孔子でさえ陛下の足許には及ばない

  儒者が幅を利かしていた日本では、孔子は聖人扱いになっていて、寺子屋あるいは国民学校の子供たちが、見たこともない支那の思想家を尊敬していた。孔子が偉く見えてしまうのは、支那という地球で最低の暗黒大陸に出現したからで、日本に生まれていたら普通の学者で終わっていただろう。譬えは汚いが、孔子とは大便からこぼれたスイカの種みたいなもので、極悪非道が当たり前の支那人から浮いた存在なのだ。豊富な漢字を並べて綺麗事を口にすれば、聖人君子と崇められる支那。実際は、冷酷無情の悪漢が支配するジャングルである。支那人に比べれば熊や虎は高等生物だ。野生の獣(けだもの)だって、必要以上に生き物を殺さないだろう。日本人が想像する虐殺なんて、支那人から見たらただの喧嘩である。

  孔子の弟子である子貢(しこう)は孔子学派の財政担当ブレーンであった。その子貢が孔子に政治の方法を尋ねたとき、孔子は「食を足らし、兵を足らし、民をしてこれ(政府)を信ぜしむ」(顔淵)と答えたことは有名な箇所。そこで子貢がこのうちどれか削らねばならぬ時は、何をやめるべきかを質問した。孔子はまづ「兵を去れ」と言い、次に「食を去れ」と答えたのである。そして民に政府への信頼がなければ、政(まつりごと)は成立しない、と答えたという。

  「本当か?」と疑いたくなる教えである。現実の支那では、古代や現代といわず、まづ武力(兵隊)がなければ天下は取れないし維持すらできない。孔子が仕えた魯の君主や他国の支配者だって、みんな覇者である。マフィアのドンや匪賊の頭目と同じだ。しかも、食料が不足して飢饉が発生する前に、暴動が起こって支配者は放逐されるか弑逆されてしまうだろう。(まあ、飢える前に他人を殺して人肉にしてしまうから心配ないか。) 民衆の信頼なんか覇者は気にしない。支那では面従腹背が当然だから、恐怖で支配しながら邪魔者は抹殺して、あとは欲と利で他人を操ればいいのだ。支那では孔子よりも韓非子の方が人気が高い。空理空論の論語なんて支那人は見向きもしないのだ。我が国の「チャンコロ屋」が自分の職業確保のために孔子を称賛しているのが現実である。

  よく言えば理想、率直に言えば妄想を語った孔子が、日本の天皇陛下を見たら、腰を抜かして驚くだろう。まさか、書物の中で描いた空想の君子が受肉(incarnation)するなど予想していなかっただろうし、よりにもよって東夷の国(日本)に存在するなど信じられぬ。支那人にとったら日本の天子は宇宙人か伝説の巨人みたいなものであろう。一方、我々だって本物の孔子に会ったら、世間の評判と違う裏表ありそうな人物と感じるのではないか。遠慮のない女子高生だったら「このおじさん、何か胡散臭い」と言うだろう。支那だから傑出した哲人であって、日本では単なる支那人詐欺師である。孔子なんかを明治大帝や昭和聖帝に比べるのは、皇室に対して無礼だから、忠実なる民である筆者はしない。そこで我が国元首の素晴らしさを示すため、昭和天皇の御威徳を述べることにしたい。

御巡幸に感動する国民

  人類史上初の核攻撃を受けて敗北した時代に、昭和天皇が君臨していたのは、まさしく天の摂理というか神様の配慮みたいな奇蹟である。陛下は国民を最優先にお考えになり、マッカーサー元帥のもとを訪れて、自らのお命と引き替えに国民を救うことを提案なさった。民衆のために自らの命を差し出す君主など支那には絶対にいない。我が国とは対照的に、民衆全員が死んでも自分だけは助かりたいと願う皇帝は数えきれぬほどいるだろう。十億人の命だって鴻毛(こうもう)の如しだ。孔子だって一国の君主に、庶民のためなら命を犠牲にしろ、とは説けなかった。そんなこと言ったら自分の命が危ない。支那には毛沢東みたいな悪魔がゴロゴロいるのだ。支那人が皇帝に会って感涙なと想像できない。ただし、命乞いの涙は別。

  昭和21年2月19日に昭和天皇の御巡幸は開始された。日本史上未曾有の敗戦にあって、国民は飢えで塗炭の苦しみを味わっていたから、極左勢力が「天皇制」打倒を叫んでいた。敗戦で堂々と「天皇制廃止」を掲げることが出来たのである。皇室関係者は何が起こるか予測もつかない。陛下の御身が心配でたまらない。それにも係わらず、昭和天皇は神奈川県をご訪問されたのである。そこは京浜工業地帯の中心地であったが、鉄骨の残骸とコンクリートの瓦礫が目につく焼け野原であった。陛下のお車は第一の視察地である昭和電工の川崎工場に到着したのである。

  陛下が工場へお着きになると、待ちかまえていたMP(米軍憲兵)やGI(米兵)が陛下を見ようとして押し寄せてきた。森暁社長が陛下を出迎えたとき、連合国の新聞記者やカメラマン、写真機を手にした米兵が群がって、陛下に対して、「こっちを向け」「あっち向け」と大声で叫んだ。天皇陛下にひとかけらの敬意をもたぬ彼らは、しばしば陛下のお体に触れたり、押したり、あるいは引っ張ったりの無礼をはたらいたのである。森社長は緊張して顔がこわばったという。天皇陛下がまるで玩具のように弄(もてあそ)ばれ、もみくちゃにされたのだ。しかし、陛下はまったく意に介さぬご様子で、森社長の説明を聞いていらした。森社長は平然とされていた陛下に接し、「えらい我慢をなさった。ほんとうに申し訳ない」と語った。(鈴木正男 『昭和天皇の御巡幸』 展転社 平成4年 p.50)


  警護の金子堅次は天皇陛下の袖をアメリカ人記者が引っ張ったところを目撃した。陛下は少しよろめかれたが、お怒りになることはなかったので、金子は陛下のご性格が弱いのか、とその瞬間疑ってしまったらしい。だが、一瞬たりとはいえ、陛下を疑った自分を恥じ、涙が溢れてしまったのだ。いくら手の甲で拭っても、涙で頬が濡れてしまったという。敗戦国になると天子様といえども、外国人から藝人扱いにされてしまうのだ。当時の日本人がいかに悔しい思いをしたかは、その場面を見たことのない者には実感が沸かないだろう。

  その工場を後にされると、陛下は戦災者用の宿舎をご視察になった。宿舎の近くで陛下が御下車になると、大勢の人が出迎えていて、中には手を合わせて拝んでいる者もいれば、土下座している者もいたという。こうした人々に陛下はいちいち丁寧に帽子を取って会釈なされたのだ。宿舎の廊下は一間足らずの狭さで、各部屋は縁(ヘリ)の無いすり切れた畳が敷かれ、鍋や釜も無造作に置いてあった。こんなむさ苦しい所でも陛下はどんどんご訪問されるのだから、側近の者はさぞハラハラしたことだろう。

  部屋の入り口に立たれた陛下は人々に、「どこで戦災にあったのか」「この家は寒くないか」と優しくお尋ねになったという。義足の箱があった部屋では、ある女性に「ご主人はどうしているの」と御下問された。すると咳(せ)き上げる涙で「比島・・・」という言葉しか聞こえなかったので、陛下は戦死したものと推測され「夫が亡くなって困っていることはないか」とのお言葉をかけた。しかし「いいえ、負傷だけで今日も工場へ参ってをります」と夫人が答えると、陛下は「ずいぶん働いてくれたんだね」とのお言葉をかけられた。すると彼女は涙に咽(むせ)んだという。この共同宿舎で陛下のお言葉を聞いた側近の者は、平素の響きと違ったので、もしかしたら陛下はお泣きになっているのではないか、と怪しみそっと陛下のご尊顔を拝したほどであった。(p.52)

チフス流行地を視察

  第一日の巡行が終わって、翌日は久里浜の復員寮視察の予定であった。しかし、そこではチフスが発生してしまったのだ。二日目に陛下は浦賀引揚援護局に向かわれ、局の豊原道也次長が陛下に引揚の実際をご説明申し上げた。援護局には軍隊のボロ服をまとい、毛布を羽織った引揚者がいて、彼らは髪も髭もボウホヴと伸び放題。うつろな眼差しで徘徊する者や、破れた鍋を吊して何かを煮ている者もいた。事務所の隣にある棟では、大人と子供の遺体数十が畳の上に並べられていて、火葬場はフル操業状態である。陛下がご視察される頃には遺体が放置されていることはなくなったが、依然として引揚者の状態は悲惨なままだった。彼らのほとんどは栄養失調の症状を呈しており、五割以上の者がマラリアに苦しんでいたのである。

  天皇陛下は援護局の検疫所をご視察され、復員兵の一人一人に「どこから帰ってきたか」「食物はどうであったか」「戦争中はご苦労であった」とお言葉をかけられた。陛下のねぎらいに、内地に帰還した兵卒らは、栄光と感激に苦労も忘れてただ感涙に咽ぶのみであった。陛下は帰還兵がDDTをかけられる消毒の場面を御覧になったり、浴場、炊事場まで足を運ばれることもあったらしく、マラリア患者がほとんどの久里浜病院をも見舞われたそうである。鴨居(かもい)援護所を訪れた陛下は、孤児室の前に端座している幼い兄弟にお目が止まった。ダバオより引き揚げてきた12歳の兄と8歳の妹に、「どこから来たの」「寒くはないか」と優しくお言葉をかけられたという。彼らの父親はダバオで死亡し、母親は入院中ということであった。後にその兄は「僕は、お母様よりかけて頂けないお言葉を天皇陛下より頂いた時に、僕は一人で涙が出ました」との素直な感想をのべたという。(p.57)

共産党員も万歳を絶叫

  昭和21年6月に天皇陛下は静岡県を御巡幸になられた。天皇・皇后両陛下は沼津御用邸に皇太后陛下をお見舞いなされ、沼津駅で三陛下がお揃いになるという稀な場面があった。お召し列車が沼津駅に止まると、天皇陛下はホームに降り立たれ、皇太后陛下のもとに走り寄られたそうだ。三陛下はお召し列車の中でお話をされ、その仲睦まじいお姿を駅に集まった大勢の一般国民が目にした。名状しがたい感動によりやがて群衆の中から、「天皇陛下萬歳」の叫びが起こり、つづいて「君が代」の大合唱となったのである。天皇陛下はさっと立ち上がって、この群衆にこたえられたという。皇太后陛下も静かにお立ちになって群衆の方へ向かわれた。お召し列車の傍らに立っていた駅長や駅員たちも目をうるませ、涙で頬を濡らしていた。群衆一人一人も泣いていたという。

  沼津の次は清水市の日本軽金属工場を陛下は視察なされた。そこの工員たちを激励されたり、伝馬町国民学校では戦災に遭った子供たちをご訪問された。その後は、郊外の引揚者寮を廻られたのだが、居住者の中には共産党員がいて、天皇御巡幸反対を掲げていたのだ。陛下はそんなことに関係なく、一室ごとに御慰問と御激励のお言葉をかけて廻られた。ご訪問が終わり陛下がお帰りの時には、あの「天皇制反対」を謳っていた共産党員が、お召し列車の窓すれすれに顔を寄せ、萬歳を叫ぶ一人になっていた。普段は威勢良く天皇反対を説いていた共産主義者も、陛下に直接会ったら、その魅力に引き込まれて気がついたときには、「陛下萬歳」と常識的日本人に戻っていたのであろう。

  敗戦国の元首なのに、一般国民は天皇陛下を恨まない。陛下が静岡県の中学校を訪れたときも、市民は御召自動車から陛下が降りられるのを目にするや、あらん限りの声をふりしぼって萬歳を絶叫。人並みは崩れて、少しでも陛下に近づこうとする市民は、たちまち陛下を人波の中に埋めてしまった。鳴りやまぬ萬歳の嵐。人々は感激して涙をこぼしたという。日本人は本当に天皇陛下を敬愛していたことが分かる。天長節(陛下のお誕生日)に、龍顔(陛下のお顔)を拝すると、日本人の胸は高鳴り、つい「天皇陛下萬歳」と言いたくなってしまうのだ。我々は敗戦で皇室が消滅しなかったことに感謝せねばならない。陛下のご尊顔を拝する幸せを我々が今もてるのは、命懸けで皇室を守った先人がいたからである。天皇誕生日に一般国民は何を思うのだろうか。




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