感覚が異なる高校教師

  千葉県船橋市にある県立薬園台(やくえんだい)高校で、野良猫が産んだ仔猫五匹か生き埋めにされたそうだ。殺してしまったのは、同校に勤務する教師だったそうで、生徒三人に穴を掘るよう命じた後、自分で仔猫を埋めたらしい。生徒の親が学校に通報して事件が発覚したという。(産経新聞平成27年3月23日) 仔猫を生き埋めにしたのは、処分に困り一人で解決したかったからという。本人としてはこんなに大事件になるとは思っていなかったのかもしれない。彼が知っている田舎では、猫を埋めて殺す慣習があったから、今回それを思い出して埋めてしまったのではないか。それに、保健所に引き取ってもらっても、いずれ殺処分だから自分でやってしまおうと考えたのか。彼が真相を語るかどうか疑問だ。いずれにせよ、この教員はさほど残酷な行為とは思っていなかったに違いない。

  マスコミは今回のゾッとする事件を、教師としてあるまじき行為として取り上げ、ショックをうけた生徒がいると報道していた。テレビ番組では例の尾木直樹という教育評論家が、「トラウマ(心的傷害)」を受けた生徒にカウンセラーをつけろ、とコメントしていた。何でいちいち精神科の専門家を呼ばねばならないのか? 高校の校長や担任教師が、「生き埋めは可愛そうだから、やってはダメだよ」と諭(さと)せば充分じゃないか。哀しい思いをした生徒はいるだろうが、二三日経てば元気になるさ。それに、高校生も野良猫や野良犬をどうすべきか、考える機会を得たと思えばいいじゃないか。世の中には残酷なことが身近で起こるものだ。保健所にはたくさんのペットが持ち込まれ、職員が嫌な思いをしながら殺している。ブリーダーの中には、仔犬や仔猫を札束としか見ていない業者がいて、売れ残りを冷酷に殺しているのだ。おそらく生き埋めにした教師は、猫に特別な感情を持たず、厄介な生き物くらいに考えていたのだろう。猫好きな者からすれば、言語道断の行為でも、無感情の者にとっては、害虫みたいなもんだ。しかし、他の教員に相談しないで殺してしまうとは、この教師の常識はどうなっているのか? 直ぐに生き埋めにしようと考える、その発想が怖い。採用試験には人格検査がないのだろう。

  こんな冷淡な意見を述べる筆者だが、じつは愛猫家であるし、以前は猫を一匹飼っていた。自分のペット自慢はしたくないので、ちょっと躊躇(ためら)いがある。簡単に述べると、飼っていたのはアメリカン・ショート・ヘアの雑種で、「サムエル(愛称サムちゃん)」と名づけていた。17年も生きて3年ほど前に亡くなったのだが、いつも一緒に暮らしていたので、いわば書斎の相棒といったところ。猫を飼うと他人の猫まで可愛く思えるから、野良猫の子であっても、生き埋めにしようとは絶対思わない。仔猫を殺した高校教師は、ペットを飼ったことがないんじゃないか。幼い時でも犬や兎を飼ったことがあれば、小さな動物を即座に抹殺しようとは考えないだろう。仔猫に対して同情(sympathy)が無かったのかもしれない。

他人に共感する能力

  英語で「哀れみ」をさす言葉は「pity」で、不幸な者を見て「可愛そう」とか「気の毒」に思うことを指す。ルネッサンス期の巨匠ミケランジェロが、磔(はりつけ)にされて死んだイエズスを抱きかかえるマリア像は有名で、「ピエタ(pietās)」と称される。無惨に殺された我が子をいたわる母の悲しみを表現した彫刻だ。聖母マリアが我が子に“憐憫の情(ピエタ)”を抱く姿は誰でも分かる。死んだ子を実際に抱かなくても、その悲しみを類推し、自分が経験した悲しみと適合させるのだ。よく誰かに向かって、「他人(ひと)の気持ちが分からないのか」と怒る人がいるが、怒られた者には同類の感情が保有されていないのだろう。以前とんでもない事件があった。ある支那の街で、路上に幼児が倒れていたが、通行人の誰も助けようとせず、その子は車に轢かれてしまった。日本人なら直ぐに助けに行くだろう。支那人には他人を助けるという感情が湧かないのだ。人間が倒れてい苦しんでいることを理解できても、その人が味わう感情を自分の中で探し出して、共感することをしないのだ。ただし、その子が高級腕時計を所持していれば、抱きかかえて介護する振りをするだろう。しかし、その腕時計は親切な支那人のポケットに入ってしまう。「親切」とか「同情」という言葉は、支那人の辞書にない。ただし、「詐欺師入門」とか「お金持ちになる秘訣」といった本になら載っている。

  人間には他者に対する様々な感情がある。誰でも利己主義(egoism)なら持っているし、それを追求し押し通すことも簡単だ。しかし、他人の利益のために動くこと「利他主義(altruism)」となれば、少々難しくなる。利他主義とは、他者の利益を促進するために、心理的あるいは肉体的に自らを用いる傾向とか行動である。(Pathological Altruism, eds.by Barbara Oakely, Ariel Knafo, Guruprasad Madhavan, and David Sloan Wilson, Oxford University Press, 2012, p.4, p.11) 要するに、他人のため一肌脱ごうとする行いだ。極端なものだと、自分の命に代えて他人の命を助けることである。軍人が利他主義の体現者であろう。危険な戦場に自ら赴き、同胞を守ろうとする自己犠牲の精神は尊い。自国の女子供が敵によって凌辱されたり、虐殺されるのは忍びがたいので、死んでも彼らを守りたいと命がけで戦うのだ。神風特攻隊は究極的な利他主義であった。

  我々には他人のために何かしたいという本能が備わっているのかもしれない。他人の苦痛に共感し、何かしてあげようと思う。困っている人がいたら助けてあげようとする心理だ。友人や家族なら、その傾向はもっと強くなる。大人だとひと目を気にするし、何とかできる能力を持つから、人助けをしやすい。ところが、無力な赤ん坊やよちよち歩きの幼児でも、他者のために何かしようとする。どうやら生得意識があるらしい。たとえば、新生児に他の赤ん坊が泣いている録音テープを聞かせると、その新生児は泣き始める。赤ん坊でも他の赤ん坊がぐずっていたり悲しんでいたりすると、それに共感して同じ行動を取るという。病院で一人が泣くと次々と他の赤ん坊が泣くのはこのせいかもしれない。それに幼児は他の幼児に興味津々だ。集団で暮らすための能力が本質的に備わっているんじゃないか。

  これが赤ん坊ではなく、少し歩けるようになった乳幼児だと、もっと顕著に人助けを始めるという。18ヶ月の幼児ジュリーをもつある母親の体験談がある。彼女は近所の人に赤ん坊のブライアンを見てくれと頼まれたそうだ。預けた母親が去ると、ブライアンは泣き始めた。まぁ、当然だ。そこでぐずる赤ん坊をあやそうと、高い椅子に置いたり、クッキーを与えようとした。ブライアンが泣き出すと、娘のジュリーが驚き、心配し始めた。彼女は固くなり、その赤ん坊を覗き込み、手をさしのべようとした。ブライアンはクッキーを投げ捨てたが、ジュリーハそれを戻してやった。彼女の母親はそれを見て驚いた。普段のジュリーはクッキーをみな食べてしまうからだ。ジュリーはクッキーを皿に戻すと、上目遣いで唇を噛みしめ、赤ん坊の周りをグルグル回っていたという。哀しそうな表情を示して、母親の方を見ていた。母親はブライアンを遊び用の柵に置いたが、泣き止まない。ジュリーは柵に近づき、赤ん坊の方をさすってやったり、その子の髪を撫でてやったりしたという。ジュリーは鳥の鳴き声を真似てブライアンをなだめようとしたらしい。不安になったジュリーは、台所にいた母親のもとにやって来て、彼女の手を引いて居間に連れ出した。そして母親の手を取ったジュリーは、その手をブライアンの頭に置いたという。(Pathological Altruism, p331)

  言葉が喋れない幼児でも、泣いている赤ん坊を何とか助けてやりたいと思っての行動なのだろう。大人になると様々な意識や悪知恵が身につくから、子供のような気持ちは持てないのかもしれない。とくに現在の我々は同胞を見殺しにしている。北朝鮮に拉致された日本人を何が何でも救おうとは考えない。考えるのも面倒だし、自分の家族でもない。それに、軍事行動を取ったら、自分に何か不利益や危害が及ぶのでは、と推測してしまう。だから、解決策を政府に丸投げ。後は知らぬ振りを決め込む。拉致被害者家族が涙ながらに訴えても、軍隊の出動を国民は選ばない。自分の家族が攫われたわけではないからだ。同情の言葉を寄せても、軍隊による救出作戦には及び腰。敗戦以前の日本人なら持っていた、同胞への感情を現在の我々は持っていないのだ。さらに酷いことが予想される。拉致被害者が死に絶えれば、問題解決となり、戦後賠償と呼ばぬ巨額の経済援助を北朝鮮に貢ぐだろう。同胞のために復讐するより、賠償援助で一儲けしようとする日本人が出てくるのは、今からでも予想できる。

瞑想できる人間

  猫を飼っている人には分かるだろうが、猫は気ままなくせに主人になつき、おねだりするのに主人に冷たい時がある。しかも、趣味というか好みにうるさい。筆者の飼い猫サムちゃんは、海苔が大好物だったが、安い海苔には完全無視。目の前に置いてもスンとも動かない。しかし、パリパリの黒い高級海苔だと、そのパリっとした音を聞きつけて、一目散にやって来る。お坐りして、筆者の膝に前足をちょこんと載せて、「ちょうだい」のポーズをとる。ちゃっかりしたものだ。犬と同じく猫は絶対音感がある。筆者が呼ぶとすぐ近寄ってくるが、他人が物まねた声では飛んでこない。聴覚が鋭く、記憶力も抜群。人間だと似ている声だから騙されるが、猫は騙されないのだ。「オレオレ詐欺」に引っかかる人間は、音声の識別能力が劣っているのだろう。類推能力が発達しているぶん、ちょっと変な声でも本人のものと錯覚してしまうからだ。猫は推測しないというか、そもそもできない。もしも、猫が受話器を取ったら、詐欺師に向かって「ニャめんなよ」と言うだろう。違う声には反応しないのだ。猫の聴力は優れているから、仰向けになって昼寝していても、床に皿やフォークを落とすと、急にビクっとする。相当大きな衝撃音なのだろう。うちのサムちやんは落雷に怯えていた。空爆みたいに聞こえていたのではないか。

  日向で寝ている猫を眺めていると、実に心がなごむ。しかし、我々は動物のある特性に気付く。猫ばかりではないが、動物はいつも周囲のあらゆる気配に聞き耳を立てている。絶えず注意を払い、危険を察知すれば、すぐ反射的に逃げようとする。動物は常に恐怖の世界に生きており、周囲の環境に操られながら生活している。スペインの有名な哲学者ホセ・オルテガ(José Ortega Y Gasset)は言う。「動物は自己の存在を律しもしなければ、自分から生きるのでもなく、つねに自分以外の他者に注意しているのだ。」(オルテガ 『個人と社会』 A.マタイス/佐々木孝 訳  白水社 1989 p.24) ところが、人間は周囲の世界や刺戟から抜け出し、それを無視することが出来る。すなわち、外部の世界から自分自身の中に没頭することができるのだ。目を閉じて、自己に沈潜する(ensimismarse)ことができる。動物は純粋の自己疎外である。自己に沈潜することができない。(p.27) 我々が瞑想(meditation)できるというのは、特殊なな能力である。座禅を組んで「無」の境地に至ることは、他の動物には不可能だ。人間が技術をもち、自分の都合にあわせて、外界を変形させることができるのは、自分自身の中に沈むことができるからだ。こうして内部世界を構築し、再び外部世界に戻ってゆく。そして以前にはもっていなかった自分をもつのである。ちょっと難しくなったが、我々が創作活動できるのも、自分の内面に引きこもり、考えを纏めることができるからだ。猫が猫のマンガを書いたり、来月ピクニックに行こうかな、と計画を立てない。寝たい時に寝るし、お腹(なか)が減ったら、餌をねだるだけ。だから、猫は自由気ままでいいなぁ、と人間はつい思ってしまう。

  最近、猫を特集したテレビ番組を偶然みた。日本人はどうも猫好きらしい。番組の街頭インタヴューを受けたあるカナダ人が言っていた。日本だと猫のキャラクター商品やデザインが多いらしい。ハロー・キティーやドラえもん、妖怪ウォッチがそうだ。その他、日本のアニメでも猫のキャラクターが結構ある。たとえば、サザエさんの家で飼われている「たま」が昔から有名だ。今だと「ドラゴンボール」の「カリン様」かなあ。それに、「クロネコヤマト」という宅配業者もあれば、「猫侍」というコメディー風時代劇まである。猫なのに人間みたいに描かれるアニメもある。「じゃりン子チエ」の小鉄がそうだし、「宇宙戦艦ヤマト」だと、軍医の佐渡酒造の猫が思い浮かぶ。佐渡先生と一緒にお酒を飲む猫って、いかにも日本らしい設定である。原作者の松本零士は、赤塚不二夫と同じく、猫好きだったのだろう。世間ではあまり知られていないが、「サムライ・ミーくん」というマンガまでかいていたのだ。日本ならではのアニメといったら、「猫ラーメン」だろう。「大将」と呼ばれる主人公の猫は、当初すし職人を目指していたが、シャリを握ると毛だらけになるので、ラーメンを作るようになったという。アメリカのディズニーでは考えられないアニメ作品である。アメリカ人の子供向けアニメはとにかくつまらない。繊細さと遊び心、それに「かわいらしさ」に欠けるのだ。

  最後に、飼い猫のサムちゃんの晩年についてちょっと。高齢猫で腎臓が異常になったので、死ぬ数日前は、衰弱がひどかった。餌を食べられなくなったので、動物病院に連れて行き、点滴を打ってもらった。サムちゃんの前足に獣医が針を刺して、点滴が終わるまでそこを抑えるよう言われたので、筆者は30分くらいサムちゃんの前足を握っていた。初めての点滴である。緊張したサムはじっとしていたが、少し楽になったように見えた。するとサムちゃんの目から一筋の涙が流れた。この涙は本当につらい。こちらの目頭も熱くなってしまった。生まれたての頃から見てきたサムちゃんが初めて泣いたのだ。自宅に連れ帰っても、ずうっとぐったりして、息が荒くつらそうだった。命の炎が消えかかっている。それから三日後の朝、サムちゃんは息を引き取っていた。そっと抱き上げると、いつもの暖かい体が冷たくなっていた。筆者は「つらかったね。もうだいじょうぶだから。今までありがとうな」としか言えなかった。




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