朝鮮人が群れれば厄介だ

  「三人寄れば文殊の智慧」というが、朝鮮人が三人寄れば碌(ロク)なことが起きない。朝鮮人が群れたら日本人は眉を顰める。あの平べったいモンゴル顔の鮮人が集団になったら、不気味で近づかない方が利口だ。事実、朝鮮人が多く住む地区に新居を構えようなどと考える日本人はまずいないだろう。普段は朝鮮人が大好きでたまらないNHKやTBSの高給取り社員でさえ、私生活では朝鮮人に近づきたくない。人間の本能は正しいことが多い。腐った肉を食えば吐き出したくなるし、蛾や虫が飛んでくればよけるだろう。赤ん坊だってブスより美人を選んでしまうのだ。日本人が朝鮮人を避けても無理はない。

  昔は日本企業なら在日朝鮮人を雇わなかった。日立製作所が在日朝鮮人の朴鐘碩の採用を取り消した事件はちょっと有名だ。日立側の取り消しは朴が通名(日本での偽名)を使って入社試験を受けたことが理由であった。朴が訴訟を起こしたので、日立側は採用取消を撤回し、彼の入社を認めることになったのである。朝鮮人らはこうした結果を喜んだろうが、日本人経営者は決して朝鮮人を雇わぬよう警戒しただろう。朝鮮人など雇ったら、会社に貢献するより、むしろ労働組合運動や昇進差別訴訟に熱を入れるやもしれない。寛大な態度を見せて朝鮮人を複数雇ったら、民族的団結で会社をしっちゃかめっちゃかにしかねない。朝鮮人が群れたら碌なことが起きないのは歴史上明らかである。

  今も昔も我が国には不逞鮮人が多く、彼らが烏合(うごう)の衆になれば、衝動的に暴れる、妄言に踊る、誇張されたデマに騙されたり、終いには残忍な行動に出るだろう。

  朝鮮人は天性附和雷同性を有し、闘争を好み、議論を喜び、よくこれら群衆心の諸特徴を備えている。・・・朝鮮に於いては近時社会主義思想を食物としてその抱懐する不平不満を解決せんとする・・・・常に巧みに群衆を煽動利用して自己の名と勢力を扶植するに汲々たるものが少なくない( 大阪市社会部調査課 『なぜ朝鮮人は渡来するか』 昭和 5年p.52)

  戦前には普通学校の朝鮮人生徒が同盟休校を起こし、校長や教師に反抗することがあった。学校に対する反感や憤激から鮮人生徒が教員の排斥声明を出したり、校長に自決を迫る事態へと発展したことがある。一つの学校が始めた抗議に、自分たちも参加せねば体裁が悪いとの理由で、他校の鮮人生徒が附和雷同し、学校騒動が大規模になったのだ。殊に女子の朝鮮人が多く参加したのは、日本人にとって注目すべき現象であった。昔から朝鮮人は厄介な存在であった。こんなんだから朝鮮人は嫌われ、敬遠されるのだ。


暴徒化する鮮人の群れ

 日韓併合により日本企業でも朝鮮人の人夫を使うことがよくあった。大正14年8月3日に起きた朝鮮労務者による大騒動を紹介しよう。(村山智順 『朝鮮の群衆』 朝鮮総督府 大正15年 pp.93-98)

  漢江の出水で人道橋や中島堤防が壊れ、復旧作業を日本の工事事務所が請け負った。その工事で働く人夫は二千人以上にも上った。復旧工事は大部分土砂運びであったから、朝鮮人の単純労働者でも充分であった。そこには水害に遭った者はもちろんのこと、これといった仕事を持たぬ者や、乞食までも従事していたのである。悲惨な水害にあった者も大勢いて、稼いだ賃金を家族に渡さねばならぬ者もいたが、ちょっと余裕がある者は酒と賭博に走った。工事現場付近には何十軒もの小料理屋が現れ、賃金労働者をカモにしようとする賭場も出現したのである。

  当時の日本人監督者は工事で不良分子や怠け者を見つけ、言葉で従わぬ者には鉄拳制裁を加える者もいた。しかし、その監督者だってせいぜい五、六人しかいなかったから、とうてい全部に監視の目が届かなかったのである。事件当日の8月3日の夜は工事の都合で約300名の人夫が夜間作業に従事していた。請負業者の物置場には工事用のカマス(むしろの袋)数百、水害罹災害に貸与するために作った三、四百のチゲ(荷物を背負うときの木製背負子)が置いてあった。夜になるとこれらがしばしば何者かに盗まれていたのである。この減り方が著しかったので、調査してみると、人夫が自宅の小屋掛に使ったり、マッコリ酒や飯代にするため盗んでいたのだ。近所の飲食店の壁や屋根は、カマス(袋)を解いて作られていたのである。そこで事務所は監督を貼り付けて泥棒を見張っていた。そこへカマスを盗み出そうとする輩が現れ、日本人監督が捕まえて泥棒人夫を殴打した。

  殴られて泥棒鮮人は悲鳴を挙げて救いを求めた。するとこの声を聞きつけた工事人夫らが集まり、彼らは監視役になぜ殴ったかを問い詰め、彼がその人夫がカマスを盗んだことを話した。それを聞いた人夫らは、盗人は警察に突き出せばよく、殴るのは人道に反する、人道を無視する奴には我々も私刑を加えてやろうと迫った。(朝鮮人が「人道」云々など笑止千万。こんな時だけ高級人間になるのだ。)焦った監視役は盗人の治療費を負担して直ちに医者に連れて行くから騒がないよう頼んだ。

  憤慨に気の立った人夫の群がしばらくその場に佇んでいると、この出来事がみんなに口から耳へと宣伝された。事件は真夜中に起こったので、人夫らは口々に「どうした」「どうした?」と尋ねていた。すると「日本人が朝鮮人を殴った」と誰かが最初に言った。それが「ひどく殴ったので血が出た」となり、つぎに「重傷で至急医者に連れて行かれた」と変わったのである。そして「打たれて倒れてたので血まみれになり、身動きをしなかった」「死ぬだろう・・・」「殺してしまって、その屍体を捨てに行った」「医者に連れて行ったというのは、口実だ。人を殺しておいて我々を誤魔化そうとするいつものやり方だ」と酷くなっていった。こうしたデマが飛び交って、群衆の中から、「復讐だ、復讐だ」とか「やっつけろ」と怒鳴る者が現れ、群衆は事務所に押し寄せた。

  昂奮した群衆は「なぜ人夫を殴り殺したんだ。その本人を出せ」と監督に詰め寄った。監督三、四人は「たいした怪我ではなく、決して死んだのではない。本人は医者のところに行ってしまってここには居ない。帰れ」と言ったが効果はない。殴打への報復が出来なくなった群衆は、その不満のはけ口を日頃からある監督へ鬱憤にすり替えてしまった。どこからともなく監督めがけて投石が始まり、監督は彼らに解散を迫った。しかし、小競り合いが開始されたので、状況不利とみなした監督らは脱出を計った。群衆は「ソレ逃げたぞ」「逃すな」「殴り殺せ」と夢中になり、監督らを追撃し、石を投げ棍棒を振り回し、測量用ポールをもって殴りかかった。三名が負傷し、一名が重傷を負った。

  凶暴化した群衆は事務所をことごとく破壊し、その勢いで土木部出張所を襲い、これも破壊し負傷者二名を出した。監督所員は付近の巡査派出所に遁れたが、群衆は小さな派出所を包囲してしまった。不逞鮮人らは逃げ込んだ監督等を引き渡すよう要求し、石を投げたり罵声を浴びせたりしたが、巡査は殴打の本人は居ないので彼らに退散を促した。そこに龍山署の警官が駆けつけてくれたので、群衆は四散してしまったという。

  この襲撃騒動は単なる暴動ではなかった。事務所や土木出張所襲撃の際、何者かが電灯線、電話線を切断しから照明器と通信機を破壊したのである。通報手段を不能にしたうえでの襲撃であったことから、暴徒の中に多少知識を有する不逞の輩が混じっていたと推測できる。事務所、出張所、物置場を破壊したが、その際工事用の材料や家屋の破片などを悉く持ち去ったが、重要な計量器はそのままであった。この騒ぎを利用して生活用に盗みをはたらいた者がいたということだ。

  大正時代も平成の現在も朝鮮人は変わらない。日本人からちょっと何か言われれば、事の善悪・状況・理由に関わりなく、直ぐ精神異常者のように騒ぎ立てる朝鮮人。戦時中の徴用を「強制連行」と言い換えたり、単なる売春婦の「鮮ピー」を「従軍慰安婦」と呼んで泣き叫ぶ。日本人は朝鮮人に理性があると誤解しているのだ。冷静な判断力や理性的考察なんか全く頭にない家庭で育つ朝鮮人に、理路整然とした議論が通用すると思っているのだ。日本人はお目出度い頭を冷やす必要がある。「馬鹿につける薬は無い」と言うではないか。猫に小判、豚に真珠、鮮人に理性だ。鮮人ひとりだって問題児なのに、それが十名二十名集まったら手が付けられない。日本人は教育水準が高く、家庭の躾が良いので朝鮮人を対等に見てしまう。朝鮮人を扱うときは、日本人は鬼になれ。あ、違った。「支那人のようになれ」だった。全国に散らばる朝鮮人は、ダイソンの掃除機で吸い上げて竹島付近に捨ててしまおう。「独島」近海で溺れたら本望であろう。



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