祖国を口にできない耳にできない男

  第19世紀にエドワード・エヴェレット・ヘイル(Edward Everett Hale)が、有名な雑誌「アトランテック」に「国の無い男(The Man Without A Country)」という物語を掲載して大変好評を博した。( The Atlantic Monthly,  Vol.  XII, December 1863) この文章はある陸軍士官の奇妙な刑罰を描いた作品であるが、軍の公式文書がほとんど存在しないので、真相は今でも不明である。しかし、ヘイル氏の作品は多くの人々を魅了し、愛国心を涵養する物語として賞賛された。我々日本人にも意義があると思うので、その概要を紹介したい。

  合衆国陸軍中尉フィリップ・ノーラン(Philip Nolan)は西部旅団に所属していた。当時、副大統領の任期が切れたアーロン・バー(AaronBurr)は、ルイジアナ地方を訪れていた。野心家のバーを仲間にしようとしたルイジアナ独立派が、メキシコを征服したらバーを皇帝に担ぐ計画を持ち込んだ。彼は以前、ニューヨーク州知事になった暁には、北部連邦の大統領になろうとしたくらい、山気があったのである。ところが上手く行かずに失敗してしまった。財務長官のアレグザンダー・ハミルトンを決闘の末、殺してしまったのも、そうした野心の一環から発したものであったのだ。自らの野望が崩れてしまったバーは、喜んでこの陰謀に加わることにした。そんなバーとニューオリンズで知り合いになったノーラン中尉は、バーの陰謀に加担した廉で軍事法廷にかけられる羽目になったのである。彼はフォート・アダムズに駐留していたが、任務に飽きてしまっていたので、ついバーの計画に荷担したのだろう。計画に乗った他の大佐や少佐らと共に裁判にかけられたのである。

  裁判中にノーラン中尉は彼の運命を決定づけるある言葉を発したのである。閉廷間際に裁判長のモーガン大佐が何か言いたいことはないかと、ノーランに尋ねたのである。いつもは合衆国に対して忠実な中尉であったが、ついカッとなって、

  「合衆国なんかクソ食らえ!(Damn the United States!) もう合衆国のことなど二度と聞きたくねぇぞ」

と言ってしまった。天子の言葉は「綸言(りんげん)汗の如く」といって、一度発せられた言葉は取り返しがつかないとされてきた。ノーラン中尉の発言はまるで綸言だ。いやむしろ、自爆発言かもしれない。ノーランはフランス色の強いニューオリンズで育ち、若い頃の半分はまだアメリカと言いづらいテキサスで過ごしたのであった。それでもアメリカに忠実であったノーランだったから、腹立ち紛れの一言だったに違いない。
  
  しかし、裁判を主宰していたモーガン大佐は、ノーランが口にした合衆国への暴言を見逃さなかった。明治時代の日本人と同様に、アメリカの軍人は筋金入りの愛国者で、骨の髄まで合衆国に忠誠を誓っているのだ。モーガン大佐はノーランの不敬発言にショックを受け、特別な刑罰を言い渡したのである。その判決は、

  「被告は以後二度とアメリカ合衆国の名を耳にせぬであろう。」

というものであった。ノーラン中尉は笑ったが、他の者は誰も笑わなかった。モーガン大佐は峻厳であり、法廷は重々しく沈黙していたのである。ノーラン中尉は合衆国海軍に引き渡され、艦船に軟禁されることとなった。大佐は法廷執行官にノーチラス号へ連行するよう命じ、乗船中は彼の階級にふさわしい待遇を用意するよう艦長に伝えた。ただし、艦長は船の乗組員全員に対し、決して合衆国について言及せぬよう釘を刺すよう依頼した。乗船中はノーランに士官を付随させ、処罰が徹底されるように要求したのである。そしてノーランが侮辱した祖国を二度と見られぬよう、航海は続けられることとなった。

  軍艦に乗船中、ノーランは監視役の士官が同伴であれば普通に乗組員と会話が出来たし、月曜日には艦長が彼を食事に招待してくれたのである。海兵隊員や水兵はノーランを「簡素なボタン(Plain Buttons)」と呼んでいた。ノーランは合衆国陸軍中尉であったが、ボタンは軍服用の物ではなく、普通の物を付けていたのである。軍服のボタンには、合衆国の標章が刻印されていたからである。乗組員は彼の前では祖国について話すことは厳禁であったし、合衆国を示す物は彼の周りから一切除去されたのである。たとえば、船に配送される外国の新聞でも、誰かがノーランより先に手にして、合衆国について言及してある記事や広告の部分を切り取っていたのだ。

  喜望峰(Cape of Good Hope)に停泊したとき、ノーランは乗組員等の読書会に参加を許され、「最後の吟遊詩人の歌(Lay of the Last Ministrel)」を朗読したのである。ウォルター・スコッ卿(Sir WAlter Scott)の有名な詩を上手に読み聞かせたノーランであったが、「これは我が、我が生まれし地(This ismy own, my native land)」というくだりに来ると顔が青ざめて喉をつまらせた。彼は本を投げ出すと、部屋へ戻ってしまった。判決を受けた当初、ノーランはさほど処罰を真剣に受け止めていなかったのである。しかし、時が経つにつれ祖国を一切言葉にできぬ辛さを噛みしめたのである。

  ノーチラス号からウォーレン号に乗り換えたとき、ノーランは本国へ帰れるものと思われたが、逆に地中海方面への航海になってしまった。ウォーレン号でちょっとした舞踏会が開かれた。そこでもアメリカを連想させる曲名や表現は制限されたのである。ノーランは以前知り合ったグラフ夫人を誘って踊ったのである。そこでチャンス到来とばかりに彼はその夫人に「お国について何かお聴きになってませんか」と尋ねたのである。するとグラフ夫人は「お国ですって、ノーランさん!二度とお国のことは聞きたくない方と思っていたわ」と驚き、彼女はご主人の元に戻ってしまったのである。ここでもノーランは祖国について会話を交わすことが出来なかったのである。

  ノーランの軍艦は航海中に対英戦争が勃発したことで、英国のフリゲート艦と一戦交えることとなった。英国艦船からの砲撃で味方の士官が殺されてしまい、砲兵隊出身のノーランが志願して、戦死した者の代わりに指揮を執って反撃を試みた。戦闘終了後、艦長はノーランの奮闘に感謝し、表彰式で自らの剣を授けた。受領したノーランは子供のように感泣し、それ以降式典がある度にその剣を佩用(はいよう)したという。ノーランを気の毒に思った艦長は戦争長官に手紙を書いて、彼の赦免を求めたが返事はなかった。ちょうどその時はワシントンがすべての外来書簡を無視していた頃であった。本国から新たな命令がなければ、ノーランの軟禁状態を誰も止めることは出来なかったのである。やがて彼の処罰は本国の軍部から忘れられてしまい、ノーランは監禁された幽霊のようになってしまったのである。

  こうした幽閉状態の航海が続く中、ノーランの船は奴隷禁止令を犯してアフリカ人を密輸する奴隷船を発見したのである。その奴隷船を拿捕したとき、ノーランはポルトガル語の通訳として臨検の士官ヴォーガンに同行した。ヴォーガンは悪臭が充満する船の中で、哀れなアフリカ人奴隷を見つけ解放してやると告げたのである。解放者であると分かったノーランらに、すがりつく黒人奴隷たちの一人が請う、

  「私を祖国(Home)に戻してくれ、私の故郷に、私の家に、私の同胞と女たちのもとに。病気の父と母を白人の医者に診せないと死んでしまう。病気で苦しむ村人をも残してきたんだ。医者を訪ねる途中で悪漢どもに捕まってしまった。それ以来、故郷の誰とも会っていないんだ。この半年間、地獄のような船に閉じこめられて故郷のことは一言も耳にしたことがないんだ。」

  奴隷の話を聞きながら通訳しているノーランは、胸を詰まらせ苦悩の表情を浮かべるのである。それを見ているヴォーガンも辛く彼に同情を示した。故郷に帰れると知った黒人らは大はしゃぎであった。

  船に戻ったノーランは若い士官に自らの訓戒を伝えたのであった。「家族がない、故郷がない、国家のない事とは如何なるものかを、君らに伝えたい。家族と離れず、自分勝手は忘れろ。家族のためなら何でもしろ。家を思って手紙を書き、送り、語るようにしなさい。お国のため、国旗のため、任務がどれほど厳しくとも、お国が命じることのみ考えよ。君らに何が起ころうとも、誰かにお世辞を言われたり、あるいは虐待されようが、決して他の国旗を見るんじゃない。将兵や政府、国民の背後には国家が、汝らの祖国があるのだ。君が母に属すように君は国家に属すのだ。母親に添うように国家に殉ぜよ。」

  ノーランは自らの過去を悔やんだ。若い頃に誰かが今語ったような忠告をしてくれたら、祖国を失う羽目にならなかったであろう、と。運命の日である1807年9月23日から1863年5月11日の命日まで約50年もの間、彼は海軍から忘れ去られた存在となり、祖国の土を一度も踏まずに人生の幕を下ろしたのである。ノーラン中尉は自分の部屋に、自分で作った小さな神棚を置いていた。ワシントン将軍の肖像画に星条旗が飾られていた。そして彼はアメリカ国璽(こくじ)の鷲を描いており、地球儀を足で掴む鷲のくちばしからは光線が輝いている。彼は「ほら、私には国があるぞ」と悲しく微笑んでいたという。ベッドの元には大きな合衆国の地図があった。これは彼が記憶をたどって描いた物であり、インディアナ領とかミシシッピー領といった古い地名が書かれていた。合衆国の状態を一切聞いていないノーランには新しい州のことなど何も解らなかったのである。病に伏すノーランは付き添いの士官に州の名について尋ね、国旗の星を一つずつ指さしたという。看病している士官は、祖国アメリカについて知りたがっているノーランに対し、英国との戦争や、ミシシッピーやテキサスでの出来事、ウエスト・ポイント士官学校、南北戦争のことについて語ったのである。

  死の間際にノーランは聖書を枕元に置いていた。その聖書には紙が挟んでであって、そこには「彼らは国家を、しかも天国のような国を望んだ。天主は彼らに都市を用意していたので、そこでは彼らの天主と呼ばれることを天主は恥じなかった。」と書かれていた。そして「死んだら海に埋葬してくれ。海は好きだし、私の故郷だ。ただし、フォート・アダムズには石碑を建てないでほしい。それ以上の不名誉があるだろうか。」と締めくくられていたのである。

  どうだろうか、祖国を語ることも、会話すること、言及すること、目や耳にすることさえ禁止されたノーラン中尉のことを。日本に生まれた日本人であるのに、祖国日本を憎む国民が如何に多いことか。アメリカ合衆国のことを一切遮断される刑罰など、最初は軽い処罰と高を括っていたノーランは、その苦痛を骨身に染みて実感したのである。普段は何気なく口にしている祖国を厳禁とされることが、こんなにも辛いこととは思ってもみなかったのだ。晩年の彼が、部屋にワシントンの肖像画や星条旗、国鳥の鷲、アメリカ地図を飾っていたとは。祖国を取り上げられてしまったアメリカ人の苦悩が痛いほど分かる。記憶をたどりながら自国の地図を描くなんて、けなげではないか。

  もし、我々が日本の土を二度と踏むことを許されず、「日本」という言葉を誰からも聞くことも話すこともないまま一生を終えるとしたら、これほど辛いことはあるまい。外国で暮らす日本人は国内に住む国民よりも愛国心が強くなる。望郷の念が強くなるのは正常な日本人であろう。敗戦後の日本には、憂国の士が激減した。あたかも健康な人間が心臓を意識しないのと同様に、国内の日本人は日本を意識しない。日本に生まれて暮らせる幸せを当然のことと思ってしまうのだ。日本から離れて暮らすことなど考えていない左翼のマスコミ人に限って、祖国日本に対して侮蔑的発言を口にしてみたり、「一回潰れてしまえ」などとほざいてしまう。彼らは「我が国」を外人みたいに「この国」と呼んで、高級人間のように振る舞うのだ。NHKや朝日新聞の論説委員などは、日の丸を敬仰する愛国者の国民を見下して客観的で上等な文化人を装うが、こうした人間ほど醜い者はなかろう。テレ朝によく出る大谷昭宏(おおたにあきひろ)や朝日新聞の若宮啓文(わかみやよしぶみ)らが、こうした典型的人物である。彼らのような高等文化人は、支那や朝鮮に輸出して日本から追放してやりたい。二度と彼らが「日本」を「この国」なんて呼べなくしてしまえば清々する。「お願いだから日本に帰りたい」と彼らが泣き叫んだって、朝鮮語か支那語で「入国禁止」と答えてやろう。産経新聞の誰かが『日本を無くした朝日人』とかの連載を始めてくれないかな。



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