無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2020年02月

支那人が「難民」として住み着く時代

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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日本が支那人の「避難先」となる

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(左 : 多文化主義者が理想とする未来  /  右 : オーストラリアで暮らす支那人の子供達)

  只今、我が国で武漢肺炎が猖獗(しょうけつ)を極めている。アメリカ合衆国は優秀な諜報機関を備えているので、支那でのウイルス蔓延を去年の11月頃から察知していたそうだ。たぶん、CIAがホワイトハウスに情報を伝えていたから、政府が早急に支那人渡航者の制限を発令し、ウイルス感染者の入国を禁止したのだろう。ところが、俊敏な米国と対照的なのが我が日本。既に、武漢以外の都市でウイルスが拡散していたのに、日本政府と地方自治体は、こぞって支那からの観光客を大歓迎。彼らが落としてくれる銭が少なくなっては困ると心配したのか、湖北省からではない個人客なら「OK !」と合図を送り、その情報を得た支那人は一路日本へ。もう、この対応で日本の命運は決まってしまった。微熱がある者、あるいはちょっと咳き込んだ者でも、何食わぬ顔で入管を通り過ぎたから、さあ大変。人間型のウイルス噴射機が到来したから、日本人の感染者が激増した。

  恐ろしい現実はまだある。観光局の発表によれば、今年1月に来日した支那人の数は、何と92万4千800人というのだ。前年(2019)の1月だと75万4千421人となっているから、実に17万379人の増加となっている。もう、目眩がしてくるが、この中には観光客なく、支那大陸からの“難民”が相当混じっているという。現実的な思考を持つ支那人からすれば、不潔で危険な独裁国にいるより、安全で清潔な日本に逃れた方がいい。もし、呑気に残っていると、いすせれ武装警察に尋問され、強制的な検査を受ける破目になる。もし、ちょっとでも感染の疑いがあれば、即「強制収容所」行きだから、命の保証は無い。ここは治療施設じゃなく、汚染された人間を閉じ込める牢獄で、入所者は只“苦しみ”ながら“死”を待つのみ。肺炎に罹ると呼吸困難になるから、もがき苦しみながらの「絶命」となる。ホント、支那人に生まれると不幸だ。

Chinese in Wuhan 4Chinese tpurists 1112









  日本の国会議員は与党でも野党でも、全くと言っていいほど国家意識が無い。日本に逃れてくる支那人は、本国に帰るつもりはなく、そのまま日本に居坐ろうとする。彼らは日本の高度医療を期待し、もし武漢肺炎に罹ったら、日本の病院で快適な日々を送ろうと考えているのだ。日本人の医者や看護婦は、あの下劣な支那人と大違いで、人命を尊重し、外人であっても“平等”に扱ってくれるから非常に有り難い。もし、日本人が支那大陸で病気になったら、どんな“治療”と“看護”になるのか、ちょっと考えてみればわかるじゃないか。日本人の母親で我が子を支那の病院に連れて行き、入院させることに同意する者がいるのか? 不潔で黴菌だらけの病院監獄を見れば、「ぎゃぁぁぁぁ~~~!!!」と悲鳴を上げて脱走するはずだ。日本人は外国の医療機関を日本の基準で想像するから愚かである。支那人には他人への配慮が無い。例えば、赤ん坊用の粉ミルクとベビーフードかなんか恐ろしくて子供に与えることはできないから、幼い子供を持つ日本人は支那での生活は考えられないし、移住なんか絶対に無理。風邪薬や胃腸薬はもちろんのこと、目薬だってどんな成分なのか解らないから購入することはない。失明の危険性を孕む目薬なんて、冗談を通り越している。一般の日本人は支那を経済大国と思っているが、実際は、腐敗と金銭が渦巻く古代国家でしかない。支那人のような劣等民族を対等に扱い、国籍まで与える日本政府は気が狂っている。

  我々がすべきことは、支那人の入国を全面的に禁止するばかりではなく、日本に居残っている支那人を排除して、なるべく支那系住民を少なくすることにある。たとえ、日本での永住権があっても、特別法を作って、それを剥奪するか無効にすればよい。また、日本人と結婚している帰化支那人でも、入国の経緯や結婚の形態に怪しい点があれば、即刻、こうした日本国籍を取り消して支那に強制送還するのが筋である。そもそも、日本は「事後法」を認めている国家だし、英米も第二次大戦後、「事後法」で戦犯国を裁いた前科者だから、日本の立法措置を非難することはできない。もちろん、日本の左翼学者や人権派弁護士は猛烈に反対するだろうが、最初に“違法”な方法を取った外国人に“合法的”地位を与えるのが間違っている。例えば、日本人は大学入試のとき「裏口」から入った者に対しては容赦がなく、発覚後、直ちに退学処分にしたりするが、それは「不正な入学は駄目」という鉄則があるからだ。では、「見つからずに卒業すればいいのか?」と言えば、「それも駄目 !」と却下される。たとえ、四年間きちんと授業料を納めたとしても、親が袖の下を使って「合格」を買い取ったのであれば、「学士様」という「身分」は“剥奪”となる。同級生からも卒業生とは認められないし、この汚点は一生つきまとう。日本人は不正入国や国籍詐欺には寛大でも、裏口入学については殊のほか厳格である。

Chinese cartoon 2(左  / 苦力を縛り首にする風刺画 )
  日本人は本質的に“心が優しい”から、困っている人を助けようとする。が、それは同等の文明や生活水準をもつ歐米人だけにすべきで、支那人とか朝鮮人は冷たく見放すべきだ。なぜなら、彼らは簡単に祖国を捨て去る地球市民であるからだ。しかも、寄生先の国家を劣化させる厄介者となっている。だいたい、北米や西歐諸国で、支那人を受け容れたことで、何か「嬉しい」ことがあったのか?  偽善的な知識人は別だけど、「支那人、出て行け !」と罵りたくなるのが普通だ。かつて、フランク永井は「そばに居てくれるだけでい~い~」と唄っていたけど、支那人が側に居たら、「いつまで俺の近くに居やがるだ ! とっとと、帰れ!」と言いたくなる。支那人というのは、目にするだけでも不愉快だ。交際して清々しく思うことは全くない。京都の風情を愛する日本人は、アヒルみたいにガァーガァー喋る支那人を忌々しく思っていたし、祖父の代から東京で暮らしてきた江戸っ子は、支那人に銀座を占領されて怒っていた。昔、筆者は埼玉県の川越に住んでいたけど、ある日、テレビ番組で支那人が群れる映像を見て愕然としたことがある。30年くらい前は日本人だけが行き交う街並みで、支那人の団体客なんて見かけなかった。それなのに、今じゃ下品な支那人が大量に訪れ、店の前でモノを喰ったり、大勢で話ながらゾロゾロ道端を歩いたり。これじゃあ、まるで環境破壊だ。

  我々には支那人の生活や健康を考慮する義務は無い。たとえ、支那大陸にウイルスが蔓延しようとも、日本政府は忖度することなしに、支那人の観光客を全てシャットアウトにすべきである。支那人の健康は北京政府が責任をもって配慮すべし。日本政府は日本国民の利益を第一に考えるべきである。一般の日本人は気づいていないが、難民条約というのは、後進国や独裁国の住民が有利になるよう考案された脅迫状で、西歐諸国や日本といった先進国には何の利益も無く、むしろ負担を増幅させるだけの代物である。「難民」を称する逃亡者は、必ず豊かな文明国を目指す。彼らは「命」を優先していると弁明するが、ちゃっかり避難先を選んでいる。例えば、ラオスやカンボジアからの難民は、タイとかマレーシアよりも、オーストラリアやカナダを選ぶし、「クルド難民」は同じ信仰を持つサウジ・アラビアとかドバイといった富裕国を斥け、遙か遠くの日本を「定住地」として選んでいる。なぜなら、アラブ諸国は“よそ者”に冷たく、福祉金など全く期待できないからだ。ところが、日本に行けば言葉が通じなくても何とかなるし、事によったら社会福祉で生活できる。運が良ければ国籍取得も可能だから万々歳だ。さらに、帰化人となれば親兄弟を呼び寄せることもできる。ということで、「日本行き」がベスト・チョイスだ。(NHKは本当に悪質で、難民推進派の本間浩と緒方貞子を使って特番を作り、「難民受け容れ」を呼びかけていた。NHKの制作者は筆者に「彼らは制作者の代弁者なんですよ。ハハハ !」と笑いながら答えていた。もちろん、一般視聴者には内緒だ。彼らはゼニだけを巻き上げる。)

支那人が溢れかえるオーストラリア

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(写真  /  多民族主義者が讃美する異人種カップル)

  日本の未来を考える上で、非常に参考となるのは、アジア諸国に近い南の楽園で、愚劣化したアングロ・サクソン国のオーストラリアだ。最近は、クライヴ・ハミルトン教授の『Silent Invasion』で“濠洲のアジア化”が話題となったけど、既にオーストラリアは1970年代に多文化・多民族主義で「別の国」となってしまった。オーストラリアは人種的に変質してしまい、もはやギリス人やケルト人が主流の国ではない。街の至る所に、移民や難民としてやって来たアラブ人やレバノン人、ソマリア人、マレー人、インド人、フィリピン人、そして“どんな種族”か判らぬ混血児がいて、その中に支那人が大量に紛れ込んでいる。銭儲けを得意とする支那人は大都市に集まりがちで、支那大陸生まれの支那系オーストラリア人だと、53%くらいがシドニーで暮らしているそうだ。また、ブリスベンやメルボルンにも香港出身の支那人や客家の支那人が多く住み着いているから、本当におぞましい。まぁ、支那人というのは、チャンスがあれば何でもする民族だから、先進国がちょっとでも甘い態度を示せば、続々と上がり込んでくる。

Bob Hawke 3(左  / ボブ・ホーク )
  支那移民が増えたのは、1970年代にオーストラリア政府が「白濠主義(White Australia Policy)」を放棄したせいなんだけど、1980年代後半に首相となったボブ・ホーク(Robert James Lee Hawke)の罪過も大きい。オーストラリアには呆れるほどリベラル派が多く、この労働組合上がりの首相も左巻きの人物で、人種差別への反対とか人道主義への配慮とかで人気を誇っていた。(実際、彼は1983年から1991年まで首相の座に就いていたから、珍しい程の長期政権だった。) ホークは根っからの政治屋で、15歳の時には「将来、オーストラリアの首相になるんだ!」と意気込んでいたそうだ。また、彼は米国のビル・クリントン大統領と同じく、有名なローズ奨学金をもらってオックスフォード大学に留学した経験をもつ。帰国してからは組合活動に励んだそうで、議長選挙に挑むと勝利を摑み、輝かしいACTU(オーストラリア労働組合評議会)のトップになれた。

  「リベラル派」というのは、国民の利益を犠牲にしても“高尚”な理念に邁進するようだ。アングロ・サクソン系やケルト系のオーストラリア人は、異様な顔つきの支那人が大嫌いなのに、天安門事件が勃発すると、ホーク首相は約2万人の支那人留学生に滞在延長を許したしまった。(Tony Wright, "Refugees : more confusion : Hawke backtracks and dashes hopes of 20,000", The Canberra Times, 13 June 1990) 当時、鄧小平が率いる北京政府の残虐性にショックを受けた西歐人は、「あらまぁ、お可哀想に !」と支那人の留学生や活動家を憐れみ、滞在期限が切れても追い返そうとはしなかったけど、これは致命的な誤りだ。「デモクラシー」を叫ぶ活動家だって、権力を握れば新たな始皇帝となる。昭和女子大の黄昭堂がいち早く警告していた通り。何千年経っても支那人は支那人のままである。オーストラリアでも同じで、綺麗事が大好きなリベラル派は支那人に「難民」資格を与える始末。でも、この例外措置に反対する者もいたから、オーストラリア政府に対し、「どれくらいの延長期間なんだ?」とか、「何年くらい認めるんだ?」との質問が投げかけられたという。最初、ホーク首相は「だいたい6ヶ月以上で、10年を超すことはない」と曖昧に答えていたが、実際のところ4年くらいを目途に考えていたそうだ。

  とはいっても、厚かましい支那人だ。「滞在期限」が来たから潔く帰る、ということはない。もし、あの暗黒大陸に戻れば、悲惨な生活しか期待できないし、いくら頑張っても出世できる訳じゃないから、快適で豊かなオーストラリアに留まった方が“お得”だ。オーストラリアに住むことができれは、どんな下っ端仕事でもへっちゃらで、人種差別なんか屁でもない。太古の昔から、支那人自身が差別主義者なんだから。とにかく、“地上最低”の支那で働けば、様々な公害や土壌汚染、農薬漬けの野菜に、重金属まみれの食品、暴動、圧政、弾圧、搾取、虐殺、疫病などで苦しむ事になるし、第一、生きている喜びが無い。列車に乗れば「あの世行き」だし、そこら辺の道路を歩けば、いきなり地面の陥没でブラックアウト。暴走車が突っ込んでくれば瀕死の重傷だ。また、エスカレーターやエレベーターに乗ったら、暴走機関車よりも危険で、「いつ、どんな事故」が起きるのか分からない。格差社会なんか当たり前で、共産党幹部の家庭に生まれたら幸運だけと、農村に生まれたら一生「農奴」のままだ。それに、支那では「マモン(金銭の神)」が「テーミス(正義の女神)」の天秤を持っているから、“公正”を掲げる司法と警察だって金で動く。日本人は呑気にモデル・ガンを買って「サバイバル・ゲーム」を楽しんでいるが、支那人は実生活で生死を彷徨(さまよ)っている。ということで、支那人は何が何でも歐米諸国にしがみつく。

  普通の日本人は赤い学校でクルクルパーにされているから、「白濠主義」と聞けば、「えっぇ~、こわいぃぃ~」と思ってしまうが、実際、アングロ・ケルト系国民が大半だった頃のオーストラリアは素晴らしかった。日本人の学者でオーストラリアを研究する者は、ほとんどが左翼なので、西歐的濠洲を望んだエドマンド・バートン(Sir Edmund Barton)やジョン・カーティン(John Curtin)、アルフレッド・ディーキン(Alfred Deakin)、ロバート・メンジーズ(Sir Robert Menzies)といった首相や移住省大臣を務めたアーサー・コーウェル(Arthur Calwell)に対する評価は極めて低い。良家のお坊ちゃんやお嬢ちゃんが通う慶應義塾大学では、悪質な関根正美とか塩原良和が教えていたから、多文化主義を素晴らしいと信じる学生が大量生産されていた。とは言っても、事情は東京大学や一橋大学でも同じで、移民問題や多民族社会を専攻する教授は、ほとんどが老獪な反日分子かピンク・リベラル、あるいは“なんちゃって左翼”だから、アングロ・オーストラリアを肯定する学者なんて皆無だ。

Edmund Barton 1Alfred Deakin 1Robert Menzies 1Arthur Calwell 1








( 左 : エドマンド・バートン  /  アルフレッド・ディーキン  /  ロバート・メンジーズ  /  右 : アーサー・コーウェル  )

  外国を理解するには、具体的に考えてみるのが一番だ。もしも、一般の日本人がオーストラリアへ移住することになったとして、この人々に「イギリス人だらけの濠洲」と「支那人がウヨウヨいる多民族濠洲」を選択できるとしたら、おそらく90%以上の者が白人だけの濠洲を選ぶことになるだろう。(アボリジニの村で暮らしたいと考える日本人はゼロ。) 普通に考えれば、1960年代までのオーストラリアの方が良いと分かるのに、オーストラリアの政治家ときたら、どいつもこいつも「多文化・多民族主義、万歳 !」という奴らばかりだ。移住省大臣を務めたアル・グラスビー(Albert Jamie Grassby)やサウス・オーストラリア州の首相を務めたドン・ダンスタン(Donald Allan Sunstan)は論外として、ハロルド・ホルト(Harold Holt)、ゴフ・ウットラム(Gough Whitlam)、ポール・キーティング(Paul Keating)、ジョン・ハワード(John Howard)なども移民歓迎の売国奴であった。(アル・グラスビーは札付きの多文化主義者で、非イギリス的肉体を持っていたからアングロ・ケルト的濠洲を憎んでいた。ドン・ダンストンも極左分子で、このバイセクシャル議員はユダヤ人妻のグレーテルとマレーシア人妻のアデーレと別れた後、スティーブン・チェンという支那人学生と愛人関係となった。グラスビーにはエレノールという正妻がいたけど、アンジェラ・チェンという愛人がいて、この支那人と最期まで暮らしていた。さぁ~すが、多民族主義者は私生活も多彩だ。)

Al Grassby 1Don Dunstan 1Gough Whitlam 1Harold Holt 1








(左 : アル・グラスビー / ドン・ダンスタン   / ゴフ・ウットラム   / 右 : ハロルド・ホルト  )

Kevin Rudd 5(左  / ケヴィン・ラッド )
  最近ではニュー・サウス・ウェイルズ州の首相を務め、支那人との癒着ぶりから「北京(ベイジン)ボブ」と呼ばれるボブ・カー(Robert John Carr)が有名になった。しかし、彼が外務大臣を務めた時の親分であるケヴィン・ラッド(Kevin Rudd)も「ベイジン・ボブ」に負けず劣らず、支那人に媚びる政治家だった。白人議員としては珍しく、ラッド首相は北京語を流暢に話す。というのも、彼はオーストラリア国立大学(Australian National University)に通っていた頃、支那語と支那史を専攻し、「陸克文」という支那名まで持っている「支那通」であるからだ。(Kevin Rudd, "Learning Chinese Is a Doorway to Understanding", IFC Mandarin Connection, 27 May 2018) これに加え、彼は1984年頃、北京にある濠州大使館に勤めた経験がある。そこでの肩書きは、政治顧問となっていたから、たぶん、流暢な支那語の才能を買われてのことだろう。

  さらに注目すべきは、義理の息子が支那人ということだ。ラッド首相にはジェシカ(Jessica Rudd)という娘がおり、女房のテレーズ・レイン(Therese Rein)が「レイン財団」を創設していた。ジェシカは母親が拵えた財団に勤めていたが、そこには将来の夫になるアルバート・ツォ(Albert Tse)も役員になっていた。玉の輿に乗ったアルバートは、香港出身の支那移民で、元々は「BankWest」の銀行員であったらしい。(Arjun Ramachandran, "He beat Kevin Rudd : who is Albert Tse ?", The Sydney Morning Herald, December 8, 2007) 二人の間には娘も生まれたから、祖父となったケヴィン・ラッドは大喜びだ。

Jessica Rudd & Albert Tse 02Kevin Rud & Therese Rein 1








(左 : アルバート・ツォとジェシカ・ラッド  / 右 : テレーズ・レイン夫人とラッド首相 )

  確かに、初孫が支那人との混血児なら、支那人を“より一層”身近に感じられるし、「支那人は出て行け !!」と叫ぶ白人は赦しがたい「天敵」となる。異人種間結婚の恐ろしさは、遺伝子プールの毀損や人種の変質ばかりではなく、「同胞」の変化にもある。つまり、支那系の孫ができると、自分の「同胞」に何億もの支那人が加わってしまうのだ。もちろん、アングロ・ケルト系のオーストラリア人は引き続き「良き仲間」であるが、支那大陸の異民族も自分の「仲間」になってしまうところに、異民族融合の“恐ろしさ”がある。ラッド首相のような祖父にしたら、西歐人ばかりの濠洲は、孫が爪弾きにされるので好ましくない。やはり、色々な人種が混じった濠洲の方が安全だし、支那人の血を引く子供にとっては“最良”の国家となる。

支那語教育を推奨する元首相

  一般的に、西歐人というのは、アジア諸国の言語を学ぶことはない。たとえ、中学生や高校生の時に始めても、あまりにも異質で難解な言葉なので諦めてしまう者がほとんど。日本語なんか暗号みたいだし、アラビア語と同じくらい難しい。文法は違うけど支那語だって複雑怪奇だ。第一、あの膨大な漢字の量を知れば「やめておこう」となる。ところが、ラッド首相はアジア諸国との貿易を増大させ、オーストラリア経済の要(かなめ)にしたいらしい。そこで、ラッド氏は「オーストラリア経済の未来はアジア言語にあり !」と喝破し、「標準語(Mandarin)」とされる北京語や日本語、インドネシア語(Bahasa)、朝鮮語を学ぶよう勧め、学校教育に取り入れるよう訴えかけたという。(Creating an Asia-literate Australia : an Address to the 2002Australia in Asia Series, 8 October 2002) 日本人なら「いくら貰っているんだ?」と尋ねたくなるが、ラッド首相は支那語教育に熱心で、民間企業が新入社員を採用する際、何割かの「特別枠」を設け、アジア言語を習得した学生に与えるよう提案したのだ。もう、二階俊博もたじろぐ程の「チャイナ好き」である。

  ところが、チャンコロ屋の夢は、本当に夢幻(ゆめまぼろし)となったらしい。将来の就職に有利なるだろうと計算して、幾人かの子供達が支那語の勉強を始めたというが、あまりにも難しかったのか、それとも興味が薄れたのか、94%の小学生が12歳になる前に挫折したそうだ。("Chinese Language Programs in Australia : 94% Drop-Out Rate", The Linga Franca, October 13, 2008) そりゃそうだろう。西歐白人の家庭で支那語を話す親なんかいないし、たとえ子供が興味を持っても、文法や語彙が違いすぎるから、次第に飽きてくる。子供には何らかのインセンティヴがないと、「続けよう」という意思がはたらかないのだ。そもそも、動機が「銭儲け」という魂胆なので、続く訳がない。小学生は興味を持ったものに集中する。例えばもし、オーストラリア人の子供が日本に移住して、日本のアニメを観たり、漫画雑誌を目にすれば、自然と日本語を学びたくなるだろう。しかし、オーストラリア白人の家庭に生まれ、両親とも英語を話し、友達も白人だらけという環境で、小学生が難解な支那語を勉強するのか? いったい、支那文化に“どんな”魅力があるというのか? 二千年とか三千年の歴史を自慢する支那や南鮮には、日本の作品を盗んだ「パクリ文化」や、歐米諸国のポップ・カルチャーに憧れた「猿マネ藝術」しかない。子供は正直だから、「嫌なもの」は「嫌 !」と答えてしまうのだ。

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(左 : 「オーストラリア国民」となった支那人  / 右 : 支那移民を揶揄する風刺画 )

  「多文化主義」とやらを称讃するオーストラリアは、今や様々な人種が暮らすテナント長屋となっている。 現地の政治に詳しくない日本人でも、キャンベラやシドニー、メルボルン、アデレイド、ブリスベンを旅行すれば、目を丸くして「ひゃゃゃ~、アジア人やアフリカ人ばかりじゃん !!」と驚き、「第三世界」に来たような錯覚に陥るだろう。中には、松田優作のジーパン刑事みたいに「何じゃこりゃ !!」と叫ぶ者もいるかも知れないぞ。これなら、草原に出てコアラやカンガルーを眺めた方がマシだ。野生動物は同種類の繁殖を好むから、火傷したコアラはいるけど、髭面のコアラとか、タヌキと混血したコアラ、ゴリラの母から生まれたカンガルーなんていないじゃないか。

  敗戦で健全な精神を滅茶苦茶にされた日本人は、フランクフルト学派の大学教授や革命を望む進歩的知識人、伝統的社会を憎む日教組教師によって、国家意識を根こそぎ奪われてしまった。国防の重要性を訴える保守派国民でも、我が国を守るのは「誰」なのかを認識せず、アジア移民の流入に断固たる拒絶を示すことができない。なぜならば、保守派知識人でも「人権」とか「人道主義」に縛られ、アジア人の排斥とナショナリズムは右翼思想とかネオナチ主義と考えてしまうのだ。報道によれば、武漢肺炎が拡散した時、安倍総理や側近の高官は、習近平の来日断念と対支那感情の悪化を懸念して、支那人の入国を全面禁止にできなかったという。つまり、残酷な独裁者を「国賓」として招くために、一般国民を犠牲にしても“OK”と考えていたのだ。首相官邸で働く高官らは大卒者のはずだが、学校で愛国精神と国防意識を学んでいなかったので、「日本人が最優先」という発想が無かったのだろう。

  一方、武漢肺炎の拡大で心配な日々を送る日本人には、二重三重の損害が降り掛かっている。普通なら、この時期でもマスクや殺菌剤の“品切れ”は無いのに、今年はどこの薬局でも売り切れ状態で、日本各地で入手が難しく、通信販売では高値が附いている。さらに、学校や会社に通うために電車やバスを利用すれば、飛沫感染の恐れがあるというので、短時間の乗車しかできない。しかも、ウィルス蔓延のせいで、各地のイベントやコンサートは軒並み中止となり、主催者側は困り果てている。只でさえ、消費増税の影響が全国各地を震撼させ、経済成長がマイナス6.3%という惨状なのに、東京五輪まで危うくなっている訳だから、日本経済にとって大打撃だ。

  ところが、今でも支那人の個人客は入国禁止となっておらず、安全な日本へ逃れようとする来日客(避難民)は絶えない。日本で肺炎になれば無料か低料金で極上の医療を受けることができるし、「人道主義」を掲げてコネれば、長期滞在も可能となる。何しろ、日本には既に支那人だらけの街や支那人が群れる租界が出来上がっているから、日本語が不自由でも生活に困らない。しかも、働き先はいくらでもある。支那料理屋での皿洗いでもいいし、人手不足の農家で「臨時雇い」でもいい。また、筋肉労働の市場に行けば、幾らでも需要があるから、小さな工場で働くこともできるし、一攫千金を期待できる闇社会もある。こうなりゃ、10年、20年でも暮らして行けるだろう。それに、アホな日本人を引っ掛けて結婚できれば、永住権や国籍も夢じゃない。日本だと、様々な理由をつけて滞在を伸ばすことができるし、都会に行けば支那人を支援する人権屋とか左翼弁護士も“いっぱい”いるから一安心だ。

  とにかく、日本人は精神的に弱い。「根気強くゴネれば道は開ける」というのが支那人のモットー。彼らには日本人が持つ「羞恥心」といったものは無い。付け入る隙があれば、とことん利用し、その隙間をグイっと広げて、もっと多くの利益を得ようとする。やがて日本には支那人の血筋を持つ者で溢れ、帰化人の子孫とか日支混血児の家庭、アジア人と結婚する帰化支那人の孫などが普通になってしまうだろう。たぶん、「李」とか「劉」、「趙」といった姓が当たり前となるんじゃないか。地上波テレビ局はこっそりと多民族社会を目指している。狡賢い制作者は、白人藝人を招いて作る番組の中に、ちゃっかりアジア人を混ぜて、視聴者のアジア人アレルギーを薄めようと謀っているのだ。テレビ朝日は、『ビートたけしのTVタックル』にアジア人を混ぜて地均しをしていた。朝鮮系支那人の張景子(稲川素子事務所)を呼んできたり、南鮮擁護の特集番組では、東海大学の金慶珠(ホリプロ)を招いて反論を述べさせていた。ちなみに、レギュラー出演者の大竹まことは、プロデューサーの意見を喋るだけの代理人。最近では、上海出身の支那人女優、高陽子(ジャパン・ミュージック・エンターテイメント)を起用して支那人掩護に努めていた。日本人は日本語を流暢に喋るアジア人に心を許してしまうから、破壊主義派の左翼にとったら赤子も同然だ。

  武漢肺炎に罹った日本人は本当に気の毒だけど、こうした患者達は病院に赴いて更に驚く。既に支那人の患者がいて、医者や看護婦さんの手厚い治療を受けているからだ。日本人の患者はアジア人患者の到来で、診察の順番が廻ってくるまで長時間待たされ、得たいの知れない外人と同じ待合室で坐る破目になる。しかも、こうしたアジア人が何時の間にか「国民健康保険証」を持っており、日本人と同じように高度医療を受けているんだから頭にくる。日本人は両親や祖父母、曾祖父母の頃から国民健康保険制度を支えており、長年に亙って多額の保険料を納めてきた。中には医者や看護婦、介護師を排出した家族もいる。それなのに、支那人ときたら“たった”三ヶ月ないし半年くらいで保険証を入手でき、それを「後ろめたい」とも思わない。悪質な支那人は一つの保険証を使い回して診察を受けている。只でさえ、支那人は北海道や沖縄、東京周辺の土地を買い漁り、日本の街を汚くしているのに、ウイルスまで撒き散らかしているんだから、一人残らず叩き出したくなる。もし、日本国が消滅するとしたら、それはミサイル攻撃じゃなく、支那人の襲来によるものだろう。安倍晋三は長期政権を築いた総理大臣というより、日本を変質させた張本人として歴史に刻まれるはずだ。



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隠蔽工作に利用された科学者/ 危機意識の薄い日本

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想像力が欠乏しした自衛官

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   既に予想されたことではあるが、武漢肺炎がジワジワと我が国で拡散してきた。今さら嘆いてもしょうがないが、本当に我が国の対応は情けない。だいたい、支那大陸で感染者が続出し、武漢のみならず、周辺の省や上海、北京までもが封鎖されたのに、安倍政権は“どこ吹く風”といった調子で、支那人の入国を許していたんだから、脳天気を通り越して脳震盪でも起こしているんじゃないかと思えてくる。現在、新型コロナウイルスは日本各地に拡大しているが、このウイルス騒動は日本政府の鈍感さだけではなく、有事に対する認識の欠如も露わにしていた。多少なりとも教養のある日本人なら、厚労省が拡散防止の音頭を取っているのはおかしい、と気づくはずだ。それなのに、「武漢以外の支那人ならまだ歓迎します」という有様なんだから、「事態を解っているのか?」と言いたくなる。(今は全面禁止になったけど。) もしこれが米国や英国なら、政府直属のウイルス研究者とか、細菌戦を担当する陸軍の将校が任務に当たり、大統領や首相が主導権を執って陣頭に立つはずだ。ところが、日本じゃ大蔵省上がりの加藤勝信が担当なんだから、天を仰ぎたくなるじゃないか。加藤六月の娘婿なんか、せいぜい“神輿の飾り”程度だろう。

  もっと驚くのは、チャンネル桜の討論会に参加していた渡部悦和(わたなべ・よしかず)陸将だ。渡部氏は退官前、陸上自衛隊で東部方面総監を務めており、『中国人民解放軍の全貌』や『米中戦争』、『日本の有事』といった著作もある。最近ではインターネット放送の「チャンネルくらら」や「文化人放送局」に出演し、軍事問題について語っているから、一般人でも馴染みがあるんじゃないか。たぶん、こうした経歴からチャンネル桜への登場となったのだろう。しかし、彼の判断力や認識力には疑問がある。というのも、討論の中で武漢肺炎が話題となった時、渡部氏は新型コロナウイルスを“自然発生的”であると考えていたのだ。渡部氏によれば、武漢にある病毒研究所は「レベル4」の施設で、もし、生物兵器を開発しているのであれば、非常に毒性の強いウイルス兵器を研究しているはず。ところが、今回の新型コロナウイルスは、あまりにも“お粗末”で、レベルが低すぎるというのだ。渡部氏は自信ありげに言う。もし、研究所から流出したものであれば、たいへんな“失敗作”だ、と。

  この意見を受け、同席していた河添恵子は反論した。彼女は北京政府の発表に疑問を呈し、武漢にある病毒研究所から“何らかの形”で漏れ出したんじゃないか、と疑問を呈する。しかし、渡部氏はイスラエルの専門家に取材した「ワシントン・タイムズ」紙の記事を怪しみ、これを否定する「ワシントン・ポスト」紙の記事を取り上げた。さらに、BBCも「ワシントン・タイムズ」の主張を疑っているぞと紹介し、河添氏の反論を斥けた。実際、渡部氏も海外のニュース記事を読んでみたが、かなり多くのフェイク・ニュースが混ざっていることが判り、「流出説」には信憑性が無いと斬り捨てていた。彼は「陰謀説」に加担することを恐れていたのか、それとも自己保全に努めていたのか、野生動物からの自然発生的な感染を力説する。もし、「BSL-4(Biosafty Level 4)」の研究所で製造されたウイルス兵器なら、もっと強力な毒性と高い致死性を有するはずで、あの程度の毒性ではおかしい、と考えていた。そして、もし、外国に対して使用するならば、ちゃんとした完成品でないと駄目だ、と付け加えていた。

  でも、渡部氏の論点はおかしい。どうして彼は人民解放軍による“意図的な使用”にばかりこだわるのか? なるほど、ウイルス兵器は扱いにくく、使用するにしても危険で、ターゲットだけを攻撃するには不向きな代物だ。確かに、エボラウイルスと比べたら、新型コロナウイルスの毒性は低いけど、どうして武漢の研究所が低レベルの生物兵器を開発しちゃダメなんだ? 三越百貨店とか松坂屋にある洋菓子店には、1個2000円の高級スウィーツがある一方で、隣の棚には1個500円とか200円のショートケーキがあるじゃないか。商品の全部が高値のケーキである必要は無い。北京政府がレベル4の研究所に対し、「毒性の低いウイルスも用意しろ」と命令したっていいじゃないか。毒性が低くても感染力の強いウイルスをターゲット国にばら撒けば、患者が爆発的に増え、医療施設がパンクするから、敵国政府は大慌てになるだろう。ところが、もしウイルスの毒性が強烈で、即死の患者ばかりになれば、面倒な介護と対策が必要なくなるから、却ってホッとするかも知れないぞ。

「うっかりミス」によるバイオハザード

  渡部陸将の見解を論ずる上で、ソ連時代に起こった「炭疽菌の流出事件」は参考になる。渡部氏はロシアが謳う生物兵器開発の放棄を信じているようだが、筆者は非常に懐疑的だ。あのロシア人が戦争に負けたわけじゃないのに、強力兵器を放棄したとは考えにくい。筆者は単なる平民だから確実な証拠は持っていないけど、ロシアは研究施設の看板を変えただけで、密かに作っていると思っている。

  今回の話は共産党時代に遡る。ボルシェヴィキにより建国されたソ連は、昔から生物・化学兵器に多大な関心を示していた。地上最強の軍隊を目指す共産主義者らは、この新しい兵器に将来的な価値を見出していた。というのも、チフスの大流行を覚えているソ連の軍事指導者にとって、細菌兵器というのは恐ろしい響きをもつからだ。何しろ、当時はまだワクチンとか抗生物質は無いから、その病原菌が強力な戦術兵器になることは誰でも理解できた。赤軍にとって「勝利」は鉄則だ。倫理道徳など無視して構わない。だから、1928年、ボルシェヴィキ政権はチフス菌を兵器として開発する法令を密かに命じたという。1930年代半ばになると、レニングラード士官学校に生物戦研究施設が建設され、白海に浮かぶソロヴェツキー島が実験場となったそうだ。そこではチフスやQ熱、馬鼻疽の研究が行われていたというから、冷たい汗が背筋に流れてくるじゃないか。しかし、第二次大戦が勃発すると、ドイツ軍の進撃を懸念したソ連は、この秘密施設をウィヤトカ川沿のキーロフに移し、「微生物学研究所」と名付けて最高機密の研究を続けたらしい。(トム・マンゴールド / ジェフ・ゴールドバーグ共著  『細菌戦争の世紀』 上野元美 訳、原書房、2000年、p.58.)

Beria 1( 左 / ラヴレンティ・ベリヤ )
  戦後、NKVD(ソ連の秘密警察)を率いたラヴレンティ・ベリヤ(Lavrentiy Beria)が、スターリンの命令を受け、生物戦計画の総責任者となったそうだ。しかし、ベリアヤが失脚すると、ソ連軍参謀本部第七局がこの任務を引き継ぎ、エフィム・スミルノフ将軍が指揮を執って生物兵器の開発を続けたという。ソ連はキーロフに加え、モスクワから70kmにあるザゴルスクにも生物戦研究所を設立し、「軍事微生物研究所」という看板を掲げたそうだ。しかし、そこで行われたのは、炭疽や野兎病、ブルセラ属、ペスト、ボツリヌス、ヴェネズエラ馬脳炎、チフス、Q熱の研究と実験。この研究所はアラル海に浮かぶヴォズロデニエ島にも実験場を持っており、「生物戦における防護手段の開発」という名目で、攻撃用兵器の開発を行っていたという。

  地獄の島と化したヴォズロズデニエでは、何トンもの炭疽菌やペスト菌、あるいは様々なウィルスが実験材料として使われ、スプレーで噴霧されたり、砲弾に詰められ爆破されたりしたそうだ。使用後は危険を伴うが、適当に廃棄された。生物兵器の研究と言えば、動物実験が付き物だ。実験用動物として好まれたのは、最も人間に近いとされるマントヒヒ。当時、ソ連軍は1頭500ドルから700ドルという法外な値段で年間数百頭も購入したそうだ。想像しただけでも可哀想に思えるが、ロシア人は1回の実験で100頭ほどのヒヒを柱に鎖で縛りつけ、病原体を噴射することで、その効果を試したらしい。このおぞましい実験が終わると、防護服を着た兵卒が瀕死のヒヒや死んだヒヒを集め、保管場所へ運んで検死を行ったそうだ。その後、廃棄係の兵卒は動物の死体を焼却し、島にある集団墓地に遺灰を埋めたという。(上掲書 pp.61-61)

  ソ連は各実験が終わる度に島の内部を消毒したが、うまく遂行できなかったので、しばしば本土に汚染が広がってしまい、近くの住民が犠牲者となったらしい。1972年、カザフ人が乗る漁船が港を出航した後、行方不明となる事件が起きた。しばらくしてから湖を漂流する船が見つかったというが、乗っていた漁師は全員ペストで死亡していた。しかし、ソ連政府はこの事故を正式に認めず、死亡者の数ですら明らかにしなかったという。それゆえ、遺族はビタ一文も賠償金を貰えず、いつも通りの泣き寝入り。一方、軍部は生物戦研究において、ソ連が西側を大きくリードしていると喜んでいた。そして、この新しい大量破壊兵器を正式に軍事計画に組み込み、生物製剤を「特別指定の兵器」と名付けていた。まさしく、ロシア人には悪魔の仮面が似合っている。

  1979年、最高機密とされた軍事施設のスヴェルドロフスク(Sverdlovsk)で、生物兵器史上最悪の事件が起こった。モスクワの東から約1,500kmの距離にある、この百万人都市には、1947年に建設された「微生物・ウィルス学研究所」という軍事施設があった。有刺鉄線のフェンスで囲まれた内部には、最高機密の製造工場と研究室の他に、特殊な換気装置や煙突、動物用の檻、冷蔵設備、コンクリート製の貯蔵壕、特別線路などがあったそうだ。さらに、施設の周辺には陸軍の基地や一戸建ての住宅、集合団地、工場、商店、学校などもあったというから、本当に共産主義国というのは恐ろしい。

  1979年4月2日の朝、第十九施設の作業員が炭疽菌製造機を稼働させたことで悲劇の幕開けとなる。この事故が発生した原因は、先週の金曜日にあった。製造機には直径60cmの丸いフィルターがあり、金属の枠には特殊合成の繊維が貼られていた。通常は、製造機の定期点検を行う作業員が、乾燥粉砕機のシステムにある排気フィルターを外し、新しいフィルターに取り換えるはずなのだが、当日、交換を行った作業員は、古いフィルターを外したものの、新しいフィルターを嵌めず、“うっかり”忘れていたのだ。こうした交換は、1週間に1度行われていたという。人為的なミスというのは何処でも起こりがちで、高度な研究所であっても例外ではない。金曜日に作業がなされた機械は、誰にも再確認されず、フィルターが無いまま翌週の月曜日に稼働した。(上掲書 p. 90.)

  このヒューマン・エラーで猛毒の粉末が大量に換気口から排出された。炭疽菌の芽胞は空中を漂い、第十九施設の南にある第十三施設や附近の住宅、500mほど先にある陶器パイプ工場にまで達したそうだ。さらに、菌は風に乗って分散し、人の目に触れぬまま、南の村へと飛散したというから、まるでホラー映画の現実化みたいだ。炭疽菌の感染経路は三つある。

 ① 肌や傷口に接触することでの皮膚感染
 ② 汚染された肉を食べることによる胃腸からの感染
 ③ 空気を吸って肺から感染する場合

  特に、息をして炭疽菌を吸入すると、1日か2日後に最初の症状が現れる。体がふらつき、頭痛、咳、微熱、寒気がするそうだ。体内に取り込まれた芽胞が活性化すると、急速に増加するから、免疫系を圧倒する程の毒素が分泌される。一次死傷者の大半は、炭疽菌工場の風下数百メートルに居て、たまたま部屋の窓を開けていたり、屋外に立っていた、あるいは道を歩いていた人であるという。最も甚大な被害を受けたのは、工場で作業をしていた軍の職員や、隣接する第三十二施設に駐屯する兵卒、通勤途中の人々、陶器工場で働いていた従業員であった。体に変調をきたした者は、最初、風邪かインフルエンザに罹ったのか、と思ったらしい。だが、次第に呼吸困難に陥り、高熱や嘔吐に苦しみ、唇が紫に変色する人まで出てきたから、得体の知れない戦慄が走ったという。

  案の定、重症の患者が病院に搬送されたが、担当した医師は困惑の色を隠せない。それもそのはず。政府や軍から何も知らされていなかったのだから。未知の恐怖は更なる恐怖を招く。いくら病院のスタッフがプロとはいえ、致命的な伝染病かも知れない思えば、パニック症状くらい起こすだろう。事態を理解できない医者もパニック状態に陥り、ペニシリン、抗生物質、ステロイドなど、あらゆる治療薬を使ってみたそうだ。しかし、医療チームは患者の死を食い止めることは出来なかった。情報の隠蔽は恐怖と混乱を招くだけ。細菌兵器の流失は目に見えないだけに、実に恐ろしい。第二十病院だけでも42名の遺体があったし、病院に行かず家で亡くなった人もいたそうだ。中には、意識不明で道路に倒れている人もいたという。現地の医療スタッフや医師達は、炭疽菌を吸引した患者を診たことがなかったし、街に軍の秘密工場があるも知らなかったから、適切な処置を取れなくても当然だ。しかし、数日後、経験豊富な病理学者が検死を行った事で、患者の出現が炭疽菌によるものであると判った。

  混乱と恐怖の一週間が過ぎた頃、全病院の医師達は、残りの患者と新しく運び込まれた患者を伝染病棟へ移すよう、政府からの命令を受けた。隔離された人々は集中治療室に収容されたというが、最終的にどうなったのかは分からない。ただ、漏洩事故の深刻さを理解していた政府が動き出した。ソ連の保健省と軍の高官も顔を出してきたというから、本腰を入れたのだろう。ところが、彼らは危険地域に足を踏み込まない。現場の上空をヘリコプターで視察しただけ。なんか、今の習近平みたい。一方、民衆は政府筋や国営の報道機関からの公式発表が無いので疑心暗鬼のまま。一部の人々は途方もないデマを流していたそうだ。驚くのは、現地のKGB支局長さえ、第十九施設で何が行われていたのか知らなかったという、ソ連の秘密主義的体質だ。これじゃあ、一般大衆が出鱈目な噂を信じても無理はない。聾桟敷(つんぼさじき)に置かれていた局長は、相当頭にきたのか、部下に秘密研究所の電話を盗聴させ、ようやく事件の真実を掴んだという。まるで、現在の支那みたい。

ソ連の十八番、隠蔽作戦

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  支那人と同じくロシア人も隠蔽の常習犯である。モスクワのKGB本部は、この失態についての情報を固く封印した。ソ連は国家安全保障の観点からだけではなく、政治的・外政的理由から、決して事件を認める訳には行かなかったという。KGBはソ連の医療文書の中で炭疽を意味する「コード202」とその関連事項、病院の記録、検死報告書、流行病の調査報告書を全て押収すると共に、肺炭疽に関する部分を次々と削除し、“偽の報告書”を作成した。しかし、隠蔽工作には死因の説明が必要だ。そこで、何となく“うなづける”ような理由を作り出した。先ず、保健省は地元住民に5万枚のパンフレットを配布し、汚染肉を食べたり、迷い出た家畜に触らぬよう警告したそうだ。そして、大ぼら話を信用させるため、野生動物と野良犬が捕獲され処分されたという。さらに、未検査の肉までが没収され、焼却処分にされたというから実に念が入っている。

  生物兵器の流出事故は誠に厄介だ。炭疽菌を除去しようと危険な作業に取りかかっても、却って埃が宙に舞ってしまい、更なる死亡者が出る始末。最終的な死亡者数は分からないが、推定では64名から600名ほどなんじゃないか、と考えられている。だが、こんなモノはソ連が勝手にはじき出した数字だ。とても信じることはできない。この点は、現在の北京政府も一緒。実際、スヴェルドロフスクの医師達は、モスクワの最終報告書を読んで、「あまりにも少なすぎる」と言っていたくらいだから、桁が二つ三つ違っているんじゃないか。とにかく、炭疽菌で死んだ人の多くは、街の東墓地にある第十五区画に埋葬され、立入禁止区域になったという。

  1979年になる頃には、大規模な隠蔽工作が成功していたそうで、真相を知るのは、現地駐屯軍の高官とKGB、そしてモスクワの政府高官くらいだった。問題は、ソ連が生物兵器禁止条約に違反していることを“どうやって”隠し通すのかだ。すなわち、国連やカーター政権、その次のレーガン政権、ブッシュ政権を如何に欺くかという点である。何しろ、スヴェルドロフスクの事故が起きると、直ちに歐米諸国が噂を聞きつけ、不都合な事実を詮索し始めたから、ソ連としては有効な対策を練らなければならなかった。英国のMI6(対外諜報機関)は、ソ連から東ドイツを旅行したドイツ系イギリス人の話を聞き、どうやら生物兵器工場から病原菌が流出したのではないか、との情報を得た。しかし、この報告は確証に乏しく、当時の英国外務省は生物兵器禁止条約の効力を証明することで頭がいっぱいだったから、確固たる証拠も無いのにソ連が条約に違反していると騒ぎたくなかったそうである。英国の統合情報委員会に対し、穏健路線を取るよう働きかけたのは、このグループであったという。

  ところが、事故から半年が経つと、西側のマスコミにちらほらと真実の断片が届き始めた。当時、フランクフルトで発行されていたロシア語新聞の『ポセフ』には、ソ連の噂やゴシップが定期的に掲載されており、スヴェドロフスクの「怪奇事件」も報道されていた。しかし、日付や場所の情報が間違っており、死亡者数も数千人と曖昧で、炭疽菌についても触れられていなかったから、ほとんど信用されていなかった。しかも、思想的に偏った新聞と見なされていたから、その記事は黙殺されていたのだ。三週間後、ロンドンのニューズ雑誌『ナウ』にも例の事件に関する記事が掲載されたが、その内容は『ポセフ』と旅行者の話をネタにして書かれているだけだった。それでも、『ポセフ』は第二弾の記事を掲載し、スヴェルドロフスクの近くで爆発が起こり、村に炭疽菌が放出されたことや、死亡者が千人くらい出たこと、軍が鎮静化に乗り出し、市民がワクチンの摂取を受けた、という情報を書いた。(上掲書 p. 69.)

  この記事が切っ掛けとなって、ドイツの大衆紙である『ビルト・ツァイトゥング』やロンドンの『デイリー・テレグラフ』紙が動き出し、恐ろしい細菌が軍事施設から漏洩したのでは、との報道を流し始めた。『ビルト・ツァイトゥング』の記事は、西側のマスコミをたいそう刺戟したらしく、一般人が大きな関心を示した。これが引き金となったのか、ソ連政府は対応を迫られた。しかし、こんな騒動くらいでロシア人は正直にならないし、動揺することもない。2月19日、プロパガンダ機関の一つである国営のタス通信社は、炭疽菌に関する西側の報道を「悪意に満ちた作り話」と呼んで斥けていた。ところが1980年、米国のCIAは1979年に撮影された衛星写真の“価値”に気づいたそうだ。CIAの分析官が事件の前と後に撮影された写真を見比べたところ、除染作業車や隔離用の検問所が目に付いた。ここで素朴な疑問が浮かんできた。「なぜソ連は汚染肉の事件くらいで軍事施設を封鎖したのか?」、と。

Dmitri Ustinov 2(左  / ディミートリ・ユスチノフ )
  CIAは重要人物の行動から更に疑念を深めることになった。何と、ディミートリ・ユスチノフ国防相が事件後にスヴェルドロフスクを訪ねたのだ。汚染肉が出回ったくらいでトップ・クラスの軍人が来訪なんておかしい。二日後、今度は著名な伝染病学者でもある保健相がモスクワから駆けつけ、「事件は解決した」との会見を行ったのである。こんな急場しのぎの茶番劇を見れば、CIAが怪しんだのも当然じゃないか。さらに、CIAはロシア人の科学ライターであるマーク・ポポフスキーから貴重な情報を得た。ポポフスキーは地下チャンネルでこっそり持ち出された手紙によって、スヴェルドロフスクの事を知ったという。また、イスラエルへ移住したソ連のユダヤ人から、第十九施設で炭疽菌放出が起こったという話や、それを裏付ける情報が入ったのだ。最も役立ったのは、スヴェルドロフスクで患者を治療した医師の詳しい話だった。被害者の症状は高熱と呼吸困難で、この医者が人づてに聞いた検死結果によると、患者の肺には体液が溜まっていたそうだ。CIAは数百名くらいが亡くなったんじゃないか、と推測したらしい。

  1980年三月、CIAからの報告を受けたカーター大統領は、「病気発生」に関する説明をソ連側に求めた。当時、ソ連はアフガニスタンを侵掠していたから、米国が生ぬるい対応をせず、厳しく追及しようと気構えても不思議じゃない。アメリカ国務省のスポークスマンは、“極めて危険な生物製剤”がスヴェルドロフスクから放出された可能性があると正式に認めた。つまり、生物兵器禁止条約の違反という“疑惑”が浮上した訳だ。これを受けて、ソ連の外務省はアメリカの非難を“あからさまな中傷”とか、アメリカを宣伝するための“でっち上げ”、反ソ連の機運を高めようとする“捏造”であると糾弾した。一方、ロシア人の報道官は、ふてぶてしく、「ソ連は常に生物兵器禁止条約の全規定を厳重に遵守してきた」と豪語した。しかも、この高官は驚愕の声明を発表する。曰わく、「ソ連は“良心に照らして”その義務を守ってきた。それなのに、米国はソ連に疑問を投げかけるとは ! 我々はこんな仕打ちに耐えられない ! 断固拒否する !」、と。(上掲書 p.99)

  もし、アカデミー賞に「陰謀部門」があった、ロシア人が毎年必ず獲得するだろう。ソ連はアメリカの戦術に対する怒りを露わにし、急速に拡大する宣伝合戦の形勢逆転を狙ったそうだ。ソ連側は質問状に対して正式な回答を発表する前、つまり公正な機会が与えられないうちに、正式な非難を受けたと憤慨してみせた。そして、返す刀で、逆にアメリカ側の条約違反を訴えかけたというから、呆れてモノが言えないじゃないか。1975年の条約では、条約違反の申し立てがあった場合には、当事者が相互に“協議”し、協力する事を容認していた。だから、ソ連側は条約内容を楯に取り、アメリカが「その精神を蔑ろにして公然とソ連を非難している !」と抗議し、協力の拒否を正当化したのである。

  続いて3月20日、ソ連外務省は報復攻撃を開始した。ロシア人は“もっともらしい”説明を披露して、猜疑心を抱く人々を安心させようと謀る。ソ連側の見解は次の通り。スヴェルドロフスクで起こった騒動は、ちっとも珍しくない。“ちょっとした”公衆衛生上の問題である。すなわち、「杜撰な食品管理により、炭疽菌に汚染された食肉が闇市場で販売され、その結果、病気が発生した」というのだ。この説明だと、被害者は汚染された肉を食べたことで病気となり、腸炭疽で死亡したとこになる。ソ連の報道官は、「家畜の炭疽感染や闇市での食肉販売などは、この地域ではよくあることだ」と述べていた。

  さすが、ロシア人はプロパガンダの達人だ。ラスヴェガスの手品師だって騙されるんじゃないか。ソ連の嘘は瞬く間に広がり、効果覿面(てきめん)。プリンセス天功も三舎を避ける。このペテン話を以てソ連は生物兵器条約違反の容疑を一挙に解決した。でも、ロシア人は「念には念を入れる」老獪な詐欺師。5月になると、ソ連はモスクワで発行される医学雑誌に、事故を科学的に解説する論文を掲載した。伝染病を専門とする二人の医者が政府公認の論文を執筆し、今回流行った炭疽事件の原因は、青空市場で汚染肉を購入した二家族であると称したのだ。また、この論文の中では、別の家族が病気に罹った羊の肉を食べたせいだ、とも語られていた。(上掲書 p.100) ソ連は自身の信憑性を高めるためなら何でもする。この共産国は、家畜の炭疽感染が珍しくないことを印象づけるため、スヴェルドロフスクの地域では1936年から1968年にかけて、土壌汚染による炭疽が159回も発生したと述べていたのだ。今では白々しい「嘘」と分かるが、当時は権威ある雑誌に発表された論文なので、多くの人々が信用してしまったという。

Les Aspin 1(左  / レス・アスピン )
  しかし、米国にはこのヨタ話を信じない“強硬派”がいた。下院の情報監視小委員会は、極秘の調査会を開き、CIAと国務省および軍備管理局の証人から話を聞いたという。当時、連邦下院議員だったレス・アスピン(Les Aspin, Jr.)は小委員会の議長を務めており、委員会の結論を鑑みて、ソ連が西側を欺いて生物兵器の研究開発を行っていたと判断したそうだ。(アスピン議員は後にクリントン政権で国防長官になった人物。) 一方、ソ連はあらゆる努力を怠らなかった。ロシア人は名女優さながらの演技を披露する。ソ連は公衆衛生上の悲劇を経験し、その惨劇だけでも充分苦しんでいるのに、アメリカはさらに“この傷口”を広げるような嫌がらせをするんだから、と。ソ連の茶番劇はまだ続く。「これはソ連のアフガニスタン侵攻に対する“報復”であり、モスクワ・オリンピックのボイコットを奨励する脅しかも知れぬ」、とのセリフを述べていた。ロシア人は掩護射撃も忘れない。国営のタス通信は、アメリカが“心理戦争”を行っていると非難。だが、こうした中傷合戦は、重要な国際問題の中に埋もれて行き、次第に米ソの引き分けで終わりそうな雰囲気だった。

利用されただけの馬鹿

Matthew Meselson 1(左  / マシュー・メセルソン )
  ところが、ソ連には思いがけぬ幸運が飛び込んできた。ハーヴァード大学で微生物学を教えるマシュー・メセルソン(Matthew Meselson)が助け船を出したのだ。ロシア人は西側に棲息する「便利な馬鹿(useful idiot)」を操るのが殊のほか上手である。将棋界で言えば、名人と竜王のタイトルを連続20期も保持した天才に等しい。藤井聡太も真っ青だ。話を戻す。かいつまんで言えば、メセルソンはソ連の欺瞞と情報攪乱作戦に加担した米国の「間抜け」ということだ。彼は1960年代、合衆国の軍備管理・軍縮局でコンサンタントを務めた人物で、政治活動にも熱心だった。メセルソンは相当な自惚れ屋だったのか、積極的にロビー活動を展開し、生物兵器の禁止条約締結に多大な貢献をしたと自負していたそうだ。ところが、実際のメセルソンは自発的なソ連の操り人形に過ぎなかった。彼は合衆国政府の見解と対立し、ソ連の主張である「汚染肉理論」を支持していたそうだ。この有名教授は、心からソ連の主張を信じ、レーガン政権の反対意見を退けていたというから、紛れもなく筋金入りの左翼と言えよう。彼は事故の原因を汚染肉と確信し、生物兵器の秘密工場とは無関係、という立場を全く変えなかった。

  一般人は「権威」に弱い。特に理系の知識人、とりわけ高名な科学者となれば、理性を忘れて盲目的に信じてしまう。米国のマスコミはこぞってメセルソンの意見を求め、彼の意見は真面目な論調の新聞や書物、そして権威ある科学雑誌にも大きく取り上げられた。事故から7年近く経った1986年、メセルソンはスヴェドロフスク事件の証拠を探すことにした。彼はソ連の高官らと協議するため、モスクワ訪問の許可をソ連側に求め、ようやくその許可が下りたという。ソ連保健省の高官らは、「アホがノコノコやって来た」と思ったんじゃないか。彼らはメセルソンを歓迎し、病気の発生について詳細な事情を語ったそうだ。ロシア人曰わく、「牛の餌が原因」であるという。つまり、死んだ牛と羊から取った骨粉を殺菌しないまま飼料に混ぜてしまい、それを誤って家畜に与えてしまったから、病気が蔓延したというのである。

Piotr Burgasov 1( 左 / ピョートル・ブルガソフ )
  この「嘘」を作り出したのは、保健省の副大臣を務める科学者で、メセルソンを接待したピョートル・ブルガソフ(Piotr Nikolaevich Burgasov)博士。この科学者はソ連陸軍の少将でもあり、1958年から63年まで、第十九施設で行われた生物戦争計画の責任者であった。さらに驚くのは、1979年にスヴェルドロフスクで例の“事件”が起発生すると、急遽モスクワから派遣され、隠蔽工作の手伝いをするよう命じられたそうだ。1986年の時点でも、彼はまだ軍の攪乱作戦を率いていた。ソ連は何も知らないメセルソンを利用することで、アメリカの面子を潰さず、ひっそりと幕引きを行おうと考えていたそうだ。一方、マセルソンはスヴェルドロフスクへの訪問を要求したが、それは叶わず、モスクワで高官四人と話しただけであった。彼は帰国しても結果を発表せず、その代わり、ブルガソフとソ連の高官に訪米の提案を持ちかけ、新たに発見した医学的証拠を講演会で披露してはどうか、と勧めたそうだ。

  それから1年半後の1988年、ブルガソンとソ連保健省の高官が米国にやって来た。彼らは講演会で堂々と嘘を垂れ流すべく、ワシントンにある米国科学アカデミーと名門のジョンズ・ホプキンス大学にある公衆衛生学部、およびアメリカ人文科学学会で喋りまくった。すると、どの講演も大盛況。聴衆の中には、事件に高い関心を持つ科学者や医療関係者、軍縮管理に携わる官僚、ジャーナリストが混じっていたというが、ブルガソフは以前メセルソンに吹き込んだ「作り話」を繰り返したにすぎない。彼は汚染された飼料の逸話を吹聴し、時折、悲しい表情を浮かべながら、アメリカ人の猜疑心を全く理解できない、と嘆いたそうだ。これに加勢すべく、協力者のメセルソンも登場し、ソ連の説明は誠に“ごもっとも”と演説をぶった。彼はブルガソフの話が医学論文や過去の記録とも一致すると太鼓判を押したそうだから、「どこまでお人好しなんだ?」と言いたくなる。

  でも、一般のアメリカ人もソ連の巧みな目くらましに引っかかっていた。というのも、ソ連からやって来た三人の博士は、よく事情に通じ、“誠意”ある態度で講演を行ったから、アメリカ側としても無碍に否定することは出来なかったのだ。さらに困った事は、CIAやDIAがロシア人科学者の主張を反駁するための根拠を公開せず、真相の暴露を頑なに拒否していた点だ。これだと、米国の強硬派は黙って屈辱に耐えるしかない。「メセルソンは?」と言えば、ソ連側の声明に矛盾や疑問点があっても無視。逆に、アメリカ政府の分析は偏っていると仄めかしたそうだ。これって、日本の進歩的知識人とよく似ているぞ。

Peter Gumbel 2( 左 / ピーター・ガンベル)
  しかし、ソ連崩壊で真実が明るみに出た。1991年10月、『ウォール・ストリート・ジャーナル』でモスクワ支局長を務めていたピーター・ガンベル(Peter Gumbel)が、スヴェルドロフスクを三度訪れ、現地の市民や医者から話を聞き、それまで隠されていた医療記録を発見したそうだ。そのうえ、彼はメセルソンの学説を大きく揺るがす事実を発見した。1988年、メセルソンはブルガソフから提供されたデータを基にして論文を書いていた。それによると、スヴェルドロフスク近郊にある飼料製造工場では、殺菌作業がかなり杜撰で、汚染された骨粉が混ざっていたという。ところが、信じられないことに、この工場自体が存在していなかったのだ。さらに唖然とするのは、メセルソンが情報を確認せず、ソ連側の偽情報を鵜呑みにし、しゃあしゃあと論文を書いていた、という裏話である。

Boris Yeltsin 1(左  / ボリス・エリツィン )
  こうして、真実の水門はさらに開かれた。ガンベルの記事が掲載された約一ヶ月後、ウラル軍管区で対スパイ活動部長代理を務めていたアンドレイ・ミロニュク将軍が、スヴェルドロフスクでの事故が作業ミスによるものであった、との情報を認めてしまったのだ。次に、元KGBのスヴェルドロフスク支局長を務めていたユウ・コルニロフ将軍が重い口を開いた。彼はKGB長官のユーリ・アンドロポフから指令を受けて、第十九施設内の清掃作業を監督していたというのだ。将軍によると、除染作業は徹底しており、研究所の床を張り替え、壁の漆喰をも剝がしていたという。これに加えて、衝撃の事実が浮かび上がってきた。事件が起きた1997年、スヴェルドロフスクの行政区で共産党局長をしていたのは、他ならぬボリス・エリツィンであったのだ。1992年、新生ロシアの大統領になったエリツィンは、病気の原因が自然発生的なものではなく、生物兵器施設での事故によるものであった、と認めたのである。この発表がロシア政府の公式見解となっており、今でも変わっていない。

  ところが、不思議なことに、作り話を流布したメセルソンが狼狽していなかったのだ。ロシア政府のトップに立つエリツィンが公式に認めたのに、彼は専門家チームを結成し、1992年6月、スヴェドロフスクへと赴く。彼らは第四十病院で検死を行った二人の医者、ファイナ・アブラモーワとシヴ・グリンベルグから話を聞いたという。このロシア人医師二名は、炭疽菌による死亡を証明する医学的な証拠を保管し、14年間もKGBの目から隠し通していたのだ。後に、図々しいメセルソンは、この二人から重要な新証拠を引き出したのは自分だ、と主張したが、肝心の医者二名は既に“この特ダネ”をソ連の記者やウォール・ストリート・ジャーナル紙に伝えており、メセルソンは発表済みの古い情報を掴んだだけである。しかし、メセルソンはこうした証拠が有効であると最終的に判断したのは自分達だ、と言い張った。二度目のスヴェルドロフスク訪問となった1994年、メセルソンは有名な『サイエンス』誌に結論を発表し、ようやく汚染肉の話が“まやかし”であったことを認めたそうだ。ただし、15年間に亙って合衆国政府が正しかったこと、そして彼が間違っていたことだけは、意地でも認めなかったらしい。

  後に、メセルソンは自分が関わった事件をまるで他人事のように扱い、これで伝染病の発生源に関する論争は終結するだろう、と語っていた。メセルソンは“まんまと”ソ連の策略に引っかかったのに、自己弁護だけは一貫して続けていたらしい。もう、彼の釈明は呆れるほかない。一般的に学者というのは頑固なものだが、こうも意固地だと頭にくる。なぜなら、事故を起こしたのは炭疽菌の解毒剤を研究する施設であって、生物兵器の製造施設ではない、と論点をすり替えていたからだ。しかも、彼はソ連の条約違反を咎めず、むしろ擁護するように、ソ連の科学者は条約の許容範囲内で研究を行っていたのだ、と語っていた。日本人なら分かると思うが、こういった馬鹿には附ける薬が無い。

Francis Boyle 3( 左 / フランシス・ボイル )
  長々とソ連時代の不祥事を述べてしまったが、こうした過去の事例を思い出すと、支那で発生したウイルス騒動の説明を疑いたくなる。渡部陸将は野生動物からの感染だと考えていたが、本当にそうだろうか? 米国では1月31日に、イリノイ大学教授のフランシス・ボイル博士(Dr. Francis Boyle)が「Geopolitics & Empire」という番組に登場し、新型コロナウイルスが人工的に作られた生物兵器であると、述べていた。彼は国際法の専門家であるが、ジョージ・H・W・ブッシュ政権時代、生物兵器条約の草案に携わった学者であるから、まんざら嘘とは思えない。もしかしたら、軍か政府の高官から内輪話を聞いていたのかも知れない。ボンクラな日本政府と違い、合衆国政府はウイルス騒動に敏感だから、おそらくCDC(米国疾病対策センター)からの分析を受け取っているはずだ。さらに、CIAから詳しい報告書を得ているはずだから、極秘ファイルの情報を計算尽くで公表する場合もある。トランプ大統領は交渉や脅迫が得意だから、国益を考えてわざと真相を隠すかも知れないし、気前よく公開して支那に揺さぶりをかける可能性だったある。冷徹な国際政治の世界では、「日本政府だけが蚊帳の外」という状況だってあるんだぞ。

  新型コロナウイルスの科学的分析がまだ公表されていないから、何とも断定できないが、渡部陸将の推測が誤っているという確率はかなり高い。支那大陸では行方不明となった科学者の黄燕珍が何をしていたのか、という噂話や、武漢ウイルス研究所で主任を務めている石正麗の話題が盛り上がっている。さらに、武漢市内での壮絶な光景が色々な情報筋で流されているのだ。僅か10日で建設された「火神山医院」は、実質的な“絶滅収容所”である。ここに運ばれた患者は治療を受けることはない。ただ苦しみながら死ぬだけだ。窓に鉄格子が設置されているのは、逃亡を防止する為である。ゴースタウン化した武漢で活発なのは、死体を処分する焼却炉だけ。武漢には人民解放軍のロケット部隊とサイバー部隊が派遣され、人民の監視と弾圧が行われているという。

  こうした惨劇が起こっていたのに、渡部陸将は頑なに「人工兵器説」と「偶発的流出説」を否定していた。これって、おかしくないか。自衛隊の上級将校や中堅士官は、チャンネル桜での討論をじっくり観てみるべきだ。何度も繰り返して渡部氏の発言を聞けば、何となく「妙だ !」と気づくはず。でも、複雑な人間関係と役職や義理人情で雁字搦めにされた自衛官は、退官した高級将校の正体を吟味することはできない。嫌なモノには蓋をするのが、巨大組織で働く日本人の性(サガ)だ。渡部氏が単なる断固者なのか、支那に忖度をする自衛官なのか、それとも他に理由を抱えた謎の人物なのか、筆者には判らない。ただ、筆者は百名の愛国的自衛官を集めて、各人の意見を聞きたいと望んでいる。




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