ユダヤ人にとっての救世主がチャーチル

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(左: ナチス式敬礼をするヒトラー / 右: 中央で敬礼をするエリザベス王女)

  ブリテンの大衆紙『ザ・サン(The Sun)』が、エリザベス女王のナチス式敬礼を報道した。とはいっても現在の話ではなく、女王が7歳の頃の出来事である。エドワード8世に倣って右手を斜め上に挙げ、カメラに向かって敬礼をした時の模様を撮影した、短いフィルムが公開されたのだ。この映像は1933年に撮影されたもので、当時エドワード8世はナチ・ドイツに好意を抱いていたから、ドイツの敬礼をエリザベス王女に教えたのだろう。しかし、英国王室は元々ザールフェルトのザックス・コーブルク・ゴータ家(Haus Sachsen-Coburg und Gotha)の血統なんだから、ドイツに親近感を持っていても不思議じゃないだろう。ちなみに、英語を6年間も学んだ公立学校の高校生で、英国王室の名称を知らない者は多い。筆者が高校生の頃、プランタジネット家やスチュアート家、チューダー家は知っていても、女王エリザベス2世の王朝名を知る級友はいなかった。驚くことに教科書で教えないのだ。共産主義者が英語の教科書を執筆していていたのかも。あるいは、単に興味が無かったから、とか。いずれにしても、愚民化教育は日本の宿痾(しゅくあ)である。英国王室は、第一次世界大戦でドイツと険悪になったから、「ウィンザー家」に改名しただけ。(ちなみに、女王と結婚した若き海軍士官、エディンバラ公爵フィリップ殿下はシュレスヴィヒ・ホルシュタイン・ゾンダーバーク・グルックスブルク家の出身。ギリシアとデンマークの王子様だった。)

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(左: ベラミー式敬礼をするアメリカの子供/中央: ヒトラー/右: ナチス式敬礼のヒラリー?)

  イングランドとドイツは同じゲルマン貴族の国家なのに、戦争により不倶戴天の敵になってしまった。しかし、ドイツ系王朝を戴くイギリス人が、異常なまでにドイツ人を憎むのは、どうしても解せない。この裏には根深い策略がある。こう考えると何か臭う。無敵の太陽を御覧の方には、何となく予想がつくのでは? 「もしかしてユダヤ人?」と仰るかたは正解。「またかよ~、いいかげんにしろ !」と言わないでね。筆者も心苦しいんだから。でも、学校の歴史教科書が一番悪い。給料をもらっている学校教師が、生徒にちゃんと事実を伝えていないから、卒業生が歴史に疎いのだ。連合国がヒトラーを倒し、ナチズムから世界を救ったというイメージを植え付けたままで、「はい、みんな良くできました」と卒業証書を渡してしまう学校が問題なのだ。卒業証書は授業料を納めた領収書じゃないんだぞ。ユダヤ人はドイツ人を完璧な悪魔にして、英米のゲルマン系国民がドイツに共感や連帯感を持たないよう、両者の間に楔(くさび)を打ち込んでいたのだ。(この事については、別の機会で述べてみたい。)

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(左: 右手を挙げるジョージ王子/中央: エリザベス女王/右: 写真を掲載した「ザ・サン」の表紙)

  ほとんどの教科書でウィンストン・チャーチル卿は、邪悪なナチ・ドイツをやっつけた偉大な首相と紹介されている。しかし、待てよ。そんなに立派な首相が、なぜ戦後の選挙で失脚したんだ? しかも、ファシズム国家から自由主義国家を守る、という理屈をつけていたが、ソ連こそ超ファシズム国家だったじゃないか。スターリンなんか独裁者の見本だ。ポルポトや金日成だって三舎(さんしゃ)を避けるだろう。勝利の祝杯に酔うイギリス人が、振り返ってみれば大英帝国は崩壊していたのだ。これじゃせっかくの酔いが醒めじゃないか。しかも、戦争目的だって達成されていなかったのだ。当初、ポーランドをヒトラーから救うために起こした戦争なのに、戦争が終わってみればスターリンのものとなっていた。もっとも、亡くなったローズヴェルト大統領は、共産主義に好意的だったから、望み通りの結果だったのかもしれない。そもそも、ファシズムに対するデモクラシーの戦いという構図だっておかしいだろう。英米の軍人にとって、赤いロシア兵が友軍なんてゾっとする。

  ヒトラーという巨大な悪者を見つけたチャーチルは、ゲーム感覚の戦争に大喜びだったが、戦場で命を賭ける将兵にとったら冗談じゃない。常識で考えてみれば、英米の行動には異常なことがたくさんあった。国家社会主義者のヒトラーはダメで、国際共産主義者のスターリンならいいのか? ヒトラーが数百万人のユダヤ人を虐殺したと騒ぐくせに、まともな検証をしない英米の指導者は、スターリンによる数千万人ものユダヤ人やウクライナ人虐殺には余り言及しなかった。チャーチルは稀代の戦略家という評判だが、連合軍はノルマンディーに上陸する作戦をとってしまい、東欧からドイツに攻め込んだソ連軍は、ちゃっかりポーランドやハンガリーを掌中に収めてしまった。連合軍はバルカン半島に上陸し、そこから北上してドイツ軍を攻めれば、東欧は英米の支配下となったかもしれない。世界征服を目指すヒトラーを打倒したら、ドイツの半分と東欧がソ連に占領されてしまったでは、何のための大戦だったか分からなくなる。あんなにニコニコしていたスターリンおじさんが、終戦と同時に冷酷なヤクザになってしまった。ヒトラーという悪魔を退治するために、スターリンという化け物を育ててしまった英米は自業自得だ。チャーチルは「鉄のカーテン」演説をする前に、民衆を集めてウェストミンスター大聖堂で懺悔しろ。

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(左: スターリン / ヒトラー / ローズベルト / 右: チャーチル)

  第二次世界大戦では、イギリス人は貧乏くじを引いたようなものである。大量の戦死者を出した歐洲大戦争で、チャーチルは負け犬となり、スターリンが最大の受益者になってしまった。国際社会に於ける英国の地位は低下し、米国とソ連の狭間に埋没したのだから悔しい。スペイン帝國と同じ運命を辿るとは。血みどろの激戦をかいくぐったイギリス兵にしてみたら、ナチ・ドイツと闘わずに同盟を組み、ヒトラーをおだててソ連と闘うようけしかければ良かった。英米軍の下級士官は口にしないが、結局得をしたのはユダヤ人である。そこで、チャーチルはイギリス人じゃなくてユダヤ人のために、英国を対ドイツ戦に引きずり込んだのではないか、という疑問がどうしても湧いてしまうのだ。同胞のイギリス人を犠牲にしてまで、チャーチルはユダヤ人を救いたかったのだろうか? 第二次世界大戦は余りにも複雑で、研究用の関連資料も膨大なので、真実を暴くことは困難である。しかし、チャーチルとユダヤ人の関係を垣間見れば、どうしたって怪しいと思えてしまう。チャーチルの伝記はたくさんあるが、ユダヤ人との関係を述べた本は少ない。そうした中で傑出しているのが、マーティン・ギルバートによる『チャーチルとユダヤ人』という本である。(Martin Gilbert, Churchill and the Jews, Simon & Schuster, London, 2007) このギルバートはチャーチル評伝の第一人者で、チャーチル研究の専門家でなくても、ちょっと教養のある一般読者なら知っている歴史家である。このユダヤ人学者が書いた本では、他の学者が触れていないチャーチルの側面が、詳しく述べられているのでたいへん有益だ。反ユダヤ主義者のいかがわしい本ではなく、高名で定評のあるユダヤ人研究家ギルバートの名著が、日本で翻訳されていないのは誠に残念である。

  マールバラ公爵の御曹司ウィンストン・チャーチルは、ユダヤ人の先祖を持たないのに、まるで身内のようにユダヤ人を庇ったり、特別扱いして友情を深める。それは父ランドルフ卿譲りだった。ユダヤ人を一般的に唾棄していた貴族社会にあって、ランドルフ・チャーチルは個別のユダヤ人と親交があったたから、当時としてはかなりの変わり者。ユダヤ人とディナーを共にするなんて、イギリス貴族なら我慢できない。不愉快きわまりないのに、ランドルフ卿は平気だった。もっとも、初代マールバラ公爵のジョン・チャーチルも、ユダヤ人と関係を持っていたのだ。司令官としてスペイン継承戦争に出陣したジョンには、ソロモン・デ・メディナ(Solomon de Medina)というユダヤ人の子分がいた。このソロモンは、親分のために物資や資金を調達し、ついでに軍事情報も仕入れてくれる便利屋であり、英国で初めて騎士の称号を得たユダヤ教徒である。しかし、重宝な小間使いだが、厄介なことも引き起こしたようだ。ジョン・チャーチルは武勲に輝く総大将なのに、ソロモンの言いがかりがもとで、袖の下を貰ったという汚名を着せられ、世間から非難されたことがある。ソロモンに軍需物資の調達を任せた見返りに、「心付け」として年に6,000ポンドもソロモンからせびって懐にしていたというのだ。嫌疑は確かなようだが、貴族のマールバラ公にしたら、それほど悪いこととは思っていなかったのかも知れない。重要なことは、昔からユダヤ人は貴族に取り入っていたということだ。

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(左: マーティン・ギルバート / ジョン・チャーチル / ランドルフ・チャーチル / 右: ネイサン・ロスチャイルド)

  父ランドルフ同様、息子のウィンストンもユダヤ人と仲が良かった。初代ロスチャイルド男爵(Baron Nathan Meyer Rothschild)の息子ナサニエル(Nathaniel Charles)は、ウィンストンと同じハロー(Harrow)校に通い、二人は遊び仲間だったという。後年、ナサニエルの息子ヴィクター(Victor)は、父の親友を気遣い、身近に付き添って警護をしていた。戦争中、彼はウィンストンに贈られる食べ物やタバコに毒が仕込まれていないかをチェックしたというのだ。ある時、ヴィクターは英国の港で爆発するようセットされた時限爆弾を、タマネギの箱の中から発見し、大惨事を防ぐという手柄を立てた。ウィンストンはこれを絶賛し、ヴィクターにジョージ十字勲章を与えるべきだ、と推薦したという。(Martin Gilbert, Churchill and the Jews,  p.2) これはいくら何でも褒めすぎだろう。この程度で勲章ものなのか? やはり、チャーチルにはユダヤ人を称賛する癖がある。

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(左: ナサニエル・チャールズ・ロスチャイルド/ライオネル・ネイサン・ロスチャイルド/モウリス・デ・ヒルシュ/右: アーネスト・カッセル)

  貴族だから人脈が広いのも分かるが、チャーチルの周りにはやたらとユダヤ人が多い。彼の弟ジャックはレオポルド・ロスチャイルドの息子、ライオネル・ロスチャイルド(Lionel Rothschild)と同級生で仲が良かったらしい。ウィンストンには、ユダヤ人のヴォイス・トレーナーまでいたのだ。ドイツ生まれのフェリクス・シモン卿(Sir Felix Semon)は、演説での発音をウィンストンに教えたという。ウィンストンは彼の両親が付き合っていたユダヤ人とも交流を継承していた。オーストリア生まれのモーリス・デ・ヒルシュ男爵(Baron Maurice de Hirsch)という慈善活動家がいて、ウィンストンの両親はロンドンにある彼の邸宅に度々招かれていたという。このユダヤ人男爵には養子がいて、モーリスという名前だったが、周りからトゥティーと呼ばれていて、後にフォレスト男爵(Baron de Forest)となった。ウィンストンもトゥティーと親しくなり、学校が休みになるとパリにある彼の邸宅に遊びに行ったそうだ。こうしてウィンストンは、子供の頃からユダヤ人と付き合って成長したのである。

  1895年に政界の異端児ランドルフ卿はこの世を去った。余りにも早すぎる死であり、ウィンストンは本当の父を知る前に亡くしてしまったのだ。しかし、ランドルフのユダヤ人脈は絶えずに、ウィストンの資産となった。ロスチャイルド卿やアーネスト・カッセル(Sir Ernest Cassel)、ヒルシュ男爵は、ちょくちょくチャーチル邸を訪ね、亡き友人の息子を何かと助けたという。ユダヤ人が吸い付いていたのは何もチャーチル家だけでない。もう嫌になるくらいユダヤ人は、アングロ・サクソン社会に絡みついていたのだ。ユダヤ人は歐洲の金融界で頭角を現し、ヨーロッパ人を凌ぐ銀行家も登場したくらい、本来の才能を開花させていた。伝統的に貿易が得意なユダヤ人は、お金を貯めて出世すると、その蓄積した富で更に人脈を広げ、貴族社会に深く食い込んでいったのである。こうしてユダヤ人のビジネスマンはヨーロッパ世界に浸透しながら、哀れなユダヤ同胞のために献金したり、必要とあらば異教徒の欧米人を利用して同胞を助けていた。例えば、先ほどのヒルシュ男爵は、ロシアで苦しむユダヤ難民に1万ポンド寄附したり、ロシア政府に200万ポンド渡して、ユダヤ人に対して教育を施すよう頼んだこともあった。ロシア政府は金を受け取ったが、外人からの内政干渉は受けないと拒否。いかにもロシア人らしい図々しさである。このヒルシュ男爵はシオニストで、迫害されていたユダヤ人のために、カナダあるいはアルゼンチン、パレスチナといった何処かにユダヤ人入植地を建設しようと熱心だった。彼は200万ポンドを出して「ユダヤ殖民協会(Jewish Colonization Association)」を創設し、ユダヤ難民が安住できる土地を求めていたらしい。お金が有り余ってしょうがないヒルシュは、後に700万ポンドを追加投入したというから、相当な太っ腹である。(当時のポンドを現在の日本円に換算するのはちょっと難しいが、200万ポンドで約60億から100億円くらいの価値と見なせばいいんじゃないか。)

  若きウィストン・チャーチルを財政面で支えたのは、あの有名なアーネスト・カッセル卿であった。彼はアシュケナージのユダヤ人高利貸しを父に持ち、ケルンで生まれた帰化ユダヤ人である。1860年代、16歳で単身ブリテンに渡り、リバプールの穀物取引会社に勤務し、天賦の才を発揮したという。間もなく彼は才能を認められ、パリにあるアングロ・エジプト銀行に転勤となった。そこで偶然、カッセルはモウリス・デ・ヒルシュ男爵と出逢ったのである。まったくユダヤ人の世間は狭い。かつて笹川良一が謳っていた「人類みな兄弟」は妄想だが、「ユダヤ人は皆いとこ」は本当じゃないのか? 有名なユダヤ人が色々な場所で遭遇し、濃密な人脈を広げて行き、蜘蛛の巣よりも強靱なネットワークを築くから、よそ者は太刀打ちできない。ユダヤ人は異教徒を簡単に見棄てるが、同胞だとみんなで助け合う。普仏戦争が勃発したとき、速やかにパリを脱出できるよう、ヒルシュ男爵はカッセルにロンドンに在住するユダヤ人銀行家、ビスコフシェイム(Bischoffsheim)とゴールドシュミット(Goldschmidt)を紹介してやった。(両方とも超有名なユダヤ人大富豪である。) 突出した商才でメキメキ頭角を現すカッセルは、ビスコフシェイムとゴールドシュミットで働き出すと、一年経たずして200ポンドから5000ポンドも稼ぐようになったらしい。彼はシベリアの金鉱やアメリカの鉄道会社、スウェーデンの鉄鉱石に投資して儲けたようだ。こういう賭はユダヤ人の特技である。

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(左: エドワード7世/ウィリアム・ゴードン・カミング/クレメンタイン・チャーチル/右: エドゥイナ・アシュリーとルイス・マウントバッテン)

  ヨーロッパに住みつくユダヤ人は、お金儲けに全く才能が無い貴族に取り憑く。カッセル卿が接近した相手は、当時のプリンス・オブ・ウェイルズで後に国王となる、エドワード7世であった。このエドワードときたら典型的な困り者。アンドリュー王子みたい。これもイングランドの伝統だろうか? 女好きはしょうがないとして、太ったから好きなダンスを諦めて、ギャンブルに嵌まったからさあ大変。よせばいいのに賭場に出入りするようになった。ある時、トランビイー・クロフト(Tranby Croft)で開かれたギャンブルに王子様も誘われて、バカラ賭博に興じていたのである。ところが、ウィリアム・ゴードン・カミング卿というスコットランド護衛隊の中佐が、カード・ゲームで「いかさま」を行い、八百長騒ぎで現場は蜂の巣を突いたようだった。このトラブルを巡って裁判が開かれ、驚くことに、証人としてエドワード王子に召喚状が出たのである。これにはヴィクトリア女王もご立腹。何とかならぬものか、と側近に相談したが、妙案が浮かばすヤキモキ状態のまま。ところが、エドワード王子は気にもとめず堂々と出廷したそうだ。王族のスキャンダルは昔からあったから、エリザベス女王だけが特別に不幸というわけでもない。ともかく、こんな博打好きの王子様に取り入って、個人資産の面倒を見たのがカッセルであった。もともとエドワード王子は、ヒルシュ男爵と親しく、ヒルシュがカッセルを王子に紹介したのである。そのヒルシュが亡くなると、彼の役目をカッセルが引き継ぎ、エドワード王子が持つ個人資産のポートフォリオを管理したのだ。金融の知識など全く無い貴族に金融資産のリスクヘッジや投資先を選定するなんて無理。だから、商才に長けたユダヤ人が重宝されたのである。(日本人だって野田佳彦みたいなボンクラ財務大臣より、是銀<これぎん>さんの方がいい。是川銀蔵<これかわ・ぎんぞう>は「昭和の相場師」と呼ばれた投資の神様。)

  話をチャーチルに戻す。戦史の研究なら得意のウィンストンでも、資産運用は得意とは言えなかった。そこで、カッセルが亡きランドルフ卿の息子を財政的に支援したのである。従軍記者として南アフリカに赴こうとしていたウィンストンは、資金繰りに困っていた。すると、親切なカッセルは彼に100ポンドを手渡し、ロスチャイルド卿もその若者に150ポンド与えたという。これだけ貰えば充分だ。当時の貨幣価値からすれば、中流家庭の年収に匹敵する額だ。さらに、カッセルはウィンストンが政界に入って二年になる1902年、1万ポンドを貸してやり、それを元手にウィンストンは日本の国債を購入したのである。ウィンストンは弟のジャックに「ちょっとばかり儲けちゃった」と語ったそうだ。カッセルはその後も財政的に支援を続け、アメリカの鉄道会社の証券も購入してやったという。そこから出た利益で、ウィンストンはタイピストを雇えたというから、そこそこ儲けたのであろう。さらに、ウィンストンがクレメンタイン(Clementine)と結婚するや、結婚祝いとして500ポンドもプレゼント。(現在だと約500万ないし800万円の価値がある。) そんなカッセルが亡くなった時、チャーチルは孫娘のエドウィナ・アシュリー(Edwina Ashley)に、お爺様はみんなから信頼され、尊敬され、称えられた公正な善人だった、と語ったそうだ。(上掲書 p.5) これだけ親切にされれば、葬式で涙くらい流すだろう。(ちなみに、エドウィナはマウント・テンプル男爵の娘で、日本人がよく知るビルマ総督ルイス・マウントバッテン卿と結婚したのだ。彼女の母がカッセルの娘アメイラ。)

ユダヤ人の入国を支援

  政治家にとって何よりも重大なのは選挙に勝つことだ。議席を持つから権勢を振るえる。ところが、権力の座から滑り落ちればただの人。落選すれば周囲に集(たか)っていた人が、きれいにいなくなるから惨めだ。チャーチルは最初、貴族らしく保守党議員であった。しかし、段々と自由党の政策に賛成するようになり、ついに禁断の鞍替えをすることになる。オーダムから選出されていたチャーチルは、自由党から出馬するにあたり、マンチェスター北西部の選挙区から誘いを受けたのだ。その選挙区にはちょいとした特徴があり、有権者の3分の1がユダヤ人であった。チャーチルがユダヤ住民の招きを受けたのも、実は保守党が提出した外人規制法案(Alien Bill)を何とかしてもらいたからである。当時、ロシアに住むユダヤ人は塗炭の苦しみにあえいでいた。それだけなら我慢できるが、貧乏なユダヤ人は、ロシア人からのポグロムにも怯える日々を送っていたのだ。彼らは冷酷無惨な迫害を逃れるべく、野蛮なロシアから一路英国を目指したのである。(でも、どうして英国なんだ? トルコやアラビアに行けばいいじゃないか?) しかし、イギリス人はユダヤ人の大量流入を歓迎しない。それどころか、ユダヤ移民を規制しようとさえするのだ。民族意識の強いユダヤ人は、味方となるイギリス人議員を求めていた。そこで白羽の矢が立ったのがチャーチルというわけ。

  マンチェスター地区で、自由党候補となるチャーチルを最も支持したのは、オールド・ヘブライ協会マンチェスター支部の総裁たるネイサン・ラスキ(Nathan Laski)であった。「あれっ、もしかして」と思うかたは政治学専攻の人かも。日本の左翼学者が持て囃した社会主義者、ハロルド・ラスキ(Harold Laski)の父親である。このネイサン・ラスキは筋金入りのユダヤ人で、グレート・シナゴーグの理事長や英国ユダヤ人代表者会議のメンバーという経歴を持ち、マンチェスター・ユダヤ病院の理事長でもあった。チャーチルは保守的思想の持ち主と思われがちだが、イングランドの伝統や国益に添わない人物との交流も躊躇わなかった。例えば、マールバラ公爵の息子なのに、貴族社会を憎むロイド・ジョージと昵懇の仲だった。他の貴族連中はウェイルズからやって来た靴屋の倅(せがれ)を唾棄していた。高名な経済学者で貴族のジョン・メイナード・ケインズ卿は、ロイド・ジョージを変節漢で俗物とみなし、「ウェイルズの魔術師」扱い。古代ケルトの悪夢に取り憑かれた魔法の森の住人、とも呼んでいた。無責任なロイド・ジョージには、サクソン人の善悪から逸脱した狡猾さと権勢欲にまみれた性格がある、とまでこき下ろしていたのだ。

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(左: ハロルド・ラスキ / 中央: ジョン・メイナード・ケインズ / 右: デイヴィッド・ロイド・ジョージ)

  意外なことにチャーチルは、あの社会主義者の重鎮ビアトリスとシドニー・ウエッブ夫妻(Beatrice & Sidney Webb)とも交流があった。チャーチルは商務長官の頃、各種産業の最低賃金を決めたり、失業者が職を得られるための職安定所を設置したことがある。この時、彼はフェビアン協会のウエッブ夫妻と協力して事を進めていたのだ。非常に短期間であったが、チャーチルは社会主義者たちのお気に入りであった。(ロバート・ペイン 『チャーチル』 佐藤亮一 訳 法政大学出版局 1993年 p.117) チャーチルの知られざる一面は、それだけではない。彼が尊敬していたのはムッソリーニだったし、最初の頃はヒトラーに対して厳粛な敬意と同情心を持っていた。チャーチルはヒトラーに直接対面していないが、息子のランドルフがヒトラーの選挙運動に同行していたので、彼は息子との会話を通してヒトラーを評価していたのだ。ついでに言えば、チャーチルはヒトラーが人種を基にして、ユダヤ人を差別するとこに反対していたが、彼もインド人に対して根深い人種的偏見を持っていた。例えば、「インド人が選挙に参加できるか」という質問に対して、「彼らは余りにも無知で誰に投票したらいいのか分からないのだ」、と答えていた。続けて曰く、

  四十五万人にのぼる村で、四、五人が小屋に集まって彼らの共有する問題を議論するような、そんな簡単な組織すら作ることができない身分の卑しい原始人なのだ。(ペイン 上掲書 p.209)

  大英帝国の貴族たるチャーチルは、支配者としてインドに君臨する事を悪いと感じていなかったし、優越者の目線で被支配者のインド人を見下していたのである。卓越した文明を有する民族は、劣等民族を支配しても当然という考えを持っていた。日本人やアメリカ人は現在の価値観で、第二次大戦前のドイツ人を非難するが、あの頃はチャーチルのような白色人種優越思想を持つ者など珍しくなかった。とりわけ、チャーチルがガンジーについて語る時は、常に悪意と侮蔑に満ちていたという。ガンジーの見苦しい姿はチャーチルを不愉快にさせ、その赤裸な格好はチャーチルに嫌悪感を与えたのである。しかも、インド独立の主導者だから、チャーチルは特に警戒心を持っていた。チャーチルは演説で、「ガンジー主義を粉砕せねばならぬ」とか、「虎に猫の餌を与えて満足させようなど無駄なことだ」と述べていた。さらに、英国がインドの国民会議派に統治を譲った場合にも触れていたのだ。もし、インド人がインドを自ら統治するようになったら、英国は単なる歐洲の一国家に過ぎなくなるだろうし、白人はインド人のお情けでインド滞在を許される事態になってしまう、とチャーチルは憂慮。次ぎに彼は、インド人が債務の履行を拒否した場合にも言及する。この債務不履行がもし起きれば、ドイツから提供されるであろう白人の外人部隊が、ヒンドゥー教徒の軍事的優位を確保するために雇われるだろう、とまで述べていた。我々なら呆れてしまうが、チャーチルはこんな突拍子もないことまで懸念していたのだ。(上掲書 p.210) 凄まじいくらいインド人への侮蔑に満ちている。こんな帝国主義者のチャーチルが、ヒトラーのユダヤ人差別を非難していたのだ。ナチ・ドイツの世界征服を警告していたチャーチルだが、既に英国が世界各地を征服していたことをチャーチルは理解していたのだろうか?

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(左: シドニー・ウエッブ / 中央: ベアトリス・ウェッブ / 右: ガンジー)

  随分脱線してしまった。話をネイサン・ラスキに戻す。外国で苦しむ同胞を助けようと、ラスキはチャーチルに政府の外人規制法案(Alien Bill)を、議会で阻止してもらうよう働きかけた。ラスキは外人規制法を何とか廃案に持って行きたかったから、チャーチルが議会で奮闘できるよう、移民についての統計を含めた資料を渡したのである。つくづく思うが、こういう綿密な妨害作戦にかけてはユダヤ人の右に出る民族はいない。アメリカで有罪を無罪に変えてしまう、やり手のユダヤ人弁護士をよく見かけるが、漠然とだが納得できてしまう。ラスキから渡された資料を参考にし、ブリテンにおける外人のパーセンテージは総人口の1パーセントにも満たず、取るに足らぬ数であるとチャーチルは主張した。入国してくる外人だって年に約7千人ほどに過ぎない。ブリテンに比べたら、ドイツにおける外人の比率は2倍で、フランスだと4倍にもなるんだから、ビクビクすんなという主張である。つまり、チャーチルは難民に対して昔から寛容な態度を有する英国が、これくらいの移民で騒いじゃいけないよ、と言いたいわけだ。

  外人規制法を潰そうとするチャーチルの執念はすさまじかった。まず、チャーチルは批判の矛先を内務大臣アレタス・エイカーズ・ダグラス(Aretas Akers-Douglas)に向けたのだ。入国管理官や警察官は、事実に基づく行動とそれを報告するのが本来の任務であり、入国者の人格や信頼性を検査するのは越権行為であると述べ、それを許している内務大臣を批判したのである。(ギルバート p.8) 実際のところ、チャーチルは内務大臣の反ユダヤ主義を恐れていたのである。それでも、チャーチルは批判の手を緩めない。政府が外人規制法案を通したいのは、ユダヤ人が入ってくることで、競争相手が増えるのを嫌う商人を配慮してのことだろうと指摘した。そして、保守党は投票権の無い外国人をイジメることで、地元で見守る有権者の歓心を買おうと躍起なのではないか、と言い放った。レトリックが上手いチャーチルは、ブリテン国民の自慢をくすぐることにした。ブリテンの労働者は圧政に苦しむ外国人に冷たいはずはない、と世論をおだてる。そして、哀れな外国人を温かく向かい入れないのは、古来から自由の伝統と歓待を誇るブリテンの名誉を汚すものではないのか、と訴えた。でも、それはフランス人とかオランダ人のプロテスタント信徒であって、宗教を異にする醜い容姿の中東アジア人ではない。

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(上写真/イギリス人になってしまいそうなユダヤ人男性のサンプル)

  1904年6月8日、チャーチルは自由党の議席から最初の演説を行い、充分な議論もせずに外人規制法案を押し通そうとする政府を批判した。士族院(House of Commons)で色々と議論が交わされたが、その法案は小委員会に附された。(「ハウス・オブ・コモンズ」とはコミュニティーの代表者が集まる議場で、代議士は主に騎士階級の準貴族で、庶民が選ばれることはまずなかった。「庶民院」なんてというのは意図的な誤訳。) ところが、チャーチルはその委員会のメンバーなのだ。腕をまくって本領発揮。一方、ユダヤ人移民に反対の勢力は、世論の反ユダヤ感情に訴えかけた。例えば、「ザ・サン」紙はチャーチルが法案に反対するのはロスチャイルド卿の“勅命”を受けているからだ、と批判した。この他にも、チャーチルが裕福なユダヤ人のポケットに入っているからだとか、ユダヤ人から銭を貰っているからだろう、という野次まであった。しかし、チャーチルはそんな誹謗中傷なんか気にしない。法案潰しに集中したチャーチルの気迫は衰えなかった。

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(上写真 /イギリス人になりそうな ユダヤ人女性のサンプル)

  外人規制法案を廃案に持ち込みたいチャーチルは執拗に食い下がった。その法案は11項目から成り、合計240行になる。法案反対議員はその条項一つ一つを事細かく吟味した。検討委員会のメンバーで、ユダヤ移民に反対のウィリアム・エヴァンス・ゴードンは、チャーチルが代理を務める集団から受けた指示に忠実なようだ、と皮肉を込めて評したという。この批評に対してチャーチルはたいそう腹を立てたらしい。彼は自らの理念で反対していたので、支持者の命令で動いていたわけではなかったからだ。固い信念を持つチャーチルは、同僚の自由党議員と共に、法案の内容を一語一語検討する、という作戦に出た。七日目の委員会では、一つの条項にある、たった3行について全議論を費やしたのだ。こんな調子だと、あとに残る10項目233行にどれだけの時間が費やされることか。審議継続に頭を悩ませた政府は、ついに法案を諦めたのである。(p.10) 粘り強い努力を重ねたチャーチルは、ついに勝利をもぎ取った。ブリテンに入国したいユダヤ人を阻止する法案は葬り去られたのである。こうして防御壁が低くなったことで、ユダヤ人がブリテンに流入し、やがて戦争でチャーチルを支援するユダヤ人が現れてくるのだ。

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(左: アレタス・エイカーズ・ダグラス / ウィリアム・エヴァンス・ゴードン / ハーバート・グラッドストーン / 右: ヘンリー・キャンベル・バナーマン)

  保守党の法案を廃案に持ち込無事には成功したチャーチルだが、今度は自由党版の外人規制法案に直面することとなる。チャーチルの努力も空しく、この法案は1906年に議会を通過してしまった。これは保守党による法案を修正したものだが、本質的に移民に制限を加える法律だった。チャーチルは内務大臣のハーバート・グラッドストーン(Herbert Gladstone)に、この法案はユダヤ人コミュニティーをいたく失望させるものであり、自由党がこの愚かな制定法を撤去されんことを願う、という抗議文を送ったそうだ。またもや、チャーチルはユダヤ社会の代理人となって、法案を攻撃したのである。この法案は一等あるいは二等船室に乗ってやってくる、詐欺師や放浪者、ならず者、盗人が入国するのを防がないのに、貧しいが正直な者だと入国禁止となる。この正直な移民は単に充分な資産が無いという理由だけで、望ましくない者と見なされ、希望の国イングランドから再び圧政の国ロシアへと送り返されてしまう。これはグロテスクな法律である、とチャーチルは憤慨した。一等船室のキップをねだったり、借りたり、あるいは盗んだりする外国人だと、入国歓迎となる。ところが、お金を節約し、三等客室でやって来る者は拒絶されるのだ。チャーチルは怒りを込めて、この法案は役立たずで、腹立たしいと非難した。(p.16)

  チャーチルはまた、外国人規制法案で提示されている帰化料金が高い、と言ってヘンリー・キャンベル・バナーマン(Sir Henry Campbell-Bannerman)首相に抗議していた。経済的余裕が無い移民にとって大変な負担になるし、払えない移民も出てくるだろう。チャーチルは熱心に活動したが、その努力は実らなかったようだ。そもそも、ユダヤ移民に関心がある議員は少なく、ユダヤ支持者のチャーチルは自由党内部でも少数派だった。しかし、これだけユダヤ人に尽くしたのだから、チャーチルがユダヤ人による色々な支援を受けるのも当然だろう。チャーチルが偉大な宰相と絶賛される背景には、彼が長年に亘ってユダヤ人を助けたという経歴があったのだ。ユダヤ人を味方につけると、様々なメリットが生まれてくるという教訓である。


チャーチルが持っていたユダヤ人脈

  イングランド貴族にはユダヤ人が多い。これはイギリス人が如何に気取っていようが、所詮お金の亡者という証拠である。金銭をちらつかせれば、イングランド国王は羞じらいもなくユダヤ人を貴族にしてしまう。ブリテン島がユダヤ人の根城になっている所以である。貴族とは高貴な血筋の者や武勲をたてた騎士がなるものなのに、世間から蔑まれるユダヤ人が堂々と爵位を受けているのだ。イギリス人は人種意識が高いのに、ユダヤ人となれば、その意識が薄れてしまうから、現在の惨状を招いたのである。チャーチルの父ランドルフがアメリカのジェローム家からジェニーを迎える時、チャーチルの親戚は良い顔をしなかったという。それでも娘サラが選んだ婿よりは遙かにマシだった。サラの婚約者は事もあろうにユダヤ人。当時、38歳の喜劇役者ヴィクター・オリヴァー・フォン・サメック(Victor Oliver von Samek)は、二回の離婚歴を持つオーストリア生まれのユダヤ人である。父ウィンストンの顔が曇った。こんな過去を持つ俳優に、22歳の愛娘を嫁がせることは気が進まない。それに、こんな女たらしの藝人だと、何か隠しているじゃないかと心配するのは、親として当然だろう。

  二人の結婚に反対だったチャーチルは、在ニューヨークの弁護士ルイス・レヴィー(Louis Levy)にヴィクターの二番目の離婚について調査するよう依頼した。チャーチルは既に最初の結婚について調べ上げていたので、二度の婚姻の他に別の結婚歴が無いかどうか知りたかったのである。レヴィーの調査で、ヴィクターに対する嫌疑は晴れ、チャーチルは娘の結婚にしぶしぶ同意したという。それでも家族の一員になったから、ヴィクターの面倒を見てやらねばならない。チャーチルは義理の息子が英国に帰化できるよう取り計らった。そこで、ユダヤ人の婿がスムーズにブリテン国籍を取れるよう、彼が国務大臣の時に部下であったアレクサンダー・マクスウェル卿(Sir Alexander Maxwell)に手紙を送ったらしい。ところが、サラとヴィクターの仲は永遠とは行かず、1945年に離婚する羽目となり、サラ・チャーチルはその後二回も結婚することになる。まあ、これはこれで良かったんじゃないか。チャーチルは娘婿のヴィクターが嫌いで、一度も反りが合わなかったのだから。

Victor Oliver 1Sarah Churchill 3Alexander Maxwell 1







(左: ヴィクター・オリヴァー / 中央: チラ・チャーチル / 右: アレクサンダー・マクスウェル)

  ユダヤ人の婿とは上手く行かなかったが、他のユダヤ人とは仲良しになれた。チャーチルがシオニズムの理解者になった原因の一つに、有名なシオニストのハイム・ワイズマン博士(Dr. Chaim Wisemann)との邂逅(かいこう)がある。ワスイズマンはロシア生まれのユダヤ人で、ジュネーヴからやって来た化学者なのだが、パレスチナにユダヤ人国家を建設したいと切望する猛烈なシオニストでもあった。当時、シオニストには二つの派閥があって、その一つは、ユダヤ人の国家はイェルサレムのあるシオンの地、つまりパレスチナに建設すべし、と主張する人々である。その筆頭が、イスラエルの理念的父祖テオドール・ヘルツェル(Theodor Herzl)であった。しかし、この建設には、パレスチナを領土とするオスマン・トルコが邪魔になり、実行が難しいという欠点があった。もう一つは、英国が有する植民地の何処かにユダヤ人国家を作ろう、と提案する者たちである。この派閥には「領土優先主義者(Territorialists)」というグループがあって、イングランドにもそうした組織があった。この集団に賛成だったのが、英国在住のユダヤ人劇作家、イスラエル・ザングウィル(Israel Zangwill)で、「メルティング・ポット(人種のるつぼ)」という言葉は、人気を博した彼の劇から由来する。領土優先主義者は南米かアフリカにユダヤ人入植地を模索していたらしい。例えば、英国が領有するケニアの一部に、ユダヤ人殖民地を作ろうと提案していた。一方、ロスチャイルド卿やヒルシュ男爵らは、カナダかアルゼンチンに、ユダヤ人が農地を開拓する入植地を検討していたという。

Chaim Wisemann 5Albert Stern, SirTheodor Herzl 1Israel Zangwill 12





(左: ハイム・ワイズマン / アルバート・スターン / テオドール・ヘルツェル / 右: イスラエル・ザンクウィル)

  チャーチルがハイム・ワイズマンと親しくなったのは、第一次世界大戦の頃であった。ボーア人とは違ってドイツ人との戦いだから、武器弾薬が桁違いに必要となる。しかも、相手は歐洲最強の軍事大国だ。デイヴッド・ロイド・ジョージが首相なると、チャーチルは軍需大臣に任命された。この役職でも、またユダヤ人と係わることになる。戦車生産の指揮を執っていたのは、アルバート・スターン卿(Sir Albert Stern)というユダヤ人技術者で、熱心なシオニストであった。もう一人は推進燃料の調達を担当するフレデリック・ネイサン卿(Sir Frederic Nathan)であった。ワイズマンは彼のもとで働いていたのだが、実はこの7年前、チャーチルが内務大臣の時、ワイズマンの英国帰化を承認していたのである。英国海軍研究所で所長になったワイズマンは、バクテリアを使って爆薬の大量生産を行い、軍の需要に応えようとしていたのだ。英国軍はコーダイト(紐状の無煙火薬)を確保するため、アセトンを大量に生産する必要があった。そこでワイズマンはバクテリアを使ってアセトンを作ろうとし、そのために西洋栃の実(horse chestnuts)が必要であったという。日本国民と同じく、戦争となればイギリス国民は協力するものだ。学校の子供達が2万5千トンもの栃の実を集めて、軍需省に届けたという。チャーチルには、バクテリアの生産と栃の実がどう結びつくのか分からなかったが、少なくともライフルや高射砲に使われる火薬だということは理解できたらしい。とにかく、ユダヤ人は至る所で活躍していたのである。ドレスデン空爆の時に協力した、フレデリック・リンデマン(Adolphus Frederick Lindemann)教授もそうだが、チャーチルの周りにはユダヤ人が実に多かった。

Frederck Nathan , SirFrederick Lindemann 3Horse Chestnuts







(左: フレデリック・ネイサン / 中央: フレデリック・リンデマン / 右: 西洋栃の実)

  チャーチルがジャーナリストに持て囃されたのは、ユダヤ人を贔屓したからだが、ユダヤ・メディアと深く結びついていたことも理由の一つである。マスメディアはユダヤ人の牙城である。ユダヤ人は各国に住みついているので、ユダヤ・コネクションは殊のほか強靱で、国際社会では絶大な力を持っている。そうした一人に、イミル・レヴェス(Imre Revesz)、後に「エメリー・レヴェス(Emery Reves)」と呼ばれるハンガリー系ユダヤ人がいた。彼は 1930年代にベルリンで出版会社を設立し、ヨーロッパの政治家が書いた記事を取り扱う仕事をしていたという。しかし、ヒトラーの台頭でドイツにいられなくなり、バリに本拠地を移す羽目になった。そこで、彼は国際的メディア網を形成して、反ナチス知識人を数多く起用したという。そんな中、1937年にレヴェスはチャーチルと初めて会うことになる。その四日後に、レヴェスはチャーチルが反ナチスの急先鋒であることに目をつけ、彼が書く記事を一手に引き受けたかったので、チャーチルと独占契約を結んだのである。レヴェスはチャーチルの記事を歐洲各国で掲載するため、様々なヨーロッパの言語に翻訳し、ブリテン連邦や北米にも流したという。

Emery Reves 2(左/エメリー・レヴェス)
    ユダヤ人贔屓の政治家で、英国貴族の有名人が書く反ナチス記事だから、ユダヤ人出版者にとっては貴重な攻撃手段である。レヴェスは気前よく、チャーチルに60パーセントの印税を払い、記事一本につき最低25ポンド支払うという保障も加えたのだ。チャーチルの記事は2週間ごとに、ヨーロッパの主要都市24カ所で掲載されたという。その中には、パリ、コペンハーゲン、ストックフォルム、フリュッセル、オスロ、ヘルシンキ、プラハ、ウィーン、ワルシャワ、アテネ、ブタペストなどが含まれていた。(p.139) ユダヤ人が書くナチ・ドイツ批判は、ヨーロッパ人から身内を庇う記事と見なされてしまうが、イギリス貴族、しかもマールバラ公爵の嫡男が書く記事には千鈞の重みがある。人間の心理を巧みに操るユダヤ人は、同胞の利益を謀る場合、自らのユダヤ人顔を世間に晒すことはしない。それよりも、見栄えのいい別人種を代弁者に仕立てるのだ。いわば腹話術師の人形みたいなものである。実は腹話術師が口を動かさずに喋っているだけなのに、観客はあたかもダミーが話していると錯覚するのだ。ユダヤ人が表に出て喋ると世間は不快感を催すから、彼らは裏で黒子(くろこ)に徹する。政敵を倒すためなら、便利な西歐人に銭は惜しまない。

  パレスチナを巡るシオニストとチャーチルの関係を述べると長くなるから、興味のある方はギルバート氏の本を手に取るようお勧めする。日本人の学者でチャーチルを称賛したり、評伝を書く者はいたが、ユダヤ人との交際に絞って論じた学者はいないんじゃないか? 欧米にはユダヤ人がかなり浸透しているが、そのユダヤ世界の奥地に分け入って、丹念に研究する大学教授とは誰なのか? もちろん、哀れなユダヤ人に同情して、ホロコーストやパレスチナ紛争などを勉強する学者はいるだろう。しかし、ユダヤ人の本質を見抜いて、辛辣に批判する学者はほとんどいないのだ。無名の学者ならいそうだが、保守派雑誌や民放テレビに出てくる学者では皆無だろう。日本人は欧米社会の政治や歴史を熱心に勉強しているが、ユダヤ人研究では手抜きが多い。特に西歐史の勉強でユダヤ人を考慮しないと、生々しい歴史が分からなくなる。やはり、教科書に記される綺麗な歴史ではない、ドロドロとした裏面史を学ばないと、本当の理解はできないだろう。歴史の勉強は別の角度から見ることも大切なのだ。



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