無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2020年07月

教育格差が拡大する将来の日本

教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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格差社会における教育の質

white kids 2Black children in America 2







(写真  / 「教育格差」社会で成長するアメリカの子供達 )

  日本の国民はかつて教育熱心だった。しかし、今きや教育は銭儲けか見栄を張るための道具と化し、「学歴」という看板を積んだロバの大量生産になってしまったようだ。ほとんどの日本人は目先の事件に目を奪われ、長期的な視野を持って現在を見る事ができない。今年は武漢ウイルスが蔓延して、多くの国民が生死の境をうろついたから、視聴率至上主義のマスコミは大喜び。マンネリ化した「花粉症騒ぎは何処へやら?」だ。政府は感染症患者を見つける一方で、地方の国民に旅行を勧めている。どうせ、税金をばら撒くだけの選挙対策だろう。だが、テレビのワイドショーは二階俊博を糾弾せず、連日連夜、武漢ウイルスの脅威を煽って二次感染の嵐を待っている。老人は武漢肺炎に怯え、中高年は飲み会を断念してショボクレているが、未来を背負う子供達はマスクを着けながら遠隔授業を受けていた。

  本来なら、小学校から大学まで新入生を迎えて陽気な勉強生活を送っているはずなのに、今年は、みんなでマスクを装着し、「リモート授業」とやらでお勉強だ。(既に中学生や高校生は学校へ通っているようだが、大学生は未だに学級閉鎖で憧れのキャンパス・ライフは無いらしい。)でも、いくらパソコンの画面を通しての遣り取りといっても、これじゃあ「通信教育」と同じじゃないか。小学生なら休み時間に皆で遊んで給食を食べる、という“楽しみ”があるはずなのに、4月から自宅待機で母親相手の“個人学習”じゃ厭になってくる。独りっ子だと毎日「ママと一緒」でつまらない。やはり、学校で「プロレスごっこ」とか「ボール遊び」で汗をかかなきゃ。(筆者が子供の頃はアントニオ猪木とかスタン・ハンセンが人気だったから、“自習”時間には「卍固め」や「コブラ・ツイスト」の練習で忙しかった。しかし、今、冷静に考えて見れば判るけど、本当の格闘技であんな複雑な技を掛ける奴はいないだろう。そもそも、敵の協力を得て必殺技をカマスなんて有り得ない。)

  「インターネットを通しての授業」なんて聞こえはいいが、こんな授業を子供は喜んでいるのか? 確かに、知識というものは、最終的に本人の努力次第であるが、身につける過程において“どう”勉強するかは非常に重要だ。自宅でポツンと坐って練習問題をこなしているだけじゃ味気ない。友達と席を並べて切磋琢磨したり、侃々諤々の議論を通して考えることも大切なのである。いくら、のんびりした性格のボンクラだって、隣の友人が一生懸命勉強していれば“競争心”に火が付くし、「一番になりたい !」という野心を抱く子供だっているだろう。また、“優越感”を得るために一生懸命、辛い鍛錬に励むこともあるはずだ。おそらく、このまま「リモート授業」が長期化したり、「自宅学習」の時間が多くなれば、色々な家庭環境にある子供達の間で、取り返しのつかない教育格差が生まれてくるだろう。

  教育評論家は否定するかも知れないが、子供の人生は親の遺伝子や家庭環境で、かなり違ったものになる。例えば、黒人の親を持つ子供はその遺伝的肉体のお陰で優秀な短距離走者とかボクサーになれるし、美人の遺伝子を有した女性は、高額所得のスーパー・モデルとか映画女優になれるだろう。(ただし、男性ファッション・モデルは高給取りになれないそうだ。意外だけと、男のスーパー・モデルというのは滅多に存在しない。) スポーツ分野とは異なり、知的分野だと後天的要素が大きくなるので、本人の努力次第で夢を叶えることもできる。例えば、一般の科学者とか技術者、演奏家、法律家、建築士、医者、薬剤師になろうと思えば一般人でもなれるし、オリンピックで金メダリストになるくらいの狭き門じゃない。しかし、下層階級の親に育てられた子供だと事情が違ってくる。彼らはいくらホワイトカラーの職種を望んでみても、そこに辿り着くまでの学力が不足しているし、大学あるいは大学院に進むための費用を賄えない。やはり、高学歴の親とか、高額所得者の親、あるいは教育熱心な親を持つ子供の方が有利だ。

  日本の教育現状に関しては様々な本が出版れており、松岡亮二の『教育格差』といった新書も出ているので、一般人でも手軽に知ることができる。松岡氏の著書では、親の学歴とか収入、社会的地位、住んでいる地域とか学校の種類で子供の学力が左右されることが述べられているが、その中でも注目すべき点は、親から子へと相続される「文化資本」であろう。これはフランスの左翼社会学者、ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)とかイェール大学のポール・ディマジオ(Paul DiMaggio)が研究して有名になった。我々でも予想がつくけど、こうした文化資本には3つの形態があるらしい。すなわち、本や美術品などの物財である「客体化された文化資本」、学歴や資格などで承認される「制度化された文化資本」、そして言語力や知識、教養など、簡単に相続されない「身体化された文化資本」である。これらの資本は主に、家庭を通して“ゆっくり”と時間を掛けて伝承される遺産であり、この継承者は高い成績を上げたり、教師から好意的な評価を受けるそうだ。

Pierre Bourdieu 1(左  / ピエール・ブルデュー)
  マルキストの変種としか思えないブルデューだが、このフランス人が研究した文化的再生産(Cultural Reproduction)の論文を読んでみると、階級社会で雁字搦めにされたフランス社会への怨念がひしひしと伝わってくる。確かに、家庭のタイプで子供の知的水準が決まってしまう確率は高い。親がどんな読書をしているのか、子供を連れて博物館や劇場に赴いたり、海外旅行を何回経験したのか、あるいは、どんな課外活動に参加したのかや、文化に関する親子間の会話などを調べてみれば、「この親にして、この子あり !」と頷けることもある。ただし、中には「鳶(トンビ)が鷹(タカ)を産む」というケースもあるから、一概に「平凡な親はダメ」とまでは断定できない。でも、一般的には「蛙の子は蛙」というケースが大半だ。昔はよく、恋愛ドラマや少女漫画のキャラクターに惚れて、アホな母親が幼い娘にピアノを習わせたりしたが、大抵の子供は意味が解らず、三日坊主で厭になったものである。第一、母親自身がクラシカル音楽を聴かず、楽器なんか弾いたこともないんだから、子供からすれば迷惑以外の何モノでもない。

  だいたい、勝手な願望で我が子に夢を託す親の方が間違っている。娘にショパンやモーツアルトを勧めているくせに、本人はカラオケ店に行って、八代亜紀や石川さゆりの曲を大熱唱とくれば、厳しいレッスンを受け子供は不満爆発だ。もし、娘をピアニストにするなら、先ず母親が弾き馴れたピアノ曲を娘に聴かせ、如何に美しいメロディーであるのかを示すのが先だろう。学校の勉強も同じで、学問に熱中したことが無い親が、子供に対して「有名校を目指した猛勉強しなさい!」と言ったところで、息子や娘は馬耳東風である。もし、父親が「勉強しなくちゃ駄目だぞ!」と叱る一方で、その愛読書が『ヤング・ジャンプ』とか『ビッグコミック・スペリオール』じゃ説得力ゼロだろう。取っている新聞も『スポニチ』で、パソコンを開けばエロ動画のオンパレードじゃ、子供だって百科事典には目もくれず、お父ちゃんと同じ趣味に没頭するぞ。

  国立教育政策研究所の調査報告書によれば、両親共「非大卒者」の家庭だと蔵書数(雑誌や教科書、電子書籍を除いた冊数)は10冊くらいで、専門書や学術書は極めて少ない。一方、「大卒者」の親がいる家庭では蔵書数が格段に増え、100冊を超えるケースもある。まぁ、高学歴の教養人なら、シュテファン・ツヴァイクの伝記とかカント全集、エドワード・ギボンの『ローマ帝国の興亡』などが書斎にあるんじゃないか。しかし、小説すら苦手な労働者階級だと、せいぜい『こち亀』の単行本全200巻とか、『ミナミの帝王』全197巻、『キャプテン翼』全37巻が関の山だろう。ただし、漫画の中には『ゴルゴ13』とか『沈黙の艦隊』など、国際政治を扱ったジャンルもあるから一概に悪いとは言えまい。極左学者のエルンスト・ゲルナーとかエリック・ホブズバウム、白井聰、姜尚中の有害図書を読むくらいなら、健全な精神に基づく教養漫画を読んだ方がよっぽどマシである。

  ヨーロッパと比べたら日本はほとんど身分格差の無い平民社会だ。しかし、それでも家庭によっては「知的雰囲気」がかなり違ってくる。例えば、親が子供に勉強を教えるとか、何らかの技術を授ける時には、やはり高等教育を受けた親の方が頼もしいし、与える知識の量が断然多い。これは日常会話を調べてみても明白で、高学歴の親だと理数系の知識や藝術にまつわるエピソード、あるいは外国の歴史や地理について詳しく述べることができる。最近は、遠隔授業で英語の教科書を学んだり、数学の練習問題を説いたりする子供が増えたけど、理数系の科目を苦手とする親だと中学生の宿題でも苦労するし、高校の数学や物理となればお手上げだ。非進学校卒の母親が子供の前で、微分積分の問題や数列、あるいは代数幾何を説明するなんて無理だし、かといって横の亭主に助けを求めても、同じ程度の頭だったりするから、「明日、先生に訊いてみようね !」でお終いとなる。だいたい、ギリシア文字なんか習ったことがないから、「ラムダ(λ)」、「ファイ(φ)」、「シグマ(ς)」、「ゼータ(ζ)」を見ても発音できない。かろうじて判るのは「カッパ(κ)」とか「オメガ(Ω」、「ベータ(β)」くらいで、「カイ(χ)」とくれば、「X-Japanの“エックス”じゃないの?」と目を丸くする。

  アメリカの大学に通った人なら入試で「SAT」を受けるから実感すると思うが、数学の試験を英語で受けると、色々な和訳用語が判って頷くことがよくある。例えば、有名なのは「関数」で、昔は「函数」と書いたけど、英語だと「function」である。ちなみに、「保形関数」は「automorphic function」、「楕円関数」は「ellipetic function」と言う。「素数」は「prime number」で複素数は「complex number」だ。(中学生には難しいけど、一応説明すると、任意の実数a、bと「虚数単位imaginary unit」の「i」を用いたa+ibという表現が複素数。) 面白いのは「虚数」で、これは「虚しい」からではなく、「想像上の数」ということで、英語だと「imaginary number」だ。「ユークリッド幾何学」の「幾何学」は「geometry」の和訳で、この学問は元々耕地の測量に用いられたから「ge(地)」という言葉がついている。高校生の良い子は数学の先生に「シケリアのディオドロス(Diodorus Siculus)について教えて !」と頼んでね。そうすれば、古代バビロニアで世界史を記した人物とナイル河の氾濫などを詳しく説明してくれるから。あと、ついでに古代ギリシアの数学についても訊いてみればいい。ピタゴラス学派の秘伝を暴露したヒッパソス(Hipasos)なんか、神罰を受けて海で溺れたそうだから。学校の先生は質問しないと教えてくれないから、何も質問しないで黙っていると損である。

  脱線したので話を戻す。息子や娘の勉強を監督する親にとって、子供からの“素朴”な質問は結構答えるのが難しい。例えば、息子が「ねぇ、ママ、どうして負(マイナス)と負(マイナス)を掛けると正(プラス)になるの?」と訊けば、「うぅぅ~ん、決まりだから !」と答えるしかない。まさか、複素数平面を持ち出して説明する訳にも行かないだろう。紙に横軸(実軸)を書いて、縦軸(虚軸)を引き、「i」を1回掛けると90度回転し、2回掛けると180度回転するから、と解説しても、子供はチンプンカンプンだ。高校生だって普通の子はフリードリッヒ・ガウス(Johann Carl Friedrich Gauss)を知らないから、「ガウス平面(Gaussuan   plane)」を説明されても、半数くらいの生徒は鳩みたいにキョトンとするだけ。(あるいは、コロッケさんのティラノサウルスみたいになっちゃう。) 高校生の数学になると親だって匙を投げるから、研究所に勤める科学者とか技術者の親じゃないと、子供に数学や理科を教えることはできない。例えば、文系の親が「バーゼル問題」を訊かれたって、母親は「今、洗濯物にアイロンかけるから、パパの帰りを待っていてね !」と答えるので精一杯。国文科の母親なんか、逆数が並ぶ数式を見ただけで目眩がする。素数なども「遠い記憶」となっているから、「ルジャンドル予想(Legendre's conjecture)」など“問題外”で、せいぜい「双子素数」を覚えているくらい。サイン・コサイン・タンジェントの三角関数でも記憶が曖昧なんだから、教科書の座標を見たら厭な過去が蘇るだけだ。

Friedrich Gauss 01Adrien Marie Legendre 1Dattaraya Kaprekar 1









(左 :  フリードリッヒ・ガウス / 中央 : エドリアン・マリー・ルジャンドル / 右 : ダタトレヤ・R・カプレカ )

  一方、文化資本が豊かな親だと、様々なトピックで我が子に知識を授けることができる。例えば、息子を連れて車に乗っている時、前方を走るクルマのナンバー・プレイトを指して、「カプレカ数(Kaprekar's numbers)」を探すこともできるのだ。この「カプレカ操作」は結構病みつきになる。例えば、「173」とか「293」、「495」といった3桁の数字を並べ替え、最大の数から最小の数を引いて元の数になれば「カプレカ数」である。(この数字に気づいたダタトレヤ・R・カプレラ<Dattatreya Ramchandra Kaprekar>は、英国式の教育を受けたインド人であったが、英国の大学教授とはならず、インドの学校で教師になっていたそうだ。)

   173   は       731 −  137  = 594   (残念 !)       
       293   は       932  −  239  = 693   (残念 !)
       495   は       954   − 459  =  495   (当たり !) 

 もし、これが「5829」とか「6174」という4桁の数字になると、

    5829  は     9852 −   2589 = 7263  (ハズレ!)   
        6174 は      7641 −   1467 =  6174    (ビンゴ!)

日本の一般家庭と同じく、労働者階級の父親だと理数系の学問はおろか、歴史や地理でも「ギブ・アップ」となってしまう。しかし、子供の頃から聖書だけは読んでいたりするから、初代皇帝のアウグストゥスやティベリウス帝を含むローマ史とか、地中海の地理くらいは知っている。ただし、当時の知的遺産には無縁だから、プラトンやアリストテレス、ストア派のギリシア哲学なんかは解らない。たとえ、「ヨハネの黙示録」を読んで、神様(天主、救世主イエズス)が「アルファであり、オメガである」と教えられても、かろうじて森羅万象を支配する主権者、ないし全宇宙を設計した超越者といった程度のイメージだ。(「ヨハネの黙示録」1章8節、21章6節、22章13節を参照。) とは言っても、神様はあまりにも漠然としているので、その実態は中々摑めない。例えば、もし天主ヤハウエが「有限」だと宇宙の創造主にならないし、「有限」の外がどうなっているのかが問題になってしまう。だから、西洋の神学者は「無限」と考えることにしていた。でも、今じゃ「宇宙は複数有るかも知れない !」というので、「一体、神様はどんな世界を拵えたのか?」と科学者を悩ます謎となっている。(昔の科学者には「理神論者(deist)」が結構いたものだ。)

  それでも、ちょいと教養のあるオヤジなら、「神様は無限なんだけど、数学上の無限には種類があるんだぞ。例えば、最も濃度の小さい“アレフ・ゼロ”があって、その集合に1とか何か別のモノを加えると、“アレフ・ゼロ1”とかになっちゃうんだよねぇ~」と教えることができる。これは集合論と1対1対応を使って説明できるので、中学生や高校生の子供にも理解できる。ところが、藝能ゴシップしか興味の無い親だと、「アレフ(alep)」といったヘブライ文字を聞いたって、何のことやら解らないので、TVドラマの「アルフ(ALF)」しか思いつかない。(この番組は、1986年から1990年にかけて放送されたNBCのコメディー・ホームドラマで、「メルマック星」からやって来た犬型の宇宙人が「ターナー家」に住む居候となる喜劇。日本ではNHKが放送し、宇宙人「アフル」の声優を所ジョージが担当していた。)

  目に見えないけど、親子で相続される「文化資本」が、なぜ重要なのかと言えば、それが子供の知的好奇心を喚起するからだ。田舎の公立学校や所謂「底辺校」で勤務する教師なら共感すると思うが、労働者階級の家庭では、親が子供の勉強とか生活態度に干渉しない“放任教育”が通常となっている。親自身が凡庸であったり、元不良だったりするから、幼い子供に本を読み聞かせる事はないし、自然現象に関しても無頓着で説明する事はない。大抵、帰宅してもパチンコに行くか、テレビの野球観戦にかじりつく程度。子供との会話で豊かな教養を授けるなんて皆無だ。両親が近所の噂話で夢中になっているかと思えば、子供はその隣でTVゲームとかスマートフォンに熱中となる。読書の習慣は一向に身につかず、参考書なんか部屋の隅で「積ん読」状態。こんな子供が相手じゃ、いくら学校教師が張り切っても、学力向上なんて夢のまた夢である。

  文科省の高級官僚は、学習指導要綱をいじくれば何とかなると思っているが、凡庸な腕白小僧と低学力の児童をまかされた教師は堪ったもんじゃない。こうした子供に欠けているのは、家庭で育まれる「知的好奇心」なのだ。最初からアホというのであれば救いようが無いが、非教養人家庭に生まれた子供は、TVアニメとか漫画を無限に許され、一日中ボケ~と眺めるだけである。彼らは自分で積極的に物事を探求しようとせず、只、刺戟的な映像を求めるだけ、というか、送られてくるのを待っている。それゆえ、自分から文章を読んで、何が書かれているのかを探求しないし、そもそも理解しようとする意欲が無い。もっと悲惨なのは、その気力さえ湧かない子供が居るということだ。

Breaking Bad 2(左  /  『ブレイキング・バッド』の主役と共演者)
  不運な状況が重なり、知識不足となった子供は、いくら成長しても、別の視点から物事を考える能力が無い。文系に進んだ者にも、数学とか理科の知識が必要なのは、抽象的な思考を身につけたり、多角的に見る習慣を養うためだ。様々な教養を積むことは、将来の職業に役立つ。例えば、大人になってから異業種の者と会話する時、余計な知識を備えていると、ひょんなことで意気投合となり、人脈を広げることもできるのだ。以前、筆者が友人と雑談をしていた時、米国の人気TVドラマ『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』に言及したことがある。シーズン2か3の時、合成麻薬を密造する登場人物が厄介な遺体を処理するために、浴槽の中に酸を入れて死体を溶かそうとするシーンがあった。そこで、筆者が「あんなに時間がかかるなら、フルオロアンチモン酸(fluoroantimonic acid)で溶かしちゃえばいいのに・・・」と呟いたところ、「おい、それは危険過ぎてマズいだろう !」という答えが返ってきたが、「でも、妙案かもなぁ~」と感心していた。

  普通の犯罪者なら、工場でかすめ取った硫酸を使うけど、ドラマの主人公は優秀な化学者であったから、「マジック酸」を考えてもおかしくはない。俗に言う「マジック酸(Magic acid)」とは、五フッ化アンチモンとフルオロ硫酸の混合物で、かなり危険な猛毒だ。それよりも凄いのが「フルオロアンチモン酸」で、100%硫酸よりも20京倍強いという。だから、人間の遺体なんか一瞬で溶かすことができる。学校で教える理科の教科書は、スリルに欠けるから退屈な解説や実験が多い。無味乾燥の授業で化学式や元素記号を暗記させるより、「どうやったら核爆弾が作れるのか」とか、「最強の化学・生物兵器はどんなものなのか」といった話をして、生徒に興味を持たせる方が効果的。何の目的も無く、ただ「受験の科目だから」という理由で、物理や化学を勉強する生徒は存在するけど、全体からすれば少数派である。

  普通の家庭で育った凡庸な子供は、研究所に勤めるプロの科学者を目指していないから、一般教養の科学でいいはず。知的好奇心を持たずに、理科の授業を受けるのは苦痛なだけである。話を戻すと、こうしたアホな雑談をしても、ある人々にとっては「刺戟的な会話」となるそうだ。情報のアンテナを広げる企業経営者とか投資家は、一風変わった人物にも興味を抱き、「何か知らないけど、面白い奴だ」と見なす。だから、彼らは「今度、俺の家でパーティーを開くけど、来ないか?」と誘ったりする。特にアメリカ人のビジネスマンには、変人を招く趣味があるので、彼らには藝術家とか知識人の友人は少なくない。

  脱線したので話を戻す。放任主義と娯楽生活で成長した子供は、インテリ家庭の子供が集う名門私立じゃなく、地元の子供が通う公立学校に入る。だが、親からの文化資本をもらっていないので、学校の勉強だけで青息吐息で四苦八苦。知識の積み重ねが問われる数学や英語では、段々と追いつけなくなり、気がつくと成績は「中の下」か「底辺をウロチョロ」だ。中学で躓いた生徒は奈落の底へ一直線。大学受験を目指す進学校じゃなく、競争心が全く無い不良高校か工業高校に入るから、もう大学進学など考えない。担任の教師だって、英単語の綴りさえ覚えていない生徒に英作文を教える訳だから、心の底で「投げやり」となってしまうのだ。子供の学力水準アップには、どのような友達を持つのかも重要で、ディスコ通いを優先するような連中とツルめば学問なんか藪の中。(亡くなった立川談志師匠も、娘の教育には相当手を焼いたらしい。)

  しかし、家庭の躾が良く、向上心に燃えた友人を持ては、それに釣られて「自分も頑張ろう」という気持ちになる。よく、アメリカの黒人が白人学校に通いたがるのは、「勉強する雰囲気」と「優秀な級友」を欲しいからだ。もし、黒人だらけの公立学校に入ってしまえば、周りは下品な不良か、犯罪者予備軍、学問とは無縁のヒップ・ホップ・ダンサーくらい。とても勉強する環境じゃないだろう。だから、中流階級の黒人は我が子を白人と混ぜてもらって、その学力を少しでも引き上げたいと願っている。(ヒラリー・クリントンやオカシオ・コルテスみたいなリベラル派は反撥するけど、現実はやはり否定できない。)

Black boys in Sagging PantsBlack children in America 4







(左 : 黒人街をうろくつ黒人少年  /  右 : 黒人が主流の公立学校に通う子供達)

  下層階級の子供は電車内や学校でも、携帯電話とか電子タブレットに夢中だが、上流階級の子供は案外「伝統的な教育」を受けている。上層中流かスーパーリッチの親は子供の生活に介入し、電子機器の使用を制限したり、TVゲームやスマートフォンを与えなかったりする。例えば、「マイクロ・ソフト社」の創設者であるビル・ゲイツ(Bill Gates)や、「アップル社」の共同創設者で2012年に亡くなったスティーヴ・ジョブス(Steve Jobs)は、自分の子供を心配し、ハイテク機器を与えなかったそうだ。たとえ与えても、その使用時間を制限したらしい。ゲイツ氏はメリンダ夫人との間に、ジェニファー、ローリィ、フィーブという三人の子供をもうけているが、この大富豪は娘がビデオ・ゲームに目覚めると、その使用時間に一定の制限を加えていたという。(Chris Weller, "Bill Gates and Steve Jobs Raised Their Kids Tech-Free And It Should've Been a Red Flag", The Independent, 24 October 2017.)

Bill Gates 02Steve Jobs with family 1








(左 : ビル・ゲイツ氏の家族  /  右 : スティーヴ・ジョブズ氏の家族)

  一方、ジョブズ氏はロウリーン夫人との間に息子のリード、娘のエリンとイヴをもうけていた。IT産業で成功したジョブズ氏は、新製品のiPadが世に出た時、子供達にその使用を認めなかったそうである。シリコン・ヴァレーの重役達は偽善者というか二枚舌の持ち主で、他人の子供には最新型のスマートフォンや高性能のタブレット、あるいは高価なパソコンを売りつけているが、自分の子供には“昔ながら”の教育を施し、“紙”の本を与えて「創造性」が豊かになるよう育てている。高度な知識を持つアメリカ人は、電子機器の中毒性に気づいているので、可愛い我が子に与えることをためらう。ハイテク産業の大御所たちは、巨額な宣伝費をかけて新製品を売り込んでいるくせに、「こんなモノを与えたらウチの子供が馬鹿になるじゃないか!」と危惧している。一方、何も知らずに買い与えている平民の親は、子供と一緒に大はしゃぎ。高額な通信料金を払っても、新製品の魅力にゾッコンだから、子供への影響なんて考えない。それにしても、こうしたIT業者を眺めていると、つい、禁煙を信条とするタバコ会社の経営者を思い浮かべてしまう。大企業を運営する者は、巷の流行に流されず、長期的な視野で物事を考える。だから、易々とハイテク教育に追従しないのだろう。

  家庭における知育とか徳育に加え「食育」も大切な科目だ。日本人はビックリしちゃうが、アメリカの下層階級には太った子供が多い。これは子供の健康を管理する親が、食材や栄養分に無頓着で、ジャンクフードや加工食品を気軽に与えてしまうからだ。日本でも、子供を連れてマクドナルドに入る母親がいるけど、フレンチ・フライなんか「パーム・オイル」で揚げだ毒と変わらないぞ。頭が空っぽな親は、息子や娘と一緒に有害食品を口にしているけど、子供を太るために金を払っているとは思わない。アメリカでは「カウチ・ポテト族」が生まれるほど、ポテト・チップスの人気は高いが、これも少量の毒を食べているのと同じだ。ジャガイモを油で揚げると成分のアスパラギンがアクリルアミドに変化するので、かなり有害である。この「アクリルアミド(acrylamide)」は接着剤や塗料に用いられる物質だから、本来なら子供に食べさせる代物じゃない。筆者はファストフードを食べないけど、アメリカの黒人を観察するため、昔、NYのバーガーキングやマクドナルドに入って、黒人客の親子連れを眺めたことがある。ミッシェル・オバマ夫人は黒人の成人病を防ごうと躍起になっていたけど、黒人の肥満って中々根絶できないぞ。

  アメリカで子育てをするのは大変で、いくら自宅で健康な料理を作っても、子供が友達の家に招かれれば、家庭の努力は一瞬で水の泡だ。何しろ、提供されるのがバケツに入ったアイスクリームか、巨大なオレオ、恐ろしく甘いスニッカーズ、チョコレートに砂糖を加えたブラウニー、脂肪がつきやすいラザーニャとか冷凍ピザときている。三宅一生の服を気に入っていたジョブズ氏は、健康を気遣っていたのか、前々から菜食主義者で、特に日本の料理を好んでいた。まぁ、有害食品のベーコンを焼いてハッシュド・ポテトを貪るアメリカ人からすれば、日本の食事はどれも健康食品に見えるんだろう。正体不明のホットドックに保存料てんこ盛りのケチャップをかけて喰うのは庶民階級のアメリカ人くらい。高額所得のエリート・ビジネスマンは食事の“質”を考慮し、なるべく有害食材を回避するよう普段から心掛けている。アメリカ社会を詳しく調べてみれば判るけど、下層階級の労働者が異常に太っている一方で、大企業の重役とか知識人には痩せている人が多い。これは、「自分の健康を管理できない奴が会社を管理できるのか」という思想に基づいているからだ。

  現在、保守派国民は日本の学力が落ちていると心配している。でも、そんな事は何十年も前から分かっていることだ。軍隊を放棄した日本では兵器の開発や製造が疎かになったから、科学技術が段々と衰退したのは当然の帰結である。また、左翼教師が学校を占拠し、平等主義を以てエリート撲滅に邁進していれば、日本人の知的水準が低下し、愚民が増えるのも当たり前だ。思考能力が劣る文科省の官僚は、学校に銭をばら撒けば学力が向上すると思っている。しかし、そんなことをしても、公立学校で問題となっている無気力児童の改善にはなるまい。親が出来ないことを教師に求めるなんて、基本的に間違っている。只でさえ、教師には余裕が無く、雑務に追われているのに、これ以上「きめ細かな教育指導」なんて無理。教師の方が不登校になってしまうだろう。

  とにかく、学校の改善より厄介なのは、親と子供が持つ意識の改革で、これは家庭の問題となるので非常に難しい。教育論は誰でも参加でき、様々な「持論」が飛び交ってしまうので、結局、「現状維持」か「他人任せ」という方針になってしまいがちだ。そもそも、日本人自身がどんな国家を目指しているのか曖昧なんだから、国民教育は各家庭の自由裁量となってしまうだろう。高学歴で高収入の親は、子供を学習塾に通わせ、有名大学に送り込むのを目標としている一方で、学歴と所得が低い親は、子供に相続させる文化的遺産が無いから、本人の努力を期待するしかない。昔の日本ならこれでもいいが、アジアから安い労働者が入ってくる時代となれば別。異人種が増える「これからの日本」だと、公立学校は益々酷くなるはず。アジア移民の子供と一緒にされた日本人の子供は学力低下に悩み、低所得の仕事にしか就けないから、下層階級の悪循環に陥って一生抜け出すことができない。教育格差と身分階級が固定化する未来はすぐ間近である。



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盲目の基準で多様性を ! / 血統を隠したい人々(後編)

種の保存を憎む敵対分子

  最近の日本人は歐米人と同じく、国民の“質”が肉体的に変わってきている。一般国民でも、サッカーの国際試合やオリンピック競技を見れば一目瞭然だ。例えば、フランスのサッカー代表チームを見てみると、アフリカ人やアラブ人が主体で、ケルト系のガリア人が何処に居るのか判らない。たとえ、白人選手を見つけても、父親がロシア人かポーランド人であったり、母親がトルコ人やユダヤ人であったりする。日本のスポーツ界にも“国際化”の波が押し寄せ、黒や茶色の選手が目立つようになってきた。

  例えば、陸上競技選手のサニー・ブラウン・アブデル・ハキームとか、テニス選手の大坂なおみである。前者の父親はガーナ人で、後者の父親はアメリカ黒人であるという。アメリカのバスケットボール界で活躍する八村塁もアフリカ系の混血児で、父親はベナン人であるらしい。米国に居住する八村選手は、アフリカ人の血が騒いだのか、「黒人の命も大切だ運動(BLM)」に共鳴し、抗議デモでアメリカ黒人と一緒に歩いていた。筆者の勝手な感想だが、彼は黒人の群れにとても馴染んでいて“違和感”が無い。もし、イチロー選手や野茂英雄が抗議活動に参加していたら、何となく“場違い”に思えてしまうだろう。

  先進国の左翼白人は民族的同質性を尊ぶ日本人を見て、「遅れた考えの持ち主だなぁ~」と見下すが、祖先から継承する遺伝子を保存することは別に悪いことじゃない。肉体だけではなく、相続した遺産の数々を思い出してみれば解ることだ。例えば、江戸時代から続く旧家では、昔からある白壁の藏とか庭の木を大切にするし、お殿様から拝領した刀を鄭重に保存していたりする。また、老舗旅館を経営する五代目とか六代目の主人は、息子や孫に継がせようと考えるし、若女将にする女房だって“それなり”の女性というのが普通だ。いくら「ベタ惚れ」といっても、カラオケ・パブのフィリピン人酌婦とか乳房を見せながら踊るタイ人娘、あるいは、密入国者の親から生まれた博打屋の朝鮮人じゃ世間体が悪い。黒人女性を嫁にすると子供がアフリカ人の顔つきで、縮れ毛の“ちび黒サンボ”にってしまうから、こちらも敬遠される虞(おそれ)がある。

  かといって、イスラム教徒のアラブ人じゃ、宗教的誡律で日常生活がしんどい。ブルカやチャドルを着た若女将が現れたら、お客の方がビビっちゃう。しかも、子供が中東系のムスリムじゃ、学校でイジメられるかも知れないし、給食での豚肉料理が問題になるから、毎日弁当持参になってしまうだろう。やっぱり、日本人には日本人配偶者の方がいい。ただし、美形の西歐人だと話題になって好都合。以前、地上波テレビ局が日本人の旅館経営者と結婚したアメリカ人女性を取り上げ、「青い瞳の美人女将」という企画で、その旅館を紹介したことがある。人種によってはプラスになることもあるので、一概に「外国人は駄目」という訳ではない。(日本のテレビ局は結構レイシストだから、言っている事とやっている事が違っていても、そんなに異常ではない。また、旅館に来た宿泊客も喜んでいたから、左翼分子が言うように、日本人は「排外主義者」じゃないぞ。朝鮮人や支那人が嫌いなだけだ。)

  文化人類学を専攻する左翼学者は、「人種など社会が作り出した概念に過ぎない !」と言って小馬鹿にするが、人間の容姿はその精神に大きな影響を与えるものである。各種族は肉体的に違っており、どの民族もそれぞれの特質を自慢してもいいはずだが、ひょんな事から異民族の中に住み始めると、自分の外見が厭になる場合がある。例えば、嘗てアフリカ人女性は、どっしりした体型や突き出た尻を自慢していたが、アメリカやヨーロッパに住む黒人女性は、貧弱で痩せた西洋人を理想とし、何割かの黒人女性は白い肌や直毛の金髪、青い瞳に憧れている。しかし、ヨーロッパ人女性はコンゴやザイール、ジャマイカに移り住んでも、鼻孔を大きくしたり、肌を焼いて縮れ毛にすることは滅多にない。本当は、風習の違う異国へ移り住むアフリカ人の方が悪いんだが、白人女性が自らの遺伝を誇りにすると、何故か多民族主義者から攻撃され、一方的に“白人至上主義者”と糾弾されてしまうのだ。

Cornelia Grimsmo 11(左  / コーネリア・グリムスモ )
  例えば、ノルウェー人モデルのコーネリア・グリムスモ(Cornelia Grimsmo)は、自分のYouTube番組を持っており、様々な話題で番組を作っているが、ある時、自分のDNAを調べる動画を流した。彼女はDNA検査の簡易キットを購入し、綿棒に唾液をつけ、それを研究所に送って結果を待っていた。後日、コーネリアは番組で返送されたデータを公開し、彼女の細胞にはスカンジナヴィアの祖先であろうと推測される遺伝子が67.1%、アイルランド人24.2%とフィンランド人8.7%の遺伝子が含まれていることが判明した。まぁ、ノルウェー人だから近場の遺伝子が多いのは当たり前なのだが、北歐人でもバルカン半島や北アフリカ、アラビア半島のDNAを含んでいる人は結構多い。たぶん、祖父母とか曾祖父母の中に移民がいたりするのだろう。また、第19世紀のヨーロッパ人はアジアやアフリカに植民地を持っていたから、祖父が赴任先の外国で現地妻を娶っていたというケースも有り得る。それに、祖母がシリア人とかエジプト人との混血であったというケースもあるから、ヨーロッパ人にも様々な混血児がいるようだ。白人に見えるイギリス人やオランダ人でも、DNAを調べたりすると、意外にもイタリア人やギリシア人、あるいはアラブ人やインド人、ユダヤ人などの遺伝子が混ざっていたりするので、本人が驚く場合が多い。だから、第19世紀に種の保存を提唱する優生学が流行ったのも当然だ。

  ここで刮目すべき問題は、コーネリアの動画がどう評価されたかである。彼女の番組は主にファッションとか食事、旅行を題材にしているので、再生回数は平均して1万から3万回数くらいで、そんなに多くない。しかし、遺伝子調査の動画は3ヶ月間で約11万回もあり、彼女としては意外なヒットであったが、高評価の数は1,609しかなく、低評価になると約1万2千に跳ね上がっていた。どのような人物がケチをつけていたのか判らないが、おそらく、ヨーロッパ人以外の視聴者が低評価を下していたのかも知れない。歐米諸国では左翼学者が白人社会を攻撃する赤い“社会学”を発展させ、ヨーロッパ人やアメリカ人を洗脳している。

  例えば、2007年にインドで亡くなったルース・フランケンバーグ(Ruth Alice Emma Grankenberg)は、カルフォルニア大学(Davis校)で「白人研究(whiteness studies)」を学生に教え、白人の罪(white guilt)を植え付けていた。彼女は著書『白人女性、人種問題(White Women, Race Matters)』中で様々な白人にインタヴューを行い、彼らが如何に酷い人種偏見を持っているかを蕩々と述べていた。しかし、彼女が接触する人物は大半が左巻きの白人女性で、高学歴だが頭はクルクルパー。自分が受けた洗脳教育に築いていないのだ。ルース自身もかなり“特殊な人物”で、米国の西海岸にいるマルキスト系知識人。一応、ルースは英国生まれの学者であるが、研究の場所はアメリカとインドであった。彼女はリベラル派の同性愛者で、“パートナー(同棲相手)”はインド人学者のラタ・マニ(Lata Mani)というフェミニスト。この「寡婦?」もカルフォルニア大学で「白人研究」に打ち込んでいた。この二人と比べたら、「おすぎ」と「ピーコ」の方がよっぽど“まとも”に思えてくる。

Ruth Frankenberg 2Lata Mani 5Roland Frankenberg 1








( 左 : ルース・フランケンバーグ  / 中央 : ラタ・マニ  /   右 : ローランド・フランケンバーグ)

  ルースの素性というか血統は明らかではないが、父親のローランドはマンチェスター学派の人類学者で、共産党シンパであった。これは筆者の邪推なんだが、ローランドは世俗派のユダヤ人なのかも知れない。なぜなら、「フランケンバーグ」という家族名はユダヤ人に多いし、彼の母親であるサラの旧姓は「ザイオン(Zaions / シオンの意味)」であるから、英国へ渡ってきたユダヤ人かも知れない。かつて「007 ボンド・ガール」を務めた英国の女優ジェイン・シーモアは、ユダヤ人の父親を持ち、本名は「ジョイス・ペネロープ・ウィルヘルミナ・フランケンバーグ(Joyce Penelope Wilhelmina Frankenberg)」である。(ただし、彼女の母親はオランダ系のプロテスタント信徒。) ローランドも家系を明らかにしていないが、彼はマンチェスター学派の創設者でユダヤ人のマックス・グラックマン(Herman Max Gluckman)の弟子ときているから、何となく「ユダヤ繋がり」という雰囲気が漂っている。

Max Gluckman 2Franz Boas 1Claude Levi Strauss 3Edward Sapir 1







(左 : マックス・グラックマン  /  フランツ・ボアス / クロード・レヴィ=ストロース  /  右 :  エドワード・サピア)

  異文化や外国語を専攻するユダヤ人は、「同胞で群れる」あるいは「惹かれ合う」という性質を持っているので、ユダヤ人の師弟関係は少なくない。日本人は歐米の学者を国籍だけで判断するが、その血統を調べてみると、イギリス人やフランス人ではなく、ユダヤ人の血を引く世俗派や隠れユダヤ人であったりする。例えば、米国で学閥を築いた人類学者のフランツ・ボアス(Franz Boas)とか、フランスの文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)や、構造言語学で有名なエドワード・サピア(Edward Sapir)、左翼に好評の言語学者ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky)もユダヤ人だ。巷の書店で翻訳本がたくさん出ているジャレッド・ダイアモンド(Jared Diamond)、極左社会学者のエルンスト・ゲルナー(Ernest Gellner)、社会心理学者のエミール・デュルケム(David Émile Durkheim)も同類である。ユダヤ人は歐米社会での異人種(異邦人)なので、常に自らの容姿や文化に敏感で、「異質性」を嫌う西歐人に敵愾心を燃やしている。だから、人類学とか社会学を専攻し、西歐人のレイシズムを攻撃しながら、自分達の地位を守ろうと躍起だ。まともな、西歐人学者なら、自らの民族や歴史を貶めて「文化相対性」を叫び、アジア人やアフリカ人と平等になろうとは思わない。

Emile Durkheim 2Ernest Gellner 1Jared Diamond 1Noam Chomsky 1








(左 : エミール・デュルケム   / エルンスト・ゲルナー  /  ジャレッド・ダイアモンド / 右: ノーム・チョムスキー)

   多文化・多民族主義というのは、文化破壊型のマルクス主義に立脚し、ヨーロッパ人の伝統や文化のみならず、その精神と肉体をも破壊し、別の人間に造り変えようとする。なぜか? それは、既存の社会体制とか伝統的な意識を破壊しないと、理想的な“革命”を実現できないからだ。日本の左翼教授が明治維新を嫌う理由は色々あるが、その一つは、日本人が皇室を廃止せず、むしろ建武の中興みたいに皇室の権威を復活させ、あろう事か政治の中枢に据えてしまったからだ。しかも、維新の主体は百姓とか職人(怒れる下層民)じゃなく、朝廷に忠実な武士であったから、フランス革命やボルシェビキ革命を理想とする学者は頭にくるじゃないか。やはり、革命はプロレタリアートが主人公でなきゃ。大塚久雄みたいな東大教授が、「日本には市民革命が無い !」と叫ぶのは、明治維新に“不満足”な点があったからだろう。つまり、血に飢えた百姓一揆とか、皇族を皆殺しにするリンチ裁判が無かったからだ。フランクフルト学派のイタリア人、アントニオ・グラムシが悔しがったのは、イタリアの労働者が革命に対して非常に鈍感で、地主とか神父などの「邪魔者」に従順であった点である。だから、彼は獄中で民衆を変革する指南書を考えていた。

  歐米諸国では、ヨーロッパ人に恨みを抱くユダヤ人や白人に不満を募らせる有色人種が、大学やシンクタンクに潜り込んで、現地人に左翼史観や罪悪感を植え付けている。英国も悲惨な状態だ。例えば、多文化主義を飯の種にしたビク・パレク(Bhikhu Parekh)は、インドからやって来たマルキストであった。この赤いアジア人は「学問的功績」とやらを讃えられ、男爵の地位を授けられた。タリク・マドゥード(Tariq Modood)もイギリス人に恨みを抱く多文化主義者で、ブリストル大学で教鞭を執り、有色移民の地位向上に奮闘していたから、学術界の著名人だ。彼も“学問的功績”を認められて、「大英帝国勲章(Order of the British Empire)」を授けられ、英国アカデミーの会員(Fellow of British Academy)になったという。でも、日本人から見れば、パキスタン人の騎士なんて漫画にもならない。

Bhikhu Parekh 1Tariq Modood 001Victor Adeowale 3Nazir Ahmed 1







(左 : ビク・パレク   / タリク・マドゥード  /  ヴィクター・アデボワール卿  / 右 :  ナジール・アフメッド )

  日本のマスコミアは、ジョンソン首相やヘンリー王子夫妻のゴシップくらいしか報道しないので、ブリテンの貴族院がどうなっているのか、一般国民にはよく分からない。しかし、爵位を持つ議員を眺めていると、「えっ、こんな人が英国貴族なの?」と驚いてしまう。というのも、王室が見境なくアジア人やアフリカ人に爵位を与えてしまうからだ。例えば、ヴィクター・アデボワール卿(Lord Victor Adebowale)とか、ナジール・アフメッド卿(LOrd Nazir Ahmed)、マイケル・ヘイスティング卿(Lord Michael Hastings)、ディリジット・ラーナ卿(Lord Diljit Rana)、ハラー・アフシャー男爵夫人(Baroness Haleh Afshar)、フローエラ・ベンジャミン男爵夫人(Baroness Floella Benjamin)、ヴァレリー・アモス男爵夫人(Baroness Valerie Amos)、ドリーン・ローレンス男爵夫人(Baroness Doreen Lawrence)などを目にすると、「爵位販売でもしているんじゃないか?」と思えてくる。だいたい、君主政を支持するイングランドの民衆は、こうした非英国的有色貴族を尊敬しているのか? こうした連中を前にして、恭しく「マイ・ロード」とか「マイ・レイディー」と呼びかけるなんて、筆者にはとうてい理解できない。

Floella Benjamin 2Valerie Amos 01Haleh Afshar 02Doreen Lawrence 3








(左 : フローエラ・ベンジャミン /  ヴァレリー・アモス  /  ハラー・アフシャー  /  右 : ドリーン・ローレンス )

  英国史を学んだ日本人なら、貴族らしい貴族を想像できるはずだ。例えば、首相を務めたスタンリー・ボールドウィン伯爵(1st Earl Stanley Baldwin)とか、外務大臣を務めたエドワード・グレイ卿(Sir Edward Grey / 1st Viscount Grey of Fallodon)、あるいはチェスタフィールド卿として知られるフィリップ・スタンホープ(Philip Stanhope)、第11代ベッドフォード公爵のハーブランド・ラッセル(Herbrand Arthur Russell)、第9代デヴォンシャイアー公爵のヴィクター・カヴェンデッシュ(Victor Vavendish)、第19代サマセット公爵のジョン・セイモア(John M.E.Seymour)を思い出すんじゃないか。英国貴族なら“それなり”の威厳がなきゃ。日本だって、藩主や家老になる人物には、先祖から受け継ぐ権威の後光があるものだ。

Stanley Baldwin 01Edward Grey 01Herbrand Russell 11th Duke of BedfordDuke of Somerset John Michael Edward Seymour







(左 : スタンリー・ボールドウィン  /  エドワード・グレイ  /  ハーブランド・ラッセル  /  右 : ジョン・セイモア )

Hugh Grosvenor 002( 左 / ウェストミンスター公爵のヒュー・グロスヴナー )
  一般の日本人は英国貴族に興味は無いが、若い日本人女性だと、第7代ウェストミンスター公爵になったばかりのヒュー・グロスヴナー(Hugh R.L.Grosvenor)に目がとまるだろう。彼は若くてハンサムなうえに、約90億ユーロの遺産を相続したというから、誰が見ても魅力的だ。(彼は平成3年生まれで、まだ29歳という青年貴族。) しかも、将来の国王になるプリンス・ジョージのゴッドファーザー(代父)というから凄い。たぶん、西歐諸国の美人モデルや大富豪のお嬢様が狙っているんじゃないか。ちなみに、貴族らしく華やかだと思うのは、ラトランド公爵(Duke of Rutland)の御令嬢であるレイディー・ヴァイオレット(Lady Violet Manners)だろう。この公爵家に生まれた三姉妹は美人との評判で、ヴァイオレットの姉妹には、アリスとエリザベスがいる。彼女達は世間の注目を浴びているから、雑誌やテレビの取材が次々と舞い込んでくる。こうした世襲貴族を見れば、「やはり、こっちの貴族の方がイギリス人らしいよなぁ~」と思えてしまう。

Violet Manners 001Alice Manners 2Violet Elizabeth Alice Manners 1








( 左 : ヴァイオレット・マナーズ /  中央 : アリス・マナーズ /  右 : ラトランド公爵家の三姉妹 )

   脱線したので話を戻す。人種関係を専攻する学者には矢鱈とマルキストが多い。ハムザ・アラヴィ(Hamza Alavi)もパキスタン出身の赤い学者で、サセックス大学やマンチェスター大学で教職に就いていた。ハムザは「人種差別反対運動(Campaign Against Racial Discrimination / CARD)」のメンバーだったけど、彼と一緒に行動していた有名人には、デイヴィッド・ピット(David Pitt)なる人物もいる。名前からすればブラッド・ピット(俳優)やウィリアム・ピット(首相)みたいだが、このピットはグレナダ出身のインド人。でも、顕著な功績があったのか、ハンプステッドの男爵(Baron of Hampstead)に昇格し、「ピットの旦那(Lord Pitt)」と呼ばれていた。多文化主義とくれば、ユダヤ人の活動家を忘れてはならない。法律家のアンソニー・レスター(Anthony Lester)とジャーナリストのジム・ローズ(Eliot Joseph Benn “Jim” Rose)は、「ラニミード・トラスト(Runnymede Trust)」というシンクタンクを創設し、人種問題を取り扱う報告書を作成したり、ブリテン各地を廻って「啓蒙講座」を開いていた。ここの所長を務めていたのが、後に「平等・人権委員会(Equality and Human Rights Commission)」の議長となったトレヴァー・フィリップ(Trevor Phillip)だ。彼は学生時代、ユダヤ人の左翼分子とツルんで白人社会を批判していた。

Hamza Alavi 01David Pitt 01Anthony Lester 11Trevor Phillips 01








( 左 :  ハムザ・アラヴィ / デイヴィッド・ピット  / アンソニー・レスター  /  右 : トレヴァー・フィリップ )

  イギリス人のレイシズムを激しく批判する黒人と言えば、まづ、あの「マイケルX」が頭にに思い浮かんでくる。彼はアメリカの黒人活動家である、あの有名な「マルコムX」に影響を受けた人物で、本名は「マイケル・デ・フレイタス(Michael de Freitas)」という。しかし、後に「マイケル・マリク(Michael Malik)」と改名し、一般的には「マイケルX」の藝名で通っている。彼はトリニタド・トバコ出身の黒人で、もう匙を投げるくらい兇暴なゴロツキ黒人であった。でも、何かと話題になったから、映画や小説で取り上げられている。例えば、ジェイソン・スタテイサム(Jason Statham)とサフロン・バローズ(Saffron Dominique Burrows)が共演した、『バンク・ジョブ(The Bank Job)』という英国映画にも、マイケルXのキャラクターが登場し、ピーター・デ・ジャージー(Peter de Jersey)が演じていた。

Saffron Burrows 4Jason Statham 3Michael X 001








(左 : サフロン・バローズ  /  中央 : ジェイソン・スタテイサム / 右 : 「マイケルX」と称したマイケル・マリク)

Alan Cumming 3(左  / アラン・カミング)
  ちなみに、モデル上がりのバローズもかなりの左翼であるらしく、父親は社会主義者で、母親はフェミニストであったという。娘のサフロンは幼い頃から人種平等や人権思想に熱心で、11歳の時には早くも反レイシズムの団体に所属し、その後、公民権運動の組織を率いる副代表になった。(Charlotte Philby, "My Secret Life" The Independent, 31 May 2008.) さらに、彼女は「バイセクシャル(両性愛者)」である。かつて彼女が交際していたのは、これまたバイセクシャルのハリウッド男優、アラン・カミング(Alan Cumming)だ。(カミングはTVドラマ『インスティンクト』で主演を果たしたが、一般的には『Xメン-2』で「ナイトクローラー」を演じた役者として有名である。) アランもウンザリするような極左分子で、LGBT(同性愛者や性転換者)の支持者にして、ヴィーガン(Vegan / 獣肉忌避者)嗜好の無神論者ときている。でも、何かの功績があるのか、「大英帝国勲章」を貰っているんだって。(余計なお世話だけど、いったいイギリス人は、どんな神経をしているのか?)

  またもや脱線したので話を戻す。CARDの創立メンバーたるランジャナ・アッシュ(Ranjana Ash)も極左活動家(マルキスト)で、このインド人学者は、有名な左翼キャスターであったウィリアム・アッシユ(William Franklin Ash)の再婚相手。(一番目の女房はパトリシア・ランボウルト。) テキサス生まれのウィリアムは元々左翼的傾向が強い青年で、カナダ軍の航空隊に入って「スピットファイアー(戦闘機)」のパイロットになった変人だ。彼は第二次世界大戦に参加した時、不運にも戦争捕虜になってしまった。しかし、戦争中の功績が認められ、国王陛下から大英帝国勲章を授与される。ところが、この叙勲がアメリカ国籍の剥奪になってしまったから、人生とは不可思議なもので、山あり谷あり、「まさか」の落とし穴まである。ウィリアムは軍人生活を辞めて放送業界に転職し、インドへ赴任した時にランジャナと出逢ったらしい。彼は英国共産党(CPGB)に入りたかったが、門前で拒絶されたので、分派の「マルクス・レーニン英国共産党(Communist Party of Britain Marxist-Leninist / CPB-ML)」に入ったそうだ。この「CPB-ML」は「CPGB」と決裂したレジナルド・バーチ(Reginald Birch)が創った政党で、何が違うのか一般人にはよく分からない。

Rajana Ash 1William Ash 3Reginald Birch 01







(左 :  ランジャナ・アッシュ  / 中央 : ウィリアム・アッシユ  /  右 : レジナルド・バーチ )

  ちなみに、名優スティーヴ・マックィーン(Steve McQueen)は1963年、『大脱走(THe Great Escape)』に出演したけど、彼が演じたアメリカ兵のヴァージル・ヒルツはアッシュがモデル。この元アメリカ人は飛行機乗りだったが、マックィーンの方は地上を走るレーシング・カーに夢中だった。マックィーンは元海兵隊員であったから、軍人役は板に附いていたけど、それよりも“絵”になったのは、愛車の「ジャガー」や「フェラーリ」に乗る姿だった。まるで映画のワン・シーンみたい。彼が1968年に出演した映画、『ブリット(Bullitt)』では激しいカーチェイスが満載で、マックィーンはフォード・ムスタングを乗り回していた。(アメリカ人って、今でも燃費が悪いムスタングとかトランザムが大好き。) でも彼の私生活を知るアメリカ人が映画を観ると、半分“趣味”のような仕事に思えてくる。

  毎度の事ながら、一旦、学校が左翼に占領されると、国家は致命的な打撃を受けてしまう。何も知らない庶民の子供達は、強制的に自虐史観を学ばされ、帝国主義の罪過を詫びるよう躾けられる。西歐や北米の学校では、祖先が犯した罪、すなわちアジア人やアフリカ人への虐待を「これでもか !」と執拗に植え付けられるから、小学生や中学生は自分の種族や先祖を誇ることができない。歴史の授業を受ければ、アフリカ人を奴隷にしたとか、アメリカ大陸の原住民を虐殺したと責められ、白人は“根っからの差別主義者”と教えられる。これじゃあ、額に刻まれた刺青と同じだ。こんな教育が普及すれば、一般の西歐系国民が異常なほど卑屈になり、跪いて黒人や南米人に譲歩しても不思議じゃない。

人種的多様性を求められるオーケストラ

  最近、ある興味深い出来事があった。新聞報道によれば、米国のクラッシック音楽界でも「人種的多様性」の嵐が吹き荒れているというのだ。アメリカのオーケストラ楽団は依然として白人が多数派で、有色人種の団員は極僅かであるという。特に、上位の演奏家を見てみると、黒人が締める割合は全体の1.8%に過ぎず、ラテン系でも2.5%であるらしい。(Anthony Tommasini, "To Make Orchestras More Diverse, End Blind Auditions", The New York Times, July 16, 2020.) 多文化主義者や公民権運動の活動家は、国内の人種構成を反映していない楽団を槍玉に挙げ、演奏者の外見に囚われず、実力で以て団員を決めるべきだ、と主張していた。それゆえ、彼らは実力主義に基づく「盲目のオーディション(blind auditions)」を提唱している。

  しかし、これはおかしい。いくらクラッシック音楽とはいえ、楽団は民間の文化的組織であり、所詮、お客様から銭をもらって娯楽を提供する商売に過ぎない。そもそも、私的な藝人集団なのに、「人種や容姿を無視して、実力だけで採用しろ !」と強要するなんて横暴だ。観客からの要望なら分かるが、人権屋とか左翼分子からの脅迫で、特定のメンバーを迎えるなんて馬鹿げている。もし、お客が黒人やヒスパニックの楽団を望んでいるなら、全員が黒人とか、ヒスパニックとアジア人の混成オーケストラを作ればいいじゃないか。どうして白人が主体のオーケストラにイチャモンをつけて、「俺達も入れろ ! 差別だぞ !」と凄むのか? ヨーロッパやアメリカでコンサートにやって来る白人客は、同じ容姿のヴァイオリニストやチェリストが演奏する古典音楽を楽しみたいのだ。

  もし、黒人演奏家に優秀な者が多いのであれば、彼らだけでオーケストラを編成し、高値のチケットを販売すればいいじゃないか。実力で選ばれた演奏家集団なんだから、いくらでも観客を呼ぶことができるだろう。でも、こうした黒人楽団にはスポンサーやプロモーターが附かず、チケットの売れ行きも芳しくない。日本への演奏ツアーなんか企画の段階で「ボツ」だろう。そもそも、黒人演奏家を支援する黒人観客やパトロンが少ないし、アジア人やユダヤ人のクラッシック・ファンでさえ、「黒人ばかりじゃなぁ~」と呟いてチケットを買うことはない。「モータウン・レコード社(Motown Records)」なら、スティーヴィー・ワンダーとかダイアナ・ロス、ライオネル・リッチーを取り揃えて、ジャンジャン儲けるけど、黒人のヴァイオリニストを雇ってJ.S.パッハの協奏曲を上演させても、大した売り上げにはなるまい。(ここでは関係ないけど、令和の高校生や大学生だと、もう「マーヴィン・ゲイ(Marvin Gaye)」とか「ファンク・ブラザーズ(The Funk Brothers)」と言っても分からないようだ。大ヒット曲の『Reach Out, I'll Be There』を紹介しても、「それ何? 聴いたことがない !」といった反応しかない。昭和ってもう大昔なんだよねぇ~。) とにかく、有色人種のオーケストラは評判や地位が上がらず、採算が合わない三流集団ということだ。

Stevie Wonder 2Diana Ross 2Lionel Richie 3Marvin Gaye 3







( 左 : スティーヴィー・ワンダー / ダイアナ・ロス   / ライオネル・リッチー  /  右 : マーヴィン・ゲイ)

  たぶん、日本でもアフリカ・アジア・ヒスパニックの演奏団は人気が上がらず、話題にもならないだろう。例えば、ウィーン少年合唱団が来日すれば、そこそこのチケット売り上げとなるが、もし、構成員がトルコ人やイラク人、ソマリア人、モロッコ人、ベンガル人、フィリピン人、カザフスタン人などであったら、いくらオーストリア国籍を持っていても「ウィーンの少年合唱団」とは見なされない。ラジオで彼らの歌声を聞くのであれば問題は無いが、コンサート・ホールに足を運んで目にするとなれば別である。また、東京ディズニーランドに赴く日本人だって、白雪姫やシンデレラの役者が、漆黒のアフリカ人や褐色のアフガニスタン人、整形前の朝鮮人とかフーマンチューみたいな支那人、南洋出身のタガログ族とかサモア人だったらガッカリするだろう。やはり、西歐白人の女性でなきゃ嬉しくない。ディズニーランド側だってお客の“好み”を察しているから、在日のアメリカ人やオランダ人、ウクライナ人、ドイツ人などをこっそり募集して、その中から美人を選んでいる。社会正義とか平等主義などは教科書の中に書かれている絵空事で、実際のビジネスではレイシズムなんか当たり前だ。お客様が満足し、また来場してくれるよう考えるのが商売人で、利益拡大の苦労を知らない大学教授や法務省の役人が口にする「正義・公平」は、単なる子供の戯言(ざれごと)だ。他人の銭で喰っている連中には、商売の厳しさなんか分からない。

  日本ではまだ、アジア系帰化人を“平等”に扱う積極的優遇政策(affirmative action)に晒されていないが、このまま移民が激増すれば、やがて黒や茶色の異邦人を渋々でも雇う破目になるだろう。特に、接客業界の経営者は、店の雰囲気とかイメージを考慮して、窓口とか接待コーナーに若い娘や綺麗な女性を配置するので、どうしても標的にされやすい。これまで、我々は日本の学校や会社であれば、クラスの同級生は日本人で、職場の同僚も日本人と思ってきた。しかし、令和の時代からはベトナム人やフィリピン人の級友がいてもおかしくはなく、息子や娘の結婚相手もアジア系混血児とか、帰化人の子供になる可能性が高い。そうなれば、段々、祖父母や曾祖父母と違った容姿の子孫が誕生することになる。

  昭和の頃までは、庶民であっても家系や血統の重要性を感じていたが、平成の教育では“根無し草の個人”が称讃され、「今が幸せなら、それで良い !」という人生観になってしまった。つまり、野良犬のように成長し、野原で見つけた異性の野犬と交尾する。性欲だけで繁殖する動物は、祖先や子孫に興味が無いから、雑種の仔犬をもうけても気にすることはない。仔犬も成長すれば、自然と親元を離れて行き、好き勝手な生活を送るだけ。残された親犬はひっそりと孤独死。国家・民族意識を失った日本人も同じで、目の前にある餌に関心があるだけで、子供の血統はどうでもよく、孫や曾孫がどんな肉体になろうがお構いなし。そもそも、学校の先生が文明を憎んだジャン=ジャック・ルソーの信奉者で、自然界に住む「未開人」を「理想の人間」としているんだから話にならない。こんな教育を受けた国民は、放埒なセックスを楽しみ、ちょいと美味い料理を食べれば、それで満足。後は、自分の年金が確保され、医療福祉が充実していればOK。国土が支那人に侵掠されても騒がないし、同胞が朝鮮人に拉致されたって平気だ。「今だけ、金だけ、自分だけ !」が高等教育を受けた日本人のモットーだ。面倒な安全保障とか国家の名誉なんて端っから頭に無い。日本は古代ローマ帝国と同じく、気づいたら「亡くなっていた」という運命を辿るのかも知れないぞ。


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