無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2019年10月

皇室は日本の神髄 / 王室の撲滅を謀る左翼思想

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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家族的国民の宗教

Emperor 2Emperor 1












  今月、雨模様の中、我が国にとって大切な「即位の礼」が無事行われたが、奇跡的な晴れ間も現れて「えっっ~、天皇陛下はやっぱりずご~い !」と改めて感激した。しかし、残念なことに、こうした日本の慶事を喜ばない奴も多い。戦後の学校教育では、神道や皇室のことを禁忌とする教師が蠅のようにウジャウジャいるから、「天皇ってどうして偉いの?」と真顔で質問する子供がいたりする。ちょっと知識人ぶった高校生だと、「何だよ、偉そうにしやがって! 単に親が天皇だから息子が跡継ぎになっただけじゃないか!」と反撥し、今上陛下のテレビ映像を見ても知らん顔。まぁ、常識を弁えている普通の教師でさえ、大学で勉強しているうちに、ちょいと朱色に染まって、出来損ないのハンバーグみたいに「軽~い半生左翼」なんだから仕方がない。彼らは生徒の前であっても、平然と共産党用語の「天皇制」を口にし、「天皇が軍国主義の元兇なんだ」と教えて恥じず、これを正論と思っている。

  日本の学校で教えられる「社会科」、とりわけ歴史の授業(国史)は“異常”である。なぜならば、日本にとって重要な皇室や神道についての記述が全くと言っていいほど皆無で、仮にあったとしても芥子(けし)粒ほどだ。例えば、日本の有名私立学校でも使われている「学び舎」の歴史教科書『ともに学ぶ 人間の歴史』を開いてみれば解るじゃないか。まず、第1部の第1章からして、びっくり仰天。孫を持つお爺ちゃんなら、「これって、我が国の歴史を子供に教える教科書なのか?」と目を疑ってしまう内容なのだ。日本の歴史を教えるはずなのに、冒頭から「木から下りたサル」と題する文章で、人類の誕生を述べている。そして次に、栽培用の麦の種とか、家畜を使った農耕、さらに進んで、エジプト文明のピラミッドへと話が進んでいるのだ。24頁になっても朝廷の話じゃなく、「ナウマンゾウの化石が見つかりました」とのご報告。30頁から31頁にかけては、人類と火の関係を述べ、ご丁寧にも、木材を使って“どのように”「火おこし」するのか、と6枚の写真を用いてご説明。こんな調子なら、ついでに「子供の作り方」を写真で説明したらどうなんだ、と言いたくなる。

  「学び舎」の人気教科書は、長々とページを無駄にして「人間」の歴史を述べた後、40頁になってようやく「大海人皇子」の説明となる。だが、その前に、ちゃんと「倭軍」は白村江の戦いで唐の水軍と新羅軍とに敗れましたと記す。おそらく、反日の炎を燃やす執筆者たちは、「チビの日本人(倭人)」が立派な朝鮮人に負けちゃったんです、と言いたいんだろう。「さて、朝廷についての記述は?」と疑問に思って教科書に目を通すと、下の欄に短い脚注があるのだが、6行くらいの短い【「日本」と「天皇」】というコラムだけ。かいつまんで言えば、大和政権における最高の位は、それまで「大王」と呼ばれてきたが、天武天皇の頃から「天皇」を呼ばれるようになりました、とのことである。

  もう厭になるから、この辺でやめておくが、全編がこんな塩梅だ。『人間の歴史』を執筆したアカどもは、「これでもか!」これでもか !」といった陰湿な文章で、日本人の過去をこき下ろしている。44頁と45頁では、「防人の歌」を紹介し、有無を言わさぬ徴兵制の酷たらしさを示し、その次に、「のしかかる租庸調」との見出しを用いて、朝廷による重税・酷税を子供達の頭に刷り込んでいる。45頁の補足では、兵役や租税に苦しむ庶民が逃亡しました、と記すぼとの“ダメ押し”が附いている。日本を呪うのが趣味なのか、腹黒い執筆者たちは、朝廷が如何に百姓を苦しめたか、昔から日本人がどれほど残忍なのかを仄めかし、日本の歴史を執拗に「暗く」描いている。自問自答するのも馬鹿らしいが、こんな教科書で育った子供が、将来、国家・国民に尽くす自衛官や、公益を守る高級官僚、日本政府の舵取りを担う国会議員、そして皇室の楯となる愛国者になるのか?

  皇室は日本の國體(constitution)にとって一番の中核となるのに、日本の学校では“できるだけ”触れないよう心掛けている。これじゃあ、中学生や高校生が大人になった時、どうやって皇室伝統の重要性を認識し、男系男子の皇統を守ろうとするのか? 何の知識もない社会人が、いきなりテレビや新聞で皇室報道に接すれば、何となく「天皇陛下は偉い人」という感想は抱くが、「なぜ偉いのか」がその理由が解らず、「あまり触れてはいけない人物」と警戒するようになるだろう。それ以外の者は関心が無いから、「天皇なんて、どうでもいいや !」という態度になる。皇族への気持ちは各人様々だが、一般的に言えば、天皇皇后両陛下は週刊誌で取り上げられる「セレブリティー」に過ぎない。

  日本は原則上、「立憲君主国」となっているが、その「君主」に関する知識が乏しいというのは問題である。高校や大学で西洋史を習った人なら解るだろうが、王侯貴族やキリスト教を抜きにして、イングランドやフランス、ドイツ、スペイン、イタリアの歴史を学ぶなんて馬鹿げている。ヨーロッパのプロテスタント地域といえども、中世ではローマ・カトリック教会に属していたから、教皇と皇帝、あるいは封建領主や国王との関係は重要で、教会史を省いた西歐史は片手落ちである。一般の日本人はキリスト教に無関心だから気づかないが、西歐の文化や社会を理解するには神学者の主張や文献にまで手を伸ばさねばならない。

Thomas AquinasJohannes ChrysostomosGregory VIIIsidor_von_Sevilla









( 左 : 聖トマス・アクィナス  / 聖ヨハネス・クリゾストモス  / 教皇グレゴリウス7世   /  右 : セヴィーラのイシドールス )

  例えば、『告白』や『神の国』で知られるヒッポ(Hippo)の聖アウグスティヌ(Augustinus)や聖トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)はもちろんのこと、東ローマ帝国の大神学者でコンスタンティノポリスの大司教だった聖ヨハネス・クリゾストモス(Johannes Chrysostomos)、ニッサ(Nyssa)のグレゴリウス、スコラ学のドゥンス・スコットゥス(Johannes Duns Scotus)、サン・ヴィクトルのフゴ(Hugues de Saint-Victor)、ライヘルスベルクのゲルホー(Gerhoch von Reichersberg)、スーゾのヘンリクス(Heinrich Seuse)、パドヴァのマルシウス(Marsilius von Padua)、セヴィーラのイシドールス(Isidorus Hispalensis)などが重要な神学者として挙げられる。(彼らの思想は西歐の政治史を研究する上で大変面白いが、説明すると長くなるので省略する。) ローマ教皇でも有名な神学論を展開した人がいて、聖ゲラシウス1世とかグレゴリウス7世、インノケンティウス3世などが有名だ。この他にも重要な修道士や教会法学者がいて、西歐文明の思想を理解するためには必ず学ばなければならない。でも、日本の歴史学者は信仰の内容とか神学論争には興味が無く、専ら合理主義とか民主主義に没頭するから、宗教に関しては適当にスキップすることが多い。(本当はダメなんだけど、大学院の「残りカス」が教授になるのでしょうがない。)

  筆者は「日本の学校で神道の教義を教えるべし」とは主張しないが、「なぜ、日本には皇室が必要なのか」や「どうして日本人は天皇陛下を敬愛してきたのか」については教えるべきだと思う。そうでないと、明治という時代が曖昧になるし、敗戦で打ちひしがれた国民が、なぜ昭和天皇を必死で守ろうとしたのか解らなくなるからだ。なるほど、一般国民の一人一人が神道の儀式を詳しく知る必要は無いが、日本人は太古の昔から皇室と一緒に歩んできたから、天皇と国民を繋ぐ紅い絆(crimson thread of kinship)くらいは知っておくべきだろう。政治理論の観点から言えば、天皇陛下は日本国の最高権威であると共に、國體の心臓、民族の矜持、悠久の歴史を象徴する国父である。だから、有事や天災が起こったとき、日本人は政治家よりも天皇陛下に注目するのだろう。法学部や社会学部の赤い大学教授どもは、現実を無視して「民主主義万歳」を熱心に唱えているが、一般国民は自らが選んだ政治家よりも、選挙に一切関係ない君主、すなわち超然とした天皇陛下に御決断を求め、安心感を得ようとする。

Showa 3  歴代天皇の中でも昭和天皇は格別で、我々は普段「神々しい」という言葉を使っても贔屓の藝人くらいしか思い浮かばないが、昭和の日本人が聖帝陛下を目にすると「まさしく !」と思ったものだ。昭和天皇が何らかのイベントで偶然、現場にいた一般国民に話しかけると物凄く緊張したものだし、中には感激して涙を流すオバちゃんオッちゃんが尽きなかった。まぁ、それも当然だ。何しろ、世の中には「善人」と称される人でも、心の何処かにやましい魂胆を隠していたりするから、滅多に涙を流して感動することはない。ところが、昭和天皇は打算とか偽善、卑しさが一切無く、清らかな心で国民と接しようとした。こうした帝王に謁見すれば、大抵の日本人は歓喜と感涙で噎(むせ)ぶ。まともな親は大学で「天皇制打倒 !」と叫ぶ馬鹿息子を殴りつけるし、子供の行く末を心配する母親は「なんて畏れ多いことを・・・。恥を知りなさい !」と嘆き悲しむ。親子揃って「天ちゃん」と小馬鹿にするのは、学歴しか自慢の無い反日インテリくらいだ。彼らにはなぜ日本人が命懸けで陛下を守るのか、どうして「皇室の楯になって死んでも構わない !」と考えるのか、が判らない。(言うまでもないが、帰化鮮人は最初から論外。) 残念ながら、学校でクルクルパーになった連中を治す特効薬は今のところ無い。山中伸弥博士でも無理だろうなぁ。

  日本人に皇室軽視の感情が芽生えた原因を探れば、先ず以て大学教育が挙げられる。共産党に属する正規メンバーや隠れ党員、個人営業の共産主義者、暴れたいだけのアナーキスト、斜(はす)に構えたピンク左翼は別にして、高等教育を受けた日本人に“なぜ”反皇室感情が埋め込まれたのか、と言えば、それはフランクフルト学派を源流とする破壊思想が蔓延したからだ。あからさまな共産主義者でなくても、大学教授とか高校教師には伝統社会に対する叛逆精神がある。よくミュージシャンや俳優が左翼思想にかぶれるのは、体制に文句をつける「甘え」を「格好いい」と思うからだ。藝人は地道に勉強するのを嫌がり、単純なスローガンで複雑な社会を批判するのを好む。例えば、YMO時代に大量の電気を浪費した坂本龍一とか、憲法九条を称讃する沢田研二、反軍感情に満ちていた徴兵忌避の三國連太郎とその息子でピンク左翼の佐藤浩市、「サンデー・モーニング」の関口宏、日大で学生運動をしていたテリー伊藤、典型的な左翼女優の渡辺えり、などが思い浮かぶ。でも藝能界には確信左翼も多く、古いところだと共産党系の吉永小百合、バリバリの極左分子で三流歌手の加藤登紀子、三島由紀夫との交流を自慢するが、根っからの反日左翼である美輪(丸山)明宏、煩悩だらけなのに僧侶のフリをする作家の瀬戸内寂聴、支那に媚びることを恥じない漫画家の雁屋哲など、ウンザリするほど跋扈している。

  フランクフルト学派を始めとする左翼陣営は、理想とする共産主義社会を実現するため、既存の伝統社会を徐々に壊し、その支柱となる一般国民を洗脳しようとする。とうりわけ、ドイツから逃げてきたユダヤ人は狡猾で、常識を備える一般人の拒絶反応を考え、本心の「マルクス主義」という看板を下ろし、仮面に過ぎない「社会科学」の旗を掲げていた。そして、彼らの十八番(おはこ)は、伝統を嘲笑う「批判理論」である。日本でも悪名高いヘルベルト・マルクーゼ(Herbert Marcuse)は、君主や貴族、父親などが持つ優越的な権威を「解剖」し、これに批判を加えて、「不条理だ」「不合理だ」「奇妙だ」「民主主義に反する」とボロクソに貶していた。しかし、これは健全な国家を共産主義世界に変えるための戦術であり、詐欺師の手口と同じだ。とにかく、新しい世界を作るには、古い世界を解体して更地にせねばならない。各地の大学に潜む赤い知識人は、伝統社会を「因習で縛られた牢獄」と教え、彼らが提唱する“民主的”自由世界を「理想」と仄めかす。でも、実際に建設されるのは、ソ連のような巨大な強制収容所。ただし、「平等」だけは達成されるようで、みんな“平等”に“貧しく”なる。

  日本人は本質的に「お花畑の住民」なので、一般の大学生は「批判」をしている教授がどんな魂胆で授業をしているのか詮索しないのだ。例えば、投資詐欺をはたらく勧誘員が、「あなただけに儲かる投資先を教えます」と言っても、それを信じる者は愚かである。そんなに儲かるなら自分の貯金をはたいて投資すればいいじゃないか。常識人なら「どうして他人の金を要求するのか?」と疑うはずだ。話を戻すと、 老練な詐欺師教授は、無防備な学生を「若き改革者」と褒めそやす。彼らは若者の心をくすぐりながらダークサイドへと導くのが上手い。カール・マルクスやエンゲルス、レーニンなどに憧れた老人は、正体が直ぐバレる日本人極左を「道しるべ」にせず、地平線の彼方に存在する歐米の極左活動家を「進歩的知識人」として紹介する。

  でも、左翼の論文は抽象的な文章ばかりで、何が何だから解らない。普通の学生だと延々と続く抽象論に辟易する。だから、中途半端な理解になりがちだ。ところが、こうしたクズ論文には難しい外国語や哲学用語がちりばめられているので、何となく“高尚”な学問に接している気分になる。具体的に考えてみれば解るのに、知能と判断力が低すぎるので解らない。というより、「疑問」に思うだけの知力が無いから、端っから疑うことが出来ないのである。ベテランの左翼教授は、こうした学生の弱点を熟知しているので、敢えて彼らの思考能力を鍛えようと励むことはない。むしろ、教え子の無邪気さを利用し、「皇室伝統」を「天皇制」と言い換え、立憲君主政を抹殺すべく、天皇陛下の権威をズタズタに切り裂こうとした。ただし、彼らは狂信的な態度で皇室を攻撃することはない。火病を発症した朝鮮人みたいに喋った逆効果である。それよりも、知識人らしく冷静に、より理性的に、君主政を「批判」し、時折茶化すような冗談を交えて皇室を小馬鹿にするのだ。

  日本の赤い教授たちが思想的師匠とする外人はたくさんいるが、一人挙げるとすればノーマン・ブラウン(Norman Oliver Brown)が思い浮かぶ。2002年に89歳で亡くなったブラウンは、マルクスとフロイトを混ぜて精神分析や哲学の本を書いていた。アメリカの新聞や雑誌はよく、彼を新左翼やLSD、性革命と結びつけていた。ボストン・カレッジで政治学を教えていた社会学者のアラン・ウォルフ(Alan Wolfe)は、生前のブラウンを回顧して、「彼の本を読んでいると、ちょっぴり麻薬の味がするんだよねぇ~」、と語っていたものだ。(ちなみに、ウォルフは自ら認める「無神論者」である。ただ、勤め先のボストン・カレッジはイエズス会が運営するカトリックの大学なので、日本人が聞くと「どういった採用基準なんだ?」と怪訝な気持ちになる。)

Herbert Marcuse 1Norman Brown 1Isaiah Berlin 3












(左 : ヘルベルト・マルクーゼ  / 中央 : ノーマン・ブラウン / 右 : アイザイア・バーリン  )

  ブラウンはアメリカ人の大学教授であったが、生まれた場所はメキシコである。日本の一般人でもブラウンの人相を眺めていると、何となく「西歐人らしくないなぁ~」と思えてしまうが、実際そう見えてもおかしくはない。というのも、彼の父親はイギリス人の鉱山技師なんだが、母親はちょっと変わっていてアルザス出身のキューバ人。ブラウンはイングランドで教育を受けたそうで、通った大学はオックスフォード大学のベリオール・カレッジ(Balliol College)だ。オックスフォードで学問を積んだというが、そこでの指導教官は何と、あの有名なユダヤ人歴史家のアイザイア・バーリン(Isaiah Berlin)ときているから、「なるほどねぇ~」と妙に納得が行く。ブラウンの経歴で異色なのは、彼が戦時中、米国の諜報局である「OSS(Office of Strategic Service)」に属していたことだ。彼はここで例のマルクーゼと知り合い、ユダヤ人亡命者の同僚と友人になったらしい。

  では、マルキストのブラウンが王政や君主政にどのような見解を持っていたのか、少し紹介したい。彼は次のように述べていた。

  1603年にジェイムズ王は述べた。「人間は何ぴとたりとも、天主(God)が結びつけたものを分離させてはならない。余は夫であり、全王国は余の合法的妻である」、と。こうした男根崇拝の人格と受動的な聴衆は性交の状態にある。彼らはそれがオーガズムに達した時、一緒になる。・・・・国王は政体における勃起である。(旧約聖書の)ダニエル書では、10本の角は10人の王であり、カンボジアでは、首都の神殿に祭られているリンガ(シヴァ神の表象である男根像)としてのデヴァラジャ、すなわち神的王を代表している。国王陛下というのは、ペニスの擬人化である。(Norman Brown, Love's Body, Random House, New York, 1966, pp.132-33.)

  事もあろうに、王様をペニス扱いなんて不届き千万だが、左翼学者というのは民衆が尊敬する王侯貴族を愚弄し、その権威を失墜させることに快感を覚える。左翼陣営は君主政を打倒して、人民が主体の「共和政」を「善」とするが、この“ロクでなし”どもは簒奪した「君主の座」に就くことが目的で、「デモクラシー云々」というのは間抜けな大衆を操るための「まやかし」である。プロレタリアを導く知識人は、羊のような凡人を罠に嵌めて檻に閉じ込めようとする。ソ連の衛星国になった東歐諸国を思い出せば分かるじゃないか。解放された労働者達は寒い雪の日でも長蛇の列に並び、茶色くなったクズ肉とか黒いバナナを買い求めていたし、楽しい遊園地が無いロシアでは、カーセックス(車内性交)が唯一の娯楽であった。アメリカのロック音楽なんか、民衆を惑わす頽廃藝術だ。一方、共産党の幹部連中は西歐の贅沢品を密かに購入して貴族生活を楽しんでいた。本当かどうか分からないけど、ノーメンクラツゥーラの連中は大衆が共産主義に目覚め、暴力的なプロレタリア革命を起こすんじゃないか、と冗談半分に怯えていたそうだ。ブルジョア生活を満喫する不破哲郎も、何となく心配しているんじゃないか。

  話を戻す。フロイトの精神分析を拝借してマルクス主義を広めていたブラウンに対し、マルクーゼは批判理論を用いて憎い西歐社会を壊してやろうと意気込んでいた。彼がユダヤ人を迫害したヨーロッパ人を憎むのは当然で、キリスト教世界に君臨した王様なんか、民衆を搾取する盗賊に過ぎず、弾圧を繰り返す暴君と同じである。マルクーゼは次のように述べていた。

  ・・・潜在的な文脈において、地上における王国は影なのかも知れない。しかし、不幸にして、それは実際の人間と物を動かし、人を殺すこともある。そして、昼夜を問わず存続し隆盛を極める。王とは勃起したペニスと言えるし、世間(共同体)との関係となれば、性交する仲なのかも知れない。だが、残念なことに、それはかなり違ったものであり、快楽の点で劣っていて、しかもよりリアルである。(Herbert Marcuse, "Love Mystified : A Critique of Norman O. Brown", Commentary, February 1967.)

  日本にも大名や天皇陛下を批判する大学教授は沢山いるけど、「勃起したペニス」に譬える人は稀である。たとえ、学問の自由が保障された大学とはいえ、普通の講義であからさまな侮辱は口にできない。だが、戦時中の軍国主義者(軍服を着た共産主義者)による全体主義や敗戦の責任を全部陛下に押しつけて、「天皇制」による構造的な抑圧と罵ることならできる。内閣法制局や財務省、厚労省、宮内庁などに皇室を愚弄する官僚が多いのはこのためだ。彼らからすれば、訳の解らぬ即位の儀式に大金をかけるのは愚かだし、神殿や宮殿の屋根が板張りでも茅葺きでも構わないと思っている。もっと悪質な官僚になると、「プラスチックの板でいいんじゃないか」と提案し、「節税」という大義名分で皇室行事を“私的”なイベントに貶めようとする。

  インテリ気取りの日本人は、皇室を排除した「共和政」を高級な政治体制と思っている。では尋ねたいが、天皇陛下が消え去ったあと、その「国家元首」の地位に誰が就くのか? 彼らは総理大臣が「大統領」に昇格すれば満足するのか? 東北大震災の時、被災地を総理大臣の菅直人が巡回したが、現地の避難民は首相の訪問を受けても感動しなかった。むしろ、「なに、あの人 !」と吐き捨てるように嫌う国民が圧倒的に多かった。ところが、天皇・皇后両陛下が被災者を見舞うと、悲しみに打ちひしがれた国民は癒やされ、感謝の気持ちでいっぱいになる。こうした絆を体験した者は、決して皇室廃絶を唱えない。それよりも、「やっぱり、天皇陛下は素晴らしい」と再確認する。左翼陣営は甘い言葉を囁いて、我々が大切にする皇室を撲滅しようとするから用心しなければならない。詐欺師というのは「詐欺師」という正体を隠して近づいて来るものだ。

  


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捨てても惜しくない国籍 / 異民族が秘本の代表になる

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異質な日本代表チーム

English kids in Britain 1England 2









(左 : 消滅する従来のブリテン人  /  右 : これから主流となる「ブリテン国民」)

  日本人は学校教育でナショナリズムを「悪」と教えられているが、スポーツの国際試合となれば、先生から教えられた誡めを忘れ、「日本、頑張れ!」と熱くなる。サッカーや柔道はもちろんのここと、卓球のようなセコい種目でも心をときめかせ目を輝かす。(歐米人は筋骨隆々の選手が戦うダイナミックなスポーツが好きだから、アジア人が好む子供の球技を馬鹿にする。確かに、テニスと比べたら迫力に欠けるところが多いから、何となく反対できない。) 日本でのラグビー人口などは芥子粒ほどの数だろうが、ひょんな事から日本代表チームが勝ち進んだので、“俄(にわか)ファン”が増えたようだ。

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(左 : リーチ・マイケル  / 右 : ウィリアム・トゥポア )

  しかし、「ラグビー日本代表チーム」を目にすると、「えっ ! これが日本人選手なの!」と疑いたくなるような人物が混ざっている。新聞などの報道によれば、31人中15名くらいが“元外人”らしい。なるほど、彼らは日本語を習得し、合法的滞在から帰化したというが、外見からすると「日本人」とは思えない人々である。例えば、キャプテンのリーチ・マイケルはニュージーランド出身というが、アングロ・サクソン系やケルト系の西歐人ではなく、南洋人の遺伝子が強い。他にもウィリアム・トゥポア選手やツィ・ヘンドリック選手、レメキ・ロマノ・ラヴァ選手がニュージーランド出身というが、どう見てもサモア人とかトンガ人のように見えてしまう。ヘッドコーチのジェイミー・ジョセフ氏も南洋人の血統に属するんじゃないか。

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(左 : アマナキ・レレイ・マフィ  / 右 : ヴァルアサエリ愛 )

  以前から日本の大学にはトンガ王国からのラグビー留学生(傭兵選手)がいて、日本チームの助っ人になっていた。(筆者も学生時代、トンガ出身のラグビー選手と昼飯を食いながら雑談したことがある。) 日本代表チームにも5名くらいいるそうで、アマナキ・レレイ・マフィ選手やアタアタ・モエアキオラ選手、ヘル・ウヴェ選手、中島イシレサ選手、ヴァルアサエリ愛選手がそうらしい。

Matsushima 1Gu 1( 左 : 松島幸太朗 /右 : 具智元  )
  その他、注目すべきはジンバブエの父親と日本人の母から生まれた松島幸太朗選手と、南鮮人の具智元(ぐ・じうぉん)選手だ。外見から判る通り、松嶋選手は混血児で、南アフリカで生まれた。父親はアフリカ黒人なのだが、母親が日本人なので、子供の頃から国籍は「日本」ということらしい。一方、具選手は南鮮出身の朝鮮人で、両親も半島の朝鮮人である。素人の日本人だと、「どうして朝鮮人が日本代表選手になれたんだ?」と疑問に思ってしまうが、具氏は規則で定められた「三年以上の日本居住」を満たしているので、“問題なく”代表選手になれたそうだ。普通の日本人だと、「えっっ~ そんなの変!」と首を傾げてしまうが、ルールはルールなので仕方がない。しかし、民族意識が低下した日本人には気にならないようで、彼が住み着く三重県の佐伯市役所は垂れ幕を以て「鮮人選手」を応援していた。どれくらいの日本人が具選手を「日本代表選手」と認めていたか判らぬが、在日鮮人と帰化鮮人は熱心に応援していたんじゃないか。

  日本の一般国民は南極のペンギンみたいに暢気だから、日本国籍を取得すれば「日本人」と思ってしまうが、日本国籍を取る外国人の種類を眺めてみれば、「あれっ !」と思う奇妙な点が見えてくる。オーストラリアやニュージーランドだけではなく、本家のイングランドや南アフリカでもラグビーは人気スポーツだ。でも、アングロ・サクソン系のイギリス人や西歐系のオーストラリア人選手は、日本国籍を取って“日本代表選手”になることを望まない。そもそも、有能な花形選手であれば、自国の代表選手になろうとするはずで、たとえ日本に留学し、日本企業のラグビー・チームに所属しようとも、「代表選手」に選ばれるなら、「祖国の代表」になるたいと考える。一般的に、彼らは職業を優先して自身のブリテン国籍やオーストラリア国籍を捨てることはないだろう。なぜならば、スコット系ブリテン人やアイリス系オーストラリア人でも、日本よりイングランドやオーストラリア、ニュージーランドで一生を過ごそうと考えるからだ。ただし、日本人女性と結婚した選手なら、日本への帰化もありうるが、どちらかと言えば、日本人配偶者がブリテン国籍とかオーストラリア国籍を取る場合が多い。

  では、なぜ南洋系のニュージーランド人や南アフリカの原住民、トンガ人、サモア人、マウリ族系オーストラリア人は日本国籍を取るのか? まぁ一番の理由は、日本の代表選手になって世界大会に出たいから。ラグビーに限らず、スポーツ選手の目標は国際試合に出場し、金メダルとかを貰って世界の頂点に立つことだ。したがって、国籍とかチームの本拠地は二の次、三の次といった具合で、ほとんど気にならない。本国で補欠選手になるよりも、外国で一軍選手になった方がいいから、気軽に国籍を移す。また、トップ・クラスの選手になれば大金が転がってくるから、日本以外で豪邸を購入することもできるし、受け容れ先の政府も大歓迎だ。さらに、渡り鳥の如く地球を移動すれば、「節税」にピッタリな国で納税もできる。

  だが、別の理由も考えられる。それは、彼らが「出身国」に愛着が無いからだ。いくら「ニージーランド生まれ」とか「オーストラリア出身」といっても、南洋人や有色混血児にしたら、白人が主流のブリテン連邦諸国は「祖国」じゃない。フィジーやトンガの南洋土人にとって、イギリス人が創った入植地は「他人の屋敷」と同じだ。御先祖様が建てた国じゃない。便利ゆえに住んでいるだけの「外国」であるから、“一攫千金”や“出世”、“就職”といった動機があれば、簡単に捨てることができる。そもそも、愛着の無い国家に未練は無い。また、移住先の日本はフィリピンとかマレーシアといった劣等国ではなく、ニュージーランドやオーストラリアよりも遙かに素晴らしい文明国だ。それに、日本は白人国家じゃないから、露骨な人種差別に遭うこともない。仮に、あっても我慢できる程度だ。

  ラグビーの国際試合を観ている日本人は、「彼らは外人だけど、帰化人だから代表選手でもいいんじゃないか」と考えてしまう。事実、多くの国民がトンガ人やサモア人の「日本人」選手を応援していた。確かに、彼らは怨念を抱く日鮮混血児や帰化支那人と違って、燃え上がるような反日感情は無い。国籍を取得した選手達は日本文化を好み、日本風の生活に馴れようと努力しているという。周りの日本人とも親しくなり、日本人のファンが近寄れば笑顔で迎える。しかも、試合の前にはちゃんと日本の国歌を斉唱するから、世間からの評判もいい。

  スポーツ記者の中には、合宿に参加した帰化人選手が、積極的に国歌斉唱を練習するので、「素晴らしい」と称讃する者がいる。しかし、筆者は「じゃあ、彼らは出身国に対し、どんな感想を抱いているのか? 以前、彼らは現地の国歌を歌っていたが、その時、彼らはどんな忠誠心を持っていたのか?」と問いたくなる。帰化人選手は「日本でラグビーを続けたい」との意向で日本国籍を取得した訳だが、もし、そうであれば以前の国籍はスポーツよりも“軽い”ものとなるじゃないか。つまり、世界大会の出場と国籍を秤に掛ければ、放棄しても惜しくはない「身分(国籍)」であったということだ。日本人の進歩派や平等主義者は、日本に住みたいと申し出る外国人を誰彼なく温かく迎えるが、日本国籍というのは就職先次第で“廃棄”できる代物じゃない。

  ここで、日本以外の国歌について考えてみたい。筆者の個人的な好みだけど、アメリカの国歌「Star Spangled Banner」より、イングランドの「God Save the Queen」の方が高貴で味わい深い。やはり、ゲルマン系民族の中心には王様がいなきゃ。王室を抹殺したフランスの「ラ・マルセイエーズ」なんて、血なまぐさい下品な軍歌だ。あんな歌詞を喜んで口ずさんでいるフランス人の気が知れない。アメリカは不幸にして共和政体を選んでしまったけど、なるべくイングランドの國體を残そうとしたからフランスよりも数百倍マシである。ところが、現在のイングランドは昔の「メリー・イングランド」ではなく、異人種が“うろつく”ゲットー国家に成り下がっている。とりわけ、都市部には移民の末裔であるインド人やパキスタン人、アラブ人、トルコ人、マグレブ系の褐色人種、アフリカ大陸やカリブ海諸島からの黒人が大量に住んでいる。でも、彼らは名目上「ブリテン国民」であるそうだ。

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(左 : エリザベス女王とエジンバラ公爵  /  右 : 移民で溢れるロンドン)

  確かに、彼らも英国の祝日や国際的イベントに出れば、イギリス人やスコット人と同じく、小さなユニオンジャックを振ったり、「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」を唄ったりする。しかし、彼らは同族の首長としてエリザベス女王を尊敬しているのか? 1960年代のジャマイカ移民は、「本国に移り住むんだ」という気持ちで渡英したが、その子孫は未だに「外人」として扱われるし、本人達も「祖国」とは思っていないはずだ。イングランドでは時折、エリザベス2世の生誕を祝う式典がウェストミンスター寺院で開かれ、大勢の出席者が女王を前にして「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」を斉唱するが、日本人がその光景を目にすると、「インド系やアラブ系の参列者はイギリス人と同じ愛国心を持って歌っているのかなぁ~?」と思ってしまう。日本人的感覚からすると、イングランド王国はモザイク国家としか思えない。アングロ・サクソン系の国民だと、ご先祖様は「スペインの無敵艦隊と戦った」、「オリヴァー・クロムウェルの反乱軍に参加した」、「薔薇戦争でランカスター家に与した」、あるいは「十字軍の遠征でリチャード1世に仕えた」イギリス人となるが、有色人種のブリテン国民だと「外人の先祖」となってしまうのだ。身分差別が厭になって渡英したインド人とか、紛争で家を失ったアフリカ難民、歐洲から排斥されたユダヤ人となれば、「同等の国民」と考えることは難しい。

  だいたい、バグダッドやカイロからやって来た移民の子孫が、ザックセン・コーブルク(Sachsen-Cobourg)やザクセン・ゴータ(Sachsen-Gotha)の貴族に連なるエリザベス女王に、心からの忠誠を誓うことができるのか? また、敬虔なイスラム教徒の「ブリテン国民」は、キリストの十字架像や聖人の絵が置かれる大聖堂で、「地上におけるキリストの代理人(Vicarius Christi)」たる君主を讃え、使徒であった聖パウロや聖ペトロの彫像に敬意を払うことができるのか? 多文化主義を唱えるムスリム学者は、アラブ系やアフリカ系の若者を前にして、イギリス文化に慣れ親しんで、一刻も早く現地に「同化」するよう勧めているが、彼らが暗殺された大司教のトマス・ベケット(Thomas Becket)や、国王により処刑された聖トマス・モア(Sir Thomas Moore)を尊敬しているとは思えない。1990年代から猖獗を極めた「多民族・多文化主義」の影響もあって、シリアやアフガニスタン、モロッコ、ケニア、スリランカ、香港の背景を持つ子供達は、学校で歴史の授業を取っても、「祖先の文化を保持してもいいんだよ」と教えられている。だから、何十年もイングランドに住み、どれほど英語を流暢に話せても、彼らにとって「イギリス史」は「外国史」のままなのだ。

Muslims in Britain 6Muslims in London 2










(左 : 新たな「ブリテン国民」となったムスリム少女  / 右 : 英国の街頭で礼拝を行うイスラム教徒の「ブリテン国民」 )

  ここでは関係ないけど、個人的見解を述べるなら、1966年に公開された『わが命つきるとも(A Man for All Season)』は感動的な映画である。この作品はヘンリー8世によって処刑されたトマス・モアを描いた物語だ。国王に忠実なトマス卿は、ローマ教皇と訣別した君主から無理難題を受け、信仰と政治の間で苦悩する。こうした真摯な大法官を目にすると、忠義と信仰の板挟みが伝わってきて胸が痛い。カトリック教会をイングランドの“正統”な宗教と信じるトマス卿は誠に立派で、たとえ暗い牢獄に繋がれようが断固として自らの意思を貫く。「伝統」に弱い保守的なアングリカン信徒は、「やっぱり、聖アウグスティヌスがもたらしたカトリック信仰の方が正統だよなぁ~」と思ってしまう。ちなみに、この映画を監督したのは、オーストリア系ユダヤ人のフレッド・ジンネマ(Fred Zinnemann)。彼はグレゴリー・ペック主演の『真昼の決闘(High Noon)』やクライム・サスペンスの傑作『ジャッカルの日(The Day of Jackal)』を手掛けたことで有名だ。ユダヤ人監督による映画といえども、1950年代や60年代だと、変態的要素を盛り込んだ映画は御法度だから、比較的マトモな作品が多かった。

  脱線したので話を戻す。大抵の日本人は、“日本人”の両親や祖父母、曾祖父母を持っているから、普段の生活で「私は日本人なのか?」と思わない。もし、幼い孫が母の実家に電話を掛けて「あっ、おばあちゃん ! あのさぁ~。僕やママは本当に日本人なの?」と尋ねれば、孫を愛する祖母は心配になって、「どうしたんだい? 何か変なモノでも食べたのかい? それとも熱があるの?」と訊いてしまうだろう。日本人にとって日本人であることは、水や空気と同じくらい自然なことで、自分の顔を鏡に映して「南洋土人の血統かなぁ」とか、「お父ちゃんはアフリカ人の家系だったのか」と思う日本人は“例外”である。

Hindu people 2Turkish people 1










(左 : 移住を希望するインド人  / 右 : 「日本国民」 になり得るトルコ人)

  だが、こうした「当たり前」があるゆえに、日本人には国籍意識が乏しい。つまり、国家意識が希薄となっているのだ。もうだいぶ前から、支那人や朝鮮人が続々と「日本国民」になっているのに、「日本人の大切な国籍を守ろう」という意識は芽生えない。むしろ、外国人のサッカー選手やオリンピック選手がメダル欲しさに帰化しても、「日本の代表チームが強くなるからいいじゃないか」と喜んでいる。一般の日本人は帰化した外人が自分と“対等”な国民になるとは思っていないのだろう。ところが、帰化した外国人は投票権を持ち、場合によっては政治家になることもある。帰化人の子供となれば公務員にもなれるから、朝鮮系の警察官や財務官僚、支那系の裁判官とか検事、フィリピン系の外交官もいれば、クルド系の自衛官やペルシア系の麻薬取締官が誕生してしまうのだ。近所の交番に勤務する巡査が朝鮮人でも不思議ではない。でも、何となく嫌だ。多民族社会というのは恐ろしいもので、ヤクザ向きの朝鮮人でも左翼人脈で公安の職員になれる。北鮮大好きの岡崎トミ子が国家公安委員長になれ、極左分子の千葉景子が法務大臣になれたんだから不可能じゃない。

  歐米人もそうだけど、日本人は「外国人を受け容れろ!」と叫ぶ左翼の要求に弱い。リベラル教育を受けてピンク左翼になってしまう国民は、“嫌な”外国人を排斥することを「悪」、すなわち「反倫理的行為」と思っている。これを説明すると長くなるので省略するが、自分の国家に受け容れる人物を精査し、篩(ふるい)に掛けることは非道なことではない。人気のナイト・クラブだって“ダサい”客を門前払いにし、御洒落で“華やか”な男女を優先的に入れようとするじゃないか。都会のホテルやレストランだと「女性だけのランチ・タイム」などを設けて男性客を排除するし、JRは「女性専用車輌」を導入し、男性の乗客を差別している。なんと、JRは全ての男性を「潜在的痴漢」と見なしているのだ。これなら、天皇陛下や秋篠宮殿下だって「数パーセントの犯罪性を宿す男性」となってしまうだろう。でも、男性皇族を女性客の体を触りかねない「変態」と見なすのは不敬じゃないのか。

  あり得ない話だけと、もし、来日した英国のウィリアム王子が“お忍び”でJRの電車に乗ったらどうなるんだ? たぶん、駅員は王子様を引きずり出そうとして、「こら、君 ! ダメだよぉ~。ここは女性専用車輌だから、早く降りなさい !」と注意するんだろう。しかし、こんな事を英国のタブロイド紙に知られたら「一大事」どころじゃ済まないぞ。大衆紙の「ザ・サン」とか「デイリー・ミラー」だと、「性差別の国、日本 ! イングランドの王子でも痴漢と見なす !」といった大見出しをつけて、日本人を袋叩きにするだろう。在英日本人は肩身の狭い思いをするはすだ。

  世の中には、「差別」と見える「排除」だって、堂々とまかり通っている。例えば、見知らぬ朝鮮人が三井家や岩崎家といった財閥の豪邸を訪れ、「俺は失業したから日本にやって来た。寝る場所が無いから泊めてくれ」と要求したとする。だが、家主はこうした脅迫を一切受け付けず、「アホか、お前は ! 頭がイカれているんじゃないのか !」と言い放ち、「さっさと消えろ ! この不逞鮮人めが !」と蹴飛ばすに違いない。誰を客人として迎え、誰を不審者とするかは所有者の判断であり、たとえ“恣意的”な排除であっても非難されることはない。日本への移民だって、誰が好ましく、誰が不愉快なのかを決めるのは日本人で、我々がどんな基準や価値判断で外国人を排斥しようが我々の勝手である。「人権」なんて関係無い。

  ところが、先進国だと国籍を単なる「クラブ会員権」と見なし、料金を取って配布しようとする輩が出てくる。例えば、英国の政治家でマイケル・ゴヴ(Michael Gove)という保守党議員がいる。一般の日本人でもBBCの報道番組を観ている人なら、「あっ、(ダウニング)10番街をウロチョロしていた奴だ」と気づくだろう。ゴヴ議員はキャメロン政権で法務大臣や教育大臣を務め、次のメイ内閣で環境大臣に指名された人物だ。このゴヴは政界に入る前、「ザ・タイムズ」紙の記者を務めていたが、その時に書いた記事にはトンデモない発案があった。何と、こいつはブリテン国籍を1万ポンドで売り出そうとしたのだ。(Michael Gove, 'Immigration should be about money not blood', The Times, April 6, 2004) 彼は移民問題を「偏見」じゃなく「理性」で扱おうと提案し、移民は経済的利益をもたらすと述べていた。どうせ、移民規制を厳しくしたって、大勢の不法移民が潜り込んでくるから、それなら値札を付けて政府の歳入を増やしてしまえというえ訳だ。ゴヴの考えでは、ブリテン国籍はブリテンの「労働市場」に参入するための入会料(通行税)に過ぎない。

Michael Gove 3Michael GoveDavid Cameron 2Dominic Raab 1










(左 : ジャーナリスト時代のマイケル・ゴヴ  / 議員となったゴヴ  / デイヴィッド・キャメロン  /  右 : ドミニク・ラーブ )

  こういう提案を平然と口にする奴には怪しい人物が多い。現在、ゴヴは保守党議員となっているが、若い頃(1983年)は一時的とはいえ労働党に入っており、その後、オックスフォード大学に進んで「トーリー(保守党)」になったそうである。表面上、“保守派”議員となっていても、その中身は左翼気質で、同性愛者の結婚に賛成だ。もっと注目すべきは、熱心なイスラエル支持者という点である。彼は20代のジャーナリスト時代にコカインを吸引したことがあるそうで、今年になって過去の汚点が明らかとなった。首相候補になったゴヴ氏はマスコミの取材を受けて、素直に「後悔している」と答えたが、その“正直さ”は欺瞞に満ちていた。なぜなら、彼はジャーナリスト時代、麻薬に反対する記事を書いていたからだ。

  でも、ユダヤ人の圧力団体「イスラエルの友(Friends of Israel)」に属するゴヴには、ユダヤ人からの力強い支援がある。外務大臣のドミニク・ラーブ(Dominic Raab)はゴヴを温かく見守り、「彼の正直さを認めてやりたい」と述べていた。ラーブは母のアングリカン教会に属しているが、父親はチェコスロヴァキアからやって来たユダヤ難民だ。ただし、父親のピーターはドミニクが12歳の時に病気で亡くなり、未亡人となった母のジャンが息子を育てていたという。それにしても、ユダヤ人だと若くして出世するようで、2010年に初当選したラーブは、親イスラエル派のデイヴッド・キャメロン首相により一本釣りされて、人権を担当する法務省の副大臣となった。この時、上司にあたる法務大臣だったのはマイケル・ゴヴ。愛国者のイギリス人は溜息をついてしまうが、議員にとってユダヤ人とコネを築くことは得策である。

  既にイングランド王国は異民族の流入で瀕死の状態となっているが、日本もやがて同じ道を辿ることになる。イギリス人は料金を取って国籍を販売しようとしたが、日本人は無料配布のまま。馬鹿の三乗か四乗といったところだ。日本国籍を取得する外国人は、頭脳を使う自然科学よりも肉体を使う運動競技に進むから、やがて日本のスポーツ界はアジア系やアフリカ系の「地球人」が大黒柱となるだろう。おそらく、マラソンやボクシング、バスケットボール、サッカーなどで「日本代表選手」に選ばれるのは、「黒いアスリートがほとんど」なんて状態になってしまうんじゃないか。箱根駅伝のトップランナーが皆黒人だったり、早慶戦のラグビー選手がトンガ人やサモア人ばかりじゃ、観ている日系日本人の方が白けてしまう。「国技」と称される相撲を観ればモンゴル人ばかり、プロ野球に目を転じれば朝鮮系選手がゾロゾロ、なんていう状況は嫌だ。せめて「日本代表選手」くらいは日系人がいいなぁ~。

 
 

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