無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2018年07月

日本に怨念を抱く法学者 / 小林節の赤い憲法学 (後編)

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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女系天皇を誕生させたい左翼学者

  前回、竹田恒泰が小林節に対し遠慮しがちであることについて述べた。竹田氏は自ら認めている通り、小林教授の『憲法守って国滅ぶ』を読んでいるから、恩師の皇室観がどのようなものか解っているはずだ。小林節の主張を吟味すれば、一般人でも、この対談相手には皇室への尊敬が殊のほか薄く、我が国の伝統に関する愛着が無いことに気づくだろう。竹田氏は対談本の中で糾弾しなかったが、小林節は天皇陛下よりも「国民」を上に位置づけている。すなわち、天皇陛下が我々よりも「格下」の存在になっているということだ。小林節の学説を応用すれば、「主権者」である我々は、陛下の法的地位と将来の運命を決める「権能」を持っていることになる。これは驚嘆すべき発想で、昔の日本人なら畏れ多くて、とても口にすることが出来ない。

  しかし、「天皇制は文化的遺産」と嘲笑う憲法学者には、庶民が皇室に対して抱く尊崇の念は見当たらず、彼にとっては皇室伝統など歴史の遺物に過ぎない。例えば、小林節は男系男子による皇位継承に異議を唱えている。なるほど、小林は憲法第二条、すなわち皇位の世襲制に関しては、歴史的背景を考慮して「当然」と考えているようだが、男系である「必然性は無い」と述べていた。この改憲論者は、男女平等の第21世紀において、国家の象徴を男系に限るなどということは「時代錯誤」と評していたのだ。(『憲法守って国滅ぶ』 p.135) そこで、小林節は現憲法の第二条を改正し、“性別に係わらない”皇位の継承へと変更すべき、と提唱する。つまり、皇太子殿下のもとにお生まれになった一番目の赤ん坊が“たとえ”女の子であっても、性別に関係無く将来の天皇にすべし、というのだ。小林は女帝の先例を挙げながら、皇室の慣行は時代状況の中で変わってきたし、「これからも変わって行くはずだ」と述べ、天皇制といえども男女平等の原則に照らし合わせれば例外ではないと言い放つ。(上掲書 p.136)

  小林節は実に狡猾で、脈々と続いてきた皇室の存在を認めながらも、「これからは“主権者”である国民が皇室の制度を決めるんだ よ !」と宣言していたのである。要するに、男系男子のみによる皇位継承など時代錯誤で、男女平等に反するから、遠慮無く「国民が制定法で変えちまえ !」ということだ。普通の庶民なら、こんな立法を聞けば、「傲慢不遜、陛下に対し不敬であろう !」と激怒するが、小林節は「むしろ健全な憲法感覚」と述べていた。まさしく、「国民主権」恐るべし。もし、国民を代表する議員が多数決で法案を通して、女系天皇も作り出せるとか、皇位継承順位も変更できるということになれば、国民次第で皇室を廃絶し、民主的な「日本人民共和国」の樹立も可能という訳だ。表だって小林節は皇室抹殺を叫ばないが、次のように“提案”している。

  憲法の改正に際しては、是非とも、法制度としての天皇制の存廃を皆で真剣に議論してもらいたい。今のままでは、天皇制は真の国民的合意の上に存続しているとは言えないはずである。(上掲書 pp.136-137)

  皇室の存在に関して国民の合意が無い?  もしかして、小林節の周りに居る「国民」って共産党シンパなのか? 確かに、共産主義にかぶれた大学生やジャーナリスト、進歩的文化人を気取ったインテリ層などは、皇室撲滅を叫んでいたけど、健全な日本人は決して「皇室無き日本」を望まず、皇統の永続を願っている。毎年、正月になれば、多くの国民が宮城(江戸城)に赴き、皇族の御尊顔を拝することを喜んでいるのは周知の事実。そして、何らかのイベントや式典で陛下がご訪問となれば、みんなウキウキしながら陛下のご到着を待ちわびるし、陛下に謁見できれば感涙で咽(むせ)ぶことが多い。大多数の国民が皇室を支持しているのに、改憲の際、わざわざ「国民投票にかけて皇室の存続を決めろ」、なんて狂気の沙汰である。

  日本国民は大東亜戦争の敗北で帝國陸海軍を失ったが、皇室だけは必死で守り、何が何でも残そうとした。それなのに、小林節は「国民の合意が無いから議論しろ」と言う。これはどういう了簡なんだ? 対談相手の竹田恒泰は女系天皇に反対で、男系男子の皇位継承を支持していたはずだぞ。どうして、小林教授に対し、「私はあなたと意見が全く異なります !」と言えないのか? 皇位の継承に「時代錯誤」とか「男女平等」など関係無い。竹田氏は女性天皇を誕生させたいと謀る知識人や政治家に反対し、舌鋒鋭く徹底的に反論していたのに、どうして恩師に対しては黙っているのか? インターネット放送の番組では、女系による継承を斥け、男系男子による皇統を熱心に説いていたのに、恩師については「パス(回避)」なんて卑怯だ。ちゃんと小林節の目を見据えて、きっぱりと否定すればいいじゃないか。わざと「触れない」とすれば、竹田氏には裏の顔があるということだ。

マッカーサー憲法は有り難かった?

  日本では不思議な現象があって、法学部出身者には廃憲論者が極めて少ない。いくら出来の悪い学生でも、現憲法が占領期に作成され、原文が英語ということくらい知っているはずだ。そもそも、日本人の憲法なのに、どうして外国人、しかも日本を「兇悪犯」と断罪する勝者が適当に作った草案なのに、未だにそれを後生大事にしているのか? 「私が武器を持てば再び侵掠者になってしまうので、今後一切軍隊をもちません」という詫び状なんか、さっさと捨ててしまえ ! 現憲法の前文を読めば、誰だって「こんなモノ !」と吐き捨てたくなるじゃないか。さらに、驚愕すべきは、その誕生過程である。つまり、占領軍が準備した帝國憲法改正草案を日本政府が“恭しく”戴き、日本国民が抵抗も無く新憲法にしてしまったことだ。マッカーサー草案が枢密院の審議をすぅ~と通過し、貴族院でも参議院でも圧倒的多数で可決され、再度枢密院にかけられても賛成多数なんだから呆れてしまうじゃないか。国家の基本となる憲法となれば、採決までの議論が白熱し、賛成派と反対派が拮抗するのが普通だ。たとえ、賛成されるにしても、僅差で可決されるのが通常である。なぜ、こうした異常事態が罷り通ったかと言えば、当時、日本はまだ占領期間中であったからだ。

  普通の国だと、占領軍が撤退すれば、こんな穢らわしい「桎梏」は即座に廃棄だろう。ところが、日本では不可能だった。なぜなら、東大を始めとする各大学の憲法学者が、こぞって改正と廃止に反対したからである。本来なら、法学部の教授や卒業生が、マッカーサー憲法の廃止を訴え、廃憲派の圧倒的多数を占めるはずだ。それなのに、法学部出身者のほとんどが護憲派で、憲法改正にすら消極的というのが現状である。日本の弱体化を望む憲法学者は、しきりに「マッカーサー憲法を廃止すれば社会が混乱し、軍国主義の復活になる !」と騒ぎ立てる。学者の権威に弱い一般国民がこうした警告を耳にすれば、「そうなのか ! やっぱり、廃憲は危険な考えなんだ」と思い込む。でも、実際は廃憲の方が改憲よりも簡単で、遙かに効率的なのだ。だいたい、国会議員の3分の2以上を獲得し、国民投票で過半数以上を要するなんて現実的ではない。必ずや、テレビをはじめとするマスコミの大反対が一斉に湧き起こるだろう。

  竹田氏は占領憲法の実態を知っているのに、廃憲派ではない。小林節はよほど戦前の日本が嫌いなのか、占領軍による「押しつけ憲法」でも構わないと言いのけ、呆れたことに、「いいものをくれてありがとう」と感謝の意を述べているのだ。(『憲法の真髄』、KKベストセラーズ、2018年、p.135) また、竹田氏も占領憲法の存続に肯定的である。なぜなら、敗戦後の国際世論には、ソ連につられて「天皇を消せ !」という意見もあったので、マッカーサー憲法が無かったら皇室が滅びていたかも知れないというのだ。したがって、竹田氏は「最終的に日本が残り、皇室が残り、国家として存続したことを考えれば、怪我の功名とでも言ったらよいでしょうか」と評している。(上掲書 p.135) ほぉ~んと、お坊ちゃま育ちは甘いよねぇ~。確かに、マッカーサー元帥の意向で皇室が残ったことは幸いだったが、だからといって、国家の独立と軍隊の設立を否定する置き土産を占領期間が終わっても温存する理由にはならない。竹田氏は「押しつけだから、一方的に無価値とは限らない」と述べているが、日本の衰弱を招く元兇が現憲法にあることを忘れているんじゃないか。

  護憲派も改憲派も「押しつけ」と言うが、憲法問題の核心は、左翼勢力が敗戦と占領を利用して、軍隊無き日本を狙ったことにあるのだ。左翼学者たちは米軍を憎んでいたが、日本の軍事力を封じ込める憲法を有り難く思っていた。なぜなら、敗戦後間もない頃だと、「いつかはソ連の赤軍が日本に上陸し、忌々しい愛国主義者と天皇制を叩き潰し、俺たちの天下になるんだ !」と夢見ていたからである。今となってはアホらしい妄想だが、1960年代までは共産主義国に勢いがあり、我が国のインテリどもは官僚による計画経済の方が優れていて、軍事的にもソ連がアメリカを凌ぐと信じていたのだ。赤く染まった日本の知識人は、ソ連軍が侵攻しやすいように、米軍を日本から追い出し、赤絨毯でスターリンを迎えたいと思っていた。彼らが熱心にスターリンを讃美していたのは、占領された暁(あかつき)に、「私は昔からスターリン元帥を褒めていました」というアリバイを提示するためだ。情けないけど、青瓢箪の知識人は、自分で共産主義革命を実行できないので、ロシア兵にすがって日本転覆を謀っていたのである。左翼から転向した清水幾太郎が告白していたけど、進歩的文化人どもはソ連上陸を本当に心配していたんだって。大学教授なんか、学生の前では傲慢不遜で、偉そうに説教を垂れるが、兇暴なロシア兵を前にすれば、米つきバッタのように土下座するんじゃないか。

靖國神社は本来の神道に非ず?!

  竹田氏は面と向かって指摘しなかったが、小林節には日本に対する怨念があるようだ。例えば、我が国を敗戦に導いた共産主義者の官僚や赤い軍人を批判せず、天皇陛下を熱烈に敬愛する臣民や勇敢に戦った軍人を嫌悪している。彼は大日本帝國憲法で国民が「主権者」ではなく、天皇に従う「臣民」となっていから、敗戦になったのだと考えている。小林節は「いかれた戦争」や「いかれた敗北」という言葉を以て戦前の日本を激しく非難するが、軍国主義者がいなかったことには言及しない。というより、「軍国主義者の不在」に気付いていないのかも知れないぞ。この点に関しては省略するが、第二次世界大戦に詳しかった小室直樹先生は、「日本に軍国主義者なんていなかった」と喝破した。普通の日本人が聞けば驚いてしまうが、じっくり考えてみれば、この発言には納得できる点が多くある。生前、小室先生は「戦争計画も無しに戦争を始める日本は戦争音痴だ !」と怒っていた。まぁ、憲法しか勉強しなかった小林節には理解できまい。

  小林節は一応、神道に理解を示すが、その根底には日本に対する怨みが満ちている。例えば、彼は靖國神社を「大日本帝國の徒花(あだばな)みたいなもの」と評している。(『憲法の真髄』 p. 193) そして、「靖國神社は日本の伝統神道ではなく、戦意高揚のために軍国主義用に特別誂(あつら)えされたもの」、と吐き捨てる。彼は靖國神社に「軍神」が祀られていることを挙げ、竹田氏に向かって「現代的な目的はどこにあるのでしょう?」と尋ねていた。(p.194) もう、溜息しか出ない。この憲法学者は靖國神社の英霊に何らかの現代的な「効用」とか「必要性」ないし「目的」を求めているのだ。靖國神社は爽やかな気分を味わうための水族館じゃないし、リラックス効果を図ったリゾート施設じゃないぞ。我々は国家に命を捧げた英霊に感謝するため、毎年八月になれば靖國神社に参拝し、散華した将兵を偲んで涙を流しているのだ。生きて日本に還ってきた軍人は、戦場で亡くなった戦友に再会するため靖國を訪れるし、遺族も同じ思いでやって来る。それなのに、こうした人々に対して、「現代的な目的は何ですか?」と尋ねる奴がいるのか。小林節にはマンチカンの猫パンチじゃ足りないから、マーク・ハントの右フックが必要だ。それが駄目なら、代わりにミルコ・クロコップの左ハイ・キックでもいいぞ。(これは筆者の希望だけど、蝶野正洋は山崎邦正を叩いてないで、今年こそは小林節をビンタしろ。)

  法学部ばかりじゃないけど、日本の大学が悉く左翼の巣窟になっているのは、赤い教授が長老になって学部を支配し、気に入った講師や助手を「後継者」に指定するからだ。つまり、自分の乾分(こぶん)を出世させて、自分の路線を固めているんだろう。こうした蛸壺状態だと、学界の大御所を批判する若手は育たない。というより、優秀な研究者は芽の内に叩き潰されてしまうのがオチだ。だから、法学部の実態や因襲を目にした秀才は、大学院に進まず、自分で会社を興したり、弁護士資格を取って独立する道を選んでしまうだろう。そもそも、指導教授に媚びて大学院に進むような学生には、「残りカス」のような凡才が多く、最高学府には大学教師にしかなれない駄馬が多い。悲しいことだが、一般国民は文系学部の惨状を知らないから、大学教授に過大な信頼を寄せている。特に、難しい専門用語や六法全書を暗記した学者に逢うと、「うぁぁ~凄ぉぉい ! 私なんか、半分も覚えられない」と感嘆するが、こうした学者には判断力が極めて低い、という事には気がつかない。一般人は裁判官や弁護士が「どんな」風に法律を解釈するのか、という点に着目せず、ただ難しい試験に合格したという「身分」に囚われる。ちょうど、科擧に合格した官僚を羨む支那人と同じで、難しい文章を朗読できるから「優秀」と思い込む。「何でこんな奴が最高裁判事になれたんだ?」と眉を顰めたくなる裁判官は実に多く、島田仁郎とか園部逸夫を思い出せば分かるじゃないか。それにしても、最高裁判事と言えば国家機関の要職なのに、どんな人物が任命されるのかに関心がないんだから、日本人が信じる三権分立は本当に怪しい。

  竹田氏のファンは「新刊がでたぞぉぉ !」と喜んでいるが、小林節がどんな「恩師」なのか、自分の眼で確かめてみるべきだ。対談本だけを読んでいると小林節に騙されてしまうぞ。基本的に竹田氏は左翼思想家ではないが、小林節の影響を受けた結果、無意識的に恩師の思想に染まっているのかも知れない。法学部出身者には「俺はあの難解な法典を暗記したんだ」という根強いプライドがあるので、自分の法思想に揺るぎない自信がある。でも、それが巧妙に植え込まれた赤い思想と自覚できる人物は少ない。「間違い」と気付いても、それを素直に認めず色々な屁理屈を捏ねて回避しようとするのが法律家で、死んでも面子を守りたいと考える。実に厄介な人々だ。まぁ、授業で四年間も勉強した憲法が、下らない紙屑なんて認めたくないからねぇ~。一方、憲法学者は「飯の種が無くなってしまう」と焦るから、必死になって護憲を貫くはずだ。学歴だけが自慢のインテリどもは、波田陽区に「残念でしたぁぁ~」と斬られて、素直に「あっ、そうですね」とは言えないからさぁ。余計なお世話だけど、ギター侍の波田陽区は今、何をしているんだろうか?



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竹田恒泰の「遠慮」は裏切りだ / 小林節の赤い憲法学 (前編)

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「営業保守」の竹田恒泰

  旧皇族の名家に生まれた竹田恒泰は、明治天皇の玄孫として有名だ。今や、地上波のワイドショーからインターネット放送の虎ノ門ニュースにまで出演する、若手の売れっ子評論家でもある。皇室に関する知識が著しく低下した現在の日本人にとって、彼の解説は簡単明瞭で分かりやすいから、とても評判がいい。とりわけ、週刊誌やテレビによる悪質な皇室報道が氾濫する今日において、竹田氏の反論や皇室擁護論は貴重である。しかし、最近彼が出版した小林節(慶應大学名誉教授)との対談本は称讃できない。なぜなら、竹田氏は小林教授の法思想を知りながら、敢えてその左翼的な部分に触れないからだ。たとえ、名誉教授の小林節が竹田氏の恩師であっても、悪質な見解があれば鋭く指摘すべきだろう。ところが、竹田氏は恩師に遠慮したのか、対談本の中で巧妙に避けていた。彼には保守派のファンが多いけど、この点に気がつき、彼の「卑屈さ」を批判する者がどれほどいるのか? もし、竹田氏が恩師の本性を認識しつつ、これを読者に伝えないとしたら、彼は「営業保守」の汚名を甘受したことになる。

  「護憲派」が多い憲法学会において、小林節は珍しく「改憲派」である。しかし、それは保守思想からの発想ではなく、占領憲法を存続させようと目論む「裏左翼」の手法である。小林節は自衛隊を肯定し、天皇陛下を元首と認めるから、世間は彼を「正常」な憲法学者と思い込む。亡くなった渡部昇一先生も騙された内の一人で、『そろそろ憲法を変えてみようか』(致知出版社、2001年)という対談本で小林教授と憲法を論じていた。筆者が渡部先生に動機を尋ねたところ、ロッキード裁判における違法性を小林教授が賛同したのが切っ掛けだったという。だが、渡部先生は小林教授が「改憲派」の仮面を被った極左学者であるという認識は無かった。たぶん、自衛隊の存在や軍隊の必要性、さらに天皇陛下を国家元首と認めていたから、渡部先生は気を許したのであろう。もし、渡部先生が小林教授の『憲法守って国滅ぶ』を熟読し、筆者の反論を聞いていたら、その有毒性を理解したに違いない。

  竹田氏は対談本の中で、小林教授の『憲法守って国滅ぶ』を読んだことがあると告白し、「ずいぶん学びました」と述べている。(小林節 / 竹田恒泰 『憲法の真髄』 KKベストセラーズ、2018年、p.162) ということは、竹田氏は小林教授の化けの皮や左翼思考に気付いているはずだ。もし、竹田氏が小林教授の「人権」に対する執着心や、何度も国民を「主権者」と力説する姿勢に着眼していなかったらおかしい。狡猾な小林節は、慶應大学の学生に注入した極左思想を、退職後も弟子との対談で世間に撒き散らそうとしている。つくづく思うけど、札付きの「アカ」というのはガラガラ蛇よりも有害だ。ここてでは直接関係無いけど、あの蛇のように鋭い目つきで睨まれ、ビクビクしながら憲法を学んだ学生は本当に気の毒である。受験勉強だけしか知らない大学生というのは、真面目で従順だが、悪党に対する免疫が無いので、左翼教授のレトリックや洗脳テクニックにコロっと引っ掛かっかる。まぁ、支那人みたいに用心深い学生というのは考えものだが、何でも鵜呑みにする若者というのも困ったものである。受験科目に「詐欺師対策」という項目が無いから仕方ないが、20歳前後の成人なんだから、少しくらいは相手の正体を見極める「目」を持つべきだ。

日本人には「主権者」や「人権」などは必要なし

  小林節が大好きな「人権」という言葉は文明国には不必要で、却ってそれによる弊害の方が多い。そもそも、「人間の権利 (human rights)」とは何か? 日本人と同じくイギリス人にとって、「人権」は低次元の代物である。我々は地球上の「単なる人間」なんて見たことはないし、仮に居たとしても制定法や慣習法で扱う人物でもない。イギリス人はフランスのガリア人とか、アイルランドに住むケルト人、ダマスカスやメッカに住むアラブ人、北アフリカで見かけるイスラム教徒など、“具体的”な人間しか想像できず、無色透明で普遍的かつ“抽象的な”人間は議論の前提としないのだ。世界中に散らばる人間には、たいてい名前や綽名がついており、誰かの子供、あるいは何らかの部族に属する成員であり、平原の地中から生まれた漂流者ではない。人間の種類は様々で、肌が黒い者もいれば褐色、白色の者もいて、美人に遭遇する人がいれば、ブスに囲まれる人もいる。人生色々、絶頂があれば絶望もあり、生まれや育ちもバラバラだ。

  だいたい、フランス革命を起こした狂気の知識人が、「人権宣言」なる文章を発表したからといって、なぜ日本人が追従せねばならぬのか? 扇動に弱いフランスの民衆は、怨念に凝り固まった革命家の口車に乗って、先祖代々続いてきた王政と教会を破壊し、「革命の敵」となった貴族や司祭を片っ端から殺しまくった。ロベスピエールやダントンらは流血の惨事を「民衆の為」という言葉で美化したが、最終的に地獄を味わったのは愚かな民衆で、気がつくとナポレオンという「よそ者」が皇帝になり、戦争に次ぐ戦争を経てフランス人は大激減。生きているだけで幸運という状況だった。これなら昔の方がよっぽど良かったんじゃないか。王国時代のフランス人は曲がりなりにも王様の「臣民」という身分だったのに、革命が起きると単なる使い捨ての「駒」に降格し、墓にも刻まれぬ「人間」になってしまった。ロシアから退却する途中で“いつの間にか”野垂れ死に、なんて最悪だ。

  「人権」なるものは、どの国家・社会にも属さない野生動物が持つ「権利」で、「権利」と称しても何の根拠も無いし、誰が保証するのかも分からない。要するに、サハラ沙漠やモンゴル平原に転がっている羊の糞と同じだ。アジアやアフリカにある野蛮国だと、「道を歩いている女性をいきなり強姦してはいけません」とか「ラクダに乗った商人からモノを奪ってはならない」、「隣人を捕まえて奴隷にしてはならない」というのが基本的な「誡め」で、処罰を伴った「掟」であるかどうかさえ怪しいものだ。暗黒大陸の支那だと「人間を食べてはいけない」という禁止条項すら無かった。こんな連中に要求する最低限の「人権」と、日本のような高度文明国が掲げる高級な「人権」との間には雲泥の差がある。いや、異次元の話かも知れない。日本だと国民一人一人が大切にされるので、生活保護世帯でもテレビや冷蔵庫はもちろんのこと、冷房や暖房まで「必需品」とされているし、最新の医療が安く受けられ、子供手当をはじめとする各種の補助金も充実している。更に、安全で衛生的な生活環境まで完備されているから、毎日が楽しく生きていることが嬉しい。日本人が考える「最低限度」の生活など、後進国の人間が見れば憧れの貴族的生活に思えてくる。考えてもみよ。フィリピンやパプアニューギニアに落ちている「人権」と、日本人が共有する「国民の権利」が同等の権利と言えるのか? 日本人が口にする「人権」は、先祖代々日本に住む日系国民が継承する「常識的考え」であり、外国人が驚嘆する「気配り」なのだ。

  ところが、小林節は全人類共通の低級な「人権」を日本国憲法に書き加えようと謀る。彼が外国人の人権まで憲法に明記しようとするのは、日本と外国を区別する国境を低くしたいからである。つまり、太古から我が国を支えてきた日系日本人の子孫を「単なる地球人」に格下げしたいからだ。そもそも、憲法というのは基本的な事のみを明記し、細かいことは書かないというのが常識なのに、小林節は矢鱈と微細な事を刷り込もうとする。例えば、障碍者の「人権」を保証し、それを尊重すべく、現行の憲法第二十五条に、「障碍者が人格的な生存を確保する権利は、国政のうえで特に尊敬されなければならない」といった一文を挿入すべし、と提案しているのだ。(『憲法守って国滅ぶ』 p.150) こんな事まで「憲法に明記せよ !」と主張する小林は異常である。

   今では明白となっているが、占領軍が作った憲法なんてアメリカ人が見れば「非アメリカ」的で、ビックリ仰天するような内容が含まれているのだ。例えば、現憲法の第二十四条、つまり両者の合意によって「のみ」成立する婚姻というのは憲法の条文に相応しくない。どうして、憲法に個人の結婚が書かれているのか、アメリカ国民だって理解できまい。これは、日本に長く住んでいたベアテ・シロタ・ゴードン(Beate Sirota Gordon)による画策で、日本には本人の意思を無視した結婚が行われているから、「根絶しなければならない」という発想である。ベアテは少女時代に親による勝手な見合い結婚を目にしたそうで、こうした結婚を強いられた日本人女性を不憫に思い、民政局のチャールズ・ケーディス(Charles L. Kades)らに挿入するよう提案したのだ。しかし、いくら不幸な日本人がいたからといって、家庭の問題を憲法で扱うかなんて馬鹿げている。ちなみに、ベアテはソ連から逃れてきた亡命者で、根無し草の真っ赤なユダヤ人であった。また、ケーディスもリベラル派のユダヤ人で、ニューディールを熱心に信奉する弁護士上がりの軍人であった。まったく、ユダヤ人には左翼しかいないのか、と思えるほど有害な人物が多い。

  脱線したので話を戻す。小林節は「主権者・国民」という概念が大好きだ。しかし、「主権者」というのは危険な用語である。なぜなら、これは「無制約の権力」を持つ者という意味であるからだ。法思想の巨人、フリードリッヒ・フォン・ハイエク博士が警告したように、国内において「主権」という概念は有害で、これを持ち出すと歯止めが利かなくなる。もし、国民が「主権者」になれば、国民投票とか全員一致で、どんな法律も成立するし、国民自体を制約するものが無くなってしまうのだ。西歐世界では聖書の影響が甚大で、主権者と言えば「ヤハウエ(天主)」を指す。この唯一絶対神は天地創造主にして全宇宙を支配する究極の存在である。だから、神様の発する言葉は即「誡律」、つまり、誰にも変えることが出来ない永遠の「法」となり、大天使のミカエルやガブリエルでさえも修正不可能だ。旧約聖書の神様は不埒な者を雷で殺してもいいし、イスラエルの民に異教徒の殺戮を許可することもある。善良なヨブを病人にしたり、危害を加えてもお咎め無し。というより、どこにも神様を処罰できる者は存在しないから、最初から何でもやりたい放題。だから、懲らしめとして大洪水を起こしてもいいし、蝗(イナゴ)の大群を発生させてエジプト人を困らせてもいい。

  日本人にはそもそも、「主権者」なんて概念はそぐわない。神話の時代から、唯一絶対神は存在せず、むしろ人間くさい神様が多いし、創造したのは日本列島くらいだ。面白いことに、キリスト教徒は神様とアダムが何語で会話をしたのか知らないが、日本の神様は昔から日本語を話していたと思われるし、感覚も日本的だったと推測できる。そもそも、天皇陛下が祈りで用いる言語が日本語なんだから、五穀豊饒をもたらす神様だって日本語を話していたはずだ。天照大神だって「主権(sovereignty)」と聞けば、田中邦衛みたいに「主権って何だよぉ~?」と尋ねるんじゃないか。西歐と違い、日本では天皇陛下ですら権力が制限されており、天主から独裁的な統治権力を付与されているという教義は皆無。天皇親政を斥けた足利尊氏も独裁権を確立できず、朝廷の下で政治を司る幕府に甘んじ、自らが絶対君主になることはなかった。日本だと色々と厄介な人間関係があって、将軍といえども周囲に気配りをしないと愛想を尽かされてしまうのだ。だから、尊氏も執事の高師直(こうの・もろなお)を邪険にできなかったし、盟友の佐々木道誉(ささき・どうよ / 京極氏)には借りがある。母の実家である上杉氏も大切にせねばならないし、討ち破ったはずの朝廷にも和議を申し入れて丸く収めてもらったくらいだ。

皇室を見下す憲法学者

  小林節が「国民主権」にこだわる理由は、彼の「天皇観」にある。この憲法学者は事実をねじ曲げ、大日本帝國憲法下では天皇が「主権者」であったと吹聴しているのだ。彼は西歐の絶対君主を引き合いに出しながら、現憲法下では天皇に政治の実権は無く、国家を象徴する「元首」に過ぎないと規定する。(『憲法守って国滅ぶ』p.124参照) a) おい、ちょっと待て ! いつ明治天皇は「主権者」になったのか? 確かに、明治大帝は我が国の「君主」で、最高の権威を持つ「元首」であったが、帝国議会や軍部を勝手に動かせる「主権者」じゃないぞ。明治天皇は忠実なる元勲の伊藤博文らに政治を任せ、心配事があれば重臣たちをお召しになって御下問なされた。陸軍だと山縣有朋、海軍なら西郷従道といった重臣を信頼していたので、御自ら戦略や戦術に容喙することはなかったはずだ。もし、明治天皇が「神授権(Divine Right of Kings)」を宣言して親政を行ったのであれば、「主権者」かも知れないが、顧問官や議員、軍人、官僚に支えられる立憲君主が「主権者」なんておかしい。

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(左: ニコライ世   /  中央: 明治天皇    /   右: 昭和天皇)

   昭和天皇の場合はもっと深刻で、「警告権(warning right)」すら持っていなかったんだから、西歐の憲法学者はビックリする。彼らは「そんな~、嘘だろう」と言って信じない。それに、「最高指令権(imperium)を持たない皇帝(Emperor)なんて意味ないじゃん」、と呆れてしまうだろう。ローマ教皇だって結構な権力(plenitudo potestatis)を持っていたんだから。したがって、昭和天皇を神格化された「東洋の専制君主」と見なす西歐人は、危機的状況を迎えても君主の大権(prerogative)を発動しない元首(大元帥)を想像できない。小林節は実際の日本を無視して、左翼学界が捏造した「法的に国家の全権を握った主権者」(上掲書 p.132)を宣伝し、国民を不幸に陥れる専制君主が君臨したという「戦前の暗黒時代」を信じている。だから、二度と再び“あの”暗黒時代に戻らぬよう、戦後は国民が「主権者」となり、「至高の権力を持つ主体」になるべし、と思っているのだ。

  小林節の「皇室封じ込め」は実に陰険で、皇室財産まで剝奪すべき、と考えている。呆れたことに、彼は皇族が財産を持つと「財閥化する」と思っているのだ。小林節の言い分によれば、国家の全権を掌握する戦前の天皇は、神格化され、膨大な財産を保有して、国と国民の上に君臨していたそうだ。彼は次のように述べている。

  明治憲法下では、いわばこの世の権力とあの世の権威に加えて強大な経済力を持った文字通り絶対的な存在であった。(上掲書 p.132)

  あのさぁ~。我が国の天皇陛下はロシア皇帝じゃないんだぞ。もし、昭和天皇がロスチャイルド家を凌ぐ財産を持ったら、天下無敵のリヴァイアサン(巨大な海の怪獣)になるのか? 小林節が言うには、天皇家に膨大な私有財産があると「有害」なんだって。まったくアホらしい ! 皇室に庶民以上の財産があってもいいじゃないか。誰も困らないぞ。それに、もし陛下が多額の資産を有していたら、自ら進んで災難に遭った国民に救いの手を差し延べてしまうだろう。例えば、大震災で悲惨な生活を余儀なくされる国民を御覧になれば、そっと御内帑金(ごないどきん)を側近に渡して、被災者を助けるよう指示されるんじゃないか。また、陛下から頂いた支援金と判った国民は、その大御心に感動し、大粒の涙を流すだろう。これは左翼学者が一番嫌いな光景である。彼らは陛下の温情に感謝し、その有り難さに頭を下げる庶民なんて見たくない。天皇は差別社会と抑圧構造の「象徴」というのが、左翼の学説なのだ。

  小林節は冷酷にも、天皇陛下を「無一文の王様」にしたいと願っている。彼は皇室の財産形成を許さない。なぜなら、「・・・正当に必要な経費は国庫で負担するので、皇室は金の心配は無用」であるそうだ。それに、皇居を始め、天皇家に必要な施設は国家が無償で貸与しているし、公的な活動費に関しては宮廷費が、私的な生活費としては内廷費が支給されているので、象徴としての天皇家はいわば「無一物」でいるのが「正当」なのだという。(上掲書 p.133) それに加え、小林節は皇位継承の際に発生した相続税を認めているのだ。彼は「法の下の平等」や「憲法の精神」を持ち出して、皇室への課税を肯定し、さらに、「歴史的経緯」の視点から、天皇の私有財産を認めない方が“筋”であろう、と述べている。(上掲書 p.134) 彼はあくまでも「民主的統制下」での支出にこだわり、皇室が自由に使える個人財産に反対しているのだ。これ以外にも、小林の財産剝奪提言は徹底している。例えばもし、外国の元首が皇室に美術品を贈呈すれば、その在位中は持っていてもいいが、崩御したら国立美術館に寄贈せよ、と言い放つ。要するに、天皇が個人的に貰ったモノでも、「お前の所有物じゃないんだぞ !」と言いたいのだろう。小林節は不遜にも、「天皇制」を「文化的遺産」と見なし、皇族が財産を持てば変に世俗化すると警鐘を鳴らしているのだ。(共産党と親しい小林節は、コミュニスト用語の「天皇制」を愛好する。)

  竹田恒泰はマスコミから皇室解説者として重宝され、、政治家や知識人による皇族攻撃があれば、熱心に反撃を試みるので、保守派からも評判がいい。しかし、小林節の皇室誹謗に関しては沈黙を守っている。竹田氏は小林節の論文を読んでいるはずだから、この学者がどんな皇室観を持っているのか解っているはずだ。であるとすれば、竹田氏は今回『憲法の真髄』で真っ赤な小林節と対談することになったのだから、いいチャンスじゃないか。一つ一つ「異常な点」や「侮蔑的な見解」を指摘し、コテンパンに批判すべきだろう。ところが、対談本では肝心な問題を避け、恩師の学説に追従する「ヨイショ本」になっている。竹田氏は支那人や朝鮮人からのイチャモンとか、左翼知識人や政治家に対しては勇ましいのに、小林節には刃向かわない。学生の時に世話になったから恩師への批判は遠慮するなんて卑怯だ。たとえ、恩師あるいは友人であろうとも、非常識な見解の持ち主であれば堂々と反論すべきである。本人がどういう考えなのか判らないが、竹田氏は本当に「保守派」の知識人なのか? 普通の国民は昔から、しょっちゅう偽装保守の知識人に騙されてきた。竹田氏のファンは彼に真意を尋ねるべきだ。もし、論点を誤魔化して口ごもるようなら、「営業保守」と思った方がいい。散々彼の著作を購入してから裏切られるよりマシだろう

  後編に続く。



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