黒木 頼景
成甲書房
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何匹目のドジョウを狙っていたのか?
先月末、「スター・ウォー」シリーズから“また”スピン・オフ作品が公開された。今回は、ミレニアム・ファルコン号を操縦する英雄ハン・ソロが主役。彼の運命を変えるレイア姫とルーク・スカイウォーカーに逢う前の、若き時代を扱っているそうだ。しかし、制作者の期待とは裏腹に、その興行成績は無惨なものだった。全米公開第二週で大幅に下落してしまい、たった2千500万ドルから3千500万ドル程度の稼ぎであったという。好成績が予想された英国でも振るわず、興行収入はせいぜい800万ドルくらい。(Stefan Kyriazis, "Star Wars Han Solo movie Global box office DISASTER on second weekend Why? ", Daily Express, June 3, 2018) 同シリーズのスピン・オフ作品『ローグ・ワン』でさえ、第二週までの間に6千800万ドルを稼ぎ出していたんだから、どれくらい酷いか判るだろう。(「スターメウォーズ」に関しては、当ブログのPart 1 とPart 2を参照。)
でも、この失態は予め予想できたんじゃないか。まず、配役の顔ぶれを見ただけでも落胆するから、予告編じたいに魅力が無い。「スター・ウォーズ」を愛する西歐系アメリカ人からすれば、「まぁ~た、人種的多様性(racisl diversity)を反映した作品かよぉ~」とウンザリする。ハリソン・フォードがユダヤ系アメリカ人だから仕方ないが、若きハン・ソロを演じるオールデン・エアレンライク(Alden Ehrenreich)もユダヤ人俳優だ。彼はスティーヴン・スピルバーグに見出されて有名になったという。期待の新人をシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で見つけるんだから、ユダヤ人の同胞愛は信仰の枠を越えているんだねぇ。主役の男優をユダヤ人にすると、相手役の女優は美形の西歐人とするのがハリウッドの法則だ。オールデンの相方となったのは、大ヒットTVドラマ『ゲーム・オブ・スローン』で注目されたエミリア・クラーク(Emilia Clarke)。彼女が演じるのは、かつての同志で、ソロの元恋人キラ(Qi'ra)という役柄である。“クセ”のある役だけど、まぁ面白くするためだからしょうがない。それにしても、エミリアは不運だ。ヒット作になるはずだった『ターミネーター: ジェネシス』に抜擢されたが、蓋を開けてみれば散々な結果で、新作を準備するジェイムズ・キャメロン監督によれば、完全に無視する悪夢なんだって。今回の『ソロ』でも“またもや”貧乏くじを引いてしまった。ちょっと可哀想。
この新作にはソロと親しいお馴染みの密輸人「ランド」が登場し、以前はビリー・ディー・ウィリアムズ(Billy Dee Williams)が演じていたが、今回はドナルド・グローヴァー(Donald Glover)が若き日のランドを演じている。黒人役者と並ぶ白人の脇役ときたら、あまり大した俳優をつけない、というのがスター・ウォーズの特徴だ。ソロの師匠として登場するトビアス・ベケット役には、見るからにアホ丸出しの白人男優、ウディー・ハレルソン(Woody Harrelson)が採用された。彼は時々映画で奇人変人の役をこなすけど、私生活でも似たような側面を持っている。まず、彼の家族が常識外れだ。信じられないけど、彼の父親チャールズはプロの殺し屋。嘘と思うだろうがホントの話。ウディーの父親はジョン・H・ウッド(John H. Wood, Jr.)判事を殺した廉で逮捕され、法廷で終身刑の判決を受けた。すごぉ~い。まるで、クライム・サスペンスの序盤みたいだ。
しかし、カエルの子はカエルなのか、ウディーも警察沙汰が絶えなかった。母子家庭ながらも、ちゃんと大学に通って卒業し、念願の俳優にもなれたのに、1982年、路上で騒ぎながら踊っていたところを通報され、駆けつけた警官に抵抗したので逮捕されたそうだ。さらに2002年、ロンドンを訪れた時、タクシーの運転手と揉めて警察の厄介になり、罰金刑を喰らってしまった。でも、こういう類いのバカは懲りない。2006年、パパラッチにしつこく追いかけられ、ナイトクラブでカメラマンを殴ってしまい、これまた罰金刑を受ける破目に。ハリウッド・スターだから仕方ないけど、ウディーもリベラル左翼で、マリファナの合法化を推進する一人である。自分でも大麻を栽培するほどの不届き者で、常識というものが無い。こんな頭の持ち主だから、尊敬する人物も普通ではなかった。ウディーが影響を受けた知識人とは、何と、日本でも有名なユダヤ人左翼の歴史家で、2010年に亡くなったハワード・ジン(Howard Zinn)であるという。
ジンは公民権運動で活躍し、ベトナム反戦でも知られている札付きのアカであるけど、「ペンタゴン・ペーパー」の件は忘れ去られている。「ランド・コーポレーション(RAND Corporation)」の軍事アナリストであったダニエル・エルズバーグ(Daniel Ellsberg)は、密かに「ペンタゴン・ペーパー」のコピーをハワード・ジンとその妻ロズリンに渡していた。ちなみに、エルズバーグもユダヤ人学者。「類は群れる」のか、ジンの仲間には極左知識人が多く、反戦を掲げるユダヤ人活動家、ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)もその内の一人であった。チョムスキーは元々言語学者で文法の研究では優れていたが、次第に政治問題へと関心を寄せるようになり、振り返ってみると、左翼活動家としての経歴の方が長い。チョムスキーは理想主義を掲げるユダヤ人によく見受けられるタイプで、イスラエルの対パレスチナ政策にも批判的で、米国内のシオニスト系ユダヤ人と反目しているそうだ。まったく、ユダヤ人というのは他人の国で「いざこざ」を起こし、現地人をも巻き込んで事態を悪化させる常習犯である。こうした異民族は反省しないから、強制手段を用いて排除すべきだ。
随分と脱線したので話を戻す。ジョージ・ルーカスが当初描いていた「スター・ウォーズ」は、宇宙を舞台にしたスペース・ファンタジーであった。しかし、ユダヤ人が支配するディズニー社に売却されると、「多民族主義」と「社会正義」を推進するプロパガンダ映画になってしまった。例えば、映画でトビアス・ベケットの妻を演じるのは、イングランドの白人とジンバブエ黒人の混血女優、タンディ・ニュートン(Thandie Newton)だ。彼女は日本でも知られており、映画『ミッション・インポシブル 2』とTVドラマ・シリーズ『ER』に出演していた女優である。彼女は黒光りしたコテコテのアフリカ人ではなく、ハル・ベリーみたいなライト・スキンの黒人だから、何となく使いやすい。
失敗作の元兇となったユダヤ人制作者
日本人はスクリーンに映し出される役者ばかりに目を奪われるが、「スター・ウォーズ」をメチャクチャにした制作陣、すなわち裏方の元兇にこそ目を向けるべきである。そこで、A級戦犯の筆頭になるのは、ルーカス・フィルムの社長を務めるキャサリン・ケネディー(Kathleen Kennedy)かも知れない。元々、彼女はスピルバーグ監督に見初められたプロデューサーで、同監督の映画『シンドラーのリスト』や『ジュラシック・パーク』でもプロデューサーを務めていた。いわば、スピルバーグの飼い犬というか、ユダヤ人の妾みたいなものである。彼女と一緒に『ソロ』を手掛けたのは、アリソン・シェアマー(Allison Shearmur)というユダヤ人のプロデューサーで、今年の1月に肺癌で亡くなっている。彼女は大物プロデューサーであるスタンリー・ヤッフェ(Stanley R. Jaffe)の弟子だった。このユダヤ人もハリウッドで名が通っており、ダスティン・ホフマンとメリルストリープの共演でヒットした映画『クレイマー・クレイマー』のほか、『がんばれベアーズ』や『告発の行方』を制作したことでも知られている。松田優作が出演した『ブラック・レイン』でも彼がプロデューサーを務めていた。
ハリウッドは本当にユダヤ人だらけだ。『ソロ』の脚本を担当したのは、ジョナサンとローレンスのカスダン兄弟(Jonathan & Lawrence Kasdan)で、ローレンスは同シリーズと馴染みか深く『帝國の逆襲』や『フォースの覚醒』でも脚本を書いていた。ハリソン・フォードが「インディアナ・ジョーンズ」に扮して出演した映画『レイダース / 失われたアーク』も、ローレンスが脚本を担当した作品だ。勧善懲悪のアクション映画をユダヤ人が描くんだから、ドイツ人が悪役になるのも当然で、定番通り、聖櫃(アーク)を簒奪しようとする邪悪なナチスと、冷酷非情なドイツ人将校が登場していた。一方、監督のロン・ハワード(Ron Howard)は非ユダヤ人で、制作者同士のゴタゴタを引き受けて、急遽、代役の監督を務めたそうだ。それにしても、大作を任されたはずなのに、結果は駄作となってしまったのだから、何とも不運な人である。
スピン・オフ作品の『ローグ・ワン』にもユダヤ人が絡んでおり、脚本を手掛けたトニー・ギルロイは、ドイツ・イタリア系のアメリカ人だけど、主導権は共同脚本家のクリス・ワイツ(Chris Weitz)が握っていたはずだ。プロフィール上、ワイツは「チェコ系アメリカ人」となっているが、実際はチェコ系ユダヤ人を父に持ち、母親の方はメキシコ人という非西歐系の根無し草だ。ユダヤ人というのは、書類上の国籍を以て正体を隠すクセがあるので、我々は騙されないよう、どんな血筋なのかを調べねばならない。『フォースの覚醒』で総指揮を務めたのはユダヤ人の売れっ子監督J.J.エイブラムズ(Jacob J. Abrams)だが、あまりにも作品が不評だったせいか、続編の『最後のジェダイ』はライアン・ジョンソン(Rian Johnson)に任され、彼が監督を務めることになった。しかし、脚本を書いたのは、またしても異人種で、ラム・バーグマン(Ram Bergman)というイスラエルのユダヤ人。もう、スター・ウォーズ・シリーズを“つまらなく”する為にユダヤ人を用いたとしか思えない。
魅力ある作品を生み出せないハリウッド
「スター・ウォーズ」シリーズだけではなく、どうして最近のハリウッド映画には凡庸な作品が多いのか? それは、一つに、西歐人の魂を鼓舞するようなストーリーとキャスティングが無いからだ。ユダヤ人は米国を「人種の坩堝(るつぼ)」と思っているが、この共和国はアングロ・サクソン人によって建てられた、ジェントリー階級を主体とするもう一つのイングランドである。したがって、この独立国に招かれていいのは、デンマーク王国のデイン人とかネーデルラント連邦のフリジア人、スカンジナヴィア半島のノルマン人、ガリアに根づくケルト系のフランス人、先祖代々チュートン系のドイツ人などで、東歐や南歐の劣等民族は好ましくなかった。ゆえに、ゲットーに暮らすユダヤ人なんてもってのほか。だいたい、ヨーロッパで「鼻つまみ者」扱い賤民が、いくら新天地のアメリカとはいえ、なんで歓迎されなきゃならないんだ? まともな日本人なら、「歴史の書き換え」に気付くはずだ。異民族を征服する手段は、何も剣や銃だけとは限らない。紙鉄砲という洗脳もあるのだ。
利益供与とか袖の下を貰っているから仕方ないけど、大半の映画評論家は新たなスター・ウォーズ作品を褒めちぎっていた。彼らの評価は軒並み90%と非常に高い。ところが、お金を払って劇場で鑑賞した一般人は、「まあまあ」とか「普通」といった評価がほとんどで、熱心な白人ファンだと満足度は40%程度に過ぎなかったという。期待値が高いだけに落胆も大きい、ということなのか。それにしても、ディズニーのドル箱部門に入ったせいか、キャスティングには黒人やヒスパニック、アジア人が盛りだくさん。明らかに、世界規模での“営業”を考えている。つまり、「大金を稼ぐ」という目標を先に考えて、後から物語を構築しているのだろう。だから、どの作品もつまらない。主役や脇役のキャラクターには、“ほとばしる”情熱とか揺るぎない信念を感じられず、単に様々な人種が取り揃えられているに過ぎない。確かに、CG技術の向上で、派手な戦闘シーンや大規模な破壊・爆発映像が可能となったが、肝心の登場人物に魅力が無いんだから不満が募るのも当然だ。
例えば、比較的好成績だった『ローグ・ワン』でさえ酷かった。主人公のジン・アーソ(フェリシティー・ジョーンズ)は、帝国軍お抱えの技術者を父に持ち、両親と別れて成長するが、“当然の如く”抵抗を続ける共和国軍に協力する。「やはり」と言っては何だが、予想通りデス・スターの設計図を盗もうとするのだ。彼女は危険を顧みずパルチザとなって帝国軍と闘うが、その信念はどこから来るのか? デス・スターの建設を指揮する父親の罪を贖うためなのか、それとも帝国軍の圧政に我慢できない反撥心なのか、イマイチよく判らない。映画では、必死になって設計図のデータを共和国側に送信しようと奮闘するが、最後にはデス・スターのビーム攻撃を受けて、惑星ごと消滅してしまうのだ。彼女と一緒になって闘った東洋系戦士のベイズ・マルバスとチアルート・イムウェも悲惨な最期を遂げるが、その動機が何とも薄かった。彼らは単に帝國側に叛旗を翻すパルチザンというだけ。フォレスト・ウィテカー(Forest Whitaker)演じるソウ・ゲレラに至っては、「こんなキャラクターなんか要らない !」と思えるくらい余計だった。まるで、無理やり押し込んだ大物役者みたい。たぶん、制作者が黒人観客用に「黒い奴でも一つ入れとくか !」とサービスしたんじゃないか。
外国でも大金を儲けよう図る制作者が、世界市場を意識し、有色人種の観客を取り込もうとするのは理解できる。アジア系の盲目戦士「チアルート」を設定し、この配役に支那人男優のドニー・イェン(Donnie Yen)を据えたのも、アジア戦略の一環だろう。しかし、リベラル派の制作者はそれだけでは満足できず、もう一人の東洋人キャラクター「ベイズ・マルバス」を加え、支那人のチアン・ウェン(Jiang Wen)に演じさせた。カンフーの達人らしきチアルートには、ベイズ・マルバスという相棒が附き、二人は銃撃戦の最中に絶命する。日本人の観客なら何とも思わないが、北米にいるアジア人は、「やっと我々のヒーローが誕生した !」と喜ぶんじゃないか。でも、本当にそうなのか? マーケット・リサーチの会社が提示する観客の意識調査は怪しく、そのまま鵜呑みにはできない。他方、ハリウッドの制作者はそんなことを気にも留めず、ドンドン左翼的アジェンダを実行する。彼らは世界中のフェミニストにも配慮して、主人公を“男優り”の女性にし、若手女優のフェリシティー・ジョーンズ(Felicity Jones)にやらせていた。『フォースの覚醒』で小娘の「レイ」が主人公になり、デイジー・リドリー(Daisy Ridley)が採用されたのも同じ考えだ。結局、物語から西歐系男子を排除するというイデオロギーのもと、小娘と黒人、そして東洋人を抜擢したんだろう。
何はともあれ、「スター・ウォーズ」を愛する西歐系アメリカ人は、左翼思想に染まった冒険活劇ではなく、勇気と信念を持って悪と戦う「白人の英雄」を見たがっている。ジェダイの騎士だって本来なら、凜々しいゲルマン系男優だけを集めるべきで、黒人のサミュエル・L・ジャクソンとか、ヨボヨボの老人、奇妙な宇宙人なんか余計なエキストラで“邪魔”なだけだ。ジェダイの騎士を演じさせるなら、若手のハンサム男優シャーリー・ハナム(Charlie Hunnum)やトラヴィス・フィンメル(Travis Fimmel)、古代ローマの百卒長を演じたケヴィン・マクキッド(Kevin McKidd)、特殊部隊の軍人が似合うマックス・マーティーニ(Max Martini)、高級将校を演じさせたらピカいちのチャンス・ケリー(Chance Kelly)、冷静沈着な参謀といった雰囲気のトミー・フラナガン(Tommy Flanagan)など、いくらでも思いつく。そもそも、ジェダイのモデルは中世の武装修道士で、ドイツ騎士修道会(Deutsche Orden)や聖堂騎士団(Kights Templar)を思い出せばピンとくるだろう。だから、ジェダイの騎士を全員ヘイデン・クリステンセン(Hayden Christensen)とか、ユアン・マクレガー(Ewan McGregor)、アレック・ギネス(Alec Guinness)みたいな白人男性にしたっていいじゃないか。その方が“絵”になるし、畏敬の念も生まれてくる。
ジェダイの騎士が集まる評議会にしても同じだ。共和国の枢密院に妖怪もどきのメンバーが混じっているんじゃ、威厳も権威もあったもんじゃない。理想を言えば、共和政ローマの元老院みたいに、歴戦の勇士とか名門の元執政官が構成員じゃないとねぇ~。ローマ史に詳しくない日本人でも、共和政を樹立したルキウス・ブルートゥス(Lucius Junius Brutus)やプブリウス(Publius Valerius Publicola)、共和政体の権化たるキンキナートゥス(Lucius Quinctius Cincinatus)、峻厳な大カトー(Marcus Porcius Cato)、驍将のスキピオ・アフリカーヌス(Scipio Africanus)、名門のファビウス・マクシムス(Quintus Fabius Maxmus Gurges)、独裁官となった英雄のユリウス・カエサルなど、ちょっと考えれば直ぐ思い浮かぶじゃないか。
(左: ルキウス・ブルータス / スキピオ・アフリカーヌス / マーカス・カトー / 右: ユリウス・カエサル)
それにしても、なぜこうも最近の「スター・ウォーズ」作品には魅力が無いのか? それは、制作者のユダヤ人が西歐社会を愛することが出来ず、無意識的に白人達を憎み、彼らの祖先を称讃できないからだ。第7部の『フォースの覚醒』を指揮したJ.J.エイブラムズは、白人だらけの西歐社会が大嫌い。彼の発言によれば、映画は現実の社会を“反映”せねばならぬそうだ。(Nick Statt, "Director J. J. Abrams weighs in on diversity in the Star Wars universe", CBS Interactive, July 11, 2015) つまり、ヨーロッパ系の白人ばかりを採用して作品を作ってはならない、ということだろう。彼が新作の舵を取ったとき、白人の「スター・ウォーズ」ファンは有色人種の過剰なキャスティングに不満を爆発させていた。(インターネットでボイコット運動まで起こったんだから、相当なものである。)
しかし、エイブラムズ監督はこうした抗議に耳を傾けるどころか、逆に反撥を覚えて“右翼的”な白人ファンを窘(たしな)めていた。この点で、彼は実にユダヤ人らしい。偏見に満ちあふれた西歐人に「高邁な理念」を教えるのが、上等な民族、すなわちユダヤ人の務めだと思っているからだ。でも、それには賛同できない。かつて、TVドラマの『エイリアス(Alias)』を制作したエイブラムズは、白人美女が大好きで、主演女優に西歐系のジェニファー・ガーナー(Jennifer Garner)を採用していた。そして、彼女の共演者にはユダヤ人を用意する。劇中、彼女の父親役はヴィクター・ガルバー(Victor Garber)が演じ、恋人になる同僚はマイケル・ヴァルタン(Michael Vartan)、仲良しの同僚にはグレッグ・グルンバーグ(Greg Grunberg)といった具合。ドラマの中でキーパーソンとなるスローン役には、大御所のロン・リフキン(Ron Rifkin)を当てていた。ユダヤ人俳優に取り囲まれた白人女優なんて、アラブ人の盗賊に攫われた白雪姫みたいだ。監督のエイブラムズは嫉妬心の塊なのか、白人の男優となれば敵意を剝き出しにする。つまり、ライバルとなる異教徒の男は排斥するということだ。これはユダヤ人に特徴的な性癖で、ヨーロッパ人の白い女は、ビジネスで成功した者に対する「トロフィー」でしかない。この赦しがたき現実を見るから、歐米の白人男性はユダヤ人に激怒するんだろう。
戦う意味が曖昧なスペース・ファンタジー
「スター・ウォーズ」を食い物にするユダヤ人は、「悪の帝国と戦う共和国軍」という図式で、ジェダイの騎士や叛乱軍の将兵を描くが、観客は彼らが何の為に命を賭けるのか、がよく分からない。確かに、パルチザンは邪悪な皇帝の支配に立ち向かう「自由の戦士」なんだろうけど、その気概が何とも薄っぺらいのだ。孤島に隠居するルーク・スカイウォーカーの描き方も雑で、彼が怨みを抱くカイロ・レンと闘うシーンがあったけど、それはルークが念力で創り出した幻影に過ぎず、本人は遠く離れた島で遠隔操作をしていた、という「仕掛け」である。でも、こんなオチを見せつけらたら、劇場で観ていたファンは納得できない。腹に据えかねた観客が「カネを返せ !」と叫んでも不思議じゃないぞ。だいたい、ルークがカイロ・レンに対し「お前が最後のジェダイだ」と告げて、コロっと死んでしまうなんて、悲劇どころか洒落にもならない。観客は「何で死んじゃうの?」と自失茫然。映画は訳の解らないまま幕を閉じる。お客様が「えぇぇっ、これでお終い!?」と驚くのも無理はない。しかし、配給会社に媚びる映画評論家は、こんな駄作を「素晴らしい出来だ !」と大絶賛。ライト・サーバーを使った壮絶な決闘シーンもないのに、力尽きたルークが夕陽を背にして孤独死なんだから、「どこが傑作なのか ?」と言いたくなる。
登場人物が丁寧に描かれ、それぞれの内面が深くないと、たとえ派手な映像がふんだんに盛り込まれていても観客は感動しないものだ。ルークに弟子入りし、ジェダイの剣術を教えてもらったレイも、何が目的なのか不明確で、鋼鉄の意思を貫こうとする信念が見受けられない。脚本を担当したライアン・ジョンソンは、感動的な物語を書きたければ、日本のアニメを勉強すべきだ。昭和に放送されたアニメ番組には良質な作品が多かった。例えば、名作『新造人間キャシャーン』は、2008年に公開された『バットマン: ダーク・ナイト(The Dark Knight)』の魁(さきがけ)となるアニメだった。キャシャーンは人々の為に必死で闘っているのに、民衆から感謝されず、却って恨まれてしまう哀しいヒーローとなっていた。主人公の東鉄也(あずま・てつや)は、父親が作ってしまった兇悪なアンドロイドを倒すため、二度と人間に戻れないことを承知の上で、機械の体になることを志願し、無敵のキャシャーンとなって死闘を繰り返す。ちょっと感動的なのは、彼が科学者の父親に「アンドロイドにして下さい」と頼んだ時、側に居た母に向かって「赦して下さい」と謝るシーンであった。「躾が良く親孝行の息子」というキャラクター設定は、いかにも昭和的で、古き良き日本を示している。(下品な言葉遣いを「リアル」と称して、ことさら映画に盛り込むユダヤ人とは大違いだ。)
しかし、新造人間となった鉄也は、自分が「機械」であることを隠さねばならず、誰にも心を許すことができない。幼なじみの上月ルナと再会しても、自分の正体を打ち明けられず、鉄也であることすら否定しようとする。こうしたキャシャーンの姿に、我が国の子供たちは心を打たれ感銘を受けたものだ。ある時、キャシャーンはアンドロ軍団に襲われた子連れの夫婦を助けるが、感謝する父親はアンドロイドに対する憎しみを漏らす。それを聞いたキャシャーンは、無言のまま何も答えず、辛い気持ちを隠していた。自分も同じ類いの「機械」であると言えないからだ。しかし、彼は挫けなかった。キャシャーンは離れ離れになった両親に向かって独り言を述べていた。
アンドロ軍団から人間を救うことが、新造人間である俺の使命なんだ。お父さん、お母さん。キャシャーンは木っ端微塵になるまで戦います。(第2話の後半)
こうした「男の覚悟」を聴く日本のちびっ子達は、溢れる涙を抑えながら、「キャシャーンがやらねば誰がやる」というセリフを口ずさむ。誰からも感謝されないのに、それでも皆の為と思って命を賭けるんだから、大人でも感動するじゃないか。日本人は同質民族だから、「みんなの為に闘う」という気持ちを自然に持つ。いちいち、「自由の為」と断らなくても、当り前だから理屈を述べることはない。だが、雑多な民族や人種で構成される米国だと、“もっともらしい”大義が必要で、やれ「自由だ !」「デモクラシーを守れ!」とかのスローガンが必要になってくる。というのも、隣に住む人間を見れば、肌の色や顔附きが違うし、家系や学歴、躾や慣習もバラバラだ。ゆえに、西歐系のアメリカ人は黒人やアラブ人、南米人、アジア人を見ると、「こんな野郎の為に俺は死ぬのか?」と疑問に思えてくる。そして、彼らの顔をじっくり見詰めると、段々と馬鹿らしくなってしまうのだ。こんな訳だから、戦争になれば生身の群衆を見ないで、布製の星条旗ばかり眺めている。
平成の日本アニメはおかしくなってしまったが、少なくとも昭和までは素晴らしい作品が多かった。日本の子供達は「屁理屈を並べた教育動画」とか「政治的配慮を盛り込んだ教養漫画」なんて求めなかったし、制作者もそんなイデオロギーとは無縁だった。昭和40年代や50年代の子供が、「もっと有色人種のキャラクターを増やさなきゃ !」とか、アジアとの友好を考えて「支那人や朝鮮人の主人公も作ったら ?」と要求することはまず無かった。キャシャーンとその両親が西歐的容姿でも不思議ではなかったし、「上月ルナが金髪の北歐女性なんておかしい」と抗議する子供も皆無で、むしろ好んで観ていたくらいである。人種のバランスを考えながら映画を作るハリウッドとは、根本的に違っていたのだ。視聴者である子供が中心のアニメ制作は清々しい。昭和のアニメが今でも魅力を失わないのは、日本人の制作者が「創りたいものを創り」、政治イデオロギーや興行成績にとらわれず、自分の夢を素直に描いていたからだ。作品のキャラクターに黒人が一人も登場せず、みんな白い肌のアーリア人なんて、アメリカ人が聞いたら卒倒するが、日本人は気にしないで楽しんでいた。アメリカの知識人は我々に向かって「表現の自由」を自慢するが、彼らの本国に目を向けると、その自由は枯れ果て、実質的には空洞化している。つまり、教科書の中にだけに存在する「空想」なのだ。
色々不満を述べてしまったが、所詮「スター・ウォーズ」シリーズはゼニ儲けの道具に過ぎない。いくらジョージ・ルーカスが「スペース・ファンタジー」と宣伝しようが、世界市場で関連グッズやDVDを販売する方が重要だ。仮に劇場での収入が赤字でも、ディズニー・ランドやイベント会場で儲ければいい。一つのスピン・オフ作品が失敗しても、第二弾、第三弾のスピン・オフを上映すれば、どれか一つくらいはヒットするだろう。著作権を持つディズニー社は、向こう百年間は同シリーズで儲けるつもりらしい。スピン・オフ映画第75弾とか、第96弾になれば、訳の解らぬ宇宙人とか魚の海賊が主人公になっているかも知れないぞ。巨大なヒキガエルにしか見えない「ジャバ・ザ・ハット(Jabba the Hutt)」が主人公の映画だって有り得る。でも、そんな作品は観たくない。
とは言え、欲に目が眩んだディズニー社なら、ルーク・スカイウォーカーの隠し子とか、オビ=ワン・ケノビの遠い親戚とか、適当な理由をつけて、新たなキャラクターを生み出し、次々とジェダイの騎士を増やすんじゃないか。もしかしたら、ルーク・スカイウォーカー12世なんて騎士が出るかもよ。そうしたら、歌舞伎役者みたいだ。まぁ、スター・ウォーズは日本のチャンバラ劇を参考にしているくらいだから、世襲の騎士くらい簡単に誕生させるだろう。もし、第22世紀までスター・ウォーズが続いていたら、本当にライト・セーバーが開発されるかもよ。そうしたら、日本の子供達は大喜びでおもちゃ屋に殺到するだろう。ただし、これだと「スター・ウォーズ」じゃなくて「マネー・ゲーム」だ。
好評発売中 !
何匹目のドジョウを狙っていたのか?
先月末、「スター・ウォー」シリーズから“また”スピン・オフ作品が公開された。今回は、ミレニアム・ファルコン号を操縦する英雄ハン・ソロが主役。彼の運命を変えるレイア姫とルーク・スカイウォーカーに逢う前の、若き時代を扱っているそうだ。しかし、制作者の期待とは裏腹に、その興行成績は無惨なものだった。全米公開第二週で大幅に下落してしまい、たった2千500万ドルから3千500万ドル程度の稼ぎであったという。好成績が予想された英国でも振るわず、興行収入はせいぜい800万ドルくらい。(Stefan Kyriazis, "Star Wars Han Solo movie Global box office DISASTER on second weekend Why? ", Daily Express, June 3, 2018) 同シリーズのスピン・オフ作品『ローグ・ワン』でさえ、第二週までの間に6千800万ドルを稼ぎ出していたんだから、どれくらい酷いか判るだろう。(「スターメウォーズ」に関しては、当ブログのPart 1 とPart 2を参照。)
でも、この失態は予め予想できたんじゃないか。まず、配役の顔ぶれを見ただけでも落胆するから、予告編じたいに魅力が無い。「スター・ウォーズ」を愛する西歐系アメリカ人からすれば、「まぁ~た、人種的多様性(racisl diversity)を反映した作品かよぉ~」とウンザリする。ハリソン・フォードがユダヤ系アメリカ人だから仕方ないが、若きハン・ソロを演じるオールデン・エアレンライク(Alden Ehrenreich)もユダヤ人俳優だ。彼はスティーヴン・スピルバーグに見出されて有名になったという。期待の新人をシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)で見つけるんだから、ユダヤ人の同胞愛は信仰の枠を越えているんだねぇ。主役の男優をユダヤ人にすると、相手役の女優は美形の西歐人とするのがハリウッドの法則だ。オールデンの相方となったのは、大ヒットTVドラマ『ゲーム・オブ・スローン』で注目されたエミリア・クラーク(Emilia Clarke)。彼女が演じるのは、かつての同志で、ソロの元恋人キラ(Qi'ra)という役柄である。“クセ”のある役だけど、まぁ面白くするためだからしょうがない。それにしても、エミリアは不運だ。ヒット作になるはずだった『ターミネーター: ジェネシス』に抜擢されたが、蓋を開けてみれば散々な結果で、新作を準備するジェイムズ・キャメロン監督によれば、完全に無視する悪夢なんだって。今回の『ソロ』でも“またもや”貧乏くじを引いてしまった。ちょっと可哀想。
この新作にはソロと親しいお馴染みの密輸人「ランド」が登場し、以前はビリー・ディー・ウィリアムズ(Billy Dee Williams)が演じていたが、今回はドナルド・グローヴァー(Donald Glover)が若き日のランドを演じている。黒人役者と並ぶ白人の脇役ときたら、あまり大した俳優をつけない、というのがスター・ウォーズの特徴だ。ソロの師匠として登場するトビアス・ベケット役には、見るからにアホ丸出しの白人男優、ウディー・ハレルソン(Woody Harrelson)が採用された。彼は時々映画で奇人変人の役をこなすけど、私生活でも似たような側面を持っている。まず、彼の家族が常識外れだ。信じられないけど、彼の父親チャールズはプロの殺し屋。嘘と思うだろうがホントの話。ウディーの父親はジョン・H・ウッド(John H. Wood, Jr.)判事を殺した廉で逮捕され、法廷で終身刑の判決を受けた。すごぉ~い。まるで、クライム・サスペンスの序盤みたいだ。
しかし、カエルの子はカエルなのか、ウディーも警察沙汰が絶えなかった。母子家庭ながらも、ちゃんと大学に通って卒業し、念願の俳優にもなれたのに、1982年、路上で騒ぎながら踊っていたところを通報され、駆けつけた警官に抵抗したので逮捕されたそうだ。さらに2002年、ロンドンを訪れた時、タクシーの運転手と揉めて警察の厄介になり、罰金刑を喰らってしまった。でも、こういう類いのバカは懲りない。2006年、パパラッチにしつこく追いかけられ、ナイトクラブでカメラマンを殴ってしまい、これまた罰金刑を受ける破目に。ハリウッド・スターだから仕方ないけど、ウディーもリベラル左翼で、マリファナの合法化を推進する一人である。自分でも大麻を栽培するほどの不届き者で、常識というものが無い。こんな頭の持ち主だから、尊敬する人物も普通ではなかった。ウディーが影響を受けた知識人とは、何と、日本でも有名なユダヤ人左翼の歴史家で、2010年に亡くなったハワード・ジン(Howard Zinn)であるという。
ジンは公民権運動で活躍し、ベトナム反戦でも知られている札付きのアカであるけど、「ペンタゴン・ペーパー」の件は忘れ去られている。「ランド・コーポレーション(RAND Corporation)」の軍事アナリストであったダニエル・エルズバーグ(Daniel Ellsberg)は、密かに「ペンタゴン・ペーパー」のコピーをハワード・ジンとその妻ロズリンに渡していた。ちなみに、エルズバーグもユダヤ人学者。「類は群れる」のか、ジンの仲間には極左知識人が多く、反戦を掲げるユダヤ人活動家、ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)もその内の一人であった。チョムスキーは元々言語学者で文法の研究では優れていたが、次第に政治問題へと関心を寄せるようになり、振り返ってみると、左翼活動家としての経歴の方が長い。チョムスキーは理想主義を掲げるユダヤ人によく見受けられるタイプで、イスラエルの対パレスチナ政策にも批判的で、米国内のシオニスト系ユダヤ人と反目しているそうだ。まったく、ユダヤ人というのは他人の国で「いざこざ」を起こし、現地人をも巻き込んで事態を悪化させる常習犯である。こうした異民族は反省しないから、強制手段を用いて排除すべきだ。
随分と脱線したので話を戻す。ジョージ・ルーカスが当初描いていた「スター・ウォーズ」は、宇宙を舞台にしたスペース・ファンタジーであった。しかし、ユダヤ人が支配するディズニー社に売却されると、「多民族主義」と「社会正義」を推進するプロパガンダ映画になってしまった。例えば、映画でトビアス・ベケットの妻を演じるのは、イングランドの白人とジンバブエ黒人の混血女優、タンディ・ニュートン(Thandie Newton)だ。彼女は日本でも知られており、映画『ミッション・インポシブル 2』とTVドラマ・シリーズ『ER』に出演していた女優である。彼女は黒光りしたコテコテのアフリカ人ではなく、ハル・ベリーみたいなライト・スキンの黒人だから、何となく使いやすい。
失敗作の元兇となったユダヤ人制作者
日本人はスクリーンに映し出される役者ばかりに目を奪われるが、「スター・ウォーズ」をメチャクチャにした制作陣、すなわち裏方の元兇にこそ目を向けるべきである。そこで、A級戦犯の筆頭になるのは、ルーカス・フィルムの社長を務めるキャサリン・ケネディー(Kathleen Kennedy)かも知れない。元々、彼女はスピルバーグ監督に見初められたプロデューサーで、同監督の映画『シンドラーのリスト』や『ジュラシック・パーク』でもプロデューサーを務めていた。いわば、スピルバーグの飼い犬というか、ユダヤ人の妾みたいなものである。彼女と一緒に『ソロ』を手掛けたのは、アリソン・シェアマー(Allison Shearmur)というユダヤ人のプロデューサーで、今年の1月に肺癌で亡くなっている。彼女は大物プロデューサーであるスタンリー・ヤッフェ(Stanley R. Jaffe)の弟子だった。このユダヤ人もハリウッドで名が通っており、ダスティン・ホフマンとメリルストリープの共演でヒットした映画『クレイマー・クレイマー』のほか、『がんばれベアーズ』や『告発の行方』を制作したことでも知られている。松田優作が出演した『ブラック・レイン』でも彼がプロデューサーを務めていた。
ハリウッドは本当にユダヤ人だらけだ。『ソロ』の脚本を担当したのは、ジョナサンとローレンスのカスダン兄弟(Jonathan & Lawrence Kasdan)で、ローレンスは同シリーズと馴染みか深く『帝國の逆襲』や『フォースの覚醒』でも脚本を書いていた。ハリソン・フォードが「インディアナ・ジョーンズ」に扮して出演した映画『レイダース / 失われたアーク』も、ローレンスが脚本を担当した作品だ。勧善懲悪のアクション映画をユダヤ人が描くんだから、ドイツ人が悪役になるのも当然で、定番通り、聖櫃(アーク)を簒奪しようとする邪悪なナチスと、冷酷非情なドイツ人将校が登場していた。一方、監督のロン・ハワード(Ron Howard)は非ユダヤ人で、制作者同士のゴタゴタを引き受けて、急遽、代役の監督を務めたそうだ。それにしても、大作を任されたはずなのに、結果は駄作となってしまったのだから、何とも不運な人である。
スピン・オフ作品の『ローグ・ワン』にもユダヤ人が絡んでおり、脚本を手掛けたトニー・ギルロイは、ドイツ・イタリア系のアメリカ人だけど、主導権は共同脚本家のクリス・ワイツ(Chris Weitz)が握っていたはずだ。プロフィール上、ワイツは「チェコ系アメリカ人」となっているが、実際はチェコ系ユダヤ人を父に持ち、母親の方はメキシコ人という非西歐系の根無し草だ。ユダヤ人というのは、書類上の国籍を以て正体を隠すクセがあるので、我々は騙されないよう、どんな血筋なのかを調べねばならない。『フォースの覚醒』で総指揮を務めたのはユダヤ人の売れっ子監督J.J.エイブラムズ(Jacob J. Abrams)だが、あまりにも作品が不評だったせいか、続編の『最後のジェダイ』はライアン・ジョンソン(Rian Johnson)に任され、彼が監督を務めることになった。しかし、脚本を書いたのは、またしても異人種で、ラム・バーグマン(Ram Bergman)というイスラエルのユダヤ人。もう、スター・ウォーズ・シリーズを“つまらなく”する為にユダヤ人を用いたとしか思えない。
魅力ある作品を生み出せないハリウッド
「スター・ウォーズ」シリーズだけではなく、どうして最近のハリウッド映画には凡庸な作品が多いのか? それは、一つに、西歐人の魂を鼓舞するようなストーリーとキャスティングが無いからだ。ユダヤ人は米国を「人種の坩堝(るつぼ)」と思っているが、この共和国はアングロ・サクソン人によって建てられた、ジェントリー階級を主体とするもう一つのイングランドである。したがって、この独立国に招かれていいのは、デンマーク王国のデイン人とかネーデルラント連邦のフリジア人、スカンジナヴィア半島のノルマン人、ガリアに根づくケルト系のフランス人、先祖代々チュートン系のドイツ人などで、東歐や南歐の劣等民族は好ましくなかった。ゆえに、ゲットーに暮らすユダヤ人なんてもってのほか。だいたい、ヨーロッパで「鼻つまみ者」扱い賤民が、いくら新天地のアメリカとはいえ、なんで歓迎されなきゃならないんだ? まともな日本人なら、「歴史の書き換え」に気付くはずだ。異民族を征服する手段は、何も剣や銃だけとは限らない。紙鉄砲という洗脳もあるのだ。
利益供与とか袖の下を貰っているから仕方ないけど、大半の映画評論家は新たなスター・ウォーズ作品を褒めちぎっていた。彼らの評価は軒並み90%と非常に高い。ところが、お金を払って劇場で鑑賞した一般人は、「まあまあ」とか「普通」といった評価がほとんどで、熱心な白人ファンだと満足度は40%程度に過ぎなかったという。期待値が高いだけに落胆も大きい、ということなのか。それにしても、ディズニーのドル箱部門に入ったせいか、キャスティングには黒人やヒスパニック、アジア人が盛りだくさん。明らかに、世界規模での“営業”を考えている。つまり、「大金を稼ぐ」という目標を先に考えて、後から物語を構築しているのだろう。だから、どの作品もつまらない。主役や脇役のキャラクターには、“ほとばしる”情熱とか揺るぎない信念を感じられず、単に様々な人種が取り揃えられているに過ぎない。確かに、CG技術の向上で、派手な戦闘シーンや大規模な破壊・爆発映像が可能となったが、肝心の登場人物に魅力が無いんだから不満が募るのも当然だ。
例えば、比較的好成績だった『ローグ・ワン』でさえ酷かった。主人公のジン・アーソ(フェリシティー・ジョーンズ)は、帝国軍お抱えの技術者を父に持ち、両親と別れて成長するが、“当然の如く”抵抗を続ける共和国軍に協力する。「やはり」と言っては何だが、予想通りデス・スターの設計図を盗もうとするのだ。彼女は危険を顧みずパルチザとなって帝国軍と闘うが、その信念はどこから来るのか? デス・スターの建設を指揮する父親の罪を贖うためなのか、それとも帝国軍の圧政に我慢できない反撥心なのか、イマイチよく判らない。映画では、必死になって設計図のデータを共和国側に送信しようと奮闘するが、最後にはデス・スターのビーム攻撃を受けて、惑星ごと消滅してしまうのだ。彼女と一緒になって闘った東洋系戦士のベイズ・マルバスとチアルート・イムウェも悲惨な最期を遂げるが、その動機が何とも薄かった。彼らは単に帝國側に叛旗を翻すパルチザンというだけ。フォレスト・ウィテカー(Forest Whitaker)演じるソウ・ゲレラに至っては、「こんなキャラクターなんか要らない !」と思えるくらい余計だった。まるで、無理やり押し込んだ大物役者みたい。たぶん、制作者が黒人観客用に「黒い奴でも一つ入れとくか !」とサービスしたんじゃないか。
外国でも大金を儲けよう図る制作者が、世界市場を意識し、有色人種の観客を取り込もうとするのは理解できる。アジア系の盲目戦士「チアルート」を設定し、この配役に支那人男優のドニー・イェン(Donnie Yen)を据えたのも、アジア戦略の一環だろう。しかし、リベラル派の制作者はそれだけでは満足できず、もう一人の東洋人キャラクター「ベイズ・マルバス」を加え、支那人のチアン・ウェン(Jiang Wen)に演じさせた。カンフーの達人らしきチアルートには、ベイズ・マルバスという相棒が附き、二人は銃撃戦の最中に絶命する。日本人の観客なら何とも思わないが、北米にいるアジア人は、「やっと我々のヒーローが誕生した !」と喜ぶんじゃないか。でも、本当にそうなのか? マーケット・リサーチの会社が提示する観客の意識調査は怪しく、そのまま鵜呑みにはできない。他方、ハリウッドの制作者はそんなことを気にも留めず、ドンドン左翼的アジェンダを実行する。彼らは世界中のフェミニストにも配慮して、主人公を“男優り”の女性にし、若手女優のフェリシティー・ジョーンズ(Felicity Jones)にやらせていた。『フォースの覚醒』で小娘の「レイ」が主人公になり、デイジー・リドリー(Daisy Ridley)が採用されたのも同じ考えだ。結局、物語から西歐系男子を排除するというイデオロギーのもと、小娘と黒人、そして東洋人を抜擢したんだろう。
何はともあれ、「スター・ウォーズ」を愛する西歐系アメリカ人は、左翼思想に染まった冒険活劇ではなく、勇気と信念を持って悪と戦う「白人の英雄」を見たがっている。ジェダイの騎士だって本来なら、凜々しいゲルマン系男優だけを集めるべきで、黒人のサミュエル・L・ジャクソンとか、ヨボヨボの老人、奇妙な宇宙人なんか余計なエキストラで“邪魔”なだけだ。ジェダイの騎士を演じさせるなら、若手のハンサム男優シャーリー・ハナム(Charlie Hunnum)やトラヴィス・フィンメル(Travis Fimmel)、古代ローマの百卒長を演じたケヴィン・マクキッド(Kevin McKidd)、特殊部隊の軍人が似合うマックス・マーティーニ(Max Martini)、高級将校を演じさせたらピカいちのチャンス・ケリー(Chance Kelly)、冷静沈着な参謀といった雰囲気のトミー・フラナガン(Tommy Flanagan)など、いくらでも思いつく。そもそも、ジェダイのモデルは中世の武装修道士で、ドイツ騎士修道会(Deutsche Orden)や聖堂騎士団(Kights Templar)を思い出せばピンとくるだろう。だから、ジェダイの騎士を全員ヘイデン・クリステンセン(Hayden Christensen)とか、ユアン・マクレガー(Ewan McGregor)、アレック・ギネス(Alec Guinness)みたいな白人男性にしたっていいじゃないか。その方が“絵”になるし、畏敬の念も生まれてくる。
ジェダイの騎士が集まる評議会にしても同じだ。共和国の枢密院に妖怪もどきのメンバーが混じっているんじゃ、威厳も権威もあったもんじゃない。理想を言えば、共和政ローマの元老院みたいに、歴戦の勇士とか名門の元執政官が構成員じゃないとねぇ~。ローマ史に詳しくない日本人でも、共和政を樹立したルキウス・ブルートゥス(Lucius Junius Brutus)やプブリウス(Publius Valerius Publicola)、共和政体の権化たるキンキナートゥス(Lucius Quinctius Cincinatus)、峻厳な大カトー(Marcus Porcius Cato)、驍将のスキピオ・アフリカーヌス(Scipio Africanus)、名門のファビウス・マクシムス(Quintus Fabius Maxmus Gurges)、独裁官となった英雄のユリウス・カエサルなど、ちょっと考えれば直ぐ思い浮かぶじゃないか。
(左: ルキウス・ブルータス / スキピオ・アフリカーヌス / マーカス・カトー / 右: ユリウス・カエサル)
それにしても、なぜこうも最近の「スター・ウォーズ」作品には魅力が無いのか? それは、制作者のユダヤ人が西歐社会を愛することが出来ず、無意識的に白人達を憎み、彼らの祖先を称讃できないからだ。第7部の『フォースの覚醒』を指揮したJ.J.エイブラムズは、白人だらけの西歐社会が大嫌い。彼の発言によれば、映画は現実の社会を“反映”せねばならぬそうだ。(Nick Statt, "Director J. J. Abrams weighs in on diversity in the Star Wars universe", CBS Interactive, July 11, 2015) つまり、ヨーロッパ系の白人ばかりを採用して作品を作ってはならない、ということだろう。彼が新作の舵を取ったとき、白人の「スター・ウォーズ」ファンは有色人種の過剰なキャスティングに不満を爆発させていた。(インターネットでボイコット運動まで起こったんだから、相当なものである。)
しかし、エイブラムズ監督はこうした抗議に耳を傾けるどころか、逆に反撥を覚えて“右翼的”な白人ファンを窘(たしな)めていた。この点で、彼は実にユダヤ人らしい。偏見に満ちあふれた西歐人に「高邁な理念」を教えるのが、上等な民族、すなわちユダヤ人の務めだと思っているからだ。でも、それには賛同できない。かつて、TVドラマの『エイリアス(Alias)』を制作したエイブラムズは、白人美女が大好きで、主演女優に西歐系のジェニファー・ガーナー(Jennifer Garner)を採用していた。そして、彼女の共演者にはユダヤ人を用意する。劇中、彼女の父親役はヴィクター・ガルバー(Victor Garber)が演じ、恋人になる同僚はマイケル・ヴァルタン(Michael Vartan)、仲良しの同僚にはグレッグ・グルンバーグ(Greg Grunberg)といった具合。ドラマの中でキーパーソンとなるスローン役には、大御所のロン・リフキン(Ron Rifkin)を当てていた。ユダヤ人俳優に取り囲まれた白人女優なんて、アラブ人の盗賊に攫われた白雪姫みたいだ。監督のエイブラムズは嫉妬心の塊なのか、白人の男優となれば敵意を剝き出しにする。つまり、ライバルとなる異教徒の男は排斥するということだ。これはユダヤ人に特徴的な性癖で、ヨーロッパ人の白い女は、ビジネスで成功した者に対する「トロフィー」でしかない。この赦しがたき現実を見るから、歐米の白人男性はユダヤ人に激怒するんだろう。
戦う意味が曖昧なスペース・ファンタジー
「スター・ウォーズ」を食い物にするユダヤ人は、「悪の帝国と戦う共和国軍」という図式で、ジェダイの騎士や叛乱軍の将兵を描くが、観客は彼らが何の為に命を賭けるのか、がよく分からない。確かに、パルチザンは邪悪な皇帝の支配に立ち向かう「自由の戦士」なんだろうけど、その気概が何とも薄っぺらいのだ。孤島に隠居するルーク・スカイウォーカーの描き方も雑で、彼が怨みを抱くカイロ・レンと闘うシーンがあったけど、それはルークが念力で創り出した幻影に過ぎず、本人は遠く離れた島で遠隔操作をしていた、という「仕掛け」である。でも、こんなオチを見せつけらたら、劇場で観ていたファンは納得できない。腹に据えかねた観客が「カネを返せ !」と叫んでも不思議じゃないぞ。だいたい、ルークがカイロ・レンに対し「お前が最後のジェダイだ」と告げて、コロっと死んでしまうなんて、悲劇どころか洒落にもならない。観客は「何で死んじゃうの?」と自失茫然。映画は訳の解らないまま幕を閉じる。お客様が「えぇぇっ、これでお終い!?」と驚くのも無理はない。しかし、配給会社に媚びる映画評論家は、こんな駄作を「素晴らしい出来だ !」と大絶賛。ライト・サーバーを使った壮絶な決闘シーンもないのに、力尽きたルークが夕陽を背にして孤独死なんだから、「どこが傑作なのか ?」と言いたくなる。
登場人物が丁寧に描かれ、それぞれの内面が深くないと、たとえ派手な映像がふんだんに盛り込まれていても観客は感動しないものだ。ルークに弟子入りし、ジェダイの剣術を教えてもらったレイも、何が目的なのか不明確で、鋼鉄の意思を貫こうとする信念が見受けられない。脚本を担当したライアン・ジョンソンは、感動的な物語を書きたければ、日本のアニメを勉強すべきだ。昭和に放送されたアニメ番組には良質な作品が多かった。例えば、名作『新造人間キャシャーン』は、2008年に公開された『バットマン: ダーク・ナイト(The Dark Knight)』の魁(さきがけ)となるアニメだった。キャシャーンは人々の為に必死で闘っているのに、民衆から感謝されず、却って恨まれてしまう哀しいヒーローとなっていた。主人公の東鉄也(あずま・てつや)は、父親が作ってしまった兇悪なアンドロイドを倒すため、二度と人間に戻れないことを承知の上で、機械の体になることを志願し、無敵のキャシャーンとなって死闘を繰り返す。ちょっと感動的なのは、彼が科学者の父親に「アンドロイドにして下さい」と頼んだ時、側に居た母に向かって「赦して下さい」と謝るシーンであった。「躾が良く親孝行の息子」というキャラクター設定は、いかにも昭和的で、古き良き日本を示している。(下品な言葉遣いを「リアル」と称して、ことさら映画に盛り込むユダヤ人とは大違いだ。)
しかし、新造人間となった鉄也は、自分が「機械」であることを隠さねばならず、誰にも心を許すことができない。幼なじみの上月ルナと再会しても、自分の正体を打ち明けられず、鉄也であることすら否定しようとする。こうしたキャシャーンの姿に、我が国の子供たちは心を打たれ感銘を受けたものだ。ある時、キャシャーンはアンドロ軍団に襲われた子連れの夫婦を助けるが、感謝する父親はアンドロイドに対する憎しみを漏らす。それを聞いたキャシャーンは、無言のまま何も答えず、辛い気持ちを隠していた。自分も同じ類いの「機械」であると言えないからだ。しかし、彼は挫けなかった。キャシャーンは離れ離れになった両親に向かって独り言を述べていた。
アンドロ軍団から人間を救うことが、新造人間である俺の使命なんだ。お父さん、お母さん。キャシャーンは木っ端微塵になるまで戦います。(第2話の後半)
こうした「男の覚悟」を聴く日本のちびっ子達は、溢れる涙を抑えながら、「キャシャーンがやらねば誰がやる」というセリフを口ずさむ。誰からも感謝されないのに、それでも皆の為と思って命を賭けるんだから、大人でも感動するじゃないか。日本人は同質民族だから、「みんなの為に闘う」という気持ちを自然に持つ。いちいち、「自由の為」と断らなくても、当り前だから理屈を述べることはない。だが、雑多な民族や人種で構成される米国だと、“もっともらしい”大義が必要で、やれ「自由だ !」「デモクラシーを守れ!」とかのスローガンが必要になってくる。というのも、隣に住む人間を見れば、肌の色や顔附きが違うし、家系や学歴、躾や慣習もバラバラだ。ゆえに、西歐系のアメリカ人は黒人やアラブ人、南米人、アジア人を見ると、「こんな野郎の為に俺は死ぬのか?」と疑問に思えてくる。そして、彼らの顔をじっくり見詰めると、段々と馬鹿らしくなってしまうのだ。こんな訳だから、戦争になれば生身の群衆を見ないで、布製の星条旗ばかり眺めている。
平成の日本アニメはおかしくなってしまったが、少なくとも昭和までは素晴らしい作品が多かった。日本の子供達は「屁理屈を並べた教育動画」とか「政治的配慮を盛り込んだ教養漫画」なんて求めなかったし、制作者もそんなイデオロギーとは無縁だった。昭和40年代や50年代の子供が、「もっと有色人種のキャラクターを増やさなきゃ !」とか、アジアとの友好を考えて「支那人や朝鮮人の主人公も作ったら ?」と要求することはまず無かった。キャシャーンとその両親が西歐的容姿でも不思議ではなかったし、「上月ルナが金髪の北歐女性なんておかしい」と抗議する子供も皆無で、むしろ好んで観ていたくらいである。人種のバランスを考えながら映画を作るハリウッドとは、根本的に違っていたのだ。視聴者である子供が中心のアニメ制作は清々しい。昭和のアニメが今でも魅力を失わないのは、日本人の制作者が「創りたいものを創り」、政治イデオロギーや興行成績にとらわれず、自分の夢を素直に描いていたからだ。作品のキャラクターに黒人が一人も登場せず、みんな白い肌のアーリア人なんて、アメリカ人が聞いたら卒倒するが、日本人は気にしないで楽しんでいた。アメリカの知識人は我々に向かって「表現の自由」を自慢するが、彼らの本国に目を向けると、その自由は枯れ果て、実質的には空洞化している。つまり、教科書の中にだけに存在する「空想」なのだ。
色々不満を述べてしまったが、所詮「スター・ウォーズ」シリーズはゼニ儲けの道具に過ぎない。いくらジョージ・ルーカスが「スペース・ファンタジー」と宣伝しようが、世界市場で関連グッズやDVDを販売する方が重要だ。仮に劇場での収入が赤字でも、ディズニー・ランドやイベント会場で儲ければいい。一つのスピン・オフ作品が失敗しても、第二弾、第三弾のスピン・オフを上映すれば、どれか一つくらいはヒットするだろう。著作権を持つディズニー社は、向こう百年間は同シリーズで儲けるつもりらしい。スピン・オフ映画第75弾とか、第96弾になれば、訳の解らぬ宇宙人とか魚の海賊が主人公になっているかも知れないぞ。巨大なヒキガエルにしか見えない「ジャバ・ザ・ハット(Jabba the Hutt)」が主人公の映画だって有り得る。でも、そんな作品は観たくない。
とは言え、欲に目が眩んだディズニー社なら、ルーク・スカイウォーカーの隠し子とか、オビ=ワン・ケノビの遠い親戚とか、適当な理由をつけて、新たなキャラクターを生み出し、次々とジェダイの騎士を増やすんじゃないか。もしかしたら、ルーク・スカイウォーカー12世なんて騎士が出るかもよ。そうしたら、歌舞伎役者みたいだ。まぁ、スター・ウォーズは日本のチャンバラ劇を参考にしているくらいだから、世襲の騎士くらい簡単に誕生させるだろう。もし、第22世紀までスター・ウォーズが続いていたら、本当にライト・セーバーが開発されるかもよ。そうしたら、日本の子供達は大喜びでおもちゃ屋に殺到するだろう。ただし、これだと「スター・ウォーズ」じゃなくて「マネー・ゲーム」だ。
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