に入ったらしい。二人にはシャイロという娘に加え、ヴィヴィエンヌとノックスという双子が生まれ、彼らは合計6人の子供を擁する異人種混淆家族となった。ところが、このスーパー・カップルが結婚したのは、子供が生まれて数年後の2014年である。離婚家庭で育ったアンジーや彼女の両親はいいだろうが、ピット家の母親ジェーンはどんな感想だったのか知りたいところだ。ブラッドの母親は、アメリカによくいる普通の保守的女性で、信仰心の篤いキリスト教徒である。彼女は地元新聞に投書をし、共和党の大統領候補ミット・ロムニー元知事に投票するよう呼びかけた。彼女は、高いモラルとビジネスの経験を持ち、妊娠中絶と同性愛に反対するキリスト教徒で良き家庭人のロムニー氏を拒絶する前に、キリスト教徒の皆さんは祈って考えましょう、と訴えた。そして、オバマに反対するよう読者に促したという。
投書の内容から判断すれば、ジェーン・ピットは古き良き時代のアメリカを継承する、まっとうなアメリカ人女性のように思われる。ベトナム戦争反対世代のビル・クリントンと違う、1950年代のアイゼンハワー時代を懐かしむ善良なアメリカ国民、といったところか。彼女は、我々日本人にとって親しみやすいタイプのアメリカ人である。ところが、こうした母親に育てられたのに、息子のブラッドはオバマの熱烈な支持者で、そのうえ同性愛擁護者。多分、左翼思考のアンジーから多大な影響を受けたのかも知れない。まともな躾をする中流家庭で育った青年が、キリスト教信仰をそっちのけで、反米思考に凝り固まった黒人を応援し、あろう事か吐き気がするホモ連中に同情するなんて考えられない。どう見たって、左翼主義のハリウッドと嫁のアンジーによる悪影響としか思われず、姑のジェーンからすれば、元の恋人ジェニファー・アニストンの方がましに思えてくる。義理の母となるジェーンにとっては、父親との関係が良好なジェニファーの方が、まともな娘に思えてくる。しかし、色々と問題がある嫁でも、孫を三人産んでもらったのだから、ジェーンとしては文句は言えまい。
女同士がぶつかれば火花の一つくらい勃発するものだ。案の定、頭のおかしい嫁と保守的な姑の間には諍(いさか)いが絶えない。例えば、アンジーは娘のシャイロにボーイッシュな服装をさせるもんだから、祖母のジェーンは気に入らず、孫娘に女の子らしい服を買い与えたそうだ。そしたら、嫁のアンジーはムっとしたらしい。自分の家庭に干渉された、とでも思ったのだろう。自分の教育方針にちょっかいを出す義理の母というのは厄介だ。しかし、祖母からすれば、孫娘のシャイロが養子の息子たちと同じ格好をしているのに、それを咎めないアンジーは母親の自覚が無いように思えてしまう。女の子は女の子らしい服装をさせ、女の子としての躾をするべきだ、という信条をジェーンは持っているから、嫁の放埒な教育方針に反発しても当然だ。これは邪推だが、祖母のジェーンと祖父のビルは、息子夫婦が異人種の養子を持っていることにも不満なのではないか? 妊娠できる体なのに、わざわざ外国から養子を取るなんて馬鹿げている。
ブラッドの母ジェーンは違うだろうが、アメリカ人の保守的な親には、息子あるいは娘夫婦が有色人種の養子を取ることに反対する者がけっこう多い。不妊の体であれば仕方ないとして諦めるが、それでも養子にするなら白人の赤ん坊が良いのに、と愚痴をこぼしてしまうのだ。アンジーのように妊娠可能な嫁なら、なおさら異人種の養子を取る事への反発が強くなる。あるアメリカ白人の祖母は、息子夫婦が黒人の養女を迎えたことが嫌だったという。その白人夫婦には、ちゃんと実子が二人居たのに、よりにもよって黒人の子供を斡旋業者からもらってきた。あるクリスマスの頃である。二人の孫はおばあちゃんからオモチャをもらって大喜び。祖母の方も、飛び跳ねて喜ぶ孫を見て満足していた。しかし、養子の黒人娘にはプレゼントが無かった。もちろん、養父母からのクリスマス・プレゼントはあったのだが、義理の兄弟はもう一つ特別なプレゼントをもらったのである。それを見ていた彼女は羨ましかったが、同時に悲しくなったという。祖母からすれば黒人の養女は赤の他人だし、もともとその養子縁組に反対していたのだから、プレゼントを渡す義理は無い。幼い少女だってそれくらいは理解できるが、色黒の養女にとっては、家族の一員でないことを思い知らされる場面であった。彼女は実の祖母に甘える兄弟を横目で見ながら、自分が養子先に属していないことを実感したらしい。いくら子供とはいえ、透明な壁は見えるのだ。
(左: 白人の赤ん坊 / 中央と右: 黒人の赤ん坊)
元々ショー・ビジネス界というのは、ヤクザな世界だから一般常識から外れた社会である。それでも、白人女優が次々と黒人を養子に取るのは、一種の流行としか思えない。白人女優が“白人”の赤ん坊を養子にしたら気まずいのか? もし、「私は白人だから白人の子供が好きなの」と正直に言えない雰囲気があるとすれば、そうした社会こそ異常である。仮に妊娠できない女性が、自分と同じ種類の子供を養子にする、と言ったら誰が批判できるのか? 養子縁組に関して、黒人を育てる方が立派という理屈はあるまい。それに、有色人種の養子を取る白人女優には、妊娠可能な身体なのに、わざと外国人や異人種の子供を選ぶ者が多い。一般人の親なら、子供をたくさん欲しければ、自分で産めばいいじゃないか、と考えてしまうだろう。しかし、ハリウッド女優は出産に適した20代を下積み時代とし、30代を良い作品に巡り会うチャンスと考えている。したがって、貴重な30代を妊娠と出産、育児にあてることで無駄にしたくないのだ。しかし、結婚はしなくてもいいが、子供は欲しくなるから、大金を使ってでも他人の子供を入手しようと考える。それに養子の方が気が楽だ。自分の子供ではないから、乳母を雇って面倒を見させればいいし、撮影の合間に暇ができれば、子供を抱いて母親のような気分になれる。だも、これじぁ、都会に住む金持ちが、犬を飼うのと同じだ。裕福な飼い主は、散歩や餌といった面倒なことは「何でも屋」にまかせ、仕事が終わったら愛犬を可愛がるだけ。ハリウッド女優にとったら、黒人の養子はこうした犬と変わりがない。
白人に養子にされた黒人の悲劇
(上写真 / 高値がつきそうな白人の子供)
アメリカには不妊症に悩むカップルが多く、養子斡旋業が盛んである。ところが、養子を望む夫婦の大半が白人家庭なので、白い赤ん坊の供給が足りなくなり、需要と供給のバランスが崩れている。そもそも、白人女性で自分の子供を手放そうとする者が少ないから、白人の赤ん坊は品不足となり、当然の結果として値段が高い。業者にとって望ましいのは、10代の白人少女が妊娠して、養育できないから里子に出すというケースである。こうした赤ん坊は健康だし、同級生の白人少年とセックスした結果の子供というケースが多いから、外見や人種的にもOKとなり上等品扱い。裕福なカップルに高値を吹っかけても承諾されることは間違いない。だって、フェラーリを一台買おうと思えば、いくら高価な赤ん坊とはいえ安い買い物だ。しかし、現実には白人の子供は少ないから、斡旋業者は売れ残りになりがちな黒人を勧めてくる。言っちゃ悪いが、在庫処分セールと同じだ。もし、お客が黒人の購入を渋るようなら、ちょっと色の違ったアジア人、あるいは白人に近いヒスパニックの子供を薦めたりする。業者としても早めに子供を捌かないと、養子の価値が目減りしてしまうのだ。お客は物心のついていない子供を欲しがる傾向があり、小学生くらいの子供だと敬遠しがちになる。白人の赤ん坊が入手困難と分かったカップルは、仕方なく黒人を養子にするが、引き取られた黒人の子供は幸せになるとは限らない。人種問題についてしばしば発言しているランダル・ケネディー(Randall Kannedy)は、黒人を養子にした白人のダグラス・ベイツを取り上げている。(Randall Kenndey, White Parents, Black Children, The American Prospect, July 23, 2002)
(上写真/黒人の赤ん坊と黒人混血児)
1970年、J.ダグラス・ベイツ(Douglas Bates)と妻のグロリア(Gloria)夫人は、二人の息子を持っていたが、養子を一人取ろうと考えていた。それというのも、グロリア夫人は娘を欲しがっていたからだ。夫のダグラスは妻の妊娠を心配していたので、養女を貰うことに決めたらしい。彼らはオレゴン州の児童福祉局に問い合わせ、人種は問わないから、少し大きくなった女の子を斡旋して欲しい、と伝えたそうだ。すると、福祉局は4歳になる女の子をよこしてきた。彼女は黒人の父と白人の母から生まれた混血児で、ベイツ夫妻はリン(Lynn)と名づけた。リンの両親は共にヘロイン所持で服役していた犯罪者である。彼らは釈放されても娘の面倒を見なかったので、福祉局がその子を預かることになったという。だいたい、子供を見棄てる親とはこんなものだ。
2年後、ベイツ家は二番目の養女を迎えることになった。この女の子も父親が黒人で、母親は14歳の白人だという。実のところ、彼女は別の白人夫婦に引き取られていたのだが、隣人からの嫌がらせや反対に遭って、彼女を諦めたそうだ。そこで、ベイツ夫妻は哀れに思ったのか、この見棄てられた女の子を引き取ることに決めたという。ベイツ夫妻は彼女をリスカ(Liska)と名づけた。
黒人との混血児は、白人夫妻と容貌や肌の色が著しく異なるので、周囲の者はどうしても奇異に感じるし、彼らと接する者も言葉では表現できぬ違和感や不快感を持ってしまう。ベイツ氏のある伯父は彼らに対し、「どうして綺麗な水に汚い泥を混ぜるような真似をしたがるんだ? 」と述べたそうだ。また、ベイツ夫妻が住む地域は大半が白人労働者階級だったので、近所の住民はリンとリスカを「ニッガー(niggers/黒んぼ)」と呼んでいたという。(1970年代のアメリカでは、まだ言葉狩りが浸透していなかったので、一般人は正直な表現を用いていたのである。) そこで、ベイツ家は人種差別の少ない、より「啓蒙された」所得の高い人々が住む地域に引っ越したそうだ。つまり、黒人の子をモロに嫌がらない、いわゆる「リベラル」的人物が多い住宅地に移ったということだ。
高額所得者や要職に就く大人は本音を現さないからいいけど、自分の正直な気持ちを圧殺できない子供は、どうしても露骨な反応を示してしまう。ある日、小学校に通うリンが、フォーク・ダンスの授業を受けたところ、少年のグループがリンに対し、「ボクたちの手に触れるんじゃない。服の袖を掴めよ」と命令したそうだ。これを聞いたベイツ夫妻は、彼女に「あの子達は腕白なだけで、人種とは関係ないんだよ」と諭したそうだが、リンはこの偽善的な説明を拒んだという。いくら小学生だって、同級生が何を本気で嫌っているのかは、一瞬で分かるだろう。学校でショックを受けたリンは、見え透いた嘘を語る養父母にガッカリしたし、彼らとの溝をさらに深めたそうだ。ベイツ夫妻は正直に「人種問題」を語るべきだった。黒い肌の娘を傷つけまいとしてついた嘘が、さらに彼女を傷つけるとは考えていなかったのだ。
子供は本能で動くから、大人がいくら叱っても無駄である。それに、叱ることで却って逆効果となる場合もあるのだ。リンによると、同級生の男子たちは、「アフリカ人の虱(しらみ)なんて嫌だ !」と馬鹿にしたそうである。女の子たちはもっと残酷であった。リンが4年生の時、女子児童たちはリンが白人用の便座に坐ることを許さず、「黒人用の便座に坐れ」と言いつけたそうだ。つまり、白人の女子は黒人が坐った便座を使いたくない、ということだろう。これは1960年代までにあった、人種別の便所を彷彿させる光景である。 その「黒人用便器(black toilet)」は養母のグロリアが学校に訴えたことで無くなったという。やはり、子供は感情に正直だから、種族が違う同級生を仲間と思えないし、一緒に暮らすことを嫌がるから、その拒絶反応が陰湿なイジメとなってしまうのだ。
白人家庭で育ったリンとリスカだが、白人の同級生とは馴染めなかったという。努力しても越えられない「人種の壁」は厚かった。精神は白人のようでも、肉体は依然として黒人だからしょうがない。そんなリンは高校を卒業すると、ちょいと知り合ったばかりの男とセックスをし、あっという間に妊娠。しかし、軽率と思える彼女の言い分は、黒人に生まれた者にとって身につまされる内容であった。リンは言う。「私は誰かに、つまり遺伝子的に同じ人に属していると思いたいの。骨の髄から同じ血が流れている人達、私と同じ顔つきをしている人達に属している、という気持ちが欲しいのよ。赤ちゃんを産んだ時、私の人生の中で初めて、肉体的な絆をもった気がするわ。」こうした生々しい告白は、愛情で人種差別を越えられる、という薄っぺらな人類愛を持つリベラル夫婦にとっては衝撃だろう。心から湧き上がるリンの本音は、彼らにとって脳天を直撃する霆(いかずち)のようなものだ。黒人の血が流れた娘の悲痛な叫びは、白人に生まれ育った両親には分からない。善意から黒人を育てた白人夫婦は、養子から辛い体験を聞かされて、初めて「人種と遺伝子」の重要性に気づくのだ。
リンの後に高校を卒業した妹のリスカも、姉と同じ道を歩んだという。リスカはある男とセックスして妊娠したが、彼と別れてオレゴンからロス・アンジェルスに引っ越した。そこでリスカは別の男と出遭ったそうだ。しかし、選んだ男はこれまた、どうしようもない“ロクでなし”であった。バーナード・リーという新しい恋人は、リスカに結婚を約束し、赤ん坊も一緒に育てようと言ってくれたそうだ。ところが、このバーナードは失業中の麻薬中毒者で、おまけに暴力をふるう前科者であった。こんな野郎の育った環境は誰だって想像がつく。予想通りというか、バーナードの父親はゴロツキで、母親は麻薬中毒者の売春婦。乱暴な恋人を嫌ったリスカは、彼の元を去った。しかし、バーナードは承知しない。彼は留守番電話に、「上等だ、リスカ。テメエの白い糞親を心配しろよ。ただし、お前が奴らの葬儀に出る時だがな。オレは本気だぞ。お前がどこに居るのか、オレは知っているだ !」という脅迫メッセージを残したそうだ。恐怖を覚えたベイツ氏は警察に保護を求め、ショット・ガンまで購入したという。
ベイツ夫妻が混血児を育てたことに、一体どんな意味があったのか? 彼らの善意は自己満足だろう。養子にされた異人種の子供が、どんな風に成長し、どう考えるのかを考慮していなかったのだ。土砂降りの雨の日に、道端で見つけた仔犬を引き取るならいい。ずぶ濡れの仔犬は、温かい部屋と美味しい餌にありつけて、飼い主になついて感謝するだろう。飼い犬は野良犬のような自由が無くても、気楽で毎日餌がもらえる生活から逃れようとはしない。しかし、黒人の子供は人間である。いくら毎日美味しいご飯をもらったからと言ってて、人間としての「誇り」を持ちたいし、自分と同じ種族の者と交流し、お互いの「絆」を確かめ合いたいのだ。たとえ、白人の養父母が立派な教育を与えても、それは黒人集団が与える「アイデンティティー」の替わりとはならない。黒人の養子は、血と肉で繋がる連帯感が欲しいのだ。白人の親は自分が勝手に描いた理想像を養子に押しつけているだけである。
黒人の人種的アイデンティティーとは
新薬開発のために犠牲となる動物は可哀想だが、人間を実験台にする事は出来ないので仕方ない。もし、人間を使って失敗したらどうするのか? まさか、首を刎ねて屠殺するわけには行かないだろう。だから、取り返しのつかない人体実験や社会実験は止めるべきだ。悲しい結果になった責任は誰が取るのか? おおよそ、嫌な責任は誰もが避けようとするし、みんな知らぬ顔を決め込んでしまうのがオチだ。臭い物には蓋をする。そして、時が過ぎるのを待つのが一般的だ。こう考えれば、異人種を養子にする、という実験は悲惨な結果に終わることか多いから、分別のある大人であれば避けるのが普通である。また、失敗を忘却せず、そこから教訓を得ることも重要であろう。したがって、白人家庭に貰われた黒人の子供が、どんな出来事を体験したかを知ることは我々にとって有益である。
(左/チャド・ゴラー・ソジョナー)
チャド・ゴラー・ソジョナー(Chad Goller-Sojourner)は、1970年代に養子にされた黒人で、過ごした環境は白人ばかりだったという。近所の住民はほぼ白人だったし、教会へ行けば信徒も白人だけだった。せめて教会くらいは、黒人ばかりのバプティスト教会だったら、チャドも幸せだったろうが、やはり家族で一緒の教会に通うのが普通だから、養父母の教会に通わされたのだろう。笑ったら失礼だけど、チャドは黒人が怖かったらしい。街中で黒人の群れに出くわすと異様に感じたし、ラップ・ミュージックさえ怖かったという。そんなチャドだが、接触する人々は彼を黒人と見なしたから、嫌でも黒人であることを意識せざるを得なかった。
チャドは大学生になると、養父母の家を離れて暮らすようになり、黒人学生と過ごす時間が多くなった。彼が大学二年生の時、初めて黒人のパーティーに参加し、騒ぎすぎて警察官がやって来たそうだ。何人かの学生は急いで逃げたそうだが、チャドはその時あることに気づいたという。警官が黒人を見る目つきが、かつて自分が街頭で黒人を見る目つきと似ていたのだ。彼は大学生活の中で黒人意識に目覚めて行く。チャドは家族名の「ゴラー」に「ゾジョナー」という名を付け加え、自分の文化的ルーツを勉強したいとの希望から、専攻もアフロ・アメリカ研究に変えてしまったという。彼は白人が黒人の養子を取るならば、黒人の歴史や文化を学び、黒人の友人を作るべきだ、と語っていた。「あなたが黒人を全く知らないのに、どうして黒人の子を自宅に連れて行こうとするのか」とチャドは問いかける。(Danielle C. Belton, 3 Black Adoptees on Racial Identity After Growing Up in White Homes, The Root, January 27, 2015) つまり、黒人を養子に取るなら、養父母は黒人文化に浸るべきだ、と言いたいのだろう。
(左/リサ・マリー・ローリングス)
人間は「見かけ」じゃないよ、「心だよ」というのは簡単だが、初めて会う人や付き合いの浅い人の前では無意味である。世間の多数派が盲(めくら)ならいいが、大抵の人間は目が見えるから、どうしても各人の肉体を意識してしまう。黒人のリサ・マリー・ローリングス(Lisa Marie Rollings)は、白人家庭に引き取られ、ワシントン州にある白人ばかりの地域で育ったという。近所で黒人なのは彼女だけ。白人コミュニティーの中で、ただ一人黒人として過ごすのは、「恐ろしく苦痛だった」とリサは回顧している。気が狂いそうになるくらい辛かったそうで、言葉による差別はもちろんのこと、ドツかれることもしばしばで、あらゆる事が嫌だったらしい。彼女の養父母は「人種を意識しない(colorblind)」環境で育てようとしたらしいが、全く不可能だったという。白人家族の保護膜(veil)で包もうとしたが、それは白人の特権でしかなく、リサには何の意味も成さなかった。「私は養子として育ててもらったけど、養父母とは絆をまったく持てなかったわ。私は白人ばかりのコミュニティーと、全生徒が白人のプロテスタントという学校に通ったの。私の黒人という概念は消されてしまったのよ。でも、みんなが見る眼には、黒人としての私が映っていたの」、とリサは語る。彼女は異人種の養子縁組みに反対する訳ではないが、黒人の養子が白人家庭で育った結果どうなるかを考えると、やはり同種族による縁組みが望ましく、異人種養子は「最後の手段」であるべきだ、と主張していた。
黒人と白人が共存するというのは、実際にやってみると非常に難しい。ハリウッド女優のように、お金持ちの道楽娘が、気晴らしやちょっとした善意で、黒人を養子に取る場合、彼女たちに罪悪感は無い。したがって、彼女たちは養子が異なる人種の間で育つと、どんな感情を持つのかに関心が無いのだ。 例えば、アンジェリーナ・ジョリーは寂しさ故に、カンボジア人やベトナム人、エチオピア人の養子と白い肌の実子を共に育てている。だが、こうした人種混淆生活はどちらの子供にとっても良いとは言えぬ。彼女の実子は母親を独占したいという欲求が芽生えるし、義理の兄弟と喧嘩した時に、つい怒りで「何だグック(gook/アジア人への蔑称)」とか「黒んぼ(nigger)」と言ってしまうかも知れない。さらに、それを母親から叱られれば余計に依怙地になってしまうだろう。たぶん、アンジーのような母親なら、傷ついた養子を慰めるため、「本気じゃないから、くよくよしちゃダメよ」、と諭すに違いない。しかし、侮蔑された養子は、「やっぱりオレはママやパパの子じゃないんだ」と思ってしまうだろう。こうした苦い体験を噛みしめた養子は、育ててくれた両親に感謝をするだろうが、どこか心の隅で怨んでしまうのかも知れない。
異民族混淆社会に突入する日本
(写真/日本に来るかも知れないアジア人)
我が国はこれから崩壊への道を歩もうとしている。ドイツやスウェーデンは移民や難民を受け容れた結果、国民の遺伝子が祖先と異質なものになってしまった。彼らは国境が曖昧になり、国民の肉体が変質しても、行政機構が存続するから、国家は大丈夫と思っている。まるで、鏡に映る身体が浅黒くなっているのに、頭蓋骨は昔のままだから、北欧人だと思っている間抜けのようだ。移民や難民は脅威なのに、それを撃退できない西歐人は、ぼんやりと静かに滅びかけている。日本人は難民を単なる「可哀想な人々」、としか思っていないが、将来の隣人や義理の兄弟、娘の夫、息子の嫁で孫の母親になるとは想像していない。支那人や朝鮮人、フィリピン人やタイ人、イラク人、クルド人、などが家族になるとは思っていないだろう。しかし、難民が一旦日本に上陸すれば、決して祖国に戻ろうとはしないから、永久に我が国に住みつくことになる。たとえ、日本国籍を取得できずとも、日本政府からの福祉を受けるし、日本に住むだけでも最高の幸せとなる。特に、支那人は日本の空気を吸うだけでも感動してしまう。新鮮な空気と澄みきった水は、まるで宝石のようだ。それに、お金が無くても急病になれば、救急車で運んでもらえるし、場合によってはER(緊急治療)室で手術をしてもらえるから、地上の楽園だ。支那では絶対に考えられない。日本には願いが叶う魔法のランプがそこら中にあるのだ。一方、日本人は異民族という重荷を背負って日本海に沈んで行くのである。
難民や移民は恥の感覚が無いから強い。遠慮が美徳である日本人は露骨に言わないが、日本に来る異邦人は根本的に図々しい連中である。外人の分際なのに、どんどん日本人に要求するし、厄介になって“すまない”とも思わない。特に、日本人は子供に甘いから、外人どもはせっせと「子作り」に勤しむ。異民族だって性慾があるから、彼ら同士でセックスをするし、日本人とも性交して混血児を作るだろう。だが、日系日本人は混血児を同胞と見なすのか? 大人は「金持ち喧嘩せず」の原則で、外国人や帰化人と穏やかに接し、角が立たぬよう交際する“コツ”を心得ている。しかし、子供はまだ自己欺瞞の練習が足りないから、どうしても露骨な嫌悪感を表してしまう。例えば、顔つきがフィリピン風やビルマ風の子供が、日系人の子供の中に混ざって、仲良く遊ぶと想像できるのか? 日系人の小学生だと、フォーク・ダンスを練習する時、アジア系の同級生を拒絶するかも知れない。帰化人や混血児の生徒に対し、「ボクの手に触れんなよ。シャツの袖を掴めよ」と言ったらクラスで問題になるだろう。担任はその日系生徒を叱るだろうし、叱られた子供は余計アジア系の子供に恨みを抱くだろう。そうなれば、教師の陰に隠れてイジメが起きるだろうし、クラスが民族・人種別のグループに別れて分裂することになる。あたかも、アメリカの刑務所みたいな状態になるだろう。こうなれば、いくら心理カウンセラーを雇っても無駄である。肉体的な違いを嫌ったイジメは、どんなに大人が注意しても無くならない。たとえ、イジメによる自殺者が出ても、解決策の無いまま事態が悪化するだけだ。
(左: 支那人の赤ん坊 / 中央: 朝鮮人男性 / 右: 日本国籍を取った支那人スパイの張景子)
今のところ日本には100万人程度の支那人移民や、帰化した朝鮮人および在日朝鮮人が存在するそうだ。しかも、これから経済移民や難民が増加するから、日本政府はなし崩し的に外国人を受け容れ始めるに違いない。経済界は低賃金労働者を確保できるので、移民推進の議員を支援するだろう。一方、移民・難民を歓迎しない庶民は、纏まった票田にならないから、政治的勢力にはならない。それに、外人流入への反対は特殊利益を生まないという欠点がある。仮に、移民や難民を排除できたとしても、苦労した議員には庶民からの献金や企業からのキック・バックが無いのだ。単に「災難が去って良かったね」という安心感が残るだけで、マスコミから非難を浴びた議員には見返りがない。それなら大企業の手下になって、廉価な移民を輸入した方が得である。一般人は自分の生活に害が及ぶまで反対の声を上げないから、外人排斥は一部の「極右勢力」のデモに留まり、排除しようとしても中途半端になってしまう。誤解を恐れずに言えば、一度入国した外人を取り除くということは、独裁者でなければできない。それくらい移民・難民問題は厄介なのだ。
(左: 黒人と朝鮮人の混血児 / 右: 顔面を変える朝鮮人女性)
難民対策で盲点なのは、難民申請をする外国人が、何度却下されても申請を繰り返し、その間に子供を作ってしまうことである。難民申請中に産まれた子供は、いったい日本人なのか、それとも両親の出身国の国籍を得るのか不明確である。本国に戻る意思のない難民は、何としてでも日本に居坐るし、左翼団体が支援をしているから、ゴネ得のチャンスだって舞い込んでくるだろう。そうやって時間稼ぎをすれば、子供は幼稚園児になり、小学校へ通う年齢になる。日本に居続けたい難民の両親は、日本で育った子供をダシにして、日本での永住を訴えかけるだろう。それに、NHKやTBSが左翼の難民支援団体と連携し、特集番組を組んで日本政府に圧力をかけ、視聴者に対し「難民の子供を救え」、というキャンペーンを張るに違いない。左翼人権派団体は、難民の子供をできるだけ多く集めて、ニュース番組で取り上げ、「子供の人権」とやらを楯に取って、難民家族の特別永住を認めさせるだろう。こうなれば、難民たちは日本国籍を得たのも同然である。日本人と肉体的・文化的にも関係ない異邦人が、日本の至る所に住みつき、日本国民になって投票権まで持つようになるだろう。こうしたシナリオは、在日朝鮮人で証明済みだ。
まだ健全な家族観を持つ日本人は、アジア人やアフリカ人の移民や難民を養子にする気はないだろう。しかし、国家規模で考えれば、もう既に異質な肉体を持つ養子を何百万、何千万人も抱えているのだ。一見すると日本人に見える人物でも、祖父母の一人が朝鮮人や支那人である者や、両親の片方がアジア人という混血児も増えている。日本人とは日本人の両親から生まれた者を意味するから、朝鮮人や支那人の遺伝子が混ざった人物は、どこかしら精神が濁ってしまうのだ。半世紀以上も日本に住み、かつては日本国民だった朝鮮人で、心から日本の歴史を愛し、皇室を尊び、我が国の伝統を守りたい帰化鮮人はどれほどいるのか? 日本の歴史に無関心で、日本の先人を侮蔑し、皇室を呪う朝鮮人ならいくらでもいるだろう。異邦人は日本国籍を取っても、日本国という家族の一員にはならない。これからの日本には、単なる島の住民という混血児が増えるばかりで、日系人は頑固で偏屈な右翼と定義されるだろう。浅黒い顔をした混血児や北京語が母国語の永住支那人、在日10世を誇る帰化鮮人の子孫が、普通の日本人となるのだ。現在の日本人は「バブルの頃は良かったなぁ」と懐かしむ者が多いが、やがて「日本人が多数派の頃は良かったなぁ」と後悔する日がきっと来るだろう。
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ハリウッドにはリベラル派が圧倒的に多い。共和党支持者の俳優なんか、ほんの一握りしか居ないんだから。でも、強いて挙げるとすれば、ライフル協会のマスッコト的広告塔だったチャールトン・ヘストンとか、リバタリアンでカーメル市長になったクリント・イーストウッド、形式的な共和党員だけど中身は民衆党員のアーノルド・シュワルツネッガー、くらいじゃないか。一方、左翼思想の俳優を数えたらキリが無い。有名人をちょっと挙げれば、ジョージ・クルーニー、マット・デーモン、アレックボールドウィン、ベン・アフレック、オリヴィア・ワイルド、スーザイ・サランドン、アシュリー・ジャッドなど、すぐ思い浮かぶだろう。そうした役者に、ユダヤ人の監督やプロデューサーを加えたら、トイレット・ペーパーみたいに長くなるので止めにする。
こんな赤いハリウッドで蔓延している流行の一つが、白人女優による有色人種の養子縁組である。彼女たちは子供を産めない体というわけじゃないけど、白人の子供を選ばず、なぜか黒人やアジア人の子供を養子にしたがる。日本人の女優では滅多にないことだが、異人種混淆社会のアメリカでは白人の母親と黒人の養子という組み合わせが結構ある。例えば、南アフリカ出身のボーア系女優であるシャーリーズ・セロンは、結婚できない行き遅れ(spinster)じゃないし、絶対に醜女(しこめ)ではない。結婚相手なら困らないこの美人女優は、結婚して実子を産むより、黒人のジャクソンを養子にすることを選んだ。また、キアヌ・リーヴスと『スピード』で共演したサンドラ・ブロックは、ジェシー・ジェイムズと結婚したが離婚に終わったという。しかし、離婚間際に予てから計画していた養子縁組を断念せず、ルイス・ブランドという黒人の子供を引き取った。浮気者であった亭主を放り出しても、異人種の子供を迎えたというのは、いかにも藝人らしい行動である。
人気役者同士の結婚は長続きしないケースが多い。オーストラリア出身の二流女優だったニコール・キッドマンは、『トップガン』で有名になったトム・クルーズと結婚して、注目を浴びたことはよく知られている。このカップルも実子をもうけず、白人の娘イザベラと黒人の息子コナーを養子に迎えたのだ。彼らは2001年に離婚し、トムは女優のケイティー・ホームズと再婚し、娘をもうけたが2012年に離婚。トム・クルーズとニコール・キッドマンの養子はニコールが引き取ったようだが、そのニコールもキース・アーバンと再婚した。彼らには待望の娘サンディーがうまれ、ニコールはたいそう可愛がっている。これで彼女は子供を産める体であったことが証明されたわけだ。
一方、ニコールと養女のイザベラには深い親子の絆は無いように思われる。報道によれば、ニコールは成長したイザベラが「ママ(Mummy)」と呼んだ時、「ニコールと呼びなさい」と言いつけたらしい。育ての親にしては、ちょっと冷たい感じがしてしまう。また、ニコールは人気トーク・ショー番組『ジミー・キンメル・ライブ』に出演した時、司会者との会話の中で、実子のサンディーを長女と呼んで話題になった。これを聞いていた視聴者は、養女のイザベラが長女のはずだが、と思ったらしい。我々でも、養女のイザベラはどんな立場なんだ、と言いたくなる。しかし、世間通のオバちゃん達なら、「何らかんや言っても、実の子じゃないからねぇ~」と解説するんじゃないか。年齢的に妊娠がきつくなったニコールは、次女を望んだ時、夫婦の受精卵を用いた代理出産を選んだそうだ。彼女は無事に生まれた女を抱いて幸せそうだった。成人した養子はニコールやトムと親しいようだが、親子の感情は薄いのではないか? 離婚したトムとニコールは、それぞれ実の子を持っているから、養子との絆は友人関係みたいなものだろう。やはり、「血は水よりも濃い」と言うからね。
正常な日本人からすれば、黒人を養子にするのが、なぜ素晴らしいのか分からない。人気歌手のマドンナは俳優カルロス・リオンとの間に娘のローデスをもうけ、再婚相手のガイ・リッチーとの間では息子のロコを産んでいた。ところが、マドンナはアフリカのマラウイ共和国を訪れ、現地でバントゥー系の黒人から男の子を得ようと苦労したらしい。たぶんチュワ族の黒人だろう。色々と複雑な手続きや“いざこざ”があったようだが、強引に養子縁組を進めてしまったらしい。やはりお金に物を言わせたんじゃないか。ただ、普通の感覚を持つ日本人からすれば、黒人のデイヴッドをそこまでして欲しいのか、と疑問に思ってしまう。我々には、巨万の富をもてあました大物歌手が、たまたま貧乏国を訪れた際、惨めなアフリカ人を目にしたから、憐れみの感情が湧いたのでは、としか思えない。マドンナはデイヴィッドに加え、マーシーという黒人の男の子を養子にしているのだ。あれぼど多岐にわたる藝能活動を展開している彼女が、四人の子供を養育しているなんて信じられない。たぶん何人か乳母を雇って面倒を見させているのだろう。
しかし、よくよく考えてみれば、マドンナは実際の人間を用いて「ママごと」遊びをしているんじゃないか? 本当の育児なら、多忙な藝能活動と両立できないだろう。例えば、明朝早くから仕事なのに、前日に子供が熱を出したり、鼻詰まりや咳で一晩中看病したあとで、コンサートやテレビ番組の収録なんてできない。子供を持てば耳鼻科、歯医者、小児科、皮膚科、外科、などへ連れて行かねばならないし、学芸会や発表会、交流会、スポーツ大会などにも出席して、子供の姿を見てやらないと、子供たちは孤独感を味わうことになる。スーパー・スターだと、こうした事を全て出来るのかも知れないが、片親で幼い子供4人の育児は相当きついはず。犬を4匹飼うのとは訳が違う。たぶん、マドンナの育児とは、日本人の母親が示すような、一緒に布団で寝る親子密着型というか、言葉より肌で通じ合う愛情といったものではなく、親と子が一定の距離を保つサバザした関係なのかも知れない。
一般にユダヤ人は黒人が嫌いだが、リベラル思想が強く「人類愛」を強調したい金持ちは別なのかも知れない。映画監督のスティーブン・スビルバークは、女優のケイト・キャプショーと再婚した時、彼女が養子にしていたテオを受け容れ、さらに二人でミカエラという黒人の娘を養子にしていた。ケイトには前夫ロバート・キャプショーとの間に、ジェシカという実の娘がいるのだが、テオという黒人を養子にしていたのだ。スピルバーグとケイト・キャプショーの家庭は、連れ子や養子で複雑だが、サーシャとソウヤー、デストリィという実子もちゃんといる。まあ、うなるほど財産があるから生活には困らないのだろう。それにしても、離婚と再婚、再離婚を繰り返した両親を持つ連れ子や養子、実子はどんな気持ちなのか、端から見ていても複雑なのは理解できる。
嫁姑問題は日本ばかりかアメリカにもある。超人気男優と女優のカップルと言えば、ブラット・ピット&アンジェリーナ・ジョリーだろう。TVドラマ『フレンズ』で人気者となったジェニファー・アニストンを捨てて、共演者の人気女優アンジェリーナに乗り換えたピット氏は大変話題になった。ところが、彼女には少々というか、かなり厄介な問題があった。美しい容姿を受け継ぐが、頭の旋毛(つむじ)が左巻きで、精神的に異常ときている。それというのも、生まれて間もない頃に、父親で有名俳優のジョン・ボイトに捨てられ、母のマーシェリンと暮らすこととなったからだ。自分勝手な父親のせいで、アンジーは兄のジェイムズと一緒に母子家庭で育つことになる。しかし、彼女は学校に通っていても友達と仲良く接することができず、むしろダサい格好を疎まれ孤立することが多かったという。こうして孤独になったアンジーは、さらに根暗な性質を深めて行き、「死」という観念にのめり込んでで行く。寂しさゆえか絶望したのか、手首を切って自殺未遂も起こしたらしい。当時のアンジーは葬儀屋になるのが希望だったようで、遺体の防腐処置まで勉強したという。
惨めな少女時代を送っても、蛙の子は蛙で、アンジーは女優の道を目指すようになり、徐々にキャリアを積んで行く。そうしてついに『トゥーム・レーダー』で一躍人気女優になった。この映画の撮影でカンボジアを訪れることになり、悲しい幼年時代を過ごしたアンジーは、国連機関の人道支援活動に興味を持つようになる。そこで、悲惨な環境で毎日を過ごす戦争孤児や貧民の子供を知るようになった。2001年、アンジーはカンボジアの孤児院を訪問し、そこにいたマードック少年を養子にしようと決めたそうだ。しかし、このカンボジア人少年を選んだ理由がすごい。アンジーは一番可愛らしい子を選ばず、直感的に「この子 !」と思えるような孤児を拾ったのだという。(Michell Tauber, And Baby Makes Two, People Magazine, August 4, 2003) これじゃあ、まるで捨て犬や野良犬を収容する保健所に赴き、誰も引き取り手のいない不細工な犬を貰ってくるようなものだ。可愛い仔犬はいずれ誰かが引き受けてくれるから、それよりも汚くて哀れな犬を選んだ方が「善いこと」をした気分になる。アンジーの憐憫はまだ続く。彼女はエチオピア人の女子ザハラとベトナム人男子パックスを養子に迎え喜んでいた。有色人種の子供を養子にすると、リベラル嗜好の藝能界とマスコミには好評みたい。まぁ、巨額の出演料をもらうハリウッド・スターの女優だから、あと数十人アフリカ人やアジア人の養子を取っても、生活費にはまったく困らないだろう。
順調にキャリアを積むアンジーは、映画『Mr & Mrs スミス』で人気俳優のブラッド・ピットに出遭い、彼の恋人ジェニファー・アニストンから奪う形で、彼との同棲生活に入ったらしい。二人にはシャイロという娘に加え、ヴィヴィエンヌとノックスという双子が生まれ、彼らは合計6人の子供を擁する異人種混淆家族となった。ところが、このスーパー・カップルが結婚したのは、子供が生まれて数年後の2014年である。離婚家庭で育ったアンジーや彼女の両親はいいだろうが、ピット家の母親ジェーンはどんな感想だったのか知りたいところだ。ブラッドの母親は、アメリカによくいる普通の保守的女性で、信仰心の篤いキリスト教徒である。彼女は地元新聞に投書をし、共和党の大統領候補ミット・ロムニー元知事に投票するよう呼びかけた。彼女は、高いモラルとビジネスの経験を持ち、妊娠中絶と同性愛に反対するキリスト教徒で良き家庭人のロムニー氏を拒絶する前に、キリスト教徒の皆さんは祈って考えましょう、と訴えた。そして、オバマに反対するよう読者に促したという。
投書の内容から判断すれば、ジェーン・ピットは古き良き時代のアメリカを継承する、まっとうなアメリカ人女性のように思われる。ベトナム戦争反対世代のビル・クリントンと違う、1950年代のアイゼンハワー時代を懐かしむ善良なアメリカ国民、といったところか。彼女は、我々日本人にとって親しみやすいタイプのアメリカ人である。ところが、こうした母親に育てられたのに、息子のブラッドはオバマの熱烈な支持者で、そのうえ同性愛擁護者。多分、左翼思考のアンジーから多大な影響を受けたのかも知れない。まともな躾をする中流家庭で育った青年が、キリスト教信仰をそっちのけで、反米思考に凝り固まった黒人を応援し、あろう事か吐き気がするホモ連中に同情するなんて考えられない。どう見たって、左翼主義のハリウッドと嫁のアンジーによる悪影響としか思われず、姑のジェーンからすれば、元の恋人ジェニファー・アニストンの方がましに思えてくる。義理の母となるジェーンにとっては、父親との関係が良好なジェニファーの方が、まともな娘に思えてくる。しかし、色々と問題がある嫁でも、孫を三人産んでもらったのだから、ジェーンとしては文句は言えまい。
女同士がぶつかれば火花の一つくらい勃発するものだ。案の定、頭のおかしい嫁と保守的な姑の間には諍(いさか)いが絶えない。例えば、アンジーは娘のシャイロにボーイッシュな服装をさせるもんだから、祖母のジェーンは気に入らず、孫娘に女の子らしい服を買い与えたそうだ。そしたら、嫁のアンジーはムっとしたらしい。自分の家庭に干渉された、とでも思ったのだろう。自分の教育方針にちょっかいを出す義理の母というのは厄介だ。しかし、祖母からすれば、孫娘のシャイロが養子の息子たちと同じ格好をしているのに、それを咎めないアンジーは母親の自覚が無いように思えてしまう。女の子は女の子らしい服装をさせ、女の子としての躾をするべきだ、という信条をジェーンは持っているから、嫁の放埒な教育方針に反発しても当然だ。これは邪推だが、祖母のジェーンと祖父のビルは、息子夫婦が異人種の養子を持っていることにも不満なのではないか? 妊娠できる体なのに、わざわざ外国から養子を取るなんて馬鹿げている。
ブラッドの母ジェーンは違うだろうが、アメリカ人の保守的な親には、息子あるいは娘夫婦が有色人種の養子を取ることに反対する者がけっこう多い。不妊の体であれば仕方ないとして諦めるが、それでも養子にするなら白人の赤ん坊が良いのに、と愚痴をこぼしてしまうのだ。アンジーのように妊娠可能な嫁なら、なおさら異人種の養子を取る事への反発が強くなる。あるアメリカ白人の祖母は、息子夫婦が黒人の養女を迎えたことが嫌だったという。その白人夫婦には、ちゃんと実子が二人居たのに、よりにもよって黒人の子供を斡旋業者からもらってきた。あるクリスマスの頃である。二人の孫はおばあちゃんからオモチャをもらって大喜び。祖母の方も、飛び跳ねて喜ぶ孫を見て満足していた。しかし、養子の黒人娘にはプレゼントが無かった。もちろん、養父母からのクリスマス・プレゼントはあったのだが、義理の兄弟はもう一つ特別なプレゼントをもらったのである。それを見ていた彼女は羨ましかったが、同時に悲しくなったという。祖母からすれば黒人の養女は赤の他人だし、もともとその養子縁組に反対していたのだから、プレゼントを渡す義理は無い。幼い少女だってそれくらいは理解できるが、色黒の養女にとっては、家族の一員でないことを思い知らされる場面であった。彼女は実の祖母に甘える兄弟を横目で見ながら、自分が養子先に属していないことを実感したらしい。いくら子供とはいえ、透明な壁は見えるのだ。
(左: 白人の赤ん坊 / 中央と右: 黒人の赤ん坊)
元々ショー・ビジネス界というのは、ヤクザな世界だから一般常識から外れた社会である。それでも、白人女優が次々と黒人を養子に取るのは、一種の流行としか思えない。白人女優が“白人”の赤ん坊を養子にしたら気まずいのか? もし、「私は白人だから白人の子供が好きなの」と正直に言えない雰囲気があるとすれば、そうした社会こそ異常である。仮に妊娠できない女性が、自分と同じ種類の子供を養子にする、と言ったら誰が批判できるのか? 養子縁組に関して、黒人を育てる方が立派という理屈はあるまい。それに、有色人種の養子を取る白人女優には、妊娠可能な身体なのに、わざと外国人や異人種の子供を選ぶ者が多い。一般人の親なら、子供をたくさん欲しければ、自分で産めばいいじゃないか、と考えてしまうだろう。しかし、ハリウッド女優は出産に適した20代を下積み時代とし、30代を良い作品に巡り会うチャンスと考えている。したがって、貴重な30代を妊娠と出産、育児にあてることで無駄にしたくないのだ。しかし、結婚はしなくてもいいが、子供は欲しくなるから、大金を使ってでも他人の子供を入手しようと考える。それに養子の方が気が楽だ。自分の子供ではないから、乳母を雇って面倒を見させればいいし、撮影の合間に暇ができれば、子供を抱いて母親のような気分になれる。だも、これじぁ、都会に住む金持ちが、犬を飼うのと同じだ。裕福な飼い主は、散歩や餌といった面倒なことは「何でも屋」にまかせ、仕事が終わったら愛犬を可愛がるだけ。ハリウッド女優にとったら、黒人の養子はこうした犬と変わりがない。
白人に養子にされた黒人の悲劇
(上写真 / 高値がつきそうな白人の子供)
アメリカには不妊症に悩むカップルが多く、養子斡旋業が盛んである。ところが、養子を望む夫婦の大半が白人家庭なので、白い赤ん坊の供給が足りなくなり、需要と供給のバランスが崩れている。そもそも、白人女性で自分の子供を手放そうとする者が少ないから、白人の赤ん坊は品不足となり、当然の結果として値段が高い。業者にとって望ましいのは、10代の白人少女が妊娠して、養育できないから里子に出すというケースである。こうした赤ん坊は健康だし、同級生の白人少年とセックスした結果の子供というケースが多いから、外見や人種的にもOKとなり上等品扱い。裕福なカップルに高値を吹っかけても承諾されることは間違いない。だって、フェラーリを一台買おうと思えば、いくら高価な赤ん坊とはいえ安い買い物だ。しかし、現実には白人の子供は少ないから、斡旋業者は売れ残りになりがちな黒人を勧めてくる。言っちゃ悪いが、在庫処分セールと同じだ。もし、お客が黒人の購入を渋るようなら、ちょっと色の違ったアジア人、あるいは白人に近いヒスパニックの子供を薦めたりする。業者としても早めに子供を捌かないと、養子の価値が目減りしてしまうのだ。お客は物心のついていない子供を欲しがる傾向があり、小学生くらいの子供だと敬遠しがちになる。白人の赤ん坊が入手困難と分かったカップルは、仕方なく黒人を養子にするが、引き取られた黒人の子供は幸せになるとは限らない。人種問題についてしばしば発言しているランダル・ケネディー(Randall Kannedy)は、黒人を養子にした白人のダグラス・ベイツを取り上げている。(Randall Kenndey, White Parents, Black Children, The American Prospect, July 23, 2002)
(上写真/黒人の赤ん坊と黒人混血児)
1970年、J.ダグラス・ベイツ(Douglas Bates)と妻のグロリア(Gloria)夫人は、二人の息子を持っていたが、養子を一人取ろうと考えていた。それというのも、グロリア夫人は娘を欲しがっていたからだ。夫のダグラスは妻の妊娠を心配していたので、養女を貰うことに決めたらしい。彼らはオレゴン州の児童福祉局に問い合わせ、人種は問わないから、少し大きくなった女の子を斡旋して欲しい、と伝えたそうだ。すると、福祉局は4歳になる女の子をよこしてきた。彼女は黒人の父と白人の母から生まれた混血児で、ベイツ夫妻はリン(Lynn)と名づけた。リンの両親は共にヘロイン所持で服役していた犯罪者である。彼らは釈放されても娘の面倒を見なかったので、福祉局がその子を預かることになったという。だいたい、子供を見棄てる親とはこんなものだ。
2年後、ベイツ家は二番目の養女を迎えることになった。この女の子も父親が黒人で、母親は14歳の白人だという。実のところ、彼女は別の白人夫婦に引き取られていたのだが、隣人からの嫌がらせや反対に遭って、彼女を諦めたそうだ。そこで、ベイツ夫妻は哀れに思ったのか、この見棄てられた女の子を引き取ることに決めたという。ベイツ夫妻は彼女をリスカ(Liska)と名づけた。
黒人との混血児は、白人夫妻と容貌や肌の色が著しく異なるので、周囲の者はどうしても奇異に感じるし、彼らと接する者も言葉では表現できぬ違和感や不快感を持ってしまう。ベイツ氏のある伯父は彼らに対し、「どうして綺麗な水に汚い泥を混ぜるような真似をしたがるんだ? 」と述べたそうだ。また、ベイツ夫妻が住む地域は大半が白人労働者階級だったので、近所の住民はリンとリスカを「ニッガー(niggers/黒んぼ)」と呼んでいたという。(1970年代のアメリカでは、まだ言葉狩りが浸透していなかったので、一般人は正直な表現を用いていたのである。) そこで、ベイツ家は人種差別の少ない、より「啓蒙された」所得の高い人々が住む地域に引っ越したそうだ。つまり、黒人の子をモロに嫌がらない、いわゆる「リベラル」的人物が多い住宅地に移ったということだ。
高額所得者や要職に就く大人は本音を現さないからいいけど、自分の正直な気持ちを圧殺できない子供は、どうしても露骨な反応を示してしまう。ある日、小学校に通うリンが、フォーク・ダンスの授業を受けたところ、少年のグループがリンに対し、「ボクたちの手に触れるんじゃない。服の袖を掴めよ」と命令したそうだ。これを聞いたベイツ夫妻は、彼女に「あの子達は腕白なだけで、人種とは関係ないんだよ」と諭したそうだが、リンはこの偽善的な説明を拒んだという。いくら小学生だって、同級生が何を本気で嫌っているのかは、一瞬で分かるだろう。学校でショックを受けたリンは、見え透いた嘘を語る養父母にガッカリしたし、彼らとの溝をさらに深めたそうだ。ベイツ夫妻は正直に「人種問題」を語るべきだった。黒い肌の娘を傷つけまいとしてついた嘘が、さらに彼女を傷つけるとは考えていなかったのだ。
子供は本能で動くから、大人がいくら叱っても無駄である。それに、叱ることで却って逆効果となる場合もあるのだ。リンによると、同級生の男子たちは、「アフリカ人の虱(しらみ)なんて嫌だ !」と馬鹿にしたそうである。女の子たちはもっと残酷であった。リンが4年生の時、女子児童たちはリンが白人用の便座に坐ることを許さず、「黒人用の便座に坐れ」と言いつけたそうだ。つまり、白人の女子は黒人が坐った便座を使いたくない、ということだろう。これは1960年代までにあった、人種別の便所を彷彿させる光景である。 その「黒人用便器(black toilet)」は養母のグロリアが学校に訴えたことで無くなったという。やはり、子供は感情に正直だから、種族が違う同級生を仲間と思えないし、一緒に暮らすことを嫌がるから、その拒絶反応が陰湿なイジメとなってしまうのだ。
白人家庭で育ったリンとリスカだが、白人の同級生とは馴染めなかったという。努力しても越えられない「人種の壁」は厚かった。精神は白人のようでも、肉体は依然として黒人だからしょうがない。そんなリンは高校を卒業すると、ちょいと知り合ったばかりの男とセックスをし、あっという間に妊娠。しかし、軽率と思える彼女の言い分は、黒人に生まれた者にとって身につまされる内容であった。リンは言う。「私は誰かに、つまり遺伝子的に同じ人に属していると思いたいの。骨の髄から同じ血が流れている人達、私と同じ顔つきをしている人達に属している、という気持ちが欲しいのよ。赤ちゃんを産んだ時、私の人生の中で初めて、肉体的な絆をもった気がするわ。」こうした生々しい告白は、愛情で人種差別を越えられる、という薄っぺらな人類愛を持つリベラル夫婦にとっては衝撃だろう。心から湧き上がるリンの本音は、彼らにとって脳天を直撃する霆(いかずち)のようなものだ。黒人の血が流れた娘の悲痛な叫びは、白人に生まれ育った両親には分からない。善意から黒人を育てた白人夫婦は、養子から辛い体験を聞かされて、初めて「人種と遺伝子」の重要性に気づくのだ。
リンの後に高校を卒業した妹のリスカも、姉と同じ道を歩んだという。リスカはある男とセックスして妊娠したが、彼と別れてオレゴンからロス・アンジェルスに引っ越した。そこでリスカは別の男と出遭ったそうだ。しかし、選んだ男はこれまた、どうしようもない“ロクでなし”であった。バーナード・リーという新しい恋人は、リスカに結婚を約束し、赤ん坊も一緒に育てようと言ってくれたそうだ。ところが、このバーナードは失業中の麻薬中毒者で、おまけに暴力をふるう前科者であった。こんな野郎の育った環境は誰だって想像がつく。予想通りというか、バーナードの父親はゴロツキで、母親は麻薬中毒者の売春婦。乱暴な恋人を嫌ったリスカは、彼の元を去った。しかし、バーナードは承知しない。彼は留守番電話に、「上等だ、リスカ。テメエの白い糞親を心配しろよ。ただし、お前が奴らの葬儀に出る時だがな。オレは本気だぞ。お前がどこに居るのか、オレは知っているだ !」という脅迫メッセージを残したそうだ。恐怖を覚えたベイツ氏は警察に保護を求め、ショット・ガンまで購入したという。
ベイツ夫妻が混血児を育てたことに、一体どんな意味があったのか? 彼らの善意は自己満足だろう。養子にされた異人種の子供が、どんな風に成長し、どう考えるのかを考慮していなかったのだ。土砂降りの雨の日に、道端で見つけた仔犬を引き取るならいい。ずぶ濡れの仔犬は、温かい部屋と美味しい餌にありつけて、飼い主になついて感謝するだろう。飼い犬は野良犬のような自由が無くても、気楽で毎日餌がもらえる生活から逃れようとはしない。しかし、黒人の子供は人間である。いくら毎日美味しいご飯をもらったからと言ってて、人間としての「誇り」を持ちたいし、自分と同じ種族の者と交流し、お互いの「絆」を確かめ合いたいのだ。たとえ、白人の養父母が立派な教育を与えても、それは黒人集団が与える「アイデンティティー」の替わりとはならない。黒人の養子は、血と肉で繋がる連帯感が欲しいのだ。白人の親は自分が勝手に描いた理想像を養子に押しつけているだけである。
黒人の人種的アイデンティティーとは
新薬開発のために犠牲となる動物は可哀想だが、人間を実験台にする事は出来ないので仕方ない。もし、人間を使って失敗したらどうするのか? まさか、首を刎ねて屠殺するわけには行かないだろう。だから、取り返しのつかない人体実験や社会実験は止めるべきだ。悲しい結果になった責任は誰が取るのか? おおよそ、嫌な責任は誰もが避けようとするし、みんな知らぬ顔を決め込んでしまうのがオチだ。臭い物には蓋をする。そして、時が過ぎるのを待つのが一般的だ。こう考えれば、異人種を養子にする、という実験は悲惨な結果に終わることか多いから、分別のある大人であれば避けるのが普通である。また、失敗を忘却せず、そこから教訓を得ることも重要であろう。したがって、白人家庭に貰われた黒人の子供が、どんな出来事を体験したかを知ることは我々にとって有益である。
(左/チャド・ゴラー・ソジョナー)
チャド・ゴラー・ソジョナー(Chad Goller-Sojourner)は、1970年代に養子にされた黒人で、過ごした環境は白人ばかりだったという。近所の住民はほぼ白人だったし、教会へ行けば信徒も白人だけだった。せめて教会くらいは、黒人ばかりのバプティスト教会だったら、チャドも幸せだったろうが、やはり家族で一緒の教会に通うのが普通だから、養父母の教会に通わされたのだろう。笑ったら失礼だけど、チャドは黒人が怖かったらしい。街中で黒人の群れに出くわすと異様に感じたし、ラップ・ミュージックさえ怖かったという。そんなチャドだが、接触する人々は彼を黒人と見なしたから、嫌でも黒人であることを意識せざるを得なかった。
チャドは大学生になると、養父母の家を離れて暮らすようになり、黒人学生と過ごす時間が多くなった。彼が大学二年生の時、初めて黒人のパーティーに参加し、騒ぎすぎて警察官がやって来たそうだ。何人かの学生は急いで逃げたそうだが、チャドはその時あることに気づいたという。警官が黒人を見る目つきが、かつて自分が街頭で黒人を見る目つきと似ていたのだ。彼は大学生活の中で黒人意識に目覚めて行く。チャドは家族名の「ゴラー」に「ゾジョナー」という名を付け加え、自分の文化的ルーツを勉強したいとの希望から、専攻もアフロ・アメリカ研究に変えてしまったという。彼は白人が黒人の養子を取るならば、黒人の歴史や文化を学び、黒人の友人を作るべきだ、と語っていた。「あなたが黒人を全く知らないのに、どうして黒人の子を自宅に連れて行こうとするのか」とチャドは問いかける。(Danielle C. Belton, 3 Black Adoptees on Racial Identity After Growing Up in White Homes, The Root, January 27, 2015) つまり、黒人を養子に取るなら、養父母は黒人文化に浸るべきだ、と言いたいのだろう。
(左/リサ・マリー・ローリングス)
人間は「見かけ」じゃないよ、「心だよ」というのは簡単だが、初めて会う人や付き合いの浅い人の前では無意味である。世間の多数派が盲(めくら)ならいいが、大抵の人間は目が見えるから、どうしても各人の肉体を意識してしまう。黒人のリサ・マリー・ローリングス(Lisa Marie Rollings)は、白人家庭に引き取られ、ワシントン州にある白人ばかりの地域で育ったという。近所で黒人なのは彼女だけ。白人コミュニティーの中で、ただ一人黒人として過ごすのは、「恐ろしく苦痛だった」とリサは回顧している。気が狂いそうになるくらい辛かったそうで、言葉による差別はもちろんのこと、ドツかれることもしばしばで、あらゆる事が嫌だったらしい。彼女の養父母は「人種を意識しない(colorblind)」環境で育てようとしたらしいが、全く不可能だったという。白人家族の保護膜(veil)で包もうとしたが、それは白人の特権でしかなく、リサには何の意味も成さなかった。「私は養子として育ててもらったけど、養父母とは絆をまったく持てなかったわ。私は白人ばかりのコミュニティーと、全生徒が白人のプロテスタントという学校に通ったの。私の黒人という概念は消されてしまったのよ。でも、みんなが見る眼には、黒人としての私が映っていたの」、とリサは語る。彼女は異人種の養子縁組みに反対する訳ではないが、黒人の養子が白人家庭で育った結果どうなるかを考えると、やはり同種族による縁組みが望ましく、異人種養子は「最後の手段」であるべきだ、と主張していた。
黒人と白人が共存するというのは、実際にやってみると非常に難しい。ハリウッド女優のように、お金持ちの道楽娘が、気晴らしやちょっとした善意で、黒人を養子に取る場合、彼女たちに罪悪感は無い。したがって、彼女たちは養子が異なる人種の間で育つと、どんな感情を持つのかに関心が無いのだ。 例えば、アンジェリーナ・ジョリーは寂しさ故に、カンボジア人やベトナム人、エチオピア人の養子と白い肌の実子を共に育てている。だが、こうした人種混淆生活はどちらの子供にとっても良いとは言えぬ。彼女の実子は母親を独占したいという欲求が芽生えるし、義理の兄弟と喧嘩した時に、つい怒りで「何だグック(gook/アジア人への蔑称)」とか「黒んぼ(nigger)」と言ってしまうかも知れない。さらに、それを母親から叱られれば余計に依怙地になってしまうだろう。たぶん、アンジーのような母親なら、傷ついた養子を慰めるため、「本気じゃないから、くよくよしちゃダメよ」、と諭すに違いない。しかし、侮蔑された養子は、「やっぱりオレはママやパパの子じゃないんだ」と思ってしまうだろう。こうした苦い体験を噛みしめた養子は、育ててくれた両親に感謝をするだろうが、どこか心の隅で怨んでしまうのかも知れない。
異民族混淆社会に突入する日本
(写真/日本に来るかも知れないアジア人)
我が国はこれから崩壊への道を歩もうとしている。ドイツやスウェーデンは移民や難民を受け容れた結果、国民の遺伝子が祖先と異質なものになってしまった。彼らは国境が曖昧になり、国民の肉体が変質しても、行政機構が存続するから、国家は大丈夫と思っている。まるで、鏡に映る身体が浅黒くなっているのに、頭蓋骨は昔のままだから、北欧人だと思っている間抜けのようだ。移民や難民は脅威なのに、それを撃退できない西歐人は、ぼんやりと静かに滅びかけている。日本人は難民を単なる「可哀想な人々」、としか思っていないが、将来の隣人や義理の兄弟、娘の夫、息子の嫁で孫の母親になるとは想像していない。支那人や朝鮮人、フィリピン人やタイ人、イラク人、クルド人、などが家族になるとは思っていないだろう。しかし、難民が一旦日本に上陸すれば、決して祖国に戻ろうとはしないから、永久に我が国に住みつくことになる。たとえ、日本国籍を取得できずとも、日本政府からの福祉を受けるし、日本に住むだけでも最高の幸せとなる。特に、支那人は日本の空気を吸うだけでも感動してしまう。新鮮な空気と澄みきった水は、まるで宝石のようだ。それに、お金が無くても急病になれば、救急車で運んでもらえるし、場合によってはER(緊急治療)室で手術をしてもらえるから、地上の楽園だ。支那では絶対に考えられない。日本には願いが叶う魔法のランプがそこら中にあるのだ。一方、日本人は異民族という重荷を背負って日本海に沈んで行くのである。
難民や移民は恥の感覚が無いから強い。遠慮が美徳である日本人は露骨に言わないが、日本に来る異邦人は根本的に図々しい連中である。外人の分際なのに、どんどん日本人に要求するし、厄介になって“すまない”とも思わない。特に、日本人は子供に甘いから、外人どもはせっせと「子作り」に勤しむ。異民族だって性慾があるから、彼ら同士でセックスをするし、日本人とも性交して混血児を作るだろう。だが、日系日本人は混血児を同胞と見なすのか? 大人は「金持ち喧嘩せず」の原則で、外国人や帰化人と穏やかに接し、角が立たぬよう交際する“コツ”を心得ている。しかし、子供はまだ自己欺瞞の練習が足りないから、どうしても露骨な嫌悪感を表してしまう。例えば、顔つきがフィリピン風やビルマ風の子供が、日系人の子供の中に混ざって、仲良く遊ぶと想像できるのか? 日系人の小学生だと、フォーク・ダンスを練習する時、アジア系の同級生を拒絶するかも知れない。帰化人や混血児の生徒に対し、「ボクの手に触れんなよ。シャツの袖を掴めよ」と言ったらクラスで問題になるだろう。担任はその日系生徒を叱るだろうし、叱られた子供は余計アジア系の子供に恨みを抱くだろう。そうなれば、教師の陰に隠れてイジメが起きるだろうし、クラスが民族・人種別のグループに別れて分裂することになる。あたかも、アメリカの刑務所みたいな状態になるだろう。こうなれば、いくら心理カウンセラーを雇っても無駄である。肉体的な違いを嫌ったイジメは、どんなに大人が注意しても無くならない。たとえ、イジメによる自殺者が出ても、解決策の無いまま事態が悪化するだけだ。
(左: 支那人の赤ん坊 / 中央: 朝鮮人男性 / 右: 日本国籍を取った支那人スパイの張景子)
今のところ日本には100万人程度の支那人移民や、帰化した朝鮮人および在日朝鮮人が存在するそうだ。しかも、これから経済移民や難民が増加するから、日本政府はなし崩し的に外国人を受け容れ始めるに違いない。経済界は低賃金労働者を確保できるので、移民推進の議員を支援するだろう。一方、移民・難民を歓迎しない庶民は、纏まった票田にならないから、政治的勢力にはならない。それに、外人流入への反対は特殊利益を生まないという欠点がある。仮に、移民や難民を排除できたとしても、苦労した議員には庶民からの献金や企業からのキック・バックが無いのだ。単に「災難が去って良かったね」という安心感が残るだけで、マスコミから非難を浴びた議員には見返りがない。それなら大企業の手下になって、廉価な移民を輸入した方が得である。一般人は自分の生活に害が及ぶまで反対の声を上げないから、外人排斥は一部の「極右勢力」のデモに留まり、排除しようとしても中途半端になってしまう。誤解を恐れずに言えば、一度入国した外人を取り除くということは、独裁者でなければできない。それくらい移民・難民問題は厄介なのだ。
(左: 黒人と朝鮮人の混血児 / 右: 顔面を変える朝鮮人女性)
難民対策で盲点なのは、難民申請をする外国人が、何度却下されても申請を繰り返し、その間に子供を作ってしまうことである。難民申請中に産まれた子供は、いったい日本人なのか、それとも両親の出身国の国籍を得るのか不明確である。本国に戻る意思のない難民は、何としてでも日本に居坐るし、左翼団体が支援をしているから、ゴネ得のチャンスだって舞い込んでくるだろう。そうやって時間稼ぎをすれば、子供は幼稚園児になり、小学校へ通う年齢になる。日本に居続けたい難民の両親は、日本で育った子供をダシにして、日本での永住を訴えかけるだろう。それに、NHKやTBSが左翼の難民支援団体と連携し、特集番組を組んで日本政府に圧力をかけ、視聴者に対し「難民の子供を救え」、というキャンペーンを張るに違いない。左翼人権派団体は、難民の子供をできるだけ多く集めて、ニュース番組で取り上げ、「子供の人権」とやらを楯に取って、難民家族の特別永住を認めさせるだろう。こうなれば、難民たちは日本国籍を得たのも同然である。日本人と肉体的・文化的にも関係ない異邦人が、日本の至る所に住みつき、日本国民になって投票権まで持つようになるだろう。こうしたシナリオは、在日朝鮮人で証明済みだ。
まだ健全な家族観を持つ日本人は、アジア人やアフリカ人の移民や難民を養子にする気はないだろう。しかし、国家規模で考えれば、もう既に異質な肉体を持つ養子を何百万、何千万人も抱えているのだ。一見すると日本人に見える人物でも、祖父母の一人が朝鮮人や支那人である者や、両親の片方がアジア人という混血児も増えている。日本人とは日本人の両親から生まれた者を意味するから、朝鮮人や支那人の遺伝子が混ざった人物は、どこかしら精神が濁ってしまうのだ。半世紀以上も日本に住み、かつては日本国民だった朝鮮人で、心から日本の歴史を愛し、皇室を尊び、我が国の伝統を守りたい帰化鮮人はどれほどいるのか? 日本の歴史に無関心で、日本の先人を侮蔑し、皇室を呪う朝鮮人ならいくらでもいるだろう。異邦人は日本国籍を取っても、日本国という家族の一員にはならない。これからの日本には、単なる島の住民という混血児が増えるばかりで、日系人は頑固で偏屈な右翼と定義されるだろう。浅黒い顔をした混血児や北京語が母国語の永住支那人、在日10世を誇る帰化鮮人の子孫が、普通の日本人となるのだ。現在の日本人は「バブルの頃は良かったなぁ」と懐かしむ者が多いが、やがて「日本人が多数派の頃は良かったなぁ」と後悔する日がきっと来るだろう。
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