占領軍に潜むニュー・ディーラー

  日本の保守派論客には、敗戦利得者の左翼を隠そうとする者がいる。この間、チャンネル桜に高橋史朗が出演し、アメリカ占領軍が我が国に対して行ったウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム(WGIP)について語っていた。アメリカ政府が奸計を用いて日本人に罪悪感を植え付けたのだ、と高橋氏は熱弁を振るっているが、何となく白けてしまう。もちろん原爆攻撃や焼夷弾虐殺は許しがたい。しかし、惨敗した日本に反撃のチャンスはなかったのも事実。昭和天皇は新聞記者から原爆投下について質問を受けた時、「戦争ですから」とお答えになった。さすが陛下は鋭い。核心を突いたご発言である。明治の頃から「勝てば官軍、負ければ賊軍」というのは常識だった。勝者のアメリカ軍が日本を賊軍扱いしたのは当然じゃないか。我が軍だって多くのアメリカ兵を殺したのだから、アメリカ人が日本人に復讐しようとするのは自然な感情だろう。戦国時代だと、戦に負ければ家門の取り潰しの目に遭ったし、時には家系が断絶する事さえあった。德川家康だって大阪冬・夏の陣で勝利を収めた後、豊臣家を滅亡させている。勝利を確実なものにするため、危険な芽はすべて摘んでしまったのだ。そのうえ、参勤交代制をつくることで、有力大名の財力を削ごうと謀ったのである。德川家は戦後支配体制を盤石なものにした。こんなことは庶民の子供だって知っている。日本の保守派がアメリカの戦後支配体制を非難するのは分かるが、戦後の罪悪史観を大切に保存したのはアメリカ人ではなく日本人の左翼であった。占領期間が終わったのに、米軍の悪行を隠匿しようと努力した日本人こそ日本の敵である。

高橋史朗2aida yuji泉井久之助Yamamoto Isoroku








(左:高橋史朗 / 會田雄次 / 泉井久之助 / 右:山本五十六)

  江藤淳などの保守派知識人はアメリカ軍批判で矛を収めるので、占領軍の背後で甘い汁を吸った左翼を見逃しているのだ。日米開戦前から我が国は狂っていた。戦争計画を作成せずに大国アメリカとの戦争を決断した閣僚は、負けた時にどうなるのか考えていなかったのだ。極悪人の山本五十六など、1、2年暴れたあとに我が国がどうなろうと知ったこっちゃない、という態度であった。第一次世界大戦で、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が身の危険を感じ亡命したが、天皇陛下はどこかに亡命することが出来るのか? 一般には日本が軍国主義国と思われているが、ちっともミリタリズムの国家ではなかった。敗戦を想定しなかった政府首脳は怠慢である。立派だった會田雄次・京都大学教授がある思い出を語っている。昭和16年12月8日、會田先生はラジオで対米戦争が始まったという大本営発表を聞いたそうだ。先生はいつも通り京都大の西洋史研究室に通われ、進々堂で昼食を取ったという。そこには長大なテーブルがかあって、言語学の泉井久之助(いずい・ひさのすけ)教授がある人と一緒に坐っていた。泉井先生は海軍の招待で南洋委任統治の島々を回って帰国したところである。先生は土産話をかたったそうだ。

  サイパンもよい島ですが、マルタをくりぬいて大砲のように見せかけたのを葉っぱなどで要塞のように偽装し、グアムの方を向けて並べたりしている。あんな子供だましのようなことをしてアメリカを刺戟し戦争にでもなったら大変ですぜ。(會田雄次 『歴史家の立場』 PHP研究所 1997年 p.106)

  どうやら泉井先生とその友人はラジオのニュースを聞いていなかったらしい。そこで會田先生はもう戦争が始まった事を告げたのだが、泉井先生は「そんなことを言って脅かしちゃいけません」と相手にしなかったという。進々堂には話の邪魔になるのでラジオ等の音響機材を置いていなかったのだ。そこで、會田先生は泉井先生を近くの喫茶店まで連れ出し、大本営発表を繰り返しているラジオを聴かせたという。すると、泉井先生は「あっ」と小さく叫んで顔色を変えてしまった。みんな沈黙したままで、暗澹たる気持ちになったらしい。当時は、軍人でない一般人でも我が軍の戦闘能力を分かっていたのである。大学教師が分かるのに、前線で戦う将兵が米軍の実力を知らないわけないだろう。ましてや、戦略を日夜練っている参謀将校が知らぬ訳がない。惨敗を予想しても口に出せなかったのが実情だったのではないか。

  一方、敗戦によって共産主義革命を実現させようと大東亜戦争を起こした赤い軍官僚や政治家、知識人は対米戦争に勝つことよりも、現体制の崩壊とソ連による占領を望んでいた。敗戦で一番得をしたのは日本の共産主義者である。戦前は「天皇制打倒」なんて言ったら誰もついてこないし、むしろ離反者が増えて共産党が縮小してしまう。野坂参三だってその手段は遠慮していたのだ。しかし、日本が敗戦となれば帝政ロシアと同じ状態になって、共産主義革命がしやすくなる。だから、打倒すべき帝國日本が敗れたことは、日本人共産主義者にとって天佑(てんゆう)だった。日本にとって更に不運だったのは、占領軍に大勢の赤いアメリカ人、すなわちニューディールに共鳴する左翼分子が混じっていたことである。

  敗戦によって得をした日本人を述べる前に、アメリカ軍最高司令部に棲みついていた社会主義者やソ連シンパについて紹介したい。占領軍にはフランクリン・D・ローズヴェルト大統領と同じ種類の左翼分子が大量に流れ込んでいた。憎い敵国に送り込むのだから、行政官や軍人の人格検査などしていたかったのだろう。それに、ローズヴェルト政権内部には、赤い官僚やビンクの民間人がたくさん雇われていたから、各人が仲間を引きずり込んでいたのだ。左翼は自分の地位を最大限利用し、できるだけ多くの仲間にポストを与える。こうして出来たネットワークはとても頑丈になり、誰か一人が失脚したり退職しても赤い同志がすぐ後を引き継ぐのだ。保守的で立派な人間ほど徒党を作って権力を独占しようとしない。偉人は鶏群の一鶴(けいぐんのいっかく)、つまり凡人のなかに混じっている秀才みたいなものである。秀才の群れに凡人が一人混じっているなんて非現実的だ。立派な人は普通、鷲のように凜然(りんぜん)として存在するから、鳩や雀のように群れて行動しない。アメリカ軍でも事情は同じである。

日本に有害な占領軍のユダヤ

Courtney Whitney 1(左/コートニー・ホイットニー)
  まず、左翼的アメリカ人の伏魔殿となっていたのがGHQの民政局(Government Section/GS)だ。局長のコートニー・ホイットニー(Courtney Whitney)准将は、共和党員だったが民衆党のニューディールを支持していた左翼的人物。彼はフィリピンでゲリラ組織を拡大すべく陸軍中佐としてマッカーサーの司令部に呼ばれた法律家であった。当時のアメリカでは不況を経験した民衆党支持者が多数派で、しかもインテリの間では社会主義が流行していたのだ。ホイットニーがローズヴェルト大統領の経済政策に惹かれていても不思議ではない。だが、こうした真っ赤ではないがピンク系の法律家が、責任者に就任すると人事的災厄が広がるものだ。ホイットニー准将はチャールズ・ケーディス(Charles Louis Kades)を次長に据え、国会課長にジャスティン・ウィリアムズ(Justin Williams)、法規課長にはマイロ・ローウェル(Milo Rowell)を配置した。その他アルフレット・ハッセー(Alfred Hussey)やジャック・ネピア(Jack Napier)といった人物を配下に据えて、日本の「民主化」に取り組んだのである。ホイットニーがこうした赤い軍人を排除せずに部下にしたのは、敵国日本がどうしようもないほど野蛮で遅れた劣等国という認識があったからだろう。容共主義者には進歩派を気取る知識人が多いので、ホイットニーも共産主義を軽く考えていた弁護士だったのであろう。

  アメリカ占領軍内でもケーディス民政局次長は最も有害な人物であった。彼はニューヨーク生まれのユダヤ人で、ハーバード・ロー・スクールを出た民事担当の軍人であった。「また~ぁ、ユダヤ人なの」と嘆くなかれ。人口比率からすれば、アメリカではユダヤ人は少数民族なのに、知識層では多数派なのだ。ケーディスは激戦を経た武人ではなく、軍隊での事務をこなす役人といった方が適切である。彼は大学を卒業した後、公共事業局(Public Works Administration)のアシスタントを経て、ローズヴェルト政権下の財務省に入ったという。ということは、あのユダヤ人長官のヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(Henry Morgenthau,Jr.)に仕えていたということだ。類は友を呼ぶ。左翼ユダヤ人同士、磁石のように引き合ったのか、あるいは財務省に巣くう赤い官僚の手引きで入省できたのか、実情はよく分からないまま。しかし、よりにもよってこんな左翼分子が、憲法草案の実質的指揮官になっていたのだから恐ろしい。

チャールズ・ケーディス 1FDR 13








(左けチャールズ・ケーディス/中央けヘンリリー・モーゲンソー/右けフランクリン・ローズヴェルト)

  ケーディスのような赤いユダヤ人が描く「民主化」と、日本を弱体化させようと目論む最高司令部の意図が合致したのだから、我が国にとっては不幸の始まりである。GHQの基本方針は日本の「民主化」にあった。その為の第一歩はポツダム宣言に盛り込まれた条項の実施。つまり、アメリカに刃向かった戦争犯罪人を処刑して、戦争協力者をすべての公職から追放する事である。公職追放は1946年1月4日、マッカーサー元帥の指令により開始され、政財官はおろか社会・大学・言論界にまで及んだのである。その後2年間で約20万人以上が追放されてしまう。注目すべきは、この追放により保守的な日本人が大勢、重要な職場から排除されたことである。戦前の日本は軍国主義に傾き、侵略を好む超国家主義が君臨していたと説明されるが、実際は共産主義に染まり、国家転覆を企む赤い軍官僚に支配されていたのだ。彼らとは別に、要職にいた者が一般的に、日本の政策を支持する国家主義者だったのは当然だ。むしろ、政府の方針に背いて邪魔をする方が異常である。

  これはドイツにも当てはまることで、ナチ党に従ったからといって、保守的なドイツ人を糾弾する戦後の風潮は間違っている。アメリカにも公職追放に該当する軍人は多かった。日本の空爆を指揮したカーチス・ルメイは大量殺戮者だったが、戦後になっても処刑されなかったし、驚くことに日本政府から叙勲される栄誉も受けたのだ。民間人大虐殺の共犯、ロバート・マクナマラはフォードの社長になって、ケネディー政権で国防長官にまで出世した。両者とも負ければ戦争犯罪人になることを自覚していたのだ。とにかく、公職追放は我が国にとって大打撃となった。優秀な保守派が粛正されて、凡庸で左翼がかった人物が後釜に坐ったのてある。彼らにとり戦後は利益をもたらす時代だから否定するはずがない。特に大学では左翼学者が伸び伸びと活躍でき、人事を独占したのだ。戦後の体制を固守しようと必死だったのは、こうした敗戦利得者であった。しかし、新聞やテレビで、占領軍の対日政策で得をした日本人のリストは一切現れない。保守派言論人でさえ、アメリカ批判で追求の手を止めているのだ。本当は、アメリカの占領政策を陰で支えた日本人こそ一番の敵である。

チャールズ・ケーディス 4Curtis_LeMay_(USAF)Robert McNamara 4








(左:晩年のケーディス/中央:カーティス・ルメイ/右:ロバート・マクナマラ)

  ケーディス率いる民政局の左翼軍人たちは、「民主化」という口実のもと、彼らの「左寄り」ないし「社会主義的」政策の邪魔になる日本人を次々と追放したのである。GHQ内部からも民政局は優秀な日本人を取り除いてしまった、という批判が噴出したくらいだ。それに民政局の公職追放には、“身内贔屓(ひいき)”があった。社会党代議士の松本治一郎は東條英機の「翼賛選挙」で推薦議員になっていたから、当然追放の対象者になっていたはずである。しかし、民政局は松本が革新系議員であるから手心を加えたという。ケーディスは追放指令を出した覚えもないとシラを切り、松本を追放するつもりもないとまで公言したそうだ。ケーディスらの「民主化」とは社会主義的体制を目指した国家改造計画である。要するに、彼らは理想社会(実際は共産主義世界)を“計画”し、実行しようとする善人と自負していたのだ。馬鹿らしいが、知識人は自分の理性で社会を設計できると自惚れているから、社会を動かせる権力を握った瞬間、飛び上がって有頂天になる。責任を取らずにすむ地位に就くと、机上の空論を実行したくなるのだ。社会主義者ではないマッカーサーが彼らを許していたのは、当初日本人を兇悪な侵略主義者と見なしていたからである。日本をよく理解していなかった元帥は、極悪な日本の国家主義者を追放し、彼らの敵となっていた共産主義者を解放することは正しい政策だと思っていた。日本統治を成功させたいマッカーサー元帥は、占領政策を進めて行くうちに、次第にこの方針が間違いであったことに気づく。

  日本で権勢をふるっていたケーディスも、1948年になるとワシントンの対日政策が変化したことで失脚することになる。ソ連との対立を深刻に考えていたペンタゴンの将校たちは、日本を赤化しようとするケーディスの手法を批判していたのだ。しかも、ケーディスには弱点があった。彼は妻子持ちなのに、日本で元子爵夫人の鳥尾鶴代(とりお・つるよ)と不倫関係にあったのだ。これは彼を日本から追放しようとする者にとっては好都合のスキャンダルであった。このケーディスが失脚したことは、我が国にとって僥倖(ぎょうこう)である。それでも、ケーディスが残した爪痕は深い。マッカーサー憲法の草案、農地改革、選挙法改正、財閥解体など、日本社会をズタズタにしてしまったのだ。とにかく、日本は「民主的」ではなく、「軍国主義的」で「封建的」な遅れた国というのが、ケーディスら進歩的社会主義者の対日認識であった。軍人が国家の中枢にいたら「軍国主義」というならアメリカも同じだし、在郷軍人組織が全米各地にあるのはどう説明するのか? 武装して国土を守る民兵(ミリシア)という伝統がアメリカにはあるが、これを進歩派はどう解釈するのか? 騎士道精神がなかったユダヤ人は、テキサスやヴァージニアなどの南部白人が嫌いで、腕力で問題を解決しようとする西歐人にしばしば反発した。ユダヤ人は武藝よりも勉強を好み、軍隊よりも法律事務所に入りたがる。要は文弱なだけ。左翼系アメリカ人やユダヤ人は、「封建制」をも憎むが、そんなこといったら歐洲の貴族は軒並み遅れた思想の持ち主になる。特に英国の名門貴族はみな中世封建領主の子孫であり、有事になれば軍隊の統率者に様変わり。彼らの上に君臨する国王陛下はガーター騎士団の総長だ。しかも、アングリカン教会の首長も兼ねているから、国家宗教の頂点に立つ最高神祇官、封建貴族を束ねる武人の棟梁である。これでは天皇陛下みたいで、イングランド国王も、古くさい遅れた国の象徴になってしまう。

  日本の民主化を掲げる左翼イデオローグは、社会主義革命のためにその尖兵となる労働者を育成しようとする。赤いGHQスタッフが労働者の権利を強く推進するのは、何も日本人を助けるためではなく、革命の下ごしらえをするためであった。共産主義者が用意した「無産労働者/プロレタリアート」は、耳にするのも汚らわしい言葉である。左翼どもは憎しみを煽る言葉を次々と生み出す。資本家による労働者の搾取とか、暗いイメージの雇用関係を築き上げるのだ。こんな言い草を聞けば、江戸時代の日本人なら眉をひそめたくなるだろう。江戸の職人は宵越しの銭を持たないその日暮らしが多かったが、貧乏長屋に住む彼らが親方から搾取されているから、幕府もろとも雇用主を打倒しよう、なんて考えなかった。渡る世間が冷たくても、誰かが温かい手を差し延べてくれたし、職人を雇う親方だって無情な雇用主というわけでもない。職人や人夫を使う親方は、私生活に至るまで彼らの面倒をよく見たし、実の親みたいに慕われていた人物もいたのだ。

  役人にも立派な人物がいて、鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵(通称)はその代表格。火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためがた)の長谷川宣以(のぶため)は、人足寄場(にんそくよせば)で、犯罪者の更生事業にも熱心だった。罪を犯した者が手に職を以て喰っていけるように再教育を施したのである。その当時の罪人も素直で、ふて腐れず真面目に技術を習得し、平蔵の温情に感謝しながら人足寄席場を出て行ったらしい。感動する江戸時代の一面である。日本人は本当に素晴らしい民族で、当時の江戸の犯罪率は信じられないくらい低かった。こんな清い日本に、あの穢らわしいユダヤ人マルクスの思想が浸透し、日本人の精神が汚染されたのだ。共産主義者は日本人の魂を腐蝕させる不逞の輩である。たとえば、皇室打倒などまともな日本人には恐ろしくて想像できなかった。昔なら、犯罪者だって「天子様がいらっしゃるぞ ! 」となれば、襟を正して土下座する。可笑しいのは、明治の日本人は営利誘拐を憎んだという。銭のために子供を攫うなんて酷え奴だ、と怒ったそうだ。たとえ犯罪者でも子供を拉致するなど不届き千万。子供は皆で大切にするのが常識以前の良識だったから、誘拐犯をとりわけ憎んだという。でも、犯罪者は元々不埒な者じゃないのか? 犯罪にも倫理を求めてしまうとは、いかにも日本人らしい。こうしたことから日本が、如何に倫理の高い国だったかが分かる。 

  脱線したから話を戻す。F.W.マーカット(F.W. Marqat)率いる経済科学局には赤いスタッフが潜んでいた。経済科学局で労働関係を担当していたアンソニー・コンスタンチーノ(Anthony Constantino)は、日本に派遣される前、長期間左翼活動を行っていた前科を持つ。米国ではアメリカ鉄鋼労働費用議会にオルグ(組織世話人)として雇われていたらしい。つまり、労働者をまとめ上げる専属活動家であったわけだ。彼は1940年から41年にかけて4回も逮捕されているのにもかかわらず、その地位に就くことができた。コンスタンチーノはその逮捕歴を隠していたらしい。こうしたセキュリティーの甘さを見れば、アメリカ軍が適当に日本を扱っていたことが分かる。日本改造が懲罰事業だったので、軍政官の人物検査が杜撰だったのだろう。1946年6月にに起こった読売新聞社のストで、コンスタンチーノはこの労働争議を沈静化するどころか、さらに悪化させたのである。ストは労使の話し合いで6月25日に解決されたのに、彼はストが再開されるようこの騒動に介入したのだ。コンスタンチーノは最高司令部の許可も無しに警察、社長、その他の関係者を喚問し、ストの実行者に総司令部の指示があるかのような幻想を持たせたのである。そのため、労働者はストを再開し、デモを繰り広げ、脅しを掛けたり暴力に訴えたりしたという。ついでに、デモの労働者たちは反米・反占領軍のプラカードを掲げたというから、GHQのお偉方も立腹。とばっちりを受けた読売新聞の社長、正力松太郎(しょうりき・まつたろう)は辞任する羽目になり、ついには戦犯指定になってしまった。(この経緯は別の機会に話す。)

  コンスタンチーノは確信的左翼だった。共産主義シンパの彼は、1946年5月に起きた日本赤十字病院の労使争議でも、スト実行者を支持するような態度に出たらしい。 彼は他の労働争議でも自分の職権を超えて、スト実行者に支持を与えたり、総司令部は彼らに介入しないだろう、という印象を与えてストを煽ったのだ。チャールズ・ウィロビー(Charles Willoughby)によれば、コンスタンチーノは日本の共産党と親密な関係にあったようだ。特に、悪名高い志賀義雄(しが・よしお)と個人的に接触していたという。コンスタンチーノに仕えていたアシスタントのスターリング・D・コレット(Staerling D. Collet)もマルキストであったらしい。その他、経済科学局で左翼的思想の人物と見なされた人物には、調査統計課のジュリア・マーガレット・ストーン、労働条件課長のレオン・ベッカー、統計研究課のハリー・ブルンナーが挙げられる。それにしても、労働問題になぜ左翼分子が多く集まるかといえば、保守的な優等生は大学で労使関係を専攻しないからだ。労働問題という分野は暗いし、第一つまらない。健康で前途有望な人物が専門にする科目じゃないだろう。常識的に考えてみて、労働関係の教科書を開いて嬉しいと思う奴がいるのか? 高貴な精神を持つ保守派青年なら、無味乾燥した内容の文章を暗記するなんて堪えられない。それなら、美しい自然の中で乗馬をしたり、愛国心に燃えて軍事訓練をした方が有意義に思える。言いづらいことだが、資本家や経営者に怨みを抱く陰湿な学生が労務関係研究者になりやすい。マルクス主義といった下品な思想に惹かれる学生は、たいてい根性が賤しい輩(やから)である。他人の懐を覗いて嫉妬するなど、躾の良い家庭の子供ならできない。

正力松太郎1馬場恒吾(左:正力松太郎/右:馬場恒吾)
  労使闘争の放火魔たるコンスタンチーノには同類の相棒がいた。経済科学局労働課長のセオドア・コーエン(Theodore Cohen)だ。1946年に読売新聞でストライキが発生した時、これを収拾すべきコーエンは逆の行動を取った。彼は警察官や馬場恒吾(ばば・つねご)社長を自分の事務所に呼びつけ、総司令部の政策と偽り、ストライキ側を奨励したというのだ。(C.A. ウィロビー『GHQ 知られざる諜報戦 ウィロビー回顧録』 延禎訳 山川出版者 2011年 p.203) コーエンに勇気づけられたストの連中は、デモを企てたうえに、暴力行為の騒ぎを起こしたという。相次いで起きたストライキやデモの背後には、コンスタンチーノとコーエンがいたらしい。ところで、社会主義に染まった労働者を煽ったコーエンとは一体何者なのか? 勘のいい方は、もう推測できますね。毎度お馴染みの回答です。そう、彼はユダヤ人でした。何か八百長のクイズ番組みたいだが、左翼にはユダヤ人が多すぎるのだ。(これって民族的病気なのか?)

  セオドア・コーエンは1939年、コロンビア大学院で日本の労働運動について論文を書き卒業した。この修士論文を買われてOSS(アメリカ諜報局)に入ったという。彼が最初に手掛けた仕事は、太平洋のマーシャル諸島やカロライナ群島海域における対日政治戦略であった。その任務を果たしたのち、ローズヴェルト政権で副大統領を務めていたヘンリー・ウォレスが直轄していた経済戦略局敵国課に、OSSから出向いて編入したのである。経済戦略局は間もなく外国経済局に編成されたのだが、コーエンはこの局内で『民政ガイド 日本に於ける労働組合と団体交渉』という戦略ペーパーを書き上げた。これが後にアメリカの対日労働戦略の基本となるのだ。驚くことに、合衆国政府はミッドウェー開戦やソロモン開戦に勝った(昭和17年)頃、既に対日戦争後の占領政策に取りかかっていたのである。コーエンの『民政ガイド』は、こうした占領政策ガイドラインの一環であった。

  日本とは直接係わりの無いコーエンだが、なぜ日本の労働運動を修士論文のテーマにしたのか? ジャーナリストの大森実のインタヴューで、コーエンは理由を述べていた。当時のアメリカで日本の労働運動についての資料を入手するなど非常に難しかったはずなのに、なぜ選んだのか? そうした大森氏の質問に答えて曰く、

  別に動機なんてありませんよ。学位をとるためには、なにかを選択せねばなりませんね。当時、日本の労働運動なんか誰も知らないテーマでした。英語で書かれた例も少ないし、まったくないといえる状態でした。・・・・研究テーマというものは、ある程度まで深く研究された問題ですと、かなりの努力が必要とされるものでしょうが、日本の労働運動は、米国でまったく研究されたことのない課題だったので、新聞のようなはっきりした公開材料でも資料として役立ったわけです。(大森実 『赤旗とGHQ』 講談社 昭和56年 p.269)

つまり、コーエンが日本の労働運動を論文テーマに選んだのは、簡単に学位が取れるという理由からだった。確かに、論文を審査する教授でさえ、彼の選んだテーマについては素人であろう。だから、少々いい加減な解釈や調査でも、修士号がもらえたのかも知れない。第一、日本語の資料など誰も読めなかったろうから、コーエンが使った資料を検証することなどできない。したがって、ちょろまかしが可能だ。これがヨーロッパの労働運動なら、膨大な資料の精読をしなければならないから大変になる。教授陣の死角を突いたコーエンは狡賢い。

  しかし、いくら楽なテーマ選んだとしても、やはり日本の労働運動に目をつけるというのは珍しい。コーエンは元々社会主義に惹かれていたから、外国の労働問題にも興味を示し、論文のテーマで日本を選んだのではないか? 赤い頭のユダヤ人だったから、社会主義に関連していれば未知なる日本でも良いと思ったのであろう。西歐人と違って、ユダヤ人は外国文化に対しての抵抗感がない。やはり、千年以上も他国にたかって暮らしてきた寄生民族は、馴染みのない文化でも調べてみようとする好奇心がある。誰も手をつけていない領域には、もしかしたらお金儲けのチャンスがあるかもしれない。だから、ユダヤ人は世界各地に進出して拠点を築き、物流や情報網を支配して大金持ちになれるのだ。片田舎でのんびり暮らすアメリカ白人は、そもそも外国文化に興味を持たない。馴染みのある生活で満足する。日本人なんか別の惑星に住むエイリアンだから、その言葉を理解しようとは考えない。怠惰なアメリカ人は、英語の姉妹語たるドイツ語やフランス語でさえ勉強を嫌がるのだ。日本語が必修科目になったらアメリカ人は全員不登校になる。だから、文法や表記がまったく異質な日本語を、自ら進んで学ぶなどあり得ない。

  こう考えると、日本語を習得するユダヤ人は特殊だ。そういえば、シカゴで育ったデーブ・スペクターが少年時代、日本の漫画に興味を持ったのもユダヤ人だったからじゃないか? 日本語を覚えたスペクター氏が、ハリウッド関連ニュースを独占的に日本で紹介し、大儲けしたのもうなづける。こうした発想はアメリカ白人に少ない。ついでにいえば、スペクターは日本人女性と結婚しているが、コーエンも日本人女性を妻に持っていた。ユダヤ人は外国人配偶者に対しても抵抗がない。有名なロック・バンド「メガデス」のギターリストだったマーティ・フリードマンは、ツアー中にも日本語を勉強して、ついに日本語を習得したという。日本に移住後、日本のテレビ番組に多数出演していたし、夫人も日本人女性だ。ハリウッドスターのスティーヴン・シガールも日本人女性と結婚していて、大阪弁も流暢に話せた。しかも当時、合気道に興味を示して習得するアメリカ人は珍しかった。彼がこの不思議な東洋武術をアメリカ人に披露して有名になった事はみんなが知っている。本当にユダヤ人は異質な文化の習得が早い。

Dave SpectorMarty_FriedmanSTEVEN-SEAGAL 3








(左けデーブ・スペクター/中央マーティー・フリードマン/右けスティーヴン・シガール)

  日本での生活経験があるユダヤ人は、合衆国政府にとり何かと重宝な種族のようだ。戦後、国家安全保障法によって発足したばかりのCIAから日本に送り込まれたポール・ブルーム(Paul Charles Blum)もユダヤ人であった。彼はCIAから派遣された初代東京支局長である。彼の親友には、日本に帰化したドナルド・キーン教授がいた。キーン氏はアメリカ軍の諜報担当士官で、日本兵捕虜を尋問する際、通訳を務めていた経歴を持つ。キーン氏は友人ブルームの正体を知らず、国務省の外交官だと思っていたらしい。それというのも、マッカーサー元帥が占領時代の日本で、CIAの活動を認めなかったからだ。CIAとしては、マッカーサーに内緒でキャリア要員を送り込んでいたわけである。ただ、日本人で彼の正式な身分を知っている人物がいた。元海軍中佐の藤村義朗である。藤村中佐は戦時中、スイスでブルームと一緒に終戦工作に携わっていたので、ブルームが国務省の大使館員ではないことを分かっていたのだ。(春名幹男 『秘密のファイル(上)  CIAの対日工作』 共同通信社 2000年 p.193)

  OSS(戦時諜報局)ベルン支局のアレン・ダレスの右腕として活躍したポール・ブルームは、横浜の外人居留地、山手に生まれたユダヤ人。父親のアンリはユダヤ系フランス人でアルザス地方の出身であったから、フランス人民戦線のレオン・ブルム首相とは遠縁に当たるそうだ。横浜のオッペンハイマー商会に務めた後、ウィトコフスキー商会の支配人になり、スイスの時計を輸入したり、絹や銀を扱っていたという。母親のローズはユダヤ系アメリカ人で、叔父の貿易商ステーツ・アイザックスを頼って来日したらしい。この叔父は根岸にある横浜競馬場を建てたことでも知られている。この両親から生まれたポールは横浜のセント・ジョセフ国際学校に通ったが、日本人の子供との交流はなかったという。当時の山手は普通の日本人と隔離されていたから、ポールは自然と日本語を学ぶことはなかった。アメリカのイェール大学を卒業後、第一次世界大戦が勃発すると、、アメリカ軍に志願し野戦衛生隊に所属したという。その後、ブルームはパリに居をを構え物書きになり、東京では三島由紀夫とも親しくなった。

Donald Keene 2(左/ドナルド・キーン)
    ところが、ドイツ軍のパリ入城で、ブルームはニューヨークに逃れ羽目となり、コロンビア大学で日本語を学び直したのである。こうしたことから、偶然キーン氏に出逢ったのである。キーン氏は当時フランス文学を学んでいたが、ブルームは日本文学を薦めたという。 フランスで育ったアメリカ人はたくさんいるが、日本のことをよく知っているアメリカ人は少ないので、日本文学を専攻した方がキーン氏の将来にとって良かろう、と提案した。これまたユダヤ人らしい柔軟な発想だ。もっとも、キーン氏は日本人捕虜の尋問を行ったことで日本文学を目指したという。不気味な日本人だったのに、調べてみると繊細な感情を持つことが分かった。キーン氏は日本人青年が愚痴ばかりを手紙に記すアメリカ兵と違うことに気がついたという。彼は祖国で帰りを待つ両親を心配する一方で、国家に尽くすという純粋な気持ちに溢れた日本兵に感銘を受けたらしい。米軍が押収した日本兵の手記や手紙を読んで、キーン氏はとても感動したのだ。

  CIAの東京支局長になったものの、外交官を装っていたブルームには部下も少なかったし、マッカーサーの目を気にしながらの活動だから、どうしても情報収集には制約があった。そこで、彼は各界のリーダーと接触して、トップレベルの情報を集めようとしたのである。彼は毎月第二火曜日に著名人を集めた夕食会を開いたという。そこには、日本を代表する知識人が集まったのだが、あいにくこのメンバーは真っ赤であった。朝日新聞論説主幹の笠信太郎(りゅう・しんたろう)は、言うまでもなく近衛文麿が主催した「昭和研究会」の中心メンバーで「朝飯会」にも属していた。吉田茂に反して全面講和を主張し、日米安保闘争では岸信介に反対。絵に描いたような極左のジャーナリストである。しかも、世界連邦運動を提唱するなど、妄想もたくましく救いようのない馬鹿。日本をソ連に売り渡そうと頑張っていた頃の典型的朝日人だ。笠はまさしく左翼路線まっしぐらの黄金期を代表する人物。80歳代の朝日OBには懐かしいだろう。

松本重治2松方三郎松方正義2東畑精一 2






(左:松本重治 / 松方三郎 / 松方正義 / 右:東畑精一)

  国際文化会館理事長の松本重治は、明治の元勲松方正義の孫で、共産主義者の巣窟たる太平洋問題調査会(IPR)を通して国際活動を広げていた。彼も近衛の朝飯会に参加しており、近衛文麿や尾崎實秀、西園寺公一とも親しかったという。子だくさんの松方正義には妾の子がいて、松方三郎もその一人。共同通信社専務理事の松方もブルームの集会に顔を出していた。京都大学で河上肇の薫陶を受けたので、これまた真っ赤。彼もIPRに参加していた、国際派の隠れ共産主義者である。昭和研究会に属していた蠟山政道(ろうやま・まさみち)も、この火曜会に出席していたのだ。蠟山については以前述べたから省略。経済学者の東畑精一(とうはた・せいいち)も昭和研究会のメンバーで、社会主義かぶれの農業経済学者。戦後に活躍した経済学者はほとんどが左翼で、政治・経済での自由主義を掲げる学者などほぼ皆無だった。マルキストの大内兵衛(おおうち・ひょうべい)や都留重人(つる・しげと)など今となっては忘れ去られた過去の人で、彼らの著作は紙くず同然である。ブルームが集めた人物は左翼ばかり。ユダヤ人のブルームは任務として彼らと付き合っていたのか、それとも馬が合ったので交流していたのか、実際のところは分からない。彼は冷戦が深刻化した1950年代初期にCIAを辞めたらしい。ブルームは辞任後、親友の藤村義朗が経営する青山のジュピター社で非常勤取締役に就任したそうだ。

蠟山政道笠信太郎 2大内兵衛都留重人







(左: 蠟山政道 / 笠信太郎 / 大内兵衛 / 右: 都留重人)

  アメリカ占領軍の対日政策はソ連の台頭により、日本を懲罰することから、反共の砦にする方向へ舵が切られた。日本にとって幸運だったのは、GHQの参謀部G-IIにチャールズ・ウィロビーが配置されたことだ。左翼思想の持ち主が多いGHQの中で、反共思想を持つウィロビーは傑出していた。次回は彼について述べてみたい。




人気ブログランキングへ