無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2019年02月

ジョン・ウェインに激怒する黒人 / 率直に語りすぎた白人俳優

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房

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白人至上主義者の俳優?!

  ジョン・ウェイン言えば、ハリウッド・スターの中でも超有名で、アメリカを象徴する代表的人物だ。日本の映画ファンなら、『赤い河』とか『黄色いリボン』『駅馬車』『勇気ある追跡』『アパッチ砦』『アラモ』などを想い出すんじゃないか。ジョン・ウェインには数々の作品があるけど、やはりカウボーイとしての役柄が似合っており、陽気で気さくなアメリカ人というイメージがある。たとえ、西部劇を離れても、彼の男らしさは変わらず、嵌まり役といったら軍人しかない。したがって、いくら役者とはいえ、民間企業に勤める“しがない”サラリーマンとか、うだつの上がらない公務員なんてキャラクターは企画段階でボツ。

  アクション俳優のシルヴェスター・スタローンやアーノルド・シュワルツネッガーと同じく、ジョン・ウェインも勇敢な軍人を演じればピカイチだ。1968年に公開された『グリーン・ベレー(The Green Berets)』では、陸軍特殊部隊を率いるマイク・カービー大佐を演じていた。彼はこの作品で主演の他、自ら監督を務めていたが、制作の目的にはベトナム戦争で落ち込んでいるアメリカ社会を励ます意図もあったらしい。ちなみに、この映画の設定には無茶なところがあった。ウェインはベトナムに派遣される特殊部隊の指揮官を演じていたが、通常、「大佐」級の軍人が小隊を率いることはない。一般的に、特殊部隊を任されるのは大尉か中尉くらいで、あとは熟練のスナイパーやベテランの曹長などで構成されるのが普通である。しかし、ウェインが演じる軍人は大佐じゃないと“しっくり”こない。脳天気な日本人だと、政治家を選ぶ際、東大法学部卒とか元財務省官僚に目を留め、「わぁ、すごい経歴だなぁ~」と思って指導者に選んでしまうが、アメリカの一般人は、試験秀才とか上級役人なんかは崇めない。頼りがいのある陸軍や海兵隊の大佐の方を選んでしまう。やはり、民衆を束ねるリーダーにはカリスマが必要で、不測の事態に対応できる能力はもちろんのこと、即座に正しい判断を下し、責任を持って実行できる人物でないと駄目だ。予め答えが分かっている問題に正解できるから「エリート」なんて思うのは日本人くらい。霞ヶ関の高級官僚を見てみろ。「責任最小、権限最大」がモットーになっている。(どこの役所でも同じで、責任はボンクラ大臣に丸投げなんだから。)

  ついでに言うと、元ハリウッド俳優で後に合衆国大統領になるロナルド・レーガンが憧れていたのは、このジョン・ウェインだった。大統領になったレーガンは、休暇になるとよく牧場へ赴き、愛馬に乗って楽しんでいたが、それはアメリカ国民に向けて、自身のカウボーイ姿を植え付けるためでもあった。アメリカの大衆は宮澤喜一のような気取ったインテリが大嫌い。彼らは気さくなんだけど威厳のある軍人とか、ガッツと人徳のあるアメフト選手などを好む。やはり、一国の指導者は堂々とした風格の持ち主でなきゃ。鳩山由紀夫みたいな宇宙人とか、サラリーマン風の福田康夫などは論外。また、ダチョウ倶楽部の上島竜平かと見間違う野田佳彦でも恥ずかしい。翻って、反共主義のレーガン大統領は、強大な軍事力を背景にしてソ連を叩き潰そうとしたカウボーイ。西部開拓時代を連想させる手法に、保守派の国民は大喜びだった。大統領職には武力を以て悪党を退治する英雄が相応しい。猪みたいに直進一本槍の森喜朗じゃ馬鹿の一つ覚えだ。小泉純一郎に至っては、アメリカの石油業界に土下座して、「どうかひとつ、息子の進次郎を総理大臣にしてやって下さい!」と揉み手すり手なんだから、老醜としか言い様がない。

John Wayne & Roanld Reagan 1Ronald Reagan 321










(左: ロナルド・レーガンとジョン・ウェイン  /  右: 乗馬を楽しむレーガン大統領)

  脱線したので話を戻す。最近、脚本家で写真家のマット・ウィリアムズ(Matt Williams)が、1971年に発売された『プレイボーイ』誌でジョン・ウェインのインタビュー記事に目を附け、その暴言を自身のツイッターに載せたという。すると、この“再発見”を耳にした一般人は大騒ぎ。何しろ、ジョン・ウェインが亡くなって40年以上も経つから、若いアメリカ人は西部劇で活躍した名優くらいにしか思っていなかったのだ。でも、記事を読んだ一般人は目を疑うほど驚いた。「まさか、あの有名俳優が・・・」と大ショック。この騒動は瞬く間にマスコミに流れ、左翼メディアの「ワシントン・ポスト」紙や、黒人向けウェッブサイト・ニューズの「グリオ(The Grio)」が取り上げる事になった。

  現在の高校生や大学生だと、ジョン・ウェインは既に「過去の役者」となっているから、「誰それ?」と尋ねる人の為にちょっとだけ紹介したい。ジョン・ウェインというのは藝名で、本名はマリオン・ミッチェル・モリソン(Marion Mitchell Morrison)。綽名は「デューク(Duke)」で、これは彼が飼っていた愛犬「デューク」から由来しているという。近所の人々はマリオンがいつも連れて歩くペットの方を「リトル・デューク」と呼び、飼い主の方を「ビッグ・デューク」と名づけたそうだ。成長したマリオンは海軍兵学校を目指すが、不合格となって、大学に進学する。だが、怪我のせいでスポーツを断念し、役者の道を選んだそうである。勇敢な保安官や軍人を演じて好評を得たウェインには、やはり愛国者の血が流れていた。彼の祖父は南北戦争を戦ったアメリカ人で、孫のマリオンが海軍士官を目指したのも、こうした家系の影響があったのかも知れない。健全な両親に育てられたマリオンは、普通の善良な青年に育ち、母親の信仰を受け継いでプレスビテリアン教会(長老派のキリスト教宗派)に通っていたという。

John Wayne 12John Wayne 11John Wayne 4










(左: 学生時代のジョン・ウェイン  / 中央: デビュー当時の写真  / 右: 西部劇のウェイン )

Joseph McCarthy 002(左  / ジョゼフ・マッカーシー )
  今の日本人やアメリカ人からすると「えっ!」と驚いてしまうだろうが、ジョン・ウェインは意外にも反共主義者で、“極右”組織と評される「ジョン・バーチ協会(John Birch Society)」に属していた。「ジョン・バーチ協会」と言えば、日本では怪しげな政治団体と見られがちだが、米ソ対立が激しかった1950年代から60年代のアメリカでは反共主義の民間団体に属する人は珍しくなかった。歐米や日本で反共主義団体の評判が悪いのは、マスメディアが容共の左翼に牛耳られていたからだ。つくづく嫌になってしまうが、ハリウッドや全米テレビ局には、ピンクや深紅の左翼ユダヤ人がゴマンといたのに、それを暴く映画や特番はほぼ皆無。反米活動家と見なされた映画監督は、まるで魔女裁判の犠牲者みたいになっている。ところが、「赤狩り」を行う保守派に対しては容赦がない。電柱のような鉄槌が下され、自由社会の擁護者は極右扱いだ。「反共」の代表格たるジョゼフ・マッカーシー上院議員は、悪魔の権化か閻魔大王。一旦、学術書で有罪が決まれば、その判決を覆すのは至難の業で、事実、未だにその汚名は払拭されず、妄想に取り憑かれた狂人といった具合だ。しかし、今となってはヴェノナ文書が公開され、マッカーシー上院議員の批判が正しかったと証明されている。一方、マッカーシズムを糾弾していた学者は知らぬ顔。何事も無かったかのように平然としており、過去の言論は総て闇に葬っているんだから本当にズルい。

  『プレイボーイ』誌のインタビューで、リチャード・ウォーレン・ルイス(Richard Warren Lewis)の質問に対し、ジョン・ウェインはどう答えたのか? 例えば、1960年代に公開された映画『イージー・ライダー(Easy Rider)』や『ミッドナイト・カウボーイ(Midnight Cowboy)』について訊かれると、ウェインは否定的な反応を示したらしい。「君はミッドナイト・カウボーイの中に出てくる男二人の素晴らしい愛について、 つまり、オカマ野郎(faggot)どものストーリーについて訊きたいのかい?」 ウェインが男性の同性愛者に対する侮蔑語を口にしたことからも分かるように、彼はこの変態作品を嫌っていたという。(Stephanie Nolasco, "John Wayne's family responds to actor's controversial 1971 interview with Playboy", Fox News February 21, 2019.)

  ちなみに、『ミッドナイト・カウボーイ』では、ジョン・ヴォイトがテキサスからやって来たカウボーイの「ジョー」を演じ、ダスティン・ホフマンがチンケな詐欺師「リッツォ」を演じていた。おぞましいのは、所持金を騙し取られたジョーが、金に困って男娼に身を堕とし、心ならずも客からのオーラルセックスに応じたことだ。ベトナム戦争が泥沼化した1960年代後半から70年代にかけて、アメリカの社会道徳は一気に崩れ、敬虔な生活が馬鹿にされ、ふしだらな生活が容認されるようになった。ハリウッドの左翼制作者たちは、陽気で実直なアメリカ人というキャラクターを徐々に捨て始め、その代わり、暴力シーンが満載のヴァイオレンス映画とか、フラワー・チルドレンが出てくる頽廃映画を作るようになった。また、男女の性描写もあからさまになり、フリーセックスに溺れる若者とか、結婚を望まないフェミニストなどが銀幕に登場し、それを左翼監督が“クール”に描いたから、敬虔なアメリカ人は眉を顰めた。アメリカの映像作品によく「PG-13(13歳以下の観客には親の同伴を必要とする)」「NC-17(17歳以下の観客は入場禁止)」といった規制があるのは、未だに西歐的倫理基準が息づいているからだろう。

黒人に対して赦しを乞わない !

  西部劇映画で有名になったウェインだから、当然、インディアンに関する質問も出ていた。ルイスは原住民に対しどんな感情を抱いているのかを尋ねたという。すると、ウェインは次のように答えた。

  私は彼らから土地を取り上げたことについて間違っているとは思わないね。いわゆる、我々が彼らから土地を奪ったという話だが、それは生存競争に過ぎない。新しい土地を必要とする人々が大勢いて、インディアンは身勝手にも自分達だけのものにしようとしていた・・・・そうだなぁ、確かに不平等はあっただろう。もし、これらの不平等が今生きているインディアンに影響を与えているとしたら、彼らには裁判に訴える権利があると思うよ。しかし、この国で100年前に起こった事を以て、現在の我々が責められるべきとは思わんがね。

  こうした見解には様々な反応が予想できる。白人に土地を奪われたと叫ぶインディアンの末裔がこの話を聞けば、「ふざけるんじゃない! 身勝手なのはどっちだ! お前ら白人が腕尽くで奪ったんじゃないか! まったく、盗っ人猛々しいぞ!」と憤慨するだろう。一方、戦国時代と帝国主義時代を経験した日本人だと、「戦って負けたんだから仕方ないんじゃないか」と思えてくる。なるほど、昔ながらに暮らしていたインディアンからすれば、先祖伝来の土地にいきなりヨーロッパ人が現れ、勝手に境界線を引き、「所有権」なるものを主張したんだから、「何だ、それ!」と反撥するのも無理はない。いくら土地取引の契約を結んだといっても、インディアンは好意で土地を貸しただけだ。未来永劫、自分の土地を割譲した訳ではない。だから、インディアンたちは征服者たちを憎んだ。実際、彼らはイギリス人を殺したし、フランス人と手を組んで反撃を企てることもあった。今のインディアンは一方的な被害者を演じているが、彼らの祖先は無抵抗のまま殺戮されたんじゃない。戦闘で白人を捕まえれば首を切ったり、問答無用で頭皮を剝いだりと、思いっきり復讐を果たしたこともあるのだ。

  日本の高校生はあまり知らないけど、俗に「フィリップ王の戦争(King Philip's War / 1675~76)」と呼ばれる「メタコム酋長の叛乱(Metacom's Rebellion)」があった。ワンパノアグ族がイギリス人の村を襲撃し、家屋を焼いたり家畜を不具にしたこともあったという。中でも、マスケット銃を撃ちまくって白人を虐殺した話は有名だ。ここで刮目すべきは、キリスト教に改宗していたインディアンが劣勢だったイギリス人を助け、彼らに反撃の方法を教えてやったというエピソードだ。一方的にインディアンが皆殺しにされたという話は、巷に漂う都市伝説の類いである。白人をやっつけるインディアンの英雄譚には一種の爽快感があるが、仲間割れという欠点も見逃すことはできない。ピークウォット族やモヒカン族はワンパノアグ族と団結せず、一致協力してイギリス人入植者を撃退することはなかった。したがって、一口に原住民といっても、部族や個人を見渡せば事情は様々で、彼らは一枚岩ということではなかったようだ。インディアンは日本人のように臥薪嘗胆で西歐化を図り、力を貯めて乾坤一擲、西歐列強を撥ね除けようとしなかった。この点、昔の日本人は本当に賢かったと言えるしんじゃないか。もし、幕府と薩長で内乱を続け、英仏からの資金や武力に頼っていたら、簡単に西歐諸国の植民地となっていただろう。

  インディアンの末裔が白人に文句を垂れるのは勝手だが、それならアメリカ国籍を捨て去り、合衆国からの保護を一切受けないと宣言すべきだ。先祖を殺した敵に税金を払い、医療や教育、住宅、治安維持といった社会福祉を受けながら、白人征服者に「反省」を求めるなんて滑稽だ。インディアンの末裔はさっさと西歐文明から離脱し、伝統的な部族社会に戻るべきだろう。病気になっても緊急治療室に行かず、呪い師のもとで治してもらえばいい。だいたい、白人が建てた学校へ通って、憎い相手の言語(英語)を学ぶなんて馬鹿げている。出身部族の言葉を学ぶのが先なんじゃないか。また、クーラーやウォシュレットなんかも厳禁だ。夏が暑いのは当然。家電製品は白人の発明だから拒否すべし。大便は野原で済ませろ。ガスや灯油も白人が持ってくるエネルギーだから駄目。燃料は薪のみで、サマー・キャンプみたいな日常にすればよい。ただ、こうした前近代的な生活に、若い原住民が耐えられるのかどうか、は別の問題である。

  ルイスによる質問で、一番アフリカ系アメリカ人を激昂させ、論争を巻き起こしたのは、黒人に対するウェインの見解である。インタヴューアーのルイスは、黒人極左のアンジェラ・デイヴィス(Angela Davis)や人種差別について質問した。ウェインは黒人が白人に恨みを抱き、不満をぶつけたいという感情には理解を示していた。「しかし、だからといって我々が急に跪き、何事においても黒人の指導を仰ぐ、といった事はない」とウェインは釘を刺す。

  私は黒人が責任感を持つように教育されるまで、白人の優越性(white supremacy)を信じたいね。私は無責任な人々に判断力が求められる指導的地位を与えたくないし、そうした権威を与えることにも賛成しないなぁ。

  ウェインは黒人がリーダーの資質に欠けること、そして、責任ある地位に就くには教育が足りない、といったことを述べていた。特に、彼は劣った黒人に下駄を履かせて大学に入れてやる制度に反対だった。何しろ、白人と同じ試験を受けて学力が足りないと判明したのに、「有色人種だから」という理由で優先的に入学を認める制度なんだから、不正の合法化と言えるんじゃないか。確かに、「アファーマティヴ・アクション(有色人種優遇制度)は何割かの黒人に知識を与え、就職への道を与える事はできた。しかし、その一方で黒人全般の評価を下げることにもなっていたのだ。いくら黒人が「俺はハーバード大卒なんだぞ!」とか、「奨学金を貰って、プリンストンやダートマスの大学院に通ったんだ!」と自慢しても、白人は「まぁ、黒人だから特別扱いにしてもらったんだろう」と小馬鹿にする。実際、バラク・オバマは“これ”といった業績も無いのに、権威ある「ハーバード・ロー・レビュー」誌の統轄者になれた。一方、集英社や小学館はハーバード大学ほど甘くはない。日本の出版社と一般読者は実力主義の信奉者だから、いくら黒人の漫画家でも「週刊ジャンプ」の看板作者にはしないし、人気投票で一番にすることもない。たとえ、投票葉書を捏造しても、単行本の売れ行きやアニメ化の話で躓くから、すぐ嘘がバレる。

  ルイスは更に厳しい質問を浴びせかけた。すなわち、ウェインが黒人奴隷をどう考えているのかを尋ねたのだ。そこで、ウェインが率直に答える。

  私は5世代や10世代前に彼らが奴隷だったという事実に関し、罪悪感を覚えることはない。だからといって、奴隷制を見逃すというか、赦す訳じゃないからね。それは人生にある現実なんだ。例えば、身体障碍を抱えた子供が、金属製の器具を身につけている状態なら、友達と一緒にフットボールを楽しむ事はできないよね。現在の白人と競争できる黒人は、白人よりもマシな厚遇を受けているんだ。もし、アメリカより素晴らしい権利を得ている黒人がいたら、どこの国なのかぜひ教えてもらいたいものだ。

  もう、こんな発言を耳にしたら、黒人の活動家や大学教授は激怒するだろう。ウェインが述べていたことは、黒人に対する虐待は過去の話で、現在の我々には関係無いという趣旨だ。しかも、白人が教育と機会を与えてやったから、少しはマシな黒人が増えたのであって、白人が一方的に非難されるのは心外だと語っていたのである。ウェインの意見は人種によって評価がまちまちだし、彼と黒人のどちらが正しいのか、判断を下すのは日本人でも難しい。黒人の恨みは理性を越えた感情にある。いくら白人が正論を吐いたとて、絶対に受け容れることはできない。なぜなら、劣等民族の悔しさは言葉で治療することができないからだ。これは日本人を恨む朝鮮人と同じで、いくら言葉で謝っても、因縁をつけてくる民族の心は晴れない。朝鮮人が日本人を奴隷にし、男は縛り首で、女は強姦という復讐を果たせばスッキリするだろう。しかし、普通の日本人なら、こんな仕打ちに耐えられまい。必ずや抵抗するはずだ。

自分の祖先を恨めない黒人

  黒人が白人を赦せないのは、白人の残虐性もさることながら、黒人が持つ自らの「惨めさ」に原因があるのだ。アメリカの黒人は奴隷船でアフリカ人を連れてきた白人を憎む。だが、その奴隷商人はアフリカの有力部族から「黒い捕虜」を購入したのだ。ポルトガルやスペイン、ブリテンの白人が各地の村を襲って黒人を拉致するなんて無理。そもそも、西歐人が密林を掻き分けて侵攻したというのは嘘で、大抵は紛争に勝った黒人部族が敗者を捕虜にして、取引を持ち掛ける白人に転売したというのが実態である。事実、カリブ海の黒人たちは、輸出先のナイジェリアやガーナを恨んでいる。例えば、ナイジェリアで人権活動に励む黒人左翼は、部族の酋長ならびにその子孫を責め立て、奴隷制の後遺症に苦しむ黒人に謝るよう求めていた。(David Smith, "African chiefs urged to apologise for slave trade", The Guardian, 18 November 2009.) しかし、当のアフリカ人には「人権」という概念は更々無い。そんな言葉を聞いたって馬耳東風。「権利(rights)」と聞いても「右手」を差し出す程度。象牙の方がお金になる。もし、「有罪」とされた部族の首長に「賠償として牛30頭、豚40匹、鶏70羽を出せ!」と要求すれば、「何で俺が貴重な財産を差し出さなきゃならないんだ!」と激昂して棍棒を振り上げるだろう。アフリカの黒人はウェインと同じく、「遙か昔になされた罪を現在の者が償う義務は無い!」と撥ね付けるだけだ。我々にとって興味深いのは、「こうしたアフリカ人を見たアフリカ系アメリカ人はどう思うのか?」という点である。

Marcus Garvey 13(左  /  マーカス・ガーヴェイ)
  もう一つ、アメリカ黒人の怒りには別の要因がある。アフリカ系国民の地位向上を訴え、白人批判を展開する赤い黒人は、現在の白人に賠償を求めても、彼らの祖先が選んだ「決断」には触れようとはしない。なぜなら、白人から解放された元黒人奴隷は故郷に帰ることを拒み、白人国家に留まる事を選んてしまったからだ。(その結果、黒人の子孫は精神が妙に歪んでいる。) 以前、当ブログでも紹介したが、「黒いモーゼ」と呼ばれるマーカス・ガーヴェイ(Marcus Mosiah Garvey, Jr.)は、白人国家のアメリカで黒人は幸せにならないと考え、黒人はアフリカに戻るべきだと訴えた。このジャマイカ人救世主は、アフリカに作られたリベリアに赴き、黒人による国家を創設しようと夢見たが、肝心の黒人たちは興味を示さなかった。ガーヴェイは「ブラック・スター・ライン」社まで創設し、渡航手段を持たない黒人を助けてやろうとしたのに、彼の同胞は故郷での悲惨な生活を予想し、豊かなアメリカに住み続けることを選んだ。

  現在の黒人はあれこれ不満を漏らすが、彼らの祖先は差別よりも貧乏を恐れていた。これは情けない現実だが、一旦、高度な文明に触れた劣等種族は、いくら差別されようが、その豊かさに魅了され、ちょっとした“おこぼれ”でもいいから「華やかな生活に与りたい!」と願ってしまうのだ。確かに、異人種の国で差別されることは苦痛だ。しかし、アフリカに還って貧乏生活を味わうよりマシである。アフリカにはゾっとするような原始的生活しかない。電気・水道・医療が存在しないばかりか、「明日への希望」さえ無いのだ。アメリカには立派な建築物が聳え立ち、煌びやかな衣装を身に纏った貴婦人がいる。今は無理でも子供や曾孫の代には、「人並みの暮らしが出来るんじゃないか」と淡い希望を抱く黒人もいたはずだ。アメリカは西歐人の天下であっても、一応、公衆衛生が行き渡っていたから、黒人でも多少はその恩恵に浴することもできた。簡単な治療といえども、病気への恐怖が軽減されていたし、黒人でも医学を学ぶこともできたから、アフリカよりマシである。映画では残虐な扱いをする白人ばかりが出てくるが、中には黒人に温情をかける白人もいたから、強制収容所みたいな暮らしを想像するのは間違いだ。農園で働く黒人は御主人様の情けを求めたし、黒人を雇う白人にも“まともな”経営者がいたらしい。

  奴隷制度を持たなかった日本人から見れば、アメリカ白人の黒人搾取は残酷に思えてしまうだろう。だが、世界史を眺めてみれば、奴隷制なんて珍しくもないし、「同胞を奴隷にしなかった西歐人はまだ“上等”なんじゃないか」と思えてくる。アジア大陸の民族にとって異邦人を差別するのは当り前だし、戦争捕虜の虐待・拷問は普通で、奴隷貿易なんか単なる商売だ。インドに行けばカースト制度があるし、アフリカでは狂気に満ちた部族闘争が絶えない。ルワンダでの虐殺劇を想い出せばわかるじゃないか。敵を捕まえて足首を切断するんだから、人権も正義もあったものではない。鳥や豚じゃあるまいし、鉈(なた)で人間の手足をぶった切るなんて鬼畜と同じ。しかし、これとて支那人に比べたら可愛いものだ。支那人の殺戮といったら日本人の想像を遙かに超えており、戦争となれば殺人や掠奪、放火は当り前。数十万人規模の虐殺なんか幾らでもある。人間を捕らえてバーベキューにするくらい朝飯前というか、ちょっとした“お祭り”といった感じである。

Slavery in Africa 3Slavery in Arabia 13








( 左: アフリカ人の奴隷 /  右: 白人奴隷を売買するムスリム商人の絵)

  アメリカの黒人が憤りを持ち続けるのは分かるけど、それならアフリカに移住して、立派な黒人国家を建てるべきなんじゃないか。それに、白人を糾弾する黒人は、リベラル派の左翼分子やユダヤ人に裏で操られている場合が多い。当ブログで以前も紹介したが、ユダヤ人左翼は黒人の公民権活動家に近づき、法的アドヴァイスを与えたり、こっそりと資金を提供したりと、様々な支援を送り、「共通の敵」に戦いを仕掛けていた。また、革命家の白人極左にとって、怒れる黒人は「便利な馬鹿」となっていた。憎い資本家を抹殺し、伝統的社会を転覆させるには、「社会正義」を振りかざす尖兵、あるいは何も考えない鉄砲玉、すなわち「捨て駒」や「消耗品」が必要なのだ。日本人の保守派でも、こうした構造を判っていない者が多く、単純な保守派は黒人に加勢して「そうだ、白人はけしからん!」と憤慨する。だが、西歐諸国と絶縁した日本がどのような運命を辿るのかは考えない。他方、アメリカの大学で西洋批判を展開するユダヤ人は、お金を払わないのに協力してくれる、海外のボランティア馬鹿に感謝し、左翼連携を持ちかけよとする。日本人はユダヤ人のプロパガンダに弱いから、簡単に引っ掛かるだろう。

  とにかく、ジョン・ウェインの意見に反撥するアメリカ人は大勢いると思うが、1970年代初頭のアメリカを考えれば、彼の歴史観に不思議なところは無い。もし、マズいところがあるとすれば、それは彼が率直に答えを述べた点にある。黒人は白人全般を非難するが、アメリカの白人には東歐系とか南歐系が含まれているし、たとえ西歐系国民に絞ったとしても、誰が奴隷所有者の子孫なのか特定は難しい。それに、今日では入植者の子孫とかアングロ・サクソン系の数が激減しているから益々困難だ。彼らの末裔は様々な人種と混淆しているから、仮に奴隷所有者の財産を受け継ぐ者を探し出したとしても、どれほどの賠償金を獲得できるのか分からない。民衆党の極左議員であるカマラ・ハリスやエリザベス・ウォーレンは、奴隷制に関する賠償を払うべし、と主張していたが、具体的にどうやって償うつもりなのかを述べていなかった。(Lisa Eustachewich, "Kamala Harris , Elizabeth Warren both support reparations for slavery", New York Post, Febraury 22, 2019.)

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(左: カマラ・ハリス  / 右: エリザベス・ウォーレン )

  ハリスとウォーレンは勇ましい持論を口にしていたが、こんなのは単なる人気取りだ。第一、議会が承認しないし、大半のアメリカ人も大反対となるだろう。考えてもみよ。奴隷所有者の子孫じゃないのに、「白人だから」という理由で資産をむしり取られる白人は黙って税金を差し出すのか? 結局、ハリスとウォーレンは黒人有権者にアピールしただけ。彼女たちが何を言おうが、アメリカの黒人は惨めなままだ。奴隷として搾取され、解放されてもほったらかし。たとえ、白人並に扱われるようになっても、黒人票を狙う政治家に利用されている。奴隷の子孫は差別意識をひた隠しにする白人を怨むが、かといって白人のいない黒人だらけの社会をつくると、不正や腐敗がはびこり、貧乏と悲劇が織り混ざったスラム街になってしまう。最終的に、「白人様、戻ってきて !」と懇願するか、白人の居住区に潜り込むのがオチだろう。何てことはない、白人に寄り添って暮らすことが黒人の幸せになっているのだ。ちょっと賢い日本人なら、「哀しいけど、これが現実なのよねぇ~」と云いたくなる。
  




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皇族の教育は大丈夫なのか? / 「政教分離」という罠

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困った王様が君臨していた英国

American Revolution 2









  昨年(2018)の11月30日、秋篠宮殿下が記者会見でなされた御発言は、誠に現代を映し出す鑑(かがみ)である。殿下の御言葉は、大嘗祭は宗教色が強いので、それを国費で賄うことは宗教分離を定めた「憲法」に違反するのではないか、という趣旨のものであった。たぶん、これは前回の儀式にかかった総経費が二十数億円にも上った事への反省なのかも知れない。そこで、秋篠宮殿下は公費を充てることは適切ではないので、内廷費から捻出すべし、というお考えなのだ。

  おそらく、殿下は国民の税負担を御心配なさっての御発言なんだろうが、こうした思考は皇室伝統に沿うものではない。第一、現在の「日本国憲法」は、占領軍が作成した懲罰目的の「反省文」であり、日本の國體(constitution)を反映していないのは周知の事実。反軍思想に基づいた「憲法」などは、狂人を縛る「拘束衣」に過ぎず、明治大帝ばかりか、元勲たちが目にしたら卒倒しそうな代物である。一方、我が国の憲法学者がこの「懲罰憲法」を称讃したのは、強かった日本軍の解体と日本人の弱体化を加速したからだ。今では信じられないけど、敗戦後の進歩的文化人たちはソ連の侵攻を期待し、赤軍が上陸したら赤絨毯で迎えるつもりだった。スターリン元帥が日本の支配者になれば、威張り腐っていた軍人は総て銃殺刑だし、天皇陛下も抹殺できる。しかも、鬱陶しい国粋主義的老教授たちが一掃されるので、「アカ」と罵られた若手は「やったぁ! ようやく俺たちも正教授になれるぞ!」と大喜び。ただ、彼らにとって残念なのは粛清の天使がスターリンじゃなく、マッカーサー元帥であったことだ。でも、邪魔者を片付けることが出来たから、結果的にはどちらでも良かったのだろう。

  次に厄介なのが、「宗教分離」という呪文だ。これは高校や大学で憲法の授業を取ると、必ず出くわす洗脳用語である。元々、「政治と宗教を融合してはならない」とする禁止は西歐からの輸入で、江戸時代の日本人が聞いたら「アホか!」と呆れ返るだろう。神州の日本で「祭り事」を抜いた「政治(まつりごと)」なんて考えられない。西歐人が教会の政治介入を嫌ったのは、三十年戦争のような宗派争いに嫌気が差したのと、「王権神授説(Divine Right of Kings)」といった政治思想、すなわち主流派となった教会による迫害を排除したかったからである。日本人は礼拝の違いくらいで何百万人も殺そうとは思わないし、神主が政治を壟断して独裁権を狙うなんて考えない。戦国時代だってイランのホメイニみたいな宗教家は現れなかった。家康が頼りにした大僧正の天海は結構な影響力を持っていたが、所詮は知恵袋的存在に過ぎず、本多や酒井、井伊、榊原の四天王を凌駕する程の権力を握ることはなかった。

American Continental Congress 1American puritans 1









  イギリス人が宗教的権威をふりかざす君主を嫌うのは、スコットランドからやって来たジェイムズ1世の秕政(ひせい)に由来する。この王様について話すと長くなるから省略するが、「最も賢い愚者」と呼ばれたジェイムズは王権神授説の権化だった。彼の考えによると、国王は天主(God)の恩寵(grace)を授かった地上に於けるキリストの代理人(Vicarius Christi)であるから一番偉いというわけ。したがって、臣民が王様に楯突くということは、全知全能のイエズス・キリストに向かって叛逆するのと同じくらい不届き千万、即縛り首でもおかしくはない。従順な臣民に慣れたジェイムズにすれば、イギリス人は御しがたく、何かあれば直ぐイングランドの法や伝統を持ち出して、あれこれ注文をつけるから頭にくる。

  自信満々の王様にとって、あれこれ諌言を挟んでくるイングランド人は実に鬱陶しい。「お前らはつべこべ言わず、朕の言うことにだけ従え!」というのがジェイムズの主張であり、臣下への命令でもあった。ところが、コモン・ローの大家であるエドワード・クック卿(Sir Edward Coke)などは、「たとえ国王陛下の権威・権力といえども、イングランドの法の下にあります!」なんて口答えするから、ジェイムズは怒髪天を突く勢いで叱責する。案の定、王様の逆鱗に触れたエドワード卿は投獄されてしまう。しかし、彼は牢屋に入ってもへこたれなかった。(まるで、巣鴨プリズンに入った岸信介みたい。) そのうえ、エドワード卿は人望が厚く、彼を支持する仲間も多い。というこで、国王ジェイムズはしぶしぶだが、エドワード卿の粛清を諦めるしかなかった。一方、日本でも有名なフランシスコ・ベーコン卿は卑屈なほど王様にベッタリ。胡麻を擦りすぎでバターになるくらい。ベーコンはコモン・ローの法律家を侮蔑し、国王の絶対権力を認めないクックを目の敵にしていた。日本の歴史教科書では偉大な哲学者扱いだが、その個人的資質や性格を調べてみると、本当に嫌な奴ということが分かる。

James I 0001King Charles I 001Edward Coke 1Francis Bacon 002








( 左: ジェイムズ1世 / チャールズ1世  /  エドワード・クック / 右: フランシス・ベーコン )

  まぁ、親爺がこんな風だったから、息子のチャールズ1世も王権神授説を心から信じていた。何しろ、「議会は国王の意思に従え!」という態度であったから、君主政を尊重するイングランドの臣民は気の毒なくらい困っていた。庶民は建艦税で苦しむし、紳士階級の愛国者は高圧的な王様に参っていた。国王に諌言しながらも恭順を示すジョン・エリオット卿(Sir John Eliot)は、チャールズ国王を直接非難できないから、側近のバッキンガム公爵(Duke of Buckingham / George Villiers)を攻撃するしかなかったという。本当は、チャールズが一番反省すべきなんだが、この王様には自己反省という精神が無く、議会が反抗的だと、ムっときて強制的に解散を命じるほどだった。こんな調子だから、オリヴァー・クロムウェルの言い分にも三分の理くらいあると思えてしまうのだ。

誤解されているアメリカの政教分離

  「政教分離」と言えば、左翼知識人は合衆国憲法を持ち出して、「親分のアメリカ人も宗教と政治を分けているじゃないか!」と自己弁護に励むが、建国の父祖たちが反キリスト教的ということは全くなかった。それどころか、彼らは国民の道徳心を涵養するためにも、絶対キリスト教が必要と思っていたのだ。政教分離が取りだたされたのは、「アングリカン教会あるいは別の教会を創って、アメリカの新たな国教にしてはならない」というだけで、公の場からキリスト教を排除することではなかった。キリスト教を大切にしていた有名人を挙げるとキリが無いけど、ちょっとだけ紹介してみる。

John Jay 2John Adams 1John Quincy Adams 1Alexander Hamilton 111







(左: ジョン・ジェイ  / ジョン・アダムズ  / ジョン・クインジー・アダムズ  / 右: アレグザンダー・ハミルトン )

  日本の高校生だとピンと来ないだろうが、ジョン・ジェイは著名な建国の父祖である。彼は連邦最高裁で初代の首席判事を務めたり、外務長官およびニューヨーク州知事などを歴任した外政官でもあった。フランス・オランダ系であったジェイの祖先は、宗教的迫害を逃れてきたユグノー信徒であったという。したがって、こうした家庭に育ったジョンが敬虔なキリスト教徒であってもおかしくはない。彼にとってキリスト教抜きの社会倫理など考えられず、事実、次のように述べていた。「アメリカで信仰されているキリスト教は、叡智と美徳に満ちている」(John Jay, Correspondence and Public Papers of John Jay, ed. by Henry P. Johnston, G. P. Putman's Sons, New York, 1893, Vol. IV, p. 491.Address to the Annual Meeting of the American Bible Society, May 8, 1823.)

  第二代合衆国大統領を務めたジョン・アダムズの息子で、自身も第六代大統領となったジョン・クィンジー・アダムズは、キリスト教文明を讃えていた。彼は言う。「キリスト教は文明人のものでり、理に叶っている」(John Quincy Adams, An Oration Delivered Before the Inhabitants of the Town of Newburyport at Their Request on the Sixty-First Annuversary of the Declaration of Independence, Newburyport, Charles Whipple, 1937, p. 17.)

  今さら歎いても始まらないが、日本の大学教授は左巻きの連中が矢鱈と多いので、アメリカ史の授業も左旋回が定番となっている。アメリカ政治を“専門”にしている教授どもは、アレグザンダー・ハミルトンとかジョン・アダムズといった保守派を嫌っているから、一生をかけての研究対象とはならず、ちょっと触れるだけか、ほぼ無視というのが普通だ。大学の図書館を眺めてみると一目瞭然。本棚には左翼学者のクズ本ばかりが陳列されており、「無能な教授を養うために著作が購入されたのでは?」と誰もが疑問を抱く。だいたい、ハミルトンやアダムズの評伝や研究書が、岩波書店とかミネルヴァ書房、平凡社などから出版されているのか? ヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse)やエリック・ホブスボウム(Eric Hobsbawm)などの左翼本なら沢山あるのにねぇ~。

Thomas Paine 1(左  /  トマス・ペイン)
     日本の歴史学会はマルキストの養老院みたいで、メンバーの旋毛(つむじ)は悉く左巻き。ややピンクに染まったくらいの若手だと、「学問が足りない!」とばかりに根性焼きを加える。彼らにとってのヒーローは、フランス革命を起こしたジャコバン派とか、トマス・ペイン(Thomas Paine)の如き革命家や扇動家で、ジョージ・ワシントン将軍のようなイギリス紳士ではない。とにかく、日本の歴史学者や政治学者は、保守的なアメリカ人を嫌い、社会改革を目指す過激派が大好き。ということで、ペインの『コモン・センス』とか『理性の時代』、『人間の権利』は大好評。日本の伝統的社会を改造し、本丸の皇室を潰したい極左学者は、ヨーロッパ貴族や君主政を批判するペインを持ち上げ、アメリカの独立革命を讃美する。だが、彼らは建国の父祖なんかどうでもいい。要は、君主政を否定し、人民主体の共和政を樹立したいだけだ。一方、独立戦争を起こした入植者たちは本国の君主政に反対しておらず、ただイングランドの臣民が代々持つ「国民の権利」を守りたかっただけ。したがって、トマス・ペインのようなゴロツキ扇動家のパンフレットなんか興味が無い。むしろ、唾棄すべき紙切れだった。

  独立派の中でも思慮深いジョン・アダムズは、不届き者で卑しい根性を持つペインに対して厳しく反駁した。彼は言う。

  かつて広まった宗教すべてにおいて、または古代や現代にある宗教の中で、キリスト信仰は叡智と美徳、公平、人情の宗教である。あの“ならず者”(ペイン)が何を言うのか、言わせてやれ」(John Adams, The Works of John Adams, Second President of the United States , ed. by Charles Francis Adams, Charles C. Little and James Brown, Boston, 1850-1856,  Vol. III, p.421, diary entry for July 26, 1796.)

  独立宣言の署名者であるベンジャミン・ラッシュは、友人のジョン・デッキンソン(John Dickinson / 合衆国憲法の署名者)に宛てた手紙に、ペインの『理性の時代』は「馬鹿げており、不敬だ」と書いている。(Benjamin Rush, Letters of Benjamin Rush, ed. by L. H. Butterfield, Princeton University Press, Princeton, 1951, Vol. II, p.770. to John Dickinson, Febraury 16, 1796.) また、別の偉人で独立宣言に署名したチャールズ・キャロルは、ペインの著作を「キリスト教に対し冒瀆的な書物である」と評していた。(Joseph Gurn, Charles Carroll of Carrollton, P. J. Kennedy & Sons, New York, 1932, p.203.)

Benjamin Rush 1John Dickinson 2Charles Carroll 2









(左: ベンジャミン・ラッシュ   / 中央: ジョン・ディキンソン  / 右: チャールズ・キャロル)

  歐米の歴史や政治学を担当する左翼教授たちは、授業中、一応“公平さ”を演出し、その本性を隠そうとする。心の奥では集中的にフランス革命を教えたいのだが、そうすると「隠れ共産主義者」とバレてしまうので、アメリカの革命を一緒に教えて、革命を「進歩の証し」と教え込む。だが、本当はキリスト教や君主政を貶したいだけ。皇室と神道を抹殺したいマルキストは、「理性」による統治、すなわち迷信を排した「啓蒙主義」こそが理想の政治であると嘯(うそぶ)く。啓蒙主義の特徴は、「如何なる宗教であっても、所詮は“私的な信仰サークル”に過ぎない、と斬り捨てる考え方にある。そこで、日本の政治学者は暗に「神道なんて未開部族の妄信であり、高級な人間、すなわち高学歴で理性的な進歩的知識人なら信じない」と囁き、「アメリカでも政教分離なんだから、日本でも神社を民間団体に格下げし、なるべく天皇を政治から遠ざけるのが良い!」と訴えかけるのだ。

  ところが、建国当時のアメリカ人ときたら、キリスト教信仰が当り前。今のアメリカ人とは比べものにならぬほど敬虔で、ピューリタンとかユグノー、クウェイカーなどが珍しくなかった。普段の生活で経験なのは当り前で、死を迎えようとする者なら、更に篤い信仰心を抱いていた。日本でも似たようなことはあるだろう。例えば、若い時に神仏を蔑ろにしていた者でも、高齢になって“お迎え”を予見するようになると、急に信仰に目覚め、安らかな永眠を望んだりする。また、一家の大黒柱だと、遺産相続や葬儀をどうしようかと考えるものだ。責任感の強い日本人なら、家族への遺書を認(したた)める時、けっこう真剣な気持ちになる。(ここでは関係無い話だが、なぜ一般人は自殺の時だけ「遺書」を使い、財産分与に関する遺書を「遺言状」と呼ぶのか? 自分が筆を用いて書いた手紙なら「遺書」でも良いと思うのだが・・・。)

  建国の父祖たちの遺書には、キリスト教が色濃く反映されていた。例えば、合衆国憲法に署名したガニング・ベッドフォードは、追悼式でこう述べている。「あらゆる名誉、全ての支配権を持つ三位一体の天主、すなわち、父と子と聖霊よ、永遠に、アーメン」(Gunning Bedford, Funeral Oration Upon the Death of General George Washington, James Wilson,Wilmington, 1800, p.18.)  有名な法理学者のジェイムズ・ケントも敬虔なキリスト教徒であった。「私があなたにこう述べるのは、もし私に何かあれば、分かるよね。おそらく、君にとって慰めになるであろう。私の救いは主イエズス・キリストにある」(James Kent, Memoirs and Letters of James Kent, ed. by William Kent, Little, Brown and Co., Boston, 1898, p.184.)

  そう言えば、日本の公職者は引退後の余生をどう過ごすのか? 恩給をもらう議員や官僚は、現役の頃あれこれ面倒を見てやった建設会社とか金融機関、特殊法人、大学などに天下りするが、神道や仏教の施設で役員に就くことは極めて少ない。神主を兼業して議員になった自民党の綿貫民輔は例外で、大抵の国会議員は俗物ばかり。政党や企業の顧問に納まって、更なる金銭を得ようとする。しかし、昔のアメリカでは宗教団体の役職に就く有名人が多かった。日本ではあまり知られていない人物も混じっているが、幾人かを紹介したい。
 
  アブラハム・ボールドウィン (Abraham Baldwin) 合衆国憲法に署名、独立戦争時の牧師。
  イライアス・ブディノー (Elias Boudinot) 大陸会議の議長、アメリカ聖書教会の創立者にして初代会長。
  ジョン・ブルックス(John Brooks) マサチューセッツ州知事、独立戦争時の将軍、ミドルセックス聖書協会の会長。
  サミュエル・デクスター(Samuel Dexter) アダムズ政権時の国務長官で上院議員を務め、インディアンに対する宣教活動に従事した。
  フランシス・スコット・キー(Francis Scott Key) 国歌となった「The Star-Spangled Banner」の作者で、アメリカ聖書協会の副会長。
  ジョン・マーシャル(John Marshall) 連邦裁判所の首席判事でアメリカ聖書協会の副会長を務めた。

  今上陛下や秋篠宮殿下が「政教分離」に敏感となり、政争の素(もと)になる行為を避けようとするお気持ちはよく分かる。国民の中には、「どうして陛下は靖國へ参拝なさらないのだろう?」と不満に思う者もいるだろうが、多数派が伝統や神道に無関心で、マスコミの言いなりになっている状況では仕方がない。日本国民の大多数が神道に対して誤解を持ち、大学でクルクルパーにされているんだから、陛下や殿下だけ古来の伝統を堅持するとなれば、政治的な摩擦が生じてしまうだろう。もし、天皇陛下が「英霊に会いに行くぞ! 文句があるのか!」と側近を叱責し、猛反対を振り切って靖國参拝を強行したら、如何なる結果を招くことか! おそらく、NHKやTBS、フジテレビ、朝日新聞などが、こぞって陛下の参拝を取り上げ、支那人や朝鮮人に“ご注進”となるはずだ。マスコミに潜む左翼分子は、自分達で言えないから支那人や朝鮮人に代弁してもらい、間接的に陛下の「憲法違反」を糾弾し、土下座するまで反皇室キャンペーンを繰り広げるだろう。

  そもそも、一般国民の精神が異常になっていることが問題なのだ。普通の日本人は学校教育で赤く洗脳されており、更に「神道は軍国主義の支柱になっていた」と刷り込まれている。だが、そんなこと言ったら、キリスト教やイスラム教だって罪は免れない。いくら平和の宗教でも、場合によっては戦争に利用されることは結構あった。時の権力者が私益の戦争を隠すため、「聖戦」と呼ぶことは毎度の事で、「えぇぇ~! そんな!」と驚くには値しない。ところが、日教組は特殊な目的を持っており、神道だけを目の敵にしている。筆者が小学生の時、給食の献立には「クリスマス・メニュー」があったけど、誰も「違憲だ、宗教の介入だ!」と騒ぐことはなかった。公立学校でも日曜日は安息日でお休み。未だによく理解できないけど、幼稚園児の子供が事故で亡くなると「天国」に旅立つことになっていた。(もちろん、葬式は仏教風で、坊主がお経を読む場合でも、幼い子供は天に召されるそうだ。) 大半の人は意識していないが、カレンダーもグレゴリウス歴を用いており、教師はそれを「西暦」と称して誤魔化していた。驚くことに、宗教を否定する共産党員までもが、キリスト教暦を採用しているんだから面白い。たぶん、意地でも元号を使いたくないからだろう。

  日本の皇室は年々危機に晒されている。マスコミは常に「退位」と言い習わし、決して「譲位」とは呼ばないし、元号が変わるとなれば、「印刷業者が大変なことになる」とか、「役所や民間企業の業務に支障が生じる」、「年数を数えるとき、元号だと計算しにくい。西暦だけにしたらどうか」と様々なイチャモンをつけてくる。もっと心配なのは、悠仁親王殿下の教育内容である。どんな教師が如何なる思想を吹き込むのか、保守派国民なら不安になるはずだ。昭和天皇の場合だと、杉浦重剛とか乃木希典といった一流の国士が教師になっていた。しかし、皇太子殿下の場合はどうなのか? 悠仁親王殿下が高校生や大学生になった時、どんな人物が歴史や哲学を担当するのか、心配の種は尽きない。もっと恐ろしいのは、将来のお妃がどんな人物になるかだ。もしかしたら、朝鮮系の女性とか、ちょっと赤く染まった家庭の娘だったりして。たぶん「ない」と思うが、その一方で可能性も否定できない。もし、神道の儀式に反撥を覚えるプリンセスの誕生となれば、皇族の間で内紛が勃発するかも知れないぞ。あまり未来予測はしたくないけど、皇室記事で儲けたい週刊文春や週刊新潮がどんな見出しをつけてくるのか心配だ。だって、朝日新聞が喜ぶようなタイトルが目に浮かんでくるじゃないか。



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