黒木 頼景
成甲書房
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格差社会における教育の質
(写真 / 「教育格差」社会で成長するアメリカの子供達 )
日本の国民はかつて教育熱心だった。しかし、今きや教育は銭儲けか見栄を張るための道具と化し、「学歴」という看板を積んだロバの大量生産になってしまったようだ。ほとんどの日本人は目先の事件に目を奪われ、長期的な視野を持って現在を見る事ができない。今年は武漢ウイルスが蔓延して、多くの国民が生死の境をうろついたから、視聴率至上主義のマスコミは大喜び。マンネリ化した「花粉症騒ぎは何処へやら?」だ。政府は感染症患者を見つける一方で、地方の国民に旅行を勧めている。どうせ、税金をばら撒くだけの選挙対策だろう。だが、テレビのワイドショーは二階俊博を糾弾せず、連日連夜、武漢ウイルスの脅威を煽って二次感染の嵐を待っている。老人は武漢肺炎に怯え、中高年は飲み会を断念してショボクレているが、未来を背負う子供達はマスクを着けながら遠隔授業を受けていた。
本来なら、小学校から大学まで新入生を迎えて陽気な勉強生活を送っているはずなのに、今年は、みんなでマスクを装着し、「リモート授業」とやらでお勉強だ。(既に中学生や高校生は学校へ通っているようだが、大学生は未だに学級閉鎖で憧れのキャンパス・ライフは無いらしい。)でも、いくらパソコンの画面を通しての遣り取りといっても、これじゃあ「通信教育」と同じじゃないか。小学生なら休み時間に皆で遊んで給食を食べる、という“楽しみ”があるはずなのに、4月から自宅待機で母親相手の“個人学習”じゃ厭になってくる。独りっ子だと毎日「ママと一緒」でつまらない。やはり、学校で「プロレスごっこ」とか「ボール遊び」で汗をかかなきゃ。(筆者が子供の頃はアントニオ猪木とかスタン・ハンセンが人気だったから、“自習”時間には「卍固め」や「コブラ・ツイスト」の練習で忙しかった。しかし、今、冷静に考えて見れば判るけど、本当の格闘技であんな複雑な技を掛ける奴はいないだろう。そもそも、敵の協力を得て必殺技をカマスなんて有り得ない。)
「インターネットを通しての授業」なんて聞こえはいいが、こんな授業を子供は喜んでいるのか? 確かに、知識というものは、最終的に本人の努力次第であるが、身につける過程において“どう”勉強するかは非常に重要だ。自宅でポツンと坐って練習問題をこなしているだけじゃ味気ない。友達と席を並べて切磋琢磨したり、侃々諤々の議論を通して考えることも大切なのである。いくら、のんびりした性格のボンクラだって、隣の友人が一生懸命勉強していれば“競争心”に火が付くし、「一番になりたい !」という野心を抱く子供だっているだろう。また、“優越感”を得るために一生懸命、辛い鍛錬に励むこともあるはずだ。おそらく、このまま「リモート授業」が長期化したり、「自宅学習」の時間が多くなれば、色々な家庭環境にある子供達の間で、取り返しのつかない教育格差が生まれてくるだろう。
教育評論家は否定するかも知れないが、子供の人生は親の遺伝子や家庭環境で、かなり違ったものになる。例えば、黒人の親を持つ子供はその遺伝的肉体のお陰で優秀な短距離走者とかボクサーになれるし、美人の遺伝子を有した女性は、高額所得のスーパー・モデルとか映画女優になれるだろう。(ただし、男性ファッション・モデルは高給取りになれないそうだ。意外だけと、男のスーパー・モデルというのは滅多に存在しない。) スポーツ分野とは異なり、知的分野だと後天的要素が大きくなるので、本人の努力次第で夢を叶えることもできる。例えば、一般の科学者とか技術者、演奏家、法律家、建築士、医者、薬剤師になろうと思えば一般人でもなれるし、オリンピックで金メダリストになるくらいの狭き門じゃない。しかし、下層階級の親に育てられた子供だと事情が違ってくる。彼らはいくらホワイトカラーの職種を望んでみても、そこに辿り着くまでの学力が不足しているし、大学あるいは大学院に進むための費用を賄えない。やはり、高学歴の親とか、高額所得者の親、あるいは教育熱心な親を持つ子供の方が有利だ。
日本の教育現状に関しては様々な本が出版れており、松岡亮二の『教育格差』といった新書も出ているので、一般人でも手軽に知ることができる。松岡氏の著書では、親の学歴とか収入、社会的地位、住んでいる地域とか学校の種類で子供の学力が左右されることが述べられているが、その中でも注目すべき点は、親から子へと相続される「文化資本」であろう。これはフランスの左翼社会学者、ピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu)とかイェール大学のポール・ディマジオ(Paul DiMaggio)が研究して有名になった。我々でも予想がつくけど、こうした文化資本には3つの形態があるらしい。すなわち、本や美術品などの物財である「客体化された文化資本」、学歴や資格などで承認される「制度化された文化資本」、そして言語力や知識、教養など、簡単に相続されない「身体化された文化資本」である。これらの資本は主に、家庭を通して“ゆっくり”と時間を掛けて伝承される遺産であり、この継承者は高い成績を上げたり、教師から好意的な評価を受けるそうだ。
(左 / ピエール・ブルデュー)
マルキストの変種としか思えないブルデューだが、このフランス人が研究した文化的再生産(Cultural Reproduction)の論文を読んでみると、階級社会で雁字搦めにされたフランス社会への怨念がひしひしと伝わってくる。確かに、家庭のタイプで子供の知的水準が決まってしまう確率は高い。親がどんな読書をしているのか、子供を連れて博物館や劇場に赴いたり、海外旅行を何回経験したのか、あるいは、どんな課外活動に参加したのかや、文化に関する親子間の会話などを調べてみれば、「この親にして、この子あり !」と頷けることもある。ただし、中には「鳶(トンビ)が鷹(タカ)を産む」というケースもあるから、一概に「平凡な親はダメ」とまでは断定できない。でも、一般的には「蛙の子は蛙」というケースが大半だ。昔はよく、恋愛ドラマや少女漫画のキャラクターに惚れて、アホな母親が幼い娘にピアノを習わせたりしたが、大抵の子供は意味が解らず、三日坊主で厭になったものである。第一、母親自身がクラシカル音楽を聴かず、楽器なんか弾いたこともないんだから、子供からすれば迷惑以外の何モノでもない。
だいたい、勝手な願望で我が子に夢を託す親の方が間違っている。娘にショパンやモーツアルトを勧めているくせに、本人はカラオケ店に行って、八代亜紀や石川さゆりの曲を大熱唱とくれば、厳しいレッスンを受け子供は不満爆発だ。もし、娘をピアニストにするなら、先ず母親が弾き馴れたピアノ曲を娘に聴かせ、如何に美しいメロディーであるのかを示すのが先だろう。学校の勉強も同じで、学問に熱中したことが無い親が、子供に対して「有名校を目指した猛勉強しなさい!」と言ったところで、息子や娘は馬耳東風である。もし、父親が「勉強しなくちゃ駄目だぞ!」と叱る一方で、その愛読書が『ヤング・ジャンプ』とか『ビッグコミック・スペリオール』じゃ説得力ゼロだろう。取っている新聞も『スポニチ』で、パソコンを開けばエロ動画のオンパレードじゃ、子供だって百科事典には目もくれず、お父ちゃんと同じ趣味に没頭するぞ。
国立教育政策研究所の調査報告書によれば、両親共「非大卒者」の家庭だと蔵書数(雑誌や教科書、電子書籍を除いた冊数)は10冊くらいで、専門書や学術書は極めて少ない。一方、「大卒者」の親がいる家庭では蔵書数が格段に増え、100冊を超えるケースもある。まぁ、高学歴の教養人なら、シュテファン・ツヴァイクの伝記とかカント全集、エドワード・ギボンの『ローマ帝国の興亡』などが書斎にあるんじゃないか。しかし、小説すら苦手な労働者階級だと、せいぜい『こち亀』の単行本全200巻とか、『ミナミの帝王』全197巻、『キャプテン翼』全37巻が関の山だろう。ただし、漫画の中には『ゴルゴ13』とか『沈黙の艦隊』など、国際政治を扱ったジャンルもあるから一概に悪いとは言えまい。極左学者のエルンスト・ゲルナーとかエリック・ホブズバウム、白井聰、姜尚中の有害図書を読むくらいなら、健全な精神に基づく教養漫画を読んだ方がよっぽどマシである。
ヨーロッパと比べたら日本はほとんど身分格差の無い平民社会だ。しかし、それでも家庭によっては「知的雰囲気」がかなり違ってくる。例えば、親が子供に勉強を教えるとか、何らかの技術を授ける時には、やはり高等教育を受けた親の方が頼もしいし、与える知識の量が断然多い。これは日常会話を調べてみても明白で、高学歴の親だと理数系の知識や藝術にまつわるエピソード、あるいは外国の歴史や地理について詳しく述べることができる。最近は、遠隔授業で英語の教科書を学んだり、数学の練習問題を説いたりする子供が増えたけど、理数系の科目を苦手とする親だと中学生の宿題でも苦労するし、高校の数学や物理となればお手上げだ。非進学校卒の母親が子供の前で、微分積分の問題や数列、あるいは代数幾何を説明するなんて無理だし、かといって横の亭主に助けを求めても、同じ程度の頭だったりするから、「明日、先生に訊いてみようね !」でお終いとなる。だいたい、ギリシア文字なんか習ったことがないから、「ラムダ(λ)」、「ファイ(φ)」、「シグマ(ς)」、「ゼータ(ζ)」を見ても発音できない。かろうじて判るのは「カッパ(κ)」とか「オメガ(Ω」、「ベータ(β)」くらいで、「カイ(χ)」とくれば、「X-Japanの“エックス”じゃないの?」と目を丸くする。
アメリカの大学に通った人なら入試で「SAT」を受けるから実感すると思うが、数学の試験を英語で受けると、色々な和訳用語が判って頷くことがよくある。例えば、有名なのは「関数」で、昔は「函数」と書いたけど、英語だと「function」である。ちなみに、「保形関数」は「automorphic function」、「楕円関数」は「ellipetic function」と言う。「素数」は「prime number」で複素数は「complex number」だ。(中学生には難しいけど、一応説明すると、任意の実数a、bと「虚数単位imaginary unit」の「i」を用いたa+ibという表現が複素数。) 面白いのは「虚数」で、これは「虚しい」からではなく、「想像上の数」ということで、英語だと「imaginary number」だ。「ユークリッド幾何学」の「幾何学」は「geometry」の和訳で、この学問は元々耕地の測量に用いられたから「ge(地)」という言葉がついている。高校生の良い子は数学の先生に「シケリアのディオドロス(Diodorus Siculus)について教えて !」と頼んでね。そうすれば、古代バビロニアで世界史を記した人物とナイル河の氾濫などを詳しく説明してくれるから。あと、ついでに古代ギリシアの数学についても訊いてみればいい。ピタゴラス学派の秘伝を暴露したヒッパソス(Hipasos)なんか、神罰を受けて海で溺れたそうだから。学校の先生は質問しないと教えてくれないから、何も質問しないで黙っていると損である。
脱線したので話を戻す。息子や娘の勉強を監督する親にとって、子供からの“素朴”な質問は結構答えるのが難しい。例えば、息子が「ねぇ、ママ、どうして負(マイナス)と負(マイナス)を掛けると正(プラス)になるの?」と訊けば、「うぅぅ~ん、決まりだから !」と答えるしかない。まさか、複素数平面を持ち出して説明する訳にも行かないだろう。紙に横軸(実軸)を書いて、縦軸(虚軸)を引き、「i」を1回掛けると90度回転し、2回掛けると180度回転するから、と解説しても、子供はチンプンカンプンだ。高校生だって普通の子はフリードリッヒ・ガウス(Johann Carl Friedrich Gauss)を知らないから、「ガウス平面(Gaussuan plane)」を説明されても、半数くらいの生徒は鳩みたいにキョトンとするだけ。(あるいは、コロッケさんのティラノサウルスみたいになっちゃう。) 高校生の数学になると親だって匙を投げるから、研究所に勤める科学者とか技術者の親じゃないと、子供に数学や理科を教えることはできない。例えば、文系の親が「バーゼル問題」を訊かれたって、母親は「今、洗濯物にアイロンかけるから、パパの帰りを待っていてね !」と答えるので精一杯。国文科の母親なんか、逆数が並ぶ数式を見ただけで目眩がする。素数なども「遠い記憶」となっているから、「ルジャンドル予想(Legendre's conjecture)」など“問題外”で、せいぜい「双子素数」を覚えているくらい。サイン・コサイン・タンジェントの三角関数でも記憶が曖昧なんだから、教科書の座標を見たら厭な過去が蘇るだけだ。
(左 : フリードリッヒ・ガウス / 中央 : エドリアン・マリー・ルジャンドル / 右 : ダタトレヤ・R・カプレカ )
一方、文化資本が豊かな親だと、様々なトピックで我が子に知識を授けることができる。例えば、息子を連れて車に乗っている時、前方を走るクルマのナンバー・プレイトを指して、「カプレカ数(Kaprekar's numbers)」を探すこともできるのだ。この「カプレカ操作」は結構病みつきになる。例えば、「173」とか「293」、「495」といった3桁の数字を並べ替え、最大の数から最小の数を引いて元の数になれば「カプレカ数」である。(この数字に気づいたダタトレヤ・R・カプレラ<Dattatreya Ramchandra Kaprekar>は、英国式の教育を受けたインド人であったが、英国の大学教授とはならず、インドの学校で教師になっていたそうだ。)
173 は 731 − 137 = 594 (残念 !)
293 は 932 − 239 = 693 (残念 !)
495 は 954 − 459 = 495 (当たり !)
もし、これが「5829」とか「6174」という4桁の数字になると、
5829 は 9852 − 2589 = 7263 (ハズレ!)
6174 は 7641 − 1467 = 6174 (ビンゴ!)
日本の一般家庭と同じく、労働者階級の父親だと理数系の学問はおろか、歴史や地理でも「ギブ・アップ」となってしまう。しかし、子供の頃から聖書だけは読んでいたりするから、初代皇帝のアウグストゥスやティベリウス帝を含むローマ史とか、地中海の地理くらいは知っている。ただし、当時の知的遺産には無縁だから、プラトンやアリストテレス、ストア派のギリシア哲学なんかは解らない。たとえ、「ヨハネの黙示録」を読んで、神様(天主、救世主イエズス)が「アルファであり、オメガである」と教えられても、かろうじて森羅万象を支配する主権者、ないし全宇宙を設計した超越者といった程度のイメージだ。(「ヨハネの黙示録」1章8節、21章6節、22章13節を参照。) とは言っても、神様はあまりにも漠然としているので、その実態は中々摑めない。例えば、もし天主ヤハウエが「有限」だと宇宙の創造主にならないし、「有限」の外がどうなっているのかが問題になってしまう。だから、西洋の神学者は「無限」と考えることにしていた。でも、今じゃ「宇宙は複数有るかも知れない !」というので、「一体、神様はどんな世界を拵えたのか?」と科学者を悩ます謎となっている。(昔の科学者には「理神論者(deist)」が結構いたものだ。)
それでも、ちょいと教養のあるオヤジなら、「神様は無限なんだけど、数学上の無限には種類があるんだぞ。例えば、最も濃度の小さい“アレフ・ゼロ”があって、その集合に1とか何か別のモノを加えると、“アレフ・ゼロ1”とかになっちゃうんだよねぇ~」と教えることができる。これは集合論と1対1対応を使って説明できるので、中学生や高校生の子供にも理解できる。ところが、藝能ゴシップしか興味の無い親だと、「アレフ(alep)」といったヘブライ文字を聞いたって、何のことやら解らないので、TVドラマの「アルフ(ALF)」しか思いつかない。(この番組は、1986年から1990年にかけて放送されたNBCのコメディー・ホームドラマで、「メルマック星」からやって来た犬型の宇宙人が「ターナー家」に住む居候となる喜劇。日本ではNHKが放送し、宇宙人「アフル」の声優を所ジョージが担当していた。)
目に見えないけど、親子で相続される「文化資本」が、なぜ重要なのかと言えば、それが子供の知的好奇心を喚起するからだ。田舎の公立学校や所謂「底辺校」で勤務する教師なら共感すると思うが、労働者階級の家庭では、親が子供の勉強とか生活態度に干渉しない“放任教育”が通常となっている。親自身が凡庸であったり、元不良だったりするから、幼い子供に本を読み聞かせる事はないし、自然現象に関しても無頓着で説明する事はない。大抵、帰宅してもパチンコに行くか、テレビの野球観戦にかじりつく程度。子供との会話で豊かな教養を授けるなんて皆無だ。両親が近所の噂話で夢中になっているかと思えば、子供はその隣でTVゲームとかスマートフォンに熱中となる。読書の習慣は一向に身につかず、参考書なんか部屋の隅で「積ん読」状態。こんな子供が相手じゃ、いくら学校教師が張り切っても、学力向上なんて夢のまた夢である。
文科省の高級官僚は、学習指導要綱をいじくれば何とかなると思っているが、凡庸な腕白小僧と低学力の児童をまかされた教師は堪ったもんじゃない。こうした子供に欠けているのは、家庭で育まれる「知的好奇心」なのだ。最初からアホというのであれば救いようが無いが、非教養人家庭に生まれた子供は、TVアニメとか漫画を無限に許され、一日中ボケ~と眺めるだけである。彼らは自分で積極的に物事を探求しようとせず、只、刺戟的な映像を求めるだけ、というか、送られてくるのを待っている。それゆえ、自分から文章を読んで、何が書かれているのかを探求しないし、そもそも理解しようとする意欲が無い。もっと悲惨なのは、その気力さえ湧かない子供が居るということだ。
(左 / 『ブレイキング・バッド』の主役と共演者)
不運な状況が重なり、知識不足となった子供は、いくら成長しても、別の視点から物事を考える能力が無い。文系に進んだ者にも、数学とか理科の知識が必要なのは、抽象的な思考を身につけたり、多角的に見る習慣を養うためだ。様々な教養を積むことは、将来の職業に役立つ。例えば、大人になってから異業種の者と会話する時、余計な知識を備えていると、ひょんなことで意気投合となり、人脈を広げることもできるのだ。以前、筆者が友人と雑談をしていた時、米国の人気TVドラマ『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』に言及したことがある。シーズン2か3の時、合成麻薬を密造する登場人物が厄介な遺体を処理するために、浴槽の中に酸を入れて死体を溶かそうとするシーンがあった。そこで、筆者が「あんなに時間がかかるなら、フルオロアンチモン酸(fluoroantimonic acid)で溶かしちゃえばいいのに・・・」と呟いたところ、「おい、それは危険過ぎてマズいだろう !」という答えが返ってきたが、「でも、妙案かもなぁ~」と感心していた。
普通の犯罪者なら、工場でかすめ取った硫酸を使うけど、ドラマの主人公は優秀な化学者であったから、「マジック酸」を考えてもおかしくはない。俗に言う「マジック酸(Magic acid)」とは、五フッ化アンチモンとフルオロ硫酸の混合物で、かなり危険な猛毒だ。それよりも凄いのが「フルオロアンチモン酸」で、100%硫酸よりも20京倍強いという。だから、人間の遺体なんか一瞬で溶かすことができる。学校で教える理科の教科書は、スリルに欠けるから退屈な解説や実験が多い。無味乾燥の授業で化学式や元素記号を暗記させるより、「どうやったら核爆弾が作れるのか」とか、「最強の化学・生物兵器はどんなものなのか」といった話をして、生徒に興味を持たせる方が効果的。何の目的も無く、ただ「受験の科目だから」という理由で、物理や化学を勉強する生徒は存在するけど、全体からすれば少数派である。
普通の家庭で育った凡庸な子供は、研究所に勤めるプロの科学者を目指していないから、一般教養の科学でいいはず。知的好奇心を持たずに、理科の授業を受けるのは苦痛なだけである。話を戻すと、こうしたアホな雑談をしても、ある人々にとっては「刺戟的な会話」となるそうだ。情報のアンテナを広げる企業経営者とか投資家は、一風変わった人物にも興味を抱き、「何か知らないけど、面白い奴だ」と見なす。だから、彼らは「今度、俺の家でパーティーを開くけど、来ないか?」と誘ったりする。特にアメリカ人のビジネスマンには、変人を招く趣味があるので、彼らには藝術家とか知識人の友人は少なくない。
脱線したので話を戻す。放任主義と娯楽生活で成長した子供は、インテリ家庭の子供が集う名門私立じゃなく、地元の子供が通う公立学校に入る。だが、親からの文化資本をもらっていないので、学校の勉強だけで青息吐息で四苦八苦。知識の積み重ねが問われる数学や英語では、段々と追いつけなくなり、気がつくと成績は「中の下」か「底辺をウロチョロ」だ。中学で躓いた生徒は奈落の底へ一直線。大学受験を目指す進学校じゃなく、競争心が全く無い不良高校か工業高校に入るから、もう大学進学など考えない。担任の教師だって、英単語の綴りさえ覚えていない生徒に英作文を教える訳だから、心の底で「投げやり」となってしまうのだ。子供の学力水準アップには、どのような友達を持つのかも重要で、ディスコ通いを優先するような連中とツルめば学問なんか藪の中。(亡くなった立川談志師匠も、娘の教育には相当手を焼いたらしい。)
しかし、家庭の躾が良く、向上心に燃えた友人を持ては、それに釣られて「自分も頑張ろう」という気持ちになる。よく、アメリカの黒人が白人学校に通いたがるのは、「勉強する雰囲気」と「優秀な級友」を欲しいからだ。もし、黒人だらけの公立学校に入ってしまえば、周りは下品な不良か、犯罪者予備軍、学問とは無縁のヒップ・ホップ・ダンサーくらい。とても勉強する環境じゃないだろう。だから、中流階級の黒人は我が子を白人と混ぜてもらって、その学力を少しでも引き上げたいと願っている。(ヒラリー・クリントンやオカシオ・コルテスみたいなリベラル派は反撥するけど、現実はやはり否定できない。)
(左 : 黒人街をうろくつ黒人少年 / 右 : 黒人が主流の公立学校に通う子供達)
下層階級の子供は電車内や学校でも、携帯電話とか電子タブレットに夢中だが、上流階級の子供は案外「伝統的な教育」を受けている。上層中流かスーパーリッチの親は子供の生活に介入し、電子機器の使用を制限したり、TVゲームやスマートフォンを与えなかったりする。例えば、「マイクロ・ソフト社」の創設者であるビル・ゲイツ(Bill Gates)や、「アップル社」の共同創設者で2012年に亡くなったスティーヴ・ジョブス(Steve Jobs)は、自分の子供を心配し、ハイテク機器を与えなかったそうだ。たとえ与えても、その使用時間を制限したらしい。ゲイツ氏はメリンダ夫人との間に、ジェニファー、ローリィ、フィーブという三人の子供をもうけているが、この大富豪は娘がビデオ・ゲームに目覚めると、その使用時間に一定の制限を加えていたという。(Chris Weller, "Bill Gates and Steve Jobs Raised Their Kids Tech-Free And It Should've Been a Red Flag", The Independent, 24 October 2017.)
(左 : ビル・ゲイツ氏の家族 / 右 : スティーヴ・ジョブズ氏の家族)
一方、ジョブズ氏はロウリーン夫人との間に息子のリード、娘のエリンとイヴをもうけていた。IT産業で成功したジョブズ氏は、新製品のiPadが世に出た時、子供達にその使用を認めなかったそうである。シリコン・ヴァレーの重役達は偽善者というか二枚舌の持ち主で、他人の子供には最新型のスマートフォンや高性能のタブレット、あるいは高価なパソコンを売りつけているが、自分の子供には“昔ながら”の教育を施し、“紙”の本を与えて「創造性」が豊かになるよう育てている。高度な知識を持つアメリカ人は、電子機器の中毒性に気づいているので、可愛い我が子に与えることをためらう。ハイテク産業の大御所たちは、巨額な宣伝費をかけて新製品を売り込んでいるくせに、「こんなモノを与えたらウチの子供が馬鹿になるじゃないか!」と危惧している。一方、何も知らずに買い与えている平民の親は、子供と一緒に大はしゃぎ。高額な通信料金を払っても、新製品の魅力にゾッコンだから、子供への影響なんて考えない。それにしても、こうしたIT業者を眺めていると、つい、禁煙を信条とするタバコ会社の経営者を思い浮かべてしまう。大企業を運営する者は、巷の流行に流されず、長期的な視野で物事を考える。だから、易々とハイテク教育に追従しないのだろう。
家庭における知育とか徳育に加え「食育」も大切な科目だ。日本人はビックリしちゃうが、アメリカの下層階級には太った子供が多い。これは子供の健康を管理する親が、食材や栄養分に無頓着で、ジャンクフードや加工食品を気軽に与えてしまうからだ。日本でも、子供を連れてマクドナルドに入る母親がいるけど、フレンチ・フライなんか「パーム・オイル」で揚げだ毒と変わらないぞ。頭が空っぽな親は、息子や娘と一緒に有害食品を口にしているけど、子供を太るために金を払っているとは思わない。アメリカでは「カウチ・ポテト族」が生まれるほど、ポテト・チップスの人気は高いが、これも少量の毒を食べているのと同じだ。ジャガイモを油で揚げると成分のアスパラギンがアクリルアミドに変化するので、かなり有害である。この「アクリルアミド(acrylamide)」は接着剤や塗料に用いられる物質だから、本来なら子供に食べさせる代物じゃない。筆者はファストフードを食べないけど、アメリカの黒人を観察するため、昔、NYのバーガーキングやマクドナルドに入って、黒人客の親子連れを眺めたことがある。ミッシェル・オバマ夫人は黒人の成人病を防ごうと躍起になっていたけど、黒人の肥満って中々根絶できないぞ。
アメリカで子育てをするのは大変で、いくら自宅で健康な料理を作っても、子供が友達の家に招かれれば、家庭の努力は一瞬で水の泡だ。何しろ、提供されるのがバケツに入ったアイスクリームか、巨大なオレオ、恐ろしく甘いスニッカーズ、チョコレートに砂糖を加えたブラウニー、脂肪がつきやすいラザーニャとか冷凍ピザときている。三宅一生の服を気に入っていたジョブズ氏は、健康を気遣っていたのか、前々から菜食主義者で、特に日本の料理を好んでいた。まぁ、有害食品のベーコンを焼いてハッシュド・ポテトを貪るアメリカ人からすれば、日本の食事はどれも健康食品に見えるんだろう。正体不明のホットドックに保存料てんこ盛りのケチャップをかけて喰うのは庶民階級のアメリカ人くらい。高額所得のエリート・ビジネスマンは食事の“質”を考慮し、なるべく有害食材を回避するよう普段から心掛けている。アメリカ社会を詳しく調べてみれば判るけど、下層階級の労働者が異常に太っている一方で、大企業の重役とか知識人には痩せている人が多い。これは、「自分の健康を管理できない奴が会社を管理できるのか」という思想に基づいているからだ。
現在、保守派国民は日本の学力が落ちていると心配している。でも、そんな事は何十年も前から分かっていることだ。軍隊を放棄した日本では兵器の開発や製造が疎かになったから、科学技術が段々と衰退したのは当然の帰結である。また、左翼教師が学校を占拠し、平等主義を以てエリート撲滅に邁進していれば、日本人の知的水準が低下し、愚民が増えるのも当たり前だ。思考能力が劣る文科省の官僚は、学校に銭をばら撒けば学力が向上すると思っている。しかし、そんなことをしても、公立学校で問題となっている無気力児童の改善にはなるまい。親が出来ないことを教師に求めるなんて、基本的に間違っている。只でさえ、教師には余裕が無く、雑務に追われているのに、これ以上「きめ細かな教育指導」なんて無理。教師の方が不登校になってしまうだろう。
とにかく、学校の改善より厄介なのは、親と子供が持つ意識の改革で、これは家庭の問題となるので非常に難しい。教育論は誰でも参加でき、様々な「持論」が飛び交ってしまうので、結局、「現状維持」か「他人任せ」という方針になってしまいがちだ。そもそも、日本人自身がどんな国家を目指しているのか曖昧なんだから、国民教育は各家庭の自由裁量となってしまうだろう。高学歴で高収入の親は、子供を学習塾に通わせ、有名大学に送り込むのを目標としている一方で、学歴と所得が低い親は、子供に相続させる文化的遺産が無いから、本人の努力を期待するしかない。昔の日本ならこれでもいいが、アジアから安い労働者が入ってくる時代となれば別。異人種が増える「これからの日本」だと、公立学校は益々酷くなるはず。アジア移民の子供と一緒にされた日本人の子供は学力低下に悩み、低所得の仕事にしか就けないから、下層階級の悪循環に陥って一生抜け出すことができない。教育格差と身分階級が固定化する未来はすぐ間近である。
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