黒木 頼景
成甲書房
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主要配役がみんなアジア人
(写真 / 「クレイジー・リッチ・エイジア」ン」のキャストたち )
戦後から平成の初めくらいまで、日本で「洋画」と言えばハリウッ映画で、次々とヒット作や名作が生まれるほど勢いがあった。ところが、最近は感動作が少なくなり、ネタ切れかと思えるほど凋落している。確かに、巨大な制作費を掛け、ふんだんにCGを使っているから、映像だけは鮮やかで豪華だ。しかし、感動が無い。アクション映画は派手なだけで深みが無いし、ラヴ・コメディーを見てもユダヤ人の下品な笑いがてんこ盛りである。しかも、政治的配慮により、銀幕に映し出される役者はストーリーとは関係無く、意図的に黒人やヒスパニックにされているのだ。手荒な殺人鬼や麻薬の売人は白人にする一方で、正義漢に燃えた弁護士や愛国心に篤いFBI捜査官、優秀な大学教授あるいは科学者などは不思議と黒人になっている。現実のアメリカ社会を見れば「えぇぇ~、違うじゃん !」と言いたくなるが、黒人俳優に知能が低いチンピラ役をあてがうと妙にリアルだからNG。
人権派やソフト左翼が定番のハリウッド役者たちは、心にもなく“現実の社会”を反映するよう、黒人やヒスパニック、アジア人の俳優を起用しろと叫ぶ。が、都合の悪い「現実」には目を閉ざして沈黙を守っている。例えば、北歐系の白人女性を狙って強姦する黒人やアラブ人とか、仲間同士になると黒人を馬鹿にするユダヤ人などは絶対に題材とならず、企画段階で却下だ。また、ヒスパニック国民の比率が上昇した今日だと、不法移民を扱う映画は、“良き”南米人を描かねばならない。メキシコとかホンデュラスから密入国する外来生物は、祖国で頻発する暴力や腐敗から逃れてくる弱者で、アメリカ人が嫌がる3K職場で文句を言わず、真面目に働く勤労者となっている。劣悪な現場で汗をかくメキシコ人のオヤジは、不法滞在を続ける愛しい家族のため、身を粉にして働く大黒柱だ。そして、彼の娘や息子は英語を話せない両親を助ける親孝行な子供であり、地元の学校に通って優秀な成績を収め、大学にまで進もうとする立派な生徒。ハンディキャップを克服して就職した移民は、白人の偏見にもめげず、日夜努力して出世を成し遂げる、といったシナリオが多い。
一方、不法入国者の外人が辿り着いた田舎町には、人種差別に満ちた白人が住んでおり、真面目に暮らすヒスパニックを迫害したり、白眼視する冷酷な人物として描かれている。ハリウッドの左翼にとって密入国は深刻な犯罪ではなく、日常よくあるスピード違反や駐車禁止よりも軽い「過ち」なのだ。ICE(入国管理局)に怯えながら暮らすヒスパニックは、いつも弱者で家族思いの善人となっているが、摘発する白人の連邦職員は杓子定規の冷血漢。人気TVドラマの「CSI : マイアミ」には、不法移民を扱ったエピソードがあったけど、やはり悪人は意地悪な南部の白人で、被害者は心優しい黒髪のメキシコ人という筋書きである。劇場で観る映画でも不法移民に同情的な脚本が多く、ハリソン・フォードが出演した『正義のゆくえI.C.E.特別捜査官(Crossing Over)』はリベラル派の宣伝映画といっても過言ではない。
毎度のことだけど、この作品はユダヤ人監督のウェイン・クレイマー(Wayne Kramer)が脚本を手掛け、配給会社はこれまたユダや系の「ワインシュタイン・カンパニー」であった。プロフィール上、クレイマーは南アフリカ出身の作家兼監督と紹介されるが、その種族にまで言及されることは滅多にない。だから、大半の日本人は彼がユダヤ人ということを知らずに作品を観ている。日本の保守系雑誌は米国の事情を“さらり”と述べるだけで、アメリカで有名な論客や学者を紹介することはないから、一般国民は井の中の蛙(かわず)といったところだ。例えば、弁護士でコラムニストのデビー・シュラッセル(Dabbie Schlussel)は、クレイマーのプロパガンダ映画に憤慨し、自身のブログで彼の正体をバラしていた。しかし、日本の映画評論家たちは一切触れることはなかったし、これからもないだろう。(チャンネル桜の前田有一に期待しても無駄である。) ユダヤ系保守派のデイヴッド・ホロウィッツ(David Horowitz)と組むダニエル・グリーンフィールド(Daniel Greenfield)もクレイマーの偽善について暴露記事を書いていたが、『WiLL』や『正論』で紹介されることはなかった。(たぶん、そう思うけど、あったらご勘弁を。)
(左: デビー・シュラッセル / 右: ダニエル・グリーンフィールド)
ついでに言えば、主役のハリソン・フォードがユダヤ系なのはもちろんのこと、共演者がこれまたすごかった。あの極左俳優のショーン・ペン(Sean Penn)が国境警備隊の役を演じていたのだ。それにしても、我々が観ている「アメリカ映画」なるものは、本当にアングロ・アメリカを反映する作品なのか? なぜなら、ユダヤ人が物語を作って、ユダヤ人役者が演じ、ユダヤ系メディアが宣伝して、ユダヤ人の配給会社が上映し、ユダヤ人批評家が絶讃したりする。これじゃぁ、どこが「アメリカ映画」なのかよく分からない。映画に限らず、製品の質と生産地は「別」と考えるべきだ。例えば、正体不明の雑種牛を神戸で飼育しても、本物と同じA5等級の神戸牛になる訳じゃない。駄馬やロバをイエメンで育てても、高額なサラブレッドにならないのと同じ理屈である。
(左: ウェイン・クレイマー / 中央: ハリソン・フォード / 右: ショーン・ペン )
こうしたハリウッドでは、あらたな潮流が生まれているそうだ。最近、アジア人俳優を主役にした『クレイジー・リッチ・エイジアンズ(Crazy Rich Asians)』という映画が公開された。この作品はシンガポール生まれの作家であるケヴィン・クワン(Kevin Kwan)の小説を基にした映画で、メイン・キャラクターを含めた役柄が皆アジア人ということで話題になっている。通常、映画のメ主役を張るのは西歐系アメリカ人で、アジア人の役者はよくて準主役、特別な事情がなければ単なる「脇役」程度が定番だ。ところが、米国におけるアジア人の台頭を計算したのか、映画会社がアジア人役者で固めた作品にGOサインを出した。
(左 / ケヴィン・クワァン )
原作者のケヴィン・クウァンはシンガポール生まれの支那人で、裕福な華僑の家族のもとで育ったお坊ちゃん。(Lauren Christiansen, "Crazy Rich Asians Author Kevin Kwan on the Lavish Culture of Asia's Upper Crust : The Reality Is Simply Unbelievable", Vanity Fair, June 11, 2013) 彼の曾祖父はシンガポールで最も古い金融機関「華僑銀行」を設立した人物であるという。ケヴィンの小説には、子供時代に起きたエピソードが幾つか盛り込まれているそうで、上流階級の思い出話といったところだ。富裕層に生まれた華僑の子供らしく、ケヴィンは英国風の学校に通い、外見は支那人でも中身は西歐人と思い込んでいる。(いくら英語を流暢に話せるからといって、イギリス人になれる訳じゃないのに、支那人というのは「形式」さえ整っていれば「俺様は英国的紳士」と考えてしまう。実にふてぶてしい連中だ。) ただし、名誉の観念は育たなかったようで、彼は徴兵逃れをしてシンガポール政府から睨まれている。たぶん、懲役を避けたいから罰金で済まそうという考えだ。いかにも支那人らしい発想である。
映画化された『クレイジー・リッチ・エイジアン』は、一応米国のテレビ局で取り上げられたが、煌(きら)びやかなセットが満載なだけで、肝心のストーリー自体は至って平凡。しかし、左翼リベラルの評論家たちは大絶賛で、出演者たちの才能を褒めちぎっていた。まぁ、アジア人とか黒人を持ち上げることで、「私はレイシストじゃありませんよ !」というメッセージを発しているのだろう。まさか、「こんなつまらない映画なんてお金の無駄使いだ。でも、劇場で昼寝をしたい人はどうぞ !!」と言える訳がない。アジア系アメリカ人からの反応を考慮すれば、嫌でも「推薦」するしかないし、正直に酷評したって利益はないどころか、仕事が減ってしまうから絶対に駄目。日本だって似たようなもので、普段は“辛口”の映画評論家「おすぎ」も、配給会社の意向を察知すると嘘八百のお世辞を述べるらしい。ただ、どうしょうもない駄作の場合は、「セットやキャスティングがとても豪華」と褒めて、作品自体の「質」には触れないよう心掛けている。そう言えば、「食いしん坊万歳」に出ていた梅宮辰夫が言っていたけど、嫌いな郷土料理が出ると、「歯ごたえがありますねぇ~」とお茶を濁し、決して「味」については言及しなかったうだ。だって、料理を作ってくれた人を前にして、素直に「えぇぇ~、こんなの気持ち悪くて食えないよぉぉ~」とは言えまい。嘘も方便だけど、正直は美徳にならず、ということだ。
批評家の「お墨付き」を得たクウォンの映画は、どこにでもありそうな恋愛コメディーで、昔からあるハリウッド映画のアジア版に過ぎない。特徴といったら、役者を黄色人種にしただけ。もし、これが白人役者を登用した作品なら、全米ロードショーで必ずや失敗するタイプのラヴ・コメで、DVDレンタル専用のB級映画といった感じである。(有名な「ラジー賞Razzie Awards」にノミネートされるんじゃないか。) 映画のストーリーを簡単に言えば、台湾系女優のコンスタンス・ウー(Constance Wu)が演じるレイチェル・チューは、訪問先のシンガポールで文化ギャップに遭遇し、大変な経験をしながらも現地の人々と心を通わせる、というストーリーだ。彼女はニューヨーク大学で経済を教える教授で、同僚の大学教授ニック・ヤングと恋仲となる。そして、ニックと結婚するレイチェルは、シンガポールに住む彼の母親エレノアを訪ねることになるのだが、将来の義母とアメリカ人のフィアンセは育ちや考え方で食い違う。これもよくあるハリウッド製ラブ・コメの設定だ。当初はぎこちない二人だが、やがてエレノアとレイチェルは理解し合う仲となり、エレノアは息子の嫁としてレイチェルを受け容れる。
(左: コンスタンス・ウー / 中央: ヘンリー・ゴールディング / 右: ミッシェル・ヨー)
お金持ちの坊ちゃん「ニック」を演じるのはマレーシア人男優のヘンリー・ゴールディング(Henry Golding)で、彼は8歳の時イングランドに移住し、大人になってからクアラルンプールに戻って理容師になったという異色の人物だ。一方、不動産業を営む母エレノアを演じたのは支那人女優のミッシェル・ヨー(Michelle Yeoh)で、彼女の出世作と言えば、「007 / トゥモーロー・ネヴァー・ダイ(Tomorrow Never Die)」であろう。ピアース・ブロスナン演じるジェイムズ・ボンドに協力する支那人エージェント役をこなしていた女優である。もっとも、邦画ファンの人には、『SAYURI』の藝者「豆葉(まめは)」を演じた女優として馴染みがあるんじゃないか。この作品では、支那人女優のチャン・ツッィーが主役を務め、共演者には渡辺謙や桃井かおりがいた。ちなみに、この映画はロブ・マーシャルが監督を務めたが、当初、スティーヴン・スピルバーグも興味を示していたという。しかし、友人の映画プロデューサーであるデイヴィッド・ゲフェン(映画会社「ドリーム・ワークス」のユダヤ人)が難色を示し、「嫌な予感がするから、やめておけ !」と助言したそうだ。案の定、『SAYURI(ゲイシャの回想)』はヒットせず、失敗作の烙印が押されて、日本人の記憶からも消え去って行く。さすが、ユダヤ人は同胞の仕事に関しては、偽善的なリベラリストにならず、冷徹なリアリストになる。
(左: チャン・ツッィー / 右: ジョン・チュー)
こんな下らない映画を絶讃する評論家なんて、口にするのも穢らわしいが、制作者側にもトンデモない奴が潜んでいた。監督を務めたのはジョン・チュウ(Jon M. Chu / 朱浩偉)という支那系アメリカ人で、『G.I. Joe バック2リベンジ』を手掛けた人物だ。ただし、この続編は興行収入の面で成功したけど、内容的には陳腐の一言に尽きる。要するに、コンピュータ技術をふんだんに使って豪華にしただけのアクション作品だ。卑屈なコメンテイターにはウケたようだが、独立系の批評家からは厳しい評価を受けたらしい。監督もさることながら、『クレイジー・リッチ・エイジアン』のプロデューサーは、もっともっと凄い人物で、ニーナ・ジェイコブソン(Nina Jacobson)という大御所である。彼女は以前、ディズニー社のスタジオ重役を務めており、映画の『パールハーバー』や『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズを手掛けていたことで、その名を轟かせている。しかし、彼女もリストラの嵐に遭ってしまい、ディズニー社をクビになった。しかし、遣り手の女プロデューサーは挫けなかった。ジェイコブソンは独自の映画スタジオ「カラー・フォース(Color Force)」を設立し、大ヒット映画の『ハンガー・ゲイムズ』を生み出すことになった。
(左: ニーナ・ジェイコブソン / 右: ゲイ・プロデューサーのブルース・コーウンとダン・ジンクス)
ただし、ジェイコブソンは敏腕プロデューサーであるが、人権を掲げる典型的な極左ユダヤ人。おまけにレズビアンときている。同居するパートナー(女房?)は同業者のジェン・ブリークリー(Jen Bleakley)という女性で、娘のジョジーと息子のノアという二人の子供を育てている。さらに、藝能界にいる同性愛者LGBTのために「アウト・ゼア(Out There)」という組織まで作ったそうだ。刮目すべきは、この団体を一緒に設立したユダヤ人プロデューサーのブルース・コーエン(Bruce Cohen)である。彼は同性愛者が登場する映画『アメリカン・ビューティー』や『ミルク』を手掛けたことでも有名だ。ハリウッドのユダヤ人は、どうしてキリスト教徒が作った西歐社会でゲイやレズビアンを大切にするのか? 保守的なヨーロッパ人を批判する前に、ホモを毛嫌いするユダヤ人社会で同性愛者の「人権」とやらを叫べばいいのに、ことさら異教徒の国で同性愛を擁護する。ユダヤ人には革命家が多いから、けったいな問題児はユダヤ人社会に封印すべきだ。ちょうど、兇暴なブラックバスは美しい琵琶湖に入れず、ブルーギルやピラニアがウジャウジャいる肥溜めに閉じ込めて、共食いさせる方が良いのと一緒。ユダヤ人同士の喧嘩は見物である。
それにしても、朝鮮人同様、支那人は嘘で固めた映像を作るのが上手で、自分を偉大に見せたいとする虚栄心に満ちている。原作者のクウァンは西歐人への劣等感に苛まれているのか、「シンガポールはマレーシアでもなければ、支那でもない。俺たちの国はもはや小さな漁村じゃないんだ !」と粋がっていた。(Tessa Wong, "Crazy Rich Asians : The film burdened with crazy Asian expectations", BBC News, 18 August 2018) 映画の中では登場人物のアジア人が豪華な邸宅に住み、高級な服に身を包んで、華やかなパーティーを楽しんでいるが、そんな光景はヨーロッパ貴族の生活を再現して、アジア人に置き換えただけの紛い物である。つまり、シンガポールの華僑による稚拙な猿真似ということだ。例えば、白人に憧れる支那人の娘が、どうしても西歐人になりたいと望み、豪華なドール・ハウスを買ってきて、金髪のバービー人形ではなく、アジア人のフィギュアを入れて喜んでいたら、歐米人と日本人はどう思うのか?
とにかく、支那人はカナダ籍を取得しようが、アングロ・カナダ人にはなれないし、在米歴が半世紀に及んでもワスプ(WASP)にはなれない。よく華麗な在米生活を送る支那人が、白人気取りで流暢な英語を話しているが、たとえブリテン風アクセントで喋っても、所詮それは彼らの言語じゃなく、借りてきた他人の母語である。「選択の自由」を与えられた日本人が英語を学ぼうとすれば、十中八九、支那系アメリカ人ではなく西歐系アメリカ人を選ぶし、英国史を勉強しようとすれば、インド人やエジプト系ブリテン人ではなく、アングロ・サクソン系の教師を望むはずだ。クルマ選びも同じで、ポルシェやBMWを買うときに、ディーラーから「支那製にしますか、それともドイツ人が作ったものにしますか?」と尋ねられれば、絶対に「ドイツ製の方を」と答えるだろう。せっかく大金を叩いて買う高級車が、「メイド・イン・チャイナ」じゃ厭になる。(それに、支那製だと欠陥車かも知れないので不安だ。高速走行中にタイヤが外れそうで怖い。) アメリカ人だって支那製の星条旗では不満だ。やはり、合衆国の国旗はアメリカ製でなきゃ。
(左: ケイティー・ペリー / クリスティーナ・アギュレラ / カイリー・ミノーグ / 右: ジャスティン・ティンバーレイク )
朝鮮人のポップ音楽にウンザリした日本人なら、支那人の茶番劇を観てアホらしく思ってしまうが、次第に「憐れだなぁ」と思えてくる。しかし、西歐人を気取った朝鮮人だと永遠に分からない。南鮮からやって来るポップ歌手は、ブリトニー・スピアーズ(Britney Spears)やクリスティーナ・アギュレラ(Christina Aguielera)、ケイティー・ペリー(Katy Perry)、カイリー・ミノーグ(Kylie Minogue)、ジャスティン・ティンバーレイク(Justin Timberlake)などを手本にして、いかにもアメリカ風味のミュージック・ビデオを制作しているが、アメリカ人が見れば「猿のコピー・キャット」にしか思えず、大爆笑間違いなし。支那人だらけのラヴ・ロマンスも同じで、お金を払って観るほどの代物じゃない。よく支那人の映画制作者は、西歐白人ばかりが主役で現実の多民族社会を反映しておらず、全く以て「けしからん!」と怒るが、じゃぁ、支那人を主役にしたらヒット作になるのか? カンフー映画なら大丈夫だろうが、ロマンティック・コメディーじゃ間が持たない。5分で飽きる。
(左: メーガン・ブーン / キャスリン・モリス / スタナ・カティク / 右: エミリー・デシャネル )
いくら支那人が多いアメリカとはいえ、支那人の女優を看板にしてドラマを作ったら自爆作品になってしまうだろう。例えば、女性を主役にしたTVドラマだと、圧倒的に白人女性が抜擢されている。日本でも人気が出たドラマ・シリーズを思い出せば分かるじゃないか。例えば、『ボーンズ』のエミリー・デシャネル(Emily Deschanel)とか、『コールド・ケース』のキャスリン・モリス(Kathryn Morris)、『キャッスル』のスタナ・カティク(Stana Katic)、『ブラックリスト』のメイガン・ブーン(Magan Boone)などを見れば明らかだ。それに、現実をよく解っているユダヤ人制作者は、主役級のキャラクターに支那人を起用することはない。かつて、ラヴ・コメの女王といったらメグ・ライアン(Meg Ryan)で、彼女が出演した映画『恋人たちの予感(When Harry Met Sally)』は日本でもヒットした。この作品を手掛けたのはユダヤ人監督のロブ・ライナー(Rob Reiner)で、「ハリー」役にはユダヤ人コメディアンのビリー・クリスタル(Billy Crystal)が起用されていた。もし、恋人の「サリー」役にミッシェル・ヨーが抜擢されていたら、誰も見に行かず、劇場には閑古鳥が鳴いていたことであろう。そもそも、冴えないユダヤ人の男とマレーシア生まれの支那人女が惚れ合ったからといって、何が面白いのか? ユダヤ人の観客でさえ興味が湧かず、別の映画を観に行こうと考えるはずだ。
(左: ロブ・ライナー / 中央: メグ・ライアン / 右: ビリー・クリスタル )
支那人監督の夢が叶ってアジア人主体のハリウッド映画を制作できたけど、本当に楽しんだアジア系観客は、いったい何人いたことか。日本には自らを「アジア人」と思い込んでいる国民が結構いるけど、こうした映画を観て心から共感するお客が多いとは思えない。アメリカで作られた「洋画」なのに、出演者が支那人やマレー人ばかりじゃ、ボリウッド(インド)映画と大した違いは無いだろう。せいぜい地上波テレビでの無料放送が期待されるくらいで、それすら観ない人が大半なんじゃないか。日本を舞台にした『SAYURI』で、チャン・ツッイーが京都の藝者を演じていたけど、それなら故・夏目雅子とか黒谷友香、吉瀬美智子といった日本人女優の方がよっぽど適している。(いま人気の若手女優は誰なのか分からない。 ) 何はともあれ、支那人が日本人を演じると、何となく香港映画に見えてしまう。アメリカ人は気にならないが、日本人が観るとやはり違和感がある。NHKや朝日新聞は頻繁に「アジアの中の日本」と言うが、庶民感覚からすれば「アジアから外れた日本」という気がしてならない。支那人を愛する左翼分子は、遠慮無く日本国籍を捨てて、さっさと憧れの支那に移住すべきだ。
後編に続く。
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