無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2018年07月

狂気と愛国で育った国士 / 決死の藤田東湖

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
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奇抜な兵法を使う訪問者

Fujita 1(左 / 藤田東湖 )
  前回、橋本左内を取り上げ、西郷隆盛が尊敬した人物と紹介したが、南洲にはもう一人敬服する碩学がいた。それが藤田東湖(とうこ / 虎之助)である。東湖は水戸藩きっての碩学として、その名が天下に響き渡り、大西郷のみならず、土佐の山内容堂までが魅了され、東湖を招いて歓待する程であったという。もし、水戸藩が薩長土肥と肩を並べるくらい維新に貢献していたら、東湖の名はもっと広まり、現在の中高校生でも耳にする偉人になっていたはずである。この水戸藩の偉人については多くの伝記が書かれているので、筆者が改めて評する必要は無いが、面白いエピソードを一つ目にしたので、ここで紹介したい。

  ある日のこと。藤田東湖が住む屋敷の玄関に、相良六郎という若者が訪ねてきた。彼は後に「櫻眞金(さくら・まがね)」や「櫻任藏(さくら・にんぞう)」の名で知られる小松崎一雄という医者の息子である。彼は玄関先で、「御免、許せよ!」と大声を上げたそうだ。そこで、「何事か」と驚いた門下生の瀧田北海が慌てて玄関にやって来た。「誰なんだろう?」と思って玄関に立つ訪問者を見てみれば、何と垢まみれで、ボロボロになった着物を身に纏った16、7歳の少年ではないか。瀧田は「小僧、何用ぢゃ?」と訊ねた。すると、六郎は堂々とした口調で次のように述べた。

  「先生は御在宿か、御在宿であれば、相良六郎、惨状いたした、と取次げ!」

いっちょ前の口を利く六郎を前に、瀧田は「ちぇっ!」と舌打ちをして、「小僧、生意気を申すな! 先生が御在宿であろうが、この大玄関は貴様のような乞食小僧の来る處ではない。さっさと出て失せろ !」と言い放った。しかし、六郎は帰らず、「取次げ」と言い張って一歩も譲らなかった。この態度にむかついた瀧田は、「まだいやがるのか、先生は貴様などには用が無い !」と吐き捨て、強情な小僧を追い払おうとした。だが、六郎はこんな門前払いに従う気持ちは毛頭無い。六郎の強情さに怒りを覚えた瀧田は、「呆れ返った小僧だ ! つまみ出すぞ!」と脅しを掛けた。そこで瀧田の横柄さに痺れを切らした六郎は、「如何しても貴公は取り次がぬ気だな。よろしい、しからば他の者に頼む」と大声を張り上げたそうだ。

  六郎はまるで瀧田を無視するかのように、「御免、許せよ !」と始めからやり直したから、さあ大変。これには瀧田も腹に据えかねてしまい、式台を降りて六郎の肩をトンと突いた。すると、六郎は思いも寄らぬ行動に出た。彼はひょいっ、と一歩下がると、袴をめくり、自らのホース(男根)を瀧田に向け、シャァーと小便を浴びせ掛けたのだ。突然の“放水”に瀧田は飛び上がって驚く。この物音は直ぐさま他の門下生にも伝わり、「何事か!!」と驚いた仲間は玄関に飛んできた。しかし、“張本人”の相良六郎は落ち着き払った様子で、「方々、先生は御在宅かな?」と澄ました顔で尋ねた。全く以て豪胆な奴である。

  だが、駆けつけてきた門下生らは、瀧田が小便を引っ掛けられたと知ったから黙っちゃいない。彼らはこの「下手人」を赦さず、「無礼者め!」と罵り、ひっ捕まえて庭先に引っ張り出してきたという。その時、東湖先生は廊下に出ていたそうだ。弟子たちの姿を目にした先生は、「何事だ、騒々しい !」と叱責する。瀧田は小便で濡れた身体を振るわせながら、「この小僧が、以ての外の・・・」と説明したそうだ。門下生たちは東湖先生も憤慨するだろうと思ったが、先生は意外な言葉を口にした。東湖先生は六郎を見つめると、「ほほっ、小僧、兵法を心得て居る。瀧田貴公は蛙と間違えられたな、はっはっはっ」と述べて大笑い。その時、六郎は前に進み出て、「藤田東湖先生で御座いますか。私は真壁の医者の倅、さりながら、私は病気を癒すより國の病気が癒したいのです。どうか門下生にして下さい」と頼んだそうだ。これを聞いた東湖先生は「面白い奴ぢゃ、よかろう」と快諾され、相良六郎は東湖先生のもとで一生懸命勉学に励んだという。(松波治郎 『武士の子』 彰文館、 昭和17年 pp.68-70)

  さぁ~すが、東湖先生は凄い。六郎の奇策を一発で見抜いた。わざと騒ぎを起こし、門下生に捕まって東湖先生のもとへ連れて行ってもらうなんて、実に賢い。「おぬし、兵法を弁えているな !」と見つめる東湖先生の姿を想像すると何とも愉快だ。豪傑の知識人は普通の人間とは着眼点が違うものである。ちなみに、相良六郎は後に水戸藩士と力を合わせ、幽閉されていた水戸斉昭を解放すると共に、天下国家に尽くすべく、尊皇攘夷の志士と交流を深めたという。交際した者の中には、長州の吉田松陰や熊本藩の家老であった長岡是容(ながおか・これかた)、そして維新の英雄、西郷隆盛がいた。とりわけ、六郎は西郷と親しかったそうだ。六郎の噂は薩摩にも届いたそうで、藩主の島津斉彬は彼の志を称讃し、褒美としてだったのか、波平行安の名刀を一振り贈ったらしい。(流芳會 『勤皇實記水戸烈士傳』 上編第五巻、吉川弘文館 p.120) しかし、安政の大獄が起こると身辺が危なくなり、「渡邊純藏」と名を変え、全国の同志のもとを転々としたそうだ。そして、大阪の国学者萩原鹿右衛門の家に潜んでいた安政六年七月、病に伏して惜しくも四十八歳で息を引き取った。彼が亡くなってからしばらくして、水戸藩は櫻眞金の忠義に感謝し、彼の息子である春雄に禄を与えて、士籍に列したそうである。

父と子の壮絶な決意

  歴史上の偉人が誕生する背景には、その家庭環境が大きく影響している場合が多い。藤田東湖の父親は、水戸藩で随一と謳われた儒学者の藤田幽谷(ゆうこく / 正一)で、愛国主義の塊のような人物であった。東湖先生がまだ19歳(文政7年)の頃である。英国の捕鯨船が常陸(ひたち)の大津浜に現れ、その異邦人の船員が勝手に上陸したので、周辺の住民はひどく怯えたそうだ。そこで、幕府は代官の古山善吉と通訳の吉雄忠次郎を派遣して、詳しい事情を調べさせることにした。これを知った大津村の庶民は、必ずや幕府が夷狄を追い払い、みんなの心配を取り除いてくれるもの、と期待していたそうだ。しかし、実際は予想を裏切るものであった。使命を帯びた幕吏は、イギリス人に対面すると平身低頭、従順な狗(いぬ)の如き有様であったというから、この情けない姿を見た村人は愕然とした。

Fujita Yukoku 1Kurofune 2









(左: 藤田幽谷  / 右: 黒船を描いた絵 )

  しかし、裏切られた村人よりも怒っていたのは幽谷の方だった。彼は異国の野蛮人に手を拱(こまね)いている幕府に憤慨し、「今こそ、千載一遇の秋(とき)だ。幕府は姑息な態度をやめて、強硬手段に出てイギリスの船を焼き尽くすべし。だが、幕府の役人に、それだけの対外強攻策は執れまい」と思っていた。だから、この愛国心に燃える儒者は、他人を頼らず自ら成敗しようと考えた。しかし、彼には直接行動を取るだけの若さが無い。自分の無力さに切歯扼腕、イライラが募るばかり。そこで、居たたまれなくなった幽谷は、息子の虎之助(東湖)を自分のもとに呼びつけた。膝をつき合わせる息子を前に、幽谷は厳かな口調でこう述べた。

  虎之助。突然ぢゃが、今すぐお前の生命を投げ出して貰ひたいと思ふが、どうぢゃ。

この頼みは東湖にとって、まさに青天の霹靂だった。普段、滅多な事では物に動じない東湖であったが、不意討ちに近い言葉を聞いて、かなり当惑したらしい。それでも咄嗟に心を立て直し、「父上、国家のためならば、今すぐにでも、喜んで私の命を投げ出しましょう」と答えたそうだ。この返事を聞いて幽谷は感心し、話を続けることにしたが、その言葉には悲痛な覚悟が含まれていた。幽谷は毛唐の船が何度もやって来ることに腹を立て、この無礼をいつまでも放置しておくことは国辱であると話した。さらに、幕吏は姑息な遣り口で夷狄を還してしまうから、日本には具眼者が一人も居らぬ、という恥を晒すことになるだろう、とも危惧した。日本の現状を憂う幽谷は、激しい口調でこう息子に語りかけたという。

  そこでぢゃ。最早、尋常手段によってをられぬ。お前はこれから直ぐ大津浜へ出かけて、毛唐どもを鏖(みなごろし)にしてくれ。そして目的を達成したら、潔く当局に自首してくれ。これによって、日本の正気を少しでも、発揚することが出来たら、自分も満足ぢゃ。元来、自分の家は女子ばかり多くて、男子はお前ばかりである。お前が死んだら家は断絶ぢゃ。しかし、これも國のためなら、我慢せねばならぬ。(高須芳次郎 『維新留魂録』 大阪屋號書店、昭和17年 pp.103-104)

こう述べる幽谷の目には涙が光っており、その言葉に聞き入っていた東湖の頬にも、ポロポロと涙が流れ落ちる。親孝行な東湖は、「父上、承知致しました。では、これから直ぐにまいります」と告げ、目の前に坐っていた幽谷は、「よく云った。さすが、我が子ぢゃ」と喜んだ。そこで、幽谷は伝家の宝刀を取り出し、これを息子に与え、家宝を頂戴した東湖は急いで支度に取りかかったそうだ。ところが、壮絶な戦さに挑もうとする東湖のもとに、ある使者が訪れた。彼は事態の急展開を伝えに来たのである。曰わく、代官の古山が捕らえられた船員を釈放し、寛大な態度で英国船の代表者に接したので、捕鯨船はどこかへ去ってしまったというのだ。この知らせを聞いた幽谷は、ひどく落胆し、東湖も頻りに歯ぎしりをしていたそうである。

  東湖の行動が殺傷事件に発展せず、幕府としてはひと安心だが、それにしても藤田親子の発想は大胆不敵というか、現代に生きる我々には「無謀」としか思えない。だいたい、異邦人が神洲に上陸したくらいで、父親が息子に向かって「あいつ等を皆殺しにしてくれ !」はないんじゃないか。確かに、外国人が土足で我が国を蹂躙するんだから、幽谷が激昂するのも無理はない。また、事なかれ主義の幕府に腹を立てる気持ちも分かる。でも、いきなりイギリス人を斬り殺すなんて無茶だろう。第一、自殺行為だ。仮に、このミッションを達成できたとして、息子の東湖はどうなるのか? 彼の暴挙に青ざめた幕閣の面々が、「斬首刑にせよ!」と叫ぶのは目に見えている。しかも、死罪は東湖ばかりではなく、息子を唆(そそのか)した父親の幽谷にも及ぶだろう。親子揃って処刑となるのは明らかだ。平成の世に生きる日本の母親が聞いたら腰を抜かして驚くだろう。

  なるほど、藤田親子の考えは軽率だ。しかし、この両者には我々が失ってしまった日本人の魂が宿っている。昔の武士には命よりも尊いものがあった。それは国家の名誉であり、武人が求める徳目である。百姓とは違い、戦士は生き恥を晒しながら暮らすことはできない。なぜならば、それは奴隷の生き方だからである。たとえ豊かで安泰な生活であろうとも、他人の意思に服して生きるなら、それは誇りある人間が送る人生ではない。家畜と同じである。「何が何でも安全と平和が一番」という今にちの日本人とは、根本的な考え方が違うのだ。

  幽谷の言葉で注目すべきは、「藤田家」の断絶をも覚悟した点である。現代の我々だと子孫を残さず、独身のまま死ぬことは珍しくないが、昔の日本人は「家」の存続を何よりも大切に考えていた。戦国時代の武士は絶えず我が身を危険に晒しながら戦っていたが、そうできたのは「家系」の存続を信じていたからである。自分が討ち死にしても嫡男が家督を継いでくれるし、仮に、その嫡男が命を落としても、家門を継承する孫がいれば安心だ。しかし、跡継ぎが全滅してしまうと、家の断絶となるから、血統の存続を願う武士は哀しくなる。異邦人を追放するためとはいえ、跡継ぎの息子を犠牲にしようとした幽谷の心は尋常ではあるまい。こう考えれば、藤田親子の覚悟は相当なものであったと言えよう。

  現在、我々が危惧するのは経済政策、すなわち「お金儲け」だけで、国家の名誉が掛かっている軍事・外政には関心が無い。デフレ・スパイラルに陥った日本経済を見て、議員や官僚は「骨太の方針」とやらを提言するが、日本国民が注目すべきは日本が抱える病の方であろう。経済学者が指摘するまでもなく、日本は凋落の一途を辿り、益々国力が衰退する一方だ。何しろ、国民に活力が無い。政府がいくら「経済の活性化」を叫んでも、国民の精神が萎えているんだから、糠(ぬか)に釘である。情けないけど、武力を放棄した現在の日本人は、ただ、食って寝て排便するだけの毎日だ。あとは豊かで快適な生活を望むことくらい。政府は「骨太」を語るが、そもそも日本国民に「背骨」が無いんだから、クラゲに「重量挙げをしろ」と要求するようなものだ。学校教育で「強いことは悪」と習う日本人は、武力を以て名誉を守るという発想が無いから、支那や朝鮮に対しても卑屈なままである。活気に満ちた民族というのは、その根底に尚武の精神がある。強さへの憧れを抱く者には、明るい未来に対する希望があり、それを邪魔する者が現れれば、全力を以て叩き潰そうとする気概がある。現在の日本に停滞感や閉塞感が漂っているのは、独立不羈の精神と重武装への意思が欠けているからだろう。今と比べれば明治の日本は貧しかったが、明日への希望に満ちており、軍事力を強化して独立を守ろうという意欲に燃えていた。遠回りのように見えるけど、「命よりも大切な祖国がある」と目覚めなければ、国家再生の道は無い。案外、「強い日本」を目指したときに、経済の活性化が現れるのかも知れないぞ。



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炯眼の持ち主が選ぶ人物 / 左内に感服した西郷

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碌でなしの代表が選ばれる制度

  大東亜戦争に負けてからというもの、我が国の知識人は祖国を誹謗するたにめに「アメリカン・デモクラシー」を讃美した。しかし、その気持ちとは裏腹に、学校秀才になればなるほど、左翼教授からエリート意識を鼓舞され、「日本の未来は社会主義にある」と叫んでいたし、そう口走ることがインテリの証しでもあった。ところが、彼らが崇拝するソ連は音を立てて崩壊し、頼みとしていたロシア人までもが資本制経済に移行し、日本支店の共産主義者は面目丸つぶれ。しかも、石油成金のオリガルヒまで登場したんだから、進歩的知識人は立つ瀬が無い。中には「赤旗」をこっそり降ろして、いっそのこと「緑の党」にでも転向しようかなぁ、と考える共産党員もいたりする。最近の若い党員だと、「プロレタリア革命って何ですか?」と訊いてくるから、白髪のベテラン党員は愕然とするらしい。「レーニン」と聞いて「冷麺?」と聞き直すようじゃ共産党の未来は無いだろう。

  オールド左翼は昔が懐かしい。今では社民党は絶滅寸前だし、共産党も固定票の多くが立憲民主党に食われてしまい青色吐息。左翼インテリの輝かしい雑誌であった『世界』も、今では図書館の片隅で埃(ほこり)を被っている。名門校の大学生でも、「世界」と聞いたらディオのスタンド「ザ・ワールド」を真っ先に思い浮かべてしまうんだから、時代の変化は恐ろしい。現在の高校生には信じられないが、『朝日新聞』はインテリ層が読む新聞だった。これを初めて聞く高校生だと「えっ、猫ちゃんのオシッコ・シートじゃないの?!」と驚いてしまうが、昭和30年代から50年代末くらいまでは、藤原道長を真似て我が世の春を謳歌していた。まさか、天下の朝日がこれほど凋落するなんて、ロシアの占い蛸(タコ)でも予想していなかったんじゃないか。でも大丈夫。日本には数千万の支那人が押し寄せてくるから、社説や記事を全部支那語で書けば、朝日の販売部数は飛躍的に伸びるだろう。しかも、「朝日新聞」という看板を“さらり”と「人民日報東京版」に付け替えるだけだから、お金はかからない。NHKも北京語で放送すれば、厖大な受信料が入ってくるはずだ。ただし、あの狡賢い支那人のことだから、1人の契約で10万人が不正視聴するかも知れないぞ。

  脱線したの手で話を戻す。敗戦後、我が国では「民主主義」が「平等主義」と重なって、恥を忍べば誰でも政治家になれ、議員の条件すら満たさぬ輩までが政務次官や大臣にまでなれるようになった。昭和30年代くらいまでは、戦前の気風を持つ国会議員が残っていたので、多少気骨のある党人が政界で目を光らせていた。(三木武吉や大野伴睦、岸信介がいた頃が懐かしい。) ところが、田中角栄の登場で金権政治が定着し、お金の為なら主義主張はもちろんのこと、国家まで売り渡したって構わない、という輩(やから)が多数を占めた。海外支援という名の下に、天文学(額?)的税金が支那に渡され、この貢ぎ物で北京政府は軍拡と経済発展を進めることができた。「日中友好」に浮かれた日本国民は、自分が払った税金で安全を脅かされ、その対策として高額なミサイル防衛システムを米国から購入する破目になったんだから「憐れ」としか言いようがない。それにしても、支那人は他人をたらし込む天才だ。パンダを貸してもらったくらいで「親切な支那人」と考える黒柳徹子は、一度この素晴らしい暗黒大陸に住んでみろ、と言いたくなる。長寿番組を誇るこの司会者は、自分の部屋に胡錦濤でも招いて、どんな風にチベット人を虐殺したのか聞いてみるべきだ。あまりの恐ろしさで、顔の皺(シワ)が伸びるかも知れないぞ。同時通訳にはアグネス・チャンでも呼んでやれ。ハブとマングースの記念写真よりも貴重になるから。

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(左: 田中角栄   /  三木武吉  /  大野伴睦   /   右: 岸信介 )

  結論を先に言うと、日本人に民衆政治は向いていない。つまり、政治に関心の無い民衆が政治家を選ぶなんて制度は、利益よりも害の方が多いのだ。そもそも、「選んだ者に責任が無い」という仕組みがおかしい。藝人やスポーツ選手ばかりではなく、極左分子まで議員になるんだから、「こいつに入れたのは誰だ?」と叫びたくなるじゃないか。アントニオ猪木や大仁田厚、神取忍、馳浩の面々を見れば、永田町で「イノキボンバイエ」でも始めるのかと勘違いされるだろう。また、人寄せパンダの三原順子は何をしているのか? 彼女はデビュー当時、第二の山口百恵を目指していたが、途中で人気が失速し、カーレーサーに転向するも、いまいちパっとしなかった。という訳で、安定収入を目指して参院選に出馬し、やってみたら見事に当選。“女性議員”という看板を掲げて、介護と女性を「専門」にするが、一番熱心だったのは再婚相手の中根雄也を私設秘書にしたことだろう。寝室で「セクシー・ナイト」を唄えば盛り上がるけど、国会議事堂は「夜のヒットスタジオ」じゃないぞ。

  我が国の大衆政治には疑問点がいっぱいだ。例えば、庶民に参政権の無い武家社会からは、優秀で高貴な人材が次々と輩出されたのに、敗戦後、平等主義が定着し、誰もが等しく政治に参加できるようになると選ばれた代議士がクズばかり、なんておかしいじゃないか。民衆を代表する議員が民衆を搾取し、国益を損なうことでも平然と行っているんだから、「戦後民主主義」とやらを讃美していた知識人は自ら筆を折るべきだ。ただし、有権者の方にも言い訳があって、立候補者がどれもこれも凡庸で魅力に欠けるから、自分が投票した人でも、自分が欲した人ではなく、「仕方なく」選んだ議員である、というケースもある。おそらく、共産党や社会党、公明党には入れたくないから、“しょうがなく”自民党に入れた、という国民も多いんじゃないか。学者はゴチャゴチャ政治理論を述べるけど、日本人は武家政治と民衆政治の両方を“社会実験”してみて、「民主主義」に幻滅したというのが本音なのかも知れない。

  日本人には民衆政治に関して深刻な誤解がある。みんなで投票すれば、素晴らしい議員が選ばれる、という幻想だ。民衆から選ばれた人でも、民衆のために働くとは限らない。むしろ、投票したくれた人を裏切り、国民を騙したり、国家に害を為す法案を通したりする。面白いことに、制限選挙の時は皆が投票権を欲しがったのに、普通選挙が当り前の時代になったら、急にその熱気が冷め、「無党派層」なる者が3割ないし4割も出てきてしまい、中には投票所に行かない人まで現れてきたのだ。しかも、欠席の理由が「当日に雨が降っていたから」とか、「家族と遊園地に行く予定があったから」、「昼寝していたら夕方になってしまったので止めにした」という言い草なので呆れてしまう。結局、多くの国民にとって、政治は「他人事」あるいは「自分の一票ではどうにもならない巨大な化け物」となっていた。だから「優秀な役人にお願いしまぁ~す」、とか「政治家に丸投げしとけ!」という態度になるんだろう。

Shimazu 1(左  /  島津斉彬)
  優秀な人物が選ばれるのは、その人と同等か、更にもっと優秀な人が選ぶ場合だ。一般的に、アホが凄い人に憧れる事はあっても、愚者が天才を見出すことはない。英雄は運命の女神によって導かれるし、逸材は名君によって「一本釣り」されて輝く。我々は歴史上こうした例を幾つも見てきた。例えば、明治維新の傑作である西郷隆盛は、主君である島津斉彬によって抜擢され、名も無き農政事務員(郡方書役助)から藩主に仕える小姓(御庭方役)にまで出世し、後に天下を動かす元勲となった。もし、斉彬公が西郷吉之助の意見書に目もくれず、単なる下級藩士の嘆願書と捨て去れば、日本史に刻まれる偉人の姿は無かったはずだ。

  元々、お殿様というは世襲君主なので、選挙を気にせず自由な人事異動を断行できるし、隠居した後の天下り先を心配する必要も無い。普段から藩政を考え、有能な人材を求めているから、「これぞっ!」と思った藩士に出逢うと、ためらわず登用し、懸案の仕事を任せることがよくある。たとえ、重臣たちが反対しても、鶴の一声で「余の勝手じゃ !」と言い切ることも可能なので、今の政治家にしたら溜息が出るほど羨ましい。ある意味、お殿様は終身独裁官なので、どんなに身分が賤しい家来でも、有能ならば自分の側近にして「試しに、やってみよ !」と命ずることができる。だいたい、最初から偉い地位に就いている藩主だから、それ以上の出世は望まないし、家臣や領民に媚びて再選してもらう必要も無い。しかも、手元に豊富な資金を有しているから、仕事を任せた者に気前よく活動資金を渡すことができる。こうしたお殿様は今の国会議員とは違い、政務活動費を“節約”したり、“ちょろまかして”住宅ローンの返済に当てるとか、女房とのディナー代に回すといったセコい真似はしないものだ。

西郷の侮り、左内の卓見

  主君に一本釣りされた西郷だが、その西郷も人を見る目があった。この偉人にまつわる逸話は幾つもあるが、幕末の知識人、橋本左内との邂逅(かいこう)は特に素晴らしい。越前福井藩に生まれた左内は、京都や大阪で学を修めると、医者である父彦世(ひこよ)の後を継ぐはずであった。しかし、藩主の松平慶永(春嶽)は左内の才能を惜しんで、「汝こそは、人心の病を癒やすより、国家の病を癒やすに足る者だ」と評したそうだ。(松波治郎 『武士の子』 彰文館 昭和17年 p. 82) 維新の功労者となる藩主は、左内を親衛隊に編入させ、江戸に遊学させようとした。これを耳にした左内は感泣し、天下の志士となろうと決意する。

  左内の素質は幼い頃から抜きん出たようで、その頴才(えいさい)は周囲の者を仰天させたという。例えば、彼が10歳くらいの時、父に連れられ御典医である半井仲庵(なからい・ちゅうあん)の家に赴き、蘭学の講義を受けたことがあるそうだ。仲庵が講義を終えると、左内は半井先生の前に進み出て、次の講義会までその蘭学書を貸してくれと頼んできた。仲庵先生は「馬鹿な事を言っちゃいけないよ。面白い絵もついていないんだから」と諭したが、それでも左内は引かず「ぜひ読みたい」と言って懇願したそうである。仲庵は「生意気な小僧だ」と思ったが、父親の彦世も「大切にさせますから」と頼むので、仕方なく貸したそうだ。

  そして、次の講義の日が訪れた。左内が約束通り蘭学書を返しに来たので、仲庵は「どうだ、読んだか?」と冷やかし半分に尋ねた。すると、左内は怖じ気づくこともなく、「読みました」と答えたそうである。仲庵は「この小童(こわっぱ)め、10歳程度で蘭書が読めてたまるか!」と心の中で思ったそうだ。そこで、仲庵は蘭学書を開いて、「じゃあ、ここを読んでみないさい」と突きつけた。すると、この児童はニッコリ微笑んで、すらすら読めたという。仲庵は「あっ!」と仰天し、しばらく開いた口が塞がらなかったそうである。驚愕する仲庵先生は息を整え、「ど、どうして読めるようになったのか?」と小さい声で訊ねた。左内曰わく「あれから家に帰って、母親に蘭学字典を買ってくれとせがみ、昼も夜もずっと本を読み続け、貸してもらった蘭書を半分くらい読んでしまいました」、と。これを聞いた仲庵は「参った !」と頭を下げ、左内に向かって「その蘭書をあげます。勉強しなさい」と提言した。左内少年は貴重な蘭学書をもらってウキウキしていたそうだ。こうやって帰って行く子供の後ろ姿を見て、仲庵は思わず「末恐ろしい俊才じゃ。いや菅公の生まれ代わりだ」と感嘆したらしい。(上掲書 pp.75-77)

Hashimoto Sanai 1(左  / 橋本左内 )
  こうした神童が成長し、あの西郷南洲と出逢うことになるんだから、我が国の歴史は本当に面白い。橋本左内が西郷に面会を申し込んだとき、西郷は大好きな相撲を取っているところだった。当時、西郷は丁度30歳。活力に満ちたその巨体はまだ肥満で病んでいなかった。晩年の西郷は馬にも乗れぬほど太っていたから、明治天皇がホフマン医師を派遣して診察させるくらいだった。一方、左内は五尺(150cm~155cm)ほどの小柄な男で、どちらかと言えば女のような体型をしており、しかも色白ときている。とても、豪傑の風采ではない。しかし、この対照的な二人には共通点があって、それは祖国に対する献身であった。

  安政四年、天下の政治に奔走する左内は、芝田町にある薩摩邸を訪れ、西郷の高名を慕っているので、ぜひともその高説を聴きたいと願い出た。最初、左内を目にした西郷は、「何だ、この色白でなよなよした男は!」と軽蔑し、「豆粒のような奴だから、オイどんの下駄の歯に嵌まりそうだ」と腹の中で嗤(わら)っていたそうだ。そんな事はどうでもいい左内は、ペリー来航で激動する天下の政治を滔々と語り始めた。すると、こうした左内を前にして、「ちょこざいな奴」と思った西郷は、意図的にとぼけて見せた。「この吉之助は天下の大事ぢゃの、国家の安危ぢゃのという事は一向に申さぬ。ただ、土俵をこしらえて毎日相撲をやるばかりぢゃ。角力(すもう)の事なら少しは詳しい。御身も角力がやりたくば、オイどんの處までおいでなさい」とあしらったそうである。

Saigo Takamori 1(左  /  西郷隆盛)
  並の男なら、小馬鹿にされて激怒するところだが、器量の大きい左内は冷静に構え、「左様でござるか、先生は御体格が御立派であるから、角力取りにおなりなすったら、なるほど幕内くらいにはなれるでしよう。が、惜しいかな、国事多端、先生の御本望である角力取りにはなれないでしょう。御心中お察しします」と応えたそうだ。西郷は「此奴、身体に似合わず不敵な奴ぢゃ!」と思いながら左内を見つめると、好機到来とばかりに、左内は自分の意見を口にした。左内は現在の政治的混乱や日本の稚拙な外政について理路整然とした持論を述べ、懐からアジアの絵図を取り出すと、西郷に冷徹なる世界の情勢を示したという。左内は清朝皇帝の逃亡や、英仏に侵食されている支那の惨状、将来における英米との貿易について語り、膝をつき合わせる西郷の目を見据えると、「先生の御意見はいかがでござる」と迫ったそうだ。

  この論説を聞いた西郷は、左内の炯眼(けいがん)に驚く。さっきまで侮っていた巨人は、自らの膝を前に進めると、我を忘れたかのように両手を突いて頭を垂れた。「これは恐れ入った御卓見、先刻来の御無礼はお許しください。どうか今日はこのままお引き取り願い、改めて不肖西郷の門を叩いていただき、さすれば我が所見をの述べましょう」と西郷は謝ったそうだ。左内はニッコリ笑って「さすが西郷先生、言葉を卑(ひく)うして今の御挨拶、実に恐れ入りました。この後、御交際下さらば、我が身の為め喜ばしきのみならず、国家の為め喜ばしく存ずる。瓢(ひさご)も三個よれば転ばずに立ちます」と返した。(小金井蘆洲 『西郷南洲』 博多成象堂、大正7年 pp.108-109)

  西郷隆盛の素晴らしい点は数々あるが、自分の非を正直に認め、即座に謝罪するところなど、本当に純粋な人柄であると誰にでも分かる。普通の有力者は、格下の者がいきなり来訪すれば、ちらっと目にしただけで「つまらぬ奴」と見下すし、面倒だと思えば「今は忙しいから」とか「またにせよ」と門前払いだ。西郷も外見だけで左内を判断したが、左内の話を聴いて悔悛し、自分の無礼を詫びたんだから偉い。この両雄はたった一回の会見で、百年来の友人であるかの如く親しくなったという。以来、西郷は左内と交際を続け、周囲に向かってこう述べたそうだ。

  先輩では藤田東湖先生、同輩では越前の橋本、人物としてはこの両人を推す。(『西郷隆盛』 文永館、大正4年 p.47)

  勤皇の志士たる左内は、一橋慶喜を将軍に立てようと奔走し、京都では名前を桃井亮太郎、あるいは伊織と改め、日夜、志(こころざし)を同じくする人物と交わって天下に尽くそうとした。しかし、、井伊大老は「安政の大獄」を起こし、安政五年九月、左内は多くの同志と共に捕縛されてしまう。幕府に捕まっても左内の信念は揺るがず、獄吏からの拷問にも耐えていた。左内は獄吏から厳しい尋問を受け、水戸斉昭に送った内旨(ないし)について吐くよう強いられたが、決して口を割ることはなかったという。それどころか、左内は獄吏に向かって「内旨は秘密だから内旨と言うのだ、分からぬか!」と反対に叱り飛ばしたというから、何とも凄い。この頑固さが引き金となったのかのか、橋本左内は僅か二十六歳で命を落とすことになった。激動の時代だから仕方ないけど、幕末維新には、数多くの有能な人物が志半ばで亡くなっている。もし、左内が明治維新を迎えていたら、どんな役職を担っていたことか。本当に惜しい逸材を失ったものである。

生まれた時から為政者を目指す武士

  昔の武士と現在の議員との決定的な違いは、公(おおやけ)に対する態度である。情けないけど、人民投票で選ばれる国会議員には、当選してから“勉強”する者が少なくない。しかし、その勉強も狡猾な官僚からの「レクチャー」だから、実質的には上品な「洗脳」と変わりがなく、いつの間にか役所の代弁者になっている。例えば、「日本は借金大国だから、国家破産を防ぐためにもプライマリー・バランスの達成は急務で、何としても消費税をアップさせねばなりません !」、と官僚から説教されれば、アホな議員は「そうだ、困難な増税をやってこそエリートなんだ!」と粋がる。これを聞いた高級役人は、同僚とお茶を飲みながら「政治家の先生どもは単純だからさぁ」と微笑む。なるほど、「担ぐなら、軽くてちょっとパーがいい」とはよく言ったものだ。

  一方、武士は幼い頃から公のために学問と武藝に励み、絶えず精進しようとする。物心ついた頃から、「世の為人の為に尽くせ」と周囲から諭されるので、10歳くらいでも一端の心構えが出来ている。書物を読むのも、剣の腕を磨くのも、すべては公に捧げるためで、私的な欲望を満たすための手段ではない。西郷が学問を修めたのも公のためで、国家や庶民を救うためなら自分の命は省みない。農民を担当する下級役人となった西郷は、心の底から百姓をいたわり、何の見返りも求めず、只ひたすら彼らの生活を案じた。西南戦争のときも、薩摩の不平士族を満足させるために、敢えて担がれたのだ。つまり、戦(いくさ)で痛い目に遭わないと桐野利秋たちは納得しないから、勝てないと判っていても、西郷は文句も言わず「担がれて」やったのだ。いや、むしろ西郷は自滅をわざと選んでいたのかも知れない。

Yoshida Shoin 1(左  /  吉田松陰)
  蘭学を修めた左内も公に尽くすことを当然と見なし、貧しい者や憐れな者に救いの手を差し延べていた。例えば、彼が適塾にいた頃、夜中に度々、外出することがあったという。実は、夜遊びではなく、病に苦しむ貧乏人を診ていたのだ。鼻を突くほど臭い乞食であったが、左内は一向に気にせず、親身になって診断し、無償で薬を与えてやったという。そして、天下の政治(まつりごと)に係われば、命を惜しまず、危険な事でも敢えて行った。左内には、他人に知識をひけらかして出世しようとする打算は一切ない。全身が「お国の為」という精神で満ちていた。昔の武士には、たとえ我が身が朽ち果てようとも、きっと誰かが自分の意思を引き継いでくれる、という信念があった。実際、斬首刑になる前、牢獄に繋がれた吉田松陰は『留魂録(りゅうこんろく)』を執筆し、そのほとばしる情熱は高杉晋作らに引き継がれていた。たぶん、多くの志士が同じような育ち方をしていたから、左内や松蔭の魂に“共振”したのだろう。こう考えると、両雄の死は決して無駄ではない。彼らの肉体が灰になって土に還ろうとも、その精神は不死鳥のように蘇り、同じ肉体を持つ日本人へと受け継がれて行く。

  今の代議士には、祖国への限りない愛と大義に殉ずる士魂が無い。彼らにとっては、当選することが最大の課題で、目出度く役職に就けば、利権漁りと再選への準備で大忙し。国家の經綸は官僚任せで、地元で開催される運動会や、後援者の結婚式と葬式に出席することの方が遙かに重要だ。また、議員らしく見せるための演説には、自分の決意というものがほとんどなく、官僚が作成した原稿を読むだけ。政務次官や大臣になっても、専門知識が無いから、単に威張っているだけの木偶(でく)の坊。 しかも、国政を任された為政者という意識がないから、国家の命運を左右する軍事・外政には関心が無い。というより、票にならない苦労はしないという方針だ。そもそも、投票権を持つ一般国民が無頓着なんだから、代議士が無視するのも当然だろう。中高年は血圧が高くなってしまうけど、大多数の議員はだいたいこんな調子である。どおりで、国家破壊を悲願とする左翼議員が幅を利かすようになる訳だ。「民主主義」だと民衆が不幸になるんだから、何とも皮肉な現象である。凡庸な議員が大量に出現することは仕方ないけど、せめて「公の職務」に就いているという自覚だけは持ってもらいたい。いやしくも、国会議員たる者は矜持(きょうじ)を持つべし。売国行為はもちろんのこと、文書交通費のネコババとか、政務活動費の不正使用なんて論外だ。

  だけどさぁ、哀しいことに、普通の議員はノンポリなんだよねぇ。考えたくないけど、「うぁぁ、消費税アップになるんだ。どうしよう。今のうちに経費で愛人の下着を買っておかなくちゃ!」という議員がいたら、本当に頭が痛くなる。でも、その愛人が公設秘書になっていりするから、国民は唖然としてしまうんだよねぇ。夏休みを取る議員の中には、「視察旅行」と称してパリやローマに「浮気旅行」をする奴がいるかも知れない。炎天下の中で汗を流す庶民は「えっ!?」と驚かないように。



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