無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2018年03月

ララ・クロフトの素性はどこにあるのか? / スウェーデンにおけるジプシー

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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二番煎じのシリーズ映画

   ハリウッドは新しいネタ不足なのか、やたらとヒット作のシリーズ化やスピン・オフの制作、リメイク版での再稼働で儲けることばかり考えている。ディズニー社は映画『スター・ウォーズ』を3セットの三部作で終わらせず、アニメ化やスピン・オフ作品を展開させ、向こう百年先まで稼ぐつもりだ。マーヴェル・コミックを原作としたヒーロー映画も同じで、キャプテン・アメリカやスーパーマン、アイアンマン、ワンダーウーマン、超人ハルク、マイティー・ソーなどはバラ売りされたり、セット商品として利用され、配給会社のドル箱になっている。

  今年公開された『トゥーム・レイダー / ファーストミッション(Tomb Raider)』も、アンジェリーナ・ジョリー主演でヒットした『ララ・クロフト / トゥーム・レイダー(Lara Croft : Tomb Raider)』の改新版(reboot)である。2001年の第一作と2003年の続編はパラマウントが配給会社となっていたが、同じタイトルでも2018年度版はワーナーブラザーズへと変わっていた。そして主人公の「ララ・クロフト」役もアンジェリーナ・ジョリーから、スウェーデン出身女優のアリシア・ヴィキャンデル(Alicia Vikander)に交替している。同じシリーズでも役者が変わると、批評家と観客の賛否が分かれ、「以前の女優の方が良かった」とか、「今度の役者も中々いい」、「主役が代わっても同じだ」など、意見が様々だ。

  シリーズ物で観客の意見が割れるのは珍しくない。例えば、映画『スパイダーマン』では主役のピーター・パーカー役がトビー・マグワイアー(Tobey Maguire)からアンドリュー・ガーフィールド(Andrew Garfield)、トム・ホランド(Tom Holland)に替わっていたし、映画『バットマン』になると、一作ごとに主役が替わっていたのだ。最初は、マイケル・キートン(Michael Keaton)で、次がヴァル・キルマー(Val Kilmer)、三番目がジョージ・クルーニー(George Clooney)で、その後にクリスチャン・ベール(Christian Bale)が起用されて、やっと落ち着いたという感じである。007シリーズは今のところダニエル・クレイグ(Daniel Craig)で続行しそうだ。

  役者を変えて失敗した例も幾つかある。有名なのは『ターミネーター』シリーズだ。アーノルド・シュワルツネッガーがカルフォルニア州知事になってしまったので仕方がないが、第4作目でサム・ワーシントン(Sam Worthington)が「ターミネーター」役になったが、これといったインパクトが無く凡庸な作品となってしまった。そして、第5作目でシュワルツネッガー復帰となった訳だが、残念ながら脚本が殊のほか酷く、見るに堪えない代物だ。筆者も期待を膨らませて劇場に足を運んだが、肩すかしを食らったような気分だった。だいいち、初老のターミネーターなんて冗談みたいな設定である。蛇足だが、「ジョン・コナー」役の交替も酷かった。名作の「T-2」ではエドワード・ファーロング(Edward Furlong)が好評だったのに、続編の「T-3」ではニック・ストール(Nick Stahl)が演じることとなり、ファンは「えぇ~ぇ、何これ?」と唖然としたものだった。ニックには悪いが、美少年が数年後に劣化したという感じが否めなかった。誰か別の二代目が見つからなかったのか、と疑問に思う。

  その他にも主役を変えて駄目になった作品は多い。例えば、人気TVドラマの『24』である。このシリーズはキーファー・サザーランド(Kiefer Sutherland)が「ジャック・バウアー」を務めるから成り立つ作品なのに、スピン・オフのような『24 Legacy』では、事もあろうに黒人俳優のコリー・ホーキンズ(Corey Hawkins)を主役に抜擢してしまったのだ。制作陣は「ジャック・バウアー」の代理を黒人俳優にしてヒットするとでも思ったのだろうか? 筆者は最初から興味が無かったので観なかったが、案の定、日本でも米国でも人気沸騰とならず、シーズン1で打ち切りだ。まぁ、当然だろう。いくら凄い経歴のキャラクターに設定しようが、アフリカ系の「ジャック・バウアー」なんて、ブロンクスかデトロイトのチンピラ黒人を見ているようで不愉快だ。

  脱線したので話を戻す。再始動となった『トゥーム・レイダー』の評価は微妙だ。「スリリングなアクション映画に仕上がっていて良かった」と褒める批評家もたいが、「まるで『インディアナ・ジョーンズ』シリーズの『失われたアーク』みたいだ」と酷評する観客もいたそうだ。筆者も予告編の宣伝映像を観たとき、「あれっ、何かハリソン・フォードのインディアナ・ジョーンズをパクった映画みたいじゃないか ?」と思ったものである。映画のストーリーは、主人公のララ・クロフトが亡き父の残したプロジェクトを引き継ぐという内容だ。彼女の父リチャード・クロフトは日本近海に浮かぶ「ヤマタイ島」を探っていた。(映画の中でララが広げた地図によると、「ヤマタイ島」は四国の近くにある。だが、日本人の我々には馴染みがない、というより聞いたことがない。) このミステリアスな島には、「ヒミコ」の墓があり、その石棺の中には世界を変える不思議な魔力が秘められているという。リチャードはこの謎を追っている途中で亡くなってしまったのだ。

  リチャードの娘ララは「クロフト・ホールディングズ」ビルを訪れ、父のビジネス・パートナーであるアナ・ミラーに会う。ララは父が遺した「カラクリ(karakuri)」という仕掛け箱を渡され、ルービック・キューブのように捻っていると、偶然その箱から写真と鍵を手にすることが出来たのである。彼女は「エンデュアランス」号の船長ルー・レン(Daniel Wu)を連れ、「ヤマタイ島」を目指す。(ここでも“やはり”人種的配慮を示し、アジア系男優をセッティングして、マイノリティー観客にアピールだ。本当に、イヤらしい胡麻スリである。) 彼女を待ち構えていたのは「トリニティー」という組織と、悪党のマティアス・ヴォーゲル(Walton Goggins)であった。驚いたことに、父のリチャードは生きていた。ヴォーゲルは捕まえたララにヒミコの墓暴きを命じる。しかし、日本の女王が眠る棺の中には、財宝といった素晴らしいものではなく、人間を一瞬にして殺してしまう恐ろしいウィルスだった。このウィルスを拡散させぬために、リチャードは自らの命と共に爆薬で破壊してしまうのだ。

  ララが墓の洞窟に侵入して色々な罠や仕掛けをかいくぐるシーンは、ハリソン・フォードが演じたインディアナ・ジョーンズとソックリだ。コンピューター・グラフィックスを駆使して豪華にしているが、肝心の脚本が凡庸なので、あまり感心するようなオリジナルティーは無い。「お決まり」のスリルと派手なアクションで画面を飾っているだけ。これならアメリカ人の観客が「なぁ~んだ、この程度か !」と呆れてしまうのも無理はない。(もっとも、アメリカ人の観客はこういった単純明快なアクション映画が好きなので、もしかしたら続編も有り得る。) 映画の質はさておき、ヴィキャンデルの評価は高く、まあまあの好感度を得ている。アンジェリーナ・ジョリーほどのセクシーさを持っていないが、クラシカル・バレーをやっていただけのことはあって、均整の取れた肉体を持っていて素晴らしい。以外と「ララ・クロフト」役に合っているのかも知れない。

  でも、一つだけ気になることがある。アリシア・ヴィキャンデルはスウェーデン出身なのに、どうも北歐人に見えない。どちらかというと南米に住むヨーロッパ系女優みたいだ。筆者は最初に彼女を目にしたとき、「あれっ、ペルーかブラジル出身のヨーロッパ系モデルかな?」と思ったほどである。彼女自身が認めている通り、その皮膚はユリのように白い肌というより、ちょっと日焼けした感じの小麦色であった。映画やドラマに出演しているときは、白粉を塗って色白にしているという。彼女の両親は共にスウェーデン人である。母親のマリアは女優で、父親のスヴァンテは精神科医であるそうだ。マリアの家系にはバルト系フィン人やドイツ人がいても基本的にはスウェーデン人であったし、スヴァンテの家系も代々スウェーデン人であるという。アリシアは対談番組の中で、どうして自分の肌が小麦色なのか不思議であると語っていた。彼女は「スウェーデン人がみんな色白なんて単なる先入観だわ」と述べていたが、たぶんそれは事実だろう。

異民族の血が混じっていたスウェーデン人

  人間の遺伝子というのは複雑怪奇で、生まれてきた子供は基本的に両親の面影を宿すが、祖父母の肉体を再現する場合もある。いわゆる「隔世遺伝」というのがあるから、両親とはちょっと違った容姿を持つ赤ん坊が生まれてしまうケースが稀にあるらしい。とりわけ、米国オハイオ州で生まれた双子のケースは刮目に値する。男の子のガブリエル(Ghabriael)は青い目と金髪を持って生まれたのに、女の子のトリニティー(Trinity)はくすんだ色の肌に、黒い瞳と黒い縮れ毛を持っていた。彼らの両親は異人種カップルで、父のチャールズ・カニンガム(Charles Cunningham)は黒人。一方、母のクリスティー(Khristi Cunningham)は白人女性だ。ただし、息子のガブリエルは白人でも顔附きはアフリカ人に近く、その金髪は縮れている。ABCテレビがこの家族を取材し、報道番組で支那系局員のジュージュー・チャンが紹介していた。この番組はいかにも極左放送局が作ったという内容で、人種平等のイデオロギーに凝り固まっている。

  もっと驚くのは、1955年に南アフリカで生まれたサンドラ・ラング(Sandra Laing)のケースである。彼女の父アブラハム・ラング(Abraham Laing)と母サニー(Sannie Laing)は共に白人で、彼女の弟はややくすんだ肌ではあるが「白人」と見なされたので差別されずに済んだ。興味深いことに、サンドラの祖父母や曾祖父母も白人であったのだ。ところが、彼女だけ黒人の肉体に生まれてしまったのである。サンドラの先祖に黒人はいないとの話だったが、もしかしたらムラート(mulatto / 白人と黒人との混血児)がいたのかも知れない。アフリカ系混血児と結婚する白人は、セックスで自分の容貌が変形・変色する訳じゃないから以外と無頓着だが、妊婦から生まれてくる赤ん坊には黒人の遺伝子が優性となる可能性が高いのだ。たとえ息子や娘に浅黒い子供が生まれなくても、孫や曾孫の代に黒い子供が誕生する虞(おそれ)がある。それにしても、数世代を経て黒人の遺伝子が子孫に現れてくるんだから、肉体を形成する塩基配列とは不思議なものだ。

  アリシア・ヴィキャンデルは自分の血統について詳しくは知らない、と語っていたが、もしかしたら祖先の誰かに有色人種、もしくは非北歐系の混血児がいたのかも知れない。筆者は彼女のケースについて何も言えないが、スウェーデン国民の中にはジプシーの血が混ざっている人がいるので、数世代を経てアジア人的容貌を持つ人が現れたりする。つまり白人なんだけど、骨格とか人相、皮膚の点で北歐人らしからぬ人が居るということだ。日本人でもちょっとアフリカ人的な容貌を持つ人がいて、髪が太くて縮れていたりする。また、ある人はタイ人とかベトナム人みたいな顔附きなりで、友達からアジア系混血児と誤解されて憤慨したりすることもあるらしい。最近は、フィリピン人とかタイ人の母親を持つ幼稚園児が増えたので、従来の日本人とは違った子供が珍しくない。

  北歐人らしからぬ国民がなぜいるのか、という謎を解く鍵がスカンジナヴィアの歴史にある。実は、1512年頃にジプシーがスカンジナヴィア半島にやって来たのだ。スウェーデンの年代記『En Swensk Cröneka』によれば、大天使の聖ミカエルを祝う9月29日にエジプトの方から旅行者の一団が上陸し、彼らはアントニウス伯爵に伴う取り巻き連中であった。古文書の中では、「放浪者(zigeunae)」とか「タタール(tattare)」と呼ばれているが、要するにジプシーのことだ。人権屋が「ロマ」と呼ぶ浮浪者どもは、オリエントからやって来た野蛮人のように見えたから、誤って「タタール」と呼ばれてしまったのだろう。ジプシーの民族的起源は定かではないが、ある学説によるとインドから各地に散らばった流浪民らしい。現在、ジプシーはフランスとかブリテンにも住んでいるけど、元々はバルカン半島やアナトリア地方をうろついていた人々である。随行者としてスウェーデンにやって来たジプシーだが、現地人からは歓迎されなかったようで、1637年7月28日の勅令で、「タタール」の追放が決まったそうだ。そして、1914年から1954年の間、ジプシーのスウェーデン入国は禁止されていたのである。

  ナチス・ドイツによる対ジプシー政策は悪名高いが、スウェーデンにも人種や民族に関する暗い過去がある。日本ではほとんど知られていないのだが、スウェーデン政府はジプシー達の個人情報を“こっそり”集め、違法なデータベースを作っていたのだ。この機密ファイルは2013年、スウェーデンの報道機関にリークされ、一般国民に知られるようになった。人種を基本にした最大のジプシー登録ファイルには、4029名の個人情報が記載され、そのうちの842名が10代の少年達で、52名が赤ん坊であったという。(Mattias Gardnell, "Sweden's dirty little secret", Open Democracy, 9 October 2013) 発覚当初、スウェーデンの警察当局はファイルの存在を否定したが、このデータベースの作成は通常行われる情報収集の一環であると、仄めかしたそうだ。まぁ、手癖の悪いジプシーによる犯罪は結構多いから、警察としては防犯対策と犯罪捜査を兼ねた極秘資料であったのだろう。

  ジプシーの入国が禁止されていた1920年代に、政府当局は残存していたジプシー達をどう扱うべきか頭を悩ませていたらしく、治安担当者はジプシーとスウェーデン人を統合することは無理と考え、彼らを「解決不可能な問題」と見なしていたそうだ。それゆえ、この問題を解決できるのはただ一つ、彼らをスウェーデンから追い出すことであった。政府当局者はジプシーの国内移住に制限を設け、勝手気ままに放浪できぬようにすることで、彼らがスウェーデンを“自主的”に去るよう仕向けたのである。ジプシーは自由を奪われることが嫌いで、好きな時に好きな事をする性分だから、スウェーデンが「居心地の悪い土地」になれば、自然と居なくなるという訳だ。

  それでも、国を去らずに居坐る者がいたので、スウェーデン政府は個別にジプシーを尋問し、一人一人に「Zナンバー」を割り振り、彼らの性格を詳しくファイルに書き留めたのである。例えば、Aというジプシーは「狡賢い」とか、「怠惰である」、「暴力的だ」などと記載したそうだ。ところが、このプロファイリングは単なる人別帳に留まらなかったから問題になった。というのも、当時は「優生学」が全盛期の時代だ。歐米諸国では何処でも健全な社会を目指していたから、少しでも社会の負担となる犯罪者や精神異常者、福祉依存者、厄介者を減らそうとしていた。その一環として「断種」という手段もあったのだ。学会では悪質な性格は遺伝すると考えられていたので、その「悪循環」を断ち切るためにも、あるタイプの女性たちに不妊手術を施していたのである。

  スウェーデン政府はジプシーを劣等民族と見なしていたので、彼らの悪質な特性が広まらぬよう、つまり彼らがスウェーデン社会で繁殖しないよう、ジプシー女性を掻き集め、「断種」に同意するよう強制したのだ。もし、彼女達が拒否すれば、その子供を取り上げて引き離すぞ、と脅したらしい。「Zファイル」に登録された賤民は、「国民」に属さなかったから、当然、スウェーデン国民の権利も無かった。1960年代半ばまで、ジプシーたちは完全な公民権を持たず、投票権も無かったらしい。参政権というのは正式な国家の成員に対して付与される特権だから、浮浪者のジプシーに渡すなど狂気の沙汰だ。現在では各方面から糾弾されているが、スウェーデン政府の方針は間違っていないと思う。

  しかし、人権団体や左翼活動家にとっては許しがたい暴挙だ。とりわけ、この「Z登録書」が非難されるのは、ナチスによるユダヤ人認定と似ていたからだろう。少なくとも1996年まで、「Zファイル」に登録されたジプシーは、血統的に「完全」「半分」「4分の1」と分類されていたそうだ。さらに、この登録書にはジプシーの評価も記されていたそうで、「単純な性格だが、まあまあ良い」とか「陽気だが、大した知能は無い」、「暗愚である」「知恵遅れ」といった観察結果が附け加えられていたという。でも、こうした人物評定は如何にも北歐のヨーロッパ人らしく、厳格なゲルマン人の精神科医とか文化人類学者、ないしは動物学者の鑑定を偲ばせる。歴史に無知なアメリカ人だと、正義漢ぶって高飛車に非難するが、第二次大戦前はアメリカ人も似たようなもので、優生学がアカデミック界で流行っており、断種強制も珍しくなかった。優生学や人類学に関する米国史を述べると長くなるので割愛するが、アメリカ人はドイツ人を糾弾できるほど清廉ではなかった。人種差別に関しては似たり寄ったりである。

ジプシーの母を持っていた喜劇王

  同種族が多数派の日本だと、「ジプシー」と聞いても、いまいちピンとこない。せいぜい、音楽や映画で耳にする程度なんじゃないか。例えば、日本の人気ロック・バンド「アンセム」が奏でる名曲「Gypsy Ways」とか、英国の「ディープ・パープル(Deep Purple)」でお馴染みの曲「The Gypsy」とかである。筆者はジプシーに関して二つ挙げたい。一つは子供の頃に観たアラン・ドロンの映画『ル・ジタン(Le Gitan)』である。日本ではあまり話題とならなかったが、ドロンがジプシーの血を引く犯罪者を演じており、世間から蔑まれる「よそ者」が妙に似合っていたのを覚えている。たぶん、ドロンにも人に隠しておきたい過去があったから、警察に追われる犯罪者で流浪民の「ジタン」を上手く演じることが出来たのだろう。単なる子供に過ぎなかった筆者だが、アラン・ドロンの哀愁を帯びた表情が印象的で、今でも記憶に残っている。

  もう一つは、チャーリー・チャップリンがジプシー系英国人であったことだ。喜劇王チャップリンは、その類い希なる才能ゆえに、「もしかしたらユダヤ人じゃないのか?」と囁かれていた。チャップリン本人は「ユダヤ人」という噂を否定していたので、筆者も「たぶん違うんじゃないか」と思っていた。そうしたところ、2010年頃になって、ようやくチャップリンの親戚が認(したた)めた手紙が表に出て来て、彼の母親がジプシー藝人であることが判ったのである。("The secret letter that claimed Charlie Chaplin was the son of a gypsy queen", Daily Mail, 21 February 2011) チャーリーの母ハンナ・チャップリン(旧姓 / Hannah Hill)は旅藝人の役者で、「リリー・ハーレー(Lily Harley)」という藝名で通っていた。ところが、息子が3歳の時に夫のチャールズと別れてしまったという。チャーリーは大人になっても母親をいたく慕っており、その優しさを忘れられなかったのか、愛する女性にも亡き母の面影を求めていたらしい。ただし、母親の素性に関しては固く口を閉ざしていたから、ジプシーの血筋だけは絶対に明かしたくなかったのだろう。「サー(Sir)」の称号をもらった名優が、ジプシーの倅(せがれ)だなんて、恥ずかしくて人に言えないじゃないか。(これは筆者の勝手な推測だが、チャップリンが左翼思想のを持っていたのは、人間を家系や種族で差別する西歐人が赦せなかったからだろう。

  ちなみに、チャップリンの母親は三人の子宝に恵まれたけど、その人生は悲惨なものだった。二番目の夫チャールズに出逢う前、彼女はシドニー・ホーク(Sydney Hawke)という男に惚れてしまい、一攫千金を夢見る夫に従って南アフリカにまで移住したのだが、その地で亭主から売春を強要されてしまったのだ。恐らく、この商売が原因で、彼女は梅毒に罹ったのだろう。ハンナはこの“碌でなし”との間にシドニーという長男を出産し、二番目の夫であるチャールズとの間に次男のチャーリーをもうけている。ところが、間もなくチャールズとも離婚。この再婚相手と別れた後、ハンナはレオ・ドライデン(Leo Dryden)という役者と恋に落ち、彼との間に三男のウィーラー・ドライデンを産んだという。しかし、梅毒のせいで精神に異常をきたし、衰弱したハンナはやがて息を引き取る。後に、恋多きコメディアン、我らがチャーリー・チャップリンが女性と寝るとき、矢鱈と神経質で性病に感染するのを極度に恐れたのは、母親の病気が深く心に刻み込まれていたからだろう。それにしても、有名な喜劇王がベッドに入る前、股間に沃素(ようそ)を塗るなんて、ちょっと哀しくて笑う気になれない。

  人間の種類を区別する際に、どれが良くてどれが悪いと決める基準は無い。アフリカの部落では黒人が普通で、たまにアルビノ(突然変異で肌が白い子供)が生まれたりするけど、大半はアフリカ人の容姿を素晴らしいと思っている。この大陸を侵略するヨーロッパ人なんか白い悪魔に過ぎない。一方、ゲルマン種族が住む北歐では白い肌の人間が普通で、アフリカ人と違った容姿の者が美しいと評されている。北歐人は黒い縮れ毛よりも、ゆるやかに波打つ栗色の毛や直毛の金髪を尊ぶ。鼻の形もユダヤ人のような鉤鼻とか、アフリカ人のような獅子鼻を嫌い、鼻孔が狭く筋の通った細い鼻を良しとする。日本のテレビや雑誌は理想的なアーリア人を採用するが、白人の中にも様々なタイプがいるから、全員が美男美女という訳ではない。各民族はそれぞれ独特の美意識を持っているので、「ミス・ユニバース」や「ミス・インターナショナル」みたいに世界基準を設けようとするのが、そもそもの間違いの素である。

  スウェーデンの世論は「Zファイル」を糾弾するが、ジプシーに関する議論が白熱することを望まない人々が居ることも確かだ。なぜなら、スウェーデンにはジプシーの血統であることを恥じる人々がいるので、自分の祖先を他人に知られたら一大事。就職や結婚、住宅購入の際にどんなトラブルが起きるか分からない。もし、「Zファイル」の情報が世間の注目を浴びれば、隠していた個人の秘密が“ひょんな事”でバレる恐れもある。人権屋とか大学教授は「民族差別はけしからん !」と大騒ぎするが、一般人は綺麗事で暮らしていないから、やはり穢らわしい血筋を隠そうとするし、理屈はどうあれ内緒にしようとするのは人情だ。日本でも朝鮮人の家系を恥じる在日鮮人や帰化鮮人がいて、1980年代くらいまでは必死に隠そうとする人が多かった。現在では朝鮮人の出自を明らかにする人が増えたけど、できれば闇に葬りたいと願う人もいるはずだ。

  最近の日本では多民族共生とか国際化時代と叫んで、大いにアジア人やアフリカ人との結婚を祝福しているが、本当に問題が無いのか日本人はよく考えるべきだ。例えば、黒人と結婚する日本人女性も増えたが、彼女達は子供や孫の感情を考えたことがあるのか? 確かに、アフリカ人留学生とか米軍の黒人兵と恋に落ち、結婚をして妊娠するけど、生まれてくる赤ん坊は母親と違った人種になるし、通常は黒人の遺伝子が優性となる。また、もしも、実家の両親が生まれたての初孫を見れば、「えっ、この子が?!」と驚きの表情となるだろう。自分の娘が産んだ子供とは思えないから、かなりのショックを受けるはずだ。祖父母としては動揺を隠せない。なぜなら、たとえ自分達が納得したとしても、隣人や友人、後輩、同僚といった第三者がどう思うのか不安だからだ。表面上、笑顔で孫を受け容れてくれたとしても、他人が心の奥底でどう受け止めるのか判らない。詮索好きな近所のオバちゃんたちは、ファミレスか病院の待合室に集まり、あれこれ陰口を叩くから、やはり世間の目が気になる。

  悲劇はまだ続く。こうした混血児が物心をつく年齢になれば、周りの子供と自分が肉体的に違う、と厭でも気付くだろう。その時、日本人の姿をした母親は、どのように子供と向き合うのか? もし、幼稚園や小学校で馬鹿にされた息子が、「ママ、どうしてボクだけみんなと違うの?」とか、お洒落に目覚めた娘が「私、パパみたいな顔じゃイヤだ。ママみたいになりたい !」と泣き出したら、出産した責任のある母親は何と答えるのか? 「そんなの気にするんじゃない !」とか、「差別する友達の方が悪いのよ !」と言い聞かせても無駄である。たとえ幼くても子供は現実を解っている。恋愛時代には気付かなかった重大事項を、育児になって気付く日本人女性は少なくない。日本人は自分がしっかりすれば、困難を克服できると信じる傾向がある。だが、遺伝子だけは自分の努力ではどうにもならない。自分の容姿に劣等感を持つ娘が、その腹癒せに学校でグレ出したら、母親は通常通りに叱る事ができるのか? もし母親から怒られた娘が、「じゃあ、日本人の体にしてちょうだい !」と反撃したら、普通の日本人女性は言葉を失ってしまうだろう。

  一般の日本人は我が子を可愛がり、その子の将来を考えて一生懸命に働く。しかし、黒人と結婚した場合の悲劇は考えない。浅黒く生まれた息子や娘から責められるのは辛いものである。が、その孫からも責められればもっと辛いだろう。もし、アフリカ人の形質を受け継いだ孫から「お婆ちゃんが黒いお爺ちゃんと結婚したからだ !」と責められたとき、日本人の祖母はどう答えるのか? 「あたしゃ知らないよ !」と逃げる手もあるだろう。だが、大抵の祖母は「済まないねぇ。赦しておくれ」としか言えないんじゃないか。優生学を学校で習わなかった日本人は、結婚するとき「子孫への配慮」など考えない。相手がどんな素性・容姿であれ、惚れたから夫婦(めおと)になる、というのが一般人の行動パターンだ。教科書では「人種平等」とか「人類兄弟」、「多民族共生」と書いてあるから、多数派の国民はそれを鵜呑みにしてしまうが、現実社会は違うぞ。他人事なら仙人ヅラできるけど、自分の事となれば大変だ。

  最近のテレビ局は、異常なほど外国人をバラエティー番組に招いて喋らせたり、日本に暮らすアジア人やアフリカ人を取材し、無防備な視聴者をターゲットにして東南アジア人や北アフリカ人、南米人などに親しみを持つよう刷り込んでいる。つまり、「今や、様々な外国人があなたのご近所に住んでいるんですよ」と言いたい訳だ。伝統的な日本社会をぶっ壊したい左翼制作者は、内部から徐々に、しかも着実に破壊しようと企む。同質的な素晴らしい共同体を崩壊させるには、日本人の質を変えてしまうことが最も合理的である。手間暇掛けて日系人に反日思想を植え付けるより、最初から“日本人ではない”外国人の子供を増やす方がたやすい。ある個人の肉体に、アジア人やアフリカ人の遺伝子が50%含まれ、次の世代で75%に上昇し、三世代目で87%くらいまで増加したら、もう自分が日系日本人であるとの意識は無くなるだろう。こうした「日本国民」は単なる「島民」に過ぎない。やがて日本は「よそ者」が群がる雑居ビルとなるから、国民同士の連帯は消え失せ、天皇陛下も江戸城に住む「知らない外人」となってしまうだろう。

  アリシア・ヴィキャンデルの話からだいぶ逸れてしまったけど、我々は今「静かな」変質の時代に生きているというこだ。

 

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昔と変わらない朝鮮人気質

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併合前からダメな朝鮮人

Korea 1950sKorea 1960s







(左: 1950年代の朝鮮人   /    右: 1960年代の朝鮮人)

  世界中どこでも、隣国同士は仲が悪いというが、日本の場合はとりわけ悪すぎる。「なんでよりにもよって、朝鮮と近所なのか」と神様を恨みたい。最近は特に問題が山積みだ。北鮮の核開発を阻止すべく、日本は米国協調して何とか金正恩を説き伏せようとしているが、北の独裁者は一歩も譲らず、核保有国への道を邁進するだろう。日本政府は「北鮮が核武装したらどうしよう」と右往左往しているが、肝心な米国は北鮮の核放棄をどれだけ真剣に考えているのか、いまいち分からない。もしかしたら、何らかの裏取引で核開発を容認し、東アジアに軍事的緊張状態を“あえて”作らせるかも知れないのだ。というのも、“適度な”緊張は軍産複合体にとって「吉報」になるので、軍需特需で経済を活性化させようとするホワイトハウスにとっても「吉兆」となる。どうせ、北鮮の核配備なんか大したことはない。米国は支那の核武装だって許してきたし、そもそも毛沢東を支援したのは米国じゃないか。それに、ペンタゴンは対支那攻撃に関しても「奥の手」を持っているはずだ。北京の皇帝もそれを恐れているから、本気で刃向かわないし、やることは「脅し」と「ハッタリ」に留めている。

  巷の軍事評論家や御用学者は、訳知り顔で米軍の戦略を語っているが、本当のところは分からない。一方、日本政府は合衆国大統領に向かって、「親分、ていへんだ、ていへんだ !」と騒ぎまくるだけ。トランプはもったいぶった物言いで、日本からの最大の利益を出そうと謀っている。余裕しゃきしゃきの米国は、「イザ」となったら全軍を挙げて北鮮を叩き潰す。ニューヨークで悪党相手に商売をしてきたトランプだから、支那人相手に怯まないし、強大な武力を“ちらつかせて”交渉することには慣れている。だいいち、北鮮が米国を攻撃しようとすれば、その前に金王朝と北鮮人は即刻皆殺し。たとえ、核ミサイルを発射しようとしても、事前に察知されて先制攻撃を受けるのがオチだ。悪い奴は残酷だけど、馬鹿じゃない。自分の命が一番大事と思っている。金正日の倅(せがれ)も、そこのところは充分理解しているから、絶対アメリカ軍には手を出さない。結局、とばっちりを受けて困るのは、軍事力を行使できない日本だけだ。

  情けない日本はともかく、アメリカ人でも頭が痛くなるのが、どうしようもない南鮮大統領の文在寅だ。足は南鮮にあっても、心が北鮮にあるんだから呆れてしまう。南北統一を語るが、その主導権は北鮮が握り、後見人が支那人ときている。文が夢見ている統一朝鮮は、金王朝に飲み込まれた祖国で、憎らしいアメリカ人がいない赤い半島なんだろう。南北朝鮮は先祖返りして支那の属国になるんじゃないか。つまり、38度線が釜山にまで届くということだ。青ざめた日本政府は何とかして南鮮を繋ぎ止めようとするだろうが、我々は最悪の事態を想定し、その対応を決めておくべきだ。まず注意すべきは、統一朝鮮から逃げてくる朝鮮人は、南北を問わずに拒絶して、玄界灘に沈めること。手切れ金なら多少は払ってもいいが、難民の受け容れはは絶対にダメだ。朝鮮人というのは有害な外来生物なので、我が国の未来にとって深刻な禍根となる。仏心を出さず、心を鬼にして攻撃すべし。国連がゴチャゴチャ言うなら、日本の負担金を1ドルにまで下げてやれ。困るのは国連で飯を食っている連中だ。また、綺麗事を言う歐米人がいたら、「お前らが自国に引き取って面倒を見ればいいじゃないか !」と言ってやればいい。朝鮮人を迎え入れるのを厭がるのは、歐米人も同じだから、大半は口ごもってしまうだろう。「人権」という言葉は百害あって一利無し。便所に流すべき戯言(ざれごと)だ。

  毎度の事で頭が痛いが、日本人の宿痾(しゅくあ)は「過去から学ばないこと」である。日本人は時代の変化に対応するのが上手で、近代化(西欧化)もすんなりと受け容れ、軍備を整えて大国になれたから、アジア人も同じ事ができると思ってしまう。しかし、日本人は類い希なる「例外」であり、そもそもアジア人ではない。日本人はヨーロッパ人と同じポテンシャル(潜在能力)を持っていたから近代国家になれたのである。「強い」と思われていた支那人は、その蓋を開けてみれば、単なる中華思想に凝り固まった老人で、新たな環境に順応する柔軟性に欠け、何千年でも同じ生活を続けようとする民族だった。他方、朝鮮人は「豆支那人」と呼んだ方がよく、貧困と絶望を背負って生きる乞食に過ぎない。日本人からすると、「彼らには“生きる喜び”があるのか」と疑いたくなるくらい、朝鮮人は惨めな生活に甘んじていた。たぶん、今でもそうだろう。

  日本の歴史教科書では朝鮮統治は極悪非道のように描かれているが、当時の朝鮮人にとっては夢のような時代で、初めて触れる「幸せ」に満ちていた。本来なら、統治者の日本人は朝鮮人を奴隷にしてもいいくらいだ。最初から奴隷のように扱われていた庶民なんだから、日本人が奴卑として引き継いでもおかしくはない。しかし、心の優しい日本人は併合した賤民を「日本国民」に格上げし、本土から厖大な税金を注ぎ込んで、豚小屋より汚い朝鮮に投資を行い、彼らをいっちょ前の人間にしてやったのだ。朝鮮人は日本統治を「残酷だ」と罵って糾弾するが、なら、どうして在鮮日本人の邸宅に朝鮮人の家内奴隷がいなかったのか? 古代ギリシア人やローマ人はもちろんのこと、イスラム教徒だって征服した民族を奴隷にし、こき使っていたじゃないか。また、日本人はなぜアメリカ人のように、半島で奴隷牧場を創設しなかったのか? 朝鮮には簡素な奴隷販売所もなかった。日本人の軍人や官僚が、朝鮮人の男を馬みたいに品評して売買したのか? あるいは、日本の官憲が村々から朝鮮娘を拉致して、奴隷市場に出展し、「商品」にした娘たちを裸にして、競売に掛けたのか? アラブ人や歐米人なら、「どうして日本人はそうしなかったのか?」と訝(いぶか)しむだろう。

白米を食べなかった朝鮮人

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(写真  /  昔の貧しかった頃の朝鮮人)

  日本の朝鮮統治を調べてみると、朝鮮に渡った日本人が如何に「お人好し」で、朝鮮人の本質を誤解していたかが分かる。朝鮮人の暮らしや彼らの風俗を目にした師尾源蔵(もろお・げんぞう)は、現地に住む日本人と会話を交わし、朝鮮人と日本人の違いを述べていた。彼が大邱駅の近くにある旅館に泊まった時、内地人で商売をしているI氏と遭遇したそうだ。彼は太田駅から分岐する湖南線の方面からやって来た日本人であった。I氏は農場を営んでいたそうで、朝鮮人の常傭夫(じょうようふ)が、いつも粟(あわ)ばかりを食べているので、健康と慰労の意味も込めて、「ひとつ白米でも食わせてやろう」と考えたそうだ。しかし、市場と同じ価格の米を買わせるわけには行かないので、農場側の損失を覚悟の上で、仕入値の半額で分配してやったという。値段は1升当たり15銭くらいだった。この価格なら鮮人でも買えるし、白米は粟や麦よりも断然美味しいので、さぞかし彼らの家族も喜ぶだろうと、I氏は思ったそうだ。この「粋な計らい」は如何にも日本人らしい発想で、彼は温情主義を発すると共に、村の社会政策にもなるだろうと考えたそうである。(師尾源蔵 『新朝鮮風土記』 萬里閣書房、 昭和5年、 p.124)

  ところが、I氏はガッカリすることになった。なんと、美味しい白米を分配したら、却って農場への出勤率が減ってしまったのだ。彼は苛酷な扱いをする朝鮮人の地主と違って、鮮農(せんのう / 朝鮮人の農夫)を大切に扱ったので、傭い人の中で不平を漏らす者はなく、みんな気持ちよく働いていたという。現代の我々なら、「じゃあ、どうして?」と疑問に思うだろうが、それは朝鮮人の側に問題があった。驚いたことに、鮮農たちは農場事務所から市価の半額で分配された米を家族で食さず、それを貯えて町の問屋に売りさばいていたのだ。彼らは安く買った米を食わず、依然として粟を常食にし、米を売ったお金で粟を買い、その余った金額、つまり米と粟の差額を懐に入れていたのである。そして、利鞘を得た朝鮮農夫たちは、その金額分だけ仕事を怠けることができたので、農場に出勤せず、自宅でゴロゴロ寝ていたというのだ。「濡れ手で粟」のゼニを得たから、その分だけ楽をしようだなんて、何とも呆れた連中である。I氏は師尾氏に向かって、「貯金に廻すなら、まだ可愛いところがあるんですが・・・ 」と漏らしていた。(空条承太郎じゃないけど、「やれやれ」と溜息が出る。)

  鮮人たちから裏切られたI氏は、彼らに対し「今後、配給する米は転売まかりならぬ !」と厳重に戒告したそうだ。そこで、I氏は原価半額の米を配分する際、分配範囲を「1人1ヶ月3斗」と定め、これを10日目毎に渡したという。一度に希望通り渡してしまうと、また以前のような転売を繰り返してしまうので、全部まとめて与えることをしなかったそうだ。I氏は今度こそ、鮮農の家族が白米を食べ、「やはり粟よりも旨いなぁ」という感謝の言葉を聞けるぞ、と期待したそうである。ところが、またもや失望する破目になった。今度は、近隣の部落から、彼の農場へ「オレたちは鮮農の一族だ」という者が現れ、白米の分配を当て込んでやって来たのである。この押しかけてきた連中は、平気で白米を食し、口々に「白い飯はおいしい」と述べていた。

  話を聴いていた師尾氏は、「朝鮮ではそれほど白米が珍しいのですか?」と尋ねた。するとI氏は答えた。

  そうですとも。貧富の差が甚だしく、また到底内地と比較にならぬ生活程度も低いもんですから、下層社会と云うよりも私共の農村では昔から病人でない限り米は常食として居りません。北鮮地方は殊にそうでせう。しかし地方によつては米を食う所もたくさんありますが・・・・ (上掲書 p. 126)

  病気にならないとお米が食卓に上らないなんて、朝鮮は貧しすぎるせいか、白い飯がまるで高級メロンのように扱われていたのだろう。それにしても、朝鮮人の親類関係というのは誠に複雑で、その親戚範囲というのがこれまた広い。日本人の感覚だと、祖父母から孫の家族に加えて、父親の弟(叔父)とか母親の姉(伯母)、従兄弟くらいなものだろう。ところが、朝鮮人の場合、伯父・叔母・従兄弟はもちろんのこと、同一の先祖から出た者は誰でも家族なのだ。日本人は「一家」と言えば親子兄弟と考えがちだが、朝鮮人は血統を同じくする「一族」と見なす。子孫が何十代にも亙って何千、何万人に脹れようが、朝鮮人の感覚では「一族」となる。朝鮮では“不意に”親戚の者が現れて、居間で飯を食っているという光景は珍しくない。まさしく、「日常茶飯事」といったところ。少し裕福な家庭になると、毎日50人くらいの「親類」が“たかって”きて、朝夕、遠慮無しに飯を食っていたそうだ。在日朝鮮人の回顧談の中にも、ちょくちょく「親戚のオジさん」とやらが自宅に上がり込み、居候になっている話がある。日本人には奇異だけど、朝鮮人の生活では普通なんだろう。ただ、こうした居候を断れないから、朝鮮人の風習は陰湿なのだ。もし、タダ飯を撥ね付けると、「なんだ、あの野郎 !」といった悪名が立ち、社会的制裁を受ける虞(おそれ)があったらしい。

  朝鮮人の悪習はともかく、日本の統治時代は本当に黄金期だった。1990年代の北鮮でも餓死者が出ていたんだから、日本人の支配がどれほど有り難かったことか。日本人が弾圧政治を行い、朝鮮の民衆を搾取したなんてトンデモない。日本で生まれ育った在日鮮人の子供は、同胞から聞かされるヨタ話を鵜呑みにしてしまうが、一次資料を調べればホラ話だと判るだろう。日本の朝鮮統治は曠古の偉業である。奇蹟以上だ。イエズス・キリストだって水をワインに変えるくらいの奇蹟しか行っていないのに、日本人は肥溜めのような朝鮮全体をまともな国家にしたんだから、神様仏様以上の存在である。二代目引田天功の奇術だって、せいぜいトラック一台を消すくらい。それならいっそのこと、金一族を消してもらいたいものだ。でも、「所詮はイルージョン(幻覚)ですから」と言われそう。現実は厳しい。

  脱線したので話を戻す。朝鮮人の行動に呆れるI氏だったが、その彼のもとに白米配給を中止してくれるよう頼む者が、ぼつぼつ現れたそうだ。というのも、傭人(やといにん)が家で白米を食べるようになると、そのおカミさんたちは副食品、つまり「おかず」を用意せねばならないから困ってしまった、というのだ。鮮人の女房たちは毎日の洗濯だけでも大変なのに、余計な支度がまた一つ増えて不平を漏らしていたのである。ちなみに、朝鮮人の洗濯を見ていると、アライグマよりも下手くそなので、つい笑ってしまう。みすぼらしい白い朝鮮服を棒で叩いて汚れを落としているのだが、その仕草が何とも滑稽で、どことなく非効率。呆れたことに、使っている水が汚かったりする。まぁ、小便で顔を洗う民族だから、「清潔」という概念が我々と違うんだろう。朝鮮には銭湯に通ったり、温泉旅行に出掛ける風習が無かったので、いつ風呂に入ったのか分からぬ奴がゴロゴロいた。あれでは野良犬だって「臭い !」と鼻を背けるんじゃないか。ついでに言えば、現代のような歯磨きをせず、ニンニク料理を頬張る朝鮮人の口臭を想像すると、心臓が萎縮するくらいゾッとする。

Korean women laundry 2













(写真  /  洗濯をする朝鮮人)

  とにかく、朝鮮人労働者を相手にしてきたI氏の感想は傾聴に値する。朝鮮人には勤勉、倹約、貯蓄といった概念が無く、「行き当たりばったりに暮らす」という考えが浸透していたそうだ。本当に暢気(のんき)な連中で、働かずに済むなら飯を二三日食わずに、腹が減らぬよう寝て暮らそうと考えるらしい。ところが、いよいよ困ってくると、少しだけ働き出す。働かないことが朝鮮人の自慢なので、I氏は彼らに愛想を尽かしていた。彼は「働き甲斐の無い悪政の祟りは恐ろしいものですなぁ」と述べていたが、悪政が朝鮮や支那の「通常」とは気付いていなかったようだ。日本では「名君」とか「善政」がたくさんあったので、「暗君」や「秕政(ひせい)」が出現すると庶民は歎き、武士や知識人はこれを批判した。つまり、我が国では「悪政」は忌むべき異常事態で、「善政」が普通なのだ。日本は支那や朝鮮とは対蹠的というか、異次元の世界に存在すると言っていい。

  そもそも、朝鮮に上杉鷹山とか保科正之みたいな名君がいたのか? 日本の悪代官だって、朝鮮に渡れば仏様に近い。だいたい、殿様自らが倹約に努め、藩の財政を立て直そうなんて、支那や朝鮮ではあり得ないし、これからもないだろう。現在の朝鮮人は加藤清正とか島津義弘、小西行長なとの武将を憎んでいるが、もし、彼らが朝鮮の支配者になったら、どれほど朝鮮の庶民は喜んだことか。日本の戦国武将は頭脳明晰で行政能力に長け、そのうえ義理人情に厚く、正義感も強いときてるから、残虐な支配者しか知らぬ朝鮮人にとっては天使よりも眩しい存在だ。朝鮮の国王なんて徴税における搾取と、政敵の抹殺くらいが得意なだけで、あとはスケベなことをするか、飯を食ってオナラをするだけ。民衆の生活を良くしようだなんて一切思わない。そのくせ、支那人の書物を真似て、倫理道徳を紙に記す。でも、空理空論の域を出ないから、役立たずの漬け物石みたいだ。海外渡航が出来るようになった明治の頃、初めて“生(ナマ)”の朝鮮を目にした日本人が唖然としたのも当然である。

  結局のところ、日本人は朝鮮人を分かっていないのだ。所謂「慰安婦問題」を巡り、日本政府は韓国政府と「日韓合意」を結んだが、南鮮側は事ある毎にこれを破り、日本人への憎しみを露わにする。おそらく、日本人が何億円渡そうが朝鮮人は納得しないだろう。そもそも、朝鮮人に国際条約を守るという常識は無い。もし、朝鮮人の怒りを宥めるなら、日本政府が天皇陛下を生け贄にして、朝鮮人に引き渡すことだ。安倍総理が宮澤喜一のような売国奴になれば、朝鮮人も“ちょっと”は気が晴れるんじゃないか。しかし、一般の日本国民はこれを絶対に許さない。単なる親善外交であっても、天皇陛下や皇太子殿下を“利用”することは、日本の倫理・常識・憲政・國體に反する。百年経っても陛下のご訪鮮は厳禁だ。日本の国会議員には陛下を「道具」と考えている連中が非常に多く、明治の日本人なら持っていた「尊皇精神」が全く無い。これは、彼らが大学で「主権在民」といった馬鹿げた思想を習っているからだ。国民が絶対神の如き「主権者(sovereign)」となれば、その下に位置する天皇陛下は「主権者の従属者」となってしまう。普通の日本人はこんな畏れ多い発想には同意しないが、大学でクルクルパーにされた議員はその異常性に気付いていないのだ。

  それに、税金で生活する日本の政治家は、朝鮮人が「日帝支配」によって苦しんだ可哀想な民族と思っているから、賠償金をたんまり与えて何とかしてやろうと考える。他人のゼニをくれてやるんだから、彼らは実に気前がいい。朝鮮人に対処するときは、「思いやり」よりも「重い棍棒」を持つべきだ。日本国民は朝鮮の歴史について興味が無いから、朝鮮人の本質が解らず、何回でも裏切られ、簡単に騙されてしまうのだろう。議員に適切な知識を求めるのは非現実的なので、まずは一般国民が良識と知識を持つことが肝要となる。帰化鮮人や朝鮮系国民は、祖先の恥ずかしい過去を隠蔽しようとするが、日系日本人は遠慮無く彼らの過去を暴くべきだ。敗戦後、日本人が在日朝鮮人に対し卑屈だったのは、反論するための知識に欠けていたからである。反日鮮人にとって恐ろしいのは、日本人が本当の歴史を知ることなのだ。当ブログが「ヘイト・スピーチ・サイト」と見なされるのは、朝鮮人について不利な情報を与えるからである。したがって、高校生の良い子は図書館に通って、朝鮮史をもっと詳しく調べてね。




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