無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2016年07月

天皇陛下に群がる下郎ども / 皇室を守る元勲がいない時代

人材が枯渇していた昭和

RF 3RF 22









  今月、天皇陛下の譲位が問題となった。「生前退位」とやらで、陛下をお払い箱にできる、とマスコミは大はしゃぎ。まったく不敬なことだが、皇室にダメージを加える時になると、途端に元気になるんだから、左翼思考のマスコミは実にけしからん。NHKを始めとするテレビ局は、陛下の玉体を気遣っているように解説を進めていたが、内心は「早くくたばれ、このジジイ」と思っていたんじゃないか。先帝陛下は「生前退位」をせずに薨去(こうきょ)なされたから、左巻きのマスコミ人たちは悔しくて堪らないのだろう。だから、今上陛下が「退位」すると聞いて、「やった~ ! あの野郎がクビになるんだ !」と、胸が弾んだに違いない。大衆煽動を得意とするマスコミが、民衆の力で天皇を交替させることが出来るんだ、と鼻息が荒いことくらい、良識派の国民なら分かっている。「生前」という言葉を強調するのは、「天皇の野郎が生きているうちに、皇居から蹴落としたい」という願望の表れであろう。敗戦後、共産主義者たちは美智子皇后陛下を取り囲んで輪姦するのが夢だったが、暴力革命に失敗したので、皇族抹殺計画は頓挫してしまった。プロレタリアートの軍勢で宮城(江戸城)を襲撃し、天皇皇后両陛下を引きずり出したかったが、肝心の無産市民が小金持ちになってしまったから、皇室への憎悪を無くしてしまったのだ。全国津々浦々のマルクス主義者は撃沈、轟沈、意気消沈。

  「生前退位」については百花繚乱で、世間のオッさん、オバちゃん、お馬鹿さんも異口同音に、「あらっっ~ぁ、どうしましょ。でも、いいんじゃない」と適当な事を述べていた。大半の一般人はテレビ局の主張をおうむ返しにするだけだから、これといった考えは無い。それよりも深刻なのは、反天皇意識で結託するマスコミと政治家、並びに官僚の方である。今の政界で尊皇精神に溢れた国士なんか絶滅危惧種だ。今の高校生など「国士(こくし)」と聞いたって、「酷使」くらいしか思い浮かばないだろう。 霞ヶ関の官僚だって、「勤皇の志士」を尋ねられたって、「ジュラ紀か白亜紀の恐竜かなぁ?」と答えるのが関の山である。こんなのはまだ可愛い方で、赤い役人の中には、「どうして日本には天皇なんていう“穀潰し”がいるんだ?」と質問する奴が居るかもしれないぞ。こんな状況になったのも、親子代々受け継がれる皇室への敬意が無くなったからだろう。つまり、戦後教育によって、祖父母が持っていた「皇統への崇敬」が切断されてしまったからである。それでも、国民の多くが皇室を大切に思っているから、悠久の歴史を誇る皇統は凄い。共産党のシンパは悔しがるけど、二千年以上も続く皇室伝統の威光は余りにも重厚かつ壮大なので、庶民が持つ敬愛の念を彼らは簡単に消せないということだ。

Suzuki Kantaro 2(左 / 鈴木貫太郎)

  皇室問題が浮上する度に懸念されるのが、陛下に仕える側近が劣化し、衰退の危機に瀕していることだ。これは今に始まったことではなく、終戦間際の時にも現れた危機である。大東亜戦争を終結させるために、侍従長であった鈴木貫太郎が首相に任命されたことは有名だ。凡庸な中学生や高校生なら、陸軍が幅を利かせていた政権を海軍が奪い返した、と思ってしまうが、貫太郎は野心満々の革新将校ではなかった。組閣を命じられた頃の鈴木大将は、すでに77歳の老人で、とても終戦工作の指揮にあたる総理大臣を務めるだけの自信が無かった。貫太郎は首相の責務を引き受けることは、「御馬前にして討死の覚悟を要する」と予測し、また、軍人が政治に係わることは国家を滅ぼすことになりはしまいか、と懸念していたそうだ。

  ローマの滅亡然り、カイザーの末路、ロマノフ王朝の滅亡も又然り。故に自分は政治に出る事は自分の主義より困難なる事情あり。耳も遠いし、御断りしたし。(栗原健 / 波多野澄雄 編 『終戦工作の記録』 下巻 講談社学術文庫 昭和61年 p.23)

  鈴木大将の御子息である鈴木一・元秘書官によれば、鈴木夫人や子供達も、高齢で耳も遠いんだから、この時局では止めた方がいい、と告げていたそうだ。貫太郎本人も、そのつもりで家を出たという。しかし、重臣会議の面々や昭和天皇の要請もあって断り切れず、鈴木大将は組閣の大命を拝することになった。通常なら、陛下は「卿に内閣の組閣を命ずる」とおっしゃった後に、「組閣の上は憲法の條記を遵守するよう・・・」とお言葉を述べるはずなのに、今回だけは慣例を破って沈黙を守られていた。その後、陛下と藤田尚徳・侍従長の三人だけになった貫太郎は、深々と一礼し、次のような趣旨の言葉を述べたという。

  聖旨のほど、おそれ多く承りました。ただこのことは、何とぞ拝辞の御許しを御願いいたしく存じます。鈴木は一介の武弁、従来なんの政見も持ち合わせてませぬ。”軍人は政治に干与せざるべし”との明治陛下の御聖諭をそのまま奉じて参りました。いま、陛下の聖旨にそむき奉ることのおそれ多きは深く自覚いたしますが、何とぞ、この一時は拝辞の御許しを願い奉ります。( 『昭和史の天皇 1』 読売新聞社 昭和55年 p.320)

Suzuki Kantaro & Taka 2Showa Teno 4








(左: 鈴木貫太郎とたか夫人 / 右: 昭和天皇)

  貫太郎が高齢を理由にお断りしたのはもっともだ。当時の平均寿命を考えれば、七十代の人間は相当な後期高齢者である。しかし、陛下はそれをご承知の上で「懇願」なされたのである。陛下は貫太郎を見つめ、優しい笑顔をなされて、こうおっしゃった。

  鈴木の心境はよくわかるしかし、この重大な時に当たって、もう他に人はいない。頼むから、どうかまげて承知してもらいたい。(上掲書 pp.320-321)

  誰もが尊敬する天皇陛下から「どうしても」と頼まれたら、いくら頑固な軍人でも断り切れない。そこで貫太郎は老骨に鞭を打って、大命を拝受することにしたのである。貫太郎は帰宅してから、家族に向かって一旦は大命拝領を断ったんだが、と語り、陛下から「耳が遠くてもよい、声が聞こえなくてもよい」と言われた事を打ち明けたそうだ。本当に陛下の熱意が伝わる話である。

Ooyama Iwao 1Yamagata Aritomo 1Yamamoto Gonbee 3Togo 2








(左 / 大山巌  /  山縣有朋  / 山本権兵衛  /  右: 東郷平八郎)

  それにしても解せない。なぜ、昭和天皇は嫌がる貫太郎に無理強いしたのか? 答えは陛下がおっしゃった通り。他に人材が居なかったからである。唖然としてしまうが、陛下が頼りに出来る重臣は貫太郎しかいなかったのだ。良い子のみんなは「えっっ !」と驚くだろうが、終戦を迎えようとする政府には、頼りになる政治家や軍人が見当たらなかったんだよ。帝國陸海軍には、現役退役を含めてあれほど多くの将校がいたのに、昭和天皇が頼みの綱にしたのが貫太郎一人とは、何とも悲しくなる話じゃないか。我が国の存亡を賭けた日露戦争の時、明治大帝のお側には、伊藤博文を始め、陸軍の山縣有朋、大山巌、乃木希典、海軍の西郷從道、山本権兵衛、東郷平八郎など、軍部と政界の重鎮がずらりと控えていた。ところが、敗戦が必定となり降伏が目前に迫った頃、昭和天皇に仕えていたのは、几帳面だが決断力に欠ける東條英機、ソ連に和平の仲介を頼もうとした東郷茂徳、敗戦の責任を取って自刃した阿南惟幾(あなみ・これちか)、親米派を気取った隠れ左翼の米内光政、首相を辞めた小磯國昭、確信犯的共産主義者の近衛文麿などであった。こんな面々じゃあ、陛下が気の毒だ。貫太郎を求めた昭和天皇の大御心が分かるような気がする。

Tojo Hideki 2Anami Korechika 2Koiso 1Yonai Mitsumasa 2








(左: 東條英機  /  阿南惟幾  /  小磯國昭  /  右: 米内光政)

  以前、小泉政権下で女系天皇議論が起きた時、皇統をめぐって「有識者会議」というのが組織されたが、そのメンバーというのが、これまた目を蔽いたくなるほど酷い。まず、民主党政権の誕生に感動するような左翼学者の佐々木毅(ささき・たけし)を加えたのは、元東大総長という肩書きが光っていたからだろう。そして、日本国民よりアジアやアフリカの難民の方を優先する緒方貞子が入っているのは、国連高等弁務官になったオバはんだからだ。国連なんかクズ左翼の就職先なのに、肩書きに弱い日本人は、何か立派な国際機関のような錯覚を持つ。一般庶民がこのような幻想を捨てきれないのは、学校で邪悪な日本を倒した連合国(United Nations)は素晴らしいと教えられているからだろう。有識者会議には門外漢も入っていた。経団連を代表する奥田碩(おくだ・ひろし)に皇室に関する知識があるとは思えないが、トヨタ自動車の看板を背負っていたことで有名だから、とりあえず入れておいたのかも知れない。たぶん、小泉首相は経済からもご意見を貰ってますよ、と世間にアピールしたかったのだろう。

Saki Takeshi 2Ogata Sadako 1Okuda Hiroshi 2Koizumi Junnichiro 3








(左: 佐々木毅  /  緒方貞子 /  奥田碩  /  右: 小泉純一郎)

  皇室への敬意が感じられない有識者会議には、これらのメンバーより更に有害な人物が混じっていた。特に、女性天皇のみならず、女系天皇をも誕生させようと狙っていた左翼学者、岩男壽美子(いわお・すみこ)がいるんじゃ、最初から愛子内親王殿下を皇位につけることに決まっていたのだろう。岩男氏は「男女共同参画審議会」の会長を務めていたくらいだから、もうバリバリのフェミニストである。男社会に恨みを抱くオバちゃん学者にとって、頑迷固陋の皇室なんかどうでもよく、理想的な男女平等とか女性の地位向上の方が大切で、男系男子による皇位継承なんて紙屑ほどの価値も無いのだ。これでも相当酷い人選だが、赤い学界には更なる悪党がいた。元最高裁判事の園部逸夫は筋金入りの極悪人だ。何と言っても極左憲法学者の標本みたいな人物で、外国人参政権を認めたくてウズウズしたいた。日本に住んでいるんだから、投票権を与えるべし、という考えなんだから、国民の定義も分からない“ならす者”である。朝鮮人や支那人に同情を寄せる園部は、心の底から皇室を抹殺したいと思っている。京大法学部時代に共産党系の「民青」に所属していたくらいだから、君主制打倒の共産主義革命が夢だったのであろう。園部は『皇室法概論』を執筆して、「皇太子殿下は自らの意思で皇位継承を放棄できまっせ」と仄めかした。(ちなみに、座長の吉川弘之も東大時代には、「民青<日本民主青年同盟>」に属していたそうだ。)


Iwao Sumiko 1Sonobe Itsuo 1RF 20








(左: 岩男壽美子  /  中央: 園部逸夫  /  右: 雅子妃殿下と愛子内親王殿下)

  ただし、皇位継承の辞退は現実的ではないから、それならば女性天皇への道を開拓し、女系天皇を誕生させてやろうと試みていたのだ。暴力で打倒できないのであれば、皇室の伝統を「法律」でねじ曲げて、「天皇制」を腐蝕させようとするのが、法匪たる左翼憲法学者の手口である。園部のような法律家は、合法的手段を用いて不正を成す外道で、暴力団の専属弁護士を思い浮かべれば理解できるはずだ。こうして見てみると、もう有識者会議の参加者というのは、どいつもこいつも「碌でなし」というより、半殺しにしたくなるような国賊どもである。

明治大帝に仕えた忠臣たち

  幕末・維新に活躍した志士を見ていると、「本当に今の我々と同じ日本人なのか?」と疑問が湧いてくる。江戸末期から明治にかけての時代とは、「英雄の世紀」であると断言しても過言ではない。維新の三傑たる西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允はもちろんのこと、岩倉具視、伊藤博文、黒田清隆、陸奥宗光、板垣退助、副島種臣、大隈重信などを目にしただけでも、明治期は人材の宝庫であったことが分かる。しかも、こうした逸材に囲まれた明治天皇が、卓越した才幹と比類無き道徳を備えた名君なんだから、日本史上というより世界史における奇蹟と言えよう。英国の高名なジャーナリストであるウォルター・バジョット(Walter Bagehot)は、『イギリス国体論(The English Constitution)』を書いて、立憲君主制は如何にあるべきかを説いたが、もし、バジョットが明治天皇に謁見したら腰を抜かして驚くんじゃないか。彼は英国でも実現不可能な理想的君主を描いたけど、まさか極東の日本にその実物がいるとは思っていなかった。たぶん、ローマ教皇とローマ皇帝という「二つの太陽」を論じたダンテもビックリするだろう。『君主論』を書いたニッコロ・マキャベリだって、支配者として望んだのは、チェーザレ・ボルジアくらいなんだから、倫理的な君主なんか夢のまた夢の話である。これだから、ヨーロッパ人が二千年間も待ち望んだ君子が、異教徒の島国に存在したなんて信じたくはない。だって、世界で一番偉いはずのヨーロッパ人が持てなかったんだから。それにしても、明治天皇の偉大さに気づいていないのは、案外普段から天皇陛下を拝している日本人だったりして。毎日きれいな水を飲んでいる日本人が、その天然水に感謝しないのと同じだ。

Walter Bagehot 1Niccolo Machiavelli 1Cesare Borgia 1Dante 1







(左: ウォルター・バジョット / ニッコロ・マキャベリ / チェーザレ・ボルジア / 右: ダンテ)

  明治天皇の寵愛を受けた伊藤博文については、もう色々な逸話が残っているので一々触れないが、伊藤の兄貴分であった木戸孝允(きど・こういん)と明治天皇の関係はあまり有名ではないので、ちょっとだけ紹介したい。

  明治天皇のご輔導に心血を注いだ待補官(じほかん)と同様に、木戸も陛下のご聖徳を真剣に考慮し、君徳の培養を唱道する一人であった。皇室の安泰および國體の尊厳を重視した木戸は、岩倉具視や大久保利通に劣らぬほどの忠臣で、国家の興隆はまづ聖徳の達成にあると信じていた。元勲たちは政治の場では意見の違いを見せたものの、事が皇室に及ぶと異論がなくなり、みな心を一つにして身を尽くしたのである。ある時期、木戸は政府内に於いて政治的相違が生じたので、官を辞めて帰郷しようと考えたが、それは惜しいということで、明治7年5月、参議と文部卿を辞める代わりに宮内省に出向するよう命ぜられ、明治天皇のお側に使えることになった。木戸の職務は、後の内大臣と宮内大臣を兼ねたようなもので、最高の補佐を託されたことになる。明治天皇も木戸が日々出勤し、補佐をしてくれることが嬉しかったらしく、陛下は木戸に殊のほか厚き信頼を置いていたという。

Kido Kouin 1(左 / 木戸孝允)

  聖上から深く信任された木戸は、余りにも脆弱な皇室の前途を慮っていた。絢爛豪華さを誇る歐洲の王室と違って、我が国の皇室は極めて質素で贅沢とは程遠い宮廷であったから、木戸が憂慮したのも無理はない。そこで、明治9年、木戸は井上馨に宛てた書簡の中で、皇室財産設定の急務を唱えたそうだ。さらに、木戸は岩倉にもこの件を説明し、帝室の尊貴にはそれ相応の富がなければなぬとし、学校や貧民院、病院等への救済費用は皇室費から支払わねばならぬ、とも述べていた。木戸の言うことはもっともで、自由になるお金が無ければ、君主の面子が立たないし、行動の自由も制限されてしまうだろう。私有財産の無い皇帝なんて、財布の紐を女房に握られたサラリーマンみたいでみっともない。英国の王様はまさしく支配者に相応しい財産を持っており、イングランド全体が天領のようになっている。しかも、大蔵省(Exchequer)に至っては、実質的に王様の貯金箱であった。(国庫の使い方と国璽や王璽については面白い歴史があるんだけど、語り出すと長くなるので省略。)

  我が国の皇室と歐洲の王室を単純には比べられないが、それでも英国と比べたら、日本の皇室なんて伯爵か子爵、ないし紳士階級並だ。朝廷が独自にバッキンガム宮殿とかウェストミンスター宮殿みたいな城を建てることはなかったし、海外の殖民地から富を吸い上げるシステムを構築したこともなかった。現在「皇居」と呼ばれている宮城は、もとは家康が築いた江戸城だ。第一、武士に位を授けていた天皇が、臣下の建築物に移り住むなんて奇妙である。明治天皇はルイ14世ほどの財力を有していなかったが、フランスの太陽王より眩しかったし、皇室はブルボン王朝と違って今でも健在である。とは言っても、やはり天皇陛下に私財があった方がいい。木戸が提案した皇室財産については閣議でも検討され、その結果、皇室入費と宮内省入費は区別され、皇室入費は予算を問わず出すことにした。さしあたり、金十万円だけ増加し、宮内省もそれなりの予算をつけて貰ったらしい。(渡邊幾治郎 『明治天皇と輔弼の人々』 千倉書房 昭和11年 pp.77-79) そういえば、明治天皇は金欠の伊藤博文を心配して、ご内帑金(ないどきん)から幾らか送ったそうだ。また、陛下は戦艦の建造費が足りなくなった時も、ご内帑金で支援したというから、当時の国民としても本当に頭の下がる思いだった。

意を決して陛下に直訴

  反日教育が全国を覆っているからしょうがないけど、今の宮内庁長官を見るとガッカリする。今回湧き起こった譲位問題で渦中の人となった風岡典之(かざおか・のりゆき)長官は、どんな思想の人か分からないけど、元建設相官僚じゃたかが知れているし、皇室伝統についてどれくらい知っているのか、と尋ねたくなる。前任者の羽毛田信吾(はけた・しんご)長官も官僚上がりで、皇室や神道に無知でも務まる厚生省の役人だった。しかも、民主党のドン(首領)であった小沢一郎に対して、これといった反撃もしなかった木偶の坊。傲慢を絵に描いたような小沢が、陛下を習近平のもとに引き摺り出したことは記憶に新しい。実力者の小沢は韓国を訪問した際に、朝鮮人の前でさんざん日本人の悪口を並べて、いかに我々が愚鈍な民族であるかを語った裏切り者である。この非国民代議士は、尊皇精神の欠片(かけら)でさえ、これっぽっちもなく、あるのは支那皇帝に対する卑屈な態度だけ。不遜な小沢は、天皇陛下を洟(はな)垂れ小僧のように扱い、「次期主席の習近平閣下にお辞儀をしろよ !」と強要したのだ。そういえば、自民党幹事長時代に、小沢はこれまた卑屈な宮澤喜一を首相にしたことがある。外交通を自慢していた宮澤は、事もあろうに陛下を江沢民に売り渡してしまった。この売国奴総理は、陛下を北京に連れだし、歴史問題で江沢民に謝れ、と命じたのだ。天皇陛下を外国人に売り渡したのは、日本史上、宮澤喜一が初めてである。敗戦以前の日本なら、宮澤は確実に天誅の標的だ。ただし、こっそりと行われる暗殺ではなく、白昼堂々と決行される処刑である。

Kazaoka 2Haketa 1Ozawa Ichiro 1Miyazaw Kiichi 1








(左: 風岡典之  /  羽毛田信吾  /  小沢一郎  /  右: 宮澤喜一)

  目を蔽いたくなるような平成の世と違い、明治の頃は本物の忠臣が陛下に仕えていた。その一人に藤波言忠(ふじなみ・げんちゅう)がいる。言忠は大納言廣橋胤保(ひろはし・たねやす)の子で、神宮祭主藤波教忠(ふじなみ・のりただ)の跡継ぎであった。言忠は明治天皇より一歳年下だったので、七、八歳の頃から御学友として宮中に奉仕をしていたそうだ。彼は竹を割ったような性格で、実直な人柄だったから、明治天皇からたいそうなご信愛を受けていたらしい。この言忠はやがて侍補として陛下に仕えるようになり、他の侍補と協調して聖徳のご補導に努めていたという。

Fujimami Genchu 1(左 / 藤波言忠)

  時は明治17年5月の頃であった。明治天皇はお風邪を召したようで、しばらく休養なされることとなり、閣僚はもちろんのこと、宮内卿さえ拝謁を許されなかったそうである。ところが、当時参議兼宮内卿であった伊藤博文は、緊急の政務があったようで、是非とも奏聞(そうもん)せねばならぬ、と度々拝謁を奏請(そうせい)したが、陛下は気分が優れぬというこで、「後日にせよ」というお達しであった。それでも、伊藤は何度も懇願したらしく、宮内官はどうすることも出来ず、ほとほと困ってしまったらしい。一方、陛下からのお許しを頂けなかった伊藤は、国務をお聞きできぬ程の大病とも思えぬと不満を漏らし、国家の大事を優先されない陛下に腹を立てて、拗ねてしまった。すると、伊藤は遂に辞表を残して、宮内省を去ることにしたという。これに焦った宮内官たちは、皆で集まって相談し、事態の打開を図ったらしい。そこで、藤波に何とかしてもらおうとの結論に至った訳だ。藤波ならいつ何時でも陛下に拝謁できるから、ということで、皆を代表した吉井大輔(たいふ)が藤波の元にやって来て、「君、ひとつ骨を折って陛下が伊藤卿に拝謁を許されるよう頼んでくれ」と申し出た。

Meiji Emperor 1(左 / 明治天皇)

  しかし、聖上のご気性をよく存じ上げている藤波は困ってしまった。「かようなことを奏上するのは、侍従としての職務ではありません。陛下は筋道を正されるお方である。また、諫言ということは、私の職務上困難である」と応えたのだが、吉井は他に手段が無いことを打ち明け、もし藤波が叱責を受けるようなことがあれば、自分が全責任を負うから、是非ここは一つ頼む、とせがんできた。こうまで言われたら、言忠も断り切れず、一心を賭して奏上してみよう、ということになったそうだ。彼は事前に皇后宮(こうごうのみや)にも事情を話し、女官にも伝えていたので、頃合いを見て陛下の御前に罷(まか)り出た。すると、陛下は藤波を見て、「何か用か?」とお尋ねになった。そこで藤波は、

  「伊藤宮内卿が、度々拝謁を願い出ているけど、御聴(おゆる)しがないようでございますが、これは御假中(ごかちゅう)のことで止むを得ぬことでございましょう。聖人の教えにも、衣(ころも)を正して大臣を見るということもありますが、今日の時勢は、かかることを許さないのであります。国務は一日も廃せられません。また、人を介して奏上されぬこともありますから、御假中、ご気分が勝(すぐ)れぬとも、国家のため、枉(ま)げて御聴(おゆる)しあそばれたい」

と一生懸命に奏上したそうだ。すると、明治天皇は龍顔(りゅうがん)を曇らせて、こうおっしゃった。

  「そんなことは、汝の言うべきことではない。よく職務を弁(わきま)えよ」

  陛下は頗る御機嫌斜めになったそうだ。しかし、藤波はそこで屈しなかった。

  「私は、かようなことを奏上する職務でないことは、よく存じております。ただ国家のため陛下のために黙することが出来ないので、あえて奏上した次第であります。いかようのご処分に会うも覚悟であります。どうかお考えを廻らせたまはんことを」

Ito Hakubun 1(左 / 伊藤博文)
  すると、陛下はお怒りになったご様子で、御寝室に向かわれ、皇后宮は藤波に今日のところは退去するように、と仰せになったという。こう言われたので、藤波は仕方なく退出し、その夜は当番だったので、宿直室にこもって職務をこなしていた。翌朝、いつも通りに侍従が陛下の御機嫌を伺うべく拝謁すると、陛下から「藤波は退出したのか? 見てこい」との御沙汰があった。そこで、侍従は宿直室の藤波に会いに行ったが、藤波は侍従に「もう藤波は退出した」とお答えするよう頼んだ。しかし、藤波はそのまま部屋にいたという。すると暫くして、陛下から「伊藤内務卿を至急参内させよ」との御沙汰(ごさた)があった。書記官から連絡を受けた伊藤は早速参内し、午前10時頃、陛下に拝謁を許され、正午近くまで陛下と会話を交わしたそうだ。

  御用談を済ませ、退出した伊藤は藤波を招き、彼の尽力にたいそう感謝したそうだ。それから数時間が経った頃、表御座所にお見えになった陛下は、廊下で藤波を召されて、

  「先達はよく忠言してくれた。今後とも右様のことがあったら、朕のために憚らず言ってくれ。これはその褒美である」

  と仰られた陛下は、藤波に御常用の金側時計(きんがわどけい)と反物(たんもの)をご下賜あそばされた。この時、藤波は感極まって涙を流し、厚く終生のご奉公を誓ったそうだ。陛下の忠実な僕(しもべ)である藤波は、晩年に至るまで、この高大な聖徳を偲んでいたという。(上掲書 p.136-140) やはり、明治天皇は偉大である。陛下も人間だからご機嫌を損ねることもあるだろう。しかし、何事にも正論を貫き、物事の筋を通される君主であったから、陛下はすぐに自らの非をお認めになり、修正することをためらわなかった。このことを示す逸話は他にも数多くあり、我々は陛下の純粋さに驚くと共に、臣下への慈愛に満ちた行動に心打たれる。そして、あえて陛下に諫言した側近を讃え、陛下のご配慮に感涙した臣下に共感を覚えてしまうのだ。こんな麗しい光景を知った後でも、皇室撲滅を謀る者は日本人じゃない。少なくとも、日本人の血が流れた人間ではないだろう。こう考えてみれば、朝鮮人や支那人の血統に属する帰化人が、いかに危険であるかが分かる。

皇室を守るのは草莽の国民

  よくよく考えてみれば、陛下は偉くなる必要がないから、却って素直になれるのかも知れない。世俗にまみれた庶民だと、自分の間違いをそう簡単には認めたくないし、仮に認めたとしても何らかの言い訳を押し通したくなる。特に政治家なんぞは、「自分は知らなかった。俺のせいじゃない。秘書が悪い。国民が駄目なんだから、俺ばかり責めるんじゃない」とぐだぐだ喋って、自己正当化に努めることが多い。菅直人や舛添要一みたいのが普通の政治家である。みっともないげと、所詮は大衆から選ばれた代理人だからしょうがない。現在、みんなから選ばれている政治家の顔と、明治の元勲や軍人の顔を見比べたら、誰だってその格差に唖然とするだろう。ハンサムかどうかじゃなくて、気魄が違うというか、人格の根本が全く違うといった印象を受ける。今の政治家は、よく国会なんかで「不退転の決意を持って実行いたします」と格好つけて演説するが、党内の派閥闘争や官僚からの突き上げで、すぐ諦めてコロッと態度を変えるんだから情けない。意気地無しの議員は「君子豹変す」なんて言わないけれど、「わたくしの不徳の致すところであります!」と述べて、あたかも自分が有徳の士であるかのように振る舞う。しかし、国民は最初から議員に徳があるなんて思っちゃいないぞ。ただ、国家予算からお金を鷲づかみにしてくるコウノトリと思っているんだから。サギじゃないだけマシだ。こんな有様だから、天皇陛下に仕える忠臣なんか居るわけがない。

Okubo Toshimichi 1Nogi Maresuke 1Kan Naoto 1Masuzoe 1








(左2 枚: 凜々しい表情の大久保利通と 乃木希典  / 右2枚: 卑しいツラをした菅直人と舛添要一)

  これから、テレビや国会で天皇陛下の譲位が議論されると思うが、深刻な問題はどう議論されるかよりも、「誰」が議論するかである。明治の元勲のような議員や知識人が議論するなら、我々だって安心できるが、民間の有識者会議とか審議会に集うメンバーが、左翼学者や共産主義者、フェミニスト、赤色裁判官、反日活動家、などの愚連隊じゃ目眩(めまい)がしてくる。大抵の国会議員は票にならない皇室問題には興味が無いし、霞ヶ関の高級官僚は、左翼の法学部で真っ赤に染まった反皇室分子がほとんどだから、左翼中間と一緒になって皇室解体に着手するだろう。テレビ局や新聞社に潜伏する左翼職員はもっと酷い。おそらく、マスコミの中には、「明仁の野郎、はやく死んじゃえよ。ヒロヒトみたいに、グズグス生きてられちゃあ、こっちが迷惑なんだよ」と豪語する奴がいるかもよ。(「嘘だろう」と思う人には、『天皇とマスコミ報道』三一書房を読むようお勧めしたい。ただし、高血圧の皇室支持者はご遠慮下さい。これについては、また後で紹介します。)

  現在の日本は水面下で危機的状況にある。皇室典範に触れることさえ不敬なのに、陛下の譲位を討論するのが国家破壊を目指す左翼分子か、皇室伝統に無関心の政治家、あるいは日本を呪うアジア帰化人では、皇室の将来が暗くなる。皇室問題は國體の根幹にかかわる一大事なので、無責任な政治家に任せるわけには行くまい。こうなれば陛下を慕う国民が蹶起(けっき)し、皇室会議に巣くう君側の奸を監視すると共に、政府が妙な真似をしたら即座に抗議の声を上げるべきである。左翼が主導した安保闘争みたいに、良識派の国民は国会を取り囲んででも、皇室破壊を食い止めるべきだ。左翼どもは皇室伝統にちょっとでもいいから亀裂を生じさせ、そこを突破口にして徐々に傷口を拡大させるつもりなんだから。だからこそ、日本国民はこれを許してはならない。皇室を毀損せしめようとする議員には、落選運動を用いてでも反対すべきである。(筆者も少ない貯金をはたいて落選攻撃をする覚悟である。効果は無いと思うけど、じっとしていられないから、たとえ一人でもデモを行うつもりである。) 結局、皇室をお守りするのは、勤皇精神に溢れた草莽しかいないのだ。「私が反対しても無駄かなぁ」と諦めず、微力であっても実行すべきである。左翼分子は地道な活動を続けてきて、ここまで巨大な勢力になったのだから、我々にだって可能なはずである。




気ブログランキングへ

命を惜しまず最後の親孝行 / 日露戦争における美談

他人のお金で子育て支援

  現在の我が国では、大衆迎合の政治が流行している。東京都知事選挙に鳥越俊太郎が急遽出馬することになったが、これといった政策も無いけど冥土の土産で手を挙げてしまった。その前は藝人の石田純一が出馬すると言い出して、さっそく記者会見を開き、国会議員選挙でもないのに、日本の外政や安全保障にケチをつけていた。アメリカ合衆国との集団安全保障に反対したければ、衆院議員選挙に出馬すればいいのに、軍事・外政を扱わない都知事になって反戦行政なんてふざけている。どうせ、役者としての仕事がなくなっているのだろう。結局、野党の推薦が得られず、出馬を取り消したそうだが、最初から本気じゃなかったのだろう。筆者は石田氏が主演したドラマを観たことがないので、彼の人気度や演技力を云々出来ないが、昔TVドラマ『マルコ・ポーロ』で石田氏がフビライ・ハーンの皇子チンキムを演じた事だけは覚えている。俳優業のことはともかく、彼が出馬に際し話していた内容に腹が立つ。都知事になって子育て支援をしたかったそうだが、そんなのは親の義務で、都知事が第一に考える事ではなかろう。暴力団や外人犯罪者を取締り、都内の治安維持を強化するなら分かるが、子育てのために税金を配るだけなら誰だって出来るじゃないか。あのセコい都知事の舛添だって、窮地に追い込まれた時、「子育て支援」を重視すると言っていたが、明らかに都民に対する「ゴマすり」だった。

  人気俳優が「人気取り」をするのは当たり前だが、こうした事は軽薄な藝能界ですればいいのであって、政界ですることではない。だいたい、誰も「子育て支援」を全面否定できないんだから、困っている家庭に財政支援とは、一番無難な政策である。しかも、財源が豊富な東京都なら、多少の「ばらまき財政」をしたって非難されまい。しかし、補助金をもらった親は役所に感謝するのか? 確かに、お金をくれる政策に喜ぶ親もいるだろうが、まともに税金を納めている家庭、つまり税金をむしり取られている中流家庭は、太っ腹な支援金の「ばらまき」に眉を顰めるだろう。議員や役人にとったら、都民の税金なんて、しょせん「他人の銭(ゼニ)」である。節分の豆まきと一緒だ。いくら投げ棄てても惜しくはない。一方、お金をもらった都民だって、本当に感謝するとは限らない。江戸時代の水呑百姓に恵むのと訳が違うんだ。都庁前で土下座をして、役人や都知事に感謝することはないだろう。それでも、母子家庭に補助金をくれたり、共働き世帯に保育所を与えたりすれば、担当する議員の評判が上がるので、他の議員もこぞって追随するようになる。しかし、こうした税金で養われた子供が将来、「お役人様、政治家の先生がた、本当に有り難うございました」と謝辞を述べるとは思えない。そもそも、赤の他人から他人の銭をもらって感謝するような子供を育てて、日本が立派な国家になるのか?

一兵卒の親孝行

  日露戦争は我が国にとって運命を左右する壮絶な死闘であった。そこには将校だけでなく、下っ端の一兵卒に至るまで、数えきれぬ悲劇が起こり、無名の兵士一人一人に涙の物語があった。日露戦争における旅順攻撃は酸鼻を極め、血の河ができる程であったという。このような哀しい戦いの中に、ある一つの美談があった。旅順を降伏させるためには、その背面にある白玉山(はくぎょくさん)の敵塁を奪取する必要があっという。そこで、中村覺(さとる)少将は、「白襷隊(しろたすきたい)」という決死隊を組織し、、新市街と旧市街をつなぐ白玉山を占領して、敵軍の連絡路を断ち切ろうとした。作戦が成功すれば、敵軍は分断されて手も足も出ず、旅順は開城となる。したがって、この任務は頗る重大であった。

  既に、名誉ある決死隊に選ばれし勇士は、この世の最後という訳で休養を取っていた。第三軍司令官、所属師団長、旅団長からの酒や肴の供与もあったそうだ。明治37年12月26日、白襷隊は戦闘を開始し、全部隊が一斉突撃を行った。工兵は竹竿に火薬をくくりつけ、鉄条網を破壊し、その突破口から歩兵が突き進んだという。敵の機関銃から弾丸が雨のように降り注ぐなか、我が軍の将兵は「露助(ろすけ/ロシア人)の弾丸なんか当たるか !」と啖呵を切って、猪突猛進。戦場の鬼神と化した日本兵は勇猛果敢、死を恐れず進撃し、銃剣を振りかざしながら、突撃に次ぐ突撃。まさくし肉弾戦だ。そんな中で、一時間の休戦が宣言された。我が軍の将兵は、「うむっ !」と敵を睨みつけたという。

  この休戦中に、白襷隊から一人の兵卒が列を離れたそうだ。彼は松樹山(しょうじゅざん)に布陣していた第十一師団司令部に向かっていた。しかし、そこには土屋将軍と三浦将軍が立っていたという。司令部に戻ってきた兵卒は両将軍を見ると、ひらりと身をかわし、もと来た道を引き返そうとしていたので、副官が二名の上等兵に「あやつを捕まえろ」と命じたらしい。上等兵に捕まえられたのは、田村亀吉(かめきち)という二等卒であった。捕まった田村二等卒は副官のところに連行され、訊問を受けたという。

 副官 「おい、お前は白襷隊の決死隊ではないか。何のために戻ってきたのだ」
 田村 「はっ !」
 副官 「訳を云え。訳を」
 田村 「はっ !」

  戻ってきた理由を答えぬ田村に、この副官は業を煮やした。副官が更に詰め寄っても、田村は固く口を閉ざしていたからだ。「訳は云うことができませぬ。放して下さい。第一線に戻ります」と述べる田村の目には、涙が浮かんでいたという。これを見た副官は、「貴様、命が惜しくなって逃げてきたんだな。決死隊になるほどの名誉をもらいながら、何という不甲斐ない奴だ。こういう弱い奴は日本軍隊の恥辱だぞ。たたっ斬ってしまうぞ !」と怒りを露わにした。すると田村二等卒は口を挟んで遮ったという。

  田村 「私も日本の軍人です ! 命が惜しくて来たのではありません」
  副官 「ならば、何ゆえ引き返してきた ?」
  田村 「実は・・・」
 
  田村二等卒は苦しい胸の内を吐き出すように答えた。

田村 「親の處(ところ)へ、金を送りたいのです !」

  意表を突かれた副官は、将校以外に内地(日本)へ送金できないことを田村に伝えたそうだ。もちろん、田村は百も承知であった。彼が上官に対し顔を上げると、その目からは涙が流れていた。彼は重い口を開いて述べた。

田村 「聞いて下さい。私は歩兵第十二聯隊、第十二中隊の歩兵二等卒、田村亀吉です。郷里は愛媛県温泉郡上山村、七歳の時に母と死に別れました。それから父の手一つで育てられ、家は貧乏であります。それに、父は酒好きです。私は幼い時から父の百姓仕事を手伝っていましたが、不運なことに父は病で半身不随となり、百姓ができません」
副官 「それを、お前が一人でやったというのか?」

  副官の瞳に同情心が現れた。田村二等卒は一人で畑仕事をこなした過去を告げ、飲酒以外何ら楽しみの無い父親についても話したそうだ。彼は酒好きの父のために、食事を取らずに酒を買ったこともあったという。軍隊に合格した田村は、独り残される父を心配し、村役場に後のことを頼んだらしい。事情を伝えた役場から励まされ、「父の面倒は見てやるから」と言ってもらったが、父親の飲酒までは無理だろうと彼は諦めた。そこで、田村二等卒は軍隊からもらえる俸給を全て郷里に送り、寂しい父にその金で酒を呑むよう伝えたという。それだけではない。彼の戦友は事情を分かっていたので、シャツ一枚一銭のお駄賃で彼に洗濯の仕事を与えてくれたのだ。また、班長や上等兵も気の毒に思い、この二等卒に日用品を分け与えていたそうだ。この情けにより、彼は日用品を買う必要が無くなり、その浮いたお金を父親に送ることが出来たという。しかし、戦闘が始まると、兵卒の身分では戦地から故郷に送金することができない。田村は父が酒も飲めなくなってしまい可哀想だ、と心を痛めたそうだ。この話を聞く副官は、感動して「ふむ」とうなるしかなかった。

 副官 「それでどうした?」
 田村 「はっ、戦争になってから二銭づつ多く頂けるので、それを父に送りたかったのであります。それで時々、旅団司令部にいる同郷の吉田上等兵殿に、特にお願いし、悪いことではありますが、うまく野戦郵便局から、父に送って頂いたのであります」
 副官 「ほう」と言って腕を組んだ。「その孝行心ゆえに命が惜しくなったのか?」
 田村 「いいえ」とはっきり答える。「御国(みくに)に捧げた命であります。惜しいなどと考えたことは一度もないのであります」

  しかし、田村は下を向いて、「白玉山の砲台を占拠するためには、私たち兵卒の命を、いくつも捨てなければ奪えません」と現実を述べた。これに「うむ」と頷(うなづ)く副官に対し、彼は「副官殿 ! お願いで御座います。この金を父に送ってやって頂きたいのであります。そして、この田村二等卒を心残りなく死なせて頂きたいのであります」と懇願したという。すると副官は一歩進んで彼の手を握ったそうだ。

副官 「き、貴様は、豪(えら)い奴ぢゃのう !」

 こう述べる副官の両眼からは涙が流れていた。田村は送金してもらえるのかを再確認したという。すると、そこへ意外な人物が現れた。なんと乃木希典大将であった。ちょうど、司令官巡察の時であったからだ。乃木さんは目の前の二人が涙を流しているので、「何事だ ?」と尋ねたのである。涙をすすり上げた副官は「はっ」と即答した。「この二等卒は、豪(えら)い奴でございます」と述べ、乃木将軍に事の次第を説明したという。副官の話を聴いた乃木将軍は、「そうか」とやさしく頷き、鋭い眼光で田村二等卒を見た。「田村二等卒 !」と呼ばれた兵は、直立不動の姿勢で乃木大将の言葉を拝聴したという。

乃木 「判った ! その金は司令部で預かり送ってやる」
田村 「はっ、送って頂けますか?」
乃木 「うむ、だが、この後、決して金など送ってはならぬぞ ! 」
田村 「はっ !」

  田村二等卒は嬉しさのあまり、感涙に咽(むせ)んだという。乃木大将は田村の上官である中隊長の許可を取っていることを確認すると、「早く隊に戻って働かねばならぬぞ」と言い渡した。彼の気持ちは晴れやかであった。

田村 「はっ、閣下 ! 田村二等卒は、もう思い残す處はありません ! 死なせて頂きます。日本の兵隊らしく立派にやらせて頂きます !」

  田村は金を渡すと、勇みだって前線へと戻っていった。白襷姿で部隊に戻って行く姿を眺めながら、乃木大将は粋な計らいをすることになる。

乃木 「天晴れな親孝行ぢゃ。副官、わしが、あの二等卒の金に少し足してやる !」

  こう述べると、乃木司令官は結構な金額を加え、事情を認(したた)めた手紙を添えて、田村の郷里にある役場に送ったという。しばらくして、その金と手紙が愛媛県の役場に届き、村長と助役が立ち会って、師団司令部からのお金と書面を繙(ひもと)いた。さっそく書面に目を通し、それを読み終えた村長は、はらはらと感動の涙を流し、田村二等卒の父、宗右衛門(そうえもん)は良き倅(せがれ)を持ったものだ、と感心したそうだ。村長は側で一緒に目を潤ませていた助役に、宗右衛門を呼んでくるよう頼んだ。役場に来た父の宗右衛門は、村長から事情を聞き、息子からのお金を渡されると、我が子への思いで胸が詰まり泣き出した。

宗右衛門 「倅が、いま、戦死するという間際まで、この私に酒を呑ませたい、との気持ちで、食うものも食わずに、金を溜めてくれたとは。そして、司令官閣下や師団長閣下や、お偉方から金を増やして頂いて、う、う、・・・もったいない ! もったいない ! わしゃ、わしゃ、こんな勿体ない金で酒が、酒が飲めますか、罰が当たります、ばちが !」

  宗右衛門は両袖で眼をこすって、すすり泣いたそうだ。その姿を目にした村長や助役も泣いていたという。

宗右衛門 「村長さん ! 助役さん ! わしは、もう酒は飲みません。鎮守の宮へ願いをかけます。そして酒を断ちます ! 亀吉 ! 亀吉 ! よう、戦場でも、わしの酒飲みを恨まずになぁ !」

  村長が宗右衛門の誓いを褒めると、宗右衛門は息子からの送金を押し頂いた。「この金は使いません ! 宝です。倅の化身です !」と述べたそうだ。こうした父の思いが届いたのか、天はこの息子を見放さなかった。田村二等卒は、幾度も戦場で奮闘し、名誉の負傷に苦しんだが、目出度く凱旋することが出来たという。そして、金鵄勲章七級白色桐葉章を授けられ、故郷で親孝行を続けたそうだ。(松波治郎 『悲絶 ! 壮絶 ! 血涙旅順開城秘史』 漫画時代社 昭和8年 58-70頁。)

親子の情が深かった日本

  日露戦争には美談が尽きない。血腥い殺戮の中に、清らかな逸話がある。田村二等卒の話も、数ある戦争物語の一つに違いない。それでも、こうしたエピソードを聞くと、戦場を知らぬ現代の我々でも涙ぐんでしまうだろう。まもなく自分の命が断たれようとしているのに、故郷に残してきた父親を心配していたのだ。田村二等卒は明らかに死を覚悟していた。激戦で多くの日本兵が壮絶な最期を遂げていたから当然である。だからこそ、規則違反でも、父にお金を渡したかったのだ。それに、敵の銃弾であっけなく死んでしまう兵卒が、最後に口にする頼み事を叶えてやろうとするのは、上官として当然だし人情じゃないか。指揮官なら死に行く兵卒に対し、心の中で「すまん」と述べているはずだ。田村の行動に感激した副官も素晴らしいが、その二等卒に内緒でお金を上乗せした乃木大将も偉い。長男の勝典(かつすけ)中尉と保典(やすすけ)少尉の両方を亡くされた乃木大将らしい、人情味溢れる取り計らいであった。

  明治といわず昭和の末期まで、日本社会では親子の情が深かった。少なくとも、現代ほど親子の絆が細くなった時代は無いんじゃないか。昔の日本は貧しく社会福祉が充分でなかったが、そのぶん助け合いの精神に富んでいた。こんにちのように、家族がいるのに見棄てられる孤独老人は少なかったし、病に伏している親を役所に丸投げする息子も稀であった。親孝行をする子供が多かったのは、親が苦労を苦労と思わず子供のために尽くしたからであろう。自分の身を削ってでも我が子に「人並み」の暮らしをさせたい、と必死になって働く親が当り前であったから、育てられた子供も何とかして親に報いたいと思った。たとえ、働きながらでも僅かな時間を作って猛勉強する者や、学費がかからぬ軍隊に入って親の負担を軽くしようとする者が珍しくなかった。共産主義に惹かれるような不届き者は別として、貧しい家庭に生まれても両親や世間を恨まず、却って奮発し、両親に楽をさせるために頑張ろうとする子供が多かった。現在、豊かな日本に暮らす少年少女は、冷暖房が完備された教室で、快適さを享受しつつ勉強ができ、学費の心配も無く、進学を当然の如く希望し、学習塾にまで通うことができる。だが、こうした子供の何人が、親孝行のために立身出世を望むのか? いったい何人の子供が、親だけではなく日本社会に感謝して、その恩恵に報いるべく、日々努力を積み重ね、いつの日にか偉大になろうと考えているのか? 役所からの「子育て支援」を空気のように「当然」と思っている親に育てられた子供は、自分の親に多少の感謝はするだろうが、自分の人生を犠牲にしてまで親に尽くそうとは思わない。「親孝行」の念が稀薄な子供なら、祖父母への感謝も薄いだろうし、見知らぬ先人ならもっと疎遠なはずだ。ましてや戦場で散った英霊に感謝などしやしない。

  日本の偉人を調べてみると、立派な母親を持つ人が多い。日本の母親は本当に子煩悩で、子供のために苦労を厭わない。自分は食わねども、子供にだけは“まともな物”を食わせたいと考える。だから、昔は内職をしながら子供を育てたり、知り合いに預けて行商に出たり、後ろ髪を引かれながらも工場で働いたり、と様々な苦労をしていた。だから、子供を背中におんぶして働く母親など珍しくなかった。せわしく動き回る母親の背中で寝ているのに、熟睡している子供を見ると周囲の者も心が和んだものである。現在だと、女性が外に出て働く事が賞讃され、政府や地方自治体も、こうした「働くお母さん」を支援すべく、補助金を出したり、保育所を建設したりと大忙しだ。しかし、肝心の子供は幸せなのか? 母親と離れて託児所に預けられ、知らない他人に世話をしてもらっても嬉しくないだろう。確かに、他の子供と遊んで社会性を身につけることは必要だし、自立心をつけることも大切だ。しかし、子供にとったら、ビジネス・スーツを着込んでハイヒールを穿いた「キャリア・ウーマン(career woman)」より、普段着の専業主婦の方が断然いい。会社から給料を運んでくるより、家で愛情を注いでくれる方がいいし、母が居てくれるだけで子供は心が安まるのだ。

  もし、子供に選択権があるなら、大半の子供が「ママと一緒がいい。いつもママと家に居たい。外に行っちゃ嫌だ」と答えるだろう。こうした心からの言葉を聞いた母親は、どう思うのか? 子供の瞳を見つめて「ママは外で働くと輝く女性になれるのよ」と本気で言える母親がいるのか? 母親と一緒にいたい、と涙ながらに訴える我が子に対し、霞ヶ関の高級官僚から吹き込まれた「活き活きとした女性」なんて言葉を吐けるのか? こうした願いを無視して働きに出る母親が素晴らしい、と賞讃するのは、家庭解体を目論む左翼フェミニストだけである。出来るだけ親子の関係を薄くし、砂粒のような子供を作れば、グレた子供やだらしのない子供になる。そうすれば将来、左翼分子になる若者を獲得できるので、社会転覆を狙う左翼にとって都合がいい。親子の情を大切にする正常な母親なら、子供をそばに置いて仕事をしたり、専業主婦が優先される社会を訴える政治家に投票するはずだ。それなのに、テレビ番組では「託児所を増やして欲しい」とか「政府はもっと子育て支援をすべし」といった街頭意見を垂れ流す。もしかしたら、テレビ局員と雇われ回答者との“ヤラセ”問答じゃないのか。

  日本人は母親に対して特別な感情を持っているようだ。日清・日露戦役のみならず、大東亜戦争の時も、戦場で母を気にかけ、ひっそりと感謝の意を表したり、遺書となる手紙を送っていた。日本の将兵は勇敢で、決死隊に属しても臆することはなかったが、故郷に残してきた父や母を心配する者が多かった。自分の命よりも両親の老後を誰が見るのか、が気掛かりだったという。とりわけ、自分を産んで育ててくれた母親に対しては、並々ならぬ感情が湧いてくるので、どうしても心残りが拭えない。我々が戦死した将兵の手紙を読む時、その熱い思いに胸が詰まるのも当然である。玉砕の前に書かれた手紙には、心からの感謝の言葉が認められており、自分を育ててくれた母に先立つ不孝を詫びているのだ。胸が張り裂けるような思いを素直に書き綴った手紙には、亡くなった将兵の涙がこもっている。こうした手紙を読めば、我々だって戦前の親子が如何なる情で結ばれていたかが判るじゃないか。「女性の自立」とか「輝く女性」とかいうキャッチ・フレーズを、ペラペラと喋っている政治家や知識人を見ていると、虫酸が走ってくる。「お母さん !」と最後の言葉を口にできず、絶命していった我が軍の将兵を思うと、涙がこぼれてくる。平和な時代に暮らす我々は、親孝行ができて幸せじゃないか。民進党や社民党の女性議員が、金切り声で「女性のみなさぁ~ん。安心して働けるように、待機児童をなくしたいと思いまぁ~す。どうか、どうか、投票日には清き一票を !!」と叫んでいるが、こうした馬鹿には、できるだけ早く棺桶に入ることを勧めたい。






人気ブログランキングへ
記事検索
最新記事
アクセスカウンター