子供らしい日本の子供

  子供文化は日本の特徴である。欧米の子供が来日したら、欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して、マンガ図書館や仮面ライダー・ショー、フィギア・ショップなどを訪れ、夢のような時間を過ごすだろう。アジア人の子供は日本に旅行できただけで喜んでしまうから、日本文化の魅力云々どころの話ではない。欧米だと子供は早く大人になるよう教育されるが、日本では子供は子供らしく素直に育てばよいとの考えだ。フランスの子供など、容姿は可愛いが、妙にませている。少女のくせに“エレガンス”を求めたり、少年だと一人前の男みたいに“主導権(イニシアティヴ)”を取りたがるのだ。日本人は大学生やビジネスマンになっても、電車内で恥ずかしくもなくマンガ雑誌を読んでいるから、欧米人は呆れてしまう。「大人文化」が主流の彼らからすれば、女子大生までもが、少女のような仕草をして平気なのには驚いてる。

  現在ではどこの先進国にも似たような子供がいる。日本で戦隊ヒーローに夢中になる子供と、パワー・レンジャーやドラゴン・ボールが大好きなアメリカ人の子供は大して変わりがない。しかし幕末や明治の頃に来日した西洋人が、日本の子供について述べている滞在記を読むと、今の我々も意外な一面を知ることが出来る。幕末に、フランス海軍士官として来日したエドワルド・スエンソン(Edouard Suenson)は、横浜で体験した事柄を描写している。デンマーク出身の海軍士官スエソンは、日本に対しての好印象や嫌なところを率直に記述していて、現代の我々からしても気持ちがいい。彼は好奇心を持って寄港地横浜を見学したのである。高下駄を履いて、頬を赤く染めながら笑う娘や、面白い遊びに興じて歓喜をあげたり、はね回っている子供をスエソンは目にした。彼にとっては、まだ小さい日本の子供は女の区別がつきにくかったが、

  みんな黒目が笑っており、頬も赤く、白い歯が光っている。どの子供も健康そのもの、生命力、生きる喜びに輝いており、魅せられるほどに愛らしく、仔犬と同様、日本人の成長をこの段階で止められないのが惜しまれる。(『江戸幕末滞在記』 長島要一 訳 講談社学術文庫 2003年 p.64)

  明治になるともっと多くの西洋人が日本にやって来た。薩摩の島津家に家庭教師として雇われたエセル・ハワードという英国婦人の体験も、我々にとっておもしろい。島津忠義が明治30年に若くして亡くなったので、四男忠重が公爵となり島津の家督を継いだ。島津家には忠重(14歳)の他に富次郎(9歳)、諄之介(8歳)、韶之進(7歳)、陽之助(6歳)の兄弟がいた。住み込みのハワード氏は、この子供たちにマナーや英語を教える過程で、日英の様々な文化的相違を体験したという。たとえば、西洋人なら挨拶程度のキスも、日本の慣習にそぐわないので、彼女は極力避けていた。ある時、ガッティ夫人の『自然界のたとえ話』を朗読してやったところ、驚いたことに末っ子の陽之助(ようのすけ)が、彼女の手を掴んでキスをしたのである。それは以前、ハワード氏の所に友人が訪ねてきた際、島津家の子供が初めて見る光景であった。彼女がその友人にキスをしたら、子供たちは皆どっと笑ったという。後に子供らはハワード氏に「どうしてあの人は先生を舐めたの?」と聞いたそうだ。しかし、陽之助らには、愛情の表現だと解っていたらしい。ハワード氏が母親のような愛情をもって接していたので、子供たちも敏感に感じていたのだろう。(エセル・ハワード 『明治日本見聞録』 島津久大 訳 講談社学術文庫 1999年 p.74)

  この陽之助は人を惹きつけるような愛くるしさで、茶目気もあり、ハワード氏もこの末っ子を可愛がっていた。彼女は陽之助に「タイニー」という仇名をつけ、無口な彼を色々と面倒を見ていたという。ある日のこと、陽之助はドアをバタンと閉めた後、突然「ご免なちゃい」と言って彼女を驚かせた。陽之助は後に色々な「ご免なちゃい」の言い方を発明した。少しばかり悪いことをした時には、穏やかに彼女を見上げて「ちょっとご免なちゃい」と言い、もっと悪いことをした時には、「たくさんご免なちゃい」と言ったそうだ。子供ながらに謝り方を工夫したのだろう。数え年で六歳の陽之助は、現在でいえば五歳くらいの幼稚園児だ。言葉が通じない西洋婦人に対して、何とか気持ちを伝えようと考えた子供の努力は、いかにも微笑ましい。

可愛いらしさがない支那人の子供

  明治以降、日本人は漢籍の勉強が影響していせいもあって、現実を顧みず、支那人に対して幻想を抱いてしまうのだ。支那人は日本人と根本的に違っている。これが鉄則。不動の定理だ。支那人は子供の頃から既に支那人気質を見せる。戦前、支那大陸をちょくちょく訪れていた中央大学の法本義弘教授は、とても興味深い体験をしたという。(法本義弘 『支那覚え書』 蛍雪書院 昭和17年)

  ある事情で、法本氏は唐という支那人宅に住み込むこととなった。被服廠(ひふくしょう/服の工場)の役人であった唐は、羽振りのよい中流階級の支那人であった。彼の邸宅も中々のもので、庭が六つもあるばかりか、普通の支那人家庭と違って屋内に便所だってある。

  法本氏は自分の部屋から便所へ行くには、必ず通らなければならないのが、唐家の子供部屋であった。唐家には子供が5人いて、その子供らが通る度に、いつも待ちかまえたようにして、揃って大声でわめくのである。法本氏に向かって何か言っているのだが、彼は支那語が分からぬので、問い返すことも出来ず、黙って知らぬ顔をしていたそうだ。

  けれども次第に言葉が分かってくるにつれ、子供たちは「打倒日本帝国主義」だの「小日本喝涼水(小さい日本の冷や水飲み)」と言っているのが解った。癪(シャク)に触った法本氏は、ひとつとっ捕まえて懲らしめてやろうと思ったらしい。ところが、ある晴れた日曜日に、子供ら五人がそれぞれ自分で作った紙の旗を持って、わいわい言いながら庭から庭へ行進をしていた。法本氏がふと覗いてみると、その旗にはそれそれ「打倒日本」と書いてあった。彼が庭へ出てみると、柱や壁の至る所に「打倒日本」と書いた色紙が貼り付けてあった。つまり、子供たちは「打倒日本ごっこ」をしていたのである。

  5人兄弟で下の女の子と男の子はまだ学校へ行く年頃ではなかった。上の三人が学校へ行っている間は、おとなしく庭の隅にうづくまって、ぼんやりと空を眺めている。法本氏が観察していると、二人は半日くらいはそうしてをり、子供のくせに悠然と景色を眺めていたのだ。こんなことは日本人の子供には見られない。

  5人兄弟のなかで法本氏が仲良くなったのは、下の子二人であった。女の子の名前は「勉治」といって、日本でなら男のような名前で、男の子の方は「小牛」といった。法本氏は、「小牛?随分変な名前だな、お前の名は」と聞くと、勉治が代わりに答えた。「本当は、他に名前があったのだけど、あたし達みんなで付けててやったのよ、だから小牛なの、この子は」と。そこで彼女は法本氏に「この字を何て読むか知ってる?」と尋ねた。その少女は地面に「打倒日本」と書いた。(「日本」は90度右に傾けて書いた。)

法本氏は「打倒日本ぢゃないか。でもこの下の二字はどうして横に書くんだ」と聞いた。
「あら、だって、打倒しちゃったんですもの」と、その女の子は答えた。
「誰に一体こんな事を教わるんだい」と質問する法本氏。
「お兄ちゃんや、お姉ちゃんだわ。だってお兄ちゃんも、お姉ちゃんも、学校で教わんのよ。あたしも、来年学校へ行くようになったら、教わんのよ。もっと他のことだって・・・」
「他のことって何だい」と聞く法本氏。
「どっさりあるわ。中国領土は日本の何倍ありますか、だの、中国の敵は何国ですか、だの、いろいろなことだよ」と答える勉治。
すると小牛が「先生、中国はお前の国の何倍あるか知っているかい」と法本氏に聞いてきた。

  法本氏は小癪(コシャク)な子供だな、と思ったそうだ。支那人の子供とは小さな老人だ。日本人の大人だって、こんな支那小僧の前では小童(こわっぱ)である。ある日のこと。日本公使館のY氏が、友人の法本氏を訪ねたらしい。すると唐家の6歳になる男の子が、「お名前は?」と聞いてきたので、流石のY氏も驚いた。もちろん法本氏もビッくり。そして「郷里は?」「職業は?」と続けざまに聞いてきたのである。Y氏と法本氏は共に開いた口が塞がらない。しばし呆然としていたらしい。

  北京に法本氏の古い友人A氏がいて、この話を伝えたところ、A氏はある出来事を語ったという。A氏があるイスラム教徒で支那人の子供を連れて、非イスラム教徒の支那人の家を訪れた。その家でお茶が出てきて、当然その子供にもお茶が渡された。しかし、異教徒の家で煮炊きされたものは、たとえ子供でも口にしてはならない、というイスラム教の誡律があった。お茶を勧めてから、その家の主人がこの誡律に気づいた。主人は「これは差し上げてはいけなかったのですね」と言うと、その子供は「これは私どもの宗教の短所でございます」と言って椅子を離れて、立ち上がり頭を垂れたそうである。その子は9歳か10歳くらいだったという。  

  唐家の子供たちに毎日接しているうちに、法本氏は支那人の子供は小さな大人だ、と考えるようになった。支那人の子供には、子供らしい所がない。唐家の子供らは毎日伯父さんから小遣いとして銅貨五六枚もらうらしい。そのお金で子供たちは飴玉や串刺しの棗(なつめ)を買うのだ。子供相手の果物屋とか菓子屋が、いつも決まった時間に門の所に来て、大声で呼び出す。すると子供らは奥から門の所に出て行って、各人好きなものを買うのである。
  「この飴いくら?」と聞く子供。
  「二つで一銭」と答える菓子屋。
  「二つで一銭なんて高すぎるよ。三つで一銭にしろよ。」
  「そりゃ駄目です。元値が切れます。」
  「じゃあ、お前の所では買わないから、あっちへ行きなよ。」
  「それなら、どうです坊ちゃん。五つ二銭なら。」
わいわい騒ぎながら、こんな交渉をしているのだ。結局、二つ一銭の飴玉を五つ二銭で買ったそうだが、その駆け引きは、大人の支那人と同じであったという。まだ学校へ上がらない幼児がこんな値切りをできるのだ。支那人とは恐ろしい。

  唐家には法本氏と一緒に寄宿していた京都大学のY君がいた。このY君が留学が終わって帰国することになった。彼が可愛がっていた仔猫を唐家の子供たちは欲しがったのである。子供たちは皆で相談し、ある晩ご飯の時に主人の伯父さんに、その件を申し出たのである。子供らは「お昼はみんなで食べさせるから、晩は伯父さんが食べさせてください」と頼み、とうとう伯父さんを説得してしまった。伯父さんが承知すると子供たちは大喜びしたという。約束通り昼は自分たちの食べ物を少しづつ集めて餌にし、これを猫に食べさせ、晩は料理部屋から色々な残り物を持ってきて食べさせたそうだ。法本氏はその丸々と太った猫を見ながら考えた。日本人の子供なら、仔猫を欲しがるときに大人の思惑や餌のことなど考えず、ただ飼いたいとせがむだろう。法本氏はつくづく支那の子供に「大人の支那人」を見た気がしたという。

  支那に詳しい評論家の黄文雄によると、日本人は子供が生まれると、「元気で素直(正直)な子に育って欲しい」と望むが、支那人は「他人に騙されない人間に育つよう」望むらしい。生存競争が激しく、異民族が入り乱れている支那社会は、残忍な独裁者が支配することで、一応の秩序が保たれている。むかし、英国の哲学者トーマス・ホッブス(Thomas Hobbes)が「人間は人間にとって狼である(Homo homini lupus est)」を引用して警告したが、支那人にとっては狼くらいなら心配しない。毛沢東は虎や狼よりも怖かった。支那では女子供だって容赦しない匪賊が横行するので、女子供が用心深くなるし狡賢くなるのだ。殺人鬼でなければ詐欺師というのが支那人の特徴なので、一般支那人は常に他人を警戒し、騙されぬよう用心する習慣がある。もっとも、その女子供でさえ、他人を騙して利益を得ようとするのだから、支那人とは海千山千の策士であろう。「日中友好」を掲げて支那人がどれほど日本の富を収奪したか、支那人好きの日本人は思い出すべきである。支那人は赤子の手をひねるように日本人からお金を巻き上げたのだ。せめて政治家と官僚は大人になってもらいたい。




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