驚きのミス日本

  人種論を発言する者は、“極右”とか“レイシスト”または“ネオ・ナチ”と呼ばれるのに、ミス・コンテスト主催者はそう呼ばれないは不思議である。たくさんの若い女性を集めて、お金と名声をくれてやるから服を脱げと命令し、裸に近い水着姿にして、その肉体を品評するのだ。しかも、どんな審査基準なのかは、本当のところ分からない。しかし、性格とか特技を採点に含めて、参加女性に序列をつけるのだから、人種・民族・容姿差別反対論者は抗議すべきではないのか? もっとも、審査員はどんな美的基準なのかを明確にしないから、各人種や民族から適当に選んで批判をかわしているのかもしれない。たとえば、去年は歐洲の白人だったから、今年はアジア人を選ぼうとか、それよりもアフリカ黒人を選んだ方がマスコミで話題になるかも、と計算しているのでは? 優勝者は人種別の輪番制かもしれない。そうはいっても、美人品評会であるからには、やはり外見の得点が一番重要視されるはずだ。教養や特技を重視しているなら、水着にさせる必要はないじゃないか。容姿と知性が比例している、という科学的根拠は無い。

  ミス・コンテストがどんな基準で美女を選ぼうが、しょせんお金儲けのイベントだから文句を述べてもしょうがない。2007年にミス・インターナショナル日本代表に選ばれた、本郷李來(ほんごう・りら)さんをたまたま見た時、筆者は台湾かマレーシア代表と勘違いしたのを覚えている。(筆者派は雑誌の藝能・娯楽記事に疎いのでごめんなさい。) 紹介記事を読んでみたら留学生じゃなくて日本人の大学生であった。人々の美的感覚はまちまちだから、「日本も時代と意識が変わったなぁ」との感想をもったものである。旧世代(第20世紀)に属する筆者には、現代日本が異国に思えてならない。政治的配慮が加味されていそうなミス・コンテストに興味は無いが、マスコミで話題になった記事はちょっとだけ知っている。以前、ミス・ユニバース世界大会で優勝した森理世(もり・りよ)さんが、写真の間違いをそのまま報道された事件があった。(産経ENAK, 2007年6月29日) 誤報では別人の写真が掲載されたり、森さんを「ミス・コリア」とか「ミス・タイランド」と紹介していたらしい。でも、優勝者を間違えるなんて、どんなアホが記者として派遣されていたのか? その顔と理由を知りたいものだ。

  女性の肉体を見比べるコンテストでは、各国代表を集めて美を競っているというが、地元国民の遺伝子に関係なく、国籍所有者なら人種・民族を問わないらしい。それなら国別に代表を選出したり、奇妙な民族衣装を着せるのは何故なのか、まったく見当がつかない。日本代表の和服なんて我々の常識では考えられぬ奇抜なデザインだ。日本人だって見たとこがない日本の伝統衣装には呆れてしまう。米国のような雑種国なら仕方ないだろうが。衣装が奇抜なのを無視しても、人種への無頓着さには首をかしげてしまう。スウェーデンやデンマークのような北欧諸国の代表が黒人であれば、北欧人のみならず、我々日本人だって驚く。もし、ギニアやコンゴといったアフリカ諸国から支那人やマレー人が選出されたら、地元の民衆から文句が出ないのか疑問である。韓国代表が黒人なら、南鮮人はきっとインターネットで酷評するだろう。もっとも、乳房丸出しの朝鮮衣装チョゴリを着たアフリカ系朝鮮人など想像できない。しかし、黒人米国兵の夫婦が南鮮国籍を取得すればあり得る話しだ。ただ、アメリカ黒人で南鮮国籍を取ろうとする者は相当な変人か、人生に絶望して自殺寸前の精神病患者くらいだろう。

  2015年のミス・ユニバース日本代表に宮本エリアナさんという混血児のお嬢さんが選ばれたそうだ。彼女のお父上は佐世保のアメリカ海軍基地に勤務する黒人兵だそうで、歴代の日本代表とは違い、初の黒人系優勝者だそうだ。誰を優勝者に選ぼうが主催者の勝手なのでどうでもよい。注目すべきは、ミス・インターナショナル日本代表になった吉松育美(よしまつ・いくみ)さんのストーカー事件を一切無視した日本のマスコミの方だ。三流藝人の色恋沙汰でも長々と報道するくせに、とんでもない嫌がらせ事件を取り上げなかったのは異常である。加害者が芸能界の大物谷口元一だから報道しなかったのだろう。(David McNeill, Miss Japan Ikumi Yoshimatsu joins battle against mafia in the media, The Independent, 27 December 2013) なんで女性の権利を叫ぶフェミニスト評論家はテレビ局を批判しないのか? テレビ局に楯突くと仕事がなくなるからじゃないか。外国メディアだって取り上げた事件なのに、ワイドショーが揃って無視するなんておかしいだろう。

  宮本氏が民間コンテストの日本代表になろうが、いいじゃないか。どうせ庶民は本音の世界(モデル雑誌や映画界)で美人投票をしているのだから。注目すべきはアジアやアフリカ出身の帰化人や混血児が増えていることだ。我が国は昔からの領土だけでなく、異民族支配の経験が無い人間が集まって構成されている。アジア人やアフリカ人の異質な遺伝子が、日本国民の遺伝子プールに混ざれば、徐々に日本人が変質し、伝統的価値観が崩壊してしまう。我々の精神とは肉体と密接に関係している。非日本的肉体に日本的精神を吹き込もうとすれば、必ずそこに摩擦・亀裂・矛盾が生じる。たとえば、アフリカ黒人の父親の精子で生まれた子供は、母親が日本人でも意識の半分がアフリカ人となってしまう。アフリカにいる父親の祖父母、曾祖父母、親戚など数百数千の黒人が同胞になるのだ。幼児の頃は意識しない黒人混血児も、成長するにつれ、自分が普通の日本人ではないことに気付く。これは朝鮮人やフィリピン人混血児にも当てはまる。

  日本人とはかけ離れた遺伝子を持つと自覚した時に、同質的日本社会からの疎外感を持ってしまうのだ。こうした背景を持つ混血児にとって、国防のため移民を排斥しようとする愛国的日本人は敵となる。肉体的に異質な民族が雑居する米国では、国内の監視体制を非常に厳しくしないと、安全な社会を維持できない。テロリストや外国人エージェントが、社会の隅々に浸透しているので、アメリカ人は常に警戒しながら暮らしているし、たとえ同国人でも基本的に他人を信用しない。それに、人種が原因の対立や暴動が絶えない。混血児だって日本を好きだろう。しかし、人間とは外見で仲間かどうかを判断してしまうのだ。日本人は似たような顔の朝鮮人にだって、どこか「朝鮮風」の容貌を感じ取り、何となく生理的嫌悪感を抱いてしまう。日本人の無意識が変わらないのだから、、日本から離れられない混血児は、日本社会の同質性を嫌悪し、民族的伝統を守ろうとする日本人に憎悪の念を抱くのだ。


種族的特徴を失った欧米諸国

  日本は「斜陽族」という言葉がある。ヨーロッパ人がそうだ。かつて華やかだった貴族が、零落(おちぶ)れても、気位だけは昔のままということがある。西歐諸国の住民は未だに白人国家という意識を持っているのだ。確かに人影がまばらな田舎に住めばそう思うだろう。しかし、都会に進むと段々人の容貌が変化してくる。元からの白色ヨーロッパ人が少数派で、多数派が黒・黄・茶色の人種であり、街を歩けばあちこちに有色人種がいっぱい。日本人には西欧人に見える白色住民でも、東欧や南欧からの移民やその子孫だったりする。スラブ人なら西欧人も何とか我慢できるが、浅黒いアラブ人や黄色い支那人では嫌になるだろう。黒人などはたとえアメリカからでもご免だ。しかし、毎年何万人も移民・難民が津波のように押し寄せる。こうなればミス・コンテストの応募者だって、非ヨーロッパ人が多くなる。しかも、多文化・多民族主義が猖獗(しょうけつ)を極めているから、人種平等思想が徹底しているのだ。場合によってはこっそりと、有色人種優遇制度(アファーマティヴ・アクション)が発動することだってある。近年のミス・コンテスト出場者を思い出してみれは理解できよう。

  フランス人は自国を歐洲の華と見なしている。ヨーロッパ版中華思想に凝り固まったフランス人には、自国代表が黒人といった有色人種に我慢がならない。2013年のミス・ユニバースで、フランス代表となったヒナラニ・デ・ロジョウ(Hinarani de longeaux)は、元ミス・タヒチでフランスに移ってきて代表となったのである。白人のフランスと黒人のタヒチで同じ美的基準を共有していたのだ。その他フランス代表には、ソニア・ローランド(Sonia Rolland/ルワンダ出身)、フローラ・コクェレル(Flora Coquerel)、クロエ・マルトー(Chloé Mortaud/母親がアメリカ黒人)がいて、フランス人はアフリカ人と兄弟か、と思えてしまう。2005年のベルギー代表にはタティアナ・シルヴァ(Tatiana Silva)という女性が選ばれたことがあり、カーボ・ヴェルデ(Cabo Verde)出身の黒人である。日本人なら「えっ? そんな国あったの?」とつい口にしたくなる。そこはアフリカ西海岸から離れた、大西洋上に浮かぶ島国で、以前はポルトガル領であった。また、ローラ・ボイエ(Laura Beyne)という黒人のミス・ベルギー代表もいたのだ。ゲルマン系が多いはずのミス・ネーデルランドにも、ソニア・シルヴァ(Sonja Silva)という黒人代表がいた。人種差別国家たるイスラエルでも、イティシュ・アイノウ(Yityish Aynaw)という黒人の代表が誕生して非難囂々(ごうごう)。イスラエルは白人国家だそうで、黒人は日常的に侮蔑されている。

  ヨーロッパ諸国は有色移民により蚕食(さんしょく)されているようだ。2009年のミス・スイスはホイットニー・トイロイ(Whitney Toyloy)という浅黒い女性で、支那人とパナマ人の血が流れているらしい。2001のミス・スイス優勝者にはトリニタード・トバコ出身の浅黒いアリーナ・ブッシャハー(Alina Buchschacher)が選ばれた。三位の女性は金髪の白人女性だった。北欧のスウェーデだって、マロウ・ハンソン(Malou Hansson)という黒人女性が選ばれ、ノルウェーではコンゴ出身のイマン・ケリゴ(Iman Kerigo)が選ばれている。英国ではちょっとした嬉しい事件が起きた。2009年のミス・イングランドには黒人のレイチェル・クリスティーが選ばれてしまったが、傷害事件を起こしたことで、栄冠は2位の白人女性のカトリーナ・ホッジに移った。英国の有色人には残念なことだが、アングロ・サクソン系の英国人は密かに喝采を送ったみたい。一位を取れなかっった準優勝者の方が、遙かにイギリス人的容姿を持ち、さらに美しかったというから、冗談みたいな本当の話である。しかも、ホッジ嬢は英国陸軍の下級伍長(lance corporal)であったから、一躍国民的人気者になってしまった。これでは優勝者のクリスティーは泣くに泣けない。

  ただ、我々が気をつけねばならぬ点は、美人コンテストが異常な性質を抱えていることである。米国で2009年のミス・カルフォルニアに選ばれたキャリー・プレジャン(Carrie Prejean)が、ある質問に答えたことでその栄冠を剥奪されてしまった。(Gay Row Beauty Queen Sues Pageant Officials, Sky News, September 1, 2009) 彼女がミスUSAに参加した時、結婚は男と女の間でなされるべき、と答えたのが致命傷となった。つまり、同性愛結婚を否定する答えを発言したことで、主催者や審査員の不評をかったのだろう。もちろん、主催者側は彼女の遅刻を理由にしていたが、どう考えてみてもこれは白々しい嘘だろう。彼女がゲイやレズビアンのセックスや結婚を肯定していたら、寛容な精神をも好ましい娘として称賛されただろうが、常識的思想をもつと頑固な保守派、つまり右翼的白人と見なされる。同性愛者に偏見を持つ差別主義者と判断されてしまうのだ。躾の良い子供は、健全な家庭の出身者が多いから、どうしても変態左翼思想を否定してしまう。だって気持ち悪い中年オッサン二人が裸で抱き合う姿を見て拍手をしないだろう。しかし、アメリカだとホモのセックスに眉をひそめる者は、頑固者(bigot)とか偏屈屋と呼ばれてしまうのだ。普通の日本人なら吐き気を催し、顔を歪めてしまうが、アメリカ人は平然とした態度を保たねばならない。つくづく思うが、正常な日本に生まれて良かった。

  日本ではまだ人種摩擦が大問題となっていないから、庶民は比較的自由な思想を持ったり、好き勝手な趣味を表現できる。NHKやフジテレビがいくら朝鮮人の歌手や俳優を、強引に押しつけたって、結局振り向いて引っかかる日本人が少なかった。これには南鮮藝能で一儲けしようと企んでいた悪党共もガッかり。日本の庶民は嫌いな者を口に押し込まれても、吐き出す生来の原状回復機能が備わっている。世界一選択基準が厳しい日本人女性は、気持ち悪い南鮮人を見ると、生理的拒絶反応を示すのだろう。体質に合わないものは受容しない、という伝統があるのだろう。昔の日本人は有り難い仏教を信仰しても、その戒律は嫌だから骨抜きにしたくらいだ。魅力がない朝鮮文化を、魅力的に見せようとしたテレビ局は愚かだ。糞尿を綺麗なグラスに入れても、朝鮮人とは違って日本人は飲まない。

    筆者は今の美男子コンテストを知らないが、昭和の頃までなら、ちよっとは知っている。国内藝人は別として、日本人女性が外国藝人を選別する目は正直だった。美女コンテストの審査員より厳しかったんじゃないか。今ではフランス人俳優などそんなに人気がないが、一昔前の昭和時代はすごかった。たとえば、フランス人俳優のアラン・ドロンに憧れた日本女性がたくさん存在したのである。彼の代表作『太陽がいっぱい』は古典的名作で今でも多くの日本人が覚えている。また『サムライ』という映画もあるし、三船敏郎と共演した『レッドサン』も当時話題になった。今でも彼のブロマイドや出演作のパンフレットを持っている女性ファンがいるんじゃないか。彼の夫人ナタリー・ドロンも、主役を務めた『個人授業』でとても人気があった。フランス女優独特の雰囲気があって、洋画ファンは彼女の写真が載った『スクリーン』とか『ロードショー』映画雑誌を買ったものだ。

  英語圏でないのに日本人は英米のミュージシャンが好きだ。イギリス人バンドのデュラン・デュランが、来日すれば大勢の女性が駆けつけた。歐洲や米国でも人気者だったから当然かもしれない。しかも、ニック・ローズやジョン・テイラーは色男ときている。故ダイアナ妃がファンだったのも納得。当時はまだインターネットが無かったが、ファンはどこからか情報を仕入れていた。テレビ局の八百長宣伝すら無かったのに、黄色い声を上げたたくさんの女性がいたことに驚いた。現在では信じられないだろうが、大したことないロックバンドまで人気があった。たとえば、英国のパナッシュ(Panache)なんて三流だったのに、キーボード演奏者のポール・ハンプシャーが美少年だったので、彼が現れると、日本人ファンが「キャ~、きゃぁぁ~」と騒いでいたのだ。狡猾で反日的なフジテレビは、朝鮮人俳優を「イケメン」と持ち上げていたが、昔を覚えている日本人なら笑ってしまうだろう。

混血児をつくる親の責任

  国民国家とは国境がちゃんと存在し、自国民と外国人の区別が付いていないと成立しない。しかし、近年昔ながらの国民が減少し、異邦人がそれに反して急増しているのだ。欧米では直接喋っても誰が国民なのか分からない。たとえば、英語を話せても英国への旅行者や出稼ぎ人だったり、ある者は詐欺師や不法入国者だったりするから厄介だ。異人種排斥ができないドイツでは、トルコ人やアラブ人が国籍を取得しても、ドイツ人になるつもりはないし、ドイツ人だって仲間と見なさない。イスラム移民だとドイツ語がカタコトであったりするのだ。同胞意識なんて持てない連中があちこちに住んでいて、同じ国籍を持つのに国内で別の社会を形成している。国民的精神病を患うドイツでは、イスラム教徒のアラブ人はどんどん増殖するし、アフリカ人はドイツ国籍を取得しても、キリスト教的ドイツ文化に同化しない。ゲルマン系ドイツ人が「我々」と言うとき、移民してきた「彼ら」を含まないだろう。歴史と遺伝子を共有しない部外者を同胞国民とは思えない。かつてフィヒテが『ドイツ国民に告ぐ』を講演した時は、その聴衆は昔ながらの“祖先を同じくする”ドイツ人であった。

  日本は奇蹟の国である。日本人が二つに分かれて戊辰戦争となったのに、長期にわたる泥沼の内戦に発展しなかった。外国なら定番だが、敗者を抹殺する殲滅戦にならず、明治維新が短期間で達成されてしまった。「攘夷」を叫んでいた武士が、一夜にして「開国論者」に豹変したのである。また、産業革命を一気に取り入れて、海軍を充実したら日清戦争に勝って清朝支那が滅亡。続く日露戦争では、圧倒的な大国ロシアに陸と海で完勝、パーフェクトゲームだ。大東亜戦争では太平洋に機動部隊を展開して、アメリカ海軍も真っ青だったから、戦後アメリカ人は徹底的に日本軍を解体した。空爆で至る所が焦土となったのに、奇蹟的復興を実現してしまう。この秘訣は何か。それは国民年齢が二千歳を超えるからである。日本人は同じ遺伝子を持つ祖先と繋がっているからだ。しかも、我が国の大地には無数の祖先が眠っている。太平洋の荒波にもびくともしない、重心が地中深くに存在する国である。祖先の肉体は灰になっても、その遺伝子は子供の中で再生され、日本人の魂はそのまま継承される。子は親の肉体と精神を伝承するので、体の中に日本の歴史が内蔵されている。だから、大東亜戦争ばかりでなく、関ヶ原の合戦、建武の中興、元寇、壇ノ浦の戦いなどを、まるで体験したかのように感じることができるのだ。我々が持つ細胞核に祖先の記憶が刻印されている。

  我々が亡くなった先人を敬い、その遺産を享受する権利を持ち、子孫へ伝承する義務を負うのは、我々が祖先の子孫だからである。しかし、アジア人やアフリカ人の遺伝子を受け継ぐ者には、この崇高な義務感が無くなってしまう。たとえ残っていたとしても、薄められたものであり、困難に直面したら、罪悪感もなく放棄するだろう。とくに朝鮮人や支那人の混血児だと、更に日本を憎む本能がインプットされている。卑しい民族の血を引く劣等感により、精神が歪んでしまい、日本人としての根本的感情を持たない。たとえば、皇室を何となく愛せないし、どうでもいいと思えてしまう。陛下と共に歩んできた祖先の遺伝子より、日王への侮蔑を示す祖先の遺伝子が勝るからだ。明治大正昭和の日本人が流した血よりも、アジア賤民の悔し涙の方に同情を示す。支那人や朝鮮人に殺された日本人を悲しむより、日本軍によって殺された支那朝鮮の人民に親近感を覚える。黒人との混血児はもっと強い反発をもつ。幼い頃から異国人・異人種と扱われるので、日本社会で疎外感を一生持つことになる。日本人の血統より、アフリカ黒人の血が強烈で、日本の過去を身近に感じられない。鏡に映る自分と日本史上の人物が似ていないからだろう。しかも、黒人を日本人が心の底で忌避しているから、余計に日本人が敵対者に思えてくるのだ。

  普通の日本人はアジア・アフリカの混血児に対して本音を言わない。実は本音を公言する者より、ずっと異人種侮蔑者である。彼らに親切な振りをする日本人は、心の底に堆積する嫌悪感を必死で押さえつけているからだ。混血児にとってはあからさまな外人排斥論者より、友人を演じる者が不注意に出してしまう、ちょっとした偏見や侮蔑に傷つくものだ。たとえ僅かな拒絶反応でも、それは高濃度の侮辱と感じられる。この世は四角四面にできていても、角が立たないように丸く収めることが大人の智慧だろう。異人種・異民族が仲良く一緒に住むなど幻想だ。それぞれが離れて暮らす方がよっぱど平和。朝鮮人は日本に住んで物質的豊かさを持てた。しかし、朝鮮人としての誇りは無いだろう。親切心で言うが、負け惜しみと誇りは違うぞ、朝鮮人。在日朝鮮人は、心の底で劣等民族の自覚があるので、何かと性格が歪んでしまう。親を呪うことができないから、日本人を逆恨みして、生きる原動力とする。南鮮に戻っても同胞から歓迎されない在日鮮人は無国籍人間であろう。

  昔、赤線のパンパン(売春婦)が黒人兵の子を身ごもって堕胎したのは倫理的に悪かもしれない。だが、その子が不憫な人生を送るなら、生まれぬ方が良いと判断してのことだった。堕胎は殺人かもしれぬが、現実を直視した親の愛情だった。自分の子供だから、その将来を不憫に思うのだ。だだ生きるのではなく、如何に生きるかを考えていた日本人には、キリスト教徒とは違った価値観を持っていた。アフリカ人やアジア人とセックスするのは、個人の日本人が持つ自由だろう。しかし、生まれた混血児の不幸を代理で背負えるのか? もし、「母ちゃん、どうして黒人じゃなく、白人と結婚しなかったの?」と責められたら答えられまい。 困った日本人の親は、その子の黒い遺伝子を抜くことができるのか? 黒人としての幼少期を送ったことのない日本人の親は、セックスして妊娠するまで実感できない。こうした親は、次第に自分の同胞を敵とみなし、子供と一緒に呪うだろう。こうした意見を排斥する日本人は、どんどんアジア人やアフリカ人と結婚して、混血児を持てばよい。だが、辛い人生を送るのは親ではなく、選択権のなかった子供である。「後悔先に立たず」との戒めを忘れる人間は、高い代償を払うことになるのだ。

 


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