黒木 頼景
成甲書房
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炎で焼き殺された夫人
ここのところ、ウンザリするような自粛要請が続いるので、気分転換ではないが、久しぶりに映画について述べてみたい。最近の映画を観て“つくづく”思うのは、存在するだけで魅了される女優が少なくなったことである。確かに、世界的な人気を誇る女優は今でも存在するが、後々の世まで語り継がれる程のスターはどれくらい居るのか、正直なところ分からない。筆者が現在の演劇界に疎いせいかも知れないが、「大女優」として心に残っているのは、オーストリア出身のロミー・シュナイダー(Romy Schneider)である。
映画ファンなら知っていると思うが、ロミーは亡くなってからもヨーロッパの映画界で人気が高く、最も印象深い女優の一人となっている。フランスで人気を誇ったロミーであるが、彼女は元々オーストリア出身の役者で、「ローズマリー・マグダレーナ・アルバッハ(Rosemarie Magdalena Albach)」というのが本名だ。彼女の母マグダ・シュナイダー(Magda Schneider)も女優で、『恋愛三昧』という映画に出演して名声を得たらしい。後に、娘のロミーも同作品のリメイクに出演し話題したから、今でも語り草となっている。彼女の父親ヴォルフ・アルバッハ・レティ(Wolf Albach-Retty)も役者で、妻となったマグダとの共演作品が9本もあるそうだ。(後に、彼女の両親は離婚となる。噂では、母のマグダがナチスの支持者であった事が理由の一つになっていたというが、本当のところは判らない。)
16歳のロミーがヨーロッパで一躍有名になったのは、1956年に公開された『プリンセス・シシー』に出演し、「美貌のプリンセス」として名高い皇妃エリザベートを演じたからだ。このオーストリア映画は全ヨーロッパで人気を博す作品となり、1956年には続編の『若き皇后シシー(Sissi : Diejunge Kaiserin)』が制作された。すると、第二作目も大ヒット。この勢いに乗って、映画会社は1957年に第三作目となる『ある皇后の運命の歳月(Sissi : Schicksalsjahre einer Kaiserin)』を制作することに。「まさか、三匹目のドジョウなんて」と思いきや、これまた好評ときたから、会社のお偉方は大満足。しかし、ロミーはこの「嵌まり役」にウンザリしていたようで、嫌々ながらの出演であったという。実は、母親のマグダと継父のハンスが高額のギャラに目が眩み、無理やりロミーを出演させたようだ。呆れたことに、この銭ゲバ両親は、こともあろうに厭がるロミーに、第四作まで押しつけたというから酷い。だが、これにはロミーも腹に据えかねたようで、20歳になったロミーは100万マルクを積まれても承諾しなかったそうだ。
(左と中央 : 「シシー」役を演じたロミー・シュナイダー / 右 : 皇妃エリザベートの肖像画)
「お姫様役」に嫌気が差したロミーは、汚れ役まで引き受ける女優業に踏み出した。そうした中で遭遇したのが、ロベール・アンリコ監督の『追想(Le vieux fusil)』(1975年公開)という作品で、彼女はジュリアン・ダンデュというフランス人医師の妻、「クララ」を演じた。時は、第二次世界大戦末期の1944年。フランス南部にあるタルヌ=エ=ガロンヌ県はドイツ軍に占領されていたが、連合国の巻き返しによりドイツ軍は撤退を余儀なくされていた。しかし、戦闘の雲行きを案じたダンジュ医師は、妻のクララと娘のフローレンスを自分の故郷である「バルバリー村(hameau de la Barberie)」に疎開させようとする。
(左 : 新婚夫婦のジュリアンとクララ / 右 : 復讐の為にライフルを持つジュリアン)
ところが、20人弱で構成されるドイツ人部隊がこの村を襲い、ドイツ兵は村人を皆殺しにしてしまった。そうとは知らない亭主のジュリアンは、病院の仕事が一段落付いたので、疎開先の村に行ってクララとフローレンスに会おうとした。だが、村の教会に立ち寄ったジュリアンは、血塗れで倒れている村人を発見して愕然とする。不安に駆られたジュリアンは、妻と娘を探しに丘の上に聳え立つ古城に向かうことにした。しかし、そこで目にしたのは、射殺された娘の遺体と丸焦げになった妻の亡骸だった。実は、村を占領したドイツ兵は、城の中でクララを輪姦しようとしたのだ。ここで映画は時間を巻き戻す。城の中で陵辱されかけたクララは、一瞬の隙を突いて部屋を抜け出し、娘を連れて脱出しようと試みる。とはいっても、女子供がいくら急いで走っても、ドイツ兵の魔の手からは逃れられない。少女のフローレンスはSS将校に背中を撃たれて即死。一方、城の壁に追い詰められたクララは蛇に睨まれた兎みたい。何と、野獣の如きドイツ兵は、恐怖に怯えるクララに向かって火炎放射器を構え、躊躇なく引き金を引く。すると、煌々とした炎がクララを包み、彼女は一瞬で黒焦げとなった。
(左 : ドイツ兵に追い詰められたクララ / 右 : 焼き殺されるクララ)
愛する家族を殺されたジュリアンは復讐の鬼となる。彼は昔、古城に隠した父のライフルを手にして、ドイツ兵を一人一人狙って殺害しようと試みた。ジュリアンは子供の頃、父親から射撃を習っていたので、銃に関しては多少の心得を持っている。人の命を救うドクターから、人の命を奪うハンターに変わったジュリアンは、ドイツ兵を次々と殺しながら、亡き妻との出逢いや家族との団欒を思い浮かべていた。若くて美しいクララは、ジュリアンにとって二番目の妻であった。クララと知り合った頃のジュリアンは、前妻と別れ、幼い娘を抱える男鰥(やもめ)。友人にクララを紹介されたジュリアンは一目惚れで、娘のフローレンスも再婚相手を気に入っていた。クララとフローレンスは本当の親子みたいに仲睦まじく、ジュリアンは新妻を見つめて幸せな日々を過ごす。こうした過去を思い出しながらドイツ兵を殺して行くジュリアンは、次の標的を探しに城の中を動き回る。一方、命を狙われているとは知らぬドイツ兵は、偶然、部屋の中にあったフィルムと映写機を見つけ出した。「知らぬが仏」とはこの事で、浮かれたドイツ兵はフィルムを観ながら飲酒を楽しもうとする。部屋の隠れ場所から中をのぞき込むジュリアンは、映写機が投影する映像を目にして、自分の記録フィルムであることに気づく。それは彼がクララを撮影した時の作品であった。スクリーンに映し出されるクララは美しく、ドイツ兵達は大はしゃぎ。彼らの馬鹿騒ぎは、復讐の炎に油を注ぐようなものだった。
(左 : ジュリアンに出逢った頃のクララ / 右 : 親子三人でサイクリングを楽しむシーン)
ジュリアンは城の中で様々な罠を張り巡らせてドイツ兵を殺してゆく。そして、ついに彼は指揮官であるSS将校を追い詰める。ジュリアンは城の中で見つけた火炎放射器をSS将校に向け、憎しみを込めて炎を浴びせかけた。ジュリアンがドイツ兵を片づけた後、フランス人の解放軍が村に到着し、レジスタンスは村の惨状に凍りつく。ジュリアンのもとには、友人のミュラー医師が駆けつけ、疲れ切ったジュリアンを自宅に送ろうとした。憔悴しきったジュリアンは、クルマの中で改めて妻と娘を亡くした事実を自覚する。過去を振り返ったジュリアンは、かつて妻と娘を連れてサイクリングした時の事を思い出す。銀幕には三人で楽しく自転車に乗っているシーンが映し出され、物語は「幸せな日々」という回想で幕を閉じる。
日本で1976年に公開された『追想』は、フランスで大ヒット作品となり、約336万人を動員したそうだ。それにしても、ドイツ兵が人妻のクララを火炎放射器で焼き殺すなんて酷すぎると思えるが、この映画には「ネタ元」になる実際の事件があった。1944年6月10日、フランスの「オラドゥール・シュル・グラヌ(Oradour-sur-Glane)」という村でドイツ軍による大量殺戮が起きていたのだ。虐殺の切っ掛けはレジスタンスの排除、すなわちゲリラの掃討作戦で、怒り狂った武装親衛隊(Waffen SS)が109名のフランス人男性を撃ち殺してしまい、その余波で247名の女性と205名の子供が殺されたのである。確かに、ドイツ軍のゲリラ狩りには相当な行き過ぎがあった。けど、民間人を装ったフランス人も悪い。レジスタンスによる襲撃は、一般人と軍人の区別を無くしてしまうから、酷たらしい報復を招く原因にもなる。歐米の映画やドラマでは、ドイツ兵が常に悪役となっているが、虐殺行為はアメリカ軍やブリテン軍も行っていたから、ドイツ軍だけを「悪者」にするのは卑怯である。例えば、ブリテン軍はモンテ・カッシーノにある修道院を空爆し、大勢の聖職者と負傷者を殺害したし、アメリカ軍は日本の都市を焼き尽くした。ドレスデンの大空襲も、まさしく地獄の炎だ。ドイツ軍だけを責めることはできない。本来、「ホロコースト」は東京大焼殺に使われる言葉で、チフスで死んだユダヤ人に使われる用語じゃない。ドイツ人だけを極悪人にするユダヤ的藝能界には毎回ウンザリする。
(左 : 映画で共演した時のアランとジョアンナ / ジョアンナ・シムクス / シドニー・ポワティエ / 右 : 娘のシドニー・タミア )
好評を博した『追想』は、作品部門や音楽部門で「セザール賞」に輝いた。脚本を手掛けたパスカル・ジャーディン(Pascal Jardin)と監督のロベルト・エンリコ(robert Enrico)は、人気俳優のアラン・ドロンと縁が深い。ジャーディンはドロンが出演した『危険がいっぱい(Les félins)』、『ボルサリーノ2(Borsalino and Co.)』、『個人生活(La race des seigneurs)』、『もういちど愛して(Doucement les basses)』、『帰らざる夜明け(La veure Couderc)』の脚本を手掛けた人物である。エンリコは『冒険者たち(Les Aventuries)』でドロンを起用した監督だ。この映画には、若きジョアンナ・シムクス(Joanna Shimkus)が「レティシア」役で出演していたから、今でも印象に残っている。ジョアンナはユダヤ人の父親とアイリス人の母親との間に生まれたカナダ人女優で、黒人俳優のシドニー・ポワティエと結婚した事でも有名だ。ポワティエが出演した『招かざる客』については、以前、当ブログで評論記事を書いたことがあるけど、彼は私生活でも白人女性を妻にしていた。この夫婦には娘が二人いて、シドニー・タミアの方は母親と同じく女優になっている。まぁ、父親の遺伝子を受け継いでしまったから仕方ないけど、タミアはジョアンナから生まれたのに、母親の容姿とは懸け離れた外見になっている。余計なお世話だけど、異人種間結婚というのは恐ろしいものだ。
「永遠の恋人」、アラン・ドロンとの邂逅
脚本家のジャーディンは何度もアラン・ドロンの映画に係わったが、ロミーの方もアランと関係が深かった。なぜなら、ロミーとアランは私生活でも恋人同士になっていたからだ。二人の出逢いは、『恋ひとすじ(Christine)』という作品が切っ掛けであった。この映画は、ロミーの母親にとっての出世作となった『恋愛三昧』のリメイク作品で、娘のロミーは監督に「相手役は自分に選ばせて欲しい」、と頼んだそうだ。そして、彼女は候補者となった男優の写真に目を通した。何名かの俳優を吟味したところ、ロミーはまだ無名だったアラン・ドロンを指名したという。(やはり、女の直感というのは鋭い。) 幸運にも相手役に選ばれたドロンだが、彼は元々この作品には消極的だった。それでも、友人であるジャン・クロード・ブリアリ(Jean-Claude Brialy)が「やってみろよ !」と後押しするので、渋々やることにしたそうだ。("Alain Delon and Romy Schneider", Jolie Gazette, January 18, 2017)
(写真 / 映画『恋ひとすじ』で共演した時のロミーとアラン )
後に私生活でも親密となるロミーは、恋人役にアランを選んだものの、この新人俳優に対し、あまり良い印象を持っていなかった。アランの方も同じで、胸くそ悪い小娘程度にしか思っていなかったそうだ。しかし、二人は撮影中に惹かれ合う間柄となり、次第に同棲関係へと発展した。当時、まだ世間は倫理道徳にうるさかったから、「正式な結婚もしないうちに、もう同棲するとは・・・」と二人の行動に眉を顰めたらしい。日本の女性ファンには説明不要と思うが、アラン・ドロンにはどこかしら“危険な香り”というか、社会の掟に背く“叛逆児”といった側面があるので、それが逆に彼の魅力となっている。大ヒット作『太陽がいっぱい』でドロンは、裕福な友人を殺し、その恋人まで奪ってしまう野心家を演じたが、観ている者はその罪を咎めて憎む事はできない。やはり、クールなハンサム青年は“得”である。これが、ユダヤ人俳優のアダム・サンドラーとかベン・ステイラーだと絶対に赦せない。こんな主人公だと、観客が絞首刑を望んでしまうからだ。
(左 : アラン・ドロン / 中央 : アダム・サンドラー / 右 : ベン・ステイラー )
熱愛関係となったロミーとアランだが、両者の立場は変化して行く。アランの方は『太陽がいっぱい』の成功で一躍スターとなり、ロミーの方はドイツでの人気が衰え、次第に仕事が減ってしまた。ただ、1960年、アランはルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)が監督を務めた『若者のすべて』という映画に出演したので、彼はこの巨匠をロミーに紹介しようと考えた。すると、ヴィスコンティ監督はロミーを気に入り、自分が演出する舞台『あわれ彼女は娼婦(Tis Pity She's a Whore)』に起用した。まだ初歩のフランス語しか喋れないロミーは、フランスで成功すべく、語学の猛特訓を受け、必死でフランス語のセリフを覚えたそうだ。さぁ~すが、女優は演劇のためなら何でもする。後に、彼女はフランスのトーク番組で流暢に受け答えしていたけど、ドイツ人にとったらフランス語はさほど困難な言語じゃないらしい。
(左 : 恋人時代のアランとナタリー / 中央 : ナタリー・ドロン / 右 : 結婚したナタリーとアラン)
俳優のカップルというのは、仕事が忙しくなると破局するようで、ロミーとアランも別々の道を歩んで行く。ロミーはハリウッド映画に進出し、『枢機卿(The Cardianl)』とか『ちょっとご主人貸して(Good Neighor Sam)』といった作品に出演する。一方、アランの方は、『個人授業』で有名な女優のナタリー・ドロンと結婚だ。しかし、ロミーの方も新たな恋人を見つけ、舞台演出家でもあるハリー・マイエン(通名 : Harry Meyen / 本名 : Harald Haubenstock)というユダヤ人俳優と結婚する。だが、二人が交際していた時、このユダヤ人は既婚者であった。舞台女優の妻を持つハリーは、まるで映画さながらの三角関係に陥っていた訳だ。それでも、運が良いのか悪いのか、ロミーが妊娠したことで夫人と離婚が成立したという。かくして、ハリーは妊娠4ヶ月の花嫁と南仏で再婚する。(当時としては順序が逆だけど、藝人だからしょうがない。)
(左 : ハリー・マイエンとロミー / 右 : 夫のハリーと息子のダーヴィッドを連れたロミー )
女は昔つき合っていた男を綺麗さっぱり忘れるが、男の方は結構“未練”や“想い出”が残るらしい。ハリーと結婚したロミーは、1966年、ベルリンで息子のダヴィッド・クリストファーを出産する。赤ん坊を授かったロミーは、この幸せを守るべく、女優業から離れ育児に専念した。だが、一旦役者となった女性は、なかなか藝能界を忘れられない。しかも、亭主のハリーは自ら手掛ける舞台が悉く失敗ときている。それなのに、彼は妻の舞台復帰に反対するんだから、ロミーが苛立ちを覚えたのも無理はない。ロミーは次第に夫への幻滅を抱くようになる。
(左 : プールサイドで抱き合うロミートアラン / 右 : ベッドで愛し合うロミーとアラン)
ロミーがルビーの指輪を持っていたかどうか知らないが、昔の恋人であるアランは失望に暮れるロミーを見かねて、新たな仕事を持ちかけた。(もう、今では寺尾聰のヒット曲は懐メロなのかなぁ。) 1969年、彼はジャック・ドレー監督が手掛ける映画、『太陽が知っている(La Piscine)』に出演予定たったので、相手役にロミーを指名したのだ。「さすがアラン・ドロン !」と称讃したくなるくらい、アランは慧眼の持ち主だった。共演作は大ヒット。脚本の善し悪しは別にして、この映画にはアランとロミーがプール・サイドで抱き合う場面があるので、一番の目玉となっている。何しろ、元恋人同士だから、水着姿でもつれ合う二人のラヴ・シーンは濃厚だ。銀幕を見つめる観客は、演技なんだか本気なんだか判らない。日本の観客だって美しいロミーの肉体に釘付けだ。撮影中のアラン・ドロンはどんな気持ちだったのか? (藝能記者から「どんな気持ちで演技に臨んだのか?」と訊かれたロミーは、「情熱だけよ !」と答えたそうだ。) 日本で言えば、山口百恵と三浦友和みたいな間柄かも知れない。(ちょっと例が古いけど、筆者は現在の人気女優に疎いから、どうかご勘弁を。) ちなみに、この映画には人気歌手となるジェーン・バーキン(Jane Birkin)が出ていた。彼女の「無造紳士(L'aquoiboniste)」は田村正和主演のTVドラマ『美しい人』のテーマ曲になったから、「あの曲を唄っていたフランス人か !」と覚えている人もいるんじゃないか。
(左と中央 : 『太陽が知っている』でのシーン / 右 : ジェーン・バーキン )
女優としての栄光と母としての悲哀
(左 / ヘルムート・ベルガー)
「人生山あり谷あり」で幸福と不幸は交代でやって来るようだ。故郷を捨てたことで、オーストリアのファンには不評だったが、フランスで人気を博したロミーは、70年代を代表する大女優へとなっていた。1972年には、『暗殺者のメロディー』に出演し、再びアラン・ドロンと共演することになったからファンは大喜び。さらに、この女優には幸運が舞い込んでくる。1972年、巨匠と呼ばれたヴィスコンティ監督が『ルートヴッヒ』を制作したのだ。この大作でロミーは再び厭がっていた皇妃エリザベートを演じるわけだが、これが後世に残る名作なんだから、ロミーも不満は無い。『ルートヴィヒ / 神々の黄昏Ludwig)』を観た人なら分かると思うけど、バイエルン王のルートヴィッヒ2世を演じたヘルムート・ベルガー(Helmut Berger)は素晴らしかった。筆者も高校生の時、偶然テレビ放送で観たんだが、その映像美に感動したことを覚えている。
(左 : 『ルートヴィッヒ』で共演したロミーとヘルムート / 右 : 『地獄に堕ちた勇者ども』でナチスの軍人に扮するヘルムート)
( 左 / シャーロット・ランプリング )
ヴィスコンティ監督の映画は一級品で、彼が1969年に手掛けた『地獄に堕ちた勇者ども(La caduta degli dei)』も秀逸だ。これに出演したバーガーやダーク・ボガード(Derek Bogaerde)のことを覚えている人も多いだろうが、「エリザベス・タルマン」を演じたシャーロット・ランプリング(Charlotte Rampling)も注目を引く。この映画はナチスが台頭する前後のドイツが舞台で、鉄鋼王の一族であるエッセンベック家の頽廃を見事に描いていた。当時、この映画を観た三島由起夫が傑作と評して称讃したのも頷けよう。ヴィスコンティ監督が描くヨーロッパには、重厚さと華麗さが際立っており、その中に耽美的な世界と底知れぬ頽廃が渦巻いている。三島由起夫という天才が、どんな表情でヴィスコンティ作品を観たのか分からないけど、三島には歴史を積み重ねた深遠な文化を尊重する気風があったから、筆を執って評論したんじゃないか。現在はハリウッド映画が世界市場を制圧しているけど、銭儲けを第一にしたアメリカ人の映画なんて、藝術を愛する三島由起夫には耐えられないだろう。(余談だけど、三島先生が日本刀を手にした時の眼光は凄いよねぇ~。日本刀は殺人用の武器なのに、魂を吸い取られる程の美しさがある。これはフランスの知識人で歴史家でもあったアンドレア・モロワも認めていた点だ。)
(左 : 『愛の嵐』で妖艶な踊りを披露するシャーロット / 右 : SS将校に扮したダーク・ボガード )
しかし、もっと強烈なナチス映画と言えば、シャーロット・ランプリングが再びボガードと共演した『愛の嵐(Il Portiere di notte))』(1974)の方である。ボガードはかつてナチスの将校だった「マクシミリアン」を演じ、シャーロットの方は「ルチア」を演じていた。このルチアはドイツ軍人に弄ばれるユダヤ人女性という設定だ。とりわけ衝撃的なのは、上半身裸のルチアがピアノに合わせて唄い、ドイツ人将校の前で妖艶なダンスを披露する場面である。ルチアがドイツ軍士官の帽子を被り、卑猥な仕草で体をくねらせるシーンは絶品だ。今でも脳裏に焼き付いている。令和時代の高校生が観たら、その異様な雰囲気に圧倒されるぞ。こうした名作と比べたら、今のハリウッド映画なんかC級以下の代物だ。でもさぁ~、なんでドイツ人に陵辱されたり迫害されるユダヤ人娘って、いつもメラニー・ロランとかアリシア・シルヴァーストン、マルリー・マトリン(Marlee Matlin)といった、西歐風の美人なんだ? 現実の世界では、コメディアンのサラ・シルバーマン(Sarah Silverman)や歌手のバーバラ・ストライサンド(Barbra Streisand)、女優のサンドラ・ベルンハルト(Sandra Bernhard)みたいなのが普通だぞ。
(左 : マルリー・マトリン / アリシア・シルヴァーストン / サラ・シルバーマン / 右 : サンドラ・ベルンハルト )
ヴィスコンティ監督はキャスティングも絶妙で、トマス・マン(Thomas Mann)の小説を基にして作った『ベニスに死す(Death in Venice)』では、美少年のビョルン・アンドレセン(Björn Andrésen)を起用していた。やはり、歐洲を舞台にした映画なら、キラリと光るヨーロッパ人の俳優を使わなきゃ。多民族主義を忖度して、トルコ人とか北アフリカ系の浅黒い役者を採用するようでは駄目だ。スティーヴン・スピルバーグとかJ.J.エイブラムといったユダヤ人監督は、無理やり場違いな黒人とか同胞のユダヤ人をネジ込んでくるから吐き気がする。そして、ナチス・ドイツの軍人は皆「冷酷残忍なケダモノ」にしているんだから、まるでシオニスト擁護のプロパガンダ映画みたいだ。
(左 : ルキノ・ヴィスコンティ / 右 : ビョルン・アンドレセン)
脱線したので話を戻す。女優業においては順風満々のロミーであったが、亭主との仲は冷え込む一方だった。自分の仕事が上手く行かないハリーは、自身への憤りと妻への嫉妬心とで悩んでいた。彼は次第に酒と薬に溺れるようになり、ついにロミーと別居するようになる。愛想を尽かしたロミーは息子を連れてフランスに移住。キャリア・ウーマンに戻った彼女は、どんな役柄をも厭わず、お金に目が眩んで落ちぶれる娼婦の役でさえ演じていた。こうした中で出演した映画の一つが、先ほど紹介した『追想』である。1975年に公開されたこの作品はロミーに栄光を与えるが、同年、彼女はハリーと正式に離婚する状況になっていた。息子の親権はロミーが持つことで合意されたようだ。
(左 : ロミーと ダニエル・ビアシーニ / 中央 : 娘のザラ・マグダレーナを抱くロミー / 右 : 成人して女優になったザラ )
美人女優というのは、離婚しても次の男が直ぐ現れるから、凡人の女性からすれば何とも羨ましい。ロミーはハリーと別れる以前から、個人秘書のダニエル・ビアシーニ(Daniel Biasini)と交際しており、二人は1975年12月にベルリンで結婚する。元の亭主はロミーよりも14歳年上だったが、今度の夫は11歳若かった。本来、ハネムーンは甘いものだが、ロミーの蜜月は胆汁よりも苦くなっていた。新婚当時、ロミーは妊娠5ヶ月であったが、残念なことに流産してしまう。そして、別れた夫も失意のドン底にあった。絶望の淵をさまようハリーは、酒と薬物に溺れ、1977年、身を持ち崩して自らの命を絶つ。
(写真 / 幼いダーヴィッドとロミー)
流産という哀しみに沈んでいたロミーであったが、1977年、彼女は再び身籠もり、第二子となる娘ザラ・マグダレーナを出産する。そして翌年、彼女は『ありふれた愛のストーリー(Une histoire simple)』でヒロインを演じると、二度目のセザール賞をもらい、主演女優賞に輝いた。しかし、ロミーは大金を稼ぐようになったものの、肝心な納税に対しては驚くほど無頓着だった。それゆえ、フランスの税務当局はこの有名女優に目を附け、過去の脱税を問題する。かくして、ロミーは追徴課税を払う破目に。ところが、この追徴金額はあまりにも莫大だった。いくらロミーでも無理。ということで、彼女は事実上の破産状態に追い込まれた。不幸というものは度重なるもので、女優業は好調だったのに、夫婦関係は低調で、液体窒素が注がれたように亀裂が入ってしまった。1981年、ロミーはダニエルと離婚する。同年、さらなる不幸が襲い、彼女は腎臓を摘出する手術を受け、右腹に傷跡を残すことに。
(左 / ダーヴィッドに絵本を読んで聞かせるロミー)
それでも、こうした災難は息子を亡くす悲劇に比べれば些細な事だ。ダーヴィッドは母の新しい愛人と反りが合わず、ロミーに反撥していた。彼は母親のもとを離れて、継父であるダニーと暮らすようになったという。ところが、1981年7月5日、デーヴィッドに運命の瞬間が訪れる。彼はダニーの両親宅に泊まっていたのだが、何かの用事で外出するため、家の垣根を跳び越えようとした。しかし、運悪く足を滑らせ、鉄製の角棒の上に落ちてしまい、憐れにも串刺しになってしまった。金属の棒で身を貫いたデーヴィッドは病院に搬送されたというが、時既に遅く、医師はロミーに小声で「遺憾」を告げたそうだ。この残酷な言葉を聞いたロミーは正気を失い、その悲鳴は病院中に響き渡った。14歳の息子を失ったロミーの泣き声は今でも聞こえてきそうで、想像すだけでも胸が痛くなる。葬儀は友人のアラン・ドロンが手配した。埋葬にはフランソワ・ミッテラン大統領などの著名人が参列し、泣き崩れるロミーの姿はマスコミの映像に残されている。
息子を失ったロミーは、哀しみを忘れようと仕事に打ち込んだそうだ。1982年、彼女は『サン・スーシの女(La Passante du Sans-Souci)』という映画に出演し、「マックス」という少年を引き取る「エルザ」を演じた。周囲の者は、ロミーがマックス役の少年と共演することで、ダーヴィッドを思い出すんじゃないかとハラハラしたそうだ。撮影中、マックスがヴァイオリンを弾くシーンになると、ロミーは亡き息子を思い出し、感情が昂ぶった止めどなく涙を流したらしい。ロミーの病気やダーヴィッドの死去で撮影が延期されたものの、『サン・スーシーの女』は興行的に大成功。フランス全土では196万人、海外市場だと2,500万人の観客を動員したそうだ。
(左 : 映画の中の少年「マックス」 / 右 : 成人して数学者になったウェンデリン・ウェルナー )
ちなみに、「マックス」を演じた子役は、後に優秀な数学者となるウェンデリン・ウェルナー(Wendelin Werner)であった。彼は2001年に栄誉ある「フェルマー賞(Fermat Prize)」に輝き、2006年には「ポリヤ賞(George Polya Prize)」と「フィールズ賞(Fields Medal)」を貰ったというから本当に凄い。ウェルナー博士はドイツのケルン生まれなんだけど、9歳の時に両親と共にフランスに移住し、1977年にフランス国籍を取ったから、現在は「フランスの数学者」となっている。日本で代数幾何学の権威といったら、「フィールズ賞」を授与された京都大学の廣中平祐(ひろなか・へいすけ)先生で、山口大学の学長を務めたことでも有名だ。しかし、日本の官僚は天才数学者でも袖の下を渡さないと意地悪をする。北海道に「公立はこだて未来大学」が計画された時、廣中先生は設立委員会メンバーとして陣頭に立っていた。先生は大学設立の件で文部省の役人と度々交渉したが、その都度、申請書類の内容や形式に様々な“イチャモン”をつけられ、相当憤慨されたそうだ。信じられないけど、担当者の嫌がらせで廣中先生は何度も「役所詣で」に行ったそうである。もう、役人どもの頭をひっぱたきたくなるが、政治家の口添えが無いと、ヒラメ役人は傲慢になるという証拠だ。
またもや脱線したので話を戻す。『サン・スーシの女』で成功したロミーは、次にアラン・ドロンとの共演でサスペンス映画に出る予定であった。しかし、我々はその演技を永遠に観ることはできない。1982年5月28日、ロミーは友人のロラン・ペタン等と食事を取り、その後自分のアパートメントに帰ったそうだ。午前零時を過ぎ、翌29日になった深夜1時頃、ペタンは肘掛け椅子で眠っているロミーを目にしたので、彼女を起こさないようにしてベッドに運んだらしい。ところが、朝の7時頃、彼は嫌な予感がしたので、ロミーを見に行くと、彼女は目覚めなかった。驚いたペタンは直ぐさま救急車を呼び、心臓ッサージをしてもらったというが、時既に遅かった。寝室には普段から服用していた睡眠薬と空になったワインの瓶があったという。検死の結果、外傷は無く、心不全が死因であった。
ロミーの葬儀もアラン・ドロンが手配したが、アラン自身はマスコミの騒動を避けるため、実際の葬式には出なかった。しかし、葬儀の参列者は豪華で、男優のジェラルド・ドゥパルデュー(Gerard Depardieu)や映画監督のクロード・ルローシュ(Claude Lelouch)、俳優兼監督のミシェル・ピコリ(Michel Piccoli)などが駆けつけていた。彼女の遺体は祖国に戻ることなく、イヴリーヌ(Yvelines)県のボワシー・サン・ザヴォワール(Boissy-san-Avoir)にある教会に埋葬され、息子のダーヴィッドと共に永眠している。墓碑にはロミーの本名のほか、生年と没年の月日だけが記されていた。また、息子の死を認めたくなかったロミーに配慮したのか、ダーヴッイドの没年は刻まれていなかった。
(左と中央 : 幸せな頃のロミー / 右 : 娘のザラとロミー)
ロミーは亡くなってからも多くの映画関係者から慕われ、1984年には、フランス人ジャーナリストのユージン・モワノーとマレーヌ夫妻により、「ロミー・シュナイダー賞(Prix Romy Schneider)」が創られた。この栄誉は主にヨーロッパで活躍する女優に贈られている。例えば、2005年には『Hereafter』(クリント・イーストウッド監督作品)に出演したベルギー人女優のセシル・ド・フランス(Cécile de France)に贈られ、2006年には『Je vais bien, ne t'en fais pas』に出演したメラニー・ローラン(Mélanie Laurent)が受賞した。メラニーはクェンティン・タランティーノ監督が手掛けた『イングローリアス・バスターズ』(2009年)で、ナチスに迫害されるユダヤ系フランス人を演じたことでも知られている。
(左 : カトリーヌ・ドヌーヴ / 中央 : メラニー・ローラン / 右 : セシル・ド・フランス )
藝能界で輝ける大スターとなったロミーだが、私生活では息子を亡くし、その晩年には暗い影が差し込んでいた。訃報が伝えられた時、世間の人々は彼女が自殺したんじゃないか、と疑ったらしい。それもそのはず。若い頃は、あんなに笑顔の似合う女優だったのに、中年以降は涙に暮れる悲しい母親になっていたんだから。それでも、フランスにおいてロミーの人気は絶大だ。ある調査によれば、名女優のカトリーヌ・ドヌーヴよりも人気が高い。意外なことに、ロシア大統領になったウラジミール・プーチンもロミーのファンだったようで、記者から好きな女優を訊かれた時、しばらく考えた後、ロミーの名を挙げていたという。("President gets personal", BBC News, 6 March 2001.) 世界中の人々から愛された人気女優なのに、最も愛すべきダーヴッドを失ったロミーは、根こそぎにされた薔薇のように枯れ果ててしまった。だが、ロミーの肉体が滅んでも、その微笑みは今でも映像の中で生きている。銀幕に映しだされた彼女の美しさは永遠だ。これからも、次々と新しい世代の若者を虜(とりこ)にするだろう。
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