国家の指導者を育成する教育機関
(左: プリンストン大学の総長だったウドロー・ウィルソン / スカル&ボーンズのウィリアム・タフト大統領 / プレスコット・ブッシュ /右: プレスコットの息子ジョージ・ハーバート・W・ブッシュ)
教育をどうするかは国家の優先課題である。一般的に国家の要件を主権や領土に求めるが、誰が国民であるのかは最も重要なことである。歴史を眺めれば、外国によって領土を奪われたり、割譲する破目になることは辛いが、それよりも国民の質が変わることの方が深刻なのだ。日本に関して言えば、北方領土をロシア人に奪われ、竹島を半ば朝鮮人に占領されてはいるが、日本人が国防意識に目覚めれば奪還できる可能性は残されている。だが、国民の精神が異質な思想に冒(おか)されれば、北鮮による拉致被害者を見殺しにしてしまうし、その肉体にアジア人の遺伝子が混ざってしまえば、日本人という意識が薄くなるだろう。つまり、政治や教育の問題において、国家を構成する人間が重要なのだ。
保守派は漠然と「伝統を守れ !」と訴えるが、それを「誰が守るのか ?」ということを追求しないから片手落ちである。国家と国民の性質を伝承するためには、親は子に祖先からの智慧や遺訓、あるいは気風を教え、古来の伝統から逸脱せぬよう誡めなければならない。これを庶民文化で考えてみれば容易に分かるはずだ。例えば、歌舞伎役者の世界では、親が子へ藝を教えて伝統の火を消さぬよう努めている。だから、日本人や外国人を問わず、誰でも役者になってお金を稼ぐことができれば良い、という考えにはならない。それに、舞台上では「傾(かぶ)く者」とか「変わり者」を演じていても、劇場の外では格式を重んじて、決して軽率な行動を取らぬよう心掛けているし、贔屓(ひいき)にしてもらっている顧客はもちろんのこと、一般人に対しても礼儀を弁えているのが普通だ。蕎麦屋だって、出汁の味をちょっとくらい変えることはあっても、だいたいは創業者の味を守っている。江戸時代から続く老舗の店が、いきなり「カレー味の蕎麦」とか、「メキシカン・スープ・ヌードル」なんてメニューは出さないだろう。ただし、外資による買収で、店長がインド人とかメキシコ人になれば話は別だが。また、現代の日本人なら蕎麦にマヨネーズをつけて、コーラと一緒に食べる輩(やから)もいるだろうから、奇抜な新メニューが出てくる可能性はある。
(左: 丸山真男 / 横田喜三郎 / 宮澤俊義 / 右: 上野千鶴子)
我が国の教育問題はあまりにも重症で、一々語り出したら切りがない。しかし、その中で幾つか挙げるとすれば、「エリート教育」の不在を指摘することができるだろう。「えっ、東大や京大があるじゃん」と反論する方もいるだろうが、それは入試が難しいという点が肥大化しているからであり、教育内容が一流であるとか、教授陣が素晴らしいからではない。確かに、物理や化学、生理学などの学部に多額の予算が与えられた結果、大規模な実験設備を購入でき、有能な研究者が集まるので最高学府になっている。しかし、比較的優秀なのは自然学分野のことであり、文系の学部は軒並み凡庸か有害な左翼の巣窟となっているのが現状だ。とくに、法学部や史学部、教育学部、経済学部、社会学部などは、赤い黴菌の貯蔵庫みたいになっている。例えば、東大の名物教授だった丸山真男は言うまでもなく、国際法の横田喜三郎は昭和天皇の退位を願ったし、憲法学の芦部信喜(あしべのぶよし)は、「八月革命」で悪名高い宮澤俊義と並ぶ極悪の憲法学者だ。また、極左のフェミニストも盤踞しており、上野千鶴子や辻村みよ子のように日本を呪って貶める学者が、官僚や教師になる学生を洗脳していたんだから恐ろしい。
(左: 辻村みよ子 / 大塚久雄 / 姜尚中 /右: 村田晃嗣)
法学部以外でもトンデモ学者が多い。例えば、大塚久雄なんかマックス・ウエバーの本を和訳したことが唯一の業績だし、その弟子にあたる姜尚中は、朝鮮人だから教養学部の教授になれた。つまり、日本版アファーマティヴ・アクション(劣等民族優遇制度)の魁だろう。姜尚中は「朝まで生テレビ」に出演した時、驚くような恥をさらしていた。同志社大学の村田晃嗣が「岡崎久彦大使」について言及したら、姜は勝ち誇ったような顔をして、「(岡崎氏は)もう大使じゃないよ ! 」とせせら笑っていたのだ。筆者がこれを観た時には、椅子から転げ落ちそうになった。まさかここまで“無教養”とは思わなかったからだ。特命全権大使は退官しても「大使」という称号で呼ばれることは、歐米諸国では常識以前の常識である。米国だと上院議員や州知事は退任したあとでも、「セネター」とか「ガヴァナー」と呼ばれているじゃないか。例えば、アーノルド・シュワルツネッガーやスコット・ブラウン、ジェイ・ロックフェラーなどを思い出せばいい。自戒を込めて言うけれど、世の中を舐めてはいけないぞ。朝鮮人には超弩級のアホが居るんだ。しかも、無知に気づかない破廉恥漢を、事もあろうに「教養学部」の教授に推す人物がいるんだから、一般国民でも気が滅入ってしまう。その上、東大には日本政府から学費や生活費を貰っている支那人が大量にいるんじゃ、もう税金を払うのが嫌になる。
(左: 岡崎久彦 / アーノルド・シュワルツネッガー / スコット・ブラウン / 右: ジェイ・ロックフェラー)
日本人は難しい入試に躍起となるが、大学での授業内容となると、急に関心が薄くなるから不思議である。というのも、受験生は社会的身分を得るために入るからだ。つまり、名門の一流校なら上級国民で、無名の三流校なら下級国民と考えるからだろう。日本人は民族的同質性が高いので、社会的区別をしようとすれば、学歴で分類するしかない。卒業校が士農工商という身分区別の代役となっている。ところが、身分制度が明確で社会的格差が著しい西歐なら別だ。西歐社会は人種や階級で国民が別れているから、何が何でも学歴で区別しようとは思わない。ただ、現代は中流階級が殊のほか肥大化したから、教育レベルで差別しようとする傾向が強い。大衆化と雑種化が激しい英国では、階級と人種の区別が有るようで無いような曖昧な状態になっている。昔は、パブでさえ上流・中流・下流民で分離していていたし、労働者階級の子弟がオックスフォード大学に入っても、貴族階級にはなれないと分かっていた。たとえ、上流階級の趣味を身につけても、家柄が変化するわけでもないから、日本人ほど熱心に有名校を目指そうとはしなかったのだ。しかし、最近ではアジア人やアフリカ人の学生も増えてきたし、労働者階級の子弟も大学進学を目指すようになったから、名門大学も大衆化の波に飲み込まれている。もっと嫌なのは、教授人にアフリカ人やアジア人が混じっていることだ。イギリス人の学生なら支那人やケニア人あるいはユダヤ人の教授から「紳士の心得」を習いたくないよなぁ。
それでも、日本の大学よりマシなのは、たとえ文系の学問であっても、一定の水準を下げないよう努力しているからだ。大学で正教授になっても業績を強く求められるし、外部からの批判にも耐えるような論文を書かねばならない。一方、日本の大学教授は気楽だ。例えば、英文科の教授が書いたシェイクスピアの論文とか、法学部教授が発表した憲政論なんか、歐米諸国では誰も読まないし、気にもとめないから、それらは単に“インクで汚れた紙の束”である。昔、関西大学の谷沢永一先生が指摘していたが、誰も読まない『紀要』に下らない論文を掲載して、それを業績に数える学者が多かったという。愚劣な教授連中は結束が固いので、お互いに論文の批判はしないという美しい“掟”があった。だから、みんなが安心して過ごせたそうだ。実際、どんな本を書いても全国の図書館が買ってくれるし、授業で教科書に指定すれば、学生は渋々買う破目になるから、「確実な部数」を捌くことができる。こんな殿様商売は、学生食堂でも無理だ。いくらキャンパス内にあるとはいえ、日替わり定食とかカツ丼が不味ければ、学生が購入して食べることはない。食券の強制購入なんて聞いたことがないだろう。似非インテリは賛同しないだろうが、大学教授よりラーメン屋の店主の方が偉い。厳しい競争に曝されているから、日々努力を重ねているし、そのうえ税金まで納めているんだから立派だ。
熾烈な受験競争
(写真/フィリップ・エクスター・アカデミーの校舎と教会)
学歴にこだわる日本では、幼稚園からの受験に熱心な親がいるけれど、アメリカでも学歴を重要視するので、有名校を目指す親子も珍しくはない。一流大学を目指す子供は、公立の高校・中学・小学校に通わず、高額な授業料がかかる私立学校、つまり「プレップ・スクール」に入っている。このタイプの学校は、英国の「パブリック・スクール」を模範とし、寄宿制をとっている場合が多い。(ちなみに、私立なのに「パブリック」という名称は奇妙だが、これは宗教改革の時代、みんなに開かれていた教会の学校が、ヘンリー8世やトマス・クランマーによる一連の修道院掠奪で、カトリックの歴史的資産から貴族の学校へと変貌しからである。「プライベート」だけど、そのまま「パブリック」の冠をつけている。) 有名な私立学校といえば、次のような寄宿制学校が挙げられるだろう。
①フィリップス・エクスター・アカデミー(Philips Exter Academy) ニューハンプシャー州 (宿舎と授業料は年間$46,905/日本円で約516万円) 有名な卒業生では、フェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグがいる。
②チョート・ローズメアリー・ホール(Choate Rosemary Hall) コネティカット州 ($53,100/約584万円) 卒業生には、ジョン・F・ケネディー大統領や女優のアリ・マックグロー、グレン・クローズ、ジェイミー・リー・カーティス、男優のマイケル・ダグラスなど。
③フィリップス・アカデミー(Philips Academy)マサチューセッツ州($48,800/約536万円)ジョージ・W・ブッシュ大統領が卒業生。
④プットニー(Putney School) ヴァーモント州 ($50,800) 卒業生では女優のフェリシティー・ハフマンがいる。(TVドラマ「デスパレート・ハウスワイヴズ」に出演した役者。)
(ユダヤ系役者の4名/ 左: アリ・マックグロー / グレン・クローズ / ジェイミー・リー・カーチス / 右: マイケル・ダグラス)
その他で有名なのは、ジョン・マッケイン上院議員が卒業したニューハンプシャー州のセイント・ポール(St Paul's School)、マサチューセッツ州のセイント・マークス(St Mark'S School)やグロートン(Groton)、デラウエア州のセイント・アンドリュース(St Andrew's )、コネティカット州のタフト(Taft School)などである。
(左/「ある愛の詩」のオニールとマックグロー)
ちょっと主題から逸れるけど、アリ・マックグローと聞けば、ライアン・オニール(Ryan O'neal)と共演した『ある愛の詩(Love Story)』(1970年)を思い出す方もいるかもしれない。映画の中で、オニール扮するオリバー・バレット4世は、マックグロー扮するジェニー・カヴァレリと恋に落ちる。オリバーは裕福な家庭の出身で、ハーバード大学の学生だが、ジェニーはラドクリフ大学に通う労働者階級の娘だ。当然、オリバーの両親はいい顔をしない。しかし、二人は強く結びつき、結婚することさえ考える。彼女は大学で古典音楽を専攻しているので、将来パリに行きたいと望んでいた。ところが、彼女は白血病に冒され、やがて亡くなってしまう。恋人を失ったオリバーの哀しい表情が印象的だ。ハリウッド映画にしては珍しく悲しい結末を迎える作品だが、当時としては結構ヒットした。あの有名な作曲家のフランシス・レイが、映画の中で流れるテーマ曲を担当していたから覚えている方も多いだろう。彼は映画『個人授業』を始めとして、『雨の訪問者』、『男と女の詩』、『パリのめぐり逢い』などでもサウンド・トラックを手掛けていたから、往年の映画ファンには馴染みの音楽家である。
(左: ライアン・オニール / ファラー・フォセット / ファラーとライアン / 右: 「ペーパー・ムーン」で娘のテイタムと共演したライアン)
黒髪のマックグローはハンガリー系ユダヤ人の子孫なので、その東洋的特徴が混じった人相は、労働者階級の娘にピッタリだ。まるで南イタリアからやって来た貧しい移民に見えるし、地道に勉強してラドクリフ・カレッジに入ったような感じがする。(この大学はセブン・シンターズ・カレッジの一つであったが、1999年にバーバード大学に統合されたので、映画の時代とは状況が違ってる。) ちなみに、彼女の母親は結婚する時、ユダヤ系の血筋を夫に告げていなかったらしい。やはり、何となく躊躇いがあったのだろう。相手役のライアン・オニールは、娘のテイタム・オニールと共演した名作『ペーパー・ムーン』で人気を博したことがある。また、彼は実生活で人気女優のファラー・フォセット(Farrah Fawcett)と一緒になったが、ファラーが亡くなってしまったので寂しい晩年を過ごすことになった。まぁ色々あるけど、現実的に言ったら、やはり暗い感じのユダヤ人女性より、テキサス生まれのブロンド美人の方がいいよね。シルヴェスター・スタローンだって、映画『ロッキー』の中で、黒髪のイタリア系女性タリア・シャイアと夫婦役だったけど、私生活では北歐美女のブリジット・ニールセンと結婚したからなぁ。ハリウッドの世界は厳しく、美人女優のファラーでも『チャーリーズ・エンジェル』の時が絶頂期で、その後の映画作品には恵まれなかったから、とても残念である。
(左: チョート校の図書館 / 右: チョート校のメモリアル・ホール)
一般の日本人はアメリカのエリート学校を論ずる時、東海岸のアイヴィー・リークばかりに目を向けるが、実は大学に入る前の段階、つまりプレップ・スクールが重要なのだ。ケネディー大統領が通っていたチョート校は現在、メアリーローズ・ホールと合併しているが、依然として超名門校である。ケネディーの有名な演説に、「国があなた方に何を出来るか、を問うのではなく、あなた方が国に何を出来るのか、を問いなさい」というフレーズがあった。この言い回しは、チョート校の学長であったジョージ・セント・ジョン(Goerge St John)が生徒たちに語っていた説教の一部である。校長先生は「学校が君達に何を出来るかではなく、君たちが学校に何を出来るかを問いたまえ(Ask not what your school can do for you, but what you can do for your school.)」と教えていたのだ。ただし、このフレーズは、ハーバード大学で学部長をしていたルバロン・ラッセル・ブリッグス(LeBaron Russell Briggs)からの引用らしい。となると、ハーバード大卒のケネディー大統領は、孫引きのフレーズを国民に語っていた、ということになる。それでも名演説には違いない。でも、高校で聞いた先生の説教を後に、しかも大統領になってから使うんだから、いかにアメリカ人が演説を大切にしているかが分かる。日本のエリート校とえらい違いだ。日本人の校長の話は、長ったらしくて締まりがなく、これといった刺戟に乏しい。つまり、老人の“ぼやき”程度だから退屈だ。彼らは説教している事が楽しいだけで、聞いている生徒の事を考えている訳ではない。
(左: 学生時代のケネディー / 中央: 大同僚のケネディー / 右: ルバロン・ラッセル・ブリッグス)
日米欧を問わず、受験戦争は先進国に共通した社会現象である。良い学校に入れば、それなりの社会的ステータスを得る事ができるし、友達だって裕福な家庭の出身者だったり、有力者の親を持つ子供だったりするから、卒業後の人脈作りにも大いに役立つ。だから、大学の前の高等中学や小学校、幼稚園に至るまで、熾烈な入試競争が出来てしまうのだ。アメリカ人は「フェアー(公正)」を重んずるが、その裏では汚い「不正」がはびこる社会になっている。光が濃い分、その影も濃いという訳だ。スポーツの世界でも、ドーピング問題が深刻なのを観れば分かるだろう。例えば、自転車レースの帝王だったランス・アームストロングやテニス選手のマリア・シャラポワが、ドーピング検査で引っ掛かったのを思い出せばうなづける。彼らを見ると、いかに日本のスポーツ選手が立派で正直なのかが分かって嬉しい。アメリカ社会の腐敗は何もスポーツ界だけだはなく、受験を控えるアメリカ人にも顕著で、とんでもない連中が“いかさま”を犯していたのだ。
(左: ランス・アームストロング / 中央: マリア・シャラポワ / 右: サミュエル・エシャゴフ)
ちょっと前、英国で運転免許証を取得したい支那人移民が、テストで不正をしでかしたが、アメリカ人の受験生も「替え玉」を使って試験を誤魔化していたという。こうした不正受験の一つが、ロードアイランド州で発覚したのだ。グレート・ネック・ノース高校を2010年に卒業したサミュエル・エシャゴフ(Samuel Eshaghoff)は秀才で、大学入試用の標準テスト(SAT)で2100点くらい取っていたという。(読解力・作文・数学の三科目で最高点は2400点。) 彼は三年間で少なくとも15名の生徒に代わって、SATの試験を受けていたらしい。(Jenny Anderson and Peter Applebome, Exam Cheating on Long Island Hardly a Secret, The New York Times, Dcember 1, 2011) 当局の調べによれば、彼は替え玉として、だいたい2,170点から2,220点くらい取っていたそうだ。この事件の他にも、テストにおける不正は結構あるみたいで、教育テスト機関(Educational Testing Service)の調査によれば、年間3,000件にも上る試験結果がカンニング(「チーティングcheating」)により無効とされ、そのうち150件が替え玉によるものだったという。
不正が発覚して訴えられたエシャコフは無罪を主張しているから、いくらで「替え玉」を引き受けたのは定かではない。ただ、他の例を見てみると、だいたい500ドル(5万5,000円)から3,600ドル(39万6000円)くらい取っているから、彼が得た報酬もそれくらいなんじゃないか。不正受験となれば、親が絡む場合もあれば、生徒本人が親に内緒で頼む場合もあるから、一概に親子ぐるみの犯罪とは言えまい。それに、裕福な家庭のバカ息子なら数十万円くらい小遣いで持っているから、誘惑に駆られることもあるだろう。エシャゴフは偽造IDカードまで用意して替え玉になっていたが、決して貧しい家庭の少年ではなかった。彼の母親は弁護士で、地元グレート・ネック図書館の理事長を務めていたと云うから驚きだ。しかし、彼の両親は離婚しており、母子家庭になっていた。何も離婚家庭が悪いというわけてばないが、倫理道徳が等閑(なおざり)にされた冷たい崩壊家庭を見ているようで、聞いている方も気分が暗くなる。
(左: 幸徳秋水 / 右: 田中清玄)
高学歴の親だから子供の学業には力を入れていたのだろうが、肝心の善悪についての躾をしていなかったのだろう。ちょっと言いづらいけど、律儀な両親がいる健全な家庭に育っていれば、サミュエルも「やってはいけない一線」を超えることはなかったのではないか、と思えてくる。昔の日本なら「お父ちゃん、お母ちゃんを悲しませるような事はやっちゃいけねえよ」という誡めがあった。だいぶ古い話だが、無政府主義者の幸徳秋水はとんでもない極悪人で反省などする玉ではなかった。しかし、一つだけ良心が残っていたらしい。彼は「年老いた母親を悲しませたことで万死に値する」と獄中でつぶやいていたというから、他人にどんな迷惑を掛けてもいいが、自分の母親だけは別だったのだろう。そう言えば、共産主義者から天皇崇拝者に転向した田中清玄も、母親に対しては愛情を持っていたようだ。清玄は母の自害に衝撃を受けたらしい。家老の家に生まれた清玄が、事もあろうに国家転覆を目指す共産主義者になったのだから、御母堂はご先祖様に申し訳なく思ったのであろう。そりゃあ、死んでお詫びをするほかあるまい。親不孝の清玄は涙を以て悔悛したんじゃかいか。それにしても、昔の母親とくに武家の親は偉い。覚悟が違う。学校で暴れまくる馬鹿息子を弁護する左翼の親とは大違いだ。
憧れのハーバード大学
大衆社会になっている先進国だと、有名大学は社会的ステータスを得る登龍門になっている。もちろん、陸海空の士官学校もエリート・コースになっているが、そこの卒業生は主に軍隊へ就職するから、どうしても特殊な専門校になってしまう。一方、アイヴィー・リーグの方は、肉体的に強靱な若者以外でも進学できるし、お金儲けの職業に就くことができるから、大勢の高校生にとって魅力的だ。何と言っても片田舎の州立大学より、東部の名門私立大学だと、図書館や研究室などの施設が充実しているし、少人数クラスで教授陣もそこそこ優秀だったりするから、勉強していて気持ちがいい。とりわけ、有力者や大金持ちの子弟と仲良しになれるチャンスがあるから、卒業後のネットワーク作りにはもってこいの学校である。玉の輿をねらう女性にも格好の草刈り場だ。それゆえ、受験競争が異常に激しいし、学費だって目が飛び出るほど高い。それでも、一流校を目指して多くの生徒が人生の成功を願ってチャレンジしてくる。以前、このブログで紹介したエイミー・チュアのような、支那系アメリカ人の親は、超一流校への願望が強い。アメリカでも受験産業は花盛りで、年間50億ドル(約5千500億円)くらのお金が動いているそうだ。
ハーバードやプリンストン、イェール大学といった名門校は、全米の高校でも上位数パーセントの秀才しか入学の可能性がない。しかも、その少数者の中から、さらに学業やクラブ活動、人格などの点を加味して絞り込んで行くというから、入学を許された者は幸運である。もちろん、入試合格を目指す者は猛勉強するのが当り前で、その上にスポーツや地域活動、推薦状などを用意した上で評価されるんだから相当厳しい。だだし、問題は受験科目というより、どんな受験生を採用するかである。日本のように試験の総合点で合否を決めるのであれば楽だ。(ただし、最近は推薦入学とかOA入学といった「いかがわしい」入試制度があるから、学力で決めているとは限らない。) ところが、新入生をどの様な基準で取るのかについて論争が巻き起こり、エリート大学の苦悩が始まったという。なぜなら、1930年代から1960年代にかけて、受験生の合否基準が変貌したからである。つまり、人種や民族という要素が入り込んできたからだ。
アメリカは常に人種で悩んでいる。イギリス人によって建てられた共和国なんだから、白人のアングロ・サクソン系プロテスタント(WASP)が、多数派になって社会を支配するのが当然だろう。外国を参考にすれば分かる。例えば、サウジ・アラビアはアラブ人が、イランはペルシア人が、モンゴルは蒙古人が支配しているが、日本人はそのことについて文句は言わないだろう。イスラエルでユダヤ人がパレスチナ人ややアフリカ人を迫害しても、日本人には関係ないし、知ったことではない。ところが、西歐系アメリカ人は第19世紀後半から第20世紀にかけて、大量の非西欧系移民を輸入したから、国内に南歐系のギリシア人や東歐系のポーランド人のみならず、それらに混じってユダヤ人やアラブ人、インド人、東南アジア人まで受け容れてしまった。こうなれば、受験生に非西歐人がなってもおかしくはない。特に、学問にかけては秀でているユダヤ人が押し寄せるのは必然である。これは誰でも構わず気前よく国籍を与えると、取り返しのつかない災厄が降りかかるという典型例だ。
(左/アボット・ローレンス・ローウェル)
武藝はてんでダメなユダヤ人でも、書斎に籠もって本を読むといった座学は得意である。日本の神道には経典が無いけど、仏教には厖大な教典があるから想像できようが、ユダヤ人には聖典研究に没頭する民族性がある。数千年間も続けてきたことだから自然なんだろうか、詳細で複雑な神学を丹念に学ぶという習慣があって、毎日勉強しても飽きない性質が骨の髄まで染み込んでいる。彼らは何時間でも集中して勉強することを厭わない。だから、学問が趣味になっているユダヤ人は、外で遊ぶことが好きな西歐人を軽く凌駕することができる。こんな連中だから、アメリカにやって来たユダヤ移民は、当初かなり貧乏であっても、見る見るうちに勉学で頭角を現すようになった。予想通り、高度な学問を身につけたいとガリ勉タイプのユダヤ人や、立身出世を望む野心家のユダヤ人青年は、エリートが集まるアイヴィー・リーグにこぞって押し寄せたという。ところが、大勢のユダヤ人が入学してくると、アメリカの伝統を重視する白人の教授や学長たちが眉を顰めた。その中でも現在、特に悪名高いのはハーバード大学のアボット・ローレンス・ローウェル(Abbot Larence Lowell)総長である。
ハーバード大学には「トップ7ルール(Top Seventh Rule)」という採用基準があって、全米各地の高校で、上位7パーセントに属する成績優秀者から選抜する決まりになっていた。(Charles B. Hyman and Monika K. Piascik, Retrospection: President Lowell's Quotas, The Harvard Crimson, March 26, 2015) ハーバード大学は受験生が住む地域や彼らの身分・階級、学校の格付けなどにこだわらず、優秀ならばどんな新入生でも受け容れていた。しかし、ハーバードやイェール、プリンストンなどのアイヴィ・リーグ校はある問題に頭を悩ませていた。それは、ユダヤ人学生の比率が高かったことである。カルフォルニア大学バークレー校で社会学を教えているジェローム・カラベル(Jerome Karabel)教授によれば、全新入生におけるユダヤ人学生の割合は、1900年では7%だったのに、1915年になると15%に上昇し、1922年には21.5%へとさらに増加し、1925年には27.6%へと増えていった。(Peter Jacobs, Harvard Is Being Accused of Treating Asians the Same Way It Used to Treat Jews, Business Insider, December 4, 2014) ビジネス・スクールや医学部でも、ユダヤ人学生は15%以上を占めていたから、西歐系アメリカ人の集団の中で目立つ存在となっていたらしい。
(写真 / ユダヤ人の移民)
同族意識が強いユダヤ人ではあるが、アメリカのユダヤ人は一枚岩ではなかった。アメリカに昔から住んでいるセファラディー系のユダヤ人、つまりスペインなどからやって来た古株の連中は、西歐キリスト教社会の中でひっそりと目立たぬよう振る舞っていたし、できるだけ西歐系の白人たちと同じようなマナーを身につけようと努力していた。ところが、第19世紀末から増加した東歐のユダヤ移民は、ロシアやポーランド、ガリィツィア地方からの貧民が多く、粗野でがさつな下層民であったから、上品になったセファラディー系のユダヤ人にとって迷惑な存在だった。しかも、彼らの中から社会主義者や労働組合の活動家、アナーキスト、扇動家、無頼漢などが多く輩出されたから尚更である。たとえ家が貧しくとも、ユダヤ人には切れ者が多かったから、ズル賢いユダヤ人は貧民窟から都会へと抜け出し、血も凍る遣り手のマフィアとなり、勉強が出来るユダヤ人は大学に進んで、大学教授や技術者、あるいはビジネスマンになった。活躍する分野は違えど、両者とも頭脳労働で出世したことになる。ただ、後者のユダヤ人は立身出世を夢見てエリート大学を目指したが、迎え入れる大学側はいい顔をしなかった。なぜなら、イデッシュ語を話す伝統的な家庭で育ったユダヤ人の青年には、西歐人エリートがもつ「紳士階級の交流誡律」を理解できなかったからだ。それは学術的能力よりも、スポーツやマナーにおける“人格”や“感覚”であったから、野暮天のユダヤ人には理解できなかったし、彼らが育った環境では無縁のものだった。これとは多少違うが、日本でも武士の家庭で育った者と百姓の家で育った者とは、精神力や判断力、立ち居振る舞いなどの点で、かなり異なっていたから、外国人でも侍と庶民の違いを認識できたという。
ユダヤ人学生の排除
第20世紀初頭までのアメリカでは、WASPの伝統や社会を重んじる紳士が健在で、東部上流階級のアメリカ人は、西歐白人社会の擁護者を自負していたから、劣等民族のユダヤ人が群がることに賛成しなかった。ハーバード大学のローウェル総長もそうしたアメリカ人紳士の一人で、「ユダヤ人の浸透」は大学の気風と調和を破壊するものと思っていたらしい。そこで彼はユダヤ人枠を設け、その比率を15%に押さえようと努力した。当時、ハーバード大学はプロテスタントのエリート白人が集まる牙城で、反ユダヤ主義が跋扈(ばっこ)していたから、ローウェル総長の行動に反対する者は少なかった。それに、彼は反ユダヤ主義を取り除くためにも、ユダヤ人学生の制限は有効であると考えていたそうだ。1922年、アルフレッド・ベセックに宛てた手紙の中で、ローウェルは「ユダヤ人の数が全学生の40パーセントを超えると、人種に関する感情が緊張する」と述べていた。また、ローウェル総長は「ハーバート・ヤード」と呼ばれる緑豊かなキャンパスから黒人学生を総て排除したことがある。彼は異なった人種が共に暮らすことが可能であるとは思っていなかったからだ。それに、白人学生が黒人と一緒に在学することを強制されるなんて承服できない、と不満を漏らしていたのである。さらに、彼は「極秘法廷1920(Secret Court of 1920)」を結成し、ゲイの学生をハーバードから一掃してしまったそうだ。現在なら、ローウェル総長は、ネオ・ナチか KKKのメンバーと目されるだろう。だが、当時の社会道徳からすれば異常ではない。現在のアメリカ社会が病んでいるだけだ。最近では、性転換を行った元男性が、学校の女子トイレを使えるよう許可されるかどうかで揉めているんだから、もう呆れ果てて物が言えない。このように見てみると、約百年で如何にアメリカが変貌したかが分かるだろう。
(左: フレデリック・ケッペル / 内村鑑三 / 新島襄 / 右: 加瀬俊一)
こんにち我々が目にするコロンビア大学は、マイノリティーの極左学生がたむろする伏魔殿で、社会主義者で教育学者ジョン・デューイ(John Dewey)が、フランクフルト学派のユダヤ人亡命学者を引きずり込んだことで悪名高い。レーガン大統領時代に、保守派知識人として有名だったシドニー・フック(Sidney Hook)によれば、師匠のデューイは隠れ社会主義者であったそうだ。フックは元々マルキストのユダヤ人で、後に反共主義者に転向してフーバー研究所で活躍し、1985年レーガン大統領から自由メダル(Presidential Medal of Freedom)をもらった人物である。オバマ大統領も在籍していた左翼のコロンビア大学だが、第20世紀初めの頃までは、意外とまともな大学であった。ニューヨーク州のマンハッタンにあるコロンビア大学は、移民の玄関口に位置する学校ということで、洗練された家庭の学生が入ってきたがらないという問題に悩んでいた。学部長のフレデリック・ケッペル(Frederick Keppel)は、「コロンビア大に社交上最も不愉快なユダヤ人が群がっている」という噂に心を痛めていたという。彼の弁明によれば、大半の人々は人種問題と考えがちだが、実際のところ、それは社会問題に過ぎず、ユダヤ移民の一世や二世はそうかもしれないが、恵まれた社会環境で育ったユダヤ人は満足できる仲間になり得るらしい。そこで義務感の強いケッペルは、下品な家庭で育ったユダヤ人学生を、名門校の徳育で以て清廉な人物に変えようではないか、と提案していた。しかし、現実は理想を裏切るものだ。“洗練された”家庭の青年は、ほぼユダヤ人が存在しないアーマスト(Amherst)大学やウィリアムズ・カレッジに入学したという。ちなみに、アーマスト大学に留学した有名人は、無教会派のキリスト教徒で、明治の知識人に多大な影響を及ぼした内村鑑三や、同志社大学の創設者たる新島襄(洗礼名Joseph Hardy Niijima)、そして外交評論家で有名な加瀬英明先生の御尊父である加瀬俊一(かせ・としかず)大使がいる。有名なアメリカ人では、戦争省次官や世界銀行総裁を務めたジョン・マクロイやノーベル賞をもらった経済学者のジョセフ・スティグリッツ博士が挙げられるだろう。
(左: ジョン・デューイ / シドニー・フック / ジョン・マクロイ / 右: ジョセフ・スティグリッツ)
コロンビア大学の名誉を恢復(かいふく)するために、ケッペルと彼の後継者たるハーバート・ホウキンズ(Herbert Hawkins)は、ユダヤ人学生の数を減らし、その後は人数の制約を設けることにしたという。こうした努力のお陰で、ユダヤ人入学者は1940年の40%から4年後の1918年になると21%にまで減少し、1920年代になると15%から16%にまで落ちたそうだ。すると、大部分のエリート大学もこれに倣ったという。「ユダヤ人を禁止すべし」というのが、ニューイングラント学部長協会の集会で、イェール大学のフレデリック・ジョーンズ(Frederick Jones)学部長が述べた言葉である。これじゃあ、誰だって「うぁぁ~、KKK(クー・クラックス・クラン)の手先だ ! 」と思わず叫びたくなるだろう。ヒトラー以前のアメリカやヨーロッパでは、こんなの当り前田のクラッカー。(だいぶ古いけど、名優の藤田まことが「てなもんや三度笠」で使っていたギャグ。以前、動画サイトで見たことがある。)
(左/フレデリック・ジョーンズ)
ユダヤ人がキャンパスにいると不愉快だ、というのが理由の一つではあるが、その他にも理由があって、ユダヤ人が「ガリ勉」だから、という点が挙げられる。ジョーンズ学部長曰く、猛勉強をして成績の良いユダヤ人は、西歐系白人学生のやる気を失わせるからだという。それもそのはずで、普通の白人学生は音楽やスポーツ、ダンス、パーティーなどで忙しいから、一日中図書館に籠もって書物に埋もれるような生活はしたくない。どちらかと言えば、教養を身につけるためにギリシア・ローマの古典くらいは学ぶけど、恋人とデートしたり、乗馬やボート競技に精を出す方が、若い「紳士」にとって相応しい生活なのだ。髭もじゃのラビなるわけじゃあるまいし、重箱の隅をつつくような勉強で貴重な青春時代を潰すなんて馬鹿げている。大学教授やシンクタンクの研究者になるなら別だが、平凡に卒業するだけの学生にとっては、社交を身につける方が遙かに大切で、統計データの一字一句を精読し、小さな間違いを探す研究なんて青瓢箪(あおびょうたん)がすることだ。
「ユダヤ人は入れるな、叩き出せ ! 」と言えば簡単なのだが、こう露骨に言うと角が立つし世間体も悪い。本当は、1920年代の移民制限法と同じような民族別割当制度を取りたかったが、大学の運営者たちは反ユダヤ主義を正式な大学法に編み込むことには躊躇があった。そこで、ユダヤ人排斥の口実として、「地理的バランス」を求めることにした。つまり、米国各地からちょっとづつ取ることで、北東部の学生数を制限することにしたのだ。こうすると、東海岸に密集するユダヤ人受験生の数が自動的に押さえられる。なぜなら、ユダヤ人が少ない中西部や南部の田舎にまで均等に割り当てが施行されると、ユダヤ人が住んでいない地域からも学生を取ることになるので、多数派の白人から新入生を採用することになり、“好ましい”西歐系の学生を取りたい大学側としては都合がいい。さらに、大学当局は客観的とは言えない特性テストを実施することにしたのである。コロンビア大のティーチャーズ・カレッジで教鞭を執っていた、心理テストの創始者であるエドワード・リー・ソーンダイク(Edward Lee Thorndike)の協力を得て、ホーキンズは一連の入学試験を実施したという。ホーキンズは、こういった試験だと大部分のユダヤ人学生、とりわけ“好ましからざる”タイプのユダヤ人は、質問に戸惑って答えられまい、と踏んでいたのだ。平均的なアメリカ生まれの青年なら上手く答えられるが、排除したいタイプのユダヤ人たちは、質問に答えられるだけの家庭環境にないし、必要な経験も持っていなかった。
(左/エドワード・リー・ソーンダイク)
用心深いコロンビアやイェール大学、それに他の私立大学の運営者も、試験を実施するにあたって慎重を期していた。彼らは試験に秘められた目的を感づかれぬよう、入学希望者の宗教や国籍だけでなく、母親の旧姓までも尋ねていたという。なぜならば、ユダヤ人受験生の中には、自らの素性を隠すために父親の苗字を英国風に変えている者がいたからだ。しかし、彼らの母親は旧姓を変えることまではしていなかった。だから、大学の担当者は、そこに目をつけたという訳だ。念には念を入れるのがアメリカ人だから、大学側は受験生の顔写真まで求めたという。入学審査官はこの写真を以て、受験生のユダヤ人的特徴を洗い出したのである。「えぇぇぇ~、これってナチ・ドイツのゲシュタポがユダヤ人を摘発する手口と似ているぞ ! 」なんて大声で言ってはいけません。日本人なら澄ましていなくちゃ。戦勝国の英国や米国では、反ユダヤ主義を国策にしたドイツ人だけが悪魔であり、民間でユダヤ人を差別したアメリカ人は「正義」と「公正」の擁護者なんだから。ゲシュタポや突撃隊と一緒にしてはならない。それに、立派な名門大学の教師が、反ユダヤ主義者だったなんて“ばつ”が悪いじゃないか。
(左/チャールズ・エリオット)
ユダヤ人や非西歐系の学生を制限したり排斥するのは、胸を張って自慢できることではなかろうが、将来のエリートを育成する上では、どうしても欠かせない措置である。ユダヤ人や黒人を入学させるということは、入学できたかも知れない西歐系アメリカ人を排除することであり、入学が適った西歐系学生には異人種との共存を強いることになるからだ。ハーバード大学の歴史上、偉大な指導者と讃えられるチャールズ・エリオット(Charles Eliot)総長は、その在任期中(1869年から1909年まで)、ハーバード大学を地方的・門閥的な学校から国家的な総合大学へと変えた功績をもつ。彼は人種や階級、宗派、政党などに関係なく、総ての者に門戸を開いた。学究肌のエリオット総長は、ハーバードをユダヤ人にとって快適な大学となるよう考えていたし、実際、ユダヤ人はこぞって入学したがったという。しかし、エリオットの後任となったローウェル総長は、前任者とは違った信念を持っていた。フロンティア時代なら新参者を同化できたが、海外から大勢の移民が押し寄せる時代となれば、昔ながらの同化政策は難しくなる、と考えていた。彼は我慢できる程度に同質な人種でないと民衆政治は成功しない、という持論を持っていたという。だからこそ、ローウェルは次第に増加するユダヤ人学生を何とかしようと行動を起こしたのだ。
ローウェル総長によれば、アメリカ人と同質な背景を持たぬ新参者を教育することは、社会的使命を帯びたハーバードの義務である。しかし、経験から言えば、その比率は15パーセントが限界だ。だから、エリオットの反対にもかかわらず、ローウェルはコロンビア大学に倣って、学生の構成に関してはアメリカの人口比率が反映されるよう仕組んだという。そこで、ハーバードに入学してくるユダヤ人の数を、21パーセントから10パーセントへと下げたのだ。この解決策は「ハーバード・プラン」と呼ばれるようになり、多すぎるユダヤ人学生の制限に用いられたが、現在では完全に覆されている。合衆国の総人口におけるユダヤ人の比率は、せいぜい4、5パーセントなのに、名門大学への入学率は、その人口比率に反して飛び抜けて高いというのだ。2007年から2011年にかけてのデータによれば以下の通りになる。
ユダヤ人 白人
ハーバード大学 1,250% 320%
イェール大学 1,230% 300%
プリンストン大学 700% 310%
コロンビア大学 1,220% 310%
コーネル大学 1200% 310%
ブラウン大学 1210% 300%
ペンシルヴァニア大学 1,300% 320%
ユダヤ人は人口比率に対して驚くほど入学率が高い。例えば、2007年から2011年の統計によるハーバード大の入学者を見ると、白人が18%で、アジア人が16%なのに、ユダヤ人は26%も占めている。イェール大では白人が20%でアジア人が14%であるのに、ユダヤ人は26%を占めていた。ただし、プリンストンは例外で、白人は37%でアジア人が16%となっており、ユダヤ人は13%に留まっている。だが、ペンシルヴァニア大学では昔からユダヤ人が多く、白人が17%でアジア人が18%なのに、ユダヤ人が27%を占めているのだ。ユダヤ人が傑出しているのは、彼らが優秀だからだ、という理由もある。確かにそうだろうが、それなら白人学生が熱心に勉強するよう奨励すべきだろう。ユダヤ人の移民など入れずに、イスラエルに追い払い、西歐系の国民を熱心に教育し、国家の担い手にするのが本筋である。建国の子孫をなおざりにして、有望な移民を入れようとするのは、国民国家の自殺である。
被害を受ける一般国民
日本人でも優秀な外人を入れて、国家の繁栄を図ろうとする勢力が存在するが、その前に日本人の子供を育成することが優先課題なんじゃないか。例えば、一般家族で考えてみれば分かりやすい。成績の良くない子供を持つ親が、家計を豊かにしたいからといって、秀才の支那人や朝鮮人を養子に取るだろうか? なるほど、優秀な養子なら高収入の職に就いて家計を助けるだろう。しかし、見棄てられた実子はどうなるのか? たとえ、養子の外人がホワイトカラーの高給取りになっても、実の子が低賃金の筋肉労働にしか就けなかったら、その両親は嘆き悲しむはずだ。養子を取って贅沢な暮らしをするよりも、我が子に素晴らしい教育を授けて、人並みの暮らしをさせたいとか、立派な職業に就けるようお金を惜しまないのが普通の親だろう。米国のマサチューセッツ工科大学(MIT)には、超優秀な学生が入ってくるが、彼らの容姿や素性を調べれば、アメリカ人というより地球市民と呼んだ方が適切である。世界中の民族から選りすぐりの若者や学者を集めているんだから、世界一になるのは当然である。オリンピックで金メダル数が多いのも当り前で、黒人が昔から大量に存在するし、移民や難民としてアフリカ人や南米人が毎年流入しているんだから、選競技人口だって自然と多くなる。選手層が分厚いから、選抜される者が強豪になるのもうなづけよう。日本も金メダリストが欲しいなら、アフリカ人を1億人くらい「青田刈り」と称して輸入すればいい。優秀な科学者が欲しければ、支那人を3億人くらい招き寄せれば、10人くらいノーベル賞受賞者が出るんじゃないか。ただし、それを一般国民が承知すればの話だが。
(左: アフリカ難民 / 右: マイケル・ジョーダン)
西歐系アメリカ人は頭がおかしいから、彼らの子供が怠け者になることを「しょうがない」と諦め、秀才になりそうな外人をアジアやアフリカから連れてこようと考える。だが、ほんの一握りの秀才を獲得するために、厖大な数の「厄介者」や「問題児」、「犯罪予備軍」を入国させていることに気づかない。例えば、トップ・スターになりそうなバスケット・ボール選手を1人獲得するために、1千人万人のアフリカ人を輸入するのは馬鹿げている。マイケル・ジョーダみたいな人物はごく稀な存在だ。黒人に強姦されたり、金品を奪われたりした白人の国民に対し、合衆国政府はどのような責任を取ったというのか? どんなに悔しくても、被害者は泣き寝入りするしかない。また、ユダヤ移民から優秀な科学者が誕生したことも確かだ。しかし、ユダヤ人が政官財のみならずマスコミや学術界、映画産業までも掌握してしまった現状を見て、先祖代々アメリカに住む西歐系国民は「移民を入れて良かった」と思うのか? 驚くことに、総人口の1パーセントにも満たないユダヤ人の富裕層が、政界や金融界を牛耳って、合衆国の軍隊までも動かしている。イラクやアフガニスタンで戦死した西歐系アメリカ人は、移民社会となったアメリカに満足しているのか? イスラエルを助けるために、貴重な税金と人命を無駄にする中東戦争に意味があるとは思えない。もっとも、彼らはこうした政治的仕組みに頭が回らないんだから、自業自得である。
(左: インドの老人 / 右: インド人の女性)
また何と言っても、IT社会だとはしゃいで、廉価な技術者をインドから輸入するアメリカ人はアホだ。だいたい、優秀なインド人科学者を欲しいからといって、大勢の移民を受け容れるとしたら、彼らは一体どこに住むのか? おそらく、白人が主流の住宅地を目指すだろう。たぶん、彼らは黒人や支那人がいっぱいの住宅地には住まないぞ。一方、中流階級の白人達は、せっかく雰囲気の良い郊外の住宅地に屋敷を構えたのに、茶色い親子がやって来るから憤懣やるかたない。夢のマイホームが台無しだ。そこで、もしインド人が居ない国で暮らしたいと望む白人が出てきたらどうするのか? 所得が高くなったインド人は、治安の良い白人住宅地から離れようとはしないし、用済みになったから帰ってくれと頼むわけにも行くまい。能力を買われたインド人の父親はいいが、出来の悪い子供や言葉が不自由な妻、アメリカ生活に馴染めない老婆がいたら、国家にとってプラスにならず、社会負担が増えるだけだ。彼を雇った企業は得をするが、彼の家族に福祉を与える納税者は損をする。日本人はアメリカが各分野の学問で世界のトップに立っていると羨んでいるが、その裏には数多くの不満を我慢している国民が居ることを忘れてはならない。
(左: 西歐系の女性 / 右: インド人の少女)
コネが幅を利かす上流社会
(左: ジョン・バーコウとサリー夫人 / 右: デイヴィッド・キャメロン)
大学という教育機関は、確かに研究者を養成する組織であるが、その一方で国家の支柱となる人材を育成する場所でもある。君主国なら封建制の衣鉢を継ぐ世襲貴族がいて、王様の輔弼・輔翼となり国家の中枢を担うが、共和政だと貴族がいないから、民撰議院が国政を担当することになる。国家の命運を担う重責を、無責任な大衆から選ばれた議員が背負うんだから、どうしても政治の質が低下してしまうのは否めない。それに、政治家の責任が有限なので、秕政(ひせい)を行った政治家は辞任したり落選したりすることで、責任を取ったことになってしまう。したがって、失敗の責任は往々にして、一般国民が税金で解決することになる。封建制の武家社会だと、本人が切腹したり、父親の責任を跡継ぎの嫡男が背負ったりするから、父親は子孫に恥を掻かせたり、罪を残したりしないよう真剣になる。紳士も似たようなところがあり、国民の税金をネコババしたり、視察旅行と称した観光旅行や脱税行為をした場合、紳士階級の面子を失い、今まで築いてきた名誉をすべて失う破目になる。その子供だって肩身が狭くなるから、親としては恥ずかしい真似はできない。パナマ文書の公開で、英国のデイヴィッド・キャメロン首相は、タックス・ヘイヴンを使って租税回避を行っ手居たことがバレた。彼は倫理的に批判されているし、面子が丸つぶれになったから、首相の座を退任して貴族院に入っても、その汚点はずっと尾を曳くだろう。翻って、下院議長のジョン・バーコウ(John Bercow)は、ユダヤ人の成り上がり者だから気が楽だ。税金を使いながら夫婦揃って豪華な海外旅行をしても恥じることはない。どうせ一代限りの政治家だから、他人のお金を使えるだけ使ってしまおうという魂胆だ。彼と夫婦(めおと)になったサリー夫人(Sally Kate/旧姓 Illman)は、元々保守党員だったが、労働党に鞍替えしてトニー・ブレアを支持していたという変節の女丈夫である。お金と権力が大好きなブロンドのイギリス人女房は、背が低いユダヤ人を亭主に持っても気にしないし、夫の支持層を広めるために、左翼に属して人気取りに奔走するんだから、大した玉である。
「学問の府」と呼ばれる大学だが、そこから学者になる学生はごく少数で、大抵の学生は卒業して一般の企業に勤めたり、自営業を興したりするのか普通だ。したがって、大学生活で重要なのは、適切な判断力や社交で恥を掻かぬ程度の教養を身につけることだろう。一般企業の面接試験で卒業論文を持っていって、哲学や文学、法学の研究成果を滔々と喋る奴は何人いるんだ? 例えば、フジテレビの入社試験や面接なら、刑法や憲法を論ずる法学部卒業生よりも、「東証一部企業の重役の息子です」とか、「国会議員や地方有力者の娘です」といった自己紹介の方が絶対に有利だ。(現に、有名企業のお坊ちゃまが居るじゃないか。) NHKに入社した橋本大二郎は、橋本龍伍の息子で龍太郎の異母弟である。彼は退社すると高知県知事を務め、そのあとテレビ朝日でキャスターとなった。石原慎太郎の長男伸晃も日テレに就職し、退社後衆議院選挙に出て当選したが、それだってオヤジの七光りと叔父の七光りが“後光”となったからだ。こんな愚息でも自民党総裁選に出馬できたんだから、世襲議員の劣化は相当ひどい。実力主義を云々していても結局、テレビ局の面接官は彼らの能力より、親の地位を勘定に入れて、入社試験「合格」の判子を押したのだろう。女子アナウンサーの採用だと、学業の成績よりも容姿の方が重要視されるから分かりやすい。例えば、フジテレビを退職した加藤綾子アナは音楽を専攻していたそうだが、楽器演奏の才能より、その容姿の方を見込まれて採用されたのではないか? いくら文才があって饒舌であっても、季節外れの柚子(ゆず)みたいな女性が応募者だと、採用試験には合格しないだろう。アメリカのFOXテレビだって、ジェナ・リー(Jenna Lee)やジェデディア・ビラ(Jededih Bila)、メイガン・ケリー(Megyn Kelly)は容姿で採用されたことは明確だ。
(左: 加藤綾子 / 中央: ジェナ・リー / 右: ジェデディア・ビラ)
ビジネスの世界でも、大学の成績より交際範囲の広い方が有利である。有名大学の卒業生が好まれるのは、友人にお金持ちの子弟がいたり、政治家や医者がOBネットワークを持っていたりするからだ。図書館に籠もって勉強ばかりしていた学生より、ヨット遊びや乗馬、ゴルフ、藝術活動などで意外な人物と知り合った学生の方がいいし、社交的な明るい青年の方が成功しやすい。アメリカでも事情は似たり寄ったりで、アイヴィー・リーグで学ぶということは、そこで一生涯の友人ないし兄弟のような親友をつくることにある。いくら優秀な学生でも、研究者が気づかなかった未知の物質を発見したり、教授でも手を焼く難解な数式を証明する学生なんていやしない。大抵は、既に分かっている知識を勉強しているだけだ。ロー・スクールの卒業生だって、コネで大手の法律事務所や会計事務所に入ったりすることがある。もちろん、優秀という条件ではあるが。
(左: 少年時代のジョージ・ブッシュ / 中央: パイロット時代のジョージ・ブッシュ / 右: 父親と一緒の写真)
コネで高位高官になった人物と言えば、ジョージ・W・ブッシュが挙げられるだろう。彼はハーバード大で経済学修士号(MBA)を取ったけど、知的な紳士というより、飲んだくれのドラ息子だ。それでも、意外なことにMBAを取った初の大統領である。ただし、間抜けを通り越して無礼であった。例えば、訪米したエリザベス女王とディナーを囲んだ時、「陛下のところで“はみ出し者(blacksheep)”は誰ですか?」、なんて訊いたんだから呆れかえってしまうじゃないか。まさか、女王自ら「アンドリュー王子かしら」と答えるわけないだろう。母親のバーバラも息子の失言に赤面したはずだ。まぁ、それでもベトナム戦争逃れの為に入ったテキサス州空軍を除隊したら、石油業界に潜り込んで商売に就けた。ただし、ザパタ石油で働いていたオヤジのコネが利いたからだろう。また、彼にはテキサス州空軍時代、ジェイムズ・バス(James Reynolds Bath)というパイロット仲間がいて、このジェイムズが出資してくれたお陰で、ジョージは「アルブスト・エナジー(Arbusto Energy)」を設立することができた。海兵隊と違い、高度な専門知識が要求される空軍だと、それなりのエリートが集まってくるので、裕福な家庭の子弟と知り合う機会が多くなる。ジェイムズの方も、名門ブッシュ家の御曹司で元CIA長官の息子と知っていたから、親しく付き合ったのだろう。
(左: ジェイムズ・バス / 右:エリザベス女王)
上流階級は色々な切っ掛けで親しくなるし、友人による紹介で次々と人脈を広げるから、裕福になる確率が高い。また、たとえ事業に失敗しても、セカンド・チャンスに恵まれるから、復活することも可能だ。アル中のジョージ・Wが、「テキサン・レンジャース」という野球チームのオーナーになれたのも、エリート集団の一員だったからだろう。そういえば昔、福田恆存がお金に困って自殺する者としない者の違いを話していたことがある。これといったコネの無い庶民だと、借金で首が回らなくなって自殺したり、郵便局強盗をはたらいたりするが、高級な職業に就いている者だと、裕福な友人が助けてくれたり、人脈の中の誰かが救ってくれたりするから、無茶なことはしないそうだ。確かに、高級官僚はスキャンダルで首になっても、どこかの公益法人に天下って高給取りになったりするから、絶望して自殺する奴は少ない。倒産で裸一貫になる町工場のオヤジさんとは格段に違う。
アメリカ合衆国は貴族を持たないけど、英国の國體を受け継いだ共和国として発足したから、共和政を支えるローマ貴族のような人材が必要なのである。表だって爵位のある世襲貴族を作れないから、せめて学校を利用することで、準貴族たる“ジェントリー”階級を作らなくてはならない。ぼけ~としていたら、ジョージ・ワシントンやジョン・アダムズ、アレグザンダー・ハミルトンみたいな高貴な紳士が絶えてしまい、国家の中枢や地方のコミュニティーが愚劣で凡庸な人物によって支配されてしまうのだ。深い教養を積みながら武藝に邁進し、国家と国民に責任を持つ武士は、身分制と世襲制があったから維持されたのである。エリート大学の役目は、社会の指導者になるような紳士を育成することで、本の蟲みたいな学者は二の次にすればいいのだ。どうしてもユダヤ人が勉強したいというのなら、他の地方大学に任せればいいし、問題を引き起こす文系学生はイスラエルのヘブライ大学に押しつけれればいいんじゃないか。彼らをイスラエルに厄介払いすれば、コブラとニシキヘビの戦いみたいになるから、結構おもしろい内ゲバになるだろう。公民権運動が盛んだった1960年代に、ユダヤ人は激しく民族枠を攻撃したようで、アイヴィー・リーグは彼らの抗議に屈服し、ユダヤ人枠を大幅に緩めたそうだ。その結果、名門校にはユダヤ人、黒人、インド人、支那人が怒濤の如く押し寄せ、WASP主体のキャンパスが黒茶黄色が混じった多民族キャンパスになってしまった。ギリシア文字を冠した白人だけのクラブも、非西歐人を入れることになってしまい、昔のように同質な者だけの和気藹々(わきあいあい)としたクラブではなくなってしまった。今では、ローウェル総長のようなアングロ・アメリカ主義者は消滅し、ユダヤ人の元財務長官たるラリー・サマーズがハーバードの学長に就任するような時代になっている。そういえば、彼の手先になって日本を食い物にしていた竹中平蔵もハーバードに居たから、ローウェル達はあの世に行って幸せなんじゃないか。卑屈な平蔵の笑顔を見ると、我々だって吐き気がするんだから。
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(左: プリンストン大学の総長だったウドロー・ウィルソン / スカル&ボーンズのウィリアム・タフト大統領 / プレスコット・ブッシュ /右: プレスコットの息子ジョージ・ハーバート・W・ブッシュ)
教育をどうするかは国家の優先課題である。一般的に国家の要件を主権や領土に求めるが、誰が国民であるのかは最も重要なことである。歴史を眺めれば、外国によって領土を奪われたり、割譲する破目になることは辛いが、それよりも国民の質が変わることの方が深刻なのだ。日本に関して言えば、北方領土をロシア人に奪われ、竹島を半ば朝鮮人に占領されてはいるが、日本人が国防意識に目覚めれば奪還できる可能性は残されている。だが、国民の精神が異質な思想に冒(おか)されれば、北鮮による拉致被害者を見殺しにしてしまうし、その肉体にアジア人の遺伝子が混ざってしまえば、日本人という意識が薄くなるだろう。つまり、政治や教育の問題において、国家を構成する人間が重要なのだ。
保守派は漠然と「伝統を守れ !」と訴えるが、それを「誰が守るのか ?」ということを追求しないから片手落ちである。国家と国民の性質を伝承するためには、親は子に祖先からの智慧や遺訓、あるいは気風を教え、古来の伝統から逸脱せぬよう誡めなければならない。これを庶民文化で考えてみれば容易に分かるはずだ。例えば、歌舞伎役者の世界では、親が子へ藝を教えて伝統の火を消さぬよう努めている。だから、日本人や外国人を問わず、誰でも役者になってお金を稼ぐことができれば良い、という考えにはならない。それに、舞台上では「傾(かぶ)く者」とか「変わり者」を演じていても、劇場の外では格式を重んじて、決して軽率な行動を取らぬよう心掛けているし、贔屓(ひいき)にしてもらっている顧客はもちろんのこと、一般人に対しても礼儀を弁えているのが普通だ。蕎麦屋だって、出汁の味をちょっとくらい変えることはあっても、だいたいは創業者の味を守っている。江戸時代から続く老舗の店が、いきなり「カレー味の蕎麦」とか、「メキシカン・スープ・ヌードル」なんてメニューは出さないだろう。ただし、外資による買収で、店長がインド人とかメキシコ人になれば話は別だが。また、現代の日本人なら蕎麦にマヨネーズをつけて、コーラと一緒に食べる輩(やから)もいるだろうから、奇抜な新メニューが出てくる可能性はある。
(左: 丸山真男 / 横田喜三郎 / 宮澤俊義 / 右: 上野千鶴子)
我が国の教育問題はあまりにも重症で、一々語り出したら切りがない。しかし、その中で幾つか挙げるとすれば、「エリート教育」の不在を指摘することができるだろう。「えっ、東大や京大があるじゃん」と反論する方もいるだろうが、それは入試が難しいという点が肥大化しているからであり、教育内容が一流であるとか、教授陣が素晴らしいからではない。確かに、物理や化学、生理学などの学部に多額の予算が与えられた結果、大規模な実験設備を購入でき、有能な研究者が集まるので最高学府になっている。しかし、比較的優秀なのは自然学分野のことであり、文系の学部は軒並み凡庸か有害な左翼の巣窟となっているのが現状だ。とくに、法学部や史学部、教育学部、経済学部、社会学部などは、赤い黴菌の貯蔵庫みたいになっている。例えば、東大の名物教授だった丸山真男は言うまでもなく、国際法の横田喜三郎は昭和天皇の退位を願ったし、憲法学の芦部信喜(あしべのぶよし)は、「八月革命」で悪名高い宮澤俊義と並ぶ極悪の憲法学者だ。また、極左のフェミニストも盤踞しており、上野千鶴子や辻村みよ子のように日本を呪って貶める学者が、官僚や教師になる学生を洗脳していたんだから恐ろしい。
(左: 辻村みよ子 / 大塚久雄 / 姜尚中 /右: 村田晃嗣)
法学部以外でもトンデモ学者が多い。例えば、大塚久雄なんかマックス・ウエバーの本を和訳したことが唯一の業績だし、その弟子にあたる姜尚中は、朝鮮人だから教養学部の教授になれた。つまり、日本版アファーマティヴ・アクション(劣等民族優遇制度)の魁だろう。姜尚中は「朝まで生テレビ」に出演した時、驚くような恥をさらしていた。同志社大学の村田晃嗣が「岡崎久彦大使」について言及したら、姜は勝ち誇ったような顔をして、「(岡崎氏は)もう大使じゃないよ ! 」とせせら笑っていたのだ。筆者がこれを観た時には、椅子から転げ落ちそうになった。まさかここまで“無教養”とは思わなかったからだ。特命全権大使は退官しても「大使」という称号で呼ばれることは、歐米諸国では常識以前の常識である。米国だと上院議員や州知事は退任したあとでも、「セネター」とか「ガヴァナー」と呼ばれているじゃないか。例えば、アーノルド・シュワルツネッガーやスコット・ブラウン、ジェイ・ロックフェラーなどを思い出せばいい。自戒を込めて言うけれど、世の中を舐めてはいけないぞ。朝鮮人には超弩級のアホが居るんだ。しかも、無知に気づかない破廉恥漢を、事もあろうに「教養学部」の教授に推す人物がいるんだから、一般国民でも気が滅入ってしまう。その上、東大には日本政府から学費や生活費を貰っている支那人が大量にいるんじゃ、もう税金を払うのが嫌になる。
(左: 岡崎久彦 / アーノルド・シュワルツネッガー / スコット・ブラウン / 右: ジェイ・ロックフェラー)
日本人は難しい入試に躍起となるが、大学での授業内容となると、急に関心が薄くなるから不思議である。というのも、受験生は社会的身分を得るために入るからだ。つまり、名門の一流校なら上級国民で、無名の三流校なら下級国民と考えるからだろう。日本人は民族的同質性が高いので、社会的区別をしようとすれば、学歴で分類するしかない。卒業校が士農工商という身分区別の代役となっている。ところが、身分制度が明確で社会的格差が著しい西歐なら別だ。西歐社会は人種や階級で国民が別れているから、何が何でも学歴で区別しようとは思わない。ただ、現代は中流階級が殊のほか肥大化したから、教育レベルで差別しようとする傾向が強い。大衆化と雑種化が激しい英国では、階級と人種の区別が有るようで無いような曖昧な状態になっている。昔は、パブでさえ上流・中流・下流民で分離していていたし、労働者階級の子弟がオックスフォード大学に入っても、貴族階級にはなれないと分かっていた。たとえ、上流階級の趣味を身につけても、家柄が変化するわけでもないから、日本人ほど熱心に有名校を目指そうとはしなかったのだ。しかし、最近ではアジア人やアフリカ人の学生も増えてきたし、労働者階級の子弟も大学進学を目指すようになったから、名門大学も大衆化の波に飲み込まれている。もっと嫌なのは、教授人にアフリカ人やアジア人が混じっていることだ。イギリス人の学生なら支那人やケニア人あるいはユダヤ人の教授から「紳士の心得」を習いたくないよなぁ。
それでも、日本の大学よりマシなのは、たとえ文系の学問であっても、一定の水準を下げないよう努力しているからだ。大学で正教授になっても業績を強く求められるし、外部からの批判にも耐えるような論文を書かねばならない。一方、日本の大学教授は気楽だ。例えば、英文科の教授が書いたシェイクスピアの論文とか、法学部教授が発表した憲政論なんか、歐米諸国では誰も読まないし、気にもとめないから、それらは単に“インクで汚れた紙の束”である。昔、関西大学の谷沢永一先生が指摘していたが、誰も読まない『紀要』に下らない論文を掲載して、それを業績に数える学者が多かったという。愚劣な教授連中は結束が固いので、お互いに論文の批判はしないという美しい“掟”があった。だから、みんなが安心して過ごせたそうだ。実際、どんな本を書いても全国の図書館が買ってくれるし、授業で教科書に指定すれば、学生は渋々買う破目になるから、「確実な部数」を捌くことができる。こんな殿様商売は、学生食堂でも無理だ。いくらキャンパス内にあるとはいえ、日替わり定食とかカツ丼が不味ければ、学生が購入して食べることはない。食券の強制購入なんて聞いたことがないだろう。似非インテリは賛同しないだろうが、大学教授よりラーメン屋の店主の方が偉い。厳しい競争に曝されているから、日々努力を重ねているし、そのうえ税金まで納めているんだから立派だ。
熾烈な受験競争
(写真/フィリップ・エクスター・アカデミーの校舎と教会)
学歴にこだわる日本では、幼稚園からの受験に熱心な親がいるけれど、アメリカでも学歴を重要視するので、有名校を目指す親子も珍しくはない。一流大学を目指す子供は、公立の高校・中学・小学校に通わず、高額な授業料がかかる私立学校、つまり「プレップ・スクール」に入っている。このタイプの学校は、英国の「パブリック・スクール」を模範とし、寄宿制をとっている場合が多い。(ちなみに、私立なのに「パブリック」という名称は奇妙だが、これは宗教改革の時代、みんなに開かれていた教会の学校が、ヘンリー8世やトマス・クランマーによる一連の修道院掠奪で、カトリックの歴史的資産から貴族の学校へと変貌しからである。「プライベート」だけど、そのまま「パブリック」の冠をつけている。) 有名な私立学校といえば、次のような寄宿制学校が挙げられるだろう。
①フィリップス・エクスター・アカデミー(Philips Exter Academy) ニューハンプシャー州 (宿舎と授業料は年間$46,905/日本円で約516万円) 有名な卒業生では、フェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグがいる。
②チョート・ローズメアリー・ホール(Choate Rosemary Hall) コネティカット州 ($53,100/約584万円) 卒業生には、ジョン・F・ケネディー大統領や女優のアリ・マックグロー、グレン・クローズ、ジェイミー・リー・カーティス、男優のマイケル・ダグラスなど。
③フィリップス・アカデミー(Philips Academy)マサチューセッツ州($48,800/約536万円)ジョージ・W・ブッシュ大統領が卒業生。
④プットニー(Putney School) ヴァーモント州 ($50,800) 卒業生では女優のフェリシティー・ハフマンがいる。(TVドラマ「デスパレート・ハウスワイヴズ」に出演した役者。)
(ユダヤ系役者の4名/ 左: アリ・マックグロー / グレン・クローズ / ジェイミー・リー・カーチス / 右: マイケル・ダグラス)
その他で有名なのは、ジョン・マッケイン上院議員が卒業したニューハンプシャー州のセイント・ポール(St Paul's School)、マサチューセッツ州のセイント・マークス(St Mark'S School)やグロートン(Groton)、デラウエア州のセイント・アンドリュース(St Andrew's )、コネティカット州のタフト(Taft School)などである。
(左/「ある愛の詩」のオニールとマックグロー)
ちょっと主題から逸れるけど、アリ・マックグローと聞けば、ライアン・オニール(Ryan O'neal)と共演した『ある愛の詩(Love Story)』(1970年)を思い出す方もいるかもしれない。映画の中で、オニール扮するオリバー・バレット4世は、マックグロー扮するジェニー・カヴァレリと恋に落ちる。オリバーは裕福な家庭の出身で、ハーバード大学の学生だが、ジェニーはラドクリフ大学に通う労働者階級の娘だ。当然、オリバーの両親はいい顔をしない。しかし、二人は強く結びつき、結婚することさえ考える。彼女は大学で古典音楽を専攻しているので、将来パリに行きたいと望んでいた。ところが、彼女は白血病に冒され、やがて亡くなってしまう。恋人を失ったオリバーの哀しい表情が印象的だ。ハリウッド映画にしては珍しく悲しい結末を迎える作品だが、当時としては結構ヒットした。あの有名な作曲家のフランシス・レイが、映画の中で流れるテーマ曲を担当していたから覚えている方も多いだろう。彼は映画『個人授業』を始めとして、『雨の訪問者』、『男と女の詩』、『パリのめぐり逢い』などでもサウンド・トラックを手掛けていたから、往年の映画ファンには馴染みの音楽家である。
(左: ライアン・オニール / ファラー・フォセット / ファラーとライアン / 右: 「ペーパー・ムーン」で娘のテイタムと共演したライアン)
黒髪のマックグローはハンガリー系ユダヤ人の子孫なので、その東洋的特徴が混じった人相は、労働者階級の娘にピッタリだ。まるで南イタリアからやって来た貧しい移民に見えるし、地道に勉強してラドクリフ・カレッジに入ったような感じがする。(この大学はセブン・シンターズ・カレッジの一つであったが、1999年にバーバード大学に統合されたので、映画の時代とは状況が違ってる。) ちなみに、彼女の母親は結婚する時、ユダヤ系の血筋を夫に告げていなかったらしい。やはり、何となく躊躇いがあったのだろう。相手役のライアン・オニールは、娘のテイタム・オニールと共演した名作『ペーパー・ムーン』で人気を博したことがある。また、彼は実生活で人気女優のファラー・フォセット(Farrah Fawcett)と一緒になったが、ファラーが亡くなってしまったので寂しい晩年を過ごすことになった。まぁ色々あるけど、現実的に言ったら、やはり暗い感じのユダヤ人女性より、テキサス生まれのブロンド美人の方がいいよね。シルヴェスター・スタローンだって、映画『ロッキー』の中で、黒髪のイタリア系女性タリア・シャイアと夫婦役だったけど、私生活では北歐美女のブリジット・ニールセンと結婚したからなぁ。ハリウッドの世界は厳しく、美人女優のファラーでも『チャーリーズ・エンジェル』の時が絶頂期で、その後の映画作品には恵まれなかったから、とても残念である。
(左: チョート校の図書館 / 右: チョート校のメモリアル・ホール)
一般の日本人はアメリカのエリート学校を論ずる時、東海岸のアイヴィー・リークばかりに目を向けるが、実は大学に入る前の段階、つまりプレップ・スクールが重要なのだ。ケネディー大統領が通っていたチョート校は現在、メアリーローズ・ホールと合併しているが、依然として超名門校である。ケネディーの有名な演説に、「国があなた方に何を出来るか、を問うのではなく、あなた方が国に何を出来るのか、を問いなさい」というフレーズがあった。この言い回しは、チョート校の学長であったジョージ・セント・ジョン(Goerge St John)が生徒たちに語っていた説教の一部である。校長先生は「学校が君達に何を出来るかではなく、君たちが学校に何を出来るかを問いたまえ(Ask not what your school can do for you, but what you can do for your school.)」と教えていたのだ。ただし、このフレーズは、ハーバード大学で学部長をしていたルバロン・ラッセル・ブリッグス(LeBaron Russell Briggs)からの引用らしい。となると、ハーバード大卒のケネディー大統領は、孫引きのフレーズを国民に語っていた、ということになる。それでも名演説には違いない。でも、高校で聞いた先生の説教を後に、しかも大統領になってから使うんだから、いかにアメリカ人が演説を大切にしているかが分かる。日本のエリート校とえらい違いだ。日本人の校長の話は、長ったらしくて締まりがなく、これといった刺戟に乏しい。つまり、老人の“ぼやき”程度だから退屈だ。彼らは説教している事が楽しいだけで、聞いている生徒の事を考えている訳ではない。
(左: 学生時代のケネディー / 中央: 大同僚のケネディー / 右: ルバロン・ラッセル・ブリッグス)
日米欧を問わず、受験戦争は先進国に共通した社会現象である。良い学校に入れば、それなりの社会的ステータスを得る事ができるし、友達だって裕福な家庭の出身者だったり、有力者の親を持つ子供だったりするから、卒業後の人脈作りにも大いに役立つ。だから、大学の前の高等中学や小学校、幼稚園に至るまで、熾烈な入試競争が出来てしまうのだ。アメリカ人は「フェアー(公正)」を重んずるが、その裏では汚い「不正」がはびこる社会になっている。光が濃い分、その影も濃いという訳だ。スポーツの世界でも、ドーピング問題が深刻なのを観れば分かるだろう。例えば、自転車レースの帝王だったランス・アームストロングやテニス選手のマリア・シャラポワが、ドーピング検査で引っ掛かったのを思い出せばうなづける。彼らを見ると、いかに日本のスポーツ選手が立派で正直なのかが分かって嬉しい。アメリカ社会の腐敗は何もスポーツ界だけだはなく、受験を控えるアメリカ人にも顕著で、とんでもない連中が“いかさま”を犯していたのだ。
(左: ランス・アームストロング / 中央: マリア・シャラポワ / 右: サミュエル・エシャゴフ)
ちょっと前、英国で運転免許証を取得したい支那人移民が、テストで不正をしでかしたが、アメリカ人の受験生も「替え玉」を使って試験を誤魔化していたという。こうした不正受験の一つが、ロードアイランド州で発覚したのだ。グレート・ネック・ノース高校を2010年に卒業したサミュエル・エシャゴフ(Samuel Eshaghoff)は秀才で、大学入試用の標準テスト(SAT)で2100点くらい取っていたという。(読解力・作文・数学の三科目で最高点は2400点。) 彼は三年間で少なくとも15名の生徒に代わって、SATの試験を受けていたらしい。(Jenny Anderson and Peter Applebome, Exam Cheating on Long Island Hardly a Secret, The New York Times, Dcember 1, 2011) 当局の調べによれば、彼は替え玉として、だいたい2,170点から2,220点くらい取っていたそうだ。この事件の他にも、テストにおける不正は結構あるみたいで、教育テスト機関(Educational Testing Service)の調査によれば、年間3,000件にも上る試験結果がカンニング(「チーティングcheating」)により無効とされ、そのうち150件が替え玉によるものだったという。
不正が発覚して訴えられたエシャコフは無罪を主張しているから、いくらで「替え玉」を引き受けたのは定かではない。ただ、他の例を見てみると、だいたい500ドル(5万5,000円)から3,600ドル(39万6000円)くらい取っているから、彼が得た報酬もそれくらいなんじゃないか。不正受験となれば、親が絡む場合もあれば、生徒本人が親に内緒で頼む場合もあるから、一概に親子ぐるみの犯罪とは言えまい。それに、裕福な家庭のバカ息子なら数十万円くらい小遣いで持っているから、誘惑に駆られることもあるだろう。エシャゴフは偽造IDカードまで用意して替え玉になっていたが、決して貧しい家庭の少年ではなかった。彼の母親は弁護士で、地元グレート・ネック図書館の理事長を務めていたと云うから驚きだ。しかし、彼の両親は離婚しており、母子家庭になっていた。何も離婚家庭が悪いというわけてばないが、倫理道徳が等閑(なおざり)にされた冷たい崩壊家庭を見ているようで、聞いている方も気分が暗くなる。
(左: 幸徳秋水 / 右: 田中清玄)
高学歴の親だから子供の学業には力を入れていたのだろうが、肝心の善悪についての躾をしていなかったのだろう。ちょっと言いづらいけど、律儀な両親がいる健全な家庭に育っていれば、サミュエルも「やってはいけない一線」を超えることはなかったのではないか、と思えてくる。昔の日本なら「お父ちゃん、お母ちゃんを悲しませるような事はやっちゃいけねえよ」という誡めがあった。だいぶ古い話だが、無政府主義者の幸徳秋水はとんでもない極悪人で反省などする玉ではなかった。しかし、一つだけ良心が残っていたらしい。彼は「年老いた母親を悲しませたことで万死に値する」と獄中でつぶやいていたというから、他人にどんな迷惑を掛けてもいいが、自分の母親だけは別だったのだろう。そう言えば、共産主義者から天皇崇拝者に転向した田中清玄も、母親に対しては愛情を持っていたようだ。清玄は母の自害に衝撃を受けたらしい。家老の家に生まれた清玄が、事もあろうに国家転覆を目指す共産主義者になったのだから、御母堂はご先祖様に申し訳なく思ったのであろう。そりゃあ、死んでお詫びをするほかあるまい。親不孝の清玄は涙を以て悔悛したんじゃかいか。それにしても、昔の母親とくに武家の親は偉い。覚悟が違う。学校で暴れまくる馬鹿息子を弁護する左翼の親とは大違いだ。
憧れのハーバード大学
大衆社会になっている先進国だと、有名大学は社会的ステータスを得る登龍門になっている。もちろん、陸海空の士官学校もエリート・コースになっているが、そこの卒業生は主に軍隊へ就職するから、どうしても特殊な専門校になってしまう。一方、アイヴィー・リーグの方は、肉体的に強靱な若者以外でも進学できるし、お金儲けの職業に就くことができるから、大勢の高校生にとって魅力的だ。何と言っても片田舎の州立大学より、東部の名門私立大学だと、図書館や研究室などの施設が充実しているし、少人数クラスで教授陣もそこそこ優秀だったりするから、勉強していて気持ちがいい。とりわけ、有力者や大金持ちの子弟と仲良しになれるチャンスがあるから、卒業後のネットワーク作りにはもってこいの学校である。玉の輿をねらう女性にも格好の草刈り場だ。それゆえ、受験競争が異常に激しいし、学費だって目が飛び出るほど高い。それでも、一流校を目指して多くの生徒が人生の成功を願ってチャレンジしてくる。以前、このブログで紹介したエイミー・チュアのような、支那系アメリカ人の親は、超一流校への願望が強い。アメリカでも受験産業は花盛りで、年間50億ドル(約5千500億円)くらのお金が動いているそうだ。
ハーバードやプリンストン、イェール大学といった名門校は、全米の高校でも上位数パーセントの秀才しか入学の可能性がない。しかも、その少数者の中から、さらに学業やクラブ活動、人格などの点を加味して絞り込んで行くというから、入学を許された者は幸運である。もちろん、入試合格を目指す者は猛勉強するのが当り前で、その上にスポーツや地域活動、推薦状などを用意した上で評価されるんだから相当厳しい。だだし、問題は受験科目というより、どんな受験生を採用するかである。日本のように試験の総合点で合否を決めるのであれば楽だ。(ただし、最近は推薦入学とかOA入学といった「いかがわしい」入試制度があるから、学力で決めているとは限らない。) ところが、新入生をどの様な基準で取るのかについて論争が巻き起こり、エリート大学の苦悩が始まったという。なぜなら、1930年代から1960年代にかけて、受験生の合否基準が変貌したからである。つまり、人種や民族という要素が入り込んできたからだ。
アメリカは常に人種で悩んでいる。イギリス人によって建てられた共和国なんだから、白人のアングロ・サクソン系プロテスタント(WASP)が、多数派になって社会を支配するのが当然だろう。外国を参考にすれば分かる。例えば、サウジ・アラビアはアラブ人が、イランはペルシア人が、モンゴルは蒙古人が支配しているが、日本人はそのことについて文句は言わないだろう。イスラエルでユダヤ人がパレスチナ人ややアフリカ人を迫害しても、日本人には関係ないし、知ったことではない。ところが、西歐系アメリカ人は第19世紀後半から第20世紀にかけて、大量の非西欧系移民を輸入したから、国内に南歐系のギリシア人や東歐系のポーランド人のみならず、それらに混じってユダヤ人やアラブ人、インド人、東南アジア人まで受け容れてしまった。こうなれば、受験生に非西歐人がなってもおかしくはない。特に、学問にかけては秀でているユダヤ人が押し寄せるのは必然である。これは誰でも構わず気前よく国籍を与えると、取り返しのつかない災厄が降りかかるという典型例だ。
(左/アボット・ローレンス・ローウェル)
武藝はてんでダメなユダヤ人でも、書斎に籠もって本を読むといった座学は得意である。日本の神道には経典が無いけど、仏教には厖大な教典があるから想像できようが、ユダヤ人には聖典研究に没頭する民族性がある。数千年間も続けてきたことだから自然なんだろうか、詳細で複雑な神学を丹念に学ぶという習慣があって、毎日勉強しても飽きない性質が骨の髄まで染み込んでいる。彼らは何時間でも集中して勉強することを厭わない。だから、学問が趣味になっているユダヤ人は、外で遊ぶことが好きな西歐人を軽く凌駕することができる。こんな連中だから、アメリカにやって来たユダヤ移民は、当初かなり貧乏であっても、見る見るうちに勉学で頭角を現すようになった。予想通り、高度な学問を身につけたいとガリ勉タイプのユダヤ人や、立身出世を望む野心家のユダヤ人青年は、エリートが集まるアイヴィー・リーグにこぞって押し寄せたという。ところが、大勢のユダヤ人が入学してくると、アメリカの伝統を重視する白人の教授や学長たちが眉を顰めた。その中でも現在、特に悪名高いのはハーバード大学のアボット・ローレンス・ローウェル(Abbot Larence Lowell)総長である。
ハーバード大学には「トップ7ルール(Top Seventh Rule)」という採用基準があって、全米各地の高校で、上位7パーセントに属する成績優秀者から選抜する決まりになっていた。(Charles B. Hyman and Monika K. Piascik, Retrospection: President Lowell's Quotas, The Harvard Crimson, March 26, 2015) ハーバード大学は受験生が住む地域や彼らの身分・階級、学校の格付けなどにこだわらず、優秀ならばどんな新入生でも受け容れていた。しかし、ハーバードやイェール、プリンストンなどのアイヴィ・リーグ校はある問題に頭を悩ませていた。それは、ユダヤ人学生の比率が高かったことである。カルフォルニア大学バークレー校で社会学を教えているジェローム・カラベル(Jerome Karabel)教授によれば、全新入生におけるユダヤ人学生の割合は、1900年では7%だったのに、1915年になると15%に上昇し、1922年には21.5%へとさらに増加し、1925年には27.6%へと増えていった。(Peter Jacobs, Harvard Is Being Accused of Treating Asians the Same Way It Used to Treat Jews, Business Insider, December 4, 2014) ビジネス・スクールや医学部でも、ユダヤ人学生は15%以上を占めていたから、西歐系アメリカ人の集団の中で目立つ存在となっていたらしい。
(写真 / ユダヤ人の移民)
同族意識が強いユダヤ人ではあるが、アメリカのユダヤ人は一枚岩ではなかった。アメリカに昔から住んでいるセファラディー系のユダヤ人、つまりスペインなどからやって来た古株の連中は、西歐キリスト教社会の中でひっそりと目立たぬよう振る舞っていたし、できるだけ西歐系の白人たちと同じようなマナーを身につけようと努力していた。ところが、第19世紀末から増加した東歐のユダヤ移民は、ロシアやポーランド、ガリィツィア地方からの貧民が多く、粗野でがさつな下層民であったから、上品になったセファラディー系のユダヤ人にとって迷惑な存在だった。しかも、彼らの中から社会主義者や労働組合の活動家、アナーキスト、扇動家、無頼漢などが多く輩出されたから尚更である。たとえ家が貧しくとも、ユダヤ人には切れ者が多かったから、ズル賢いユダヤ人は貧民窟から都会へと抜け出し、血も凍る遣り手のマフィアとなり、勉強が出来るユダヤ人は大学に進んで、大学教授や技術者、あるいはビジネスマンになった。活躍する分野は違えど、両者とも頭脳労働で出世したことになる。ただ、後者のユダヤ人は立身出世を夢見てエリート大学を目指したが、迎え入れる大学側はいい顔をしなかった。なぜなら、イデッシュ語を話す伝統的な家庭で育ったユダヤ人の青年には、西歐人エリートがもつ「紳士階級の交流誡律」を理解できなかったからだ。それは学術的能力よりも、スポーツやマナーにおける“人格”や“感覚”であったから、野暮天のユダヤ人には理解できなかったし、彼らが育った環境では無縁のものだった。これとは多少違うが、日本でも武士の家庭で育った者と百姓の家で育った者とは、精神力や判断力、立ち居振る舞いなどの点で、かなり異なっていたから、外国人でも侍と庶民の違いを認識できたという。
ユダヤ人学生の排除
第20世紀初頭までのアメリカでは、WASPの伝統や社会を重んじる紳士が健在で、東部上流階級のアメリカ人は、西歐白人社会の擁護者を自負していたから、劣等民族のユダヤ人が群がることに賛成しなかった。ハーバード大学のローウェル総長もそうしたアメリカ人紳士の一人で、「ユダヤ人の浸透」は大学の気風と調和を破壊するものと思っていたらしい。そこで彼はユダヤ人枠を設け、その比率を15%に押さえようと努力した。当時、ハーバード大学はプロテスタントのエリート白人が集まる牙城で、反ユダヤ主義が跋扈(ばっこ)していたから、ローウェル総長の行動に反対する者は少なかった。それに、彼は反ユダヤ主義を取り除くためにも、ユダヤ人学生の制限は有効であると考えていたそうだ。1922年、アルフレッド・ベセックに宛てた手紙の中で、ローウェルは「ユダヤ人の数が全学生の40パーセントを超えると、人種に関する感情が緊張する」と述べていた。また、ローウェル総長は「ハーバート・ヤード」と呼ばれる緑豊かなキャンパスから黒人学生を総て排除したことがある。彼は異なった人種が共に暮らすことが可能であるとは思っていなかったからだ。それに、白人学生が黒人と一緒に在学することを強制されるなんて承服できない、と不満を漏らしていたのである。さらに、彼は「極秘法廷1920(Secret Court of 1920)」を結成し、ゲイの学生をハーバードから一掃してしまったそうだ。現在なら、ローウェル総長は、ネオ・ナチか KKKのメンバーと目されるだろう。だが、当時の社会道徳からすれば異常ではない。現在のアメリカ社会が病んでいるだけだ。最近では、性転換を行った元男性が、学校の女子トイレを使えるよう許可されるかどうかで揉めているんだから、もう呆れ果てて物が言えない。このように見てみると、約百年で如何にアメリカが変貌したかが分かるだろう。
(左: フレデリック・ケッペル / 内村鑑三 / 新島襄 / 右: 加瀬俊一)
こんにち我々が目にするコロンビア大学は、マイノリティーの極左学生がたむろする伏魔殿で、社会主義者で教育学者ジョン・デューイ(John Dewey)が、フランクフルト学派のユダヤ人亡命学者を引きずり込んだことで悪名高い。レーガン大統領時代に、保守派知識人として有名だったシドニー・フック(Sidney Hook)によれば、師匠のデューイは隠れ社会主義者であったそうだ。フックは元々マルキストのユダヤ人で、後に反共主義者に転向してフーバー研究所で活躍し、1985年レーガン大統領から自由メダル(Presidential Medal of Freedom)をもらった人物である。オバマ大統領も在籍していた左翼のコロンビア大学だが、第20世紀初めの頃までは、意外とまともな大学であった。ニューヨーク州のマンハッタンにあるコロンビア大学は、移民の玄関口に位置する学校ということで、洗練された家庭の学生が入ってきたがらないという問題に悩んでいた。学部長のフレデリック・ケッペル(Frederick Keppel)は、「コロンビア大に社交上最も不愉快なユダヤ人が群がっている」という噂に心を痛めていたという。彼の弁明によれば、大半の人々は人種問題と考えがちだが、実際のところ、それは社会問題に過ぎず、ユダヤ移民の一世や二世はそうかもしれないが、恵まれた社会環境で育ったユダヤ人は満足できる仲間になり得るらしい。そこで義務感の強いケッペルは、下品な家庭で育ったユダヤ人学生を、名門校の徳育で以て清廉な人物に変えようではないか、と提案していた。しかし、現実は理想を裏切るものだ。“洗練された”家庭の青年は、ほぼユダヤ人が存在しないアーマスト(Amherst)大学やウィリアムズ・カレッジに入学したという。ちなみに、アーマスト大学に留学した有名人は、無教会派のキリスト教徒で、明治の知識人に多大な影響を及ぼした内村鑑三や、同志社大学の創設者たる新島襄(洗礼名Joseph Hardy Niijima)、そして外交評論家で有名な加瀬英明先生の御尊父である加瀬俊一(かせ・としかず)大使がいる。有名なアメリカ人では、戦争省次官や世界銀行総裁を務めたジョン・マクロイやノーベル賞をもらった経済学者のジョセフ・スティグリッツ博士が挙げられるだろう。
(左: ジョン・デューイ / シドニー・フック / ジョン・マクロイ / 右: ジョセフ・スティグリッツ)
コロンビア大学の名誉を恢復(かいふく)するために、ケッペルと彼の後継者たるハーバート・ホウキンズ(Herbert Hawkins)は、ユダヤ人学生の数を減らし、その後は人数の制約を設けることにしたという。こうした努力のお陰で、ユダヤ人入学者は1940年の40%から4年後の1918年になると21%にまで減少し、1920年代になると15%から16%にまで落ちたそうだ。すると、大部分のエリート大学もこれに倣ったという。「ユダヤ人を禁止すべし」というのが、ニューイングラント学部長協会の集会で、イェール大学のフレデリック・ジョーンズ(Frederick Jones)学部長が述べた言葉である。これじゃあ、誰だって「うぁぁ~、KKK(クー・クラックス・クラン)の手先だ ! 」と思わず叫びたくなるだろう。ヒトラー以前のアメリカやヨーロッパでは、こんなの当り前田のクラッカー。(だいぶ古いけど、名優の藤田まことが「てなもんや三度笠」で使っていたギャグ。以前、動画サイトで見たことがある。)
(左/フレデリック・ジョーンズ)
ユダヤ人がキャンパスにいると不愉快だ、というのが理由の一つではあるが、その他にも理由があって、ユダヤ人が「ガリ勉」だから、という点が挙げられる。ジョーンズ学部長曰く、猛勉強をして成績の良いユダヤ人は、西歐系白人学生のやる気を失わせるからだという。それもそのはずで、普通の白人学生は音楽やスポーツ、ダンス、パーティーなどで忙しいから、一日中図書館に籠もって書物に埋もれるような生活はしたくない。どちらかと言えば、教養を身につけるためにギリシア・ローマの古典くらいは学ぶけど、恋人とデートしたり、乗馬やボート競技に精を出す方が、若い「紳士」にとって相応しい生活なのだ。髭もじゃのラビなるわけじゃあるまいし、重箱の隅をつつくような勉強で貴重な青春時代を潰すなんて馬鹿げている。大学教授やシンクタンクの研究者になるなら別だが、平凡に卒業するだけの学生にとっては、社交を身につける方が遙かに大切で、統計データの一字一句を精読し、小さな間違いを探す研究なんて青瓢箪(あおびょうたん)がすることだ。
「ユダヤ人は入れるな、叩き出せ ! 」と言えば簡単なのだが、こう露骨に言うと角が立つし世間体も悪い。本当は、1920年代の移民制限法と同じような民族別割当制度を取りたかったが、大学の運営者たちは反ユダヤ主義を正式な大学法に編み込むことには躊躇があった。そこで、ユダヤ人排斥の口実として、「地理的バランス」を求めることにした。つまり、米国各地からちょっとづつ取ることで、北東部の学生数を制限することにしたのだ。こうすると、東海岸に密集するユダヤ人受験生の数が自動的に押さえられる。なぜなら、ユダヤ人が少ない中西部や南部の田舎にまで均等に割り当てが施行されると、ユダヤ人が住んでいない地域からも学生を取ることになるので、多数派の白人から新入生を採用することになり、“好ましい”西歐系の学生を取りたい大学側としては都合がいい。さらに、大学当局は客観的とは言えない特性テストを実施することにしたのである。コロンビア大のティーチャーズ・カレッジで教鞭を執っていた、心理テストの創始者であるエドワード・リー・ソーンダイク(Edward Lee Thorndike)の協力を得て、ホーキンズは一連の入学試験を実施したという。ホーキンズは、こういった試験だと大部分のユダヤ人学生、とりわけ“好ましからざる”タイプのユダヤ人は、質問に戸惑って答えられまい、と踏んでいたのだ。平均的なアメリカ生まれの青年なら上手く答えられるが、排除したいタイプのユダヤ人たちは、質問に答えられるだけの家庭環境にないし、必要な経験も持っていなかった。
(左/エドワード・リー・ソーンダイク)
用心深いコロンビアやイェール大学、それに他の私立大学の運営者も、試験を実施するにあたって慎重を期していた。彼らは試験に秘められた目的を感づかれぬよう、入学希望者の宗教や国籍だけでなく、母親の旧姓までも尋ねていたという。なぜならば、ユダヤ人受験生の中には、自らの素性を隠すために父親の苗字を英国風に変えている者がいたからだ。しかし、彼らの母親は旧姓を変えることまではしていなかった。だから、大学の担当者は、そこに目をつけたという訳だ。念には念を入れるのがアメリカ人だから、大学側は受験生の顔写真まで求めたという。入学審査官はこの写真を以て、受験生のユダヤ人的特徴を洗い出したのである。「えぇぇぇ~、これってナチ・ドイツのゲシュタポがユダヤ人を摘発する手口と似ているぞ ! 」なんて大声で言ってはいけません。日本人なら澄ましていなくちゃ。戦勝国の英国や米国では、反ユダヤ主義を国策にしたドイツ人だけが悪魔であり、民間でユダヤ人を差別したアメリカ人は「正義」と「公正」の擁護者なんだから。ゲシュタポや突撃隊と一緒にしてはならない。それに、立派な名門大学の教師が、反ユダヤ主義者だったなんて“ばつ”が悪いじゃないか。
(左/チャールズ・エリオット)
ユダヤ人や非西歐系の学生を制限したり排斥するのは、胸を張って自慢できることではなかろうが、将来のエリートを育成する上では、どうしても欠かせない措置である。ユダヤ人や黒人を入学させるということは、入学できたかも知れない西歐系アメリカ人を排除することであり、入学が適った西歐系学生には異人種との共存を強いることになるからだ。ハーバード大学の歴史上、偉大な指導者と讃えられるチャールズ・エリオット(Charles Eliot)総長は、その在任期中(1869年から1909年まで)、ハーバード大学を地方的・門閥的な学校から国家的な総合大学へと変えた功績をもつ。彼は人種や階級、宗派、政党などに関係なく、総ての者に門戸を開いた。学究肌のエリオット総長は、ハーバードをユダヤ人にとって快適な大学となるよう考えていたし、実際、ユダヤ人はこぞって入学したがったという。しかし、エリオットの後任となったローウェル総長は、前任者とは違った信念を持っていた。フロンティア時代なら新参者を同化できたが、海外から大勢の移民が押し寄せる時代となれば、昔ながらの同化政策は難しくなる、と考えていた。彼は我慢できる程度に同質な人種でないと民衆政治は成功しない、という持論を持っていたという。だからこそ、ローウェルは次第に増加するユダヤ人学生を何とかしようと行動を起こしたのだ。
ローウェル総長によれば、アメリカ人と同質な背景を持たぬ新参者を教育することは、社会的使命を帯びたハーバードの義務である。しかし、経験から言えば、その比率は15パーセントが限界だ。だから、エリオットの反対にもかかわらず、ローウェルはコロンビア大学に倣って、学生の構成に関してはアメリカの人口比率が反映されるよう仕組んだという。そこで、ハーバードに入学してくるユダヤ人の数を、21パーセントから10パーセントへと下げたのだ。この解決策は「ハーバード・プラン」と呼ばれるようになり、多すぎるユダヤ人学生の制限に用いられたが、現在では完全に覆されている。合衆国の総人口におけるユダヤ人の比率は、せいぜい4、5パーセントなのに、名門大学への入学率は、その人口比率に反して飛び抜けて高いというのだ。2007年から2011年にかけてのデータによれば以下の通りになる。
ユダヤ人 白人
ハーバード大学 1,250% 320%
イェール大学 1,230% 300%
プリンストン大学 700% 310%
コロンビア大学 1,220% 310%
コーネル大学 1200% 310%
ブラウン大学 1210% 300%
ペンシルヴァニア大学 1,300% 320%
ユダヤ人は人口比率に対して驚くほど入学率が高い。例えば、2007年から2011年の統計によるハーバード大の入学者を見ると、白人が18%で、アジア人が16%なのに、ユダヤ人は26%も占めている。イェール大では白人が20%でアジア人が14%であるのに、ユダヤ人は26%を占めていた。ただし、プリンストンは例外で、白人は37%でアジア人が16%となっており、ユダヤ人は13%に留まっている。だが、ペンシルヴァニア大学では昔からユダヤ人が多く、白人が17%でアジア人が18%なのに、ユダヤ人が27%を占めているのだ。ユダヤ人が傑出しているのは、彼らが優秀だからだ、という理由もある。確かにそうだろうが、それなら白人学生が熱心に勉強するよう奨励すべきだろう。ユダヤ人の移民など入れずに、イスラエルに追い払い、西歐系の国民を熱心に教育し、国家の担い手にするのが本筋である。建国の子孫をなおざりにして、有望な移民を入れようとするのは、国民国家の自殺である。
被害を受ける一般国民
日本人でも優秀な外人を入れて、国家の繁栄を図ろうとする勢力が存在するが、その前に日本人の子供を育成することが優先課題なんじゃないか。例えば、一般家族で考えてみれば分かりやすい。成績の良くない子供を持つ親が、家計を豊かにしたいからといって、秀才の支那人や朝鮮人を養子に取るだろうか? なるほど、優秀な養子なら高収入の職に就いて家計を助けるだろう。しかし、見棄てられた実子はどうなるのか? たとえ、養子の外人がホワイトカラーの高給取りになっても、実の子が低賃金の筋肉労働にしか就けなかったら、その両親は嘆き悲しむはずだ。養子を取って贅沢な暮らしをするよりも、我が子に素晴らしい教育を授けて、人並みの暮らしをさせたいとか、立派な職業に就けるようお金を惜しまないのが普通の親だろう。米国のマサチューセッツ工科大学(MIT)には、超優秀な学生が入ってくるが、彼らの容姿や素性を調べれば、アメリカ人というより地球市民と呼んだ方が適切である。世界中の民族から選りすぐりの若者や学者を集めているんだから、世界一になるのは当然である。オリンピックで金メダル数が多いのも当り前で、黒人が昔から大量に存在するし、移民や難民としてアフリカ人や南米人が毎年流入しているんだから、選競技人口だって自然と多くなる。選手層が分厚いから、選抜される者が強豪になるのもうなづけよう。日本も金メダリストが欲しいなら、アフリカ人を1億人くらい「青田刈り」と称して輸入すればいい。優秀な科学者が欲しければ、支那人を3億人くらい招き寄せれば、10人くらいノーベル賞受賞者が出るんじゃないか。ただし、それを一般国民が承知すればの話だが。
(左: アフリカ難民 / 右: マイケル・ジョーダン)
西歐系アメリカ人は頭がおかしいから、彼らの子供が怠け者になることを「しょうがない」と諦め、秀才になりそうな外人をアジアやアフリカから連れてこようと考える。だが、ほんの一握りの秀才を獲得するために、厖大な数の「厄介者」や「問題児」、「犯罪予備軍」を入国させていることに気づかない。例えば、トップ・スターになりそうなバスケット・ボール選手を1人獲得するために、1千人万人のアフリカ人を輸入するのは馬鹿げている。マイケル・ジョーダみたいな人物はごく稀な存在だ。黒人に強姦されたり、金品を奪われたりした白人の国民に対し、合衆国政府はどのような責任を取ったというのか? どんなに悔しくても、被害者は泣き寝入りするしかない。また、ユダヤ移民から優秀な科学者が誕生したことも確かだ。しかし、ユダヤ人が政官財のみならずマスコミや学術界、映画産業までも掌握してしまった現状を見て、先祖代々アメリカに住む西歐系国民は「移民を入れて良かった」と思うのか? 驚くことに、総人口の1パーセントにも満たないユダヤ人の富裕層が、政界や金融界を牛耳って、合衆国の軍隊までも動かしている。イラクやアフガニスタンで戦死した西歐系アメリカ人は、移民社会となったアメリカに満足しているのか? イスラエルを助けるために、貴重な税金と人命を無駄にする中東戦争に意味があるとは思えない。もっとも、彼らはこうした政治的仕組みに頭が回らないんだから、自業自得である。
(左: インドの老人 / 右: インド人の女性)
また何と言っても、IT社会だとはしゃいで、廉価な技術者をインドから輸入するアメリカ人はアホだ。だいたい、優秀なインド人科学者を欲しいからといって、大勢の移民を受け容れるとしたら、彼らは一体どこに住むのか? おそらく、白人が主流の住宅地を目指すだろう。たぶん、彼らは黒人や支那人がいっぱいの住宅地には住まないぞ。一方、中流階級の白人達は、せっかく雰囲気の良い郊外の住宅地に屋敷を構えたのに、茶色い親子がやって来るから憤懣やるかたない。夢のマイホームが台無しだ。そこで、もしインド人が居ない国で暮らしたいと望む白人が出てきたらどうするのか? 所得が高くなったインド人は、治安の良い白人住宅地から離れようとはしないし、用済みになったから帰ってくれと頼むわけにも行くまい。能力を買われたインド人の父親はいいが、出来の悪い子供や言葉が不自由な妻、アメリカ生活に馴染めない老婆がいたら、国家にとってプラスにならず、社会負担が増えるだけだ。彼を雇った企業は得をするが、彼の家族に福祉を与える納税者は損をする。日本人はアメリカが各分野の学問で世界のトップに立っていると羨んでいるが、その裏には数多くの不満を我慢している国民が居ることを忘れてはならない。
(左: 西歐系の女性 / 右: インド人の少女)
コネが幅を利かす上流社会
(左: ジョン・バーコウとサリー夫人 / 右: デイヴィッド・キャメロン)
大学という教育機関は、確かに研究者を養成する組織であるが、その一方で国家の支柱となる人材を育成する場所でもある。君主国なら封建制の衣鉢を継ぐ世襲貴族がいて、王様の輔弼・輔翼となり国家の中枢を担うが、共和政だと貴族がいないから、民撰議院が国政を担当することになる。国家の命運を担う重責を、無責任な大衆から選ばれた議員が背負うんだから、どうしても政治の質が低下してしまうのは否めない。それに、政治家の責任が有限なので、秕政(ひせい)を行った政治家は辞任したり落選したりすることで、責任を取ったことになってしまう。したがって、失敗の責任は往々にして、一般国民が税金で解決することになる。封建制の武家社会だと、本人が切腹したり、父親の責任を跡継ぎの嫡男が背負ったりするから、父親は子孫に恥を掻かせたり、罪を残したりしないよう真剣になる。紳士も似たようなところがあり、国民の税金をネコババしたり、視察旅行と称した観光旅行や脱税行為をした場合、紳士階級の面子を失い、今まで築いてきた名誉をすべて失う破目になる。その子供だって肩身が狭くなるから、親としては恥ずかしい真似はできない。パナマ文書の公開で、英国のデイヴィッド・キャメロン首相は、タックス・ヘイヴンを使って租税回避を行っ手居たことがバレた。彼は倫理的に批判されているし、面子が丸つぶれになったから、首相の座を退任して貴族院に入っても、その汚点はずっと尾を曳くだろう。翻って、下院議長のジョン・バーコウ(John Bercow)は、ユダヤ人の成り上がり者だから気が楽だ。税金を使いながら夫婦揃って豪華な海外旅行をしても恥じることはない。どうせ一代限りの政治家だから、他人のお金を使えるだけ使ってしまおうという魂胆だ。彼と夫婦(めおと)になったサリー夫人(Sally Kate/旧姓 Illman)は、元々保守党員だったが、労働党に鞍替えしてトニー・ブレアを支持していたという変節の女丈夫である。お金と権力が大好きなブロンドのイギリス人女房は、背が低いユダヤ人を亭主に持っても気にしないし、夫の支持層を広めるために、左翼に属して人気取りに奔走するんだから、大した玉である。
「学問の府」と呼ばれる大学だが、そこから学者になる学生はごく少数で、大抵の学生は卒業して一般の企業に勤めたり、自営業を興したりするのか普通だ。したがって、大学生活で重要なのは、適切な判断力や社交で恥を掻かぬ程度の教養を身につけることだろう。一般企業の面接試験で卒業論文を持っていって、哲学や文学、法学の研究成果を滔々と喋る奴は何人いるんだ? 例えば、フジテレビの入社試験や面接なら、刑法や憲法を論ずる法学部卒業生よりも、「東証一部企業の重役の息子です」とか、「国会議員や地方有力者の娘です」といった自己紹介の方が絶対に有利だ。(現に、有名企業のお坊ちゃまが居るじゃないか。) NHKに入社した橋本大二郎は、橋本龍伍の息子で龍太郎の異母弟である。彼は退社すると高知県知事を務め、そのあとテレビ朝日でキャスターとなった。石原慎太郎の長男伸晃も日テレに就職し、退社後衆議院選挙に出て当選したが、それだってオヤジの七光りと叔父の七光りが“後光”となったからだ。こんな愚息でも自民党総裁選に出馬できたんだから、世襲議員の劣化は相当ひどい。実力主義を云々していても結局、テレビ局の面接官は彼らの能力より、親の地位を勘定に入れて、入社試験「合格」の判子を押したのだろう。女子アナウンサーの採用だと、学業の成績よりも容姿の方が重要視されるから分かりやすい。例えば、フジテレビを退職した加藤綾子アナは音楽を専攻していたそうだが、楽器演奏の才能より、その容姿の方を見込まれて採用されたのではないか? いくら文才があって饒舌であっても、季節外れの柚子(ゆず)みたいな女性が応募者だと、採用試験には合格しないだろう。アメリカのFOXテレビだって、ジェナ・リー(Jenna Lee)やジェデディア・ビラ(Jededih Bila)、メイガン・ケリー(Megyn Kelly)は容姿で採用されたことは明確だ。
(左: 加藤綾子 / 中央: ジェナ・リー / 右: ジェデディア・ビラ)
ビジネスの世界でも、大学の成績より交際範囲の広い方が有利である。有名大学の卒業生が好まれるのは、友人にお金持ちの子弟がいたり、政治家や医者がOBネットワークを持っていたりするからだ。図書館に籠もって勉強ばかりしていた学生より、ヨット遊びや乗馬、ゴルフ、藝術活動などで意外な人物と知り合った学生の方がいいし、社交的な明るい青年の方が成功しやすい。アメリカでも事情は似たり寄ったりで、アイヴィー・リーグで学ぶということは、そこで一生涯の友人ないし兄弟のような親友をつくることにある。いくら優秀な学生でも、研究者が気づかなかった未知の物質を発見したり、教授でも手を焼く難解な数式を証明する学生なんていやしない。大抵は、既に分かっている知識を勉強しているだけだ。ロー・スクールの卒業生だって、コネで大手の法律事務所や会計事務所に入ったりすることがある。もちろん、優秀という条件ではあるが。
(左: 少年時代のジョージ・ブッシュ / 中央: パイロット時代のジョージ・ブッシュ / 右: 父親と一緒の写真)
コネで高位高官になった人物と言えば、ジョージ・W・ブッシュが挙げられるだろう。彼はハーバード大で経済学修士号(MBA)を取ったけど、知的な紳士というより、飲んだくれのドラ息子だ。それでも、意外なことにMBAを取った初の大統領である。ただし、間抜けを通り越して無礼であった。例えば、訪米したエリザベス女王とディナーを囲んだ時、「陛下のところで“はみ出し者(blacksheep)”は誰ですか?」、なんて訊いたんだから呆れかえってしまうじゃないか。まさか、女王自ら「アンドリュー王子かしら」と答えるわけないだろう。母親のバーバラも息子の失言に赤面したはずだ。まぁ、それでもベトナム戦争逃れの為に入ったテキサス州空軍を除隊したら、石油業界に潜り込んで商売に就けた。ただし、ザパタ石油で働いていたオヤジのコネが利いたからだろう。また、彼にはテキサス州空軍時代、ジェイムズ・バス(James Reynolds Bath)というパイロット仲間がいて、このジェイムズが出資してくれたお陰で、ジョージは「アルブスト・エナジー(Arbusto Energy)」を設立することができた。海兵隊と違い、高度な専門知識が要求される空軍だと、それなりのエリートが集まってくるので、裕福な家庭の子弟と知り合う機会が多くなる。ジェイムズの方も、名門ブッシュ家の御曹司で元CIA長官の息子と知っていたから、親しく付き合ったのだろう。
(左: ジェイムズ・バス / 右:エリザベス女王)
上流階級は色々な切っ掛けで親しくなるし、友人による紹介で次々と人脈を広げるから、裕福になる確率が高い。また、たとえ事業に失敗しても、セカンド・チャンスに恵まれるから、復活することも可能だ。アル中のジョージ・Wが、「テキサン・レンジャース」という野球チームのオーナーになれたのも、エリート集団の一員だったからだろう。そういえば昔、福田恆存がお金に困って自殺する者としない者の違いを話していたことがある。これといったコネの無い庶民だと、借金で首が回らなくなって自殺したり、郵便局強盗をはたらいたりするが、高級な職業に就いている者だと、裕福な友人が助けてくれたり、人脈の中の誰かが救ってくれたりするから、無茶なことはしないそうだ。確かに、高級官僚はスキャンダルで首になっても、どこかの公益法人に天下って高給取りになったりするから、絶望して自殺する奴は少ない。倒産で裸一貫になる町工場のオヤジさんとは格段に違う。
アメリカ合衆国は貴族を持たないけど、英国の國體を受け継いだ共和国として発足したから、共和政を支えるローマ貴族のような人材が必要なのである。表だって爵位のある世襲貴族を作れないから、せめて学校を利用することで、準貴族たる“ジェントリー”階級を作らなくてはならない。ぼけ~としていたら、ジョージ・ワシントンやジョン・アダムズ、アレグザンダー・ハミルトンみたいな高貴な紳士が絶えてしまい、国家の中枢や地方のコミュニティーが愚劣で凡庸な人物によって支配されてしまうのだ。深い教養を積みながら武藝に邁進し、国家と国民に責任を持つ武士は、身分制と世襲制があったから維持されたのである。エリート大学の役目は、社会の指導者になるような紳士を育成することで、本の蟲みたいな学者は二の次にすればいいのだ。どうしてもユダヤ人が勉強したいというのなら、他の地方大学に任せればいいし、問題を引き起こす文系学生はイスラエルのヘブライ大学に押しつけれればいいんじゃないか。彼らをイスラエルに厄介払いすれば、コブラとニシキヘビの戦いみたいになるから、結構おもしろい内ゲバになるだろう。公民権運動が盛んだった1960年代に、ユダヤ人は激しく民族枠を攻撃したようで、アイヴィー・リーグは彼らの抗議に屈服し、ユダヤ人枠を大幅に緩めたそうだ。その結果、名門校にはユダヤ人、黒人、インド人、支那人が怒濤の如く押し寄せ、WASP主体のキャンパスが黒茶黄色が混じった多民族キャンパスになってしまった。ギリシア文字を冠した白人だけのクラブも、非西歐人を入れることになってしまい、昔のように同質な者だけの和気藹々(わきあいあい)としたクラブではなくなってしまった。今では、ローウェル総長のようなアングロ・アメリカ主義者は消滅し、ユダヤ人の元財務長官たるラリー・サマーズがハーバードの学長に就任するような時代になっている。そういえば、彼の手先になって日本を食い物にしていた竹中平蔵もハーバードに居たから、ローウェル達はあの世に行って幸せなんじゃないか。卑屈な平蔵の笑顔を見ると、我々だって吐き気がするんだから。
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