復讐を誓い冥府魔道へ

  今年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衞』は低視聴率だったと聞く。筆者は観ていないけど、どうせ若い視聴者に媚びた配役とトレンディー・ドラマみたいな台本の時代劇だから、時間の無駄としか思えてならない。最近はナツメロがブームになっているみたいで、音楽業界でもローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリン、キッスなど昔の大物バンドが、最後の荒稼ぎに忙しいという。観客も本物を死ぬ前に観たいと思うから、高価なチケットでも構わず購入するのだろう。

  日本の時代劇が衰退して久しい。もう本格的な演技が出来る役者が死につつあるし、脚本家や監督はサラリーマン化して冒険をしないのだ。重厚な演技と脚本に感動するような時代劇作品はもう現れないのかも知れない。最近、ちっとしたことで昔の時代劇を調べたら、『子連れ狼』をもう一度観たくなって、ネットで動画を発見して、つい観てしまった。古いけどいい作品。今回は、筆者の単なる気まぐれと趣味で紹介する時代劇論なので、読まれなくてもいいと思いながら書いてみる。(ただし、筆者は時代劇ファンではないので、拙い説明なのをご容赦ください。)

  TVドラマ『子連れ狼』は若山富三郎や北大路欣也などが演じたが、萬屋錦之介の『子連れ狼』が最も人気があり、適役との評価が高い。水鷗流(すいおうりゅう)の達人にて公儀介錯人の拝一刀はやはり、萬屋が一番存在感があり、重厚な雰囲気を醸し出していた。同太貫を抜き、水鷗流波斬りの術であまたの悪党を斬る腕前は爽快である。萬屋錦之介の迫力ある面構えは、最近の時代劇ではお目にかかれない。同太貫という刀は肥後で作られ、刃肉が厚く長寸で重い。江戸時代中期の刀と違って剛刀であり、甲冑もろとも叩き斬る、とった実践的刀である。戦国時代に最もふさわしい刀であった。

  ここでドラマのあら筋を述べておく。

 拝一刀(おがみいっとう)は公儀介錯人をつとめ、ある時将軍の指南役を柳生一族と争った。柳生側は何としてもその座を得たかったのだか、御前試合で一刀に敗れてしまう。これを承知できぬ裏柳生の総帥烈堂(れつどう)は、一刀が将軍家に謀反を企てたという濡れ衣を着せて一刀を抹殺しようとした。しかし、一刀は葵の御紋が入った裃(かみしも)を着て、柳生の奸計に対峙し、彼らを追い払うことができた。徳川家の紋章に傷をつけるなど、恐ろしくて柳生にはできなかったのである。しかし、柳生の一味が屋敷に踏み込んだ時、一刀の妻あざみは殺されてしまう。まだ幼き大五郎は奇蹟的に助かったが、拝家はお取り潰しになってしまった。この卑劣な柳生の陰謀に憤り、一子大五郎を連れ、拝一刀は刺客の道を歩んたのである。

父と息子のドラマ

 日本のドラマでは、母と子の絆や愛情を描いた作品は多いが、父と息子の関係を濃厚に描いたドラマは少ない。父系社会であるためか欧米の映画では、母親よりも父親と息子の絆を描くことが多い。『子連れ狼』では刺客の父と幼き大五郎が幾多の修羅場をくぐり抜ける。いつ死んでもおかしくない危機が何度もあったが、その都度、必死で堪えて命を繋いできた。四五歳くらいの大五郎が大人でも身震いするような命の危機を体験するのだ。こんな悲惨で危ない生活をなぜ続けるのかと、旅の途中で何人もの人々から非難されるが、一刀は迷うことなく、冥府魔道(めいふまどう)を選んだ親子の宿命を述べるだけである。生きるも死ぬも親子一緒。幼い大五郎も父の覚悟と信念を持った生き様を本能的に悟る。父の背中を見て人生の辛さ、厳しさ、残酷さを知る大五郎。母のぬくもりがまだ欲しいのに、それを父に見せぬいじらしさがこの子にはあった。わずか五歳くらいの小童(こわっぱ)なのに、戦場の武士が味わう死の恐怖を体験するのだ。子供ながらに肝が据わっている。物怖じしないのだ。

壮絶な最期

    第3部25話『波と笛』では辛く長い旅も終着点に至る。宿敵柳生烈堂との対決が始まるのだ。ここで謎だった一刀の貯めた資金の使い道である。刺客依頼1件につき500両を取ってきた一刀は、拝家再興のために使うだろう、と視聴者は推測していた。ところが旧知の竹細工師に送っていた金は、長崎屋新助へ渡り「投擲雷(とうてきらい)」購入に充てられたのである。この外国製手榴弾を持てば、たとえ一刀が死んでも柳生の刺客は大五郎に手出しができない。刀を持って戦えない大五郎とて投擲雷を投げつければ、その威力ゆえに柳生の郎党とて迂闊に近づけないのである。旅を始める前からそまで見通していた一刀に我々は驚嘆するのだ。家門の再興ではなく、ただ一つの目的、すなわち柳生烈堂の首を取ること。体の隅々から沸き上がる怒りを、「烈堂許すまじ」の復讐にだけ向けるのである。我々はその凄まじい執念に戦慄を覚えるとと共に、いたく感服してしまうのだ。

  一刀は烈堂と河原で決闘する。すでに他の刺客と闘い負傷していた一刀は、劣勢であった。闘いのなか一刀は武器を失ってしまう。その死闘のクライマックスでは、烈堂の刀が頭上に振り落される瞬間、一刀が真剣白刃取りでとっさに受け止める。大五郎が烈堂の足に絡みつき、父を必死で助けようとするも、烈堂は渾身の力を刀に込めて一刀の頭に押しつけようとしたのである。刀先が頭に徐々に下ろされ、一刀の頭に押しつけられると鮮血がしたたり落ちてきた。それでも刀を奪い返した一刀は、こんどは自分が烈堂の頭に刀を振り下ろす。烈堂もそれを真剣白刃取りにする。一刀は烈堂に乾坤一擲(けんこんいってき)の一撃を加え、鬼の形相で睨(にら)みつけている。だが、一刀は既に絶命していた。目を開いて烈堂を睨む一刀には、最後のひと押しを続ける力が残っていなかったのである。刀を持ち立ったまま、命の炎が燃え尽きていたのである。まさに壮絶な最期であった。

子に伝える死生観

  烈堂との対決の前、一刀は柳生の残党と一戦を交え負傷してしまった。その傷を大五郎が一生懸命手当てをしている姿はけなげであった。一刀は河原に大五郎と一緒に坐り、来るべき壮絶な死闘を覚悟させるべく、ある心構えを語ったのである。

  目の前に流れる河を見ながら、一刀は大五郎に問う。「河はどこに流れつくか」と尋ねる一刀。「海」と答える大五郎。一刀は大五郎に言い聞かせる。

 
  河は大きなうねりの波、小さなうねりの波があり、寄せては返し、繰り返して絶えることはない。人の命もこの波と同じ。

  生まれては死に、死んでは生まれる。
  よいか、ほどなく父の五体はほどなく物言わぬ屍(かばね)となろう。
  だが、命は波と同じく絶えることはない。来世という岸頭(がんとう)に向かい、また生まれ変わるべく、またうねってゆく。 

  五体は死んでも、父の命は不滅なのだ。お前の命も然り。我らの命、絶えることなく、永遠(とわ)に不滅なのだ。

  分かるな。

  たとえ皮破るるも、血ふくとも、うろたえるな。父の五体倒るるとも、怯むな。父の目閉じらぬとも、その口開かずとも、懼(おそ)るるな。
  
  生まれ変りたる次の世でも、次の次の世でも、我が子はお前ぞ。
  
  わしらは永遠(とわ)の永遠の、父と子。


このように語り終わると一刀は大五郎を堅く抱きしめた。死に行く運命の父が、やがて訪れる父の最期にたいする作法を教えている。父親の絶命に怯まぬよう、幼い息子に諭しているのだ。今そばにいる父が亡くなっても、懼れ悲しむことはない。命は河のように流れて断絶することはない。たとえ父が死のうとも親子の絆は切れない。死んでも親子だ。悲しむでない。七たび死すとも親子に変わりなし。見ている者の目に自然と熱い涙が浮かんでしまう。父の愛とはこれほど深く、熱く、強いものなのか。我らも思わず感涙に咽(むせ)ぶ。これ以上素晴らしい教えがあるのか。死というものをまだ分からぬ子供に、その覚悟をさせているのである。ここに『子連れ狼』の神髄がある。


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