無敵の太陽

主要マスメディアでは解説されない政治問題・文化・社会現象などを論評する。固定観念では分からない問題を黒木頼景が明確に論ずる。

2021年01月

ナタリー・ドロンの遺産 / 華やかな残骸たるフランス

血統による民族の保存

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   第21世紀の歐米諸国と日本で顕著なのは、左翼による国家破壊と国民の質的変化である。先進国というのは、外敵からの直接攻撃に対しては断固として対抗するが、同国民が引き起こす内乱や合法的な文革に対しては頗(すこぶ)る脆い。なるほど、「ペンは剣よりも強し」で、核ミサイルを用いずとも国家は崩壊する。もし、伝統社会の転覆を謀る極左が教育界を牛耳れば、やがて赤く染まった子供達はデストピアに明るい希望を抱き、祖父母が残してくれた恩恵には見向きもしないだろう。それどころか、積極的に「親殺し」を実行する虞(おそれ)さえある。左翼ウィルスが国民の間に蔓延すると、それを治療するのは至難の業で、革命思想で精神が狂った若者は、戦慄のリスト・カットを快楽と見なし、手首だけでは飽き足らず、太股や脇腹、首筋にまで刃物を突き刺して喜ぶ。これに加えて、移民の流入となれば、絆を持たない異邦人や混血児が激増し、統一国家はバルカン半島へと変化するだろう。

  リベラル思想に汚染された人々には理解しがたいけど、国家の繁栄や安泰には連続した歴史が必要だ。進歩思想にかぶれた国民というのは、「改革、改革 !」と叫びながら段々と不幸になる。一方、「因習」と馬鹿にされながらも、民族の伝統や歴史を大切にする“古い国民”は、けっこう幸せになることが多い。例えば、王室や貴族を抹殺した国民は、根無し草の浮浪者となり、政変と革命を繰り返す。しかし、いくら政治体制を替えても、国家の凋落に歯止めが掛からず、気がつくと別の国家になっていたりする。ブルボン王朝を潰したフランスが衰退の泥道を歩み、スチュアート王朝を復活させたブリテンが繁栄したのを思い出せば解るじゃないか。国家というのは一種の生命体で、その國體は悠久の時間をかけて成長するものだ。共和国よりも君主国の方が、何となく安心感があるのもそのせいだろう。とまぁ、小難しく述べてしまったが、要するに国民が昔ながらの生活様式と訣別し、人々の容姿や人種が変わってしまえば、自国が異国になってしまう、ということだ。

  最近、フランスの有名女優、ナタリー・ドロン(Nathalie Delon)が亡くなったので、筆者としてはとても哀しく、「一つの時代が終わった」という気分である。小学生の時に観た『個人授業(La Leçon particulière)』はとても印象的で、「フォンタナ」という同棲相手を持つフレデリック(ナタリー)が「オリヴィエ(ルノー・ヴェルレー)」という青年と恋に落ちるストーリーは、子供にとっても興味深いストーリーであった。しかし、一番印象的なのは、オリヴィエがフレデリックとの将来を見出せず、彼女を元の鞘に戻そうと、喧嘩別れしたフォンタナに彼女の居場所を知らせ、何事も無かったかのようにフレデリックのもとを去るシーンである。悲しみを隠しながら、フレデリックに笑顔を見せるオリヴィエのラスト・シーンは今でも心に残っている。令和の小学生だと、「フォンタナという大人のパートナーがいるのに、若い男と情事を重ねるなんて」と非難するが、昭和の時代だと不倫も文化の一つであった。

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(左 : 「オリヴィエ」を演じたルノー・ヴェルレー / 中央 : 「フレデリック」を演じたナタリー・ドロン / 右 : ランボルギーニ・ミウラ )

  また、別の意味で印象的だったのは、フレデリックが運転していたフォンタナ(レーサーの恋人)のクルマが、あの「ランボルギーニ・ミウラ」であったからだ。このスポーツ・カーは美しいボディーラインを特徴とし、V12気筒のミッドシップ・エンジンを搭載したTP400の完成車である。ただし、ランボルギーニ社が手掛けたのはエンジンと骨組みだけで、ボディーのデザインは「ベルトーン社(Bertone)」のマルチェロ・ガンディーニが担当した。1967年から68年にかけてランボルギーニ社の新車が販売されると、そのデザインに魅了された世界中のカー・マニアは、こぞって購入を決めたらしい。クルマ好きの日本人も圧倒的なミウラのデザインに魅了され、1975年(昭和50年)に『少年ジャンプ』で『サーキットの狼』が連載されると、巷の子供達はこの漫画を貪るように読んでいた。

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(左 : アラン・ドロン / ナタリー・ドロン / 息子のアンソニー・ドロン /  右 : 孫娘のアリソン・ル・ボルジ)

  話が脱線したので元に戻す。ナタリー・ドロンの映像を久しぶりに拝見し、彼女とその子孫の写真をじっと見つめると、家系の重要性というか民族の連続性、ないし「血の遺産」という意義を改めて痛感する。なぜなら、ナタリーの孫娘であるアリソン・ル・ボルジ(Alyson Le Borges)は、祖母とよく似ているからだ。ナタリーの元夫は日本でも有名なアラン・ドロン(Alain Delon)で、二人の間には「アンソニー(Anthony Delon)」という息子が生まれている。このアンソニーがダンサーのマリー・エレーヌ(Marie-Hélène Le Borges)と付き合って生まれたのがアリソンだ。ただし、当時(1986年頃)のアンソニーは迷える青年で、父親になることを望んでいなかった。それゆえ、父親の自覚が無いアンソニーは、この娘を自分の子として認めていなかったそうだ。しかし、段々と愛情が芽生えてきたのか、2008年にアリソンを認知したことで二人はようやく和解した。

  フランス人というのは大革命でキリスト教を排斥し、伝統的生活を破壊したからなのか、極端な個人主義や左翼思想に深く陥っている。結婚もしないで同棲するカップルは多いし、たとえ結婚しても教会で式を挙げることはなく、役所に種類を提出して夫婦となる人々も少なくない。仲には同棲のまま子供をもうける者や、婚外子を産んで未婚の母を貫く者も多いそうだ。こんな塩梅だから、ケルト系白人の出生率が低下し、離婚する夫婦も多くなるのは当然だ。しかし、日本の知識人はフランスで結婚率が上がったとか、新生児の数が増えたと騒いでいる。が、それはイスラム圏から移民が流入したからで、決して西歐系のガリア人が増えた訳じゃない。

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(左 : ダンディーなアラン・ドロン /  アランとロミー・シュナイダー /  アランとナタリー・ドロン/  右 : アランとロザリー・ヴァン・ブリーメン)

  2019年8月に亡くなったアラン・ドロン(享年83)は、4人の子供や孫を残していたが、家族関係は複雑で、付き合った女性も様々だ。ドイツ人女優のロミー・シュナイダー(Romy Schneider)との仲は有名であるが、その交際中にアランはドイツ人モデルで歌手の「ニコ(Nico / Christa Päffgen)」と浮気をしてしまい、彼女は「アリ(Ari / Christian Aaron Boulogne)」という息子を産んでしまう。ロミーと別れたアランは、美人女優のナタリーと結婚し、アンソニーをもうける。しかし、その結婚も長くは続かず、彼は女優のミレール・ダルク(Mirelle Darc)と付き合ってしまう。

  ところが、この同棲関係も破綻を迎え、再び独身に戻ったアランはロザリー・ヴァン・ブリーメン(Rosalie van Breemen)と交際して二人の子を授かる。1990年にアノスカ(Anouchka)という娘が生まれ、1994年にはアラン・ファビアン(Alain Fabien)という息子が生まれた。これにより、アノスカはアランの孫娘であるアリソンの叔母となる。つまり、アノスカはアリソンよりも4歳下なんだけど、法律上は「姉」のようなアリソンの「叔母」となってしまうのだ。日本でも稀にこういうケースがある。とは言っても、アランからすればアリソンも娘みたいな存在で、彼女とアノスカは姉妹と呼んでもいいくらいだ。また、55歳くらいの頃に生まれた娘だから、アランがアノスカを溺愛してもおかしくはない。

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(左 : アラン・ファビアン・ドロン / 中央 : アノスカ・ドロン / 右 : アリソン・ル・ボルジ )

  アラン・ドロンの子供や孫を目にして思うのは、彼らが見事にアランの遺伝子を受け継いでいることだ。息子のアンソニーやファビアンが父親と似ているのは当然なんだけど、孫娘のアリソンも祖父とソックリの瞳を持っているし、祖母であるナタリーの面影を色濃く残している。これがもし、アランがギニア人女性と結婚していたら、アンソニーは黒人との混血児となり、そのアンソニーがベトナム人と結婚すれば、アリソンの容姿はどうなっていたことか。ナタリーだってアランと恋に落ちず、褐色のアラブ人と結婚すれば、生まれてくる息子はヨーロッパ人とは違った容姿になる。そして、二人の息子がパキスタン人と結婚して娘をもうければ、アリソンとは異なるタイプの「フランス人」となるだろう。

  フランス人はフランスで誕生した子供は誰でも「フランス国民」になり得ると考えるが、日本人は出生地主義(jus soli)ではなく血統主義(jus sanguinis)で国籍を考えるから、非ヨーロッパ系の混血児を「フランス人」とは思わない。これは日本人カップルについても当て嵌まる。例えば、津軽出身の日本人(夫)と名古屋出身の日本人(妻)がフランス国籍を取得し、パリで結婚し、娘をもうければ、その少女は「パリジェンヌ」と呼ばれるだろう。しかし、この夫婦が日本に帰国し、彼らの娘が日本の中学校に通い出せば、ちょっとした“問題”が生じてくる。なぜなら、日本人の中学生は、生まれながらの「フランス国民」である転校生を「フランス人」とか「パリジェンヌ」とは思わないからだ。法律はどうあれ、日本人夫婦の間に生まれた子供なら、何処で生まれようが「日本人」である。いくら、彼女がフランス人のようにフランス語を流暢に話し、フランス流のマナーを身につけようが、外見がコテコテの日本人なら「日本人」でしかない。

  大阪の子供は正直に育つので、黒谷友香みたいな女性なら、ぎりぎり「パリジェンヌ」と認めるだろう。しかし、山田花子みたいな少女だと絶対に無理。学校の悪ガキどもは「アホか !」と罵倒し、「どこがパリジェンヌやねん ! お前なんか宝ジェンヌにもなれへんわ !」と叱り飛ばす。「タカ&トシ」みたいに「歐米か !」と突っ込みを入れてくれれば、まだマシな方だ。普通の同級生は「サンドイッチマン」の富沢みたいに、「何言っているのかわからない」と笑ってしまうし、意地悪な子だと便所に連れ込んでシバきまくる。イジメられた少女は、気取ったフランス語を捨て去り、必死で大阪弁を学ぶことだろう。

Rene Martial 1(左  / ルネ・マルシア )
  脱線したので話を戻す。現在は出生地主義で外人に国籍を与えているフランスでも、昔は血統主義を基にして移民を選別ないし排除していた。悪名高いのは医学博士のルネ・マルシア(René Martial)、彼は公衆衛生の専門家であった。マルシア博士はフランスにやって来る東欧人や南歐人、および北アフリカ系の移民を入国させるにあたり、民族的特徴や健康状態、心理状態を調べ、フランスに同化できるのかどうかを審査しようとした。彼は個人を検査するにあたって、血統や血液の質を重視したので、後の知識人から「偽科学の医者」と糾弾されることになった。しかし、彼の懸念は正しく、アラブ人やユダヤ人、アフリカ人などを「同化困難な人種」と判別したことは、非難されても決して間違いではない。

  地理学者のジョルジュ・モコ(Georges Mauco)も「レイシスト」の烙印を押されて批判されているが、当時(1930年代)のアメリカでも優生学に基づく移民の選別は当たり前で、異民族の流入には反対論が多かった。最初、移民の選別に慎重だったモコも、ナチスの人種論に触発されて「科学的転換」を考えるようになり、奨励すべき移民と拒絶すべき移民を区別したそうだ。特に、彼はユダヤ移民に厳しかったから、ユダヤ知識人の恨みを買うことになる。例えば、ポーランド出身のスラヴ系労働者はOKだけど、ポーランド人を装って入ってくるユダヤ移民は駄目、としたからフランスのユダヤ人は猛烈にモコを憎んだ。日本人は暢気だから気づかないが、正体を明かさないユダヤ人の学者は、人道主義者の仮面を被って差別主義者のフランス人を咎める。だが、こうした「レイシスト」は祖国を異人種の波から守り、フランス人の肉体的変異を防ごうとしただけだ。

  1940年代、フランスはドイツに占領され、ヴィシー政権はユダヤ難民の帰化を取り消したり、ユダヤ系国民をナチスに引き渡したことで大々的な批判を浴びている。だが、フランス人が長年に亙る異邦人を追放することが、そんなに悪い事なのか? ドイツや東歐から非難してくるユダヤ人は、なぜフランスとかアメリカ、ブリテンを目指したのか? ユダヤ人差別が頻発するヨーロッパを避けて、エジプトやトルコに亡命すればいいじゃないか。もし、こうしたイスラム圏が厭なら、さっさとパレスチナに帰ればいい。ユダヤ人にとって故郷のイェルサレムは、異国のロンドンやパリよりも馴染みがあるはずだ。ヒトラーだってユダヤ人の帰還には賛成だったから、ドイツに住むシオニストの長老達と輸送の密約(Haavara agreement)を結んでいたのである。

  晩年のアラン・ドロンは愛国者になりたかったのか、右翼政党と目される「国民戦線」の支持を表明していた。たぶん、余生が長くはないと判っていたから、正直な気持ちを吐露したんだろう。もし、彼がまだ20代か30代の駆け出しなら、決して本音を吐くことはない。米国の名優マーロン・ブランドー(Marlon Brando)も晩年になってから、ハリウッドに跋扈するユダヤ人を批判していたが、もし若い頃であれば絶対に口にしないだろう。ユダヤ人の映画制作者がどんなに左翼でも、また穢らわしい小児性愛者や強姦魔、あるいは変態であっても、沈黙するのがハリウッドの掟である。米国の俳優は私生活でも演技が必要だ。たとえ、心の中で共和党に共感しても、表の顔では熱心な民衆党の支持者を装う。馬鹿らしいけど、生き抜くための智慧というは、所詮こんなものである。

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(写真  /  ワシントンD.C.に購入した邸宅)

  ケルト系のフランス人が祖国を「白人の国」に保ちたいと言えば、国内外の人道主義者から猛烈な批判を食らうだろう。ところが、意外にも黒人ですら白人だらけの社会を素晴らしいと思っている。例えば、人種問題になると目を輝かせるバラク・オバマは、活動家時代から大統領時代に至るまで、一貫して白人中心の西歐世界を非難していた。しかし、私生活ではちょっと違うみたいだ。それは、オバマが購入した邸宅を見れば分かる。ホワイトハウスを去ったオバマは、2017年、ワシントンD.C.に「豪邸(マンション)」を購入したが、これはシカゴの貧乏黒人が手にできる代物じゃなかった。何と、購入価格は810万ドルなんだって。(Emmie Martin, "The Obamas just bought an $ 8.1million mansion in Washington, D.C.", CNBC, June 2, 2017.) いやぁぁ~、さすが黒人と白人の格差を問題にする元大統領は違うねぇ~。シカゴに住む嘗ての仲間で、いったい何人がこうしたマンションを購入できるんだ? (米国でいう「マンション」は高層長屋じゃなく、「一戸建ての豪邸」を意味する。)

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(写真  / 「マーサズ・ヴァインヤード」に購入した豪邸 )

  さらに、慈悲深いオバマは女房子供のために奮発した。彼はマサチューセッツ州の高級住宅地である「マーサズ・ヴァインヤード(Marths's Vineyard)」に邸宅を買うことにしたのだ。約30エーカーの土地に1千175万ドルのお屋敷なんだから、ホント羨ましい。(Julia Wells, "President Obama Buys Home on Edgartown Great Pond", Vineyard Gazette, December 4, 2019.)  日本人の筆者にはよく判らないが、「エドガータウン・グレイト・ポンド(Edgartown Great Pond)」の附近には、どれくらい黒人やヒスパニックが住んでいるのか? まさか、裕福な白人ばかりが住む避暑地じゃないよねぇ~。たぶん、誰も近寄らない辺鄙な田舎なんだろう。でも、治安が良さそうだ。これは単なる憶測だけど、黒人が密集するブルックリンやボルチモアと比べたら、この干拓地は別世界なのかも知れない。余計なお世話になるいが、オバマの家族は黒人の隣人が居なくて寂しくないのか?

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(左 : オバマの家族  / 右 : バラク・オバマ大統領を愛するアフリカ人 )

  日本の大学教授やテレビの評論家は、観念論で移民排除やナショナリズムを否定するが、現実の世界に住む庶民は具体的な問題で頭を悩ませているる。例えば、地方の田舎に住む両親は、東京や大阪といった都会で暮らす息子や娘が心配で、どんな恋人を持っているのか、どういった素性の者と結婚するつもりなのか、と気が気じゃない。同じ会社で働く同僚とか、趣味のクラブで知り合った友人ならいいけど、ベトナムからの留学生とか、在日米軍の黒人兵だと卒倒するんじゃないか。また、たとえ日本国籍を有していても、横浜で生まれた華僑系の青年とか、不法入国者の家系に生まれた在日南鮮人、パチンコ屋で成功した帰化鮮人の娘だったリすると厭になる。確かに、生まれてくる初孫が朝鮮人や支那人ではガッカリだ。

  また、庶民にとって住宅の購入は、人生で最も大きな決断となる。なぜなら、数千万円の買い物となれば、銀行から借金をすることもあるし、ボーナスが減額されれば自宅を手放す破目にもなってしまうからだ。そうじゃなくても、30年ないし40年、あるいは死ぬまで暮らす「我が家」となれば、周囲にある商店とか病院、学校などが気になるし、どんな環境なのかも調べたくなる。目の前が墓場だと気が滅入るし、近くに工場や線路があるとうるさくて堪らない。同じ町内にアジア人コミュニティーが出現すれば、見る見るうちに不動産価格は暴落だ。さらに、子供が通う公立学校には移民の子供が増えて学力低下となる。そのうえ、不気味な外人が増えれば、商店街が寂れるか激変し、街の様子も一変するはずだ。高額所得者は高級住宅地に亡命するが、低所得の平民はアジア人の群れに埋もれて泣き寝入りである。人種平等を説くテレビ局の重役や国会議員の家族は、一体どんな地域に住んでいるのか? 高学歴・高所得の医者や弁護士は、埼玉県の西川口とか大阪府の西成区に自宅を建てるのか?

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(左 : レオン・ブルム / マンデス・フランス / クロード・レヴィ・シュトラウス / 右 : ジャック・アタリ )

  昔の日本人はフランスのパリを「華の都」と思っていた。しかし、現在のパリはバグダッドかイスタンブールみたいだ。道路沿いにはジプシーが作った掘っ立て小屋があるし、新たなドヤ街にはシリア人やイラク人の難民が住んでいる。さらに、アフリカの各地から黒い難民や移民も怒濤の如く押し寄せているから、昔ながらのケルト人を見つけることは困難だ。「右派組織」と称される「アクション・フランセーズ(Action Française)」が下火になると、フランスにおけるユダヤ人も大繁殖。過去を振り返ってみれば分かるけど、レオン・ブルム(Léon Blum)やマンデス・フランス(Pierre Mendès France))が首相となり、ハンガリーからやって来たニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)が大統領になった。学術界にもユダヤ人は多く、日本の左翼が大好きな哲学者のジャック・デリダ(Jacques Derrida)、人類学者のクロード・レヴィ・シュトラウス(Claud Lévi-Strauss))、人気作家のジャック・アタリ(Jacques Attali)、評論家のエマニュエル・トッド(Emmanuel Todd)などが「フランスを代表する知識人」として紹介されている。やがて「日本を代表する知識人」も、日本風の名前を持った支那系3世や朝鮮系4世といった人物になるんだろう。日本の没落というのは、国民の変質から始まるんじゃないか。
 



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バイデンが政治好き? / 楽園に住む困った学者

非合法大統領に期待する大学教授

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(左 : インチキで大統領職を手にした痴呆老人  / 右 : 窃盗事件の被害でホワイトハウスを去った大統領 )

  日本の大学はよく「象牙の塔」と呼ばれるが、どちらかと言えば、自立できない大人を収容する「保護施設」と評した方がいい。一般的に元高校生が進学する教育施設は「最高学府」と見なされる。だが、修士号や博士号を求める学生が通っている大学院ともなれば、実力社会で弾(はじ)かれる“出来損ない”とか、一般企業に採用されない“社会不適合者”の二軍ベンチとなりがちだ。そもそも、財界の企業経営者は口だけが達者の若者を雇いたがらない。もちろん、物理学とか生理学を専攻する大学院生は別。なぜなら、彼らは“国際競争”に晒される分野で勉強しており、素質や能力、そして学問的業績で評価されてしまうからだ。

Sergey Akhromeyev 001(左  / セルゲイ・アフロメーエフ )
  例えば、法学部と違い、化学を専攻する学生は世界共通の知識・素材を扱っているから、金属の比重を語っても「日本ではアルミ(Al : 2.7kg/㎤)が銀(Ag : 10.49kg/㎤)よりも重い」とは言わないし、「銅(Cu : 11.36kg/㎤)は米国で計ると金(Au : 19.32kg/㎤)よりも重くなる」と言うこともない。医学部の学生も同じだ。国別で外科手術の知識が違ったら大問題。ところが、歴史学とか政治学を専攻する者は、自分の都合や趣味、思想に合わせて事実を枉(ま)げるから、本当に信用ならない。ソ連が崩壊した時、社会主義体制の未来を語っていた進歩的文化人や、共産主義に憧れていた大学教授で自殺した者はいなかった。1991年の八月クーデタが失敗した後、かつてソ連軍の参謀総長を務めたセルゲイ・アフロメーエフ(Sergey F. Akhromeyev)元帥は、このままソ連の崩壊を見るに堪えないとして8月24日に自ら命を絶った。一方、東大でソ連を讃美していた和田春樹は、ソ連帝国が瓦解しても元気溌溂、別の反日活動に精力的だった。もしかしたら、「オロナミンC」でも飲んでいたのかなぁ~?

  それはともかく、慶應義塾大学も日本の学校なので、「文系」の教授には赤い人物が多い。それゆえ、彼らの言説を鵜呑みにするのは非常に危険だ。なるほど人命を扱う医学部は立派だが、社会学とか教育学、歴史学、法学、政治学、国際関係学といった学部は誠にいかがわしく、教師の「解釈」でどうにでもなるから、こんな連中は授業開始前に、嘘発見器や思想審査にかけた方がいい。一橋大学から慶應大学へ移ってきた竹中平蔵などは、経済学の“専門家”というよりも、外国勢力の仲介役となって儲ける“政商”だ。小泉政権や安倍政権で大臣や諮問委員になった名物教授は、菅政権になっても隠然とした権力を有している。何しろ、竹中が総務大臣の時、副大臣を務めていたのが菅義偉だ。元の部下が首相になった訳だから、色々な頼み事がしやすい。一方、「竹中の学者的能力はどうなんだ?」との疑問が湧いてくるが、彼の学問的“業績”を覗いてみると、これといった業績は無く、むしろおぞましい臭いがする。たぶん、竹中氏は自分の講義を取る学生が、佐々木実の『市場と権力』を読まないよう願っているはずだ。(竹中平蔵について話すと長くなるので、別の機会で述べたい。地上波テレビで明かされない彼の過去を知ると、なぜこの男が嫌われているのかがよく分かる。)

Nakayama 11(左  / 中山俊宏)
  総合政策部にも要注意人物の教員がいて、それがNHKやフジテレビで重宝される中山俊宏(やまなか・としひろ)教授だ。如何にも左巻きを旗印にした確信犯らしく、NHKは去年の11月7同日に『混迷 アメリカ大統領選挙』という特番を放送した。同局の制作者は慶應大学の渡辺靖(わたなべ・やすし)教授と中山教授をゲストに迎え、尻尾を摑まれないように、巧妙なトランプ批判をさせていた。アメリカの國體を理解しない三流学者だから仕方ないけど、中山氏は“不正投票”の疑惑が持ち上がった大統領選挙に触れ、トランプ大統領の方に「非」があるかのような発言を繰り返していた。彼はアメリカが訴訟社会であることを紹介し、選挙結果に異議を申し立てるトランプ大統領が、訴訟社会の悪い面を代表している、と非難する。曰わく、「トランプは選挙の正当性を始めから奪うことを目的としていおり」、そのためにトランプは訴訟を重ねていたそうである。中山氏は深刻な表情を浮かべ、トランプ大統領は「不正が明らかではないのに、事前に文句を言って、訴えることができるよう最初から仕込んでいた」、と。

  常識ある日本人なら、「いくらなんでも、こんな解釈は捩(ね)じ曲げすぎだろう」と思ってしまうが、「アメリカ政治の専門家」たる中山氏には一寸の迷いも無い。11月4日の開票作業で現れた、驚異的な“バイデン・ジャンプ”を目にすれば、誰の思考にも「不正の影」は明らかじゃないか。統計学や物理学を専攻する大学生なら、あの“急激”な投票数の増加を見て、「これは人為的な票の操作が起こったんじゃないか?」と怪しむだろう。おそらく、中山氏の講義を取る学生だって、インターネットに流れる情報を耳にすれば、「これは裏で何かあったぞ !」と気づくはずだ。NHKで中山教授の解説を聞いていた幾人かの学生は、こうした珍説に唖然とし、「えっっ~、マジで言ってるのかぁ~?」と絶句するかも・・・。まぁ、実力社会で通用しない人間が大学教授になっている訳だからしょうがない。けど、あれじゃあ、観ている方が恥ずかしくなる。慶應の学長を務めた故・加藤寛(かとう・かん)先生は、比較的まともで温厚な人物であったが、もし生きていれば苦笑していたことだろう。

  しかし、中山教授はバイデン陣営の露骨な不正行為を目にしても、未だに選挙の異常性に気づいていないようだ。むしろ、インチキで勝ったバイデンに期待を託し、アメリカを“正常”に戻す人物と評している。保守派の日本人は中山氏の解説を聞くと、「鳩山由紀夫みたいな奴だなぁ~」と思ってしまうが、ネジの外れた頭の持ち主というのは、所詮こんなものである。中山氏は大恐慌に取り組んだフランクリン・D・ローズヴェルトを引き合いに出し、大統領になったバイデンには武漢ウイルスや経済不況、人種問題、分断されたアメリカ社会の修復といった重い課題が課せられており、「まさにローズベルト級の政治手腕が要求されている」と述べていた。(「『オバマやトランプと違って…』アメリカ人が過去最多得票でバイデンを大統領に選んだ理由」、中山 俊宏 、文春オンライン、2021年01月21日)

  中山氏はCNNやABC、あるいはNHKやTBSしか観ていないのか、数々の不正で積み上げられたバイデン票に疑問を抱いていないのだ。あの「捨て駒」たるバイデンが、米国史上最高の8100万票を獲得したなんて、アメリカの左翼だって信じていないのに、中山氏は本当にバイデンが8千万票以上を獲得したと思っている。中山氏は世間の人々がトランプの人気ばかりに目を奪われ、バイデンの「歴史的得票数」に言及しないことに不満を募らせているようだ。

  大統領選挙の結果にいたっても、8100万票という歴史的な得票数であったにもかかわらず、トランプが7400万票の支持を得たことの方にむしろ注目が集まっている。しかし、下院で民主党は議席数を減らし、上院では最終的には多数党の地位を奪い返したものの期待したほどには議席数を伸ばせなかった(=民主党自体が大勝したわけではない)にもかかわらず、史上2位の得票数に達したトランプと700万票の差をつけて勝ったことの意味を見落としてはいないか。(上掲記事)

   中山氏はバイデンの「勝利」を力説しているようだが、事情を知っている一般の日本人は“専門家”の中山氏と違い、「庶民の良識」と「昔ながらの倫理」を有している。だから、巷の平民はバイデン陣営が仕組んだ「インチキ」の方に目を向けているのだ。ところが、名門大学で禄を食む中山氏は、別次元の世界に住んでいるのか、我々とはちょいと異なる御仁らしい。彼はトランプへの熱狂を斥け、バイデンが有する「普通さ」、すなわち「退屈」と変わらない「凡庸さ」を重視する。中山氏は言う。

  今回の選挙でわかりにくかったのは、なにをアメリカ人が選んだかという点である。たしかに「熱狂度」では常にトランプが優っていた。しかし、仮にアメリカが「普通であること」を新しい大統領に期待していたのだと仮定すると、バイデンの勝利の意味がよりはっきりと見えてくる。(上掲記事)

  さぁ~すが、偉い先生は観ている角度が違うようだ。しかし、日本の庶民は「でもさぁ~」と口答えしたくなるぞ。中山氏はバイデンを「超人気の大統領」と思っているが、保守的なアメリカ国民は冷めており、「あの老人に何が出来るんだ?」といった侮蔑感さえ持っている。それでも、慶應義塾の碩学は怯まない。中山氏はバイデンの「普通さ」に魅力を感じているそうだ。


  仮に本当にアメリカが「普通であること」を大統領に求めていたのだとすると、実は期せずして民主党は最強の候補を選んでいたということになる。「普通」というのが、あまりにも曖昧であるならば、それを「decency(良識)」と言い換えてもいいだろう。「普通であること」は定義上、熱狂的支持とは無縁だろう。であるがゆえに、選挙中はバイデンの「平板さ」が際立ち、どうもパッとしない候補という印象が定着してしまった。しかし、それこそが彼の強みだったという見方もありうる。(上掲記事)

  日本の一般人は中山氏の記述を読んで、「バイデンが最強の候補?! おい、何考えてんだ ?」とビックリ仰天するだろうが、この専門家は真剣にそう考えているようだ。今回の大統領選挙に興味を持った日本人なら、「在日米軍の士官や将校は、本当にお気の毒だねぇ~。事もあろうに、ボケ老人が最高司令官になっちまったんだからさぁ~」と憐れむだろう。でも、中山教授は一顧だにしない。彼はバイデンの使命を見出し、「アメリカン・デモクラシーの実存的脅威」であったトランプを斥けた、と高く評価しているのだ。

  ・・・バイデンになにも期待できないかといえば、実はそうではない。その期待の核心にあるのは、バイデンがなによりも「政治好き」だということである。バイデンは1972年の議会選挙でわずか29歳で上院議員に当選、以来2009年に副大統領に就任するまで、政治一筋で生きてきた。その間、大統領選挙に2度出馬している。今回は3度目のチャレンジだった。副大統領として8年を勤め上げた後、もう引退だろうと思いきや、76歳にして大統領を目指すと決断する。こうしたキャリアを自ら選択してきた人が「政治嫌い」なわけはない。(上掲記事)

  将棋界のレジェンド、加藤一二三(かとう・ひふみ)先生じゃないけど、「ひやぁぁぁ~」と叫びたくなる。「政治好きの議員だからバイデンに期待する」とは、一体どんな発想なんだ? 確かに、バイデンの政治人生はかなり長いけど、それは全米からデラウェア州に集まる裏金を管理していたからで、何回も再選されたのは、バイデンが殊さら“有能”だったからではない。自民党の二階俊博を観れば判る通り、特殊利権の守護神はどんな苦戦があっても、最後には当選するようになっている。しかも、「北京政府のバックアップ附」で。

  中山氏はトランプとオバマに言及し、両名の「政治嫌い」とバイデンの「政治好き」を対比していた。

  オバマは、「あるべき世界」について語り、アメリカが歩むべき方向性を提示することには長けていたが、実際にその歩んでいく道を舗装したり、そのために予算を確保したりする「政治」にはあまり強い関心を持たなかった。トランプは、政治が「トランプ・ショー」である限りにおいては、強い関心を寄せたが、スポットライトが消えると一切関心を失った。政策への関心もほぼないといっていい。この二人とバイデンを比較すると、バイデンは明らかに「政治好き」だ。それはバイデンが古き良き上院の文化の中で政治家として育ってきたこととも無関係ではない。(上掲記事)

  へぇぇ~、あのボケ老人は「古き良き上院の文化」で育ってきたのか ! 筆者は「“腐敗臭が充満するワシントンの沼”にずっと棲息していた銭ゲバ」かと思っていた。中山氏の政治分析によると、アメリカの政界には相手と妥協せず、自分の考えばかりを主張する政治家が多そうで、バイデンは珍しく「妥協や譲歩を重ねながら問題を解決する」タイプであるらしい。しかし、バイデン政権下では全ての問題が解決するような答えが提示されるのではなく、政治の「ドラマ性」が奪われ、政治が退屈なものになっていくそうだ。それでも、中山氏はバイデンの姿勢を評価する。

  しかし、元来政治とはそういうものではないか。政治空間においては、そもそもあらゆる問題が解決されるわけではないし、そもそもそうしたものが目標として設定されるべきではない。(上掲記事)

  中山氏によると、オバマ政権やトランプ政権の下では「政治が過剰に劇場化し、その結果、人々が全人格的にそこに自らを投入し、本来の政治のかたちをかなり歪めてしまった」そうである。だが、バイデン政権はこれに終止符を打つ。

  ・・・・バイデンにできることがあるとしたら、それは政治をもう一度「退屈」なものにして、会話ができる状態を作りだすことではないか。この役割は、オバマにもトランプにも絶対に担えない。それは、いまこの瞬間にはバイデンしかできないことだ。(上掲記事)

  うわぁぁぁ~、「バイデンにしか出来ない退屈な政治」だって ! 「物は言い様」というが、さぁ~すが、有名大学の大先生というのは違うねぇ~。低学歴の庶民とは大違いだ。中山先生はこう仰る。

   おそらくアメリカ人がバイデンに求めたのは、トランプを糾弾して政治的に葬り去ることではない。それは、また新たな政治的憎悪のサイクルを生むだけである。むしろ、アメリカがバイデンに求めたのは、普通であることを復権させること、そしてそのことに対する強い支持が、バイデンの勝利の背景にあると考えた方が、「バイデンという選択」の意味がよく見えてくるのではないか。(上掲記事)

  数千万人のアメリカ国民が求めたものは、「普通の政治を復権させる」ことなんだって ! こりゃ驚きだ ! 早速、「Newsmax」や「One American News」のキャスターに教えてあげなきゃ ! 今、アメリカの政界に必要なのは、過熱した政治劇を一旦冷却し、もう一度“退屈”な政治に戻すこと、なんだって。なるほど、筆者は気がつかなかった。中山氏によると、アメリカの警官や軍人が、文字通り「背を向ける」バイデンであっても、「退屈」で「普通」の政治を行えば、歴史に残る大統領になるらしい。中山教授曰わく、


  これができれば、78歳にして熱狂度ゼロで国民に選ばれたバイデンは、期せずして歴史に痕跡を残す、いまこの時代に必要不可欠な大統領として記憶されることになるかもしれない。(上掲記事)

  いやぁぁ~、畏(おそ)れ入りました。お葬式のような就任式を敢行した偽大統領が、熱狂ゼロの国民に支持されて、歴史に名を残す偉大な大統領になるなんて、筆者には想像もつかない。中山氏は「政権発足だからこそ、バイデンの可能性に目を向けることに意味があるのではないだろうか」と述べるが、現実のアメリカ人は既にバイデンを見限っており、誰もバイデンの「可能性」なんかに期待していないぞ。むしろ、井戸端会議で「いつカマラ・ハリスに大統領職を禅譲するんだ?」とヒソヒソ話に花を咲かせている。民衆党の議員だって次の中間選挙や2024年の大統領選挙に目を向けているそうだ。でも、あの老人が「選挙の顔」になったら、民衆党の下院議員は軒並み落選だろう。

  まぁ、文系の大学教授に文句を言ってもしょうがないけど、この程度の認識力と判断力で「アメリカ政治の専門家」を自称するなんて、私学助成金の配布を考え直した方がいいんじゃないか。確かに、我が国の大学では縁故昇進や同族採用が横行しているので、碌でなしの教師が多い。何しろ、学術論文の「質(quality / 内容)」じゃなくて、クズ論文の「量(quantity / 枚数)」で教授への昇格が決まるんだから。我が国の大学は本当に異常だ。赤い活動家は正教授となって余裕の生活を楽しみ、どんなことがあってもクビにならない。終身雇用に守られたピンク教授も、日本社会の恩恵を受けながら反日宣伝を繰り返し、いつかやって来る「國體破壊の夢」を毎日見ている。

  世間のオッちゃんやオバちゃん等は、「大学教授って気楽な商売よねぇ~」と小馬鹿にするけど、そもそも中山氏の授業を取っている学生、あるいは優秀な教え子のうち、いったい何割が「アメリカ政治の専門家」になるんだ? 板前や大工を目指す若者なら、自分の師匠となる人物をよぉ~く見極めてから、「弟子にしてください ! 願いします !」と頭を下げるが、普通の大学生は卒業単位を揃えるために退屈な授業を受けるだけ。入社試験の面接係は卒業論文の「質」なんて調べないし、卒業証書に至っては、「四年間の授業料を収めました」という領収書ていど。したがって、いかにアホな講義を受けてもお構いなし。中山教授には悪いけど、アメリカ政治の授業なんてカルチャー・センターの市民講座と同じである。暇なオバちゃんたちがいくら熱心に聴講したって、一流の学者になるわけじゃない。せいぜい、「教養人」にでもなった気分を味わうだけだ。

  良識を備えた日本人なら分かるけど、自信満々の大学教授に向かって、いくら反論を加えても無駄である。華麗な学歴だけが「唯一の誇り」となっている人物には、実力社会の厳しさは解らない。だいたい、論文の善し悪しで降格や解雇になる教授っているのか? 実力制度が徹底している将棋界では、たとえ九段のベテラン棋士でも、「読み」の力が衰えれば、A級からB級へ転落し、やがてC級の順位戦でもがき苦しむ破目になる。実力で身分が変わってしまう世界は、本当に辛くて厳しい。十億円者資金を動かすファンド・マネージャーはもとより、個人商店を営むオッちゃんだって、市場や世間の動向を慎重に見極め、日々危険な商売に励んでいる。判断を誤れば「即倒産」というリスクを抱えている人物と、恩給が保障された大学教授とでは月とスッポン、最初から話にならない。「乞食と教師は三日やったら辞められない」というけど、案外本当なのかも知れないね。 




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