身分が固定する恐れ

  神奈川県川崎で中学一年生の上村遼太君が無惨にも殺害された。犯人の舟橋龍一が逮捕され、共犯の柴山和也と樋口利生も捕まって、今後事件の詳細は裁判で明らかとなるだろう。今回の惨殺事件では、少年犯罪への刑罰が如何に軽いかが話題となっている。しかし、マスコミで触れられていない点がある。それは、舟橋家の複雑な家族関係と日本社会の変質である。

  報道によれば、主犯舟橋龍一の父舟橋喜一は、フィリピン人女性と再婚したという。この妻ジョセリンが元夫との娘を連れて再婚したらしい。龍一の実父がどちらかは分からないが、両親の躾(しつけ)が悪かったことは確かだ。連れ子を持つ者同士の結婚は難しく、一緒に住んでも本当の親子のように接することが出来ない場合もある。公(おおやけ)ではあまり口に出来ないが、下層階級にこうした複雑な家庭が多いのだ。母のジョセリンはおそらくフィリピン・バーの酌婦(しゃくふ/所謂ホステス)と同類の出稼ぎ人だったのではないか。雑誌の記事だと、ダンサーとかの職業であったらしいが、はっきりしたことは分からない。いずれにせよ、貧乏なフィリピンから豊かな日本へやって来た異人種だ。前の夫がどんな人物か分からないが、世間の常識で考えれば、矜持(きょうじ)のある紳士ではないだろう。南洋土人の遺伝子を持つ異邦人と結婚するなんて、堅気の男とは思えない。まともな家庭の親なら、そんなアジア人女との婚姻は認めないし、そもそも男の方が結婚しようと申し込まないだろう。したがって、フィリピン女と結婚する日本人の男とは、日本人女性に相手にされない人物が多いというわけだ。男としての魅力が無かったり、離婚経験のある中高年のオッサンだから、結婚相手の条件をとやかく言わないアジア人女に接近するのだろう。


  日本は世界でも稀な平等社会である。格差と言えば、所得や役職くらいだ。所得格差だって、支那やアメリカと比べればゼロにに近いし、西歐諸国と比べても、貧富の格差がおどろくほど狭い。しかも、日本人は人種的に同一なので、人種対立が国内で発生しないのだ。米国のように、白人警官が黒人犯罪者に対して、職業上の暴力をふるったくらいで社会問題となることはない。日本では為政者と有権者、警官と犯人、役人と庶民が同じ民族となっている。だから、逆につまらないことで区別や差別をしたくなる。一番分かりやすいのが、学歴格差だろう。日本人は受験に対して異常な関心を示す。(ここで科挙の因習がある朝鮮は除くことにする。) 大学に入って勉強するための、単なる筆記試験なのに、人生のハイライトみたいに考えている。「受験地獄」なんてマスコミは騒ぐが、地獄に行くのにわざわざ塾へ通って、受験料を払う馬鹿がいるのか? 要するに、受験とは社会身分を取得するための、登龍門なのだろう。ドジョウみたいな奴でも一流大学に合格すれば、晴れて「龍」に昇格でき、二流大学だと「鰻」くらいにしかなれない。だから、日本では大学が「身分製造工場」であり、「学問の府」ではないのだ。世間では大学で何を勉強したかなど聞かない。どこの大学で、どれくらい偏差値なのかが知りたいだけ。お尻に「東大」とか「慶大」といった焼印(ブランド)を押されれば、優秀な人物と見なされる。学問を積む目的なら、教授陣の質を受験前に調べるはずだ。たいていの教授は業績が乏しく、もし実力主義にしたら、キャンパスで大暴れとなるだろう。教授版学園紛争なんて笑えない。優秀な学生なら、勉強は自分でどうにかするだろう。学歴で出世できるのは役人の世界だけ。

  学歴編重は日本の悪いところであるが、別の角度から見れば、努力次第で良い身分を手にできるという事を意味する。だから、入試は神聖な儀式だ。お金を積んで入ることが悪いとされる。いいじゃないか。お金持ちは大学にたくさん寄付してやれば、運営費に困る大学だって助かる。マスコミは「裏口入学」と非難するが、勉強したい子なら大学に入れてやれ。正門から堂々と入学したと思えばよい。貧乏人は勉強して、試験に合格すればいいので、「献金入学」を非難するのは妬みからであろう。要は卒業を厳しくすれば問題なし。学問が足りない者は、容赦なく切り落とせばいいだけのこと。しかし、人種や民族は勉強して変えることは出来ない。たとえば、バラク・オバマは母親が白人でも、父親が黒人であるため、黒人社会に自分のアイデンティテイーを置く。鏡に映った自分を見て、白人とは思わないだろう。学生時代に白人の恋人がいても、結婚したのは黒人のミッシェル夫人だ。仮にハーバード大学で法学部の教授になれても、必ず「黒人教授」と紹介される。どんな有名大学でも、彼の肌を漂白できない。肉体、つまり遺伝子は自分の努力では変えることは出来ないのだ。日本人は白人・黒人・黄人でもない、肌色の民族なので、どうしても混血児にランクが出来てしまう。

  混血児の等級は、その片親がどこの出身で、どんな容姿なのかで決まってしまう。たとえば、米国や英国の出身で、アングロ・サクソン系の親なら、子供は日本社会で恥ずかしい思いをしない。むしろ、自慢したり、感謝したりするだろう。親の素性を隠すことなく、友人へ積極的に紹介できる。歴史の授業で、親の祖国が言及されれば、自分の血統に誇りが持てるし、異郷に眠る自分の祖先について知りたくなる。しかし、その片親がアジア人だと、こうはならない。とくに東南アジア出身の親を持つ子供は、何かと嫌な思いをする。自分の血統に誇りを持てないし、できれば消去したいと考える。アジア系の子供が哀しいのは、大好きな親を友達に紹介する時、無意識的に躊躇(ためら)いを感じてしまうことだ。それに、親の故郷に関心が無い、というより「知りたくない」という、消極的拒絶反応が心に芽生えることがある。いとこやおじ・おばといった親戚だって、言葉や感覚が違うから、親近感が湧かない。それに、自分よりもっと惨めな子供が大勢群れている、フィリピンやタイを見るのが辛くなる。親にとっては同胞でも、混血児にとっては、一緒にされたくない劣等人種だ。同類と見られたくないから、なおさら日本人であることを強調したくなる。だからといって、生粋の日本人になれない。他の日本人みたいに、心から日本を愛することができないのである。心のどこかに怨念が潜んでいるからだ。こうした悲哀から性格が歪んでしまい、何人かは地球市民に憧れたりするのである。

人種で分裂する日本社会


  現在では、色々な混血児が増えたが、西欧系白人との混血児は日本人と同等か、容姿によっては上位になる。しかし、アジア人との混血児は格下になってしまう。黒人との混血児は問題外。日本人は支那人や朝鮮人から、「白人崇拝」と非難されて萎縮するが、日本国内でどんな美的感覚を持とうが、日本人の勝手である。これは恥ずかしいことではなく、素晴らしい特権である。自分の国で自由に誰が「美しく」て、誰が「醜い」のかを判断できて、美しい者を称賛し、憧れを公言できるのだ。欧米諸国を見てみよ。ゲルマン系白人国家なのに、自分たちの肉体を公の場で賛美できない。フランスやアメリカは自由な国のはず。しかし、彼らは「白人はやはり世界一美しい」と主張できない、というより社会的に許されない。「政治的正しさ(political correctness)」という検閲があるので、表現の自由はあるようでないのだ。この点を突くと白人は怒りだす。日本人に対して「自由」を自慢したいフランスやアメリカの白人としては、悔しくてたまらないのだろう。彼らは「ネオ・ナチ」と思われたくないから、思想・言論の不自由を我慢しているのである。日本人は「ミロのヴィーナス」を称賛したからといって、ギリシア文化にかぶれた白人崇拝者と糾弾しない。良いものは良い、と言える自由が存在するからだ。朝鮮人や支那人との混血児は嫌い、と言える日本は幸福である。日本人にそう言われて逆上する支那人や朝鮮人は祖国に帰れ。日本は日本人が主流で、社会の中心である。日本人の価値観で生きて何が悪いのか。

  フィリピン人やタイ人と結婚するなんて、ゾッとするし、生まれてくるこどもが可愛そうだ。生まれながらにしてハンディキャップを背負っているなんて不憫である。異邦人と結婚する日本人は、自分でも差別心があることに気付いていない場合がある。たとえば、氏名の問題である。日本人女性がアジア人と結婚した場合、外人夫の姓を名乗らずに、夫が妻の姓に変えるケースが多い。たとえば、李とか劉、陳といった支那人、金や朴、崔といった朝鮮人と結婚した日本人女性は、夫の姓に変えたくない。とくに社会的地位の高い人や、名家出身のお嬢さんだと、支那人や朝鮮人に落ちぶれるような真似はしたくない。(もっとも、最初から結婚相手に選ばないが。) 鈴木とか田中といった姓の女性が、結婚したからといって、病院や役所で「李」さんとか「金」さんと、呼び出されたら、恥ずかしくてその場を立ち去ってしまうだろう。友達に姓が変わったことを伝えたくない。日本人は友人がそうした改名に内心驚いても、それを顔に出さず、気にしない振りをしている姿にかえって傷つく。アホな友人が気を遣って「何てことないよ」と励ませば、余計に恥ずかしくなる。実家の両親だって、娘の結婚を友人に知らせたくないだろう。友人に知られてしまったら、「中国」の方とか「韓国」の方と、口ごもって話すしかない。堂々と、婿はんは「支那人」とか「朝鮮人」と言えないのだ。

  日本人女性に見向きもされない日本人男は、アジアの安い女を求める。容姿や所得、地位を気にせず、懐のお金だけで相手にして貰えるからだ。キャバレーでチヤホヤされて有頂天になる下層階級の男は、アジア人酌婦の肉体だけが目当て。アジア人酌婦も、日本人客の国籍が狙い。日本ではアジア人と結婚する日本人の調査やプロファイリングが存在しないから、はっきりとしたことは言えないが、中流家庭より下の人物が多いんじゃないか。セックスが出来ればよいと考える男と、日本永住が目的の外人女が結婚するのだ。それぞれが子連れの場合だってある。そんな家庭でしっかりとした躾など望めないだろう。両親の私生活がだらしないのに、子供の教育が厳しいはずがない。飲み屋で出逢ってセックスしたら、女が孕んで結婚に至ったカップルに、道徳教育など無理だろう。子供は単にセックスの副産物に過ぎないのだから。

  世間ではフィリピン人との結婚はイメージが悪い。どうしたって、飲み屋の酌婦か風俗店のセミ売春婦くらいが相場だから。こうした母親をもつ子供は、自分の体に汚点(stigma)を感じてしまう。(E.ゴフマン 『スティグマの社会学』せりか書房 1970年 pp.183-185参照) 他の日本とは違い、ワン・ランク下の劣等民族と感じるのだ。自分がどの民族に属するのか悩んでしまうかも。日本で生まれ育てば、表面上日本人と思ってしまう。だか、必要以上に「フィリピン」という言葉に敏感となる。半分日本人でも、本来の帰属集団がフィリピン人となってしまうのだ。自分でいくら「私は日本人」と言い聞かせても、周囲の者は自分を「同類」の仲間とは見なさない。常に「フィリピン人との合いの子」であることを思い知らされるのだ。その子は生粋の日本人より、アジア人混血児との方がリラックスしてつきあえかもしれない。同じ汚点を持つ者同士の方が、遠慮無く交際することが出来るからだ。よく在日朝鮮人同士が群れてグループを作るだろう。同じ臭いがする動物同士は自然と群れるものだ。

 フィリピン人混血児は、言葉や慣習が他の日本人と変わらないのに、日本人と見なされぬ屈辱感を持つ。この劣等感を克服するために、人種・民族の違いを矮小化し、差別する日本人を「レイシスト」として憎悪する。だが、彼らは重要な点を分かっていない。フィリピン人が日本人と結婚するということは、二つの異人種が密接になることで、子供は両親の遺伝子を受け継ぐことになる。混血児の子供も、フィリピン人の血統に属することとなり、親が味わった屈辱を自動的に伝承するのだ。フィリピン人の祖父母や曾祖父母、そして何百何千というフィリピン人の遺伝子を体に埋め込まれるのである。混血児が学校で歴史を学ぶようになると可愛そうだ。日本人生徒なら、フィリピンなど取るに足らぬ後進国で無視できる。しかし、日比混血児には祖先の国。貧困と腐敗が永久につづく劣等国なのだ。悪いと思いながらも親を恨んでしまう。それでも、努力して学問を身につけようとするなら、まだ希望のある子供であろう。しかし、フィリピン人と結婚するような父親だと、学問とは縁遠い人物が多い。したがって子供はスポーツか歌や踊りに興味を持つ。成功すれば良いが、プロのスポーツ選手や歌手になれるのは極わずかだ。たいていは中途半端に終わって、気がつくと親と同じ下層階級のままだったりする。アジア人家庭が増えれば、優秀な子供より、グレた不良かダメな凡才が大量発生するだけだ。こうした混血児がひとつの社会階層あるいは集団を作るようになるだろう。ちょうど在日社会とか、支那人の不良二世三世グループがあるように。

  どんな社会でも、下層民は理性でなく、本能で行動するから、その日暮らしが多くなる。日本はアジア人を簡単に入れるし、気安く国籍を与えてしまうので、下層階級が徐々に増えている。しかも、人種別階層社会の苦悩を知らないので、呑気に多民族共存社会に賛成する国民が意外に多いのだ。そんな日本でも、混血児が増えてくれば、純粋日本人と劣等民族との軋轢が、突如マグマのように噴出するかもしれない。そうしたとき、日本の良さは音を立てて崩れてゆくだろう。人種・民族で分裂した社会は元に戻らない。幕末の戊辰戦争で日本は、薩長軍と幕府軍で分裂したが、明治になると再び一致団結して富国強兵に務めた。「攘夷はどうなったの?」と尋ねる野暮は何人いたのか分からない。日本人は悲惨な過去は水に流す。隣を見てすぐ頭を切り換える。同じ民族だったからだ。しかも、天皇陛下のもとで薩摩も会津もない。陛下の御前では官軍・賊軍と別れて喧嘩をすることはない。みな陛下の忠臣を自負していたのだ。しかし、アジア人という異邦人が日本のメンバーとなったら、昔のような和解は無いだろう。肉体に基づく憎しみには、相手側の殲滅が解決策。移民反対をためらう者は、自らの子孫が将来どうなるか真剣に考えるべきだ。日本人は本音では分かっているだろう。しかし、本心を語ろうとはしない。常識を押さえて建前で政治を行えば、悲惨な結果になることは目に見えている。格好悪くても本音で移民排除を実行すべきである。


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