分裂するアメリカの根本原因

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(独立戦争でのジョージ・ワシントン)

  「帯に短し、襷(たすき)に長し、褌(ふんどし)用には、ちと足りぬ」、なんて布切れは、どうにもこうにも使い道に困る。半端な布に譬えるのは、ちょっと失礼だが、こんにちの参議院は本来の機能が備わっていないのだ。今年は、参院議員と衆院議員のダブル選挙もあるのでは、と噂されている。しかし、参議院に対する一般国民の関心は低く、適当に投票する人が多い。見ず知らぬ候補者だが、「自民党だから入れる」とか「有名人だから投票する」といった人が大勢いる。以前、アントニオ猪木が出馬して、多数の票を獲得したし、谷亮子とか橋本聖子のようなスポーツ選手が参議院議員になっている。適当に生活していれば六年間給料がもらえるから、政治家に転向するプロレスラーも多い。例えば、極左の馳浩(はせひろし)とか、教養があるとは到底思えない大仁田厚や神取忍に投票した奴は、いったい誰なんだ? 国賊の千葉景子や岡崎トミ子に投票した国民は、「民主党」と名乗る悪党に投票したことの責任を取っていない。秘密投票の弊害である。最近のニューズでは、自民党が歌手の今井絵理子を出馬させるそうだが、彼女はそんなに有名人なのか? (もしかしたら、筆者が知らないだけなのかなぁ。三原順子なら知っているが、後はさっぱり分からない。)

  わが国の二院制議会はイングランドの議会制度を真似たものだから、本来なら上院は貴族院なのだが、敗戦で貴族院が廃止となり、平民が選ばれる庶民院(参議院)になってしまった。日本の大学で政治学や西歐史を教えているのは、ほとんどが左翼だから学生は頭がおかしくなっている。「デモクラシー(民衆政治)」が素晴らしい、なんて教えているんだから呆れてしまう。古代ギリシアのアリストテレスやプラトンなら、我々のデモクラシーを最悪の統治形態と呼んだはずだ。「デモス(民衆)」は「暴民」か「愚民」に近く、まともは判断力を持たないと考えられていたのだ。ギリシア人よりも更に慎重なローマ人は、民衆による政治を「暴民政治/モボクラシー(moboccracy)」とか「劣等者による支配/カキストクラシー(kakistocracy)」と見なし、未熟者による統治など夢想にもしなかってのである。ピンダール(Pindar)とかカリマクス(Callimachus)、ディオトゲネス(Diotogenes)といった古代ギリシア人にとって素晴らしいのは、王政(kingship)である。カリマクスは王の権能すなわち統治権が最高神ゼウスに由来すると信じていたし、ディオトゲネスは王様が将帥、判事、司祭であると公言していたという。(Francis Dvornik, Early Christian and Byzantine Political Philosophy, Vol. 1, The Dumberton Oaks Center for Byzantine Studies, Washington, D.C., 1966, pp.242-248) 民衆が政治の主体と考えるようになったのは、アメリカでも第一次大戦後からである。

  日本は身分制度があったにもかかわらず、比較的庶民の力が強かった。しかし、政治(まつりごと)は武家が担うもの、と見なしていたから、庶民は武士と対等になろうとはしなかったし、統治の義務を担うなんて考えもしなかった。参政権が無くても、取り立てて不自由はしなかったし、とりわけ不幸だとは考えていなかったはずだ。逆に、武家政治が庶民にとってプラスになっていたのだから、まさしくパラドックス(逆説)である。日本の武士は庶民を虐殺することがなかったので、庶民は武士の統治に信頼を置いていた。だいたい、関ヶ原の戦い程度を「天下分け目の合戦」と思っているんだから、日本人は本当の大戦争を肌で理解していなかった。百姓が戦場を眺めながら、弁当を食べているなんて光景は、呑気な日本でしか見られない。支那大陸では戦場となった地域に住む庶民は、掠奪・強姦・虐殺されるかのどれかで、もしかしたら弁当の具材、すなわち食肉にされてしまうかも知れないのだ。上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)や保科正之(ほしな・まさゆき)のような名君が現れる日本は、幸福だったと言えるのではないか。

  現在のアメリカ人と比べたら、建国当時のイギリス系殖民地人は月とスッポンほど違っている。人種構成が異なるからだけではない。社会の風潮が全く違うのだ。今日のアメリカ社会は、左翼分子やユダヤ・メディアによって下品にされているが、入植時代や独立戦争前後だと、礼節を弁えた立ち居振る舞いが尊重されたし、倫理道徳も厳しく、それを当然と見なしていた。ビル・クリントン大統領みたいに、ホワイト・ハウスにモニカ・ルウィンスキーを引き込んで、尺八(blow job)をさせるなんてことは万が一にも無い。ウッドロー・ウィルソン大統領の時代になっても、まだ社会倫理が厳格で、ウィルソンは嘗ての恋文をネタに恐喝された事もあるのだ。独立戦争の英雄たちは、異邦人かと思えるくらい紳士的であった。ジョージ・ワシントン将軍は己に厳しく、部下に対して父親のように接し、慈愛に満ちているが、人に媚びるところがなく、重厚さ(gravitas)と権威(auctoritas)がある。今日の政治家だと、気さくで庶民的な人物が好まれるが、ワシントン大統領には、一種近づきがたい雰囲気があったという。誰かか「やぁ、ミスター・ワシントン」とか「よぉジョージ、元気かい」などと呼びかけて、肩でもポンと叩けば、冷たい軽蔑の眼差しが注がれたそうだ。当時のアメリカで「紳士」と目される人物なら、準貴族のジェントリーかスクワイヤー(郷士)である。こうした人が議員になるのが当り前で、独立戦争世代の有権者は、品格に欠ける平民が指導者になるのを望まなかった。

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(左: ジョージ・ワシントン/中央: アケグザンダー・ハミルトン/右: ジェイムズ・マディソン)

  新たなアングロ・アメリカ共和国では、議会の構成に独特な苦悩があった。それは上院議員の質である。イングランドの国制、つまりイングランドの國體(こくたい)を人類史の中で最良と考えていた建国の父祖は、どうにかして母国と同じ政治的水準を保ちたかったのである。下院議員は民衆の意見や要望を直接反映し、議会で露骨な「おねだり」をしがちである。この下院議員は立法府で強い権能をもつが、任期が二年と短いので選挙に忙殺されて落ち着きが無い。一方、上院議員は30歳にならないと立候補できず、25歳で出馬できる下院と違うし、各州から二名しか選出されないという特徴がある。ただし、大きな州には不満があるが、小さな州は得した気分になる。有名な「ザ・フェデラリスト」で、マディソンやハミルトンは上院の「質」について、ちらっと本音を漏らしていた。「上院の本質は、(下院に比べ)より広範囲な情報(知識)と人格が安定していること」である。(The Federalist, No. 62, The Constitution of the Senate, H. Holt and Company, New York, p.408) どうして、上院だと知識が豊富で性格が素晴らしい人物が選ばれるのか? 同じ州民が投票している訳だから、下院議員と似たような人物かも知れないのに。

  建国の父祖は、人民の欲望が渦巻く立法府に、毅然とした重鎮の一団をを置くことによって、地に足がついた議論になるよう取り計らったのである。特に、「合衆国憲法の父」と呼ばれたジェイムズ・マディソンや、英国貴族を賞讃するアレグザンダー・ハミルトンには、上院議員とは教養と財産をもつ「紳士」であるべし、という暗黙の諒解があったのだ。現在のアメリカ社会だと、上院議員といえども下品な人物が多い。オバマ大統領もイリノイ州選出の上院議員で、共産主義に共鳴した左翼活動家であったことは有名である。大統領選挙の時、ルドルフ・ジュリアーニ元ニュー・ヨーク市長が、オバマの経歴をおちょくっていた。大勢の聴衆を前にして、「コミュニティー・オーガナイザー(地域を組織化する者)だって ? 何だよそれ ?」とクスクス笑いながら話すと、会場のみんなも大爆笑。つまり、中流階級の白人にはオバマの役職が分かっていたのだ。貧しくてアホな黒人を煽動し、無茶苦茶な要求を政界に突きつける「クズ野郎」といのが一般のイメージだからだ。

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(左: オバマ大統領/中央: バーニー・サンダース/右: アル・フランケン)

  また、アル・フランケン(Al Franken)というコメディアン上がりの上院議員がいる。彼はミネソタ州から選出された左翼議員だ。このフランケンは、NBCの人気お笑い番組「サタデー・ナイト・ライブ」の放送作家を務めたことでも知られているから、若者の支持を集めた。日本で言えば、景山民夫とかフシテレビの三宅恵介(『オレ達ひょうきん族』)とかTBSの桂邦彦(『笑ってポン』のプロデューサー)みたいな人と思えばいい。もう嫌になってしまうが、今回の大統領選挙で注目を浴びた、民衆党のバーニー・サンダース(Bernie Sanders)は極左の社会主義者として名を馳せている。まぁ、ヴァーモント州という北部の小さな州だから、偏屈な左翼議員が出てしまうのも無理はない。もうお気づきの方もいらっしゃると思うが、フランケンとサンダースは共にユダヤ人である。「またぁぁ~、ユダヤ人なのぉぉ !」と嫌な顔をするでしょうが、アメリカ人の有権者には、狂ったバカが多いからしょうがない。衆愚政治の本場は恐ろしい。憲法制定者はみんな死んでいるから良かった。まさか、二百年後にこんな状況になるとは思いも寄らなかったはずだ。

  日本のマスコミは、肝心な事を報道しない事に特徴がある。ワイドショーでは移民排斥を訴えるトランプを嘲る報道ばかりで、移民の害悪を野放しにしてきた歴代政権を非難しないし、不法移民に恩赦を与えようとするオバマには触れないように配慮を示す。しかも、サンダースを単なる「民主社会主義者(social democrat)」と紹介するが、「極左」の政治家として詳細に説明しようとはしないのだ。サンスは札付きの左翼で、シカゴ大学に在籍中、アメリカ社会党のフロント組織、青年社会主義者同盟(Young People's Socialist League)」に所属していたという。また、彼は共産党のフロント組織である「統一製造労働組合(United Packinghouse Workers Union)」を組織したそうだ。(Paul Sperry, Don't be fooled by Bernie Sanders he's a diehard communist, New York Post, Jaqnuary 16, 2016) この組合は下院の非米国活動委員会から監視対象にされていたというから、総統過激な集団であったことは間違いない。バーニーの暴走はまだ続く。1970年代になると、彼はリバティー・ユニオン党(Liberty Union Party)が結成された時、積極的に手を貸していたという。共産党と同じく、この政党には米国内の銀行すべてを国有化し、社会インフラを運営する民間企業をも乗っ取る綱領があったそうだ。つまり、電気・水道・通信会社を全部まとめて政府の管理下に納める意図をもっていたのである。真っ赤なサンダースは旅行も好きで、ソ連のみならずキューバやニカラグアにも訪れ、マルキストの同志と親交を深めたらしい。まったく恐ろしい奴だ。日本のマスコミは藝人の不倫なら熱心に調べるのに、サンダースの過去は素通りなんだから、報道番組などは「看板に偽りあります。ご勘弁を」と視聴者に通知すべきである。

  話を戻す。独立以前の殖民時代、アメリカ自治領(新大陸殖民地)には「支配家族」というのがいて、各邦に特定の名家がいたそうだ。マサチューセッツやコネチカット、ヴァージニアなどには、民衆の指導者になって当然という紳士がいて、庶民とは明らかに違う存在であったということだ。レオナード・W・ラバレー(Leonard Woods Labaree)は、殖民地の参議会(カウンシル)で、殆どの議席を独占している地方の指導者について述べている。

  ・・・たいていの植民地では、有力家でありながら総督の参議会に一議席も占めなかったような家はごくまれで、参議会議員たちはどのような時代にもほとんど常に地方貴族の代表的な典型をなしていたのである。革命前の百年間に種々の植民地参議会につらなったすべての人々の名簿をつくれば、植民地アメリカの「一流家族」の人名の九割を含むことはたしかだろう。(『アメリカ保守主義の伝統』 久保芳和・訳 未来社 1964年 17頁。)

  こういうアメリカの歴史を米国の高校生は知らないし、教養課程を履修した大学生でさえも分かっていないのだ。彼らは自国の起源に興味が無い。なぜなら、こんにちの米国は東歐や南歐からの下層移民を先祖に持つ二等白人や、アフリカやアジアからの三等帰化人であふれているからだ。2、30年前の歴史でさえチンプンカンプンなのに、建国以前の過去なんか「外国史」と呼んでもおかしくはない。日本人は普通に時代劇を観て、チャンバラを楽しんだり、戦国時代をテーマにした歴史小説を好んで読んだりする。4、5百年前に起源をもつおまつりだって珍しくないし、神道の宗教行事は何千年前のものか分からないくらい古い。今でも、兜町などでは平将門の怨念を信じている。ウォール街の銀行家が来日すれば驚くだろう。日本だと、歴史を習うということは、自分の祖先の過去を知ることを意味するから、アメリカとは根本的に違うのだ。この幸せを自覚していないのが、現在の日本人である。  

人間の「区別」は必要だ

  建国の父祖は身分の違いが当然の時代に生きていたから、上院が上等な紳士の議会になると思っていた節がある。州を代表する名士は必ずや、知識と見識、判断力と行動力で秀でた人に違いないという確信があった。我が国でも第一回帝国議会には立派な人物が選ばれていた。中には本人が立候補していないのに、地元民が勝手に議員にしてしまったり、懇願して無理を承知で引き受けて貰ったりと、信じられない光景があったという。当時の日本人は、地元の代表として、みんなから尊敬される人物、誰に紹介しても恥ずかしくない名士、誠実一筋の武士などを選んでいたそうである。今の国会議員なんかエイリアンにしか見えない。米国でも同じで、偉人を議員にする事が当然と考えられていた。また、こうした偉人は貧乏人であってはならない。「自由」とは財産の裏付けが無いと“空念仏”になってしまうからだ。それに、お金に目が眩んで腐敗することもある。もし、財産を無視するのであれば、乞食人だって「自由」だ。この自由人は恥も外聞も無いから、何でも好き勝手に出来るだろう。今の教育では「身分差別」は良くないと教えられているが、武家社会の日本の方が立派な人物に恵まれていたのだから不思議である。今の政界に、西郷隆盛や大久保利通のような英雄がいないじゃないか。みんなが選ぶのは凡人か愚人のどちらかである。

  当時のアメリカで面白い逸話がある。あるキリスト教会で、会員の集会が予定されていたそうだ。このお知らせには、「教会のジントルマンと会衆」の出席が要求されていたという。この通知を書いた牧師は、会員のみんなが参加すると思っていたそうだ。ところが、集会の当日、牧師が集会所に行ってみると、わずか数名しか居なかった。その牧師は驚き、戸惑ったという。後に彼は理由が分かった。教会のみんなは「ジェントルマン」と書いてあったので、自分はその“紳士”に該当しないから呼び出しを受けていないんだ、と解釈したらしい。その牧師は社会的身分にかかわらず、「男子の会員」という意味で招集をかけたのだ。(上掲書 136頁。) 彼は世間の慣例に気づかなかったのである。それにしても、当時のアメリカ人は実に謙虚だ。「ジェントルマン」とは「一段立派な御仁」と判断し、「平民」とは違うということを自覚していたのだ。日本で言えば、「士族」の方々がいらしてください、と呼びかけるようなものである。従って、武家の出身ではない者は遠慮するだろう。国民に差別があるのは不愉快だろうが、人には能力や見識、気概の点で優劣があるから、「区別」は必要なのかも知れない。平民が謙虚なら、士族の方は武士として相応しい行動を取るだろうし、恥を知って卑怯な真似をしなくなるだろう。みんな平等だと誰も責任を取らないし、自己犠牲は損となり、高貴な義務も存在しなくなる。

  江戸時代には民衆政治が無かったのに、民衆に尽くす偉人が多かったのは皮肉な話である。幕末に活躍した志士は投票で選ばれた訳でもないのに、必死で国家の将来を考え、命を懸けて行動し、明治維新を成し遂げた。理論的には民衆政が素晴らしいことになっているが、現実の世界で実行したら、封建制武家政治の方が議会制民衆政治よりも遙かに良かった。我々は江戸時代と大正・昭和・平成で社会実験をして、政治制度を比べたことになる。もし、明治の元勲が武士の身分を廃絶しなかったら、貴族院はもっと優秀な藩主や家老などによって構成されたかもしれない。認めたくないだろうが、階級格差が稀薄な日本には、民衆政治より士族政治の方が適している。日本人は自ら政治を担うより、世襲の武士に任せていた方が幸せなんじゃないか。それに、民衆が選ぶ政治家には碌でなしが多く、藩主が抜擢した下級武士に逸材が多かったのは事実だ。島津斉彬は西郷隆盛を一本釣りしたが、「民主主義」を謳歌する一般人は、未だ曾て西郷を超える人物を選んだことがない。それに現在の日本なら、松方正義など決して当選しないだろう。彼方此方に妾をもち、子供をつくっていたんだから、スキャンダルのネタに尽きない。明治天皇が松方に「お前にはいったい何人の子供がいるのか」とご質問になったことは有名な逸話である。松方は突然の質問に答えられなかったというから、たくさん居たことは確かだろう。たぶん、十数名いたんじゃないか。

  明治の頃までを考えてみると、身分制度を破壊して喜んだツケがいかに大きかったかが分かる。今度の参議院選挙も相変わらず“いつもの”人気投票になるだろう。でもまさか、三原順子が昔の歌を披露するなんて事はないよねぇ。無いと思うが、以前、庄野真代が「飛んでイスタンブール」を唄っていたくらいだから、今度も何が起きるか分からない。

  


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