無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2018年12月

静かなる精神改造 / 性から始まる破壊工作

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


好評発売中 !

NHKによる精神革命
Angela Ponce 5Gay couple 3








(左: 「ミス・スペイン」に選ばれた元男性のアンジェラ・ポンス  /  右: 幸せそうなゲイのカップル)

  赤色革命を目指す勢力は一枚岩ではない。軟弱なピンクから朱色の偽善家、真っ赤な確信犯までと様々だ。こうした人物の中には、まどろっこしい演説よりも銃を構えて現体制を打倒しようとする武闘派がいたり、選挙で政権を奪取しようとする悪党もいる。しかし、こうしたゴロツキよりも厄介なのは、既存の社会機構に深く浸透し、内部から組織を侵蝕しながら、仲間を増やして乗っ取ろうとする連中だ。戦前は暴力革命に惹かれた若者が多かったが、1960年から70年代になると“現実派”が主流となり、政界や官庁、学校、新聞、テレビ局などに入ってチャンスを伺う者が増えてきた。多少冷静に考えてみれば分かるけど、ヘルメットを被ってゲバ棒を振ったからといって、そう簡単に権力を握れるものではないし、穏健な大衆は過激な大学生に嫌悪感を覚えて離れてしまうから、共産主義革命なんて夢の又夢である。

  第一、日本は「革命家」で喰って行ける国じゃない。革マルに入ってプロのテロリストになるんなら別だが、快適な教室で人気者になりたいと欲するだけの俗物だと出世に目が眩むし、肝心の財布が寂しくなるから自分の将来が心配になる。それなら、役所や会社に入って左翼活動を副業にした方がいい。 市役所の職員や霞ヶ関の官僚になれば終身雇用だし、給料も恩給保障されているから安心だ。左翼は本質的に図々しいから、「善き事は他人の銭で」というモットーを基本とする。しかも、「困った人を助ける」という名目で社会福祉を増大すれば、役所の権力がそれに附随して膨れ上がるし、赤い同志にも役職を与えることができるから一石二鳥だ。もちろん、彼らが手にする原資はいつも税金。これなら惜しみなく与える事ができる。なるほど、他人のゼニをばらまくだけだから自分の懐は痛まない。

  新聞社に勤める左翼分子も同じ穴のムジナで、彼らの給料はアホな購読者からのお金で賄われている。だいたい、新聞記者なんて会社に寄りかかっている「社員」に過ぎないのに、読者の前では「独立不羈のジャーナリスト」を名乗っている。「社会正義」を飯の種にしているだけのタカリ屋が「正義の味方」なんてチャンチャラ可笑しい。冷暖房完備のオフィスで筆を動かしてるオっさんは、「社会の木鐸」じゃなくて、木魚を叩く生臭坊主ていど。単に会社の方針に沿って提灯記事を書くだけなら大学生にもできるじゃないか。憐れなのは30年以上も新聞社で暮らしている記者で、会社の肩書きを失えば“ただの人”になってしまい、人を唸らせるよう文章を書けなくなってしまうのだ。昔は、筆一本で渡り歩くことが出来る“独立派”のジャーナリストがいて、各社が三顧の礼を用いて招いたものだ。明治の頃を思い出せば分かるが、陸羯南(くが・かつなん)や黒岩涙香(くろいわ・るいこう)、三宅雪嶺(みやけ・せつれい)、徳富蘇峰(とくとみ・そほう)、内村鑑三(うちむら・かんぞう)、長谷川如是閑(はせがわ・にょぜかん)など豪華絢爛。彼らはどこの新聞社に入っても腕を振るうことができた。今の新聞記者で他社から「実力」を買われて、「ウチに来てくれないか !」と“お呼び”のかかる者はいるのか? 退職後は会社に天下り先を用意して貰って大学教授になるくらいの連中じゃ一生無理だ。

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(左: 陸羯南  / 徳富蘇峰  / 黒岩涙香  /  右: 内村鑑三)

  他人の銭を湯水の如く使う連中といえば、真っ先にNHK職員が目に浮かぶ。何千億もの予算を確保するNHKは、全国各地の庶民から巻き上げた受信料を元に、巧妙な反日番組を熱心に作っている。NHKが狡猾なのは、娯楽作品をたくさん提供しながら、そこに少量の教養じゃなく、害毒を混ぜていることだ。脳天気な国民はNHKが放送するスポーツ番組や歌謡ショー、大河ドラマなどを観て喜んでいるが、その裏で制作される邪悪な特番に気付かない。また、腹立たしいことに、NHKは国民のお金で仲間を養っている。支那人や朝鮮人の学者とか左翼系有名人をゲストに招いて有名にし、地方での講演活動をしやすくしているのだ。これじゃあ、「皆様のNHK」と称する公共放送は、平壌か北京の声を代弁する日本支局みたいなものである。不愉快な過去を思い出したくないけど、何の学問的業績もない姜尚中を寵愛したNHKは、一体どこの放送局なのか? (ちなみに、東大教養学部の教授だった姜は、マックス・ウェバーの研究を専門にしていたというが、どこに主著があるのか判らない。そもそも、彼の学術的貢献なんて聞いたことがないぞ。)

  最近、またもやNHKから害毒が垂れ流された。何と、来年の1月15日から支那語のニュースや番組をインターネット動画で配信するサービス「NHK華語視界(かごしかい)」が始まるそうだ。(「中国語のニュースや番組 NHKがネットで動画配信へ」 NHK NEWS WEB 2018年12月19日) NHKの言い訳によると、世界には支那語を話す人々が多く、東京オリンピックの開催により支那語圏からの訪問客が増えるので、日本のトレンドや情報を伝えたいだって。これに加えて、医療技術やアジア各国のドキュメンタリーも流すらしい。NHK国際放送局の高井孝彰専任局長は、日本の文化のみならず災害情報なども発信したい、と“もっともらしい”理由を述べている。しかし、本音としては、日本に住みつく支那移民のために娯楽や情報を提供し、彼らの安全な暮らしを支えたいということなんだろう。そんなに在日支那人が好きなら、NHK職員の給料を削減して予算にすればいいじゃないか。どうして日本国民の受信料を流用するのか? NHKは「国際化時代」を名目にして、支那文化を全国各地に充満させ、日本人の「支那嫌い」を取り除こうと謀っている。確かに、腐った魚の臭いでも、毎日嗅いでいると我々の鼻は鈍感になるから、そうした人間の特質利用し、「日中友好」を狙っているに違いない。

男子に生理が?

  国民の意識を無理矢理にでも変えてしまおうとする連中は世界各国にいるようで、リベラル派が牛耳るブリテンでは恐ろしい洗脳教育がなされている。日本人には信じられないが、英国の子供達は新たな性教育の授業で、「性別を問わず全ての人には生理がある」と教えられるそうだ。この改正された教育方針はある報告書に基づいているそうで、「性転換した少年および男性、非両性保有者には生理があり、月経は全てのジェンダーが持つ特質」らしい。(Helen Horton, "Boys can have periods too, children to be taught in latest victory for transgender campaigners", The Telegraph, 16 December 2018) 普通の日本人男性だと、「えっ ?! 何言ってんの?」と理解できないだろうが、要するに、女の子になった“元男子”への配慮がなされいる、という事だ。でも、性転換した少年のために、「誰でも生理があるのよ」と教えるなんて馬鹿げているんじゃないか。だいいち、現場の教師はどう思っているんだ?

  日本の学校でこんな授業が行われたら、息子を持つ父親が怒鳴り込んでくるし、母親だって担任の先生に猛抗議するだろう。もし、小学生の息子が、「ママ、僕にもナプキンが必要なの?」と訊いてきたら、母親はどう答えるのか? たぶん、夫に向かって「ねぇ、あなた何とか言ってよ !」と頼むんだろうが、戸惑った亭主は「えっ、何で俺が説明しなくちゃならないんだ」と逃げ出す。まるで、「クレヨンしんちゃん」に出て来そうな場面だけど、一般家庭で性教育なんて絶対にタブーだ。だいたい、日本の父親だと性については何も語らないし、どうやって赤ん坊が出来るのかさえ恥ずかしくて教えられないだろう。したがって、「性転換」や「同性愛」などは最初から論外だ。英国の保守党議員であるデイヴィッド・デイヴィス(David Davies)氏は新聞記者のインタビューを受けて、子供にあんな事を教えるなんて正気じゃない、と答えていた。ゲイやレズビアンを支援するNHKなら、英国の性教育に賛同するだろうが、まともな日本人なら「ドアホ !」と一喝するはずだ。

  歐米や日本の左翼にとって、憧れのソ連が崩壊したことは衝撃的事件で、夢にまで見た共産主義世界は本当の「夢」になってしまった。しかし、彼らのエートス(行動様式)には慣性の法則があるようで、目標を失っても走り続けている。すなわち、現状の社会を破壊しようとする心情が残っているのだ。とにかく、左翼は伝統的なものなら何でも叩き潰そうとする。皇室や王室があれば「憎しみの対象」として廃絶しようとするし、国境があればレイシズムの元兇と考え、ちょっとづつでもいいから崩したいと考える。だから、男女を区別する風習や道徳があれば、それを撲滅したいと望んでしまうのだ。たぶん、人種差別が悪なので、男女区別も駄目ということなんだろう。彼らにとっては、労働者を搾取する資本家や黒人を差別する白人は死刑に値する極悪人だから、LGBTの少数派を排斥する正常者も抹殺の対象者となる。

  第21世紀は本当に価値観が激変した時代になってしまった。毎年恒例のミス・ユニヴァースを見れば一目瞭然だ。日本人でも薄々気付いていると思うが、大会の優勝者が「人種的配慮」で選ばれるのは、もう公然の秘密となっている。1999年に優勝したのは、ボツワナ代表のムプル・クェラゴベ(Mpule Kwelagobe)だし、2007年だと日本代表の森理世、2011年にはアンゴラ代表のレイラ・ロペス(Leila Lopes)、2017年なら南アフリカ代表のデミ・レイ・ネル・ピータース(Demi-Leigh Nel-Peters)という結果であった。これじゃあ、期待して観ている方が白けてしまうじゃないか。

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(左: ムプル・クェラゴベ  /  レイラ・ロペス / デミ・レイ・ネル・ピータース /  右: 森理世)

  今年2018年の優勝者はフィリピン代表のカトリオーナ・グレイ(Catriona E. M. Gray)であったが、注目すべきはスペイン代表のアンジェラ・ポンス(Angela Maria Ponce)の方である。(ちなみに、グレイ氏は「フィリピン代表」であるが、父親がドイツ人なのでゲルマン系フィリピン人となっており、土着民とはかなり違った容姿になっている。) 一見すると、ポンス氏はファッション・モデルのように思えるが、元々はエンジェル・マリオ(Angel Mario Ponce Camacho)という名前の男性だった。以前の「ミス・ユニヴァース」だと、出場者は「生まれながらの女性」に限られていたが、2012年、性転換者のジェナ・タラコヴァ(Jenna Talacova)が異議を申し立てたので、主催者がルールを変更し、「女性に生まれ変わった元男性」でも参加できるようになった。ついでに言うと、当時の主催者はドナルド・トランプ。美女に囲まれることを好んだ不動産王でも、世間の圧力に対抗できず、しぶしぶながらも性転換者を許すんだから、時代の変化とは恐ろしいものである。

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(左: カトオーナ・グレイ  / アンジェラ・ポンス  /  右: ジェナ・タラコヴァ)

ホモが珍しくないアメリカ

  最近、ブロードウェイの演劇で、1970年代に話題となった『トーチ・ソング(Torch Song)』がリメイクされたという。これは同性愛者を主人公にした演劇で、ユダヤ人俳優のハーヴェイ・ファイアーシュタイン(Harvey Firestein)が主演と脚本を務めた作品である。彼はゲイであることを公表した初期の役者で、告白した当時は社会に衝撃と嫌悪感を与え、有名ジャーナリストのバーバラ・ウォルターズ(Barbara Walters)がインタビューを行ったくらいだ。今回のリメイク版で主役に抜擢されたのは、マイケル・ユーリー(Michael Urie)という若い男優で、彼も同性愛の性癖があるようで、LGBTの良き理解者であるという。

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(左: ハーヴェイ・ファイアーシュタイン  / 中央: 『トーチ・ソング』に出演していた頃の若きファイアーシュタイン  /  右: マイケル・ユーリー )

  こんな気色の悪い演劇を手掛けるくらいだから、制作陣に同性愛者がいても不思議ではない。案の定、プロデューサーのリッチー・ジャクソン(Richie Jackson)はゲイである。彼は若い時にファイアーシュタインの『トーチ・ソング』を劇場で観て非常に感銘を受けたそうだ。米国で同性愛のTVドラマや映画を手掛ける連中は、たいてい私生活でもドラマと同じような人生を送っている。ジャクソンは以前、支那系俳優のブラッドリー・D・ウォン(Bradley Darryl Wong)を「パートナー」とし、代理母を通して子供をもうけていた。(こんなカップルに育てられる養子は本当に不憫だ。) しかし、子の親となった二人は間もなく離別し、独身に戻ったジャクソンは、大富豪の息子であるジョーダン・ロス(Jordan Roth)と同棲を始めたという。不動産王の父親と劇場プロデューサーとの間に生まれたジョーダンはブロードウェイ・ミュージカルに興味を抱いたのか、「ジュジャムシン劇場(Jujamcyn Theaters)」の支配人となっている。

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(左: リッチー・ジャクソンとブラッドリー・ウォン  /  右: リッチー・ブラッドリーとジョーダン・ロス)

      「異常」な要求が次々と「正常」な権利となるアメリカ社会では、同性愛者の結婚も「正当な権利」となっている。ゲイの結婚式なんてゾッとするが、彼らも「人権」とやらを持つ「アメリカ国民」なので反対できず、不本意ながらも承認されているようだ。合法となれば人々に躊躇が無くなり、祝福する連中も現れてくる。リッチーとジョーダンの「結婚式」はニューヨークにある劇場で行われ、その会場には著名なユダヤ人の大物が招かれていた。例えば、音楽業界のドンであるデイヴッド・ゲフェン(David Geffen)とか、CBSの社長と会長を務めたレス・ムーンヴス(Les Moonves)、ゴールドマン・サックスの会長だったロイド・ブランクフェイン(Lloyd Blankfein)、有名ブランド「GAP」の元最高経営責任者を経て、アパレル業界大手の「J.Crew」で会長を務めるミッキー・ドレクスラーMillard "Mickey" Drexler)など、ビックリするほどの面子が揃っていた。しかも、ニューヨークで不動産業を営んでいたドナルド・トランプも招待客の一人であったというから凄い。さぁ~すが、ユダヤ人の金持ちは人脈が広いよねぇ~。

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(右: デイヴィッド・ゲフェン  / レス・ムーンヴス  / ロイド・ブランクフェイン  /  右: ミッキー・ドレクスラー)

  左翼陣営によって精神を改造される恐怖というのは、現代のアメリカ社会を見ればよく解る。今の若者は何とも思わないだろうが、80歳代の保守的なアメリカ人が人生を振り返れば、歎きと悲しみに覆われ、「古き良きアメリカは完全に消滅してしまった」と落胆するはずだ。1960年代以前のアメリカは信じられないほど敬虔な社会で、「僕はゲイでぇぇ~す!!」なんて口が裂けても言えなかった。もし、息子が男の恋人なんか作ったら、大黒柱の父親は激怒し、「男に惚れるとは何事だ ! 恥を知れ ! この馬鹿者が !!」と罵り、胸ぐらを摑んでぶん殴るだろう。側でこの叱責を見ている母親だってショックのあまり気絶しそうだ。「私はこんな子に育てた覚えはないわよ !」と泣き崩れる姿が目に浮かぶじゃないか。ところが、第21世紀のアメリカだと「ミー・トゥー運動」みたいに、「俺はゲイなんだ !」とか、「私はレズビアンなのよ !」と平気で口にする。

  この潮流は留まるところを知らず、性転換した元男子とか元女子、両性を兼ね備えた生徒が学校に現れ、男女兼用の便所、あるいはトランス・ジェンダー用の設備を作れと要求する。しかも、これにユダヤ人の人権屋とかリベラル派が加勢するので問題が非常にややこしくなる。例えば、ユダヤ人団体の「ケシェット(Keshet)」や「法律・社会運動ユダヤ人連盟(Jewish Alliance for Law and Social Action )」、「反名誉毀損同盟(Anti-Defamation League)」などは「差別」となれば目くじらを立てて政治的圧力を掛けてくるから、どんどん“性的平等”が実行されてしまうのだ。(Ron Kampeas, "Liberal USJewish groups ballot measures on immigration, transgender rights", The Times of Israel, 6 November 2018) こんなユダヤ人を見れば、アメリカ人だって米国版ナチ党を待望してしまうだろう。現在のアメリカ人は迫害されたユダヤ人を「可哀想」と思い込み、異人種を追放したヒトラーを絶対悪と見なしているが、それなら、この憐れなユダヤ難民を受け容れた結果、大切な祖国がどうなってしまったのか、彼らはよく考えてみるべきだ。政界や財界のみならず、若者に多大な影響を及ぼす教育界やメディア界に浸透したユダヤ人は、アメリカのキリスト教的倫理を踏みにじり、西歐的精神を腐蝕させてきた。彼らにアングロ・サクソン人の伝統を尊重する気持ちなんか微塵も無い。あるのは自分達を蔑んできた西歐人への憎しみだけだ。ゆえに、彼らは「こんな社会は叩き潰してやる !」と意気込む。まるで、日本人を恨む在日朝鮮人みたいだ。

  左翼リベラル派というのは、日本や欧米を問わず、その精神の奥底に深い怨念を宿している。だから、現地の伝統的社会を打倒するために、如何なる手口を用いようとも着実に壊そうと決意する。合法的手段を用いる時は「法的な抜け穴はないのか?」と詮索するし、他人の銭を流用する場合には、「人道主義」とか「国際化時代」を持ち出す。NHKの左翼分子は支那移民や帰化人を助けるという名目で支那語放送を開始するし、JRや私鉄も「支那人観光客のため」と称して駅構内で支那語のアナウンスを実施する。他方、街中には支那語や朝鮮語の看板や案内図が氾濫し、日本に支那人や朝鮮人が住むのは「当然」となっているのだ。こうした「アジア化」が至る所に蔓延すれば、一般国民は感覚が麻痺するから、「アジア的日本」に疑問を抱かない。

  民放もNHKに倣ってアジア人歓迎放送を垂れ流す。フジテレビは支那人観光客の到来を歓迎するし、TBSは昔から移民と難民を招きたがっている。テレ朝や日テレは朝鮮系の藝人を出演させ、日本人の鮮人嫌悪を中和させようと謀っていた。どおりで、健康だが頭のおかしい日本人が増える訳だ。皮肉なことだけど、現在の日本で意外と正常なのは現実に目覚めた元共産主義者かも知れない。「今更プロレタりア革命なんて無理だよなぁ」と疑う共産党員なら、NHKやTBSなどのメディアが詐欺師だと判る。そして、支那からやって来る詐欺師は安倍政権の詭弁を見抜いているのか、「移民政策は取りません」という安倍総理の言葉を聞いて、「あっ、移民歓迎のサインなんだ !」と喜ぶ。普段から他人を騙している支那人には、日本人には無い鋭い感性が備わっているのかも知れないぞ。




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長渕剛の「親子ゲーム」 / 心を閉ざした少年

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楽曲のスタイルが変わった

  筆者は長渕剛のファンじゃないけど、高校時代、長渕氏を好きな先輩がいて、彼の曲を幾つか聴かせてもらったことがある。当時はまだレコード盤とカセット・テープが主流の時代で、FMラジオの音源を録音したテープを貸してもらい、自宅で聴いてみたら意外に良かった。1980年代まで、長渕氏は主にフォーク・ソングを唄っており、試しに初期のアルバムを手にとって、「巡恋歌」とか「涙のセレナーデ」、「18インチの罠」などを聴いてみれば誰でも判るはずだ。現在の高校生や大学生の長渕ファンは、ロック調の曲を耳にして虜(とりこ)になった人が多いと思うが、筆者の個人的な好みを言わせてもらえば、長渕氏には「素顔」のような曲を書いてもらいたい。この歌は男女の別れをモチーフにしており、彼はしんみりと「夜の顔を鏡で映せば、何て悲しい顔なのぉ~」と唄っていたが、たぶん去りゆく恋人は20代の女性だろう。もし、70代の熟女だと、深夜の素顔は「悲しい」どころじゃなく、恐ろしくさえある。だって、化粧を剝がしたデビ夫人なんて想像したくないし、スッピンの黒柳徹子じゃ誰だか判らない。とにかく、長渕氏の真骨頂は、何と言ってもアコースティック・ギターとハーモニカを駆使したライブ・コンサートであろう。昔(1980年代前半)友人に勧められ、武道館で演奏された「夏祭り」の録音テープを聴いたことがあるが、実に味わい深い名曲だった。同じライヴで披露された「もう一人の俺」も印象深い曲で、筆者はギターの部分をコピーしたことがある。最近聞き直して弾いてみたら、ギター・ソロのパートを覚えていたので、我ながらビックリした。

  以前、熱心なファンだった人に長渕氏のことを尋ねてみたことろ、楽曲のスタイルが激変してしまい、「昔の方がよかったなぁ~」と歎いていた。確かに、1970年代から1980年代半ばまでの曲は、フォーク世代が好むようなメロディーで、男女の関係を唄った曲や繊細な音を奏でる曲が多い。しかし、1990年代になると、ロック調の曲が増えて、激しい音を求めるコンサートに変わったみたいだ。たぶん、ファンの間にも戸惑いとか、異論があるんじゃないか。あれだけ曲調が変わると、昔のファンは離れてしまうだろう。おそらく、長渕氏本人は「スタイルの進化」や「新境地の開拓」のつもりなんだろうげと、初期のファンからすれば、ギター1本でライヴ活動をしていた頃の方が懐かしい。おそらく、長渕氏は同じ曲を繰り返したくないと思い、違うタイプの曲に挑戦しているのだろうが、往年のファンはそれを望んでいないはずだ。全部のアルバムを聞いた訳じゃないから詳しい事は言えないけど、最近のライヴ映像を観ると、何となく空回りの曲を作っているように思える。つまり、自分の才能に合わない曲を必死で書いているように推測できるのだ。筆者は彼のファンではないけど、傍から見てもちょっと痛々しい。(私的な事を言わせてもらえば、藝人の「コロッケ」さんが真似をする長渕剛の方が好みで、コロッケさんが歌う「とんぼ」は傑作だ。ファンが観れば激怒するけど、コロッケさんの物真似は絶品で、誰が見ても大爆笑であろう。)

忘れ去られた「名作」ドラマ

  いつ頃から長渕氏が変化したのか判らないが、出演したドラマの影響もあったのかも知れない。TVドラマ「とんぼ」が大ヒットしたせいでヤクザ役が板に附くようになったが、以前はそうじゃなかった。「家族ゲーム」て家庭教師役をしていた頃は、温和でひょうきんなキャラクターとなっており、ドスの利いた役柄は考えられなかった。その中でも特に印象深いのは、後に長渕夫人となる志穂美悦子と共演した「親子ゲーム」の方である。このTVドラマは1986年に放送され、マニアの間では好評なのだが、一般視聴者からは忘却された作品のようだ。ただし、子役が主役を食ったという作品であることだけは間違いない。昔のドラマには時々すごい子役が抜擢されていたから、内容はともかく「話題の作品」になることも結構あった。

  「親子ゲーム」は、元暴走族の矢板保(たもつ)と恋人の三石加代(かよ)が切り盛りする「九十番」というラーメン屋が舞台だった。同棲する加代も元暴走族で、保と喧嘩すれば怯まず反撃するタイプという設定。ある日、彼らの店に見知らぬ親子連れがやって来て、仲睦まじく食事をするが、しばらくすると父親は息子を残し店を出て行く。一人置き去りにされた少年は吉田麻理男(マリオ)という小学四年生。保と加代は食い逃げと分かり、マリオを知り合いの巡査早川に引き渡すが、児童相談所に預けるのを躊躇う早川は、保と加代に“一時的”に預かってくれと頼む。丁度、夏休み中だったので、マリオは学校に通う必要が無かった。保は預かる条件として、店の手伝いを要求し、戻る場所が無いマリオは黙って従うことにした。

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(左: 「保」役の長渕剛と「加代」を演じる志穂美悦子  /  右: マリオを問い詰める保)

  ぎこちない手つきだが、マリオは皿洗いや出前の仕事に精を出す。しかし、彼は一言も喋らない。というのも、マリオには深い心の傷があったからだ。捨てられる前、彼は父と二人暮らしで、母親は既に家を出ていたという。そして、子育てに疲れた父親は、九十番に連れて行き、最後の食事を済ませると、「たばこを買いに行く」と告げて息子を捨ててしまったのだ。両親に捨てられたと気付くマリオはショックを受けた。こうして、自分に非がある訳でもないのに孤児(みなしご)となった少年は、自分独りで生きて行く事を心に誓う。マリオは日記にこう記した。

   誰にも頼らず、スーパー・マリオのようになりたい。学校も友達も要らない。お父さんお母さんも要らない。

  しかし、一緒に暮らす保はマリオが何を考え、どう思っているのか知りたくなる。マリオはちゃんと店で働くが、保の呼びかけに言葉を返さず、何があっても口を利こうとしないのだ。ある日の深夜、マリオは寝ている2階からこっそりと1階の店に降りて、自宅に電話を掛ける。もしかしたら父親が戻っているのかも、と期待するマリオだが、やはり誰も出ない。そこに、マリオの動きを察知した保が現れ、「何しているんだ? 家に掛けたのか?」と問い質す。だが、マリオは答えない。痺れを切らした保は「何とか言えよ!」と怒鳴る。それでもマリオが黙っているので、保は堪忍袋の緒が切れて、力任せにマリオを張り倒した。すると、投げ飛ばされたマリオが怒りを爆発させ、「バカ野郎 !」と叫び、保の胸に掴み掛かみかかった。側に居た加代が仲裁に入ると、マリオはどう対応して良いのか分からず、そのまま二階に昇って行く。そして、気持ちが高ぶったマリオは、暗い部屋の中で独り涙を流して悔しがる。感情を口に出せない子供の苦しさが観る者にも伝わってくるシーンであった。

  当初、厄介なガキを預かることになったとボヤいていた保と加代であったが、一緒に暮らし始めると何となくマリオが可愛く思えてきた。保は出前先を教えるため、マリオをバイクに乗せて得意先を回り、その途中でマリオ用のヘルメットを買ってあげたりする。加代もマリオの日常を考え、洋服店に赴き、子供用の下着や服、さらにはランドセルまで買おうとしていた。一方、マリオは出前の途中で近所の小学生に囲まれ、質問されても答えないことでイジメを受ける。これに気付いた保はマリオがどうするのか、その出方を見守るだけで助けようとはしなかった。子供達の問題は子供自身で解決すべし、というのが保の考え方なのだ。そして、ついにマリオがイジメっ子達に反撃し、格闘したことで「わだかまり」が消え失せ、近所のガキどもはマリオを受け容れる。

  最初、保や加代の問い掛けに無反応だったマリオだが、次第に表情を示すようになり、三人の関係は近くなった。普段は喋らないマリオだが、自分の気持ちを日記に書くことがあり、保と加代はマリオが居ないときにこっそりと盗み読みをする。マリオは日記の中で無骨な保をコケにするが、加代に対して好感を持っていた。そして、マリオにとって新鮮だったのは、保と加代が本気で感情をぶつけ合い、掴み合いの喧嘩さえ厭わないことであった。マリオの両親は喧嘩をしても殴り合いはせず、冷たい態度で無視するくらいだったので、本音をぶつけ合って喧嘩する保と加代の方に「人間らしさ」を覚えていたのだ。

  結婚もせず同棲していた加代と保だが、マリオという“子供”が存在する事で二人の感情に変化が現れてきた。最初はムッツリしたガキを背負い込んでしまった、という考えだった保と加代も、徐々にマリオとの距離が近くなり、マリオが笑っただけでも喜ぶようになっていた。とりわけ、加代は母性本能が目覚めたのか、マリオの仕事着を新調し、浴衣まで購入して母親気分。一方、学歴の無い保はマリオのために何かしたいと考え、得意な料理を教えようとする。二人はまるで息子を持っているかのような気分になっていた。ある日、マリオが保に腹を立て、店から居なくなると、保と加代はバイクに跨がって近所を探しまくる。しかし、マリオは家を飛び出さず、押し入れの中に隠れていただけだった。マリオの失踪に焦る二人の姿は本当の親のようで、マリオの存在が既に不可欠になっている事が観ている方にも伝わってくる。

  そうこうして、夏休みも終わりに近づいてくると、マリオの運命に大きな転機が訪れてきた。九十番の仕事に慣れてきたマリオのもとに、突然、あの父親が現れてきたのだ。マリオの父親は巡査の早川と保、加代を前にして、マリオを連れ帰り、もう一度親子二人で生活したい、と心境を打ち明ける。これを聞いた保は理性をかなぐり捨てて激怒した。マリオを我が子のように可愛がる保は、息子を捨てた親の希望があまりにも身勝手に思えてしまい、何と言おうが絶対に赦せない。加代もマリオを手放すのが辛くて悲しくなる。しかし、親子の絆は簡単に切れるものではない。マリオは躊躇するが、やはり自分の本心に逆らえず、父親のもとに戻ろうとする。罪悪感に包まれるマリオだが、最終的に父親と一緒に暮らすことを決め、保と加代の店を去ることにした。

  それから数日後、マリオが“ひょっこり”店に現れたから、保と加代はビックリ。マリオは何も無かったかのように、仕事着に着替え、黙々と店の手伝いをする。現代版「鶴の恩返し」のようだが、何かを口にするとマリオが居なくなってしまいそうで、保と加代は平常心を装い、そっとマリオの仕事ぶりを眺めていた。一通り仕事を済ませると、マリオは仕事着を脱ぎ、九十番を去ろうとする。保と加代はバイクにマリオを乗せ、駅まで送って行く。電車に乗り込んだマリオは何も口にしないが、別れを惜しむ気持ちは保と加代に充分伝わっていた。そして、電車が発車すると、涙ぐむ加代はマリオを追いかけようとするが、保がそれを食い止め、静かに見送ることにする。夕方、保と加代は誰も居ない店に戻り、二階の部屋に上がった。すると、窓に張り紙があり、これはマリオの感謝を綴った手紙だった。そこには「いっぱい、いっぱい、ありがとう」と書かれていた。視聴者もつい目頭が熱くなる。心を閉ざしていた少年が、最後に本当の気持ちを露わにしたのだ。

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(左: 「マリオ」役の柴田一幸    /    右: 「九十番」で働くマリオ)

  「親子ゲーム」は地味なドラマだけど、人間同士の葛藤がよく描かれていて結構良かった。特に、マリオ役の柴田一幸(しばた・かずゆき)君の演技がズバ抜けている。セリフがほとんど無く、顔の表情のみでマリオの気持ちを表現するんだから凄い。今売り出し中のの若手俳優なんか、とうてい太刀打ちできないだろう。とりわけ、哀しそうな表情を浮かべる彼の演技は秀逸で、とても子供の演技とは思えない。「親子ゲーム」の評価のうち90%くらいは、柴田君の存在で占められているじゃないか。長渕剛の演技も悪くはなかったが、所詮、大人のセリフだから、どうしても役者に見えてしまう。ところが、柴田君は本当にマリオみたいだった。さらに凄いのは、柴田君があっさりと藝能界を引退し、一般人に戻ったことだ。おそらく、自分の限界を悟ったのだろう。子役の運命は悲惨なことが多く、成長すると急に需要が無くなり、役者の仕事が回ってこなくなる。高校生になっても小学生の影が纏わり付けば、厭になって俳優を辞めたくなるはずだ。したがって、柴田君の決断は正解と言えるんじゃないか。

家族の大切さ

  このドラマで考えさせられるのは、子供を捨ててしまう親がいるという現実と、その冷酷な仕打ちにもがき苦しむ子供がいるということだ。自分には落ち度が無いのに、愛する親から見放される子供は、どうしていいのか分からない。小学四年生は幼児ではないが、かといって独立できる青年でもないから、何とも歯がゆい年齢だ。マリオが孤独を選び、寡黙になったのも当然である。何処にもぶつけようがない怒りと悲しみを解消しようとすれば、そうした苦痛を招く「感情」を押し殺すしかない。誰かを愛しているから、その人に未練が残る訳で、誰とも関わり合いを持たず、自分だけの世界に閉じ籠もれば傷つくことはない。しかし、周りの人々から愛されたいと欲するのも人情であり、子供なら尚更だ。それなのに、無力な少年に出来る最大の解決策が、孤独になることなんだから、あまりにも哀しすぎるじゃないか。正直な気持ちを恐れ、その場から逃げようとするマリオの姿に、我々が心を打たれるのは、マリオの言葉に出来ない言葉を察するからだろう。

  家族を持つと、“しんどい”事が多い。だが、それを忘れるほどの喜びも多いはずだ。現在、政府は少子化を懸念し、出産祝いを渡したり、託児所を増設し、育児手当の増額、授業料の無償化、扶養控除の拡大などを呼び水にして、出生率を上げようとしている。しかし、日本人はお金をもらえるから子供を産むのか? 高級官僚や大学教授は税金の“ばらまき”ばかりを議論するけど、一番肝心なのは「人間の心」を論じることにある。彼らは将来の経済状態を心配するだけで、「家庭が素晴らしい」という価値観が無いのだ。日本人は名門校への進学とか、見栄の張れる職業に関する知識は豊富でも、子育ての喜びとか、子孫への配慮という点には無頓着である。たぶん、こうした価値観は数量化できないし、特別な勉強が必要とされる訳じゃないから軽視されているのだろう。

  「キャリア・ウーマン」を礼讃するフェミニストは、「出産や育児なんか誰にでも出来るじゃない !」と小馬鹿にするが、家族を持つことには重要な意義がある。いくら華やかな仕事に就いていても、子育てに奮闘する母親の方がやり甲斐を感じるはずだ。子供を幼稚園に送り迎えしたり、早起きして弁当を作るのは面倒だけど、子供のためを思えば苦労とは感じないものである。また、子供が夜中に熱を出せば、一晩中の看病でクタクタになるけど、苦しむ我が子を放っておけないから親は頑張る。最近の子供は妙にマセているから、いくらチビ助でも幼稚園児ともなれば色々と大変だ。例えば、粉末状の風薬を飲ませようとしても、「苦いからイヤ!」と拒み、「ママが飲めばいいじゃん!」と減らず口を叩く。そこで、母親が「苦くないから」とアイスクリームに混ぜても駄目で、子供は口を固く結んでお地蔵さんを決め込む。たとえ、すったもんだの末に飲ませたものの、1時間くらい手間がかかるので、仕事の支度をせねばならない母親は頭を抱えてしまう。一家の大黒柱たる父親だって、職場と家庭の両立で大変だけど、子供の将来を考えれば怠けることはできない。父親の靴下を臭いと嫌がる娘でも、結婚の時に父がコツコツ貯めたお金を手にすれば、感謝の涙が込み上げてくる。そして、父親の方も結婚式で号泣なんだから、キャバレーのお姉ちゃんに貢ぐより自分の娘に給料を使うべきである。昔は、子供の成長を生き甲斐とする親が多かったし、親孝行をしたいと考える子供も同じくらい多かった。

  長渕氏のドラマといえば、「親子ゲーム」より「とんぼ」の方が有名なんだろうけど、彼のファンはどう評価しているのか? 長渕氏は肉体を鍛えて、曲調まで変えてしまったが、華奢な頃の方が良かったように思えてならない。昔、長渕氏がDJを務めるラジオ番組の録音テープを聞いたことがあるけど、現在の長渕氏とは随分違っており、爽やかな好青年という感じだった。それに、妙な政治的・社会的な発言もなく、気楽な話題で笑いを取っていたから、聴いていて愉快だったのを覚えている。過去にこだわるのは良くないが、過去と訣別してしまうことも良いとは言えまい。ただ、これは長渕ファンの間でも意見が分かれるところだろう。

  ミュージシャンには変貌が激しい人がいるようで、フォークソング界の大御所である松山千春も例外ではない。「旅立ち」や「人生の空から」「銀の雨」を唄っていた頃の千春は、長い髪を靡かせる好青年だった。そんな若手歌手も月日が経てば、その雰囲気は豹変し、サングラスは同じでも髪の毛は無い。以前は北海道出身の素朴な青年だったのに、今じゃ山口組の若頭みたいに思えてくる。そして、彼は新曲作りより政治活動の方に熱心な時期があった。共産党系の家庭に育ったから仕方ないけど、よりにもよって鈴木宗男と組むことはないじゃないか。宗男と千春がタッグを組んで街頭演説なんておぞましい。北海道は緑の大自然が豊富なのに、そこに住む道民は赤く染まっている。ただし、鈴木宗男は頭が真っ赤というより腹が真っ黒い。宗男なら演技抜きで、「とんぼ」の出演者になれるんじゃないか。ヤクザから賄賂をもらう政治家の役ならピッタリだ。でも、そんな宗男に蹴りを入れる志穂美悦子のドラマを見てみたい。関係無いけど、長渕剛と悦っちゃんが実際に喧嘩したら、どっちが勝つのかな?



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