無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2017年08月

NHKが隠した731部隊の裏側 / 凄惨なロシアの強制収容所生活


怪しい731部隊捕虜の証言

731













(写真  / 731部隊の日本人将兵)

  毎年8月はNHKの「反日祭り」が恒例行事となっている。夏祭りの花火なら歓迎するが、日本人を貶めるための洗脳番組なんて不愉快だ。8月13日放送の『731部隊の真実』は、ロシア人に“仕込まれた”囚人の証言に基づいている。731部隊の「捏造」については以前このブログで書いたから、ここでは繰り返し述べない。だが、NHK職員が作る番組の前提が間違っているので、少しだけ「おかしい」ところを指摘する。NHKの番組制作者はロシアが公開した日本軍将兵の証言を以て、鬼の首でも取ったかのように、「731部隊による人体実験」があったと述べていたが、その日本人証言者がどのような状況に置かれていたのかについては口を閉ざしているのだ。そもそも、日本人捕虜が正直に「事実」を語っていたのか? ハバロフスク裁判で日本人が怖ろしい「犯罪」を告白したというが、その証言を裏付ける物的証拠はどこにもない。 単なる「自白」だけじゃないか。しかも、その自白だって証言者の自発的供述ではなく、ソ連側による強制であったり、ロシア人が書いた脚本通りの証言であったりするのだ。つまり、「裁判」という形式を用いた茶番劇に過ぎない。

  ロシアに公正な裁判も正当な法手続も無い。我々が考えるような「司法」が無いのは周知の事実だ。法廷の判決は権力者によって予め決まっている。NHKはソ連による宣伝工作とリンチ裁判を熟知しているが、それを一般視聴者に伝えることはなく、ロシア人や支那人の「捏造」を「事実」と報道している。これだから、日本の公共放送ではなく、北京放送やモスクワ放送の「日本支店」と考えた方がよい。そういえば、ソ連の遣り口を捕虜となった山田四郎が述べていた。監獄に収容された山田氏は、ロシア人から取り調べを受け、理不尽な罪状を突きつけられたという。例えば、捕虜の食事を配給する際、出来高に応じて差別化し、作業成績を向上させねばならぬのに、食事の量を均等に配分して作業成績の向上を妨害したと責められた。そして、ソ連刑法第五十八条、十四項に該当する反革命的サボタージュと宣告されたそうだ。えっ、こんなべらぼうな罪状があるのか? 耳を疑ってしまうが、実際にある。牢獄国家のロシアでは、事後法だろうが異次元法だろうが、何でも“アリ”だ。そこで、山田氏を有罪にするため、ソ連側は証人を作ろうとした。ソ連では幾人かの証人を作れば書類だけで刑罰を科すことができたという。なるほど、支那製のローラー・コースターより怖ろしい。

  そこで、ロシア人はある日本兵を拷問にかけて山田氏を陥れる証人になれ、と強要したそうである。取調官のシャーライ中尉は適当な罪状を記した書類を作成し、署名を迫ったところ、彼は嘘の証言は出来ないと撥ね付けた。すると、哀れに日本兵は殴られたり蹴られたり、との酷い暴行を受けたという。暴力団並の仕置きに気絶したというが、容赦無く水を掛けられ、意識を取り戻すと再び拷問されたそうだ。こんな事が毎日続いたそうで、しまいには天上から逆さ吊りにされてしまい、銃剣で胸を抉られたという。帰還してからも、彼の胸には無惨な傷跡が残っていたらしい。(山田四郎 『黒い雪 新シベリヤ物語』 新世紀社、昭和31年 pp.51-53) しかし、こんな凄惨な拷問を受けても彼は嘘の証言をせず、必死で耐え抜いたそうである。

  こうした拷問は他にも色々あった。だが、NHKは愛するロシアを守る為、沈黙と無視を続けていたのである。もし、ソ連が“誇る”ラーゲリ(強制収容所)の実態が暴露されれば、ハバロフスク裁判に出廷した証言者の信憑性は失われてしまうだろう。NHKはそれを恐れているので、ラーゲリでの劣悪な囚人生活や家畜以下の扱われ方、共産主義に基づく洗脳教育に触れないのである。日本では「シベリア抑留」などという温和な表現で語られているが、実際は「シベリア拉致」と言うべきで、日本軍の将兵が奴隷並みの労働を強制されたというのが真相なのだ。本来なら、日本の公共放送たるNHKは、想像を絶する「生き地獄」を一般国民に伝えねばならないのに、それを隠蔽しているんだから国賊放送局と呼ばれても仕方ないだろう。

  ロシアの強制収容所で課せられる「労働」は本当に苛酷だ。ブラック企業でのサービス残業なんて比較にならない。まず、極寒の地で土木作業や鉄道建設、採炭を始めとする鉱山労働などが課せられていた。冬期は気温が零下40度ないし50度くらいにまで低下し、零下30度になると作業中止となったらしいから、零下20度くらいなら働かされていたということだ。ロシア人に言っても無駄だろうが、日本兵はペンギンや冷凍マグロじゃないんだぞ。労働環境も最低で、鉱山労働などはキツイ上に危険を伴っていた。例えば、チタ州のブッカッカ収容所で、タングステンや鉄マンガン重石の採掘作業を強いられていた山本泰夫は、帰国後(昭和38年9月)、突然気管支喘息のような症状に見舞われたそうだ。最初は肺結核と判断されたのだが、詳しい検査を受けたところ、「シベリア珪肺」であると判った。日本では10年以上の粉塵作業経歴がないと発生しないのに、シベリアで働かされた者はたった1年足らずで症状が出てしまうらしい。(御田重宝 『シベリア抑留』 講談社、昭和61年 p.124)

  シベリアではこんな重労働を課せられたのに与えられた食事は雀の涙程度だった。不味い黒パンが150g、カーシャという魚粉の入ったスープが毎日の献立で、それすら労働の成果によって増減したというから酷い。つまり、ノルマをたくさん達成できた者は、ちょっとだけ黒パンの量が増えるが、ノルマを達成できなかった者は、食事の量を減らされたのである。労働者を効率的に搾取するため、ソ連は医者を派遣して囚人たちの身体検査を行った。ロシア人の女医が囚人の皮下脂肪を見るために皮膚をつまみ上げると、シワだらけで全くといっていいほど弾力性が無かったという。兵隊たちは皮下脂肪など無くて、皮膚はカサカサに乾いている。しかも、シラミに攻められて全身至る所に掻き毟った跡があった。それもそのはず。収容所の中は非常に不潔で、南京虫やシラミで溢れていたのだ。満洲第二航空軍の通信隊にいた石井兵衛によれば、チタ収容所の「天井からは南京虫の雨が降ってきた」という。(上掲書 p.130) ゴキブリ一匹で悲鳴を上げる日本人女性が、こんな収容所を体験したら失神どころが、発狂して昏睡状態に陥ってしまうだろう。もっとも、「南京虫ってなぁ~に?」と尋ねるのが今の子供だから、ノミやシラミが充満した牢獄の恐ろしさは解らないだろうなぁ。

  農奴が大半だったロシアでは、人間と家畜、野生動物の区別は無い。況んや、戦争捕虜に情けが無いのは当り前。憎い日本兵は消耗品だ。満足な食事を与えられずに酷使され続けた囚人の姿は、幽霊よりもみすぼらしかった。囚われた日本人は大半が栄養失調で、肋骨は突き出ていて、波を打っていたという。背中の筋肉は薄く、肩甲骨(けんこうこつ)に張り付いているだけ。腹部の筋肉も陥没して船底型をしている。太腿は細い2本の棒と変わらず、背後から見ると臀筋(でんきん)が衰えて萎縮し、左右に広がっていた。ところが、収容所を任されていたソ連の将校は血も涙も無かった。ロシア人らは日本兵が発熱しても38度以上でなければ休養を認めなかったし、「栄養失調は病気ではない」と言い放ったそうだ。(上掲書 p.136) ロシア人は鬼畜か? 彼らは暴君が支配する専制国家で育ったせいか、人間の質が根本的に我々と違っているのだろう。西部64部隊の吉田誠一によれば、苛酷な労働を強いられた初年兵の死亡率は高かったという。彼らは体力が無く、抵抗力も弱かったため、最初の冬で多くの者が死んでしまったそうだ。本来なら兵役免除になるはずの青年が、戦争末期の兵隊不足のために徴兵されたのだから、シベリアでの重労働を強いられればあの世行きは免れまい。そもそも、まともな軍事教練でさえついて行けない弱兵が、強制労働に耐えられる訳がないじゃないか。

  石炭の採掘作業などは非常に厳しく、急な斜坑を登り降りしなければならないから、相当きつい作業だ。また、削岩機で石炭を掘れと命令されても、防塵マスクは支給されないから、すぐ肺病になってしまう。坑道によっては天上から水が滴り落ちるから、溜まった地下水で体はずぶ濡れだ。そうじゃなくても、採炭作業を終えた時には全身真っ黒。こんな重労働のうえに、栄養失調や衰弱ゆえの病気、伝染病の蔓延、作業中の事故などが絶えない。バタバタと亡くなる者が続出したそうだ。とりわけ飢餓というのは苦しい。衰弱する前は意識がはっきりしているんだから。そして俄に信じられないが、死ぬほど腹が減ったので、馬糞に混じっている未消化の穀物を食べる者までいたらしい。「まさか!」と思ってしまうが、飽食の現代に生きている我々とは違うのだ。栄養不足で衰弱する者がいたくらいだから、空腹ゆえに非常識な行動を取る者がいても不思議ではない。

  我々が拉致被害者の悲劇を聞くと胸が張り裂けそうになる。異国の牢獄で虐待された日本人が、ドブネズミ以下の最期を迎えたのだから心が痛む。だが、ソ連では死者への配慮など一切無い。広島の第231聯隊に所属していた吉田勇によれば、日本兵の死者は裸にされて、凍った大地に埋められたという。ソ連側の理屈だと、死者は物体に過ぎないから衣類は着けさせないというのだ。(上掲書 p.165) それでも、亡くなった同胞を埋葬するために、地面を掘ろうとツルハシを手にするが、凍った大地はツルハシをはじき飛ばし、土を掘ることができない。そこで一日がかりで火を焚き、凍土が柔らかくなったところで掘ったという。しかし、掘ったところで20ないし30cmがせいぜい。仕方なく、その中に遺体を埋めて雪をかぶせるが、翌日に埋葬地を訪れると狼か山犬に死体が荒らされていたりする。とても口では言い表せない状態だったという。ロシア人からしたら、日本兵の遺体など白樺の肥料に過ぎない。ロシアの皇帝や貴族だって平民をケダモノ扱いにしたんだから、そのロシア庶民が外国人、しかも戦争捕虜をケダモノ以下に扱ってもおかしくはないだろう。

ソ連の手先として帰国させる

  シベリアに拉致されて強制的に労働を課せられた我が軍の将兵は本当に憐れである。ロシアという野蛮国では、虜囚の日本人は二足歩行の家畜に過ぎない。毎日が苦痛なだけの陰惨な日々で、生きる希望が無かったのだ。それでも、彼らには一途の夢があった。祖国への帰還である。ロシア人にこき使われていた日本人が、その冷酷な仕打ちに耐えていたのは、いずれ故郷に戻れるかも知れないという可能性を信じていたからだ。シベリア拉致被害者の中には、毎日の虐待や苛酷な労働で自殺未遂を図る者や、発狂する者が続出したという。だから、捕虜の日本人は一刻も早く故国に帰りたかったのである。

  そこに目を附けたのがソ連の工作機関である。狡猾なロシア人は国際共産主義革命を輸出するため、日本人捕虜を赤く染めて帰還させようとしたのだ。日本人に共産主義思想を植え付けるには、日本人の共産主義者が最も効果的である。ロシア人の共産主義者がいくら日本語が上手くても、所詮は外人だから近寄れば警戒されるだけ。現実的に効率が悪い。これは支那人も同意見で、「日中友好」を浸透させるには、支那人よりも日本人を利用した方が遙かに有効である。そこで、悪知恵に満ちたソ連は、赤化した日本人捕虜を日本に戻して同胞による共産主義革命を遂行させようとしたのだ。

  日本兵を帰還させるに当たって、ソ連は収容所での「民主運動」に力を入れたという。ただし、この民主運動というのはデモクラシーの促進ではなく、「共産主義運動」の別名である。よく日本共産党は「民主主義」とか「平和の希求」を口にするが、それは民衆を騙して政権を奪取する方便に過ぎない。間抜けな大衆を扇動して彼らが権力を握れば、共産党に投票した国民と一緒に反対した国民も奴隷の身分に落とされ、恐怖政治の犠牲者となるのは火を見るより明らかだ。また、彼らは頻繁に「反戦」「平和」を掲げるが、それは在日米軍を追い払って、ソ連軍を出迎えるためである。日本の共産党員は武力を持たないので、ロシアの赤軍が日本を占領しやすいよう、レッド・カーペットを敷きたかったのだ。彼らが口にする「平和」なんて、いつでも反古にできる垂れ幕である。こうした目標を達成するためには共産党支持者が増えねばならず、モスクワの本店はその促進剤として赤化した捕虜を大量に送り込もうとしたのだ。

  日本人捕虜の中には赤化に反撥した者も幾人かいたそうだが、強制収容所の環境では非常に稀だったという。なにしろ、劣悪な囚人生活を送っていたから、日本人同士で反目や摩擦が絶えなかったし、軍隊の階級すら崩壊していたから、兵卒が将校を弾劾するなんてことも珍しくなかった。ロシア人に阿(おもね)った大勢の兵卒が、上官を「反動分子だ!」と罵って吊し上げたというから、まさに下克上の世界である。これは日本兵が元から性悪だったからではなく、積極的に「民主化(赤化)」した者の方が、ソ連側に対する印象が良かったし、こうした恭順のアピールを示せば、早く日本に返してもらえると思ったからだ。日本兵は「とにかく故郷に戻りたい !」という気持ちでいっぱいだった。立派な共産主義者になれば最優先で帰国船に乗せてもらえるのでは、と考えても不思議ではないだろう。だから、共産主義に否定的な者でも、自ら進んでソ連を称讃していたのである。

  今の日本でなら共産党を貶し、自由主義を掲げることは容易だが、虜囚の身で日本に忠誠を貫くのは困難だ。強制収容所でソ連の将校に反抗すれば、食事を減らされた上に労働ノルマを増やされるんだから、棺桶への準備をしているようなものである。また、日本人同士の分裂も悲惨である。空腹のあまり、仲間に配給される黒パンを密かに食べて、誰かに奪われたと嘘をつく者までいたという。後にバレたというが、「一度でいいから満腹になりたかった」という言い訳を聞く仲間も辛いものだ。醜い争いには話が尽きない。かつて上官に従っていた下士官や兵卒もソ連側に媚びるようになって、共産主義に抵抗する将校を罵倒するようになったそうだ。例えば、一人の頑固な将校を赤化した兵卒が取り囲んで、「反動だ!」「民主化が足りない!」「ファシストめ!」と責め立てながら、人民裁判に掛けたというからおぞましい。そもそも、「反動」とはどのようなものを指すのか? 「日本共産党の在外同胞引揚妨害問題調査報告書」によれば、「ファシズム、ミリタリズム、キャピタリズムの思想を持った者、あるいは言動をする者」であるらしい。(今立鉄男 編著 『日本しんぶん』 鏡浦書房、昭和32年 p.74)  

  共産主義に反撥を覚える日本兵もいたが、多くはソ連側に靡き、中にはアクチブ(積極的活動家)になって、「民主運動」の旗手となった者までいたそうだ。捕虜に共産主義思想とソ連への親近感を涵養するため、『日本新聞』まで作られ、活字に飢える者や望郷の念を抱く者が、こぞって読んでいたという。こうした「民主運動」教育が行われた結果、多くの日本人は徐々に洗脳され、スターリン元帥に対する感謝状を捧げたり、ソ連に忠誠を誓うようになった。日本新聞が作成した感謝状に「反動分子」以外の者が署名したというが、その内容は馬鹿げているというか、抑圧状態に置かれている異常性をよく物語っている。起草文にはこう書かれていたという。

  当り前ならば、日本帝國主義の犠牲となって死ぬところを、ソ連の参戦によって解放され、しかも天皇制ファシスト軍隊の奴隷兵士から民族独立、平和擁護のスターリン戦士として、真の人間に再生させてくれたこと、在ソ五ヶ年間、生活万端にわたって何の不自由もなく、あたたかい配慮を受け、無事に日本に帰国できるようになったのは、ソ連とその輝かしい指導者スターリン大元帥のおかげである。(上掲書 p.87)

  現代の日本人が聞けば笑ってしまうが、これは漫才のネタではない。収容所での「民主運動」は耳を塞ぎたくなるほど下劣だった。民主化のスローガンたるや、日本への憎悪に満ちている。例えば、「反ソ・反共のデマを粉砕せよ」「日・米反動の嵐を突いて、敵前上陸を敢行せよ、天皇島に敵前上陸せよ」「反帝・反戦、天皇制打倒」「真理に忠実たらんとするなら共産主義に進め、民主運動は働く者の生きんがための正義の闘争だ」「日本共産党領袖徳田球一万歳」など、我々なら「頭がおかしくなったのか?」と聞き直してしまうが、洗脳された日本兵は真剣だった。それにしても「天皇島」って何だ? もしかして「日本」のことか? 初めて聞く名称である。まったくもって、共産主義者のスローガンには天皇陛下に対する罵詈雑言が矢鱈と多い。どんなものか幾つか挙げてみる。

  「天皇は戦争犯罪人なり」「資本主義国家の終焉近し、天皇教、阿片患者の天皇は財閥である、天皇は帝國ホテルの番頭だ」「天皇打倒なくして民主化なし」「天皇は財閥、大地主、軍閥の首である」(上掲書 p.77)

  一方、ソ連称讃は笑止千万だ。例えば、こんなスローガンがあった。

「ソ同盟は弱小国家の救護者なり」(筆者註 : 弱小国を衛星国にしただけ)
「赤軍こそ真に人民の軍隊だ」(人民弾圧軍の間違い)
「スターリン憲法は世界最優秀のものである」(こんなものはヤクザの掟と同じ)
「共産党こそ真の愛国者である」(正常な日本人から見れば「叛逆者」か「売国奴」である)

  こんな風に洗脳された「抑留者」が戻ってきたのだから、彼らを出迎えた家族が驚愕したのも無理はない。降り立った駅で「インターナショナル」を唄う日本兵なんてゾっとするじゃないか。ガリガリにやつれた息子や兄が生きて戻ってきたのに、その頭が真っ赤に染まっていたのだから、被害者家族としては嬉しいのか悲しいのか判らない。これを見ればロシア人の狡猾さが多少は理解できるだろう。でも、腹立たしいのは、NHKが抑留者の“強制的”自白を特集しても、決して「幻兵団」について説明しないことだ。これは讀賣新聞の三田和夫・記者がシベリアからの特殊帰還兵、すなわち特殊任務を帯びた日本人捕虜グループを指した名称である。この「幻兵団」には二種類の任務があった。一つは、抑留者の中で「反動」「戦犯」と見越された人々や、元警官、憲兵、特殊情報機関員の摘発を行い、抑留者間のスパイとして活動すること。二つ目は、日本に帰還してから共産活動を行い、日本政府や米軍に関する情報を集めたり、思想・政治的謀略工作を行うことである。こうした役目を与えられた者は、帰還前に誓約書をソ連に提出したそうだ。(上掲書 pp.92-93)

  注目すべきは、「幻兵団」の人々は、日本共産党と直接の繋がりを持たなかったことだ。彼らは極秘裏にソ連勢力の日本侵入をあらゆる面で推進するのが任務であった。「幻」には組織が一切無く、全て単独で個人活動を行っており、その個人の責任で諜報活動や謀略工作を行っていたというのである。亡命したユーリ・ラストボロフ中佐の証言は、特筆大書すべき内容を含んでいた。1947年、共産党政治局はMVD(ソ連内務省)の諜報将校とソ連陸軍参謀本部に属する諜報将校で構成された特別グループを設置したそうだ。このグループは日本人抑留者を種類別に徴用するよう命ぜられた。具体的に言えば、(1)皇室関係者 (2)有力な元政治家 (3)元実業家 (4)新聞記者 (5)科学者 (6)技術専門家 (7)医師などである。特に、古い家柄に連なる有力家庭の出身者や教養のある青年は格好のターゲットだったらしい。(上掲書 p.96) これらの人々は将来日本で重要な地位に就くから、ソ連の諜報機関にとって非常に価値が高い。俗に言う、諜報組織の「アセット(assets / 資産)」である。

  MDVは日本人の捕虜がやがて、新設される日本軍(自衛隊)や警察、その他の国家機関に侵入できると踏んでいたようで、多くの陸軍将校や諜報機関の元高級官吏を徴用したしたそうだ。おそらく、戦前から共産主義や統制経済に惹かれた陸軍士官とか、中野学校を出た諜報員などに目を附けていたのだろう。ラストロボフは日本人工作員や協力者を選ぶ役目を帯びていたそうで、意外にも日本人捕虜は抵抗を見せなかったそうだ。やはり、収容所の生活状況が極めて劣悪であったことが主な要因だったらしい。たとえ不本意でも、ソ連の手先や密告者になると誓えば、直ぐにでも帰国させてもらえるんだから、地獄の日々から抜け出したいと渇望する日本人が積極的にスパイを志願したのも無理はない。もし、依怙地になって拒絶すれば、いつまでたっても帰国させてもらえず、畳ではなく凍土の上で野垂れ死にすることになるのだ。それなら、いっそのことスパイになろうと考えてもおかしくはないだろう。

  ソ連の手先になることを誓った日本人捕虜は、1948年の第一次引揚者と共に帰国できた。「先進的」分子の中から徴用された手先は、帰還に先立って一人一人「反動」分子の収容所に送られ、ソ連に対する友情や繋がりを決して明かさないよう厳重に注意されたという。事情を知らない無知な「反動分子(非協力的な日本人)」の中に配置された「進歩的分子(ソ連の犬)」は、他の囚人たちから怪しまれないよう用心したらしい。こうしてソ連の「エージェント」になった捕虜は日本に帰ることが出来たのである。(上掲書 p.97)

  現在の我々なら、「帰国を果たしたら、そんな誓約を破ってしまえばいいのに」と考えがちだが、不名誉を恐れる当時の日本人にはそう簡単にできるものではなかった。ソ連側との協定書には、「日本での共産政権樹立のために闘う」とか「天皇は日本人に対して犯罪責任者だから、天皇を倒すために闘う」と書かれていたそうだ。社会的地位の高い者が、いくら強制収容所暮らしだからといって、国賊か叛逆者になって、反日的誓約書に署名したとバレれば、その地位と名誉を一瞬にして失ってしまうだろう。戦前は捕虜になることすら「恥」とされていたんだから、ソ連側の脅しに屈して赤い犬となり、祖国と皇室に弓引く逆賊になりました、とは白状できない。生き恥を晒したくないという気持ちが強かったのだろう。彼らは帰国して自分を迎えてくれた家族に真実は言えないし、たとえ強制収容所の辛さを語っても、日本で暮らしていた者にはその残酷さを理解できない。それよりも、最後まで苦難に耐え抜いた「勇士」でいたいと望むのは人情だ。

日本社会に侵入するソ連の協力者

  ラストボロフは重要な事を語っていた。ソ連の手先となった日本人は、(1)帰国したら「不忠」な行動に参加しないこと、(2)良い評判を作り上げること、(3)日本当局の前ではソ連に敵意を抱いているよう見せかけること、(4)共産主義に対して憎しみを持っているかのように表現すること、などが指示されていたという。(上掲書 p.98) これは中々厄介な連中である。捕虜となった仲間を迎える日本人としては、誰が「本当の愛国者」で誰が「偽愛国者(裏切者)」なのか判らない。共産主義を公然と非難している者が、実はソ連の協力者だったりすれば、帰還者の誰を信用していいのか迷ってしまうし、最終的には全員が怪しく見えてくる。また、表舞台に現れなくても、戦前の人脈を以て、政界や財界、学界、マスコミ業界に顔を利かせることもできるから、スパイとなった日本人が偽情報を意図的に流すことも可能だし、ソ連に対する提灯記事や好意的見解を述べるよう指図することもできる。

  たぶん、一般人でも気づくのは元関東軍参謀の瀬島龍三であろう。彼は帰国後、自衛隊に入ろうとするが叶わず、兵器を商う伊藤忠商事に入社して会長となり、財界の大御所として振る舞っていた。ラーゲリの捕虜となっていた瀬島は、極東軍事裁判の証人として口頭供述をしたくらいだから、ソ連側と予め何らかの裏取引をしていたのだろう。あの狡猾なロシア人が、証人に“仕込み”をせずに法廷に立たせるわけがない。ちゃんと脚本を書いて練習させたから、ソ連は草葉辰巳中将や松村知勝中将、そして従順な瀬島を東京に派遣したのだ。しかし、その草葉中将は供述前の1946年9月19日から20日にかけての夜、拘束されていたソ連代表部の中で自殺を遂げている。たぶん、祖国を裏切るような証言をしたくなかったのだろう。一方、法廷で供述を行った瀬島は、1946年11月14日にソ連に無事戻った。ところが、瀬島はハバロスクの軍事裁判にかけられ、有罪判決を受けてしまう。だが、なぜか1956年に帰国が許され、1992年にはロシア最高検察庁により名誉回復をされているのだ。実に怪しい。有罪判決は瀬島の正体を隠すための演出だったんじゃないか。

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(左: 瀬島龍三  / 中央: 軍事法廷に立つ瀬島 / 右: 中曾根康弘 )

  ソ連の飼い犬であったことは有名だったのに、瀬島は中曾根康弘のアドヴァイザーとなり、政界・財界でソ連の国益のために尽くす一方で、自己弁護にも余念が無かった。回想録の『幾山河』を執筆し、ベストセラーにするなど、いかにも陸士卒の秀才らしく用意周到だ。テレビ番組にもよく登場し、筆者も竹村健一の『世相を斬る』とか笑福亭鶴瓶の『日本の夜明け』という番組で瀬島を観た事がある。口が達者な瀬島は、落語家の鶴瓶を相手に饒舌を以て自分の半生を語り、視聴者を丸め込んでいた。さらに、瀬島はあろうことか、「太平洋戦争戦歿者慰霊協会」の会長に納まっていたのだ。日本軍の将兵をソ連に売り渡した裏切者が、慰霊祭の主催者側になるなんて言語道断である。瀬島がいくら尋ねられても「抑留生活の実態」を具体的に話さなかったのは、話せばボロが出ると恐れたからだろう。ソ連の八百長リンチ裁判にかけられ、敵対行為で有罪判決を受けた者が処刑されず、のうのうと帰国できたんだから疑わない方がどうかしている。本当に「有罪」ならソ連で処刑されたはずだ。

  日本国民は渋々ながらでも受信料を払ってNHKを支えているが、その公共放送局は反日宣伝・謀略放送として日々勤しんでいる。夏になれば終戦特集と称して、日本人を断罪する番組を制作し、いかに我々が邪悪な民族であるかを植え付けているんだから、腸(はらわた)が煮えくり返るじゃないか。従来なら、「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」を題材にした特番を制作するところだが、既にこれらのネタ(脅迫材料)は真相がバレているから使い物にならない。そこで、今年は731部隊にしたのだろう。来年は、炭鉱で「強制労働」を課せられた朝鮮人を特集するかもね。NHKなら「日本企業は徴用された朝鮮人に賠償しろ」というキャンペーンを張るかもしれないぞ。でも、そんなに朝鮮人が可哀想なら、まずもってNHK職員が貯金を献上すればいいんじゃないか。年収数千万のNHK職員にとったら、数百万、いや数千万くらい端金(はしたがね)だろう。夏の家族旅行でもキャンセルすれば、一人当たり数百万円の寄付金を捻出できるはずだ。頑張れ裕福なNHK職員 !




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可憐な乙女の希望と冷酷な現実 / (続) ヒトラーを崇拝した英国貴婦人


憧れのヒトラーと遭遇

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  1933年、19歳になるユニティはダイアナに連れられ、初めてドイツに渡ることになった。そして、この姉妹はBUF(ブリテン・ファシスト連合)の使節代表として、1933年9月に開かれた「勝利の年のナチ党最初の党大会」に参加したという。彼女たちは勤労奉仕隊の行進に見とれていたが、その後、大会の真打ちであるヒトラーが現れると、会場には割れんばかりの歓声が沸き起こり、ダイアナとユニティもたいそう興奮したらしい。男たちは大声を上げて「ハイル・ヒトラー」と叫び、女たちはヒステリックな陶酔に陥っていたそうで、中には興奮のあまり失神する者までいたという。一般のドイツ人と同様に、憧れのヒトラーを直接目にして、ユニティがどれほど感激したことか。たぶん、1960年代にザ・ビートルズを初めて見た乙女のようなものだろう。(当時は興奮のあまり、コンサート会場で失神するファンまでいたそうだ。)

Unity Mitford 1(左  /  ユニティ・ミットフォード )
  1933年の冬、ユニティは英国に戻っていて、オックスフォードシャーにあるスウィンブルックに滞在していた。彼女は大量に集めたヒトラーの写真を仕分けしたり、レコードをかけて「ホルスト・ヴェッセルの歌」を大音響で繰り返し聴いたりと、呑気な日々を過ごしていた。そんな中、ユニティには向学心が目覚めてくる。じゃじゃ馬娘のユニティがドイツ語を勉強したい、と両親に懇願し始めたのだ。学校ではロクに勉強しなかったユニティが、大好きなヒトラーに逢いたいとの一心で、難解なドイツ語を習得しようというんだから、語学には「動機」というものが如何に大きな要因であるかが分かるだろう。日本人の中に英語が苦手な子供が多いのは、燃え上がるような情熱というか、「何としてもマスターしたい !」という渇望が無いからだ。(日本の女子高生だって、「憧れのイギリス人スター」を見つければ、学校の成績も良くなるさ。中高年のくたびれたオッさん教師じゃ、乙女心も火が消えたようになっちゃうもんね。) ユニティはドイツ語学習のメリットを両親に懇々と説明したそうで、リーズデイル夫妻は怠惰な娘が学問に目覚めたと勘違いし、最終的には娘の願いを聞き入れたという。

  やっとの事で両親の承諾を得たユニティは、意気揚々とミュンヘンに旅立った。ところが、彼女には修学の前提条件が不足していたため、大学に入ることは出来なかった。そこで仕方なく、ケーニヒ通りにある全寮制学校に入ったそうだ。この施設はロシュ男爵夫人が営む女子専用の寄宿学校で、上流階級の娘たちを対象にしたものらしい。ミュンヘンでドイツ語の勉強に打ち込むユニティは、暇な時を見つけるとヒトラーに関するものを物色し、手当たり次第、何でも読んでいたという。そして、彼女はヒトラーがミュンヘンを訪れる際、どこに泊まるのか、どの劇場に赴くのか、如何なる店に立ち寄るのか、を調べ上げたそうだ。偶然にも彼女は知り合いの美容師から、「オステリア・ヴァヴァリア」の情報を突き止めた。この美容師の話によれば、ミュンヘンを訪れたヒトラーは側近を連れて、よくその店で昼食を取っていたというのだ。

Hitler 324  そこら辺にいそうなアイドル歌手の「追っかけファン」なら、お目当ての人物が現れるまで、老舗レストランの前でジッと張り込みを続けそうなものだが、貴族のご令嬢たるユニティは庶民と同じような真似はしない。(筆者の情報なんだけど、日本には「山P」を待ち伏せるオバゃんファンがいるそうで、「憧れ」と「追っかけ」に年齢は関係無いそうだ。それにしても、山下智久の「P」って何の略なのか? もしかしたらクリスチャン・ネームなのかも。) 彼女は両親から100ポンドもの仕送りをもらっていたので、才能溢れるシェフが料理を振る舞うレストランに毎日通うことができ、そこで毎回食事を取っていたのだ。羨ましい。ある日、こうした“待ち伏せ”を行っていたユニティに朗報がもたらされた。間もなくヒトラーとその従者が、予約したテーブルに来るというのだ。そして、待ちに待ったヒトラーが店にやって来ると、ユニティはヒトラーよりも先に帰ろうとせず、辛抱強く憧れの総統が通り過ぎるのを待った。彼女にとって、唯一のチャンスはヒトラーが店を出て行く時で、ユニティは帰りがけのヒトラーに微笑みかけたのだが、当人は気づかぬままだったという。しかし、ユニティはちょっとやそっとでは諦めなかった。女の執念は実に怖ろしい。彼女は毎日毎日シグナルを送り続けたという。

  すると果たせるかな、この仕草が遂に効を奏した。1935年2月9日の午後三時頃、ヒトラーは自分を見つめるブロンド美女に気がついた。彼は店の主人に「このゲルマン女性の原型は一体誰なんだ?」と尋ねたそうだ。ヒトラーの御下問を受けた店の主人は、常連客になっていたユニティのテーブルに近寄ってきて、「総統があなたとお話になりたいそうです」との伝言を運んできたのである。ユニティは立ち上がり、ヒトラーのテーブルに向かう。するとヒトラーは立ち上がり、彼女と握手を交わした。そして二人は三十分ほど会話を楽しむ。ユニティとヒトラーは、英国や先の大戦について語り合い、北方民族同士を嗾(けし)けて戦わせる国際ユダヤ人を決して許してはならない、と意気投合したそうだ。夢のような時間はあっと言う間に過ぎ、ユニティが是非英国へと誘うと、ヒトラーも彼女をバイロイトで開催されるワーグナー音楽祭に招待した。ヒトラーはユニティの住所が書かれたメモをポケットにしまうと、さり気なく店を後にしたという。粋なことに、彼女の昼食代はヒトラーが払っていた。つくづく思うけど、美人は得である。

Unity Mitford 2













(写真  /  ナチス将校と話すユニティ)

  崇拝するヒトラーの知遇を得たユニティは、益々ドイツ社会にのめり込んでいた。彼女はウィルヘルム二世の娘ブルンスヴック公爵夫人(Victoria Louise)や、ウィニフレッド・ワーグナー(Winifred Wagner)らと共に、ミュンヘンにあるヒトラーの私邸に招待された。1935年4月10日にはヘルマン・ゲーリングと女優のエミー・ゾンネマンの結婚式が開かれたが、そこではヒトラーの側に臨席するユニティの姿が観客の目を捉えたらしい。ユニティは社交界を楽しむばかりか、自分がナチス擁護のイギリス人であることを宣伝したそうだ。彼女は愛読する極右週刊誌の『デア・シュチュルマー(Der Stürmer)』に投稿し、ユダヤ人の脅威やその実態について書いた。すると、これが発行者のユリウス・シュトライヒャー(Julius Streicher)の目に止まり、このフランケン管区長は彼女をいたく気に入ったようで、ヘッセルベルクの夏至祭「フランケンの聖なる山」に招待したそうだ。二人は反ユダヤ主義で盛り上がり、ユニティはシュトライヒャー宅に泊まることもあったという。

  一方、英国でダイアナとユニティの安否を気遣うリーズデイル夫妻は、1935年、自分たちの目で娘たちの様子を確かめるべく、遠路遙々ドイツにやって来た。現地でナチスに夢中のユニティを見ると、リーズデイル夫妻は絶望感に囚われるが、そのショックも直ぐに消え失せるようになる。ヒトラーはユニティの両親をミュンヘンの私邸に招き、そこでお茶を勧めながら、英国のパブリック・スクールや法律体系、イギリス兵の勇敢さなどを褒め称えたという。さすがヒトラーは人心掌握術に長けている。英国人の自尊心をくすぐられた夫妻は、すっかりヒトラーの虜(とりこ)となり、ドイツへの固定観念が溶けてしまった。この偏屈夫婦は菜食主義者の仲間を見つけたことで気をよくし、とりわけリーズデイル夫人は自己流の調理法、例えばライ麦の挽き方とかパンの焼き方などをヒトラーに説明したというのだ。(ヒトラーは健康志向の人物だった。) これに対しヒトラーは真剣に耳を傾け、大きな関心を抱いたように見せかけた。すると、普段はクールで近寄りがたいシドニー夫人も、ヒトラーに対しては好印象を持ったようで、「感じがよく、躾もよく行き届いている」と評し、総統の熱心な信奉者になってしまった。そして、一旦抱いた考えを決して変えない頑固な夫人は、生涯にわたってヒトラーの信奉者であり続けたという。

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(左: リーズデイル卿  / 中央: シドニー夫人 /  右: ヒトラー)

  ユダヤ人からボロクソに貶されるヒトラーであるが、意外と人当たりが良く、知的な会話もできたから、直接会った者は結構その人柄に好感をもったそうだ。もっとも、この天才的指導者にとっては一般人など赤児(あかご)も同然。世界政治を動かす総統は、心理戦もよく心得ている。ヒトラーはリーズデイル夫妻の為にメネセデス・ベンツを用意させたし、ニュルンベルクの党大会では彼らの為に貴賓席が設けられていた。ユニティの手紙によれば、リーズデイル卿は親衛隊の将校に囲まれて上機嫌だったという。故郷に帰ったリーズデイル卿は、それまでのドイツ嫌いを一変させ、貴族院で演説を行った時には、ヒトラーが平和を愛する心情を持っていると語ったり、ヒトラーは失業対策に成功し、第三帝國の社会制度は進んでいる、といった報告を行っていたそうだ。戦前の日本政府も対米戦争が嫌なら、有名なアメリカ人をたらし込んで親日家にさせ、議会工作でもさせればよかったのに、とつい考えてしまう。パーティーくらいしか取り柄のない外務官僚は、知り合いの議員や外交官にお願いするくらいで、親日派を増やすために美しいアメリカ人を各地に派遣するとか、各地の名士を手込めにして輿論操作を試みる発想すら無かった。大衆社会の米国で、オッサンの外交官が記者会見を開いたって、誰も興味を示さないだろう。マスコミの関心を集めるは、単純明快な主張と美人の笑顔だ。ユニティ級の美女を日本の代弁者に仕立てた方が、よっぽど効果があるんだけど、悲しいかな、試験秀才には思いつかなかった。

  話を戻す。1935年の末になると、ユニティはナチ党に受け容れられ、ヒトラーから直接、特別な党徽章をもらったという。その裏面にはヒトラーの名前を彫ったモノグラムがあった。そして、総統はこの女性同志に個人的な献辞を添えたポートレイトを、銀の額縁に嵌めてプレゼントしたそうだ。ユニティにとって、それは貴重な宝物となった。しかし、こうした厚遇には別の意図が隠されていたのだ。というのも、英独間を頻繁に行き来するユニティは、ヒトラーにとって非常に有力な手駒となっており、ナチ政権の非公式スポークマンにもなっていたからだ。また、狡猾な総統はユニティを通して、意図的な秘密漏洩者をイギリスの上流階級や影響力のある社会階層に潜入させたのである。さらに、ユニティをごく内輪のサークルに入れることで、ヒトラーは彼女を「ナチ・ドイツの事情通」に仕立て上げる事ができたのだ。彼女がヒトラーについて英国で喋れば、「何らかの裏情報なのでは ?」と勘ぐったイギリス人は、その話に聞き耳を立てる。こうなればヒトラーはユニティを媒介にして、自分にとって都合の良い情報を敵国に流すことができるのだ。

極秘の結婚式

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(左: 若い頃のダイアナ  / 中央: モズレー夫人となっている晩年のダイアナ/  右: オズワルド・モズレー卿 )

  ユニティのみならず、姉のダイアナもナチ・ドイツに関係してきた。1935年にブライアン・ギネスとの離婚が成立したダイアナは、自分の姦通が原因なのに、紳士の体面を保ちたい夫のお陰で巨額の慰謝料をもらうことができた。大金を手にしたダイアナは、ミュンヘンに華麗な邸宅を構え、あまり熱心ではなかったが、大学でドイツ語のコースに通っていたのである。そんな日々を過ごしているダイアナに吉報がもたらされた。1939年、オズワルド・モズレー夫人のシンシアが息を引き取ったというのだ。ダイアナとモズレー卿は長いこと愛人関係にあったが、モズレー夫妻の結婚式は依然として世間の記憶に残っていたので、二人はその状態をあえて合法化しようとは思っていなかった。しかし、そのシンシア夫人も亡くなってしまったから、“わだかまり”も無くなってしまったのだ。そこで、ヒトラーはドイツで二人の結婚式を挙げてやることにし、英国のファシスト指導者とレディー・ダイアナの結婚式は、ゲッペルス宣伝相のサロンで執り行われる事になった。この秘密結婚式は報道陣に一切気づかれずに実行されたそうだ。ダイアナの証言によれば、ランドルフ・チャーチルが厳格に秘密を守ってくれたからであるという。(彼はダイアナの「従兄弟」に当たるウィンストン・チャーチルの息子である。ただし、二年後にモズレー本人がこの秘密を明かすことになった。)

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(左: 「ナチス式敬礼」をするダイアナトユニティ  / 中央: ダイアナ /  右: ユニティ)

  ユニティを私的な宣伝係として用いていたヒトラーは、彼女を大変厚遇していたようだ。彼女はしばしば特別列車にも同乗を許されたし、党所有の公用車を運転手附きで利用することも出来たのだ。ヒトラーは彼女の住居をミュンヘンに用意させ、高級カメラをプレゼントしたかと思えば、今度は党員バッヂを手渡したりと至れり尽くせり。ユニティが肺炎に罹ると、ヒトラーは病院の特別室を手配し、その費用を負担したばかりか、個人的な主治医であるモレル博士を派遣したという。ヒトラーと二人きりで会うことができたユニティは、もう総統にぞっこんだ。ミットフォード家の姉妹までもが、ユニティはヒトラーと結婚するのでは、と疑ったくらいである。ヒトラーの側近も、二人の親密さに驚いたという。ただし、安全面でのことではあるが。

  というのも、ユニティはヒトラーが誰と会い、どこで会議を行うのか、何を意図にしているのか、そして総統の生活全般にわたって色々な事を知っていたのである。例えば、ある時、ヒトラーは五時のお茶をハウス・デア・クンスト(藝術の家)で行う事になっていた。すると、五分前にユニティが現れたのだ。これにはヒトラーも驚いた。彼女は独自の情報源を持っていたのだろう。総統の一行がベルリンからミュンヘンに向かった時も、既にユニティはミュンヘンに着いていた。そして、ミュンヘンからウィーンへ移動した時も、またもやユニティがヒトラーよりも先に着いていたのだ。ヒトラーの副官であるゲルハルド・エンゲルも彼女に驚いていたという。ある食事の席で話されたことだが、ロンドンへの飛行機の着陸進入路は、僅か八基の高射砲部隊によって守られているに過ぎず、英国軍の装備は二個師団分にも足りないとのことだった。彼女はこれらの情報を従兄弟の一人から聞いたのだという。そこで、大いなる関心を示したヒトラーは、早速ユニティが言ったことの裏を取るよう部下に命じ、検証の結果、彼女が述べた事は正確だった。これなら、ヒトラーの側近がユニティを英国のスパイと疑ってもおかしくはない。

夢破れた乙女の自殺

  ヒトラーの寵愛を受けたユニティは、ドイツの総統から「ヴォルフ(狼)」と呼ぶことを許され、同時にこの「ヴォルフ」は親しみを込めてユニティを「ドゥ(君 / 親友が使う二人称)」と呼んだらしい。ヒトラーと打ち解けたユニティは、何度も彼女の祖国がドイツと戦争することはない、否、「するはずがないと確信しています」、と表明してきた。ところが、運命は残酷なものだった。1938年、チェンバレン、ダラディエ、ムッソリーニ、ヒトラーは「ミュンヘン協定」に署名する。ズデーテン地方を手にしたヒトラーは、その食指をポーランドへと伸ばした。1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻から二日後、英国の駐独大使ネヴィル・ヘンダーソンは、ドイツの外交官ヨアキム・フォン・リッペントロップに宣戦布告の通牒を手渡した。ダイアナ・モズレーはロンドンで第二次世界大戦の勃発を耳にする。一方、妹のユニティはミュンヘンにいて、オーバーバイエルン管区長であるアドルフ・ワーグナー邸を訪ねていた。彼女はワーグナー管区長に分厚い封筒を手渡したという。敵国人となってしまったユニティは、重要な書類を預けに来たと話し、対するワーグナーはユニティを慰めると共に、彼女の安全を約束したのである。

  ところが、その封筒には意外な物が入っていた。彼女が去ってから数時間後に封筒を開けたワーグナーは驚く。その中にヒトラーのサイン入りポートレイトと党のバッヂ、そして「遺書」が入っていたのだ。彼女はブリテンとドイツが戦争することには耐えられないので自殺する、との内容であった。ワーグナーは即座に保安部に通報するが、既に英国庭園のベンチに坐っていたユニティは、小型の拳銃で自分の右こめかみを撃っていた。ある警官が彼女を発見し、身元不明で意識不明の女性を大学病院へと運んだそうだ。医長のイェーガー博士が診察したところ、右こめかみから撃ち込まれた弾丸は後頭部に留まったままで、剔出(てきしゅつ)することは生死に係わる危険があったという。この悲報はヒトラー陰鬱にさせたが、その口から同情の言葉は無かった。

Unity Mitford 7(左  /  慎重に搬送されるユニティ)
  バイエルン州内務相はユニティを英国に搬送するため、急行列車を手配し、特別なベッドまで用意して、彼女をスイスのベルンにまで送り届けたそうだ。ベルンで容体が改善したユニティは、母親の手配により、法外な費用を掛けて英国に運ばれたという。母親の献身的な介護のお陰なのか、1940年になるとユニティは次第に歩けるようになった。しかし、彼女には記憶障害が残っており、ヒトラーのことでさえ曖昧に想い出すだけで、第二次世界大戦については一切知らなかったという。戦争末期の頃になると、リーズデイル夫人はユニティと共にインチ・ケネス島に引っ越すことにした。1945年にもなると、再び車を運転できるまでに恢復し、映画を見に行ったり、教会へと通うこともできたそうだ。しかし、彼女は後頭部に爆弾を抱えたままである。ユニティは様々な宗派に慰みを求め、至る所で入信の許可を取りつけたという。

Winston Churchill 2Stalin & Churchill 1






(左: ウィンストン・チャーチル  /  右: チャーチルとスターリン)

  ところが1948年の春、ついに運命の時間(とき)が迫ってきた。5月28日、英独同盟を夢見たユニティ・ミットフォードは自殺未遂の後遺症により、華麗だが儚い生涯を閉じた。享年34。歴史学の大学教授や世の知識人は、通俗的なヒトラーの「世界征服」に目を向けるが、チャーチルの犯した失敗や悪魔との同盟には目を背けている。確かに、チャーチルはヒトラーという「悪党」を倒したことで「英雄」になってるが、その代わり赤いローズヴェルトと共に兇悪な暴君を育ててしまった。同じ文明圏の国家社会主義者が「敵」で、異文化圏の国際共産主義者が「友」なんておかしい。日本でも人気の高いチャーチル首相は、なぜか「救国の英雄」として祀られているが、現実社会では「亡国へと導いた墓堀人」である。戦争目的を達成できなかった宰相が、偉大なる戦争指導者というのは妙だ。案外、ユニティが夢見た「英独同盟」の方が良かったのかも知れない。ただ、歴史の「イフ」を言い出したらキリが無いけど。



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