英邁な君主となる幼帝

  皇祖皇宗(こうそこうそう)の建国以来、萬世一系の天皇を戴き、立憲君主政体の治下にある我々は、昭和天皇という世界に比類なき名君と共に生きることができた。西歐世界では多くの哲学者や神学者が理想の君主論を説いてきたが、なかなか名君をもつに至らなかった。理想の王を論じた知識人としては、古代ならディオ・クリゾストモス(Dion Chysostomos)やディオトゲネス(Diotogenes)、中世ではアエギディウス(Aegidius Romanus)、近世では英国のボリンクブローク子爵(Henry St. John, 1st Viscount Bolingbroke)といった人物が有名だろう。ところが、彼らが羨むような君主が我が国には存在したのである。それが昭和天皇である。我が国始まって以来、未曾有の危機に直面したとき、偉大な昭和天皇が君臨なされていたのである。天佑(Grace)だ。天の摂理(Providence)か。いや世界の奇蹟(Miracle)である。西欧人ならきっと「裕仁大帝(Hirohito the Great)」と呼ぶだろう。我々なら陛下の清いお心をかんがみて「昭和聖帝(Hirohoto the Sacred Hearted)」とお呼びしたい。

  昭和天皇はご幼少の頃からその天凜(てんびん)を発揮なさてれいた。明治34年4月29日にお生まれになった皇子(みこ)様は、御名を「裕仁」と命ぜられた。我らの皇孫殿下は迪宮裕仁親王(みちのみやひろひとしんのう)となられたのである。国民で皇孫殿下のお健やかなご成長を願わぬ者はいなかった。明治大帝がことのほか愛された迪宮親王殿下には、文武両道の偉大な人物がご教育にあたられた。御養育掛には陸軍元帥の大山巌(おおやまいわお)公爵が第一候補となったが、元帥が固辞されたので海軍中将川村純義(かわむらすみよし)伯爵が選定された。川村伯爵は薩摩藩士で武人として名を馳、国事に尽瘁した第一級の人物であった。かくて皇孫殿下は川村伯爵は麻布の邸宅にお移りになった。川村中将は重大な大命を拝してからというもの、唯一の趣味であった銃猟を止め、全身全霊をあげて迪宮殿下のご教育に専念したのである。殿下の養育四年の間、川村伯は寝食を忘れて大任を果たしたので、秩父宮擁仁(やすひと)親王殿下も川村邸に預けられたのである。迪宮殿下の周りには川村伯だけではなく、伊藤博文ら維新の元勲も控えていたのである。しかも、学習院には乃木希典大将や東郷平八郎元帥がいたのだ。もう羨ましいくらい豪華な人物が勢揃いしていたのである。


昭和天皇のご性格

  日常の遊技であっても規則と公正を厳守する性格であったという。遊びにおかれても、もし味方が規則に違反した行為をする者がいれば、殿下側が勝利の場合でも「今の戦は規則を破った者がいるから実際は負けである」と仰せられて、勝利をご自慢されることはなかった。殿下はご幼少の頃よりご闊達であったことを示す逸話がある。床の間には猛虎が巌上で月に向かって物凄い形相で吠えている「猛虎寒月」という名画が掛けてあった。殿下はこの名画に向かって「虎を撃つぞ」と仰せられ、空気銃で狙いを定めて、見事に虎を射抜いたという。子供らしい微笑ましい話で、殿下がご活発な気性を備えていらしたのがわかる。(小貫修一郎編集 『今上陛下聖徳餘影』 昭和3年 p.28)でも、皇室の名画なら相当の値が付く名画のはず。その高級美術品に穴を開けてしまうとは、庶民の我々には「もったいない」の気持ちが残ってしまう。

  明治天皇や大正天皇と同じく、ご幼少の殿下も臣民に対して慈しみのお心を示されたのである。かつて沼津御用邸にあらせられたとき、ある朝侍女が毒虫に手を咬まれて皮膚が赤く腫れ上がってしまった。それをご覧になった殿下が、「どうしたのか」とご下問されたので、侍女は毒虫に刺されたことを申し上げたのである。すると殿下は御自ら薬を持ち出して「痛いだろう、この薬をつけよ」と仰せられた。お歳もゆかぬ殿下が自然とお示しになった慈愛に、侍女はただ恐懼(きょうく)して感涙にむせんだという。(p.29)臣民をいたわる殿下の真心に触れると、日本人はどうしても感動してしまうのである。

学習院ご入学と乃木大将

  殿下が八歳になられると学習院にご入学された。入学式では乃木希典院長が厳粛な態度をもって直後を奉読し、新入生に訓示を与えた。殿下は乃木院長の訓示を終始じっとしてご静聴なさったという。明治天皇が日露戦争で多くの部下を失った乃木大将に、学習院で多くの子供を養育せよと命じられたことは夙に有名な話である。乃木大将は武勲高く人格高潔であった。硬骨で質実剛健、武人の典型であったから、殿下のご教育掛としては最適であった。乃木院長は殿下といえども、一切特別扱いせず、他のご学友同様の教育を施したのである。厳格な乃木院長による指導のもと、殿下は日々5時半から6時ころに御起床なさって伊勢大廟や明治天皇、昭憲皇太后、ご両親殿下の在す方に向かって礼拝されたのである。礼拝後は御自らお居間を清掃なされ、学習院には徒歩でご登校されたのである。昭和天皇の純真な御性格やお心は、このような生活で形成されたのである。

  殿下の歴史教育を担当した白鳥庫吉(しらとりくらきち)博士は、ある時「ナポレオンに関する御感想」を、殿下に質問したという。すると殿下は、ナポレオンの事業はいかにも華々しく偉大なものがあった。しかし、その覇業の動機は、どうも人類のため、国民の幸福のためということではなくして、単に自己の名誉心を満足させるためのものではないか。もし名誉心のためにしたとすれば、その事業の華々しさ偉大さには感心するが、尊敬を払うことはできぬ。また彼は他人の意見を聞かなかったことで最後に失敗した、とのお答えであった。(pp.47-48)

  これを拝聴した東宮御学問所の総裁始め、濱尾、杉浦、山川、小笠原、大迫、河合の諸氏は殿下のご見識が高いことに驚き、かつ感心したという。

  昭和天皇のご教育を拝命したご教育掛はもちろん超一級の人物ばかりである。陛下の人格形成に甚大な影響を与えたのは、乃木希典大将と杉浦重剛(すぎうらしげたけ)ではなかろうか。杉浦は近江膳所(おうみぜぜ)藩士で、儒者の次男として生まれた。漢学のほかオランダ語、フランス語、数学、理化学、天文学を修めた碩学であった。大学南校では化学を専攻し、英国へ留学する経歴を持つ。重剛は外国人教師から英語でいきなり数学や化学の講義を受けたのである。猛勉強して二、三年するとクラス・トップになって外国留学生に選ばれ、明治天皇の御前で御前講義をする一人に選ばれたくらいである。後に代議士にもなり、私立中学校の校長も務めたのである。文部大臣を務めたこともある先輩の濱尾新(はまおあらた)が、この理系俊才を昭和天皇の倫理担当教師に抜擢したのである。

捨て身の剣術

  『倫理御進講草案』に基づき杉浦は、殿下に倫理道徳を教えたのであるが、それは決して堅苦しい講義ではなく、少年が喜びそうな挿話をまじえたものであった。裕仁親王殿下が中学一年生のときである。杉浦はある土佐の土方某というお茶坊主の話を申し上げた。

  この土方某はお茶の奥義に長けており、殿様が参勤交代時に連れて行きたかったが、茶坊主を連れて行くわけにもいかなかった。そこで士分に取り立てて、武士として連れて行ったのである。しかし、ただの「お茶坊主武士」では剣の達人が見れば一目で偽物と見抜かれてしまう。ある日、この茶坊主はある武士に「真剣勝負」を申し込まれてしまう。驚いた茶坊主は戸惑ったが「主命を奉じて使いする途中にて」と言い、それが終われば勝負いたそう、と約束してしまった。「二時間後」と約束したものの、どうしたものかと剣豪千葉周作を訪れ、事情を話した。病床に伏している千葉だが、その茶坊主の話を聞いたのである。茶坊主曰く、

  「お恥ずかしながら、われ未だ剣法を知らず。ともかく討たれて死すべき覚悟はしつれど、未練なる死に様では恥だ。主名を穢すことになるやもしれぬ。ゆえに先生に見苦しからぬ死の方法を請う」

千葉周作は驚きながらも、茶を一服所望して後、語り出した。

  「よし、御身(おんみ)のために語らん・・・御身が彼の武士と相対して互いに刀を抜くや否や、御身は直ちに左足を踏み出して力を込め、大上段にかぶりて両眼を閉ずべし。いかなることがあろうとも、その眼をかけてはならぬ。ややありて、腕か頭にひやりと感ずるところあるべし。これ切られたるなり。その刹那、御身も力に任せて上段より切り下ろすべし。敵も必ず傷つき、あるいは相打ちになるやもしれぬ。このこと決して背くべからず」と。

  茶坊主の土方は厚く礼を述べ、彼の剣客が待つ果たし合いの場へ向かった。土方は落ち着き払って剣客に挨拶を述べた。相手は少々意表をつかれたが、用心して刀を抜いたのである。土方は言われた通り大上段に構え、両眼を閉じて石像の如く立っていた。剣客は驚く。相手の坊主は隙だらけだが、踏み込めば必ずや頭上に刀が振り下ろされるだろう。さらに相手は眼を閉じているから、心の動きが読めない。時が経っても、剣客は斬り込んでこなかった。茶坊主は不思議に思っていると、「恐れ入った」という声がする。相手は刀を投げて土下座をしていたのだ。多くの見物客も集まっていた。土方が眼を明けると、目の前の土下座した武士が「恐れ入ったる御手のうちなり。われら及ぶところにあらず、つきてはわが一身を如何ようにも処分し給え」と言ってきた。

  呆然とした土方は「土佐藩の武士は、降伏した者を切るべき刀を所持せぬ」と言う。相手の武士は長年諸国をめぐって剣の修行をしたが、「いまだ御身の流儀を見ず。御身の剣道は何流ぞ」と問う。土方はおかしさに堪えきれず、自分はただの茶坊主で、千葉周作先生から死に方の教訓をうけ、先生の言われた通りにしたるのみ、と告げて明かした。その剣客は驚き、「まさに剣道の奥義を会得したるものなり。わが兄として仰ぐべきなり」と述べ、共に千葉周作を訪ね、すべてを語ったという。(山本七平 『昭和天皇の研究』 祥伝社 平成元年 pp.280-282)

  こうした杉浦の教えが昭和天皇の脳裏に刻まれていたのだろう。マッカーサー将軍に陛下がお合いになったとき、この「捨て身」の姿勢をお取りになったのではないか。陛下はご自分のお命を毫も顧みず、臣民のために死ぬお覚悟であった。

  マッカーサー将軍が陛下に「戦争責任をお取りになるか」と質問する。
  陛下は「その質問の前に、私の方から話をしたい。」と仰った。
  将軍は「どうぞ。お話下さい。」
  陛下は「あなたが私をどのようにしようともかまわない。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてかまわない。(You may hang me)」と。

  天皇陛下には何ら計算がなかった。陛下の率直な「捨て身」の発言にはマッカーサー将軍もさぞ困憊(こんぱい)したことだろう。陛下の純粋で清いお心に触れると我々は自然と目頭が熱くなる。国民を救いたい一心のお言葉に涙が押さえきれない。昭和聖帝という偉大な君主を失ったときの日本人は本当に悲しみに暮れたのである。 


   
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