文明国の日本人より野蛮な支那人を選ぶ

  昭和の歌謡界に『別れても好きな人』というヒット曲があったが、パール・バックを調べると『ぶたれても好きな人』を作詞したくなる。もちろん替え歌。支那人から散々な仕打ちを受けたのに、パールはその野蛮人を嫌いになれなかった。まるでジゴロに惚れ込んだ水商売の酌婦(しゃくふ)みたいだ。殴打されてもロクでなし男に貢ぐ女の気持ちは分からない。「女は魔物だ」と田村正和が言えば許されるが、筆者が言うと包丁が飛んできそうなので止めとく。しかしまぁ、有名小説家のパール・バックも、そんなマゾ的女性だったのか。その人生を覗いて見れば、多少は理解できるかも知れない。(ピーター・コン 『パール・バック伝』 上巻 丸山浩 訳 舞字社 2001年 参照)

Pearl Buch 1(左 / パール・バック)

  小説『大地(The Good Earth )』で有名なパール・S・バック(Pearl Sydenstricker Back)は、宣教師の家庭に生まれ、あまり幸せな子供時代をもてなかった。父親のアブサロム・サイデンストリッカーは、宣教師がもつ最高の姿(篤信)と最悪の姿(排他性)を兼ね備えていたらしい。ウェスト・ヴァージニア州の農家に生まれたのだが、農場での仕事と父親の厳しい躾に嫌気がさしていた。アブサロムは学生時代相当な読書家であったようだ。聖書販売で生計を立てようとしたが失敗し、信仰深かったこともあって宣教師の職を選んだという。妻となるケアリーは、プロテスタント弾圧を逃れてきたオランダ移民の子孫であった。愛情深い家庭に育ったが、南北戦争のため、彼女の家族は貧しくなりかなり困窮したらしい。ケアリーはアブロサムほど信仰が絶対だと思っていなかったが、それでも敬虔な信仰心をもつ少女であった。他の篤信家と同じく、彼女も自己犠牲が多いほど、信仰の完成に近づくと信じていたのである。そんなケアリーは結婚して本当に苦労したのだ。

  幸せなアメリカ人カップルなら日本に来れば良かったのに、よりにもよって支那を派遣先に選んでしまったのだ。アメリカ人は巨大な物が大好きで、広大な大地に支那人がうじゃうじゃ群れていると、何かいいことあるんじゃないかと思ってしまう。アイスクリームやポップコーンを買うときでも、Lサイズを選ぶから服もLサイズだ。中華思想に凝り固まっている支那人相手に、西洋夷狄が「隣人愛」とか「天に宝を」なんて説教したって馬の耳に念仏だ。宣教師が支那を乗っ取ろうとしているとか、奴隷を見つけに来たとか、豚を崇拝しているとか勝手な噂を流していた。中には支那人の子供を食べているとか、精力剤にするために子供の目玉を抉りだしているとかの流言飛語もあったという。(p.56) それって、お前ら支那人がやっていたことだろう、と突っ込みたくなる。実利しか信じない支那人に、聖母マリアの処女懐胎説とか、救世主イエズスは弟子のユダに裏切られ十字架上で殺されました、なんて話を信じろと勧める方がどうかしている。セックスしないで子供ができるのか? 淫乱が大好きな支那人は大笑い。周りは詐欺師だらけで、いつ殺されるか分からない支那社会で、裏切り者を見抜けない教祖様なんかアホらしくて拝めない。ゼニのためなら、火の中水の中の支那人だぞ。福音には耳を貸さない支那人だが、1km離れた所で100円玉が落ちれば直ぐ気づく。忠犬ハチ公より聴力がいい。バイオニック・ジェミーもビッくり。支那人がキリスト教徒になる方がミラクル(奇蹟)だ。(註/TVドラマの「バイオニック・ジェミー」は半分サイボーグで左耳が機械。)

pearl buch family(左 / パール・バックの家族)

  アブサロムは支那人について無知な典型的アメリカ人である。脳天気なことに、彼は神の代理人を自負していたそうだ。(p.59) しかし、多くの支那人にとって彼は帝国主義の代理人であり、そうでない場合は、西洋の利益を得るための道具である。西洋の宣教師にとって苦しかったのは、支那人の敵意よりも、信仰に対する無関心だった。アブサロムは人生の数十年を費やしたのに、改宗した支那人はごく僅かであった。しかも、キリスト教徒になった支那人だって、本当に信仰をもっていたか怪しいものである。洗礼(シャワー気分か?)を受けたら医療や食事にありつけたのだ。そりゃアーメン、ブラボー、メルシー・ボクと言うだろう。英語を流暢に操り米国社交界で暗躍した宋美齢でさえ、厚かましくもキリスト教徒を名乗っていた。滑稽としか言いようがないが、夫である蔣介石もキリスト教徒になっているのだ。これをみれば、支那人は利用できるものは最大限利用する人種であることが分かるだろう。

  西洋文明の宣教師が見た支那は、不快な因習・悪習の塊だった。男尊女卑はもちろんのこと、一夫多妻(妾に掠奪婚)、幼児の間引き殺人、纏足、女に教育を施さない、といった点が目についた。第一、支那人とは文化的にあまりにも違いすぎ。聖書ではイエズスを「神の仔羊」と呼んだりするが、支那では羊というのは、臆病で愚鈍な動物と考えられていた。料理して食べた方がお得。その一方、龍は帝王の象徴で、神聖な生き物と崇められていた。しかし、西洋人から見れば、ドラゴンは想像上の恐ろしい怪獣だ。旧約聖書続編(外典/Apocripha)のダニエル書補遺を読めば分かる。(1章23-27節参照) それにイングランドの英雄叙事詩『ベオウルフ』やドイツの『ニーベルンゲンの歌』でも龍退治の話が出てくるのだ。ドラゴン好きは変わり者である。(ロック界の大御所だった故・ロニー・ジェイムズ・ディオは大好きであったが。) ついでに言うと、支那人は日本人が皇帝の象徴「龍」を描く際、5本爪にすると不快になる。朝鮮人は宗主国に遠慮して、爪4本にしている。朝鮮人は格下の弟分である日本人は爪3まで、と勝手に決めつけている。(鳥山明が描く「ドラゴンボール」のシェンロン<神龍>はどうして爪が4本しかないんだ? ついでに言うと、現実の「龍柱」に喜んでいる沖縄人は目を覚ませ。)

不幸な少女時代

Pearl Buch(左 / 少女時代のパール・バック)

  父親のアブサロムは布教活動に熱心だったので家庭を顧みなかった。一昔前の猛烈サラリーマンのようだ。だから、ホームシックに罹っていた妻ケアリーにとっては、決していい夫ではなかった。しばしば置き去りにされたパールにとっても、愛情を示す父親ではなかったという。母親ケアリーにとっては支那での生活はとても辛かったそうである。なんといっても、長女のモーディーが夭折し、末息子のアーサーも1歳6ヶ月で亡くなってしまった。アーサーの死から二、三日して、3歳の次女エディスもコレラで死んでしまう。パールが6歳の時、弟クライドも天国に召されてしまった。サイデンストリッカー家には、長男エドガーとパール、妹のグレイスしか残っていない。長女を亡くしたとき、ケアリーもマラリアや赤痢、結核に苦しんでいた。彼女は娘の死は支那のせいであり、間接的には夫の信仰のせいだと思っていたらしい。パールの記憶にあるのは、オルガンを弾いている母が、突然泣き崩れる姿だった。米国という文明国から、支那という最低の生き地獄に連れてこられ、周りは陰険で言葉の通じない東洋人ばかり。バイ菌・疫病・糞尿の貯蔵庫たる支那で生活しようとしたことが、そもそもの間違いだ。支那への布教は天職かも知れないが、支那を選んだのは天罰じゃないのか。日本を選んでいたら、子供は全員健康に育って、布教は成功しなくても、高潔な日本人に出逢えるし、西欧にない繊細さに触れて、感激したであろう。

  異質な世界で育つ子供は精神が分裂してしまうことがある。パール・バックの場合、アメリカの白人家庭に生まれたのに、育ったのは陰謀渦巻く支那という魔界であった。金髪の白人少女パールが目にしたのは、清潔で厳格な白人の同胞と、不潔で不気味な黄色い支那人である。多数派の貧乏な支那人の中で、少数派の白人女性として暮らしたことが、後にパールが人種差別撤廃運動や多民族文化主義に熱中する動機となった。白人なのに米国の黒人に同情を示す奇妙な態度をとったのは、異教徒の支那社会で差別と孤立感を味わったからである。寂しさを感じた子供が暖かい愛を求めるのは人情だ。しかし、暖かいはずの家庭は、絶えず緊張感を強いる場所でしかなかった。重苦しい信仰と厳格な態度の父親は、娘の要求に対してとても冷たく無関心。母親は支那に幽閉されたと嘆き、祖国アメリカを懐かしむ日々。友だちをつくって陽気に遊び回る幼少時代ですらもてなかった。こんなパールが、勉強に打ち込んだり、友人を作る才能が乏しくても不思議ではない。彼女が女性の地位向上に熱心だったのも、父親が一家の権威者で絶対的立場を貫いたのだからである。女房と娘をほったらかしで、福音活動に励む父親をパールは好きではなかった。否、むしろ憎んでいたし、軽蔑さえしていた。だから、不幸だったパールは、どうしても社会的地位が低い支那人女に同情してしまうのだ。

  支那に住むと幸せなことより、悲惨なことが多い。不幸の10乗にオナラがおまけに附くようなもの。1900年には義和団事件が勃発する。残酷な暴動で被害を受けたlり、殺されたりした外国人が沢山いたのだ。アブサロムも説教に出掛けては、石を投げられたり、唾を吐きかけられたりと、ずいぶんと嫌がらせを受けた。ある時など、柱に縛りつけられた支那人女性が、キリスト教に改宗したことで、暴徒から死ぬまで拷問され続けたという。残酷なリンチは支那人のお家藝。アブサロムはこれを目の当たりにしたという。(p.79) サイデンストリッカー家は暴動を避けるべく上海に向かい、そこからアメリカへ戻ったのである。

野暮ったいガリ勉の孤独感

Pearl Bach in College (左 / 学生時代のパール・バック)

  成長したパールは米国のランドルフ・メイコン大学に入った。しかし、支那育ちのパールは同級生の女子学生に馴染めない。しかも、彼女の服や髪型は時代遅れで、同級生から哀れみを受ける始末。後に親友となるエマ・エドマンズは地方の田舎町出身で、自分を恥ずかしいほど野暮ったいと思っていたが、その彼女でさえパールのファッションに驚いていたのである。彼女の記述によれば、「そのうち、私よりさらに田舎者っぽく見える、ひとりの女学生に出会いました。彼女の着ている服は、なんと中国の麻で作られたもの。そんなものを着ている者は他にいませんでした。・・・・パールはひどく変わっているように見えなんだか気の毒に感じました。」(p.115) 同級生から浮いていたパールは、孤立感をひしひしと感じていた。彼女の得意分野たる「支那」について知っている女学生など一人もいない。プロテスタント中流階級で南部出身がほとんど。白人社会しか知らぬ女学生の目には、パールは「支那語を話す変わり者」としか映らなかった。大学の成績は優秀で勉強熱心な学生だったが、彼女は生涯「引きこもり」の性格を引きずっていたのである。

  そんなパールもロッシング・バックという青年と巡り逢い、一見すると幸せそうな結婚ができた。農業経済学を専攻するロッシングは、支那人に農業を教える職に就いたのだから、パールにとって夫婦揃っての支那生活で良かったと思いきや、そうでもなかったらしい。この亭主も基本的に父親アブサロムと同類であった。女性を対等と思っていない。パールを無報酬の通訳兼研究の助手、そして時が来れば子供を生んで母親の地位に満足するだろう、程度にしか考えていなかったのである。パールは夫が妻を対等のパートナーと見なし、彼女の執筆活動に理解を示して、応援するような亭主を期待していたのだ。もっと重要な点は、彼女が激しい愛を求めていたことだ。冷淡な父に我慢して従う母を見てきたパールは、母とは違う妻と情熱的な夫、すなわち激しく愛し合い、性的にも刺戟的な生活をおくるカップルを夢見ていたのだ。パールは世間によくいる欲求不満の人妻といったところ。(激しい不倫愛を描いたフランス映画『隣の女』みたいでも、ちょっと困るが、寂しい人妻にはウケたのだろう。ちなみに筆者は中学生の時に観たのだが、変な少年だったのかも。) パールは結婚当初から、内心では失敗であったことに気づいていた。(p.132) ロッシングを愛していたと言うより、結婚そのものに憧れていたのだろう。
  
  米国でも女性の地位向上を求めていたパールだが、彼女が選んだ支那は祖国と比較にならぬほど遅れていた。不快よりも怒りを覚える纏足はもちろんのこと、家内奴隷みたいな支那人妻は、夫や親戚から酷い仕打ちを受けて自殺までしていたのだ。パールは口汚く罵られた支那人女性が、首を吊って自殺を計った出来事について書いている。家族に介抱されたその女性は、耳や鼻を塞がれ、口には猿轡(さるぐつわ)をかまされ、息が出来ないようにされていた。パールは窒息により死んでしまうから、それを外すよう嘆願したという。しかし、拒否された。頑固な支那人が言うには、、縊死(いし)しようとした女性は、体からほとんどの息が放出されてしまったので、体内に残っている息を閉じ込めようとしている、とのこと。パールは「これらの人々の無知や迷信には全く際限がありません」と呆れていた。(p.142) こんな支那人を知っているなら、布教活動を諦めたらどうだ? パールはワニに餌をあげれば、柴犬みたいになつくと思っている馬鹿と同じだ。

戦慄の動乱を体験する

  1926年から1927年にかけて、蔣介石率いる国民党の北伐が始まり、その部隊は広東から杭州、武漢へと進み、南京を巡る攻防となった。1927年3月23日から24日にかけての戦乱では、数百人の支那人と少なくとも6人の外国人が死亡したという。金陵大学や宣教師の家も攻撃の対象となった。とくに憎い外国人の教会は格好の標的となり、次々と破壊されたのである。乱暴狼藉をはたらく支那人によって、西洋人の財産は奪われ、生命までも脅かされたのだから、まさに泣き面に蜂であった。パールの妹グレース、その夫ジェシー・ヨーキー、息子のレイモンドは、湖南の田園地帯にある伝導出張所を脱出し、パールのもとへやって来たのである。

  民衆に憎まれていた悪党どもが南下してきて三月上旬くらいまでは、西洋人たちは進軍の嵐をそれほど肌身に感じていなかったらしい。死ぬことはないだろう、と楽観的な期待をしていた。しかし、3月23日の夕刻には南京守備軍は敗れ、国民党軍が市内に雪崩れ込んできたのである。欧米や日本の軍隊と違って、支那の兵隊はならず者の寄せ集めだから、軍紀も統制もあったもんじゃない。大規模な戦闘で街は硝煙と叫喚に包まれ、何千という兵卒等が街路を駆け抜ける。攻撃、退却、発砲の繰り返し。熱心なのは、民家や商店を掠奪するときだけ。火事場泥棒だけは忘れずちゃっかり行う支那兵。恐れおののく群衆は、必死で逃げることで精一杯。路地や裏通りは、老人や子供を背負い、家財道具を満載した荷車を引いて逃げる支那人でごった返していた。戦乱となれば、お馴染みの光景である。二日間にわたり南京は恐怖と混乱に支配された。まるでドラマの定番みたい。でも何千年も繰り返していたから、シーズン2どころかシーズン4000だったりして。

  支那に長く住んでも支那人を中々理解できない外国人には、自分たちだけは安全だという空気が広まっていた。南京守備隊によって危害を加えられることはなかったし、蔣介石も南京入城の際に外国人の安全を保障していたからである。そのうえ、パールやロッシングを含む多くの西洋人は、民族主義に好意的で、支那人による支那というスローガンに賛成していたのだ。宣教師の中には、こうした民族主義は布教活動にとっても最適な方針だと考える者もいたらしい。支那人に同情を示せば、危害を加えられずにすむと信じていたのである。こういう脳味噌をもっている西洋人は、激流に飲み込まれても、「わぁー、流れるプールみたい」、とはしゃいで死んで行くのだ。

  パールの大学宿舎には家族八人が集まっていたが、大人たちは全員支那での戦乱を経験していたので、はじめは脅威を感じていなかった。しかし、金陵大学の副学長ジョン・ウィリアムズ博士が、執務室で射殺されたとの一報を聞くや甘い認識は吹っ飛び、死の危険が迫っていることを悟ったのである。支那人の使用人も怯えきった様子で宿舎に駆け込んでは、市中で外国人が殺されていると口にした。血に飢えた略奪者がいつ襲ってくるかと気が気ではない。バック家の八人は窓のない部屋でじっと息を潜めていた。支那兵らは隠れ家の周辺を走り回り、離れたところにいるかと思えば、戸口の近くで立ち止まって、訳の分からぬ怒号をあげていた。ひぇ~怖い。なんかホラー映画の一場面みたいだ。心臓がドキドキしちゃう。パールと妹グレースは互いにうなづき、もはや捕まることは避けられぬと覚悟した。子供たちを兵隊に殺されるくらいなら、自らの手で殺そうと確認し合ったくらいだ。パールは子供たちには罪はないが白人ゆえに殺されるのだ、と自らに言い聞かせたのである。(p.186)どうだ、アメリカ人でも日本の「生きて虜囚の辱めを受けず」との戦陣訓が分かるだろう。

  身の危険は唐突に消え去った。数マイル離れた揚子江に停泊していた英米の軍艦が、南京に砲撃を開始したのである。萬歳! 危機一髪の時に現れるバットマンみたい。パールの隠れ家に踏み込もうとしていた兵隊も凄まじい轟音でパニックに陥り逃げていった。それからしばらくして、親しい支那人がやって来て、国民党兵士が護衛してくれるから隠れ家を出ても大丈夫だ、と伝えてくれた。この事件で殺害された西洋人はごく少数であったという。しかし、男女を問わず殴打され、金品を奪われたり、服を脱がされて何か隠し持っていないか、と調べられることもあったらしい。それに強姦された女性も多かったという。金陵大学のR.H.ポーター教授の体験談によれば、支那兵が彼と同僚らに研究室から出てくるよう命じた。発砲することが分かっていたので、全員が外に出てみると、17、8歳くらいの少年兵がライフルや銃剣で武装していた。ガキのくせして掠奪は一人前(いっちょまえ)にやるんだから、まったく支那人って野郎は。彼らは宝石、現金、衣服など何でも奪い取ったが、大半の外国人は既に自宅で掠奪にあっていたてので、その少年兵たちを満足させるほどの金品を持ち合わせていなかった。一番の悪玉は金銭を出さねば撃ち殺すぞ、とポーター教授の胸に銃剣を突きつけた。彼はいつ串刺しにされても、撃たれても不思議ではないと覚悟したという。この恐怖は彼の脳裏に焼き付いて離れない。支那人の本性に気づかない西洋人にはいい薬だ。

平和で安全な日本へ

Pearl Buch 8(左 / 晩年のル・バック)

  百人を超える外国人はアメリカの駆逐艦に乗せられ、外国人の解放には米国領事のジョン・デイヴィスが交渉人に当たった。彼は人質を全員解放しないと南京を砲撃するぞ、と脅しをかけたそうだ。こうでなくっちゃ。男が廃(すた)る。駆逐艦は西洋人難民を乗せて上海へ向かった。パール一家は上海を出て、日本の長崎に近い雲仙へと旅立った。山口百恵じゃないが「いい日旅立ち~」と歌いたくなる。(ちと古いか。)パールは数週間にわたる戦火の嵐をじっくり考えてみたが、それでも支那人と自分の志(こころざし)に対する気持ちに変わりがなかった。(p.188) もう、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ ! バカ。パールは共産党のせいで家を壊されたり、友人のジョン・ウィリアムズが殺されたのだ、と信じ込んでいたから、共産主義者の支那人には怨みを抱いていた。しかし、支那人の大半は親切だと強調していたのだ。

  話は脱線するが、結婚詐欺に遭った女性にお手上げの警官を思い出す。詐欺師に惚れ込んだ被害者女性は、警官がいくら説明しても、最後には騙した男を「本当はいい人なんです」と弁護してしまう。パールもこのタイプだ。彼女は命が助かったことには感謝していたが、英米の艦隊が行った砲撃は間違いだ、と述べていた。他国の砲艦がいることじたいが、自国の尊厳を守ろうとしている支那にとって、許し難い帝国主義的行為なのだから、と。英米の紳士的海軍士官でも激怒するだろう。こんな批判を聞くと、日本サンライズのアニメ『無敵超人ザンボット3』を思い出す。地球を侵略するガイゾック相手に、命懸けで戦った神勝平(じんかっぺい)は、救った民間人から逆に恨まれてしまう。被害にあった人々は「お前なんかがいるから宇宙人がやって来て、みんなが困るんだ」と非難された。テレビの前のチビっ子は涙ぐんでしまうのだ。ちょと懐かしい。

  支那と違って日本は別天地。エデンの園だってあるんじゃないか。パールは雲仙の景色を褒めている。「世界一美しい海岸線」から松の木や山々がそびえ立ち、その組み合わせが絵のように美しかったという。そりゃそうだ。パールと夫のロッシング、そして二人の子供は丘の上の小さな家で英気を養うことにした。金陵大学で親しかったマーガレットも、夫のクロードと子供たちと一緒に雲仙に住むことになったらしい。良かったねぇー。タップダンスでも踊りたくなる。文明国の日本をもっと宣伝したらどうだ?

  日本に腰を落ち着けると、パールは米国の教会向けに報告書を作成した。長老派の布教理事や友人に宛てた書簡には、白人が南京に戻れる可能性は充分にある、との結論を載せたのである。なにい~? やっちまったなぁ。餅じゃなくて嘘をついてしまった。報告書とは別に、パールは友人のルル・ハミルトン宛に手紙を書いていた。そこには、支那での忌まわしい光景が浮かぶ悪夢に、毎晩うなされていることが綴られていた。

  「わめき叫ぶ声。家の焼け落ちる音。ポリー・スモールは危うく強姦されるところだった。兵隊はズボンのボタンをはずしていたし、全ての条件はそろっていた。でもすんぜんのところで救われた。クック婦人は、指輪ごと指を切り落とされるところを、ほんの偶然で助かった。プライス博士は抵抗したので、六発も銃撃を受けた上殴り殺された」(p.190)

  パールは手紙の中で、ルルに「私自身は南京に戻れる可能性は万に一つもない、と思っています」と打ち明けていたのだ。金陵大学は支那人の行政官と教授の手に陥落したので、もはや外国人には復職の余地など全くないように思われた。しかし、南京事件のショックから立ち直るにつれ、パールには米国の新聞が反支那報道を行い、支那人を貶めていることが気に入らなかった。友人に宛てた手紙に、あの事件を執念深く根に持って、支那的だ、東洋的だ、と批判するのは間違っている、と述べたのだ。たった一度の事件で支那人全体を非難するのは、ニューヨークの地下鉄で突発的に起きた暴力沙汰をもって、アメリカ人全体を非難するようなものだ、と反論した。

  そもそも、正しい歴史解釈の上に立てば、この世に罪なき人間など存在しない、と啖呵(たんか)を切った。南京事件は東洋特有の犯罪ではない。そもそも東洋的犯罪など存在せず、ちょうど米国的犯罪とか英国的犯罪が存在しないのと同じ理屈だってさ。残虐行為を行った張本人を捕らえて処罰すべきだ。一般支那人を責めるのは無意味かつ不公平と論ずる。支那の民衆は自国の指導者と外国人の両方から抑圧されてきた。彼らこそ今回の騒動における真の犠牲者だ。パールはこれまで以上に支那の庶民を支援すべきだ、と提案する。「今ほど強い繋がりを感じたことはありません」とまで言い出す。(p.p.192-193) ここまでくれば「病膏肓(こうこう)に入る」で治療不可能。匙(さじ)を投げるしかない。

  日本は能率的で近代化が進んでおり、南京よりもずっと暮らしやすかった。しかし、パールは支那に対する義務感の方が強く、支那に愛情を感じていたのである。パールは軍閥が乱闘する無政府状態において、共産党の代わりになる唯一の人物が蔣介石だと思い、彼を支持していた。彼女は南京の争乱を支那革命史における画期的事件と捉(とら)えていたのである。パールはルイス・ガネットに宛てた手紙の中で、南京事件は支那民衆にとって、まさにアメリカ独立戦争の口火となった、ボストン茶会事件に相当する出来事、と述べていた。ただし、「身の毛もよだつ方法ではありましたが」と付け加えている。パールの色眼鏡もここまで来れば、そうとう歪んでいると言えよう。もう勝手にしろ、と言いたくなる。1927年10月、バック一家は南京に戻った。やれやれ。

  パール・バックは晩年になると、キリスト教の信仰から離れ、女性の地位向上や混血児の保護に熱心だった。ピュリッツァー賞やノーベル文学賞をもらった才女は、もし日本に住んでいたら、輝かしい授賞式には無縁の生涯を送っていたかも知れない。支那とは異次元の世界にある日本だと、波瀾万丈の人生が訪れないのではないか。清潔で勤勉な日本人と学問や藝術の話をし、大学で厚遇されて給料も高い学者生活。愛くるしい日本の子供に囲まれて、“ほのぼの”とした交流をし、時折ふれあう人情深い女将さんや、気前のいい親方に感謝する日々。見ず知らずの他人から思わす受ける親切。美味しい蕎麦をすすって、湯船に浸かって、天日干しのふとんで快眠。天皇陛下に謁見すれば勲章でも貰えたんじゃないか。やはり、不幸じゃないと作家として成功しないのだろう。でも、アメリカ人に対しては正直に語って欲しかった。日本をベタ褒めせよ、とは言わぬが、せめて本当の事を伝えたら、とつぶやきたくなる。




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