日本は軍国主義国ではなかった

  今に生きる日本人の軍事音痴は深刻で、病膏肓(やまいこうこう)に入る、といったところか。なにせ国防軍と聞いただけで、「軍国主義の復活だ、恐い」と考えてしまうほど、短絡的思考が染みついている。大東亜戦争の時に“軍国主義者”はいなかった、なんて発言したら、欧米人だけでなく日本人も、「馬鹿なこと言うな」と反論するだろう。共産主義者によって執筆された歴史教科書は、しつこく軍国主義の大日本帝国を非難しているではないか、と。それでは、誰が「軍国主義者」だったのか? まぁ、たいていの日本人は陸軍大将で首相になった東條英機を挙げるだろう。しかし、東條首相は対米開戦にあたり、綿密な戦争計画を天皇陛下に上奏したのか? そんなことない。具体的な作戦計画や軍需物資の生産や資源の確保などを、昭和天皇に提示できなかったのである。まさか陛下の御下問に嘘はつけない。天子様の龍顔(りゅうがん/ご尊顔)を直視して、適当なごまかしをする度胸などないし、実直な東條大将は几帳面な性格だったから絶対に無理。重臣会議でも自信をもって対米戦争を主張できる者がいなかったのだ。

東條英機(左/東條英機)
  対米開戦にやる気満々だった一部の赤い海軍将校を別にすれば、帝國海軍の重臣もションボリしていた。高松宮殿下が日米開戦決議の最終段階になって、海軍は未だ自信がなく開戦には反対である旨を、昭和天皇に伝えたくらいだ。これをお聞きになった陛下は、直ちに嶋田海軍大臣と永野軍令部総長とを召されて、海軍の真意を尋ねられたという。(重光葵 『昭和の動乱』 下巻 中公文庫 2001年 p.147) 敗戦後、参謀総長を兼任した東條大将は、総理大臣が軍の統帥権すら持たない日本が勝てるわけないだろう、と懐述していたのだ。(p.152) 陸軍と海軍が反目し、首相が最高司令官として機能しない日本など、どこが軍国主義国なのかと逆に問いたい。肝心な戦争計画を作成せず、陸海軍の統率もとれていない、そもそも勝算が立たなかったのに、御前会議の雰囲気でなんとなく開戦が決まってしまったのだ。こんなんじゃ、昭和天皇がお気の毒。敗戦は最初から予定通りじゃないか。だから共産主義者は大喜び。敗戦をキッカケに共産主義時代の到来を期待した。軍人が威張っていたから軍国主義なんて理屈は日本国内でしか通用しない。日本人は帝国主義(imperialism)時代の植民地獲得競争と軍国主義(militarism)をごちゃ混ぜにしているのだろう。アルフレート・ファークツ(Alfred Vagts)曰く、

  このミリタリズムという非難の言葉は、平和をおびやかし、また平和的な国家をしてそのあとを追わしめるような、不釣合いな軍備を創出した国々に投げかけられたものである。( 『ミリタリズムの歴史』 望田幸男 訳 福村出版 1994年 p.4)

  日本人、特に日教組の教師や左翼系インテリが思い描く「ミリタリズム」は、軍人が他国を侵略したり、無闇に戦争拡大を計るような行動であろう。ちょっと付け加えれば、戦争を簡単に決めるのはどちらかというと、国内の安全地帯に盤踞(ばんきょ)する軍“官僚”の方であり、前線で戦う“たたき上げの”士官や兵卒ではない。現場の軍人は命が懸かっているから真剣に戦争を考えるものだ。ファーツクによれば、

  ミリタリズムは戦争への愛好以上のものであり、ときにはそれ以下のものである。ミリタリズムは、一般市民生活の慣習よりも軍事的な制度・慣習を高く位置づけ、また行動や決断にあたって軍人的な精神と方式を文民の領域へ浸透させる、そのような思考・価値評価・感情の混合物のいっさいの方式を包含している。(p.7)

  戦争は外政(diplomacy)の手段であり、戦うこと自体が目的ではない。戦争目的を達成するために軍隊を用いるのである。だから、軍人よりも文民の首相が優位の権能(civilian supremacy)を持たねばならぬのだ。昭和の悲劇は明治と違って、政治家がしっかりと軍隊を統括しなかったことにある。その点、明治の政治家は武士であったから、軍人と気脈を通じていたし、高級将校だって政治家と区別がつかぬ人物が多かった。陸軍の大御所たる山縣有朋(やまがたありとも)は、伊藤博文に引け目があった。高杉晋作創設の奇兵隊に加わり、力士隊を率いたのが俊輔(しゅんすけ)、すなわち若き日の伊藤首相で、山縣(狂介/きょうすけ)は時期尚早として蹶起(けっき)しなかった。こんな過去があるから、山縣は伊藤に頭が上がらなかったんじゃないか。文官の総理であっても軍隊のことに介入できたし、勲章を佩用(はいよう)する歴戦の将軍を前にしても堂々としていた。日清戦争で偉大な功績を残した田村怡與造(いよぞう)が活躍できたのも、こうした輔弼(政府)と輔翼(軍部)がうまく連動していたからである。

偉大な恩師に恵まれた少年

武田信玄(左/武田信玄)
  陸軍参謀本部の重鎮たる川上操六(かわかみそうろく)が、戦国武将の武田信玄にちなんで「今信玄(いましんげん)」と呼んだ田村怡與造とはどんな人物なのか? 怡與造のは甲斐(かい/山梨)の生まれだが、その祖先は、東国武士団のひとつ武蔵七党の西党に属する田村三郎弘綱である。七党とは横山、猪俣、児玉、など七つの武士団を指し、「党」とは500人の武士を意味したようだ。西党は大和朝廷時代に遡る古い武士団で、室町末期に武蔵から甲斐に移ったという。田村備後守光綱は武田信虎に仕え、武田氏滅亡後に德川家の臣下となった。それ以降、田村家の当主は神官として生きるとこになるのだが、田村家は苗字帯刀を許された士族である。明治から昭和にかけて武門の田村家からは、怡與造とその弟で六男の沖之甫(おきのすけ)と七男の守衛(もりえ)、そして甥の田村義富(よしとみ)が輩出され、四人とも中将になっている。もし、彼らが長寿だったら全員大将になっていたかも知れない。

  東山梨郡という土地は甲斐武田の血統を受けているせいか、気性の剛情さも随一で、人と議論をして白熱すると刀を掴むことがあったようだ。15、6歳になった頃の怡與造にも、こうした気風が影響していたらしい。理由は定かではないが、怡與造は古屋塾で刃傷沙汰(にんじょうざた)を起こしてしまう。伴野某という者と道徳問題で激論を交わしたところ、激怒した怡與造は短刀を抜いて伴野を斬りつけてしまった。負傷した伴野は治療を受けたが、数日後息を引き取ってしまったのである。人を危(あや)めてしまった怡與造はそのまま甲府に逃れ、山間部に潜伏したらしい。怡與造は正当防衛だと思っていたが、もしこれを咎(とが)められて刑に服することになれば、一生を棒に振ることになる。そこで、義気に富む人に相談してから身を処することに決めた。そこで思いついたのが、八反田村の武藤外記(むとう・げき)である。外記は頼ってきた怡與造から事情を聞き、その英邁さを惜しんだので何とか助けたいと思ったそうだ。田村家と同様、神職であった伴野家も、傑出した神官の外記が示す熱意に同意せざるを得なくなり、万事を外記に任せることとなった。外記は前途有望な少年を刑に処するより、国家のために貢献させるよう説いたらしい。「お国のため」といって納得する伴野家も立派である。明治にはこうした日本人が多かった。怡與造ばかりか、彼の両親も外記の仲介にいたく感謝したという。(『近世名将言行録』 第四巻 吉川弘文堂 昭和10年 pp.116-117)

田村怡與造(左表紙/田村怡與造)
  外記に救ってもらった怡與造は文武両道に励み、知力体力の面でかなり進歩したようだ。そんな中、討伐軍を率いた板垣退助が、甲斐に進軍してきた時のことだ。勤王家の外記は板垣に呼応し、官軍の前途について協議をし、その帰宅途中、佐幕派に襲われて暗殺されてしまった。山中の森林で起こった暗殺を聞きつけるやいなや、怡與造は遙か彼方の現場に駆けつけ、恩師の遺体を守ったという。木樵も(きこり)も通らぬ山奥で、遺体が狼にでも喰われたら大変だ。まだ雪が残る山中で検視官が到着するまでの二昼夜、断食のままで恩師の側に附いていたという。ようやく検死が終わって遺体を埋葬できたというが、怡與造の行為は実に見あげたものだった。附近や周囲の者は怡與造の尋常ならざる性格を再認識し、その美談を大いに称賛したそうだ。

  偉人の人格形成や出世の裏には、よく偉大なる師が存在するものだ。吉田松陰には佐久間象山(ぞうざん)、福澤諭吉には緒方洪庵(こうあん)がいたように。陸軍士官学校に進んだ怡與造は、参謀科で騎兵や砲兵、工兵について教えていた小坂千尋(こさかちひろ)という大尉と出逢った。参謀科将校であった小坂は、フランスのサンシール陸軍士官学校で学んだ逸材である。乙女のような白い顔に長身の小坂大尉は、物腰が優美でありながら、剣術にも優れ、子供の頃は合戦遊びで抜群の勇気を示したそうだ。読書家でもあった小坂は、おもに兵書を好んだという。山縣有朋の夫人によれば、小坂がやって来ると家の女中たちが大騒ぎになり、不平不満が出ぬよう、お茶を出す順番が決まっていたという。いやぁ~、色男はもてる。眠狂四郎の明治版かなぁ。フランスで参謀について学んだ小坂だが、普仏戦争でドイツが見せた国力を思い出し、怡與造にドイツ留学を勧めたという。怡與造の才能を見抜いていた小坂は、上層部の山縣有朋や桂太郎に、怡與造が将来の参謀本部に貢献する人材になる、と紹介していたらしい。小坂の尽力で怡與造はドイツ留学ができたという。

兵站を重視した今信玄

  日清戦争で我が軍が清朝支那を相手に大勝したのは、日本軍人の優秀性もさることながら、後方支援が整備され円滑に機能していたからである。実際の戦争では部隊の輸送や武器・弾薬・食糧の供給が不可欠で、それが不備だと戦を継続できない。戦場での奮闘は華々しいから、どうしても一般人の耳目はそちらへ注がれてしまう。末は陸軍大将か海軍提督か、と夢見る少年なら、師団または艦隊を率いる将軍になりたいと思って当然。だって花形だもの。『ベルセルク』のガッツみたいに、敵を剣でなぎ倒したい。しかし、実戦では兵站(へいたん)部門がとりわけ重要となる。戦場の後方にて、軍需物資を輸送し、前線で戦う部隊に供給するのだ。田村怡與造はドイツ留学後、参謀本部第一局勤務の歩兵少佐になり、「野外要務令」の制定に取り組んだのである。この中身を大まかに言えば、戦闘序列、軍隊区分、警戒勤務、捜索行動、行軍、宿営、弾薬供給、補給物資輸送といったところ。怡與造は軍隊運営の基本原則を整備したのである。当時の日本では、軍の命令伝達だって統一されていなかったのだ。平時ならともかく、有事において命令は簡潔明瞭が肝要。修辞語を使ってごちゃごちゃ言うより、要点だけをはっきり口にすれば、相手も間違えずに了解するだろう。ベルリン陸軍大学で熱心に講義を聞いていた怡與造は、命令が簡約を旨とすることを知っていた。(篠原昌人 『知謀の人 田村怡与造』 光人社 1997年 pp.71-72)

  余談だが、明治になって始めて統一日本語、つまり標準語の必要性が理解され、山の手ことばを基にした標準語が発明されたのはよく知られている。明治初めだとまだお国なまりが抜けていなかったから、薩摩弁や名古屋弁、会津弁、津軽弁がごちゃ混ぜだと、命令を受けた者が間違って伝えてしまう。宴会で薩摩藩士と津軽藩士がベロヘロに酔っ払って喧嘩にでもなったら、仲裁役の人間も困ってしまう。何言ってるのか分からない。以前、『坂の上の雲』のドラマ化で、薩摩弁をセリフにしようとする話が持ち上がったらしい。しかし、出演者の坂上二郎さんが「やめておけ」と忠告したので実現されなかったという。鹿児島出身の二郎さんは、東京の視聴者が理解不可能となることを分かっていたのだ。確かに、鹿児島の老人が喋ったら何のことやら判別不能となってしまう。筆者も津軽弁の人と電話で話したことがあるが、相手を推測しながらの会話であった。江戸時代は方言で各地がバラバラであったという。

  狭い日本でこんな有様だから、大陸に住む支那人だと、北京や上海、広東、四川などの出身者が集まると、アヒルの大合唱で会話すら成立しない。支那人とは漢字を目で読んで意思疎通をはかる異種混淆民族である。現在でも国民国家ではないし、家族以外は外国人というのが支那の常識。川で豚と人間が溺れてていれば、値段の高い豚の方を助ける。支那人には以心伝心は理解不可能。軍隊内で命令があっても、自分の利益を優先するというから、命令が絶対と思うのは、欧米と日本くらいなものである。話せば分かるとか、心のふれあい、なんて呑気なことを言う支那人は絶対いない。しかも、相手の気持ちを察するなんて無理。あるアメリカ人の偉いビジネスマン数名が支那の工場を見学した際、支那人通訳が「お静かに」と言うところを支那語から直訳して「はい、みんな口を閉じろ(Everybody. Shut your mouth ! )」と英語で命令してしまった。支那人の小娘から「黙れ」と言われた重役のアメリカ人は、驚いて目を剝いたという。支那人通訳は無礼に気づかなかったらしい。筆者は知人からこの話を聞いた時、つい笑ってしまったが、「さもありなん」と思った。ぶっきらぼうな支那人らしいじゃないか。でも、支那語は命令に適した言葉みたいだ。

Helmuth von Moltke 1(左/ヘルムート・フォン・モルトケ)
  怡與造の功績で忘れてはならぬのが、国内に於ける鉄道網の敷設である。ドイツの電撃作戦でも分かるように、兵隊や物資を迅速に輸送できる鉄道を整備することは、非常に重要な課題であった。清国との戦争を予期していた怡與造は、鉄道を国内に張り巡らせると共に、港湾の建設に着手して船舶による物流を確かなものにした。ドイツに留学した怡與造が名参謀総長ヘルムート・フォン・モルトケ(Helmuth Karl Bernhard von Moltke)を手本にしたことは確かだ。コペンハーゲンの王立陸軍幼年学校に在籍していた頃、モルトケは兵学より文学が得意な少年であったため、教官らはまさか後に大戦略家になるとは思わなかったという。モルトケが異彩を放つのは、ドイツに一本もレールが敷かれていないうちから、鉄道の研究を始めていたのだ。(ハジョウ・ホルボーン「戦略のプロイセン・ドイツ学派」 ピーター・パレット編 『現代戦略思想の系譜』 ダイヤモンド社 1989年p.255) 彼は鉄道の将来を確信していたようで、1840年代初期には貯蓄をはたいて、ハンブルク鉄道の株を購入したらしい。1841年から44年にかけて鉄道に関する論文も多く執筆していたという。それに、彼の花嫁は遠いホルシュタインにいたから、その距離を縮めたいという希望もあったらしい。鉄道は新たな可能性を秘めており、新時代の部隊は、ナポレオンの軍隊より六倍も速く移動できたという。高度に発達した鉄道網を持つ国家は、戦争において決定的な優位を獲得したのだ。

田健治郎田英夫菅直人 2千葉景子








(左:田健治郎/田英夫/菅直人/右:千葉景子)

  鉄道と補完関係にあるのが通信である。怡與造は情報の伝達手段である電信線の敷設にも努力した。川上操六が通信局長の田健治郎(でん・けんじろう)を訪ね、東京・下関間や釜山・京城間の直通電信の敷設、それと鴨緑江付近に海底電線を敷設するため、作業を急ぐよう求めた。川上の存在は怡與造にとって計り知れないほど大きい。ちなみに田健治郎は台湾総督を務めた軍人で、あの社民党議員だった田英夫(でん・ひでお)の祖父である。田はTBSのキャスターを辞めて、社会党から出馬した参議院議員である。北鮮工作員の辛光洙(シンガンス)の保釈を求めて署名活動した国賊である。菅直人や千葉景子と同類の極左であった田は、もちろん国旗・国歌法にも反対した。こんな反日議員に勲一等旭日大綬章を与える我が国は精神異常の極みである。大勲位の中曾根康弘も、隠れ国賊だから勲章を禠奪(ちだつ)すべきだ。産経や読売新聞で憲法改正派と見なされているが、改悪を狙っているアジア主義者である。保守派は騙されてはuらない。

実戦のための準備

  野外要務令について検討した怡與造の改良点を一つ述べてみよう。従来、歩兵がもつ小銃の弾薬補給は、弾薬大隊の兵卒が駄馬の所在地に赴き、弾薬を受領して隊に戻ってくるものだった。銃の弾薬は箱の中にバラのまま入っており、馬の背に三箱積まれて運ばれる。1箱500発入りで、重さは約30キログラム(約8貫目)であった。このような駄馬を戦闘地域の後方に置いておき、前線の兵卒2名がやって来て、1箱ずつ運び、戦線で開いて分配していたのだ。戦闘地域と駄馬の間は800メートルを超えないこと、とされていた。怡與造はこの欠点に気づき、改善策を提唱したのだ。重い荷物を運ぶ途中、兵が弾に当たれば到着が遅くなるし、また無事に戦線に帰ってきても、そこで箱を開けるのでは時間がかかる。しかも、空箱は駄馬の所まで戻さねばならない。人と時間の無駄が生じる。

  そこで、1頭の駄馬には2箱の弾薬箱を積み、1箱には800発の弾薬を入れ、200発ずつ結束したものを4束入れておく。兵卒は箱を駄馬から卸(おろ)すことなく、その場で開けて、1人が2束を持って戦線に向かう。馬は空箱を積んだまま、弾薬中隊に戻る。このように1頭に3箱乗せるより、2箱乗せる馬の方が、補給の回転が速くなる。その反面、1頭につき2箱では重量が約45キログラムにまで増えてしまう。結局、怡與造の改善策が採用され、1箱の弾薬は結束のまま取り出し、兵卒2名が搬送すると改められた。(篠原 上掲書 pp.106-107) こうした細かく地味な改良を積み上げることで、戦闘の効率を着実に上げていったのである。清朝の支那政治家や軍司令官はこんなこと少しも考えなかった。支那人指導者というのは、部下に命令するだけで、現場がどうなるのかを考慮しない。そもそも関心が無かった。お金を出して外国から最新兵器を買えば戦争に勝てると思っていたのだ。

  日清戦争は我が国初の大規模な対外戦争であった。日本海を渡って朝鮮半島に上陸した日本軍は、怡與造が心配した軍の兵站・補給に問題が生じ、一時的に行軍の速度が落ちたのだ。京城龍山の第五師団の兵站参謀長であった竹内正策(たけうち・せいさく)中佐は、川上操六兵站総監へ電報を送った。軍需物資を輸送するに当たって、朝鮮人夫と駄馬が十分確保できず、食糧輸送に支障が生じたというのだ。第五師団の糧秣(りょうまつ/人の食物と馬のまぐさ)運送は、輜重(しちょう)兵第五大隊が受け持っていたのだが、この大隊には糧食1中隊(縦列)しかなかった。本来3個中隊あるはずが、当初動員されたのは1個中隊のみであったらしい。それに、現場で物資を運ぶのは輸卒(ゆそつ)と軍夫(ぐんぷ)である。国内の土建会社に頼んだが、なにせ無法者の集まりだったから、統率に手を焼いたという。

  ここでちょっと軍隊の構成について述べたい。戦後の日教組教育を受けた世代は、軍隊のことがさっぱり分からなくなっている。筆者も驚きの体験がある。まだ大学生だった頃、ある有名大学英文科の優秀な女学生と、娯楽映画について会話していたところ、この才女は軍の階級や軍制を知らなかった。たとえば、オリバー・ストーン監督の代表作『プラトゥーン(Platoon)』は、日本でも大ヒットし多くの観客を得た。この作品はストーン氏が従軍した時の小隊(platoon)をもとにして描かれた戦争映画である。英文科の秀才が、少尉か曹長が隊長となる1個小隊は、2個分隊(squad)から成ることを知らなかった。軍の階級だって上等兵(private)や伍長(corporal)、軍曹(Sergeant Major)とはどんなものか知らない。英国の人気シリーズ映画『007』で、ジェイムズ・ボントは海軍中佐(Royal Navy Commander)の諜報将校である。日本人観客でもボンドの階級を知らない者が多い。ちなみに、海軍の大佐(キャプテン/Captain)は、陸軍の大佐(Colonel)に相当するから、「海軍大尉」と訳するとややこしくなる。「陸軍大尉」と同等の階級と思ってしまうからだ。まあ、細かいことは知らなくても、戦争映画はアクションを楽しめればいいだけだ。でも、有名大学で英語小説を研究している優等生が、娯楽作品を理解する知識が無いとは、やはり日本の教育は間違っている。だって、時代劇の代官、与力、同心、岡っ引きを知らない国文科出身の視聴者がいたらおかしいだろう。

  読者には煩わしいかもしれないが、多少は軍隊について知識を持っていれば、外国に出て恥ずかしい思いをしなくなるので、参考までにちょっと。

班(Fireteam/or section)  2名から6名で構成される。機関銃や対戦車砲などを持っている。
        通常、士官学校や高等学校を出ていない下士官(Non-Commisioned Officer)によって率いられる。
        伍長や軍曹など。
分隊(Squad)   2個か3個の班で構成される。約8人から15人くらい。これも下士官がリーダーとなる。
小隊(Platoon) 3個から4個の分隊から成る。約30人から50人くらいの人数。
           下士官か少尉によって率いられる。
中隊(Company) 3個から4個小隊から成る。約100人から250人がいて、大尉か中尉が指揮官となる。
大隊(Battalion) 3個から5個中隊からなり、400人から1500人くらいで編成される。少佐か中佐が指揮を執る。
聯隊(Brigade)  3個から4個の大隊から編成され、1500人から2500人くらいの規模となる。
           中佐か大佐によって指揮される。
師団(Division)  3個か4個、あるいは幾つかの聯隊から構成され、だいたい1万から2万5千人の大所帯となる。
           少将が指揮を執る。
軍団(Corps)  幾つかの師団から編成され、2万から4万人くらいで、中将が指揮官となる場合が普通。

  話を戻す。怡與造は川上操六参謀長を訪ね、輜重(しちょう)の動きが鈍くなっていることを報告した。輜重とは弾薬や食糧、被服といった軍需品の総称。朝鮮半島を北上する我が軍の速度に、輜重兵が追いついていなかったである。運搬力は人、牛馬、車に頼っていた。輸卒不足を現地で調達しようとしたが、なんと平壌附近には人がいなかったのだ。先に入ってきた清国軍が酷使したため、朝鮮人が奥地に牛や馬と一緒に逃げてしまった。そこで仕方なく、朝鮮の役人に頼んで人夫を集めたのだが、またもや問題が持ち上がった。日本は銀本位制に基づき、重い銀貨を持っていったのだが、現地の朝鮮人には銀の価値が分からなかったのである。それもそうだ。金融制度なんか微塵も無く、貨幣を持っているのはごく僅かの者しかいないし、持っていても奪われないように地面に埋めてしまう。しかも、得体の知れぬ日本人からの硬化なんて信用しない。朝鮮人は国内通貨しか受け取らなかったのである。それで日本軍は現地通貨をかき集めねばならなかったという。もう、朝鮮というのはイライラする国である。

  賃金問題が解決したら、今度は道路問題が出てきた。事前の南鮮視察で分かっていたのだが、想像以上に道がぬかるんでいたのだ。平壌戦前後、司令部や兵站部、その他の部隊が糧秣運送に駆け回っていた。飲料水にも事欠いていたという。そりゃそうだ。朝鮮の生水なんか汚すぎて飲めない。また、朝鮮人問題が浮上した。車輌の使用で、朝鮮人はその使用法が分からない。しかも、車軸に油を塗らずに使うため、破損が多くなり、使い物にならなくなった車輌は、道端に放棄してあったらしい。また、運搬物は監督が行き届かず、紛失品が頻発し大変困ったという。朝鮮人の運搬人が途中でくすねたんじゃないか? 戦闘も重要だが、兵站も同様に大切なのだ。こんな状態だから、第五師団は補給が不安になった。そこで鴨緑江に近い耳湖浦という村に、小船を使って物資を上陸させたという。これでやっと我が軍は前進を開始できたらしい。(篠原 上掲書 pp.159-161)

川上操六大山巌児玉源太郎









(左:川上操六/中央:大山巌/右:児玉源太郎)

  日清戦争は我が国が勝った。終わってみれば、日本と支那の軍隊や国民の質が余りにも違っていたので、日本国民の中には支那兵は取るに足らぬものと見えた。しかし、怡與造の眼は既に強国ロシアに向いていた。偉大な川上操六が亡くなり、参謀総長の椅子に坐った大山巌(いわお)元帥は、藩閥に属さない45歳の怡與造に期待をかけていた。この57歳の元帥とまだ大佐にすぎぬ怡與造とでは、天と地ほどの階級格差があったが、両者とも同級生のような間柄である。なにせ怡與造ときたら、あの陸軍に君臨する権力者、山縣有朋の前でも胡座(あぐら)をかきながら、淡々と話をできるという豪放磊落(ごうほうらいらく)な性格だ。これは怡與造に限ったことでもないが、児玉源太郎だって大山元帥を「ガマ坊」と呼んでいたのだから、明治の軍人たちは大らかだった。(肥満体だった大山元帥は「ガマ蛙」と呼ばれていたそうだ。笑っちゃいけないが、言われてみればそう見える。)

  ロシアの動きを警戒していた怡與造は、ロシア軍の行動を監視するための人間を極東地域に派遣していた。怡與造は諜報網を組織する必要性を感じていたのである。あの有名な石光眞清(いしみつ・まきよ)も怡與造が語学研究という名目でシベリアに派遣した諜報員だった。怡與造自身もシベリア地方を調査していたという。(p.187) ただし、この旅行は秘密であったから公式記録には載っていない。怡與造はロシアによるシベリア鉄道の進捗度(しんちょくど)を確かめたかったのだ。ウラジオストックからハバロフスクの間は明治30年11月に開通し、チェリアビンスクからイルクーツクまでは明治32年1月に完成した。怡與造の観察したところによれば、ロシアの鉄道はまだ単線であり、列車の速度は時速24キロと推定される。その鉄道は広軌鉄道で日本より輸送力が大きいが、レールの構造が貧弱であることが分かった。レールが軽くて弱いため、車輌の重量に耐えられぬ部分があったらしい。また、レールを支える枕木の厚みが足りず、防腐処置もしていないため、所々で線路が陥没していたのだ。(p.189) この隠密視察から帰るとき、怡與造はロシアの地図や書籍を買い求め陸軍大学に寄贈したという。このような地道な調査と、具体的な事柄を観察することは、“実際”の戦争を遂行するときに多大な貢献をなすものだ。

  大東亜戦争を控えたボンクラ将校を見ていると、明治の軍人が如何に慎重で、“具体的に”戦争を考えていたことが分かる。明治36年4月に立花一郎少佐から(日露戦争のときに第4軍参謀副長)、ロシア軍が鴨緑江を渡り龍岩浦に現れ、河に橋を架け、堤防工事を始めたとの情報が入った。軍部もいよいよ対ロシア戦が迫ったことを認識し、6月には参謀本部会議か開かれた。そんな中、怡與造のもとに福田雅太郎少佐(日露戦争のとき第1軍参謀)が訪ねてきたのである。その当時、陸軍、海軍、外務省の有志が、新橋烏森の料亭湖月(こげつ)に集まって時局を論じており、福田少佐もその一人であった。部屋に通された福田少佐は、怡與造を前にして、湖月での様子を伝え、一日も早い戦闘を訴えたらしい。黙って聴いていた怡與造は福田に問いかけた。

  「では聞くが福田、日清の戦のとき、平壌攻撃で何発、弾を使ったか知っておるか」
  「はあ、とっさに言われましても記憶が・・・・」
  「榴弾680発、榴霰弾2,128発、小銃弾は、28万4千869発だ。お前はこれを多いとみるか、少ないとみるか」
  「平壌攻撃は、日清の役でも最大の戦いであります。消費弾量も、一会戦としては多かったと言わざるを得ません」
  「それは、もはや時代遅れだ。この弾の量など、おそらくロシア相手では小競り合い程度だ。湖月の土蔵では、弾の話はしなかったのか」

  福田の言い訳を退け、怡與造は持論を語る。

  「だから、ロシアと事を構えるとなれば、弾は何発用意すればよいのか。野砲は、山砲は何門持っていけばよいのか。わしの知りたいのはそこだ。湖月の寄り合いなど、茶飲み話の書生論に過ぎぬ」(p.210-211)

田中義一(左/田中義一)
  具体的な作戦を検討せずに、料亭で対ロシア戦に気勢を挙げる空論家など、本当に開戦となったら役に立たぬものだ。勇ましく出陣しても、食糧や武器の補給がなければ、軍隊は立ち往生してしまう。戦(いくさ)の本質を熟知する今信玄は、血気盛んな青年将校とは違うのだ。実際、怡與造は弾薬量、馬の頭数、一個師団の軍需品は何トンか、一個師団を輸送するには何両の列車が必要か、など具体的な戦争計画を考えていた。以前、怡與造は児玉源太郎を訪ね、八幡製鉄所で生産される鉄で、どれほどの兵器が作れるのか質問していたのだ。児玉から「軍を退官し、製鉄所にでも勤めるのか」と揶揄されたくらい、鉄の生産量に関心が高かった。後に首相となる田中義一少佐も湖月会の一人であったので、怡與造の意見を訊きに来たという。対ロシア戦ではハルピンを落とすことになる、と予測する田中少佐に対し、怡與造はハルピンまでは無理だろうと告げた。奉天に達するかさえ難しいので、遼陽で対戦することになるのでは、と予想したのである。怡與造は遼陽で決戦を迎えることを考えていたのだ。事実、我が軍は遼陽でロシア軍と対決することになるから、怡與造の予想は的中したと言えよう。ただ、惜しいのは日露戦争に従軍できず、明治36年9月30日病のため還らぬ人となってしまった。参謀総長だった大山元帥は、怡與造の訃報をを知り落胆激しくし、ばらく天を仰いで一言も発しなかったという。

  日露戦争当時の指揮官や参謀は、戦後になって大変な評価を受けている。しかし、日露戦争の前に亡くなってしまった“今信玄”こと田村怡與造の名は、歴史の片隅に追いやられているような気がする。最前線で先頭に立って奮迅しなかった怡與造だが、その綿密な作戦計画や兵站への配慮は、戦争の要諦(ようたい)として、人々の心に刻まれるであろう。明治には偉人が本当に多かった。





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