清廉イメージ共産党には不潔な幹部がいる

  今回の衆議院選挙で自民党が圧勝したのは良かったが、次世代の党が惨敗したことと共産党が躍進したことは非常に残念である。日本は本当にオタク族の国だ。一般国民は既に見限っているのに、共産党ときたら深海魚みたいに暗い海底の水圧に耐えながら棲息し、忘れた頃にチョコンと浮上してくる。国民からの税金と党員からの搾取で食いつないでいるのだからしぶとい。共産主義は過激が売りだから、ちょっと日和(ひよ)って社会党や民主党に入る左翼は、熱心な共産主義ファンに見捨てられるのだ。やはり根っからのコアなファンを大切にしなきゃ。なんか演歌の花道やパンク・ロック論みたいだが、共産党は意外と顧客重視の企業みたいだ。そこで今回は、共産党の勝利を祝して、彼らの本性を暴露したい。

  一般には「日本共産党」と自称している代々木の政党は、大正11年(1922年)に結成された「コミンテルン日本支部」が正式名称である。じゃあ本店はどこに? もちろんモスクワ。いまでは大学生ですら、「コミンテルンて何?」と尋ねるくらい、共産党の人気は地に落ちているが、ひと昔は違った。国際共産主義(Communist International)は燦然と輝いていたのである。現在は見向きもされない政治イデオロギーだが、戦前は学生で共産主義を知らないと馬鹿にされたくらいだ。関西大学の名物教授であった故・谷沢永一やエコノミストの長谷川慶太郎も、若いとき共産主義にかぶれたくらいである。マルクス・レーニン主義を少しでもかじった世代なら、共産党の創設メンバーである徳田球一の名は誰でも知っている。「とくきゅう」の通称(略名)で知られた古株党員で、株屋の顧問弁護士をしていたことから別名「株屋のぽん引き」とも呼ばれた。ちなみに共産党員は通称が好きで、宮本顕治は「みやけん」、渡辺政之輔は「わたまさ」、山本懸蔵は「やまけん」と呼ばれていた。

  共産党で大きな顔をしていたこの徳田球一は、治安維持法で1928年(昭和3年)2月26日に逮捕され、府中刑務所に服役していたが、1945年(昭和45年)の敗戦により、GHQの命令で10月10日に釈放されたのである。共産主義思想で投獄された徳田は、同年10月4日にGHQが発した「自由制限撤廃指令(SCAPIN93号)」にある、「治安維持法関係の違法者」に該当したので出所できたわけだ。一般国民は学校で治安維持法を“思想弾圧法”としか教わっていないだろうが、大正から昭和にかけて共産主義思想が猛威を振るっていたことを考えれば、國體(こくたい)、皇室、私有財産などを守るための妥当な法律であったといえよう。ロマノフ王家の惨殺をみれば分かる通り、共産主義者の兇暴性は日本人にとって切迫した脅威だった。NHKのドキュメンタリー番組などでは、治安維持法で捕まった共産党員が、獄中でいかに酷い目にあったかが宣伝される。だが、銃弾飛び交う戦場で生死を懸けていた将兵に比べれは、楽園でくつろぐ極楽とんぼのたわごとだ。飢えや怪我で苦しんでいる兵隊とは違って、徳田は監獄で読書をしていたのである。徳田は語っている、

  監獄はどうせろくなところではないが、一つよいことは、世間からへだてられているだけに学問に身がいることだ。(徳田球一 志賀義雄 『獄中十八年』 時事通信社 昭和22年 p.46)

  まあそうだろう。“シャバ”にいれば酒や女といった誘惑が多いから、真剣に勉強できない。徳田は渋沢栄一の自叙伝や安田善次郎の本を読んだという。しかしながら獄中で培ったのは裏切者と日本への憎悪であった。官憲に捕まった佐野学や鍋山貞親、三田村四郎などの同志が次々転向したから、転向せず我慢した徳田はさぞかし裏切者を憎んだであろう。徳田の性格が陰険で歪んでいるのは、その卑しい出生にも原因があった。

  徳田球一は明治27年、沖縄県国頭郡名護村に生まれた。父親は廻船問屋だった祖父と琉球の女との間に生まれ、母親も船問屋の主人と琉球の妾との間に生まれたのである。両親とも妾の母から生まれたわけだ。父方の祖母は貧農の娘で、豚小屋のようなあばら屋で育ち、女郎に売られてやがで祖父と逢うことになったなったらしい。母方の祖母は貧乏な職人の家に生まれ、その姉妹二人は女郎に売られたという。彼の祖母は高利貸しをしながら泥藍(どろあい)を売って生活していた。この染料は琉球から九州に送る間に目減りするので、それを理由に農家を誤魔化して安く買い高く売っていたそうだ。球一少年はその泥藍の目減りを誤魔化すため、その計算をしていたのだ。(『獄中十八年』p.14)こんな下層の貧乏家庭で育ったうえに、学校では琉球人という理由で理不尽な扱いを受けたらしい。それなら本州の日本人に対して怨念を抱くのも分かる。だからといって、共産主義者になってもいいとは思わないが。

  昭和20年の敗戦のお陰で、非転向組の徳田は府中刑務所から釈放されたのである。転向した鍋山貞親によれば、徳田は出所すると、同志の佐野文夫や渡辺政之輔から「委員長職」を依頼され承諾した。そして徳田は家に帰らず、そのまま女郎屋へ直行したという。(矢次一夫対談集II 『昭和政界秘話』 原書房 1981年 p.47)共産主義者で『無産者新聞』を経営していた門屋博の体験談では、徳田は淋病や梅毒に罹っていたらしい。共産党の命令で徳田の監視役を言いつけられた門屋は、徳田を自宅に置くことにした。ところが、徳田は朝になると門屋の次男(当時1歳くらい)を連れて、よく近くの銭湯に行ったという。すると門屋の女房が「あれだけはやめさせてくれ。徳田さんはひどい淋病だというしゃありませんか、子供に移ったらどうするんです」と文句を言った。それでしかたなく門屋は、関東地方委員長をやっていた南喜一に頼んで、借家を用意してもらい、徳田を移したそうだ。(pp.51-52) 共産党の幹部なんて所詮こんなものだ。カネ、女、酒、権力が欲しくてたまらない俗物が共産党員の正体である。まともな母親ならいくら共産党の幹部だって、淋病持ちのすけべ男が子供と風呂に入るんじゃ心配して当然。筆やんだって賛成だろう。(「筆やん」とはセクハラ事件で共産党を離れた筆坂秀世・元参議院議員のこと)

殺人犯だった共産党委員長
 
  元プロ・レスラーのアントニオ猪木には必殺技コブラ・ツイストや四の字固めがあった。しかし、いかに対戦相手が苦しんでも、猪木は殺すことはなかったが、共産党の帝王・宮本顕治は実際に人を殺してしまった。今ではもう過去の人となって一般国民は忘れているが、宮顕(みやけん)といえば日本共産党のミニ・スターリンだった。

  共産党には「スパイは発見次第必ずけすこと」という鉄の掟(おきて)がある。「消すこと」とは単に監禁したり、拘束することではない。永久にこの世から消すのである。(松本明重 編 『日共リンチ殺人事件』 日本民主同志会本部 昭和51年 p.117) 外国の共産主義者にとっては当然で、日本の支店でも同じ事が行われただけだ。ただし、こうした不都合な事実はテレビで大々的に宣伝しないから、リンチ事件を知らぬ若者が増えるのである。

  昭和8年11月28日朝、中央委員長の野呂栄太郎が、電車内で警視庁警部と偶然出くわし、検挙される事態が起きた。片足がなく義足でびっこを引いていた野呂は、肺病をこじらせて留置所で死んでしまった。インテリ派の宮本顕治らは、野呂が大泉兼蔵だけと連絡関係があったことから、検挙は大泉のスパイ行為によるものと勘ぐってしまった。そこで対立関係にあった労働者派の大泉兼蔵と小畑達夫を一挙に葬る計画を立てたのである。こうして「査問」と称する拷問が始まった。 

  宮本は拷問しても周囲の住民に気づかれない秘密の隠れ家を探したのである。そこで同志の秋笹政之輔が渋谷区幡ヶ谷本町2丁目207番地の家を借りて、拷問のアジトにしたのである。昭和8年12月23日に宮本顕治、袴田里見、秋笹政之輔、逸見重雄、木島隆明らは大泉と小畑を二階の部屋に連行して、「査問」の名目で拷問を開始し、スパイ容疑を明らかにしようとした。部屋には木島が用意した斧2丁、出刃包丁2本、硫酸1瓶、細引、針金などの尋問・威嚇道具があった。(p.165)宮本によると拳銃、猿轡(さるぐつわ)、目隠まで用意していたらしい。
 
  小畑をアジトに連れてきた宮本は、二階の部屋に入ると小畑の頸(くび)に腕を巻いておとなしくさせてしまった。宮本は柔道の心得があり、得意技チョーク・スリーパーをかけたのである。「みやけん」は絞め技や関節技が得意なのだ。そして用意した細紐で小畑の両足首と両手を後ろで縛り付けた。大泉が後で来るはずなので、小畑の両耳に飯粒を詰め込み、猿轡をして押し入れに監禁してしまった。それからしばらくてし逸見が大泉を連れてきた。またもや部屋に入ると逸見が大泉の頸を腕で絞めて畳に倒した。

  宮本はまづ小畑から「査問」を始め、殴る蹴るの暴行を長時間加えたのである。男四人から容赦なく殴られ、思いっきり蹴られたことが後の検死で判明する。袴田は尋問中、ヤカンの水を硫酸だと偽って、小畑の腹の上にかけた。すると本当に硫酸だと思った小畑は、必死になって水を手で除こうとしたそうだある。その姿があまりにも滑稽だったので、木島が本物の硫酸をもってきて小畑の腹にかけてしまった。小畑は激痛でもがき苦しんだという。また、秋笹が紙を綴る錐(きり)を持っていたので、彼らは大泉のヘソをその錐で刺した。すると大泉は悲鳴を上げて痛がったという。もう一人前のザディストの集団である。

  スパイであることをガンとして認めなかった小畑は、宮本らに暴行され半殺しの目にあった。(p.229) 顔面、側頭部に皮下出血があり、顔はこぶやあざで無惨なくらい腫れ上がっていた。脚にも筋肉間出血や骨膜下の出血、大小さまざまなアザが出来ていた。こうした拷問により、大泉はスパイであることを認めたが、小畑は否認したままであった。翌24日もリンチが続き逸見が大泉を拷問している間、宮本、木島らは仮眠をしていた。小畑は体を捻ったりして何とか手足の縄を解くことができた。袴田が窓から逃げようとする小畑に気づき組み付いた。その物音を聞きつけた宮本と木島は、部屋に駆けつけて小畑を押さえ込んだ。木島が小畑の足首を掴み、袴田が彼の手を握り、逸見が頭を押さえた。「ウォー・ウォー」とうなる小畑に馬乗りになった宮本は、彼の頸を手で締めた。前日のリンチで飢餓、寒冷、疲労で衰弱していた小畑を、宮本が柔道で鍛えた強力で絞めたのだ。小畑はグッタリしてしまった。故意の殺人ではなくとも、扼殺(やくさつ)したことには変わりない。

  拷問されても生き残った大泉は後に、異常な声に気づいた近所の住民の通報により、警察官が駆けつけて救出された。大泉には内縁の妻熊沢光子がいて、宮本らは夫婦揃って自殺しろと強要したらしい。屍体の処分に困ったから、自殺を命じて始末しようとしたのだ。一方、小畑の遺体は家の床下に埋められていた。宮本ら昭和8年12月26に逮捕されたのだが、検死官のいい加減な鑑定で小畑のはっきりした死因は特定できなかったのである。木島や逸見、秋笹、袴田は、昭和9年9月に検挙され裁判にかけられた。宮本は無期懲役で、袴田は懲役13年、秋笹は懲役7年(昭和18年に獄死)、逸見は懲役5年、木島は懲役2年、大泉は懲役5年の判決だった。

  幸運の女神(Fortuna)は気まぐれだ。獄中の宮本顕治に思いがけぬ好機が舞い込んできた。日本の敗戦である。大日本帝国の崩壊が「みやけん」の蘇生につながったのである。網走刑務所に収監されていた宮本は、裁判所に提出した「診断書附き釈放上申書」が受理され、釈放の身になってしまった。もちろん宮本は「肺浸潤」という病名とは無関係の健康体であった。これには裏があった。敗戦で刑務所の看守らは意気消沈していた。米国に占領されて看守と囚人の地位が逆転するのでは、と心配になったのだ。「みやけん」はGHQによって釈放されるであろうし、ソ連を後ろ盾にした共産党員の天下になったら、刑務所職員は取り締りの対象になってしまう。そこで宮本は網走刑務所と取引をしたとみる疑いが濃厚なのである。釈放と交換に網走への報復措置を不問にする闇取引があったのだろう。だからあんなべらぼうな診断書を刑務所の所長が提出したのだ。GHQは政治犯を釈放するつもりだったが、一般の刑事犯は解放するつもりはなかった。しかし、早合点した刑務所側が宮本を釈放してしまったのである。したがって、無期懲役囚・宮本顕治は恩赦減刑による囚人として、病気による執行停止状態のまま、共産党委員長を務めていたのである。故・浜田幸一が国会で「みやけん」を人殺し呼ばわりしたのは正しかった。

  しかし、悪人とは悪運が強いもんだ。人殺しでも堂々と国会議員になれたのだから。そういえば在日朝鮮人から献金をを受けて、菅直人は国会で窮地に追い込まれた。しかし、未曾有の東北大震災が起こり、疑惑追及の手を逃れることができた。津波に飲み込まれて死んでいった国民がいるのに、ふてぶてしい菅は生き延びることができたのである。国民の不幸が菅にとっては天佑となった。我々が悔しいのはこうした悪魔の手先が、国民の一部から依然として支持されていることだ。共産党の血腥い歴史を知らぬ者が沢山いるのである。共産党によるリンチ事件は他にもあった。大串雅美リンチ、大澤武男リンチ、波多然リンチといった査問事件が続出していたのである。選挙期間中、笑顔で握手を求めてくる共産党員の手は、どす黒い血で汚れているのだ。ブラック企業への批判で人気を博していても、共産党自体がブラック集団なのだ。ヤクザより恐ろしい暴力団に気づかぬ国民は、ソ連や東欧諸国を調べてみるべきだ。本当の恐怖政治を語るポーランドやハンガリーの老人たちは、無邪気に共産党へ票を投じる日本の若者をどう思うだろうか。穏やかに「イディオッタ(ばか)」とつぶやくかも知れない。



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