無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2020年03月

パンドラの国に生まれて / 害悪の根源となる支那人

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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近づきたくないチャイナタウン

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(左 : 支那人排斥の風刺画  /  右 : 支那人を処刑するイラスト)

  武漢ウイルスが世界中で蔓延し、まさしく「パンデミック」状態だ。前々から囁かれていた「東京五輪延期説」が現実のものとなり、オリンピック関連のイベントで儲けようと目論んでいた業者は“当て”が外れて、ガッカリどころか顔面蒼白である。しかも、大都市で発症者が増えたから、首都の封鎖論まで囁かれてきた。でも、こんなのは1月の時点で判っていたことじゃないか。別に疫病学の専門家じゃなくても、映画や小説で生物兵器の漏洩とか、エボラ・ウイルスの恐怖などが描かれていたから、一般人でも大体の事は想像できる。当ブログでも紹介した『カサンドラクロス』や『アウトブレイク』という映画があったし、日本でも小松左京の『復活の日』という映画があった。(この作品には筆者が好きな多岐川裕美さんが出ていたので、テレビ放送などで何度か観ている。) また、カナダのTVドラマ『リジェネシス』も日本で放送されたから、何割かの日本人は覚えているはずだ。このドラマでは、致死率の高いウイルスが、たった一人の患者から瞬く間に多くの人々へ感染する、というエピソードもあったから、とても勉強になった。視聴者は電車に乗った感染者が咳をして周りの乗客にウイルスを撒き散らしたり、くしゃみをして手すりやドアノブに鼻水を付着させる、といったシーンを観てゾッとしたものだ。

  日本では支那人観光客を止めなかったことで、国内にウイルスの蔓延を招いてしまったが、筆者はいずれヨーロッパやアメリカでも感染者数が増えると予想していた。なぜならば、北米や西歐諸国に多数の支那人が住んでいたり、支那に親戚・友人を持つ支那系国民がゴロゴロいることを知っていたからだ。米国ではいち早くニューヨークで感染者数が増えたけど、そんなのは当然である。ニューヨークは外国人の出入りが激しいし、百貨店の回転ドアや個人店のカウンターなどは黴菌の温床だ。さらに、クィーズやブルックリン、マンハッタンにある支那人街は、昔から不潔と分かっている。筆者もフラッシングやサンセット・パークをうろついた時、支那人の群れに吐き気を覚えたことがある。マンハッタンのチャイナタウンは日本人にも知れ渡っているけど、西歐系アメリカ人が時折見せる「エイリアンへのまなざし」が今でも忘れられない。

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(左 : アメリカの支那人街  /  右 : 支那人が経営する食材店)

  筆者が1990年代に米国にいた時のことだ。ニューヨークにある「ストランド・ブックストアー」(古書店)での買い物を済ませた後、グリニッジヴィレッジ方面に向かっていたのだが、街角でふと、高級ビジネス・スーツに身を包み、スラリとした美脚を持つ西歐系女性を目にしたので、「さすが、アメリカにはフッション・モデルのようなビジネスウーマンがいるもんだなぁ~」と感心したことがある。すると、反対方向から支那人の二人組が近づいてきたので、筆者は「香港映画に出てくる下層労働者のような奴らだ」と思いつつ、さっきの白人女性に目を向けたら、彼女は冷たい視線で、この“みすぼらしい”アジア人を見ていた。まるで、違う種類の動物、つまり同じ哺乳類とは思えない「下等生物」を目にしているような、そんな眼差しであった。確かに、奇妙なアクセントでガチョウのように喋り、下品さを絵に描いたような支那人であったから、洗練されたアメリカ人の瞳には「外来生物」並の種族に映ったのだろう。当時の様子をうまく表現できないけど、ハリウッド映画の『誘う女(To Die For)』に出てくるニコール・キッドマンみたいな女性を思い浮かべてもらえば助かる。(日本でこの作品がヒットしたのかどうかは分からない。) とにかく、映画の中でスーザン・ストーン(キッドマンの役柄)は夫の殺害を計画するが、彼女が時折見せる冷酷な表情と睨みは凄かった。

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(左 : ニコール・キッドマン  / 中央と右 : 『In Die For』に出演したキッドマン )

  話がちょっとずれたけど、ニューヨークなどでウイルスが蔓延したのは理解できる。何しろ、雑多な民族が蝟集する場所だから、「清潔さ」なんて期待できない。例えば、1990年代では携帯電話が普及していなかったから、用事があるアメリカ人はよく街中の公衆電話(pay phone)を使っていた。(ちなみに、「テレフォン・カード」は和製英語で、米国だと「コーリング・カードcalling card」と呼ばれている。) でも、筆者はなかなか使う気になれなかった。誰が触れたかも分からぬ受話器を耳に当てるなんて気持ち悪い。戦場での汚さならいいけど、日常生活での黴菌電話じゃ嫌だ。しかし、下層階級がウヨウヨいるアメリカだと、至る所に細菌やウイルスが付着しているので、感染しないようこまめに手を洗うか、免疫力をつけて健康になるしかない。

Mad about you 2(左  /  ポール・レイザーとヘレン・ハント)
  日本でもDVDが発売されている思うが、1992年から放映されたTVドラマ『マッド・アバウト・ユー(Mad About You)』に、面白いシーンがあった。主人公のポール・バックマンがマンハッタンで公衆電話を掛けた時、彼は耳に不快感を覚えたので、手にした受話器を見たら、何かベタベタしたものが附いていた。ポールが厭な顔で「何だ、これ? スープか?」と呟くと、観客の笑い声が入る。ニューヨークではサンドウッチとかスープを売る「デリカテッセン」の店が多いから、カップスープを啜りながら歩く人がいても不思議じゃない。まぁ、さすがに鼻糞とか精子を受話器に附ける人はいないと思うけど、「非常識」が「常識」のアメリカだから「まさか!」と思うのは危険である。(ちなみに、主人公の「ポール」を演じたのは、ユダヤ人男優のポール・レイザー<Paul Reiser>。女房役の「ジャイミー」を演じたのは、イギリス系ユダヤ人のヘレン・ハント<Helen Hunt>であった。レイザー氏はプロデューサーを兼ねており、軽快なジョークをドラマに盛り込んでいたから、観ていて楽しかった。意外な事に、彼はアダム・サンドラーのような下郎ユダヤ人じゃない。筆者も毎週観ていたから、今ではとても懐かしいげと、ドラマの会話や冗談をどうやって和訳したのか、ちょっと首を傾げたくなる。翻訳者泣かせのドラマなんじゃないか。)

  現在、日本人は武漢ウイルスの脅威に曝され続けているが、どうも“深刻さ”が足りないように見受けられる。一般国民は感染しないように心掛けているが、心のどこかで「まぁ、大丈夫なんじゃないか?」という楽観的判断があるらしい。しかし、イタリアやフランス、ドイツ、ブリテンの様子を見れば、感染爆発の深刻さが分かると思う。何しろ、英国のチャールズ王太子やジョンソン首相までが陽性反応だったとは、本当に驚いた。また、あれだけ観光客で賑わっていたローマやミラノ、フィレンツェがゴーストタウンとなり、パリでも外出禁止令が出されるなど、去年までのヨーロッパなら全く想像できない事態だ。呑気に構えていたヨーロッパ人は「こんな事がありうるのか?」と肝を潰していたが、あれだけ支那人が住み着いていれば当然じゃないか。当ブログで紹介した通り、イタリアには大勢の支那人労働者が移住していたし、フランスやブリテンにもチャイナタウンがある。となれば、何割かの支那人が春節で帰郷し、あの大陸から疫病を持ち帰ることだって有り得るし、本人が無自覚のまま現地のイタリア人やフランス人に移すことだって予想できる。だいたい、支那人が日本や西歐に住み着いて、何か「良いこと」があったのか? 支那人が「移住してくる」ということは、害悪がいっぱい詰まった「パンドラの壺」が持ち込まれる、という災難に等しい。日本の厄病神も何らかの「禍(わざわい)」をもたらすが、支那人ほど兇暴じゃないので、多少マシである。

不潔な支那大陸

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(左 : 支那人を嫌悪するイラスト  /  右 : 出稼ぎに来る支那人)

  大抵の日本人は学校で“記憶喪失者”に改造されている。と言えば「そんなぁぁ~」と否定する人もいるけど、前々から分かっていることに気づかないんだから、歴史の授業が“杜撰”なんじゃないか。大東亜戦争前には、大勢の日本人が支那大陸に渡り、現地の匪賊や軍閥、あるいは国民党軍や八路軍と戦い、「支那人とは、どのような連中なのか」についての知識があった。一般人でも「支那浪人」というのがいたから、大学を出ていなくても「支那通」というが結構いたものである。明治や大正時代には、多くの軍人が支那大陸に渡っており、様々な書物を記していたので、今読み返してみると、「やっぱりなぁ~」と頷けそうな“面白い”エピソードが満載だ。例えば、日本料理研究会の理事を務めた三宅孤軒(みやけ・こけん)は、支那人の不潔さに嫌気が差していた。彼はよく目にする支那人の下層労働者について書いているが、こんな連中と日本人が同じ「アジア人」と見られていることに我慢がならなかった。彼は次のように述べている。

  日本と同じ黄色人種に此劣等な支那人がゐる丈でも日本が世界各国から誤視される一因とも云へる。(三宅孤軒 『上海印象記』 料理新聞社、 大正12年, pp.26-27.)

  昔、中曾根康弘とツルんでいた伊藤憲一や新藤榮一は、支那人や朝鮮人と日本人を混ぜてしまう「東アジア共同体」を望んでいたが、普通の日本人なら「いくら黄色人種と呼ばれても、支那人や朝鮮人と一緒にされるのは御免だ !」と言いたくなるだろう。ヨーロッパ人が我々を「黄色人種」とか「アジア人」と分類するのは彼らの勝手である。日本人だって江戸時代には、西歐人を「南蛮人」とか「毛唐」と呼んでいたんだからお互い様。日本人はヨーロッパ人に従う義務は無いので、自分の皮膚を「黄色」じゃなく「肌色」と考えればいい。筆者が小学生のころ、水彩画の道具箱には「肌色」という絵の具があって、漫画を書くときはちゃんと使い分けていた。例えば、『宇宙の騎士 テッカマン』に出てくる黒人キャラの「アンドロー梅田」を描くときは、茶色の絵の具を薄めて用いたし、日本人キャラの「南城二」や「天地ひろみ」を描く時には「肌色」の絵の具を使っていた。(註 / 『宇宙騎士 テッカマン』は1975年にタツノコプロが制作したSFアニメである。興味のあるかたは、YouTubeにあるタツノコプロの公式チャンネルで観てね。) それに、「アジア人」なんて乱暴な呼称であり、トルコ人やアラブ人、ペルシア人、インド人、マレー人、支那人、朝鮮人を一括して「同じ奴ら」とするのは無茶である。正常な日本人だと、「俺達がトルクメニスタン人や契丹人と同類だって? なに言うてんねん ! アホか !」と怒鳴ってしまうだろう。

  話を戻す。支那大陸を旅行した三宅氏は、現地の労働者があまりにも汚いことに吐き気を催した。例えば、支那人車夫の不潔さには鳥肌が立つ。

   ボロボロのお菰(こ)のやうな服装で、ダン袋のやうなズボンの汗泥とに汚れた奴がめまぐるしい程澤山ゐる。(上掲書 p.27)

  日に焼けた皮膚に汗が煮染出してゐる處へ砂塵がまみれて人間色を失つた奴が、フウフウ息をはずませながら、不格好に揖棒を揚げて走る様はどうひいき目で見てもイヤになる。(上掲書 pp.27-28.)

支那人の“無神経さ”と言ったら日本人の想像を超えていた。三宅氏は続けて述べる。

  恥も外聞も眼中にないから取った虱はすぐ口中で死刑に處してゐる『虱を喰ふ』者としてこれを強て日本に求むれば乞食の群より他にあるまい、支那人の車夫は実際乞食のやうだ。(pp.28-29)

  当時の日本も貧しかったけど、支那の乞食と比べたら、日本の乞食はまだ“人間”らしい。支那に渡った日本人は実に多く、海軍中佐の桂頼三も支那人の不潔さに参っていた。支那では蚊や蠅の大群みならず、虱(シラミ)や南京虫の襲来も決して珍しくはない。例えば、桂中佐が川を船で渡っているとマラリアを伝播する蚊の大群に悩まされたという。また、陸地に近づくと蠅の大軍がやって来たというから、これじゃあ泣きっ面に「蜂」じゃなくて「蠅」である。現在の日本人はもう、天井から吊す蠅取り用の「粘着テープ」を知らないだろうが、昔は一般家庭にもあって、家に入ってきた蠅が引っかかっていた。でも、支那で遭遇する蠅は一段と凄い。この大陸に棲息する蠅は、銀色に光る不気味な生物で、天幕を張る鉄索や甲板の手摺などにズラリと集(たか)ってしまうそうだ。

  さらに、支那大陸で呑気に睡眠を取るのは危険である。単に布団を掛けて寝てしまうと、知らぬ間に南京虫や虱に噛まれ、目が覚めると脚は恐ろしく腫れ上がっている、というのだ。だから、畳二枚ほどの面積を持つ油布を日本から持参し、それを纏(まと)って眠るのが賢明であった。とにかく、アジア大陸には驚くような昆虫や爬虫類がいっぱいだ。坂本龍一みたいなエコ左翼は、「自然と共に生きる」とか「大自然に囲まれた静かな生活」なんてほざくが、文明人は自然と離れて暮らしているから安心できるのだ。支那やベトナム、タイ、ラオスに遠征すれば、目玉が飛び出るほどの兇暴な虫がタカってくるから、早く日本に帰りたくなる。桂中佐が体験した昆虫の群れは聞くだけでも恐ろしい。一般の日本人は「蜉蝣(かげろう)」と聞けば、何か優雅な情景を思い浮かべてしまうが、支那では恐ろしい飛行物体で、これが群がると辺りが暗くなるし、目も口も開けて居られないという。(桂頼三 『支那物語 長江三十年』 同文館、大正6年、 p.176.)

  桂中佐は支那の「大自然」ばかりでなく、支那人の「不潔さ」と「ゲテモノ喰い」にも驚いていた。噂で聞いた通り、支那人は刺身といった「ナマモノ」を食べず、もっぱら煮物や蒸した料理を食べるという。しかし、当時の支那人でも「生の物」を随分食べていた。例えば、桂中佐によると、彼らは活きた蝦(エビ)を手に取り、その皮を剝いて生のまま齧(かじ)りついていた。日本人ならゾッとしてしまうが、現在でも、無頓着な支那人は汚染された上海蟹を食べてしまうし、豚や猿の脳味噌、サソリ、ロバ、蝉(セミ)の幼虫、犬のペニスだって堪能する。他にも、支那人は驚異的な食材を口にする。例えば、鶏の雛(ひな)が孵化する前に茹でる「毛鶏蛋」は、鶏の形が判るから気持ち悪いし、大胆不敵な奴は、生で蛙(カエル)に噛みつき、そのままムシャムシャと食べてしまうそうだ。もっと凄いのは、子鼠の「踊り喰い」という料理で、赤ん坊のネズミを生きたまま、醤油かドレッシングに漬けて食べてしまうのだ。筆者はこれを食べる支那人の動画を見たけど、日本の女性には勧められない。たぶん、目を背けて悲鳴を上げてしまうし、食べられる子鼠が「チュー」と鳴くから、悪夢にうなされる。したがって、高校生以下の日本人は視聴禁止。

  とまぁ、こんな調子だから、普通の支那人がコウモリやタケネズミのバーベキューを食べたっておかしくはない。彼らは珍しい食材ほど精力がつくと思っている。現在、我々は支那から発生した武漢ウイルスに苦慮しているが、支那発の疫病なんて大昔からある。桂中佐も支那の惨状には理解を示していた。

  理由の如何は兎も角、支那人間には常に悪疫が流行して居て、増殖率も高いが、その死亡率は一層高いものであるけれども、統計もなく又防疫の手段も講ぜられず、大概の病人は医者にも見せぬのであるから、支那人間に現に悪疫が流行して居ても、外見上少しも判らぬのであつて、その存在せぬのでは決してない。だから、病気の潜伏して居るのが、果たして何(ど)の辺であるのかも随て知ることが出来ない。(上掲書 pp.173-174.)

  ホント、支那は今も昔も変わらない、ということだ。支配者は庶民が何人亡くなろうが「オレの知ったことではない」という態度だし、たとえ統計を取っても、治療や予防措置を講じる訳じゃない。支那人の医者は利益を優先するから、「医は仁術」なんていう概念は皆無。感染が怖いから患者に近づかないし、悪徳を専業とする医者なら偽薬を売って大儲けだろう。幕末の頃、高杉晋作が上海に渡航した時、コレラの流行で悲惨な目に遭ったそうだ。支那の河には犬豚羊の死骸が廃棄され、その上に土人(支那人)の死体が積まれていたというから、河の水が濁っていたのも当然だ。しかも、船からは糞尿が垂れ流され放題。だから、こんな所から引いた水を飲んだら大変である。訪問団一行が旅館でどんな「水」を飲んだのか判らないが、大村藩の碩太郎、傳次郎、紋藏の三人が病に罹り、酷暑ということもあって病死したそうだ。(納富介次郎『上海雑記』、小島晋治・監修、『幕末明治 中国見聞録集成』、第1巻、ゆまに書房、平成9年、p.8.)

  支那人は体も不潔だが、その精神も穢れている。習近平に正直とか誠実さを求めるのは、「鰐の恩返し」よりも非現実的だ。この赤い皇帝だけでなく、一般の支那人だって自分の利益となれば平気で嘘をつく。桂中佐も支那人の下劣さに辟易していた。

  虚言(うそ)をつくのは泥棒の初なりてふことが真実であるとすれば、支那人は一人として泥棒ではない。老幼貴賤の差別なく、虚言を吐くのを何とも思わぬ。全く平気の平左なのである。政事上の談判から、日常物品の売買に至る迄、信用し得べきものは一つもない。しかもその虚言たるや、後までもなく直にその場で露顕することでも、平気で言ふ。そしてその露顕に当りて詰問せられても、『だって、彼の場合、さう言ふ外に仕方がないではないか』と、露顕するのは覚悟の前であるに至っては、真に驚かざるを得ない。日本人でも虚言を吐く人物は決して少なくない。けれども、その虚言が露顕した場合には、少し位はきまり悪さうな顔をする。(上掲書 pp.181-182.)

  まさしく、支那人の性格は日本的尺度で測る事はできない。日本人の泥棒だって嘘をつくが、警官に尋問されれば「もはや、これまで」と観念するし、「出鱈目な事」を口にすれば、動揺して冷や汗が出てくるものだ。ところが、支那人は講談師よりも流暢に嘘を述べることができる。昔、古今亭志ん朝の落語で、旦那に嘘をつく丁稚(でっち)のエピソードがあったけど、日本人は嘘が下手である。確かに、仕事をサボった奉公人がスラスラと言い訳を述べるが、どこかに矛盾する話が出てきたり、嘘がバレないかと焦ったりするから、観客は思わず笑ってしまう。日本人は詐欺師を「特殊な例外」と見なしているが、支那人は「正直者」こそ「例外」と思っている。つまり、「腹を割って本音を吐露する奴」は珍獣の類いで、正直者は損ばかりする愚か者ということだ。

支那人に生まれた不幸

  日本のマスコミはPCR検査の拡大とか首都封鎖の話題ばかりに熱中するが、テレビ局に潜む反日社員は、「支那がコロナウイルスの発祥地」という点をボカしているから変だ。むしろ、この事実を隠蔽したいのか、わざと言及しないよう努めている。習近平は去年の時点でウイルスの発生を知っていたのに、緊急事態を公表せず、武漢の封鎖を遅らせていた。たぶん、武漢だけで被害を収めると「支那人だけの損害」になるから、全世界に拡散させて「みんなを不幸にすればよい」と考えたのかも知れない。何しろ、支那は米国の標的となり、経済的な包囲網の中にあったから、国家存亡の危機、すなわち共産党が崩壊しかねない状況にあった。だから、米国にウイルスで反撃し、ついでにヨーロッパと日本にも被害を与えれば、危機の打開策となる。もし、トランプ政権が北京政府を窮地に追い込むなら、米国も経済的に苦しみ、疫病不況で共に沈没すれば「痛み分け」だ。しかも、こうした世界的混乱は北京政府にとって絶好のチャンスだ。ウイルス騒動の“どさくさ”に乗じて尖閣諸島を占領すればいいし、支那国内を引き締めるために「台湾討伐戦争だ!」と嗾(けしか)ければ、習近平の反対派も従わざるを得ない。

  地上波テレビしか観ない日本人は、週末の娯楽が激減して愚痴をこぼしてばかり。「外出禁止なんて、つまらない !」とショボくれているが、支那に対する報復をどう考えているのか? 確かに、支那人の観光客をドンドン招き入れた安倍総理や二階俊博は赦し難いが、武漢ウイルスを全世界に広めた支那はもっと赦せない。ところが、テレビ朝日などは支那人女優の高陽子(こう・ようこ)を起用して、北京政府擁護に努めていた。支那人の工作員みたいな高は、支那がウイルスの封じ込めに成功し、その兆しは徐々に明らかとなっている、と言い出す始末。まったく、図々しいとしか言いようがない。まるで、日本がウイルス対策に後れを取ったから、「北京政府に見習え !」と言っているようじゃないか。そもそも、この新型ウイルスを世界に広めたのは誰なんだ ? 日本人は「お人好し」だから支那人を咎めないが、アメリカ人なら裁判沙汰して、巨額な賠償金をもぎ取るぞ。

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(左 : 米国籍を取得した支那人の子供  / 右 : 歐米にやって来る支那人労働者 )

  インターネットのサイトから“ヤバイ”情報を得ている日本人は、支那が発表する感染者数や死亡者数を疑っているから、イタリアよりも深刻とは思っていないだろう。なぜなら、絶滅収容所に隔離された支那人患者の数や、生きたまま焼き殺された死亡者数は不明だし、実際の感染者だって10倍どころか100倍ということも考えられるからだ。習近平が「終熄宣言」を口にすれば、支那の下っ端役人はつべこべ言わず、黙って皇帝に従う。たとえ、田舎で100名の感染者や死亡者が出ても、報告書には50名とか20名で、とんでもない奴だと「ゼロ」という場合だってある。例えば、自宅で亡くなった者を「自然死」としてカウントすれば「発症者」には含まれないし、感染を訴えた患者は病院から放逐し、「完治した者」と見なせばいい。焼却した遺体だって正直に報告するとは限らないから、幾らでも誤魔化せる。地方の役人は帳簿から感染者を“削除”し、「今月の死亡者は居ません !」と報告すればOK。日本のジャーナリストが支那の嘘を暴くことはないし、たとえ病院や遺体焼却所へ足を運んでも、「真実」を摑める訳じゃない。門前払いか投獄がオチである。支那では真相を暴くジャーナリストの「失踪」ということが度々あり、家族でさえ何処に“消えた”のか分からない。

  テレビや新聞は「支那が疫病の発生地」という事実を避け、専ら国内の話題や首都封鎖に言及し、一般視聴者を「政府批判」へ誘導しようと謀っている。だが、保守派国民はテレビ局の悪事を見抜いているから騙されない。支那人が入国したから、こんな事態になったことを分かっている。となると、在日支那人や帰化支那人は、困った立場になってしまう。なぜなら、マスコミが支那擁護に努めれば努めるほど、「支那人は特別」で「劣等民族」という点が強調されてしまうからだ。もし、日本で暮らす支那人が在日アメリカ人や帰化西歐人と「平等な外人」ならば、“特別な配慮”は必要無いだろう。なるほど、日本に長期滞在するアメリカ人やイギリス人にも不良や悪党がいて、犯罪に手を染める奴もいる。しかし、日本のマスコミは逮捕された容疑者をニックネーム(偽名)で報道しないし、素性や人相を隠すこともない。仮に、米軍の兵卒が強姦事件を起こせば、左翼の雑誌記者が根掘り葉掘り調べ上げて、徹底的に追求するだろう。ただし、黒人やヒスパニックの海兵隊員が逮捕されると、「人権」とか「人種的配慮」で顔写真を公表しないことがある。

  ところが、在日支那人か帰化鮮人になると、急に「サイレント・モード」か「隠蔽工作」になる。左翼知識人は支那人や朝鮮人の犯罪を詳しく報道すれば、一般国民が人種偏見に基づく“差別”を行い、無辜(むこ)の東北アジア人に対し“理不尽”な偏見を抱くに違いない、と思っているのだ。でも、どうして日本人は特定のアジア人に嫌悪感や警戒心を持つのか? それは、日本国民が本能的に悪質民族を嗅ぎ分ける能力があるからだ。日本人は中流階級のアメリカ白人が会社の金を横領したり、恋愛のもつれから殺人を犯しても、「まぁ、世の中にはそんな奴もいるだろう」と理解し、よくある社会事件と考える。しかし、支那人が強盗犯や殺人鬼として捕まれば、「一体どんな野郎なんだ?」と興味を示すし、「何でこんな奴が日本に住んでいるのか?」と疑問を抱く。なぜなら、日本には不正入国や不法滞在の支那人が多いし、そもそも我々は支那人を歓迎していないから、「あんな奴らと共存したくない!」と思う人がほとんど。

  地上波テレビの報道局員は、こうした日本人の本音を分かっているし、彼ら自身が誰よりも支那人を見下しているので、どうしても「支那人保護」の姿勢になってしまうのだ。もちろん、テレビ局の左翼分子は「俺達は支那人を差別しないぞ!」と反撥する。だが、支那人に対する“特別配慮”や“忖度報道”を指摘されれば、明確に反論できまい。左翼陣営は「一人の支那人が罪を犯したからといって、全部の支那人が犯罪者ではないぞ」と主張するが、心の底では「支那人だと悪人が多いから、一人でも犯罪者が出るとマズい !」と思っている。日本に存在する極少数の“まともな”帰化支那人や帰化鮮人は、「どうして主要マスコミは、支那人の殺人鬼や朝鮮人の強姦魔を報道する時、過度に気を遣い、遠慮がちになるのか?」と不機嫌になるはずだ。確かに、支那人や朝鮮人も人間で、大勢集まれば「不良分子」もいるから、兇悪事件を引き起こす奴がいても不思議じゃない。それなのに、支那人や朝鮮人だけを「特別扱い」にするなんて“おかしい”じゃないか。左翼知識人や文部官僚が、支那大陸と朝鮮半島の暗黒史を教えず、敗戦後にのさばった第三国人ちか、朝鮮総連や韓国民団の恐ろしい過去を歴史の授業から“削除”するというのも、おかしい。これじゃあ、「劣等民族の恥部を曝してはならない!」と禁じる通達と同じだ。

  一方、日本の学校教師は歐米人に対しては遠慮が無い。日教組の社会科教師は、「アメリカ白人はインディアンを虐殺し、黒人奴隷を搾取した!」とか、「西歐列強はアジアとアフリカを侵掠した」、「白人は植民地の民衆を家畜にして容赦なくこき使った !」と言いたい放題。在日アメリカ人やイギリス人の子供がどんなに傷つくか、なんて考えない。ドイツ人に対しても同様で、「ドイツ人はユダヤ人を迫害し虐殺した戦争犯罪者である !」とか、「ナチスの罪は千年経っても消えることはない !」と罵る。なら、「支那人はいつの時代でも極悪人」と述べてもいいじゃないか。授業の副読本として、子供達に黄文雄の『中国人の黒い舌』とか村松暎の『儒教の毒』を読ませれば、支那人に興味が湧くぞ。日本の子供が現実の支那人を知れば、宣伝工作に引っかかることが少なくなるだろう。

  日本の大手メディアは、余程「習近平様」と「支那人の旦那」が好きなのか、「武漢肺炎」とか「武漢ウイルス」という言葉を避けて、「新型コロナウイルス」という名称を用いている。しかも、今回のウイルスが「自然発生的なウイルス」なのか、「それとも人工的に改造されたウイルス」なのかという検証さえ無い。台湾出身の科学者で、毒素兵器の専門家である杜祖健(アンソニー・トゥ)博士が河添恵子のネット番組に出演し、「どうも人の手が加わったイウルスじゃないか?」との見解を述べていたけど、地上波では杜氏の出演は絶対に無理。岡田晴恵や久住英二といった「御用専門家」ばかり。筆者は決定的な証拠を持っていないが、おそらく「武漢ウイルス」は生物兵器の一種で、支那人が研究していた試作品なんだろう。

  とにかく、日本の一般人は1ヶ月もすれば過去の事件を忘れてしまうので、支那人が病毒研究所で何をしていたのかを追求しないだろう。また、既に習近平がウイルス研究の痕跡を消去したり、証拠となる施設を爆破しているので、歐米の科学者が支那の研究所を捜索しても、人工ウイルスの物的証拠を見つけるとは限らない。したがって、習近平が今回のウイルス騒動を「米国による陰謀だ !」と言い張る可能性は高いし、歐米諸国に根付いた支那人が様々な形で宣伝工作を行うので、事件の発端や真相は永遠に闇の中だ。日本のマスコミなんか自主的な支那人の走狗に成り下がっている。まるで、ウイルスの蔓延を「自然災害」の如く見なしているんだから呆れてしまう。有り得ないと思うけど、評論家の中には「経済的に疲弊した支那を援助しよう」と言い出す奴が出てくるんじゃないか。支那で工場を運営する企業から、こっそりと裏金を貰っている連中もいるから、本当に油断ならない。

  日本で生まれ育った支那人や朝鮮人の子供は、表面的に「日本人もどき」となるが、肉体的には「異民族」なので、二つの国家に挟まれ精神が歪んでしまうことが多い。高度な文明を誇る日本で教育され、日本人の友達と日常生活を送る支那人の子供は、支那に帰っても馴染めず、再び日本に舞い戻ってくる。でも、日本は彼らの「祖国」ではない。恥ずかしい同胞と忌まわしい歴史を引き摺る支那人は、日本人の仲間になれないから、親を恨む代わりに、日系人を恨むようになる。つまり、「支那人」と呼んで彼らを排斥する日系日本人や、支那人が隠したい同胞の恥部を暴く保守派知識人を嫌ってしまうのだ。さらに、在日支那人が厭になるのは、こうした日系人が「嘘」ではなく「事実」を述べていることである。捏造なら反論できるけど、真実では抵抗できない。ちょっと賢い支那青年だと、「なんで俺は支那人なんかに生まれたんだろう?」と嘆いてしまう。一般の日本人は書類形式を整えれば在日支那人が帰化して「日本国民」になれる、と思っている。しかし、何千何万人の支那人が帰化すれば、「支那系日本人」じゃなく、日本国籍を持つ只の「華僑」集団となってしまうだろう。「支那」というパンドラの壺から飛び出てきた支那人は、元の痰壺に戻すべき存在だ。残酷なように思えるけど、現実政治(real politics)では残酷が付き物である。



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不潔なインド

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(左 : 汚い川に入るインド人  /  右 : 劣悪な便所に嫌気が差すインド人女性)

  1月下旬から、武漢肺炎の報道がマスメディスアのトップ・ニュースとなっている。地上波のワイドショーは、安倍政権を批判すべく朝から晩まで感染の不安を煽り、最近はPCR検査で潜在的な感染者を炙り出そうと躍起だ。しかし、もっと熱心なのは支那人擁護である。日本人が支那人に嫌悪感を感じるのは何としても避けたい。そこで、マスコミは支那人への批判を軽減するには、国内での感染状況に焦点を当てるのが一番と考えた。常識的に原因を考えてしまうと、日本国民が支那人による災禍を恨むようになるから、防疫対策の遅れや景気の悪化に話題を移す方がいい。日本人は鰯(イワシ)のように靡(なび)く習性があるから、ちょいと舵を切ってやれば簡単に動く。

  一方、イタリアやアメリカ、ブリテンなどで武漢肺炎が広まったことで、感染拡大の元兇である習近平は万々歳。なぜなら、西歐の指導者は自国民の安全を最優先に考えるから、習近平への攻撃は後回しとなる。もし、支那人が“良心的”ならば、他国へ広めないよう、自国を封鎖して潜在的感染者を出さないよう努めるが、支那人は悪魔よりも狡猾だから、なるべく多くの支那人を外国へ輸出しようと密かに謀っていた。仮に、コロナウイルスの漏洩が偶発的なら、感染拡大の防止は不可能だから、全世界が不幸になるよう日本やアメリカ、ヨーロッパに拡散させた方がよい。支那人だけがウイルスに苦しむのは損である。ところが、この極悪民族は日本人を道連れにして地獄に落ちるより、日本人だけを蹴落として自分だけは助かろうとする連中だ。したがって、こんな支那人に永住権を与え、数年経てば国籍取得を許し、多民族共生を讃美する議員や官僚、またこれを促進する大学教授や弁護士などは、とても日本人とは思えない。

  しかし、哀しいかな、高等教育を受けた日本人は、知らないうちに洗脳されている場合がほとんど。大学でピンク左翼に染まったインテリ国民は、「アジア人を排除すべし」と考えない。もし、「移民排斥は正しい」と聞けば、「あら嫌だ、右翼かネオナチの言い草ねぇ~」と眉を顰める。でも、高学歴で高額所得の上流国民は、アジア移民のいない高級住宅地に住んでいるから偽善的だ。(大阪の西成区や朝鮮人部落に自宅を構えるインテリなんていないぞ。) 久米宏風の“気取り屋左翼”は、水商売で働くフィリピン人やタイ人に同情を示すが、社交界で友人となるのは、洗練されたマナーを持つ西歐白人とか、社会的地位の高いビジネスマンだったりする。「人権尊重」の奥様方は、あえて南鮮人を排除しないが、かといって朝鮮語を学んだり、朝鮮風住宅を建てることはない。大学で勉強するのはアングロ・サクソン人が話す英語で、大金を払って購入するのも西歐の美術品や北歐の家具であり、自慢するのもフランスかイタリアで評判の高級ワインだったりする。日本人女性が財界や政界のパーティーに出席する場合、クリスチャン・デオールやイヴサンローランのイヴニング・ドレスを着ることがあっても、チマ・チョゴリを着てゆくことは絶対にない。

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(左 : 日本への移住を目指すフィリピン人女性   / 中央 : 乳房を露出する朝鮮人女性  /  右 : アフリカに住む黒人女性)

  ヨーロッパ人と同じく、日本人も同じ民族で仲良く暮らす方が遙かに素晴らしい。異民族との共存なんて幻想だし、人種的多様性などは国家破壊を目論む左翼のまやかしである。もし、多文化主義者の学者が、同質的な日本社会を「けしからん!」と否定するのであれば、江戸時代の日本人は不幸な日々を過ごしていたことになるじゃないか。明治維新で海外渡航が許されるようになったが、当時の日本人が「やった ! 倒幕で朝鮮人や支那人と一緒に暮らせるぞ !」とはしゃいだ事は無かったぞ。むしろ、朝鮮半島に住む鮮人を目の当たりにして、「なんだぁぁ~、この乞食よりも汚い賤民は・・・!?」とビックリ仰天。さらに、悪臭漂う朝鮮を通り越して、支那大陸に入ると更に驚く。漢籍の中に登場する聖人君子と違って、現実の支那人は不潔な苦力でなければ、高位高官の詐欺師か残酷がトレード・マークの匪賊、あるいは生まれながらの殺人鬼といった連中だ。安南(ベトナム)に行くと、多少は残虐性が減るけど、庶民が貧しく不潔なのが一般的。ある日本人旅行者が列車の窓から、うずくまるベトナム人を見みたら、野糞をしていたというくらい。まぁ、現代でも支那人は電車の中で脱糞するから、アジア人に清潔さを求めるのは酷だ。

  不潔と言えば、インド人を忘れてはならない。インド人というのは独特の感性を持っているのか、鼻と口が曲がってしまうほど臭いガンジス川でも水浴びができてしまう民族だ。彼らは動物の死骸やゴミが浮いていても平気である。インド人の子供や老人は免疫力が桁外れなのか、嬉しそうに顔や体を洗って元気溌溂。除菌クリーナーで便座を拭いている日本人には到底真似できない。でも、こんな国が真夏を迎えたらどうなるのか。未だにインドは階級社会で格差社会。自宅に便所が無い庶民も多く、近くの穴や共同便所で排便だ。インドの田舎だと約50%の家庭が屋内の便所を持っていないので、排便の時は外に出て、草むらや林の中で用を足すらしい。さすがに都会では“路上排便”は少なくなったけど、ムンバイに住むある映画プロデューサーの夫人が外出したら、野糞をしている人を見かけて驚いたという。

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(写真  / インドにおける野外便所 )

  下水設備や衛生施設が普及していないインドだと、都市部でも7.5%の人々が適切なトイレを利用できず、一般世帯の39%くらいしか便所附自宅に住んでいなそうだ。こんな状況だから、ボリウッド(インドの映画界)は民衆が共感できる『トイレ : ある愛の物語(Toilet : Ek Prem Katha)』というラヴ・コメディーを作った。日本人だと信じられないが、インドではそれなりにヒットした。この作品では、主人公のジャヤが新婚の女性という設定になっている。だが、彼女は夫のもとを離れてしまう。なぜなら、二人の新婚家庭には屋内便所が無いからだ。近代的生活に憧れるインド人女性には、トイレ無しの住宅なんて我慢できない。野外便所が普通の田舎では、排便に出掛けた女性が強姦されるという事件がよくあるから、野原で下半身を露出するのは危険である。

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(左 : 街角に貼られた円河の宣伝ポスター  /  右 : インド人の一般女性)

  日本人女性がインドを旅行すれば、ちゃんと綺麗な便所が設置されているホテルに泊まり、外人観光客が訪れる施設を巡ると思うが、地方の観光地だと衛生的なトイレは期待できない。たぶん、真夏の便器から漂う臭気は強烈だから、排便を断念する人もいるだろう。一般の観光客だと悲鳴を上げて卒倒するんじゃないか。普通の日本人は口にしないけど、インドには色々な雑菌やウイルスが存在する。だから、インドを旅行するなんて、黴菌を浴びに行くようなものだ。仮に、たけし軍団が「お笑いウルトラ・クイズin インド」を企画しても、インダス川に飛び込む“罰ゲーム”は恐ろしくて出来ないぞ。もし、若手藝人が何らかの病原菌に感染したら、番組のプロデューサーやディレクターは左遷か降格だ。バブル時代には無謀な企画が数々あったけど、平成から令和の不況時代だと無理。

牛の小便は特効薬?

  日本では武漢ウイルスが流行し、老人から幼児まで、アルコール消毒液で両手を殺菌だ。一部の人々は、無駄と分かってもマスクをしたり、と涙ぐましい努力で感染拡大防止に努めている。しかし、インドでは別の方法が“実行”されていた。何と、牛の尿を呑んでコロナウイルスを退治しようとする集団がいたのだ。スワミ・チャクラパニという人物に率いられた「牛尿党(gaumuta party)」のメンバーは、コップに牛の小便を注ぎ、その液体を一気に飲み干していたのである。("Coronavirus : Group hosts Cow urine party, says COVID19 due to meat-eaters", The Hindu, March 14, 2020.)

Hindus Cow piss 1(左  /  牛の尿を飲み干すインド人)
  このチャクラパニという党首は、「アキル・バラト・ヒンドゥー・マハサバ(Akhil Bharat Hindu Mahasabha)」という団体の議長であるという。彼によれば、今回の新型コロナウイルスは、非菜食主義者を罰するためにやって来た神様の化身であるそうだ。つまり、肉を食べる奴らを懲らしめるために、神様がウイルスに化けて現れたという教義らしい。なるほど、牛を神聖な動物と考えるインド人にしたら、ハンバーガーを食べるヨーロッパ人や日本人は「けしからん連中」だから、病気になっても“当然”という理屈だ。件(くだん)の党首様は歐米の記者に向かって、「君らが動物を殺す時は、破壊をもたらすある種のエネルギーを創りだしているんだぞ !」と言い放ち、「世界の指導者達は、インドから牛の小便を輸入すべきだ。なぜなら、全知全能の神様はインドの牛にしか存在せず、外国で育った牛には居ないんだからな !」と説教した。もちろん、インド政府や衛生当局のクリティ・ブシャン局長は、牛の尿にウイルスを殺す効果は無く、科学的根拠のない話である !」と否定したそうだ。

Hindus cow piss 2(左  / 牛の小便をタンクから出すインド人 )
  確かに、動物の尿を飲んだからといって、ウイルスの感染を防止できる訳じゃない。たぶん、大多数のインド国民は「馬鹿らしい迷信だ !」と思っているはずだ。しかし、「牛尿党」の一般党員は信じている。サヴィタという主婦は自慢げに、「私は毎日これを飲んでいるわ! これ異常に健康的なものは無いのよ ! 私の家族も牛の尿を毎日飲んでいるの !」と笑顔で話し、グラスに注いだ牛の尿を啜っていたそうだ。「世田谷自然食品」とか「青汁」なら分かるけど、牛が排出した黄色い液体なんか御免である。でも、まぁ、「病は気から」という格言もある。牛の小便を飲んで元気ならいいじゃないか。ただし、目の前で牛乳ならぬ「牛尿」を飲まれては、ちょっと距離を置きたくなる。インドのネレンドラ・モディ首相は、「清潔なインド(Swachh Bharat)」運動を提唱し、各家庭に屋内便所を普及させる、と意気込んでいたが、それなら同時に「啓蒙活動」も展開した方がいいんじゃないか。

  筆者は「アジア人が全て不潔」と断定している訳じゃない。単に「異なった風習や信仰、伝統文化を持つ外国人を日本に招くのは危険だ」と言いたいだけである。特に、アジアやアフリカの異民族を受け容れると、日本人の拒絶反応を増加させるばかりか、日本社会の破壊にも繋がってしまうのだ。多文化主義というのは、ホスト国の住民に「我慢」と「譲歩」を要求する一方で、異質な移民の主張を正当化するイデオロギーとなっている。これは有害思想以外の何物でもない。もし、普通の日本人が支那人や朝鮮人、あるいはインド人やアラブ人の慣習を嫌うと、いくら「自然な拒絶反応」であっても、日本人による「民族差別」とか「異国人への偏見」と見なされてしまうのだ。とりわけ、大学時代に文化人類学とか国際関係論、社会学などの講義を受けた日本人ほど、アジア移民に譲歩し、卑屈な態度を取ってしまう。一般的に、高学歴の日本国民は“無自覚”のリベラル派、つまり確固たる信念無き“なんちゃって左翼”になりやすい。

  多文化主義の弊害は具体例を考えてみれば解るはずだ。例えば、インド人の青年が日本に移住し、日本語を習得して寿司職人の修行を始めたとする。貧しいアジア国から来た移民が日本人以上にコツコツと働き、熱心に努力すれば、巷の日本人は「大したもんだなぁ~」と感心するだろう。しかし、この見習い職人が休憩時間に便所に入り、左手の指で肛門を洗えば、「えぇぇぇ~、嫌だぁぁ !!」と身震いし、彼が握る寿司をつまむことはないはずだ。いくら、この見習い職人が「ちゃんと洗面所で石けんを使って手を洗いました」と述べても、日本人の顧客は彼の寿司店を敬遠し、常連客でも寄りつかなくなる。もちろん、インド人の観光客がこの寿司店を嫌い、同胞の寿司を食わないのは理解できる。インド人によれば、左手は不浄なので、見ず知らずの他人が両手を使って握る寿司なんか、とても食えたもんじゃない。なにせ、下層民が触れた食器でさえ厭がるんだから。したがって、もし、この見習い職人が下層階級の出身者なら、上流階級のインド人は決して彼の料理を食べないだろう。実に酷い話だが、これはインド人の伝統的風習だから非難されることはない。

    ところが、日本人に「左手は不浄」と見なす文化は無いから、インド人が握った寿司を拒めば、不合理な「民族差別」となる。机上の空論をもてあそぶ大学教授は、気軽に「異文化との共存」を説くが、実際の社会では文化の衝突や軋轢の方が多い。インド人からすれば、紙で肛門を拭く日本人の方が汚く、水を掛けて、肛門を入念に洗浄するインド人の方が清潔だ。一般の日本人は、こう説明されると反論しにくく、感情的に反撥するしかない。だが、もし、日本人がインド人の風習を否定すると、異文化の否定に繋がってしまい、「違った文化を尊重すべし」という多文化主義のドグマ(教義)に反してしまう。だが、多文化主義の“洗脳”を受けていない普通の日本人だと、「そんなの嫌だ ! ふざけんじゃねぇ!」と激怒してしまうから、こうした人々は「ネオナチ」とか「排外義者」と呼ばれてしまうのだ。テレビに出てくる御用学者はよく「寛容の精神」を説くが、そんなのは「屈服の根性」に過ぎない。日本は「日本人のホームランド(自宅のような国家)」であるから、「嫌なものは嫌」と言える自由があるし、不愉快な外人を排除するのは我々勝手である。

妊婦は異質なものを排斥する

  高学歴社会に生きる日本人は、異国人を排除することに抵抗感を持っている。日本では左翼教育が徹底しているから、学校の先生が「支那人とか黒人を毛嫌いしてはいけません!」と教えれば、大半の生徒が「はぁぁ~い。わかりました !」と素直に従う。ところが、人間は“本能的”に不気味なものや未知のものを避ける。例えば、癩病(らいびょう)患者とか、奇妙な痣(あざ)がある人を見ると怪訝な顔を表すし、違った種族の移民を見れば不快感を抱く。行動においても危険を察知するようで、膿(うみ)とか血を見ると恐れるのは、それに触ると感染するかも知れない、と考えてしまうからだ。テューレン大学の心理学者であるダミアン・R・マレー (Damian R. Murray)博士とブリティッシュ・コロンビア大学のマーク・シャラー(Mark Schaller)博士は、病原体から身を守ろうとする行動的免疫システムがあることを説明した。見知らぬ土地から来た者は、どんな病気を持っているのか判らない。保菌者が元気でも、感染者が死んでしまうケースはある。昔、アメリカ大陸に住んでいた原住民が、見知らぬヨーロッパ人と接触したせいで麻疹(はしか)や天然痘、百日咳などに罹って死亡、あるいは重症になったことは有名だ。

Damian R. Murray 1Mark Schaller 1David Amodio 1









(左 : ダミアン・R・マレー   / 中央 : マーク・シャラー  /  右 : デイヴッド・アモディオ )

  我々は危険な細菌を保有する「よそ者」ばかりではなく、馴染みのない風習を持つ外人に懸念を示す。たぶん、親しみの無い人や物に遭遇すると不安になるからだろう。ニューヨーク大学で心理学を教えるデイヴッド・アモディオ(David M. Amodio)教授によれば、我々は脅威に曝されたり異人に遭うと、身体が凍結し、闘うか逃げるかの準備をするらしい。そして、もし、その人物を不快と判断すれば、脳内にある島皮質(insula)に衝撃が走り、強い嫌悪感が巻き起こる。アモディオ氏の指摘で興味深いのは、赤ん坊を身籠もった女性が、より自己中心的となり、異質なものに対する警戒感や嫌悪感が強くなることだ。これは妊婦が胎児を守るべく、病原菌を持っていそうな人や潜在的な危険物に対し敏感になるためだろう。子供だって本能的に「悪そうな人」と「親切そうな人」を嗅ぎ分けることができる。もし、防禦能力が低い子供が多民族主義者に従い、どんな人間に対しても警戒心を抱かず、「オープンな態度」で接触したら、どんな災難に遭うのか、想像しただけでも恐ろしくなるじゃないか。

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( 写真  /   保護されるべきタイプの弱者 )

  したがって、ある地域に住む民族が、よそからやって来た流れ者に警戒感を抱くのは当然だ。例えば、日本の幼稚園児が独りで、いきなり通りすがりの黒人に遭遇し、聞いたこともない言語で話しかけられたら、どうしていいのか分からず、小さな体が凍りつく場合もあるし、奇妙な容貌に恐れをなして泣き出すこともある。日本よりも流動性の高いヨーロッパでも、一般人があまりにも異質なアフリカ人やユダヤ人を見れば、嫌な気持ちになるだろう。日本の知識人はユダヤ人を嫌った西歐人を非難するけど、第19世紀のユダヤ人なんて本当に不愉快な連中だった。たとえ裁判官や科学者になった人物がいたとはいえ、一般のユダヤ人はゲットーから抜け出た賤民と同じで、近づきたくはない。特に、社会主義やマルクス主義、無政府主義などに魅了されたユダヤ人を目にすれば、日本人だってゾッとするはずだ。

Karl Radek 11Genrikh Yagoda 1Ilya Ehrenberg 2Bela Kun 11







(左 :  カール・ラデック  / ゲンリフ・ヤゴーダ  /  イリヤ・エレンバーグ / 右 : ベラ・クン  )

  例えば、カール・マルクスを始めとして、日本でもファンが多いレオン・トロツキー、如何にも下品な顔つきのカール・ラデック(Karl Radek)、メンシェビキの指導者であったユーリ・マルトフ(Julius Martov)、ソ連の秘密警察(NKVD)の初代長官を務めたゲンリフ・ヤゴーダ(Genrickh Yagoda)、ドイツ人の婦女子を輪姦せよと叫んだイリヤ・エレンバーグ(Ilya Ehrenberg)、テロリストのアイザック・シュタインバーグ(Isaac Steinberg)、ハンガリー人民共和国の首相になったマチヤス・ラーコシ(Mátyás Rakosi / Mátyás RosenfRosenfeld)、ハンガリー・ソビエト共和国の独裁者になったベラ・クン(Béla Kun)、放埒な性教育を推奨した変態のジョルジ・ルカーチ(György Lukács)、米国から追放された共産主義者の革命家エマ・ゴールドマン(Emma Goldman)、ブラジルの全体主義者であったウラジミール・ヘルツォーク(Vladimir Herzog)など、数え出したらキリがない。呆れてしまうけど、ユダヤ人には共産主義者とか極左分子が非常に多い。でも、普通の日本人で真っ赤なユダヤ人を即座に列挙できる者は極僅かだろう。大抵の日本人は「ヤゴーダとかエレンバーグなんて聞いたことがないなぁ~」と言うはずだ。それも、そのはず。学校で歴史を担当する教師が“意図的”に隠しているからだ。左翼教師の役目は共産主義者にとって「都合の悪い過去」を闇に葬ることで、赤色分子に対抗する健全な日本人を育成することではない。

Matyas Rosenfeld 1Gyorgy Lukacs 2Emma Goldman 1Vladimir Herzog 2








(左 : マチヤス・ラーコシ  / ジョルジ・ルカーチ  / エマ・ゴールドマン  / 右 : ウラジミール・ヘルツォーク )

  武漢ウイルスが流行する前、安倍総理や二階幹事長は「支那人の皆さぁぁ~ん、いらっしゃい!!」と呼びかけていたが、京都や鎌倉の日本人は本当に歓迎していたのか? 確かに、土産物店や飲食店などで働く従業員は、「ゼニ儲け」だから“仕方なく”支那人を接客していたが、私生活に戻れば「何だ、あんな奴ら !」と嫌っていたはずだ。ホテルの清掃員なんか、「支那人の客が泊まると、ベッドや洗面所とか便所だけじゃなく、カーテンとか床まで汚すから、普段より清掃に何倍もの時間がかかっちゃうのよねぇ~」と愚痴をこぼしてばかり。こんな惨状だから、観光業に携わっていない庶民は、支那人や朝鮮人、および東南アジア人の到来で大迷惑。街中に、不気味なフィリピン人とかベンガル人、ビルマ人、マレー人、インド人、ベトナム人がウロチョロすれば、さっさと買い物を済ませて家に帰りたくなる。それでも、観光客はやがて帰るからいい。ところが、もし隣にアジア人が住み着けば憂鬱になるどころか、自宅の地価が下がるんじゃないかと心配だ。品の良い西歐白人が住む麻布や広尾、目黒なら「お洒落な街」となるが、朝鮮人が密集する新大久保とか川崎、支那人が跋扈する北池袋なんて「魔界」を彷彿させるゲットーでしかない。

  日本人は武漢ウイルスに感染しないよう、「免疫力をアップさせるぞ!」と張り切っているが、アジア人の侵入に対する免疫力になると、自ら抹殺していることに気づかない。我々の体は異物が侵入してくれば、単球系のマクロファージやリンパ系のキラー細胞、顆粒系の好中球とか好塩基球が出動し、有害物質を撲滅しようとする。もし、体から白血球を除外して、「どんな細菌でもOK」となったら大変だ。したがって、本能的に「嫌い!」と思った外人は、迷わず排除すべし。だいたい、支那人や朝鮮人と係わって「いいこと」があったのか? 日本人は左翼学者に従わず、アジア人をドンドン排斥した方がいい。排外思想を放棄した歐米諸国がどんな事態に陥ったのか、ちょっと調べれば判るじゃないか。筆者はなにも全ての外国人を排斥しろ、と述べている訳じゃない。「受け容れてよい外人」と「門前払いにすべき外人」がいると言っているだけだ。もし、我々に「言論の自由」と「選択の自由」があるなら、躊躇なく行使すべきである。



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