名も無き英雄

靖國神社 1靖國神社 参拝客







(写真/靖國神社を参拝する人々)

  毎年8月がくると、戦争犯罪と敗戦責任を問う議論が起こって騒がしい。これはもう恒例行事となっており、お盆が過ぎれば、また来年までその話題は保留となる。後は夏休みのレジャーで大忙し。NHKは毎回、「あの侵略戦争と原爆の悲劇を忘れてはなりません」と謳って、定番の反戦・平和特集を組む。民放だって負けてはいない。軍国主義に戻らぬようマッカーサー憲法を護持する番組を作って改憲を阻止。憲法廃止論が起きれば、田原総一朗や池上彰のような御用評論家がしゃしゃり出て、「もっと議論すべきだ」という締め括りのセリフで曖昧にしてしまう。議論を半世紀以上続けて、「また来年も」と言うなら馬鹿である。要は結論を出さないようにしているだけだ。そうした愚劣なマスコミをよそに、靖國神社を訪れる日本人は減少しないのだから、我々の心には根強い先祖崇拝があるのだろう。しかし、我々は参拝者数に安心してはならない。心から戦歿者を慰霊するのは、日本人であることに気づくべきである。

  英霊を侵略者とか強姦魔と呼ぶ朝鮮人は、気違いだから相手にしてもしょうがない。バカは朝鮮半島の名物だから、日本の敷居を跨がせなければいいのだ。それよりも心配なのは、在日南鮮人のみならず支那人、フィリピン人、タイ人などのアジア人が帰化して、日本の有権者になっていることである。靖國神社を何とかして廃絶したい左翼は、アジア帰化人と混血児を仲間にして、「政教分離」を口実にした神道抹殺を謀るかもしれない。英霊の子供世代が高齢化して、戦歿者との直接的記憶を持つ者が激減しているのだ。孫や曾孫の世代でも、英霊に感謝の意を表す国民は確かにいる。だが、それとは反対に、日本の歴史に無関心な集団が増えていることに危険を感じてしまう。日本人の肉体を持つ国民は、特定の時期にだけ参拝してお礼を述べるが、日本の國體(こくたい)を破壊したい左翼は、年中英霊を侮蔑しているのだ。そして、アジア帰化人にとり日本の英雄は崇敬や感謝の対象ではなく、憎しみの対象あるいは自分と関係のない外国人である。8月15日近くになればマスコミが大東亜戦争の話題を持ち出すから、保守派の国民も様々な意見を表明するだろう。そこで、このブログでは大東亜戦争の戦歿者ではなく、日露戦争で命を失った英雄について語ってみたい。

沖禎介横川省三(左: 沖禎介 / 右: 横川省三)
  司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』で取り上げられた秋山好古将軍はよく知られている。そして、日露戦争でロシア軍に捕まった斥候(せっこう/スパイ)、沖禎介(おき・ていすけ)と横山省三(よこやま・しょうぞう)の二名は、銃殺された烈士として有名である。映画『二百三高地』での処刑シーンを覚えている日本人も多いだろう。この両志士の他にも、ロシア軍に殺された英雄がいたのだ。(以下は『大和魂の精華 無言の凱旋』 教育資料研究所 昭和11年を参照) 日露戦争も終盤にさしかかる明治38年3月、秋山奇兵旅団に小林環(こばやし・たまき)中尉と向後三四郎(こうご・さんしろう)上等兵がいた。第二軍の騎兵第十三聯隊第三中隊に所属していた二人は、斥候として敵後方偵察の任務を帯びたという。小林中尉と向後上等兵は、支那人に変装し、敵の警戒網を突破して吉林方面から長春附近に潜入に成功。我が軍のために貴重な情報輪もたらしたが、惜しいことにその帰還の途中、吉林省東北八面城附近を潜行していて、ロシア軍のミスチェンコ騎兵団に発見されたのである。ロシア警備隊の兵卒が誰何(すいか)し、向後上等兵の帽子を取ったところ、彼の弁髪が落ちてしまい、日本人であることがバレたらしい。

  捕縛された小林・向後の両名は、ロシアの軍法会議にかけられ幾度となく尋問されたが、頑として皇國軍人の矜持(きょうじ)を保ち動じなかったという。しかし、それでも冷酷な運命は変わらなかった。軍法会議は密偵の罪により、彼らを絞首刑にする判決を下したのだ。ハルピンの俘虜収容所に投獄された斥候は縛り首の刑だったが、あるロシア人将校の計らいにより、軍人らしく銃殺刑になったという。日本人スパイを拘束したロシア軍将兵の中には、両勇士の義烈に感激し、減刑を嘆願する者もいたらしい。だが、無情にも銃殺刑の日は訪れた。処刑場に引き出された小林中尉と向後上等兵は、銃殺に臨みながらも「日本人に目隠し無用」と豪語し、ロシア兵の膽(きも)を寒からしめた。祖国に対する彼らの赤誠(せきせい)は、武人の亀鑑(きかん)としてロシア兵のあいだで崇敬の的(まと)となり、ハルピンの「ウエストニク・マンチュリー」紙を始めとする地元紙も讃歎(さんたん)したようだ。しかし、長春潜入以来、この両勇士の消息は我が軍に届かず、二人の遺骸は北満の地に埋もれ、祖国に凱旋することがなかった。

  小林環中尉と向後三四郎上等兵の墓跡は、偶然の出来事により発見されたという。満洲事変の時、馬占山(ばせんざん)討伐で勇名を轟かせた山内保次(やまのうち・やすつぐ)少将は、偶然同期生の松田仁三郎(まつだ・じんざぶろう)少将とハルピンで邂逅した。(当時彼らは大佐。) そこで二人は沖禎介・横川省三の志士碑を参詣したところ、山内少将は、小林・向後の両名を思い出し、「銃殺されたのは確かハルピン郊外だったはず」と過去の記憶を辿り、幾度となく附近を捜索したらしい。とうのも、日露戦役で少尉だった山内少将は秋山好古将軍の副官で、小林中尉の同期生であったのだ。山内少尉も斥候として敵地深く潜入して任務を遂行したが、幾多の死線をくぐり抜け栄(は)えある凱旋の日を迎えたという。しかし、同僚の野村少尉は戦死を遂げ、もう一人の小林少尉は敵地から帰ってこなかった。それ以来、遺骨も分からない小林少尉のことは気になっていたところ、大佐となった山内氏は、騎兵第十三聯隊を率いて満洲に上陸したのである。彼は忠霊塔を訪れ野村中尉の遺骨を詣でた。山内大佐は小林少尉の墓を探し回ったが、ついに見つけることが出来なかったので、ハルピンの特務機関に事後を託して帰朝したそうだ。

  祈りのせいか、山内少将の友情が天に届いた。昭和9年1月、ハルピン在住の上田という日本人が、偶然古いロシアの雑誌に処刑された日本軍斥候の記事をハルピン特務機関に報告したそうだ。そこで軍部やその他の機関が旧ロシア資料を集めて調べたところ、吉林方面で捕まった日本人について分かってきた。蒐集したある雑誌に、処刑場へ護送される捕虜の写真があったのだ。掲載された写真と遺族から提出された写真を比較したところ、小林・向後の両名に相違ないことが確認されたという。ハルピン在住の老将ノビッキーは、日露戦争当時、負傷してハルピン野戦病院に入院中、その地から東南約1000メートルの地点に、日本人のものらしい新たな墓を目撃したことがあるという。そこで、ハルピン特務機関の山岡大尉と染谷曹長は、ノビッキー氏の記憶を頼りに現場を捜索し、諦めかけていたところ、偶然というか奇蹟的に両勇士の遺骨を掘り当てたそうだ。さっそく、発掘した遺骨を鑑定して貰ったところ、体格や銃弾の痕跡、埋葬された時期などから、小林・向後のものと判明した。

烈士の最期

  遺骨になって帰還した両勇士は如何なる人物か? 斥候将校の小林環中尉(戦死により大尉に昇格)は江戸っ子で、明治15年8月14日東京府士族、小林美英の次男として生まれた。陸軍士官学校に入って、明治33年には士官候補生となって騎兵第四聯隊に所属。明治37年、第三中隊の小隊長として出征し、第二軍の秋山少将率いる騎兵旅団に属して各地で戦ったそうだ。同年8月に支那人に変装して任務を遂行し、第二軍の奥保鞏(おく・やすかた)司令官から表彰されたらしい。翌明治38年3月、敵後方の偵察を命じられて、向後上等兵と共に支那人の百姓に変装し、敵軍奥地に潜入したのである。小林少尉に附き従った向後三四郎上等兵(戦死より伍長に昇格)は、明治12年2月7日千葉県に生まれ、入隊前は農業に従事していた。明治37年4月に騎兵第十三聯隊に所属して、清国に上陸後、敵情地形偵察を命じられ、小林少尉と運命を共にすることになる。

  密偵となった小林少尉は向後、塚越、倉田の上等兵三名を連れて敵情視察に出た。彼らは昌図(しょうと)なる村に潜入し、そこで親日の村長宅に泊まったという。小林少尉は男四人で行動すると目立つので、向後上等兵のみを残し、塚越と倉田は本隊に帰すことにした。そこで、小林少尉と向後上等兵は村長からボロボロの支那服を借りて支那百姓に扮したのだが、余りにも手が白かったので泥を擦り込んで、わざと汚くした。支那人になりすますのも注意が必要である。こうして、すっかり支那人に変装した二人は、汚い支那笠と草刈鎌を担いで、村長が提供してくれた馬車に乗り込んだ。小林少尉は塚越と倉田に本隊への報告を頼んだ以外、あまり多くを語らなかったという。ところが、支那人馭者が馬車を出そうとした時、小林少尉は懐から10円紙幣を取り出し、これを塚越上等兵の手に握らせ、「俺が持っていたも仕方ないから、君達で使ってくれ」と言い残したそうだ。馬車がゴトゴトと動き出すと、塚越と倉田の両名は直立不動の姿勢をとり、黙って頭を下げたという。これが小林少尉と向後上等兵にとって永遠の別れとなってしまった。塚越と倉田は本隊の秋山将軍に報告をして、二人の帰還を待っていたが、いつまで経っても帰ってこない。しばらくしてから、日本軍の者が捕虜になったという情報が伝えられたという。

  小林少尉は士官の鑑(かがみ)であった。ロシア軍に捕まった少尉は、死の寸前まで部下の向後上等兵を庇ったらしい。責任は全て自分にあるから、部下の向後に何らの罪は無い、としきりに懇願したそうだ。この武徳にはロシア軍将校もいたく感銘を受けたらしい。しかし、そうした努力も空しく小林・向後の両名は処刑場に連行されたのだ。目隠しを拒否した中尉の目は、煌々(こうこう)と輝き、死を覚悟していた。ロシア指揮官が「発射用意」と口にし、ロシア兵が銃に弾を装填する音を聞くや、小林中尉は「日本帝國萬歳」を唱えたという。しかし、ロシア兵の発射した銃弾は、小林少尉と向後上等兵の体を情け容赦なく貫く。血と肉が飛び散り、勇士二名は絶命する。壮絶な最期を遂げた彼らの魂は国家の名誉となった。

  日露戦争は我が国の命運を賭けた一大決戦であった。歐洲の大国を相手にした戦争だから勝利の望みは薄く、貧乏な日本がロシア軍と五分に戦えたらいい方だった。戦争継続が不可能になる前に、ロシアとの講和が成立して元勲たちは安堵した。しかし、この戦役で多くの日本人が命を落としたから、歓喜に沸く世論とは違い、悲痛な結果に苦しむ遺族も多かったのである。出征した息子からの手紙は、家族にとって貴重であり、時には遺書となることさえあった。向後上等兵も父親宛ての手紙を書いていたのだ。向後上等兵は、戦地では雪が積もってとても寒く、炊いた飯がすぐ石のようになるし、鼻から出た息は髭にかかって氷柱のようになる、と述べていた。また、敵軍との銃撃戦で、腰につけた豆袋に銃弾が当たっていたのを後で気づいたなど、戦地の様子を家族に伝えている。向後上等兵は実家から送ってもらった手袋と靴下に感謝していた。彼は家族を安心させようとしたのか、他に必要な物はないと記す。「あまり良い品物を持って死ぬと敵のヤツラに取られますから」と冗談めいたことを書いていた。こんな手紙を読む遺族はさぞつらいだろう。無邪気な文面が返って悲しみを誘うのだ。本当に死んでしまった彼の手紙は、未亡人により「帰らぬ夫」として仏壇に安置されているという。

  日本の国会議員は少子化による労働力不足を口実に、アジア人を輸入したうえに、気前よく日本国籍を付与する。さらに腹立たしいのは、とっくの昔に朝鮮へ帰っているはずの在日朝鮮人、およびその孫や曾孫にまで、帰化を許して日本人みたいに扱っているのだ。日清・日露戦役や大東亜戦争を戦った祖先は、こうしたアジア人のために自らの命を犠牲にしたのではい。年老いた両親や幼き弟や妹、子供を育てる女房、親しい友人や恩師、先輩後輩、などへの思いを断ち切って、一心不乱に祖国を守るべく戦ったのである。小林少尉と向後上等兵は、軍法会議にかけられた時、既に処刑を覚悟していたのだろう。確実な死を宣言されても尚、国家への忠誠は揺るがず、弾丸が何発も肉体に食い込み、全身の血が流れ落ちても祖国への愛情は変わらなかった。故郷へ帰ってきた彼らの魂を慰撫するのは、日本人の肉体と精神を持つ我々にしかできない。英霊と同じ涙を流せるのは我々だけなのだ。歴戦の勇士と肉体的に繋がっている我々だからこそ、心から自然に感謝の念が湧き起こり、英霊もそれに応えるのである。祖先が我慢した悲しみを共に悲しみ、抑えきれない喜びも共に喜ぶのが子孫たる我々なのだ。我が軍の将兵を憎み呪う朝鮮人が、日本に帰化しても日本人の魂を持つわけではない。女に飢えた日本人と結婚したフィリピン人には、我々が持つ魂の共鳴は理解できないだろう。ゼニの臭いには敏感な支那人でも、尚武の精神となれば全くの鈍感になる。アジア移民の排除を躊躇する保守派は、いったい何を守ろうとしているのか? 戦場で闘った軍人の勇気を少しは持つべきだ。祖国に殉じた祖先を思えば、アジア人駆除くらい楽じゃないか。




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